幸運な愚者


 ――最後の中華王朝として知られる乾では、大きな政変が起きるとき必ず皇帝の傍らで施姓の女が暗躍する。
 それは、まことしやかに語られる伝説だった。必ずしも事実とは言えない。施姓の女が後宮に名を連ねつつ何の異変もなかった治世もあれば、施氏のいない政変も勿論存在する。ただ中国史の舞台に女性が立つことは珍しく、偶々同姓の女性が幾度も史上に名を残したため目を引いたと言うこともできる。
 元々は民間に伝わる稗史の類で、第二次大戦前に日本のとある中国学者が紹介して、彼の著作と共に広まったと言われている。この手の噂にしては珍しく来歴がはっきりしているのは、その学者自身が施姓の女を研究した第一人者だからである。乾朝中興の万寿年間に活躍した皇太后施氏を研究した彼は、後に末代皇帝円宗の後宮を紹介した手記の翻訳と普及にも努めたが、円宗の寵妃として有名な海東青夫人がやはり施姓だったことも今や有名な話であった。
 但し、その伝説が一般に広まったのはごく近年のこと。十五年前に東アジア全域を巻き込んだ革命で、百年前に滅びたはずの皇帝の血を引く少年と施氏の名を持つ少女が中心的な役割を果たしたところに由来する。極めて英雄的に役目を演じ、革命に相応しく悲劇的な最期を遂げた二人は世界中の注目を集めたが、その際に何者かが忘れられていた伝説を発掘したのだろう。物語としては、悪くない予定調和かもしれない。死んだはずの施氏が生きていたり、皇帝には忘れ形見がいたり、その辺りはあくまで余談で構わない。
 ――それはそれとして。
 暁天樹は静かに眉間を寄せた。指先で捲るページは恐ろしく薄く繊細で、古い和書特有の質感だった。洋書なら注にしか使わないような細かい活字は目に痛く、書き込む行間のない字組にも閉口させられる。何より、今日び漢籍すら横組が主流なのに、縦書の活字は読みにくいことこの上ない。それでも、拡大コピーをしてノートに書き込みながら読むような学習段階ではなく、難なくとまでは言わないが日本語を読めるようになったという自負もあった。
 日焼けした緑の布張りの表紙には、『竹中芳視作品集』と金押しされている。何ということはない、アーサー・ジョセフによる円宗後宮の見聞記『東洋異聞』の史料的価値を広め、「施氏」の名を歴史の闇から引きずり出した張本人たる日本人学者の著書だった。論文集ではなく、晩年童話作家として名をなした彼の文字通り「作品集」である。かの伝説の典拠でもあった。
 「……他人のことを取り沙汰すのはまあいいんだけど」
 ぽつりと暁天樹は唇から言葉を漏らす。長い睫毛にけぶる眼差しは、本からじりとも外れない。
 「せめて人のことは、人間として書いて欲しいところだよね。当事者が見てるかもしれないってこと、考えてないんだろうね」
 「何を藪から棒に」
 ラグの上にクッションを置き、背中あわせに座っていたデイビーが不思議そうに振り向いた。白髪の混じり始めたハニーブロンドの癖毛が暖炉の明かりにゆらゆら揺れる。眼鏡越しに瞬くライトブラウンの目の前に、暁天樹はおもむろに本の見開きを突き出した。
 「これ」
 「俺、日本語は読めないってば。うわーしかもヒラガナばっかじゃないか」
 「児童文学だから仕方ないよ」
 肩越しに、暁天樹は妙に大人びた苦笑を浮かべてみせる。開かれたページには、見開きに収まる短編童話が一編記されていた。
 「タイトルは……『三』?」
 漢字なら辛うじて読めるデイビーは、意外な題名に首を傾げる。暁天樹は猫のような身ごなしで身体の向きを変えると、父親代わりの男の隣に膝を並べた。デイビーは自分の本を脇に置いて、差し出されるページを覗き込む。
 「短編集なんだって。『七つの創作神話による習作』の三つ目だから『三』」
 「安直極まりない命名だけど、どんな内容なのさ」
 苦笑してみせるデイビーを、暁天樹は真面目くさった上目遣いで見上げた。伸びかけた赤毛を束ねるとほとんど女の子にしか見えず、十五になったこの預かり子が果たして年相応なのか、デイビーは時々判断に悩む。だが、養い親の思案を余所に、暁天樹は極めて端的に物語の内容を説明した。
 「女神と石の話」
 一瞬の沈黙の後、デイビーは素直に首を傾げてみせた。


 ――世界のはじめ、渾沌の裡から一柱の女神が降誕した。女神は土を捏ねて人を作ったが、乱れた世界の中では十分に繁殖しなかった。そこで女神は鳥の羽と亀の脚を用いて天地を整えたが、急ぎ整えた天には巨大な綻びがあった。女神は更に五色の石を用いて綻びを修繕していったが、最後の一粒を取り落としてしまった。それゆえ世の秩序は今も定まらず、女神は土で作り上げた人間の間に紛れた石を求めて今も彷徨っている。
 「何だ、紅楼夢じゃないか」
 身を屈めて本を覗いたデイビーはこともなげにそう言った。暁天樹は無造作に頭を掻くと、肩を竦めて頷く。
 「石が絶世の美男子になって、地上の春を謳歌するって言うならね」
 『紅楼夢』は中国の古典白話小説のひとつで、五色の石で天地を繕う女神というモチーフはそこから着想したものだろう。物語の主人公は、女神の落とした石の一粒が化生した青年だった。神話という体裁を取っているだけに合理性には著しく欠けているが、中国文学に多少造詣があればすぐに典拠に思い当たるようなものだ。
 でも、と暁天樹は指で挟んだ別のページを開く。そこは、巻末に纏められた補注だった。柘榴のような茜色の目でデイビーを見つめた後、彼は文字に目を落とす。読めない文字だが、面倒見のいいデイビーは顔を寄せた。
 「……著者は原稿の欄外に『大乾稗史』巻十二列伝三より「天下擾乱時候,施姓女児必被添玉室」と引用する。また著者の日記によると、女神は施氏で石は乾朝皇帝の隠喩だという――ということ。意味わかる?」
 「要するに革命のとき話題になった、お前の親父とベルの伝説だろ? 何だ、ソースはそこだったんだ。てっきり竹中芳視っつっから、論文か何かのネタだと思ってた」
 戦時下に不遇を託った学者ということで、竹中の名は今では少々過大評価され気味のところがあるが、残した論文自体は実は多くない。それゆえ英訳されたものも多く、件の伝説はその中から発見されたと思われがちだった。デイビーは妙に納得したように頷いたが、暁天樹には腑に落ちないところがあるらしい。
 「ぼくもそう思ってたんだけどね。それはともかく、どうして女神と石なんだろうって思ってさ。稗史はむしろ、施氏と皇帝がつるんだらろくなことにならないっていう経験則の混じったぼやきじゃない? この物語を解説通り受け取ると、皇帝が施氏に捕まれば世界に動乱は起きなくなるって言ってるわけじゃあないか」
 「確かに真逆だな。と言うかテン、お前妙なもんに興味を持ったなあ」
 呆れたような、感心したような口調でデイビーは暁天樹をまじまじと眺めた。元々父親似だとは思っていたが、考え込む表情はまさしく故人に生き写しだった。髪や瞳の色が違わなければ見間違えそうで、お互い会ったこともないくせに表情まで似るものかと妙な感慨をデイビーは覚える。
 それを余所に、暁天樹はやや冷淡な調子で呟いた。本音を漏らすときに視線を逸らすのは、恐らく本人の気付いていない彼の癖だった。
 「一応他人事じゃないからね。あの革命が、ベルと父のせいみたいにされるのは面白くない」
 冷淡というより、むしろ拗ねたような表情にデイビーは思わず笑みをもらす。
 ベル・ステュワートという名のデイビーの妻は、旧姓を施といった。乾朝帝室の直系に連なる暁天樹の父と共に先の革命の象徴的な存在となったが、死亡を伝えられたはずの彼女が皇帝の忘れ形見を引き取っていたという事実は内輪でしか知られていない。家事全般へのセンスが壊滅していた彼女について、育ての母という表現は必ずしも的確ではないだろうが、よくも悪くも少年に大きな影響を与えた大人の一人には違いない。
 微笑ましげに眺めるデイビーに気付かない様子で、少年は投げ出した膝を胸の前に抱え込むと、背中を丸めて本の中に顔を埋めた。
 「実際、竹中芳視は鋭いと思う。施姓の女は偶然後宮に居合わせただけじゃなくて、近代以降で少なくとも三回は大きな政変の当事者になってるし、それ以前にも施氏が原因の動乱はちらほらある。そして何より彼女たちがそれだけの力を得た理由のひとつは、皇帝が無能で無力で使えなかったってところが大きい」
 容赦ない口振りに意表を突かれ、さすがにデイビーはおどけて見せた。
 「自分の祖先だぞ。っつかそのうち一人はお前の親父だ」
 「事実は事実だ」
 突き放すような口調に、デイビーはこっそり肩を竦める。この子の肉親もこういう口の利き方をしたものだったか、と少し思い出そうとして、ようやく類似を見つけ出す。何のことはない、博学才英にして傍若無人かつ天衣無縫なデイビーの妻が考え込んでいるときの調子と瓜二つだった。
 そんな隣の大人の様子に頓着もせず、少年は深く考え込んだ表情のまま呟いた。
 「……思うに、竹中芳視の真意はそこだったんじゃないかな」
 「お前の親父が使えない奴ってとこか? そこには同意するがね」
 デイビーは茶化したが、沈み込むように思案する暁天樹はそれに気付いていないようだった。少女のような見てくれの割にやや低い抑えた声で、彼ははっきりと発音する。
 「実権のなかった父はともかく、本来皇帝は無能であっても無用ではない。権力を与える権力を持ってる。皇帝という道具を手に入れた施氏が起こした行動は、結果的には完遂前に阻止されて動乱と呼ばれるようになったけど、もし成功していたら大きな実りがあったのかもしれない。それこそ、天の秩序がようやく整うところだったのかもしれないわけだ。それが失敗してしまった最大の原因は、畢竟皇帝の権限が彼女を支えるのに及ばなかったということかもしれない、と思ってさ。そうして見ると、実は皇帝って人間である必要なんかどこにもないよね、施氏の権威を彩る装飾品みたいなものなんだから」
 デイビーは絶句する。曲がりなりにも少年は自分の父祖のことを語っているはずだが、とてもそうとは信じられないほど冷やかな口振りだった。
 身内の縁の薄い暁天樹は、それもあってか幼いころから自分に連なる人々の昔話を好んだ。あいにく彼の母方の詳細をデイビーは知らず、語り聞かせるのはいつも詳細な紀伝が残っている父方の話ばかりになったが、そうなるといきおい中華の歴史そのものまで語る羽目になる。自然、少年は歴史好きの中でも少数派の近代史専門だった。無邪気に昔話をせがんでいた子供が一端の口を叩くほどに育ったのを見ると感慨もわくが、史書でしか肉親を確かめられない身の上を思うと、余り辛辣になられても見ている方が居た堪れない。さては父親を悪し様に語りすぎたか、と思わずデイビーは反省した。
 「……お前、いっつもそういうことばっかり考えてたわけ? 暗いぜそれは」
 「そうかな、夢があっていいと思うけど」
 「夢と言うには愛が足りないぜ」
 真顔で言う暁天樹に、デイビーも真顔で答える。納得しかねる、といった調子で振り仰ぐ少年を見ながら、デイビーはいささか思案した。
 「……俺は、こう思うんだが」
 「うん、どうぞ」
 素直に頷く暁天樹を眺めながら、デイビーは顎に手を当てた。そもそも、少なくとも最後の皇帝と施氏の動乱に居合わせた当事者としては、どうしても一言物申しておきたいところがある。この辺りが年をとった証拠だろうか、と彼は何となく自嘲しながら口を開いた。
 「施氏がいっつも途中で失敗するのって、一方通行だからじゃないか?」
 「袋小路に入っても引き返せないってところ?」
 暁天樹が自分の最もよく見知っている施氏を思い浮かべているのは間違いなかった。筋金入りの方向音痴だった彼女は直接的にもそういうところがあったが、無論ここでは比喩的な意味だろう。
 「それもあるんだけど、何ていうかさ……ベルだけじゃなくて、『東洋異聞』や竹中の論文に出てくる他の施氏ももしかしてと思うんだけど、彼女達は皇帝のためってのが至上命題なんだよな。ところが皇帝の方は今ひとつ鈍感で、施氏のアプローチにも揺らぐことなく別の女の子に夢中っと。ほら確か竹中が指摘してたじゃないか、皇帝の実子を産んだ施氏って確か一人もいないんじゃなかったっけ。嫌ってたなら彼女に実権をそもそも与えないだろうし、ってことは信頼はしてるけど、恋愛対象になってなかったとか考えるのが自然じゃないか」
 歴史を振り返れば、そもそも皇后の地位になった施氏自体が乾朝において一人しかいない。その唯一の例外は竹中芳視の研究で知られるようになった万寿中興の施太后だが、十七で皇太后となった彼女が摂政を務めた幼帝は実子ではなかった。必ずしも寵愛と地位は比例するものではないが、皇子を生むことは皇妃にとって最大の出世の好機である。逆にいえば、子も為さず皇帝の寵愛も得ないまま、地位を重ねて政治の表舞台に姿を見せた施氏の特異性には後世の史家も驚かされるばかりだった。
 暁天樹は少し考えたあと、ぼやくように呟いた。
 「……うちの家系、鈍感なのは血なのかな」
 「お前は気をつけろ、お前の親父は筋金入りだった」
 遺伝で似るとも思えないのだが、既に片鱗を見せつつある子供を前に、諭すようにデイビーは告げた。深々と少年も頷いた。
 「ベルを見てたらすぐわかる。あれをスルーした父はある意味偉大だ、前人未到って意味で」
 「違いない。だがしかし、ベルみたいなノリで迫ってきたら普通の男は引く。伸るか反るか、失敗したら確実に心中だ。そんな危ない橋を皇帝が迷わず渡るようだったら、俺はちょっと頂けない」
 熱弁を振るうデイビーを不思議そうに暁天樹は見上げる。きょとんと瞬く表情はやはりまだまだあどけない。
 「群れのボスは臆病な方がいいっていうアレ?」
 「引き返すのも英断だぞ。何しろ最後まで突っ走って共倒れになってたら、少なくともお前は今ここにいないんだ」
 デイビーは真面目極まりない調子でそう述べた。
 厳密には、この子の父親は施氏の分も一人で責任を被った形になってしまったが、それでも革命の犠牲に滅ぼしたのはその身一つだった。あの破壊の女神に魅入られたときに心までも捧げていれば、多分結末はもっと悲劇的だっただろう。その意味では彼の鈍感さに感謝すると同時に、脇見の隙を与えさせなかった暁天樹の母親の偉大さを讃えたくなる。
 じっと大人の表情を見詰めた後、少し目を逸らしてまじまじと考え込み、暁天樹は怪訝そうに呟いた。
 「……問題って、そこ?」
 「俺にとってはこれ以上ないくらいの大問題だぜ」
 しきりに首を捻り、どこか腑に落ちないような仕草をしながらも、やがて暁天樹は言葉を飲み込んだ。その頭をぐいと抱き寄せて乱暴に掻き撫でながら、デイビーは幼児を諭すような調子で笑った。
 「そうしてみると、意地でも血筋を残してるお前の先祖は意外としぶといよな。あんな過激な天然テロリスト一族に好かれてしょっちゅう巻添えになって吹っ飛ばされても、そのうちころころとでてくるんだから。なかなか砕けないって意味で、竹中芳視は石に喩えたんじゃないのかな。ほら、さっきの寓話だと他の人間は土人形ってことにされてるじゃないか」
 「それ、単にぼくの祖先が皆短命で早熟ってだけの気がする」
 身も蓋もない台詞に、ふとデイビーは考え込んだ。だが、苦笑する暁天樹の幼い顔を見下ろすともう一度ぐしゃぐしゃと髪を掻き混ぜる。
 「長く続いた王朝のトップはだいたいそんなもんだけどな。養子で皇統繋いでるとこが多いのを考えると、お前んとこは実子で繋いでる分優秀だろう。ま、心配することないさ、お前はそもそも皇帝じゃないんだ」
 「何か、ちょっとずれた気がする」
 「お前は別に鈍感な必要がないんだから、女心に気をつけろよ」
 無抵抗に撫で回されながら、もう一度だけ暁天樹は首を捻った。それから漫然と本を広げながら、もう一度古びた日本語の文面に目を落とす。時代の匂いのする文体は、それでも何かひどく不安定なものを孕んでいるように彼の目には見えた。
 「……女神ガ天ノ最後ノ欠片ヲオ拾イ上げゲニナラレルソノトキ迄、凡ソ天地ノ秩序ハ綻ビ続ケタママナノデゴザイマス」
 「日本語は意味わかんないってば。何か呪文みたいだ」
 「“The goddess with the last piece of heaven will make a peace of the world”ってとこ」
 撫でられた勢いでデイビーにもたれかかり、膝の上に頭を預けながら暁天樹は片手で本を掲げた。腹を見せた犬のようだ、などと思いながらデイビーは暁天樹の頬を摘む。目だけで見上げてくる少年に、デイビーは片目を瞑ってみせた。
 「『天の最後の欠片』ってのは気に入らないな、何となくだけど」
 「竹中芳視らしいとは思うよ、何かこの人運命論っぽいところあるし」
 本を自分の腹の上に伏せながら、暁天樹は仰け反ってデイビーと目を合わせる。
 思想弾圧の過程で学者から作家へ転向したという履歴も影響しているのだろうが、竹中芳視の筆にはやや予定調和に流れがちなところがあった。傲岸不遜なところをその文筆から見出すことは難しいのだが、ともすれば世界の終わりまで見通していそうな雰囲気があって、暁天樹はむしろそういうところを気に入っていた。
 「確か、お兄さんの奥さんが円宗皇帝の元妃で、『東洋異聞』にも出てくるんだって。それが翻訳の最初のきっかけだって序文にあった」
 アーサー・ジョセフ――デイビーの祖父の記した手記は、しばしば偽書と見なされて史料としての価値を長らく認められなかった。一定の評価を得るに至ったのは竹中芳視の翻訳と研究に資するところが大きい。だが、竹中の研究によって『東洋異聞』の価値が認められつつある頃、肝心のアーサーは既に文筆業から退いて手広い事業を始めていたのだから世の中は度し難い。
 そこまで考え、ふと思い出したようにデイビーは首を傾げた。
 「そういや、アーサーは竹中本人とは手紙でしかやりとりしたことなかったらしいが、姪とは会ったことがあるらしいしな」
 「姪ってことは、もしかして元皇妃の娘さん?」
 「そうらしい。第二次大戦中に満洲の鉄道会社を買収したら、附属楽団で歌手をしてたとか。意外と縁があるもんだろ」
 デイビーは少し笑った。暁天樹は鮮やかな色の瞳を瞠る。
 「何だか、他人みたいな気がしないね」
 「そうか? ありがちな偶然じゃないか?」
 「そんなことを言ったら、ぼくがデイビーんちの子になったのだってただの偶然じゃないか。だって、デイビーのお祖父さんとぼくのひいひいひいお祖父さんが友達で、ベルのひいお祖母さんを取り合ってたんだろう?」
 「そりゃそうだが、お前に掛かったら世間が五割ばかり狭く感じそうだ」
 暁天樹の白い滑らかな頬を突付いてからかいながらデイビーは笑った。膝の上で寝返りを打って逃げながら、暁天樹も嫌がる素振は見せない。互いに血の繋がりがないことは百も承知だが、選べるものなら親子に生まれつきたかったと思えるほどなのだから、これほどの幸運な出会いもそうはあるまい。
 「どうも運命の糸ってのは意外と絡まりやすいらしいなあ。竹中芳視はもしかしたら、その中に迷い込んでたのかもな」
 「確か子供はいなかったよね」
 「結婚もしてなかったはずだ、可哀想な奴め」
 戦禍の中で行方不明となり、以後二度と現れなかった学者は、その名を長く惜しまれた。万一生きていたとしても今頃は相当な高齢には違いないが、暁天樹にとってもデイビーにとっても、どことなく赤の他人として考え辛い人物だった。
 「会ったことも会えるはずもないのに、何だかそんな気がしない人だね、竹中芳視って」
 ぽつりと呟いた暁天樹の乱れた前髪を梳きながら、ふとデイビーは思いついたように口を開いた。
 「旅人みたいなもんだからじゃないか?」
 「旅人?」
 暖炉にくべた薪の爆ぜる音を聞きながら、ぐるりと寝返りを打った暁天樹はラグの上に腹這いになる。本を片手に頬杖を突く彼の傍らで、デイビーはようやく自分の本を拾い上げた。
 「何ていうかな……本を読むのって、旅人と会うのとちょっと似てる気がするんだ。本当なら会うはずのないような、知らないどこかの知らない誰かが考えたことを知ることができるなんて、思えば凄く不思議なことだろう」
 「旅人かあ」
 汽車の中などで偶然乗り合わせた旅人を思い出し、何となく暁天樹は同意した。たまさか出会った旅人というのは、なぜか気恥ずかしくなるほど饒舌なことが多い。相手の素性を知らない旅人の気楽さと、読者の顔を知らない著者の気楽さは、どこか似通うものがあっても不思議ではない気がした。
 素直な感嘆を聞きながら、デイビーは鷹揚に頷く。
 「それで、旅をするときはやっぱり目的があるもんだろう。伝えたいことがあったり知りたいことがあったり、目的はまちまちだけど、竹中の場合はさしずね皇帝と施氏に会いたかったんじゃないのかな」
 「……」
 「きっと史書を読むのが全く苦にならない、楽しくて堪らない種類の人種だったんだろう。そのうち、ずっと不毛な堂々巡りを繰り返してる皇帝と施氏が気になって仕方なくなったんだろう。そうでないと論文書いて手記を翻訳した上に、どうしてわざわざ小説にまでするもんか」
 暁天樹は黙り込み、うつ伏せたままデイビーの顔を見上げた。思い出したようにデイビーは少年の赤毛に掌を載せる。
 「竹中は皇帝と施氏やアーサーのことを知りたくて、それを誰かに伝えたくて、きっと本を書いたんだ。当事者の目に触れるとは思ってもなかったかもしれないが、それでもできることなら当事者に真実を訊きたいと思いながら、論文や小説を書いてたのかもしれない」
 知らずの内に暁天樹は頷いて目を伏せた。それはきっと歴史に携わる全ての人間の悲願だ。
 ふと、会ったことのない父が、たった一通だけ自分宛てに遺していた手紙を思い出した。何度か返事は書いたものの、届く宛先の書けない手紙は結局机の中にしまいこんでいる。手紙なんかではなく一度でいいから会いたいなどと幼い頃には思ったものだが、いつか滅びてしまうはずの人間の意志を留め、時間を乗り越えさせることができるのは、言葉という道具の持つ驚くべき特質の一つだろう。
 過ぎた時間を物理的に巻き戻すことはできないし、まだ見ぬ世界を歩むことは何者にも適わない。それでも過去を生きる者は、いつか訪れる未来の末裔へ向けて自分の思いを遺すことができる。そして未来を生きる者は、過去に記されたあらゆる足跡を辿ることで故人へと触れることすらできる。時間すら、それを妨げる絶対的なものにはなり得ない。
 暁天樹は口許をほころばせた。不敵と呼ぶには幼さの残る、真紅の花に似た笑みだった。
 「だとしたら竹中芳視の大誤算だね。ぼくは皇帝じゃないから何にも教えられそうな真実を知らないけど、一応当事者だもの。こんなところで石ころ扱いされて憤慨されてるなんて、まさか思わなかっただろうね」
 「竹中芳視は、ちょっと旅に時間を掛けすぎたな。女神は渾沌の裡に去り、石は風化して土になり、そして世界は未だ成らずってところか」
 「上手いこと言うねデイビー。確かにベルはもう施氏じゃないから、女神の現役は退いてるもんね」
 「中国は夫婦別姓が原則だから、施氏は結婚しても一生施氏だったもんな。まさかさしもの竹中も、現役の施氏が国際結婚をするとは思いも寄らなかったに違いない」
 デイビーは誇らしげに胸を張る。くすくすと笑い、ふと暁天樹は思い出したように訊ねた。
 「……それじゃあ、メナも施氏じゃないんだよね」
 「そりゃ……」
 暁天樹に言われて、はたとデイビーも考え込んだ。
 彼と妻との間に儲けた一人娘は間もなく四歳。フィロメナ・Y・ステュワートという可憐な名を持つ娘は、両親以上に兄の暁天樹にべったりと懐いている。一見すれば微笑ましい光景ではあるのだが、母親の過去を知る者がそれを眺めると、必ずその様子に笑顔を引き攣らせるものだった。母親譲りの面食いの気質ゆえか、施氏の血がそうさせるのかは定かではないが、その年にして「女神」の片鱗は疑うべくもなく輝いていた。
 「……アルメナは、確かにステュワートの娘なんだが……ステュワートって漢字だとどう書くんだ、まさか施の字じゃないよな」
 「だ、大丈夫だよ、確か史都華だったはずだ」
 思わずうろたえるデイビーの隣に、ようやく暁天樹も起き上がった。
 「あ、おお、そうか、いい字面だ、施の字の入らないところが特にいい」
 「うん、メナは幸い生まれつきの施氏じゃない。竹中の女神説には当てはまらない……はずだ。デイビーがうっかり離婚してベルが親権持っていかない限り」
 「そりゃ安心しろ、うっかり寝惚けて間違えたってそれだけはありえない」
 「あ、あとデイビーはベルより先に死んじゃ駄目だよ。と言うか、ベルを旧姓に戻しちゃ駄目だからね」
 「任せろ、俺の家系の長生きっぷりを舐めるなよ」
 暖炉の前で狼狽する二人の耳に、ふと遠く呼声が届いた。びくりと肩を竦め、それから二人はおずおずと顔を見合わせる。
 廊下の向こうで聞こえるのは、幼い少女の舌足らずな声だった。泣声のようでもあるが、むしろそれは怒号に近い。
 「……昼寝から起きたのかな」
 「お姫様がご立腹だぞ、王子。宥めて来い、俺じゃ無理だ、ベルだともっと無理だ」
 やれやれと立ち上がり、ふとぼやくように暁天樹は呟いた。
 「……ぼくは皇帝じゃないから、伝説とは無関係だと思ってるんだけどさ」
 デイビーは苦笑した。言わんとするところは聞くまでもなかったが、せめて愚痴くらいは聞いてやるのが不甲斐ない父の務めだろう。
 「それでも、ぼくはメナに振り回されて、いつかとんでもないことをしでかすような気がする」
 「竹中芳視はとんだ預言者だな」
 廊下からは、尚も幼児の声がけたたましいほどに響いている。置き去られた本に栞を挟みながら、デイビーは拝むように片手を掲げた。


「あなたの自由とは?」

「どこにでも行けること。但し、女神の手の内ならね」