楽園に吊られた男


 「お爺さん」
 首を傾けてこちらを見た老人は、口許に笑みを浮かべていた。
 物柔らかな振舞は京師生活で洗練された士大夫特有のものだが、その表情が持つ澱のような翳りは、およそ高級官僚に相応しいものとは言い難い。やはりそれは、江南の青幇を牛耳る芙蓉公司の総裁にこそ似つかわしいもののように思えた。
 笑顔で老人は少年の方へ腰を屈めた。もう二度と会わないだろう両親の姿を思い出し、恐らく自分はこの老人の身長を追い抜くことはないだろう、と何となく少年は思った。
 「どうしたかい、秋児?」
 「ぼくは、人が死ぬのを見るのは好きじゃない」
 本当は逃げ出したいほど膝頭が震えていたが、それを丈長い衣裳の中に押し隠して、声だけで虚勢を保っていた。彼の姿に怯妥と矜持の両方を認めたのだろう、老人は穏やかに肯き、彼の頭に掌を載せる。この国でそれは、実の親にしか許されない行為だった。
 老人の肩越しに見えるのは、豪奢な調度品の設えられた折衷様式の正堂と、そこに座する三人の男達だった。壮年と思われる彼らはいずれもだらしなく卓上に伏せていた。その口許から零れている紅い液体が葡萄酒でないことくらいは、その場に立ち込めた金臭い臭いで少年にも判別できる。一人だけこちらを向いている男が、充血した目をかっと見開いているのがひどく印象的だった。
 卓上に置かれているのは、青い絵付けを施したディカンタだった。伊万里に似て更に繊細な風合いは、景徳鎮の玲瓏青花だろう。その丁寧な細工は王朝の最盛期頃に流行した様式のものとよく似ているが、洋食器を作っているということは近年になってもよほど腕のよい職人を抱えている窯のものなのだろう。
 景徳鎮だけではない、蘭州銀川の絨毯やビルマ翡翠の目利も少年は徹底的に仕込まれた。上質な物だけを知っていれば自然と粗悪品は見分けられると、老人は彼に一級のものばかりを与え続けてきた。その主義は物品ばかりに留まらず、芝居や趣味、果ては身の回りに控える使用人の人選にまで徹底された。彼は老人の期待に見事に応えてみせたが、そうした豪奢な生活に溺れず、一方でそれゆえの孤独を厭わなかったところこそが最大の適性だったのだろう。
 多分それは、どれほど贅を凝らした趣向を目にしても充たされない壮絶な飢渇を抱えていることに由来するものだ。不治の病にも似た飢餓感を共有する老人には、まさしくそこを見込まれたのだと彼自身も感じている。喩えるなれば、二人は共に音楽を好むが、どの楽団にも付き物であるヴァイオリンだけは決して耳にしようとしない。
 しかし人が慄くほどの奢侈に慣れようと、屍を見て怖気を感じるのは当然のことに違いない。少年は、もう一度老人に告げた。
 「死体を見るのは、ぼくは余り好きじゃないよお爺さん」
 「ああ、贋物を見ると目が腐るからね」
 皺で埋められた顔を綻ばせ、老人はふとその片腕を延べた。
 「秋児、どうして彼らが死んだかわかるかい?」
 偽物だからか、と言おうとしたが、ふと口を噤んで言い直した。
 「偽物を見分けられなかったから?」
 「わかっているじゃあないか」
 正堂へ足を踏み込んだ老人は、ふと足元に転がっていた盃を靴の先で軽く蹴った。長衣の裾が軽く閃いて青い模様の描かれた白磁が転がり、すぐさまその爪先で縫い止められる。ディカンタと似た模様だが絵付けの色にくすみがあり、筆遣いに品がない。薄地の下地はよく出来ているから、もしかしたらマイセン辺りの若手見習による試作品かもしれないが、生憎と老人の趣味にはそぐわない代物だ。
 いかにもこの老人の仕掛けそうな罠だった。マントルピースの上には、見るからに上等なベネチアングラスが磨き上げられている。死体など目に入ってもいないような仕草で老人はグラスを取り上げると、卓上のディカンタから黒光りして見えるほど濃い紅の液体を注いだ。虹色に煌めく硝子が輝くような真紅に染まる。
 悠然とそれに唇をつけ、それから老人は彼を手招いた。
 「……ぼくは、死体が嫌いだ」
 入口で踏み止まる少年に目を細め、老人はよく通る声音で告げる。
 「何を言っている秋児、ここに死体なんてものは存在しない」
 彼の意図を掴みそこね、少年は困惑する。その表情を見分けたのだろう、老人は穏やかに告げた。
 「死体は存在しない、なぜなら彼らは初めから存在すらしていないからだ。ここは租界だ、政府の警察は侵入を許されておらず、捜査も行われない。租界を管轄するフランス領事官憲も、我々支那人の領域には介入しない。それゆえ彼らの存在も証明されなければ、死体も存在しないのだよ」
 少年は三人の男に目を向ける。そのいずれにも見覚えはあった。実子のない老人の親戚に当たる彼らは、老人が束ねる巨大な財閥と上海青幇を引き継ぐ後継者として、周囲の人々に将来を嘱望されていたはずだ。いずれ劣らぬ実績と実力を誇り、老人の持つ絶大な財産と権力を狙ってしのぎを削り合っていた芙蓉公司の重役である。
 そして彼らは、老人の養子として迎えられた秋児と対立する立場にあったのではなかったか。
 「秋児、ここにはわたしとお前以外誰もいない。いいかね、誰もいないのだよ」
 ――ああ、と彼は腑に落ちた。
 ここに並ぶ屍は、間もなく跡形もなく片付けられ、街の夜闇に消えてゆく。つまり彼らは、消えても誰も気に止めることのない闇の誤差だということか。この魔都を覆う巨大な闇の、ほんの一欠けらに過ぎないということか。
 ふと彼は唇を引き結んだ。そして豊かな毛足を持つ絨毯を踏み、卓の前に立つ。老人は黙って彼に盃を差し出した。
 「ぼく、まだ十三だよ」
 「禁酒を命じる無粋な決まりは、ここにはないさ」
 なるほど、と彼は納得するままに盃を干した。
 この魔都の闇そのもののような、赤黒く濁った焼けるような味わいを呑み込んだ。


「何が見える?」

「ただひたすらの、闇が」