太陽の誕生日


 死んで生まれた妹の顔を、遂に甫民は見なかった。
 彼の両親は馬賊の頭目で、十の誕生日を迎えたばかりの甫民はちょうど父に連れられて初陣へ繰り出している最中だった。馬賊にとっての出撃とはいわゆる押城のことだが、つまり食料や金品や婦女を目的とした城肆への略奪を意味する。生まれたときから馬上にあったような甫民にとって、それは大人たちが行う秋ごとの行事のようなもので、いつか自分も加わるものとごく自然に考えていた。
 今でこそ草原を荒らし回る匪賊として蔑まれているが、多くの馬賊を束ねる彼らの総覧は、元々中原を統べていた王朝の正統な後継者であったという。革命によって王朝が倒されたとき、まだほんの幼児だった彼を抱えて逃げ延びたのが甫民の両親であったらしい。両親が詳らかに語らないので甫民は古老の語る昔話でしかそれを知らないが、それを何より誇りに感じており、両親の一粒種である自分が総覧への忠誠を尽くすのはごく当然なことだと考えていた。押城は武功を上げて忠義を示す最大の好機で、それに加われる栄誉が震えるほど嬉しかった。
 実は馬賊としての戦の腕前は、かつて文官だったという父よりも回回児の母の方が優れている。時折見せる射撃の腕前からもそれは明らかで、父はむしろ参謀を務めることが多く、西域出身の母は大柄な身体と異国的な容貌を軍服に包み、しばしば総覧直々の命令を受けて馬を駆っていた。本当は今回の押城にも加わるつもりでいたらしいのだが、身重の身体ということで総覧に止められ、代わりに父の庇護を条件に甫民がようよう頭数に加えられたのだった。
 初陣は凍る空気がちらちらと舞う晩秋のことだった。父に教えられる通りに育て仕込んだ葦毛の馬に跨り、短い背心に弾帯を十字に掛けて、懐へモーゼルとサーベルを捻じ込んだ甫民の姿は、幼いながらも一端の馬賊だった。ようやく戦闘に加われる誇らしさに頬を紅く上気させて、馬上で彼は薄い胸を張っていた。揶揄する母に小突かれても、甫民はいっそ無邪気なほどに有頂天なまま馬を駆った。
 だが、実際に戦闘が始まるとほとんど甫民には出る幕はなかった。馬賊が星の数ほど闊歩する北方の村落では、既に村自体が武装しているようなもので、いきおい凄まじい乱戦になった。眼鏡を革紐で頭に縛り付けた父に手綱を引かれながら、ひたすら弾を避けて駆け回っているうちに、戦上手の総覧の手勢は村の手勢を鎮圧してしまった。視界を遮る硝煙と砂埃と血霞が風に洗われると、文字通り血の海となった村がその姿を眼前に晒していた。
 彼らの総覧は若さに似合わず容赦がない。大人という大人を全て殺し尽くし、子供ばかりを広場に引き出した総覧は、歯向かう意思のある者に名乗り出るよう告げた。馬賊は原則として子供は殺さないが、総覧は抵抗する意思のある者ならばどれほど幼くても全て大人とみなすことに決めていた。
 村の子供たちをぐるりと取り囲む馬首の中に、もちろん甫民もいた。まさかと思っていたが、意外にも一人また一人と彼の目の前へ名乗り出てきた。ほとんどが男だったが、甫民とさほど歳の変わらない娘も混じっていた。まず子供たちの勇気を讃えた後、総覧はおもむろに甫民へ目を向けて、真面目な顔で撃てと言った。まさかと思い隣の父を見上げると、やはり促すように顎を軽く振った。
 甫民はまだ人を撃ったことがなかった。兎狩りや狐狩りは誰にも負けない自信があったが、それより遥かに身体の大きな人間はどこを狙えばいいのかわからなかった。それを素直に告げると、総覧はにこりともせずに指さした。黒革の手袋で覆われた指先は、例の娘を示していた。
 「手足でなければどこでも構わん、その弾を中てさえすれば勝手に死ぬ。頭か、自信がないなら腹にしろ。はらわたがちぎれれば助からんが、胸はどうかすれば死に損なうからな」
 見ると、娘はまんじりともせずただ挑むような目でこちらを見ていた。逃げる獲物を追うことはあっても、静止した的を撃った経験すら甫民には稀だった。そしてほんの数歩で辿り着けるほど間近な的も、これほど大きな的も、甫民には初めてだった。
 むしろ中てない方法がわからなかった。一発の銃声で、精確に甫民は娘の眉間を撃ち抜いた。
 むしろ中てない方法が知りたかった。彼の初陣は、それが全てだった。
 帰路では何度も父が鞍頭に乗せようかと持ち掛けてきたから、傍目にも随分疲れて見えたのだろう。だが甫民は意地でも自力で帰ろうと思った。だから半ば朦朧としながら、それでも多くの荷を引いた凱旋の行軍に加わった。行きは余りに近いと感じた片道三日の道程が、ひどく長く感じられた。
 帰路へ向いたその日に、母の待つ村落から捷報がもたらされた。それを受け取るなり父は隊列を離れて馬を駆った。甫民についてくるかと一言だけ訊ねたが、彼が首を振ると振り向きもしなかった。険しい顔をした総覧が、時折落馬しそうになる甫民の目を覚まさせるために馬首を寄せてきたが、どんな会話をしたのかも甫民は今一つ覚えていない。
 村落へ辿り着くと、村の古老に母が死産したことを告げられた。昨日父母が埋葬したとのことで、既に墓に入った死児のことを誰も敢えて取り沙汰そうとはしなかった。母に至っては初めからなかったかのように振る舞い、それが余りにも普段と変わらないので、甫民は何も訊くことができなかった。
 ただ父だけがこっそり後になって、女児であったことを教えてくれた。


 甫民はそう呼んだことなどなかったが、彼らの若き総覧は白系ロシア人の間では『皇帝(ツァーリ)』と呼ばれているらしい。彼の母が中華皇帝へ嫁いだロシア王朝の姫君であったことに由来するとのことだが、その称号が持つ別の意味くらいは甫民も知っている。総覧は革命ロシアから亡命した白系ロシア人の多く住むハルビンで非合法の警邏をも請け負っており、それと引き換えに局地的ではあるが絶大な権限を持っている。
 最近ではそんな風に某かの勢力と結びつく馬賊も少なくない。数多の政治勢力が馬賊の軍事力を利用し、一方馬賊もまた政治的な運動に介入するようになった結果、伝統的な押城が別の目的をも持つようになっていった。つまり、対立する勢力を支援する村落組織への、見せしめを兼ねた狙撃である。今回の押城にもそうした側面があり、襲撃を掛けた村は近年革命ソヴィエトの影響下にあったという。同時に秋の収穫を終えたばかりの作物を頂こうという算段もないわけではなく、言わば新旧両方の意味での押城であったといえる。甫民たちは今はさほど困窮してはいないが、ハルビンの南にある朝鮮族の集落などでは今も定期的に飢饉が起こっており、そうした集落へ糧食をばら撒けば、支援層を拡大するための資源となる。そんな需要は幾らでもあるといえた。
 そうした姿勢を汚いと批判する者がいないわけではなかったが、甫民を含めた多くはそれを必要悪と認めていた。列強に蹂躙され、政権が統一されないこの大陸に再び安定を取り戻すには、秩序に悖る暴力で捻じ切られた王朝の再興から行われる必要があると、彼らは信じていた。そしてそのためには、英明な彼らの『皇帝』の手に再び権力を取り戻させる必要があった。一介の馬賊集団に過ぎない彼らが天下を取るために、手段を選ぶ余裕がないということは、もはや知れ切った常識だった。
 だが、甫民は押城から戻ってその常識を初めて疑い始めた。それは子供じみた反発なのかもしれないが、幼い甫民に懊悩を強いるには十分なものだった。
 名付けられることもなく死んだ妹のことと、甫民の初陣に何の因果関係もないことはわかっている。だが、どうしても彼にはそれを切り離すことができなかった。もし自分があそこで娘を撃たなければ、妹は死ななかったような気がしてならなかった。
 多分それは、どちらの死も彼にとって理不尽に過ぎないことに由来する。あの娘が死ななければならなかったのは、甫民らの総覧に服属することを拒んだゆえに他ならないが、そもそもあの村が襲撃を受けたのは大人たちが勝手にコミンテルンへ参加したからに他ならない。その制裁というのが殺した総覧側の理論だとすれば、親を殺した馬賊に従属できないというのがあの娘の理論だろう。両者は決して呼応する関係にある訳ではなく、しいて言えば未来の報復の芽を摘むことが総覧にとって利益となりうるというだけだ。それは必要悪ではあるが、力で弱者を捻じ曲げている現在の体制と何ら変わるところがない。
 総覧は、王朝を復興するという理念を掲げている。そしてそのためならあらゆる犠牲を厭わない強さを持っている。この土埃にまみれながら荒原を駆ける天子ならば、この暴ぶる天地を平らげることができるだろうと信じて、甫民は彼に忠誠を誓う。だが、そのために理不尽な理論を押し付けることが果して正しいのか、甫民にはわからない。手段を選べない状況を前に手段を選ばないことは、総覧の強さだ。だが、それが果して正しいことなのかと自分に問い、甫民は逡巡する。
 父も母もそんなことを指摘したことは一度もない。それは気付いていないのか、それとも彼らにとってはどうでもいいことなのか、或いはわかっていて敢えて口にしないのか、甫民にはわからない。ただそのいずれも、幼い甫民の度量で受け入れきれることには思えなかった。


 総覧が甫民の家を訪れたのは、霜が降りた夜更けのことだった。
 寝付けないとごねて母にもらった白乾児を舐め、父に諌められて半ば拗ねながらオンドルへ向かっていると、扉がこんこんと鳴った。毛布を巻きつけた扉の向こうで猫の鳴声が聴こえた気がして、訝しがりながら甫民が誰何の声を掛けると、よく通る総覧の声が響いた。
 慌てて扉を開けた途端、あの鳴声がわっと屋内へ溢れてきた。驚いて目を瞬かせながら甫民が振り仰ぐと、黒い毛皮の外套を着込んだ長身があった。甫民の姿を認めた総覧はほっと白い息を吐くと、珍しく困ったような顔をしながら外套の前を開ける。鮮やかな刺繍を施した小さな産着に包まれたそれは、総覧が腕を持て余すほど小さな赤子だった。
 「ギナ、つかぬことを訊くがお前、乳は出るか」
 挨拶もそこそこに飛び込んできた総覧は、耳当てのついた帽子も脱がないまま大股に母の前へ向かう。きょとんと瞬いて、それから母は鮮やかな碧眼を細めて少しだけ悲しげに笑った。
 「ああ、そりゃもう飲む子がいないから持て余してるところですよ」
 扉を閉めながら、甫民は驚いて振り向いた。母が妹のことを話すのを、初めて彼は耳にした。もしかしたら本当に忘れていたのでは、とすら思っていたのだった。
 母は胸に垂らしていた麻色の髪を項に掻き揚げると、慣れた手付きで総覧の腕から赤子を受け取り、片手で服の釦を外して乳房を含ませた。ふにゃふにゃと泣いていた赤子が齧りつくように乳を飲み始めるので、かなり腹を減らしていたことは甫民にもよくわかった。
 やれやれ、と総覧がその場にへたり込むので、甫民の父がとりあえず椅子を勧める。ようやく気付いたように帽子と手袋と外套を脱ぎ、総覧はそこへ腰を下ろした。湿気て凍った混血の栗毛がばさばさと無造作に顔に掛かっている。甫民が見る総覧はいつも馬上にあるか、さもなくば豪快に酒を浴びているかのどちらかで、そんな姿を目にしてますます甫民は目を丸くした。
 「陛下のお嬢ちゃんですか? よく似てますねえ」
 母はおかしそうに笑うが、総覧は肩を窄めた。
 「母親の具合が思わしくなくてな。重湯や薄めた牛乳も試したが、嫌がって飲まんのだよ」
 「そりゃまだ早すぎます。吸い付かないと赤子の口は物を飲み込めないんですよ」
 呆れたように父に茶々を入れられ、総覧は頭を掻いた。
 「そうか、面目ない。娘を餓死させたとあっては、母親に殺されるところだった」
 「乳母か何かを雇っては?」
 「そうしないとどうしようもないんだが、何しろ俺は未婚だ。うっかり求人がばれたらハルビンの正教会に通報される」
 それはそうだ、と甫民は卓へ戻る。総覧は男の甫民も惚れ惚れするような色男だが、不自然なほど女の噂とは縁遠い。彼を支援する白系ロシアのほとんどが正教徒でこと女性関係にはうるさいから、敢えて自制しているのかもしれないが、だとすれば隠し子などとんでもない醜聞だろう。
 だとすれば、ここで提示されるべき案は一つしかないはずなのに、誰も言い出さない。訝しみながら、やむを得ず甫民が口火を切る。
 「母さんが乳母になれば?」
 驚いたように総覧と父がこちらを向いたので、甫民はそれが失言だったことに気付いた。だが、当の母は赤子をあやしながら笑った。
 「どうせ余ってるもんですから、遠慮するこたないですよ。これから冬ですしね、吹雪の中で貰い乳しようとしたら、飢える前に凍っちまいますよ」
 「面目ない。ギナが構わんのなら、頼まれてくれるか」
 「願ってもない。ところで、褓襁の替えはありますか? びしょびしょですよ」
 総覧は驚いたように目を瞠った後、頭を抱える。苦笑しながら父が席を立ち、戸棚の奥を探り始めた。多分、母が夏頃からずっと縫いためていた妹のための褓襁だろう。
 「……すまん。飢死させそうだと思って頭がいっぱいだった」
 「こんな褓襁つけてたら、今度はそれこそ凍え死んじゃいますよ。危なっかしい父上ですねえ」
 甫民はふと総覧の背中を見上げた。多分赤子の世話に窮した彼がここへやってきたのは、思いつく限りの手を尽くした一番最後だろう。
 『皇帝』と呼ばれ圧倒的な支持と資金を集めながら強大な馬賊兵団を擁していても、総覧の素性を知る者は決して多くない。まして、彼が馬賊の総覧としてでも亡国の皇帝としてでもなく、個人的に交流を持っている人間など果たしてどれほどいるだろう。甫民の両親よりずっと若い総覧は、それでも常に人の上に立ち続けなければならない地位にある。人を頼るとは、その相手に窮地を曝すことに他ならないのだから、易々と彼に許される行動ではないはずだ。
 両親が総覧を連れて逃れたとき、彼は今の甫民より幼かったと聞く。革命によって肉親を失ったため、甫民の両親は文字通り親代わりだったと、いつか総覧自身から聞いたことがある。人知れず儲けた我が子の世話に途惑えば、まず頼りたい相手だったに違いない。
 (……――)
 「甫民、ほら、抱かせてもらいなさい」
 ふと父に呼ばれて振り向くと、取り替えた褓襁を母が片付ける間、父が赤子を引き取って抱いていた。おずおずと見上げた先で総覧が頷くので、恐る恐る甫民は腕を伸ばす。父が甫民の腕を取りながら抱き方を教え、それから構えた腕の中に赤子を載せてくれた。思ったよりも湿気が多くて温かく、そして意外と重かった。
 覗き込むと、額の髪を切り揃えた色白の赤子が睫毛の長い黒目がちの目で甫民を見上げていた。たじろいだ顔が面白かったのか、声を上げてきゃっきゃと笑う。
 「鸞鈴樹、何が嬉しい。父を見ても泣いてばかりのくせに」
 背後から覗き込んだ総覧が指先で赤子の頬をつつくと、急に顔をくしゃくしゃにし始めた。慌てて覚束ない手付きで揺すると、再びおかしそうに笑う。苦笑して甫民は総覧を見上げた。
 「ランリンシュ様、ですか?」
 「龍輿鸞輿の鸞だ。糸言糸の鳥に、りんりん鳴る鈴で鸞鈴樹なんだが、気にいらんらしく俺が読んでも振り向きもせん、自分の名前だとわかってないんだろう」
 拗ねたようにそういうのがおかしくて、甫民はもう一度赤子を揺すってみる。
 「鸞鈴樹様、可愛いお名前ですね」
 すると返事をするように赤子はまた笑う。総覧は肩を竦めた。
 「末恐ろしい娘だな、様をつけんと返事をせんのか」
 笑っていた赤子は、そのうち目を細めるとくはあと大きな欠伸をした。驚いて見ている間に、赤子は寝息を立て始める。総覧に返した方がいいかと思ったが、総覧は両親の方へ向き直ると、二言三言言葉を交わしてそのままコートを羽織り始める。
 「それじゃあ、悪いが当分頼めるか」
 「取り敢えず首が据わるまでは、陛下の扱いだと危なっかしくてなりませんからね。母君の具合がよくなり次第、お返ししますよ」
 母は甫民の腕から赤子を起こさないように抱き取る。手早く身支度を整えた総覧は、礼を述べた。
 「すまん、本当に助かる。礼はまた必ず」
 「いやいや、お気遣いなく。お互い様ですからね」
 父母と共に戸口の辺りまで見送ると、総覧は夜闇に白い息を吐き出しながら何度も振り向いた。総覧の屋敷からここまではそこそこ距離があるが、もしかしたら徒歩できたのだろうか、辺りに馬の影は見えなかった。あの覚束ない手付きでは、落とすのではと危ぶんだのかもしれない。
 ふと甫民は両親を取り残して駆け出し、総覧を追い駆ける。足音を聞いたのか、追いつく前に総覧は振り向いた。
 「……本当に、お前たちには悪いことを頼む。すまんな」
 白い息を吐き散らしながら、甫民は総覧の悲しげな笑顔を見上げた。やはりそうなのだろう、普段ならばともかく、死児を出したばかりとあっては自分の赤子を預けることがなかなかできなかったに違いない。総覧に何か言わなければと思って飛び出してきたのに、咄嗟に言葉が出てこなかった。真っ赤な顔をしてただ息を整えるばかりの甫民の肩に、総覧は手袋で覆った掌を載せる。
 「この間は面白くなかっただろう。あの村で殺したのは全て俺だ、お前は責任を感じることはない」
 甫民は母譲りの碧眼を瞬かせる。総覧はその場に屈みこんで目を合わせる。嵐のような灰色がかった空色の瞳をしていた。
 「俺は天子だ。世界が乱れるのは、全て俺の不徳の為せるところだ。あの村で死んだ奴らも全員、本来なら俺の臣民だから、一人でも擾乱で民が死ねばそれは俺の責任だ。お前はただ俺に命じられただけだから責任はない」
 「相手が赤匪でも?」
 「関係ない。匪賊が出ること自体が、天下が乱れた証拠だ。それは全て俺に徳がないことに由来する。だから俺は一刻も早く天下を治めなければならないんだ」
 からかわれたのかと思ったが、あらゆる民の一人が死ぬことまで自分の責任だと言ってのける総覧の顔は真剣だった。
 「天子は天下を平らげ民を安らげるために存在する。なれば敵味方に関わりなく、死ぬ民は俺の不徳によって殺されているんだ――お前の妹もな」
 「違う」
 咄嗟に甫民は言い返し、そこで言葉に詰まる。込み上げた感情を発露しようとしたら、溢れたのは言葉ではなく涙だった。
 「俺が人を殺したから、そのせいで赤ん坊も死んだんだ。俺が押城に行かなかったら、きっとちゃんと生まれてたんだ」
 非合理だとはわかっているが、甫民にとってそれは拭いきれない感触のように確かな感情だった。自分が奪ったその分を、何者かが奪っていった。それはきっとどんな理論よりもわかりやすい理屈だった。
 だが、総覧は首を振る。そして凍りつく前に頬の涙を手袋で拭う。
 「そうじゃない。殺した分を殺されていたら、天下の民は一瞬で尽きてしまう。甫民、お前は馬賊じゃないか」
 「でも、人を殺すのは怖い」
 素直にそう言うと、総覧は甫民の両頬を片手で挟むように摘んだ。
 「別にそれは構わん。殺すのを怖がるのは、殺されるのを怖がってるからだ。馬賊が戦場でやり取りするのは己の命だが、お前の妹も鸞鈴樹もお前の所業とは関係ない。敵の命もお前の命も、万民の命の重さは全て俺が責任を追う。だからお前は馬賊として自分の使命を全うしろ」
 甫民は潤んだ目で総覧を見る。父母が総覧の持つ様々な矛盾を決して指摘しなかった理由を、はじめて理解した気がした。この矛盾こそが自分の最大の罪だと、この男は知っている。そして決して許されることのない罰を、雪がれることのない罪を背負い続ける覚悟を持っている。それは、多分甫民には到底近付くこともできない真理のようなものだ。
 それでも失われた妹を、その分の重さの命をこの人は甫民の腕に預けてくれた。それはつまりこの人の償い方で、甫民が足を竦ませると自分はそれを拒んだことになる。
 不意に甫民の顎を摘んで、総覧は笑った。
 「甫民、お前は賢い子だな。鸞鈴樹を頼んだぞ、あの子の世代を支えられるのはお前しかいない」
 甫民はぐいと頷く。それを確かめて、頼もしげに頷いた総覧はようやく手を離した。
 「よかった。お前がいてくれることが鸞鈴樹にとっては一番の僥倖だ。俺には秀胡とギナがいたが、あの子にはお前がいる。これでどんな困難に見舞われても平気だろう」
 「はい、任せてください。命に代えても、絶対に鸞鈴樹様をお守りします」
 頷く甫民に総覧は肩を窄めて苦笑する。
 「お前が死んだら誰が鸞鈴樹を守るんだ。お前も死ぬな、絶対に死ぬな」
 忠誠を誓おう、と総覧の端整な顔を見上げながら、甫民は頷いた。
 この人の魂に、その娘もその裔までも、その血が続く限り忠誠を尽くそう、とそのとき甫民は誓った。


「影は何処に落ちた?」

「おれが影になる。天の末裔の」