女帝の密約


 「あたしの知ってる中では、多分、最も背が低い男性の一人だと思うわ」
 思えば、北国生まれの父はすらりとした長身だった。父方の身内は言うにあらず、母方の祖父も腰が曲がる前は見上げるような丈高さを誇っていた。よく遊びに連れていかれた大伯父は余り大柄とは言い難かったが、衆目を集める見目のよい老人だった。満洲で世話になった楽団指揮者の大雲寺は、歌唱教官のロドナヤと比べれば確かに頭半分は小さかったが、女性と言えスラブ民族を向こうに回しては相手が悪い。楽団で一緒だった仲間たちは軒並ロシア人かユダヤ人、数少ないアジア人種も大柄で知られる山東移民か朝鮮人ばかり。そう言えば目通りの適ったことのある満洲皇帝も、噂によれば支那とドイツの混血とやらで、結構な美丈夫だった。
 そもそも租界を渡り歩いてきた彼女の知る日本人といえば大半が兵隊で、身長こそ人並であってもきちんと出来上がった体躯をしていた。それと比べると、やはりあの男はいかにも小さい。改めてよく見ればずば抜けて背が低いわけでもないのだが、少年のように華奢な身体の上に小作りな顔を乗せていると、どうにも子供じみて見えた。
 「おまけに癇癪もちときているし」
 幼い外見のせいだけでもなかろうが、彼の言動を見ているとまさか彼女より十も年上とは思えない。外向きに、威厳たっぷりに振舞ってみせるときはあの気難しさも様になるが、家の中ですら使用人に当り散らすのは頂けない。拗ねて何を言っても聞く耳を持たないときなど、家令たちに総員退去を命じてみたくなる。どうせ一人では食事の用意すらままならないのだ、それを思い知らせてやるのも一興だろう。
 「しかも、殿方の方がお好み」
 先代の夏家の主人に気に入られて養子となり今の地位を引き継いだというが、先代の趣味は代替わりして久しい今でも語り草である。寵童として望外の出世を果たした彼は、全ての権威を受け継いだ後も、常々男漁りに余念がない。出先に行くたび必ず一抱えほどの若い役者に声をかけて帰ってくるし、文化人のパトロンを気取っておきながら法外の見返りも忘れない。更に、彼自身も女形のようにすましかえった面差しをしているせいか、何となく男を侍らしていてもそれなりに様になってしまうのが癪に障るところである。
 「ホントにもう、何の取り得もないわ」
 「それではあの方の、どの辺りがお気に召したのですか」
 背後で彫像のように黙り込んでいた執事姿の佐野が、見かねたように口を挟んだ。ちらりと覗き見ると、麗顔の半分を前髪で隠しながら、残る半分の目鼻に未だかつて見たこともないほど見事な渋面を浮かべている。まあやむを得まい、この従者の監視の僅かな隙を掻い潜って独断専行に及んだのは他ならぬ彼女自身だった。周囲の大人に散々子供扱いされてきたとは言えもう十六、自分の行動に対する責任くらいは取らねばなるまい。
 長々と引いた純白のローブ・モンタントの裾を捌き、麗しく装った花嫁はしゃあしゃあと言い放った。
 「決まっているでしょう、あの人からお金と権力を取って何が残るって言うの」
 「……わたくしめは、ご実家の旦那さまと奥様に一生顔向けができません」
 「あら、それは稀有な魅力だと思っていてよ。少なくとも伴侶に選ぶなら、必須の条件ではなくて?」
 絹の手袋で覆った腕を腰に当て、ドレス姿の花嫁は隻眼の従者を見上げる。その瞬間、重い音を立てて控え室の扉が開いた。見遣る二人の視線の先に、黒いモーニングコート姿の青年が姿を見せた。女形のような、と言われる端整な顔に、これ以上ないほど苦々しげな表情を浮かべていた。
 「黙っておけば、随分なお言葉だね」
 「まあ、おまけに立ち聞きという素敵なご趣味まで備わっておいでなのね。お友達が少ないと多趣味になられるというけれど、退屈しなさそうで羨ましいわ」
 「はからずもぼくは慈善事業まで手を広げてしまったらしい。もっとも、こんなじゃじゃ馬を野放しにすると上海中の不利益に繋がるからね、この街の平和を守るのはぼくの義務だ」
 アスコットタイに指を掛けて首元を寛げながら、先ほどから散々にくさられていた新郎は歪んだ笑みを見せた。片や対峙する新婦は、手首まで覆うレェスの袖を捲り上げて微笑みながら新郎の前ににじり寄る。まさしく一触即発、といった二人の間にするりと滑り込んだのは、先ほどから様子を見守っていた佐野だった。古風な丈長いフロックコートにすらりとした肢体を包み、細いリボンをタイの代わりに襟元に結んでわざと衣裳の格を落としている様は、完璧すぎるほど完璧な従者である。
 「キヨシさんもアキジさんも大概になさい。ご来賓をお待たせしてまでするようなことですか」
 使用人の立場を敢えて外した一喝に、二人は意気を呑まれて立ち竦む。それからばつが悪そうに佐野の肩越しに睨みあった後、ぷいと互いにそっぽを向いた。まず新郎の手を取った佐野が、それに新婦の手を乗せてきちんと結び合わせ、外へと通じる扉の方へ足音一つ立てずに進んでいった。白い手袋の手を真鍮の取っ手に掛け、不服そうな二人に一度振り向く。示し合わせたように、両人は花の咲き誇るような作り笑いを浮かべた。
 新郎、上海青幇頭目兼芙蓉公司総裁夏秋二(シァ・チゥル)
 新婦、満洲交響楽団首席ソプラノ歌手崔熙善(チェ・ヒソン)
 夢のような、もしくは悪夢のような結婚式に招かれた来賓は、既に披露宴会場となる夏邸の大庭に揃い、冗談のような二人の出現を半信半疑で待っていた。


 「子守りはさすがに悪魔の本分でないと見える」
 庭先の物陰にやっとの思いで這い出した佐野を迎えたのは、怪しい呂律で笑う中年男だった。爽やかなモーニングコートの群れの中で痩身のテールコートは目を引くが、腐るほど持っているはずの勲章を外しているので、決してマナーを忘れているわけではない。気品と胡乱さを同時に携えた彼は、東洋的な顔に国籍不明の笑みを乗せて片手のグラスを掲げていた。
 溜息を落とし、佐野はグラスの口を手袋の指で摘み上げ、酔いどれからワインを奪い取る。ああ、と情けない声を上げる男を佐野は涼しげな流し目でねめつけた。
 「サネスミ先生、披露宴でお恥ずかしい真似だけはなさらぬように」
 「なぁに、色付きの酒で手許が狂うほど青くはないさ。俺の指揮を舐めるなよ」
 そう嘯くものの、既に足元は覚束ない。ふと通りすがった盛装姿の貴婦人が顔を顰めて遠巻きに去ってゆくが、彼は千鳥足でよろめきながら指先を振るって鼻歌を口ずさんで見せた。
 新婦の後見人にして満洲交響楽団総裁兼任指揮者――今や東洋一とすら謳われる指揮者、大雲寺実純の醜態に佐野はひっそりと溜息を落とした。新婦たっての希望で、これから庭院に招かれた管弦楽団の指揮を任されているはずだが、これでは先が思い遣られる。多忙の最中、本拠地の新京から上海まで遥々駆けつけてくれたのはありがたいのだが、素直に喜べないのが苦労性の佐野だった。
 「メフィストフェレス、お前は色々と不満のようだな。悪魔の分際で生意気な奴め」
 見透かしたように言い放ち、実純は愉快そうに指を立てて庭の中半を示す。日の当たる人垣の中央で眩いほどの笑顔を振り撒くのは、先ほどまで控え室で陰湿な火花を散らしていた新郎新婦だった。改めて佐野はこめかみに指を当てる。
 「わたしは悪魔でもなければ不満があるわけでもありません。ただ、情けないだけです」
 「空も飛べなければ人心も操れん、ヴァイオリンしか能がない悪魔なのだから今更どうしようもあるまい。諦めろ」
 人の話を聞かない実純にもう一つ溜息を落とし、佐野はようやく面を上げた。グラスを奪われ手持ち無沙汰の腕を組み、実純は不敵な笑みをこちらに向けていた。
 「なるほど、キヨシをさらわれたのがそんなに不満か。まあキヨシは身内の贔屓目だが可愛い上に肝も据わって、何より賢い。あんな若造にくれてやるにはちょっと惜しい気もするな」
 佐野は秀眉をもたげる。だが、人の悪い笑顔を見ているうちにいちいち訂正するのも面倒になってしまうのは、いつものことだった。
 「そういう意味ではありません。ただ、他に方法がなかったのかと思わずにはおれないのですよ」
 わざとらしく目を剥いて空を仰ぎ、実純は肩を竦める。そして日本人離れした身ごなしで腕を組むと、口許に不思議な笑みを浮かべてみせた。
 「仕方なかろう。何しろ日本軍は躍起になってキヨシの身柄を探している。満洲に逃げ帰れば侵攻の口実を与えるようなものだが、かといって迂闊に上海に留まればますますどう転ぶかわからない。あの子なりに考えたところだろうが、これは英断だろうよ」
 「……」
 佐野は不服そうに眉間を寄せ、口をつぐんだ。木漏れ日でもなお眩い上海の日光が、端整な面差に暗い影を落とす。
 上海租界に駐留する日本軍は、現在一つの特務を本国から命じられていた。作戦通称は「鶯狩り」――満洲を拠点に活動する歌姫崔熙善の身柄の確保がその目的である。
 崔熙善は、四年前に満洲の土を初めて踏み、満洲交響楽団附属音楽学校でロドナヤ・ディミトリーエヴァの指導を受け頭角を現した、まだ十代の歌手である。当時の楽団は日本の経営する満洲鉄道株式会社の附属施設だったが、植民地経営の撤退に伴い会社諸共アメリカの企業に売却されると、日本嫌いの実純と多くの団員は帰国することなく満洲に留まり、無国籍楽団を自称して満洲皇帝の庇護の下で気侭な音楽活動を続けていた。満洲皇帝の御前公演で抜擢され一躍その名を知られた崔熙善は、しかしその高名と裏腹に素性が謎に満ちており、それがまた人気に拍車をかけていた。
 もともと楽団総裁の大雲寺実純とコンサートマスター佐野ルイスは、彼女の身内から直々にその身柄を託されたという経緯を持っている。従って彼女が四年前の帝都内乱時に誘拐された子爵令嬢竹中キヨシであることも、彼女の父が満洲撤退を求めた急先鋒で、維新の元勲・最後の元老として未だ政界に強い影響力を持つ藤原公一郎公爵の寵愛篤い外務大臣政務次官竹中雅臣であることも、予め了承していた。ならばもう少し彼女の扱いを慎重にするべきだったか、と佐野などは思わないでもないのだが、元来音楽以外に興味を持たない実純である、可憐な歌声の鶯を籠の中に閉じ込めておくのは全人類に対する愚弄だと言って憚らず、いつしか彼女の歌声はレコードやラジオで満洲のみならず内地や上海租界でも流れるようになった。
 「実質三年もキヨシを野放しにしておいて、わたしなどは今更だと思うんだがね」
 「軍部がそれだけ追い詰められているということでしょう。元老の後継者と名高い竹中子爵を失脚させるには、このくらい仕掛けないと埒があかないのではありませんか」
 「誘拐犯として追われている奴の台詞じゃあるまいな、メフィストフェレス」
 佐野は口をつぐんだ。他人事を笑うように、実純は片目を眇める。
 ともあれ、崔熙善と行方不明の令嬢竹中キヨシが同一人物であることを嗅ぎ付けた日本軍は、まず彼女を擁する満洲交響楽団と代表者である実純を糾弾した。だが大雲寺実純といえば公家の名門の出自で、しかも藤原公一郎公爵の甥にあたるために迂闊な真似はできない。そこで軍部が次に目を付けたのは、楽団の最大のパトロンである満洲皇帝焼残樹だった。彼に対しては日本の満洲政策絡みで少なからぬ禍根があり、小さな火種がはじけたら本格的な戦闘も免れ得ない状況であった。
 崔熙善が捨て身で満洲を離れたことにより武力衝突は回避されたが、その結果彼女は流転の身を余儀なくされた。追われる鶯には協力者が必要で、そこで職を離れられない実純に代わり佐野が自分の本分を擲って彼女の逃避行に手を貸した。今のところ辛うじて崔熙善は追撃を逃れているが、その傍らに従う佐野は誘拐犯として指名手配を受けている。さすがの歌姫ももはや手詰まりに思われた。
 まさか歌姫が日本軍の駐留する上海に現れ、しかも上海警察すら統括する有力者夏秋二の懐に転がり込むとは、誰も予想だにしなかったに違いない。
 むっつりと押し黙る佐野を愉快そうに見遣り、実純はからかうように水を向けた。
 「まあ、あの夏秋二にどうやって取り入ったのかはなかなか興味深い。まさかキヨシが男だったというわけでもなかろう。何だメフィストフェレス、お前が身売りしたのか」
 「まさか。ちょっと目を離した隙にいなくなっていて、夏家から丁重に送り帰されてきたときには既に話が固まっていたのですよ」
 上海最大の華商、夏家総裁の秋二は当年二十六。確かに若いが、先代夏家当主の養子であった彼が跡を継いだのは、実質的に未亡人の立場であったためだと巷間で囁かれている。従って彼が今まで妻帯していないことを誰も疑問に思わなかったし、むしろ年の離れた歌姫との電撃結婚は文字通り上海中に激しい衝撃を与えた。
 だが、少なくとも崔熙善の立場に立ってみれば、この結婚は極めて有益なものと言えた。上海の暗黒部を取り仕切る夏家の内部は租界警察や各国軍すら手を出せない唯一の安全地帯で、しかも芸能界にも顔のきく夏秋二の名は歌姫にとって願ってもないはずだ。元々役者でも歌手でも男性しか支援をしないと知られていた秋二が食指を動かしたと言うだけで、崔熙善の名は一気に上海中に知れ渡る。国際都市上海での知名度が上がれば上がるほど世界中の耳目は集まり、彼女を狙う勢力は迂闊な手を打てなくなる。
 おまけに満洲皇帝相手なら喧嘩を売ることを躊躇わない日本軍も、上海の一角に駐屯する以上、夏秋二は決して敵に回したい相手ではなかった。数年前の南京政府との戦闘でも、夏家は武器や物資の補給のみならず兵士の民族意識の高揚に暗躍し、日本軍を散々にいたぶっている。表向きは政治的な色を見せないただの豪商を装っているが、一度水面下に入れば強烈な排日主義者で知られる夏家である。迂闊に刺激しては駐屯軍も無傷で済むはずがなかった。
 なるほど、抱き込めばこれほど心強い相手もいるまい。しかしそれだけに、一筋縄で行く相手でもないはずだった。まさかたった一夜の家出を見過ごしたばかりにこのような話になるなどと、さしもの佐野とて露ほどにも考えていなかった。
 佐野の渋面を笑い、実純は指先を空中で優雅に舞わせる。楽器を持たないときにまで指揮をされたのでは堪らない、といった具合で佐野はふいと顔をそむけた。
 「悪魔を出し抜くとはやるじゃあないか。お前が世話を焼く必要などないんじゃないのか。ほれ、手が空いたなら早く満洲に戻ってこい、いつまでもコンツェルトマエストロの留守を許すと思うなよ」
 佐野の細い肩に、実純はしなだれかかるように腕を載せる。その肩越しに表情を伺うと、髪で顔の半分を隠した麗人はかすかに眉根を寄せていた。
 「そう言われましても……」
 「世話焼きの上に苦労性のメフィストフェレス、要するにお前はキヨシが身売りしたようで後口が悪いんだろう。初心な悪魔め、未だに恋愛と結婚を同じものだなどと信じているんじゃあるまいな」
 ふん、と実純は挑発するように鼻を鳴らす。その途端佐野に動かれて、腕を預けた支えを失いたたらを踏んだ。佐野は白い手袋で肩を軽く叩き、微かに首を傾げるように俯いた。
 「そういうわけではありませんが、年端もいかず恋の何かも知らないうちに身を固めさせてしまうのは、さすがに不憫ではないかと」
 「この童貞悪魔が。お前、本当に色恋沙汰には青いなあ。お前が見てきた人間はよほど世間知らずばかりだったと見える」
 愁眉を微かに歪め、瞑目しながら佐野はこめかみに指先を当てた。逃げた脇息の代わりとばかりに庭木に身体を預け、実純は痛快そうに笑う。少し考え込む仕草をした後に、おもむろに口を開いた佐野は物静かに告げた。
 「……確かに、結婚はしばしば手段そのものとなっていましたが、人の心とはそう単純に括れるものでもないでしょう」
 再び実純は鼻を鳴らす。
 「青二才が知った風なことを言うな。そもそもお前、男か女かもわからんのに、恋なんてしたことあるのか」
 「その方のために死ねたならと思う相手はおりました」
 穏やかな声音に実純は肩を竦める。静かな佐野が湛える意外なほどの気性の烈しさは、今更確かめるまでもないことだった。その素性などに興味はないが、見惚れるような美貌の面を半分までも損なった経緯は惜しまれるべきだろうと実純などは常々考えている。
 それでも実純は、優雅なフロックコートの痩身を相手に、大袈裟に腕を広げて見せる。
 「だから青いと言っている。いいか、恋愛は快楽だ。手段と目的が一体になった遊戯だ。酔ったふりでしなだれながら相手を掌で転がす方法を探っていく、苦痛すら愉悦に変える麻薬じみた博打だ。古今東西結婚どころか、打算のない恋愛すらそうあるもんじゃあないさ。ゲームのルールは当事者が決めればいい、外野が口を挟むようなもんじゃない」
 身勝手な主張に呆れたのか、佐野は小さく溜息を吐いた。
 「先生の恋愛哲学をとやかく申すつもりもありませんが、身を滅ぼすのは自業自得、と仰いますか」
 おや、と実純は表情を動かした。
 佐野の危惧の理由には、実は彼にも思い当たる節がある。他ならぬキヨシの生母は、内縁の夫を失い未婚で娘を産んだ後、狂気を帯びたと伝え聞いていた。キヨシ本人すら知らぬ内緒話まで佐野が知っているとは思いもよらなかったが、この耳聡い執事ならどこからともなく聞き及んでいても不思議ではない。
 「あの子の親のことを心配しているのか? まあ見ていろ、あの子は天性の女王だ。恋も知らん悪魔なんぞに案じられるほどに、もとより零落れちゃあいないよ」
 実純は不敵に笑い、木漏れ日の彼方へ視線を送る。純白のドレスに身を包んだ少女の晴れやかな笑顔は、場の誰よりも華やかに映えた。ころころと鈴を振るような笑い声は歌姫の呼声に相応しく、はじめは怪訝そうにしていた来賓もいつしか釣られるように笑みを零していた。彼女の鮮やかな魅力は、親馬鹿とばかりは言えないだろうと実純は考えている。
 ふと、同じ方へと眼差しを向けていた佐野はぽつりと呟いた。
 「いえ、キヨシさんに心配はありません。不憫なのはアキジさんですよ」
 一度振り直り佐野の端整な横顔を眺めた後、再び実純は人垣に目をくれる。その瞬間、辺りに隙のない笑顔を振り撒いていた新郎は、不意に新婦に擦り寄られた。笑顔こそ完璧に取り繕っているものの、少女の肩に回した腕のぎこちなさを実純は見逃さなかった。
 なるほど、思えば崔熙善にとってこの上なく有益な婚礼ではあるものの、彼女の敵を全て引き受けるという意味では夏秋二に何の益もない。むしろ妻帯してしまっては梨園の名花と戯れるのにも支障になるばかりか、趣味人からの誹りも免れ得まい。元々、先代から賜った寵愛によってのし上がった養子の身の上である。信条を矯めるに相応しい弱みを握られたのではないかという噂も既に上海には飛び交いつつあった。
 実純にとっては、今まで面識もろくになかった相手である。気の毒とは思いながらもさほど同情を覚えていなかった。佐野の懸念はやや意外だったが、少し考えればなるほどあり得ない話でもないのだろう。
 頽廃の都上海を統べる夏秋二と、神出鬼没の悪魔が面識を得ていたところで、不思議なことは何一つない。
 「何だ、あっちとも知り合いか。顔の広い悪魔だ」
 「世間が狭すぎるだけのことですよ」
 吐き捨てるような佐野の言葉を、実純はさもありなんと無責任に笑った。そして怪訝そうに振り向いた佐野の腕をいきなり掴み、おもむろによろける足元で大庭へと踏み出してゆく。二人に気付いた盛装の来賓が、酒臭い息を厭うように道をあけた。二つに割れた人垣の奧、一組の新しい夫婦がこちらへと驚いたように目を向ける。
 「さあて、それじゃあそろそろやろうじゃないか。お前も悪魔のフィドルを披露してやれ、後々までの語り草になるぞ」
 「わたしもですか」
 「勿論さ、祝福してやらんつもりかこの薄情者」
 まあ、と新婦の歓声が響いた。彼女の拍手は、そのまま一座を巻き込んで揺り動かす。
 初夏の晴れやかな日差しが、隈なく庭中を照らし出す昼下がりだった。


 歌姫崔熙善に上海一の恐妻という二つ名がつくのは、この披露宴からほどなくしてのことである。


「愛によって実ったものは?」

「あたしのお手柄だもの、あたしが美味しく頂きます」