月の容(かたち)


 「むつのくの、奥床しくぞ思ほゆる」
 こつこつと神経質な靴音が執務室のアーチ天井に響く。それと裏腹な典雅な歌詠みの声に、竹中雅臣は俯いた。
 「さて、続きはどうであっただろうか」
 「……壷のいしぶみ、そとの浜風、だったかと存じます」
 「質実実直は西行法師の持ち味だが、些か素気なさすぎるだろう。歌枕の景色が見えてこん」
 わざと持って回ったような口振りに、竹中は唇を噛む。九条大臣が何のために自分を呼び出したのか、把握できていない訳ではない。決して情報屋とは言い難い雅臣も、猖獗を極める外務省庁へ出入りしている以上、その程度は弁えている。だが、何のために自分の郷里の景色を詠い始めたのか、そればかりはどうしても理解できなかった。
 公爵位を持つ九条礼文(くじょうあやのり)総理兼任外相は、最後の元老藤原公一郎公爵の後継者として長年目され続けてきた、公家の流れを継ぐ数少ない政治家であった。その毛並みの良さと明晰な弁舌で耳目を集め、気品のある身ごなしと並外れた長身で見るものを威圧する彼は、この国難に際し最も的確な舵取りとなりうることを期待されている存在であった。
 だが、と竹中は眉根を寄せる。四十代半ば――彼より僅かに年少となるこの公爵は、およそ彼の知る公家が生まれつき備えている、ともすれば愚鈍に見えるほどの鷹揚さに著しく欠けていた。確かに迅速な判断を求められる時節ではあるが、焦りは冷静な判断を阻み、真実を求める目を曇らせる。軍部が横行する状況だからこそ、それを押し止める存在として周囲から期待されているという自分の置かれた立場を、この大臣が十分理解しているようには思われない。むしろ陸軍内の同志と連携し、国家の方向を独断で決めようとする彼の姿勢は、今や文官の間で反発を集めつつあった。
 押し黙る竹中の様子を緊張とでも思ったのか、九条大臣は不意に足を止めた。三白眼気味の細い目をこちらへ向けると、考えの読めない声音で彼はぽつりと呟くように訊ねる。
 「壷のいしぶみ、とは多賀城碑のことだったか」
 「そのように伝え聞いておりますが」
 竹中は静かに答える。睨むような視線を感じながらも、彼は顔を上げなかった。ただ、またか、とだけ思う。彼に対し、諦めに似た感情を抱いたのはいつのことだったか。
 九条公爵は、竹中をひどく目の仇にしている。官員の間でもそれは有名な話で、竹中の家が戊辰の際に朝敵であったということや、もしくは九条公爵が師と仰ぐ藤原公一郎公爵の信任を長年竹中が集め続けていることなどが、概ね原因として添えられるものであった。九条家は五摂政家の筆頭を務める摂関流に連なり、代々千三百年の昔から天皇家に仕え続けてきたという自負が公爵の根底を支えるものであることから、維新の際に都へ矢を引いた朝敵を許しがたく思っている可能性は十分考えられる。また、竹中が祖父の代からの誼で藤原公爵にひどく可愛がられ、その紹介で彼の姪に当たる皇統の女性を娶っているという点も、九条公爵の自尊心を傷つけるものなのかもしれない。朝敵ゆえに爵位を落とされたはずの竹中家が、その女王との縁組によって子爵へ昇格したということも、面白くないものなのだろう。
 要するに、どれが致命傷ということはなく、全ての要因が絡み合って九条公爵は竹中雅臣をひどく敵視しているらしい。政界からの追放を目論んでいる、と善意の忠告をしてくれる知人もいたが、彼らの言葉はいつもどこか差し迫った危機感とは縁遠かった。維新の元勲藤原公爵の影が消えない限り、竹中が彼の被保護者であり続けるというその事実は、やはり誰の目から見ても余りに大きかったのだろう。
 「多賀城と言えば蝦夷を防ぐ柵だったな。千三百年の昔から、あの土地はまつろわぬ民の巣窟であったか」
 「――」
 竹中は返答に迷い言葉を飲む。明治政府へまつろわなかった祖先のことを引き合いにしているのは明らかだったが、自分の血の話をされても竹中に返す言葉はない。そもそも今彼らが直面しているのは戊辰の戦ではなく、関東軍の独断が招いた満州の緊張であり、そのためにわざわざ内紛をしているいとまはないはずだ。
 「京を去ること一千五百里、蝦夷国界を去ること一百廿里。……なるほど、それだけ都から離れれば、同じ国という意識を抱けという方が難しいかもしれないな」
 九条公爵は口髭を蓄えた口許を歪めて微笑む。多賀城碑の碑文を諳んじていることに竹中は密かに驚いたが、そう言えば書道に造詣の深い九条公爵のことである、古代の書体を残す碑文に詳しくても不思議はなかった。
 明治に生まれ東京で育った竹中は、祖地となる東北は数えるほどしか訪れたことがない。なるほど父方の実家は代々多賀城に程近い地方にあり、城址へと案内されたこともない訳ではなかったが、そこまで深々と思い入れを感じたことはなかった。碑文は確か古代の水準標のようなもので、都や主要国界からの距離と建造者の名前が記されただけの素気ないものだったように思う。
 そこまで思い出し、ふと竹中は眉根を寄せる。いや、最初に碑文を見たときに、何か不思議な驚きを覚えたような記憶がある。だが、その淡白な水準標のどこに衝撃を含む隙があるだろう。
 徐に九条公爵はゆったりと口を開いた。
 「常陸国界を去ること四百十二里、下野国界を去ること二百七十四里。同じ東国とはいえ、江戸からもそれほどまでに離れているのか。一千三百年前ですら、日本はそれほどまでに広かったのだな――まあ、今の我が国は当時と比較すべくもないほどに国土を広げ強国となったのだが」
 否、と竹中は内心で首を振る。今の日本は明らかに異常だ。国力を得るために国土を膨張させることだけを考え、東亜の繁栄を謳い文句に、古代の神話にまで典拠を求めながら、海の向こうへまで派兵する日本が行っているのは紛れもない侵略であった。その結果、日本本土に倍する面積の土地を大陸の中に確保したが、得られたものはひたすらな荒原と反日感情を膨らませる無数の民、そして国際世論からの激しい批難ばかりである。地図上の国土面積と国力は正比例するものという誤解が、この国を――この国ばかりでない、隣国及び広大なユーラシア大陸の東端を混乱に陥れているという事実に、この公家は未だ気付いていないらしい。
 なぜだろう、と竹中は目を伏せる。この雅な大臣も、かつては決して無能な人物ではなかった。その父親はきわめて熱狂的なアジア主義者であったが、現公爵本人は優れた国際感覚を評価される自由主義者だった。その点を高く買ったのがかの藤原公爵で、かなり重用された時期もあったし、竹中自身も初対面のときにはその聡明さと見識の広さに驚かされたはずだった。
 もしかしたら、その若々しい聡明さが仇となったのかもしれない。いつしか九条公爵は、目新しい理念を追い求め姑息な策ばかりを弄するようになった。元は大局を見極めた行動であったのかもしれないが、年齢と共にその視野が狭まってゆくと、次第に言動に破綻が目立ち始めた。文官の後押しを欲しがる軍部の甘言に踊らされ、自分に預けられた権限を濫用するようになり、そして遂に欧米列国への宣戦を布告してしまった。既に隠居して久しい藤原公爵は、九条公爵を遠ざけ代わりに竹中を連絡役及び代行者として用いるようになったが、それが益々九条公爵を苛立たせている。
 或いは、と竹中は思う。
 九条公爵は、若い頃から藤原公爵に憧れていたのだろう。長い武家政権の歴史の中で、政治的に無能と蔑まされ続けてきた公家の中から颯爽と現れて維新に協力し、ただ一人藩閥の権力争いから超越した元勲として君臨した藤原公爵に、規範となるべき姿を見出したのかもしれない。だがそれは、あくまで公家としての自意識に彩られ、自分を軽んじた武家に対する怨詛が根底に存在するものに他ならなかった。もうとうに失われた身分に拘泥し、そこにしか自意識の拠点を見出せないということは、当人にも周囲にも不幸なことであろう。結局彼にとって、武家でしかも賊軍の末裔である竹中が、皇統に連なる藤原公爵の寵愛を受けていることは、どうあっても理解できることではなかったらしい。
 「竹中君」
 は、と竹中は顔を上げる。見ると、九条公爵はやや険のある細面でこちらをじっと見詰めていた。口許には薄い笑みも浮かんでいない。長い沈黙に気付いた竹中は、慌てて口を開いた。
 「総理、何か」
 「多賀城碑の次のくだりを、何て読むのか君は知らないかね」
 「……は?」
 怪訝そうに眉根を寄せる竹中から視線をずらし、九条公爵は机の上のメモを一枚剥ぎ取った。そこに万年筆をさらさらと走らせると、余りにも優美な文字が浮かび上がった。
 去靺鞨国界三千里。
 ――八文字の美しい漢字に、竹中は忘れていた感触を思い出した。最初にその文字を読んだときと変わらない、それは新鮮な感動だった。
 「靺鞨国界を去ること三千里、ではないかと」
 「まつら? そう言えば大宰府の方面にそんな地方もあったか。珍しいな、普通は木の松が良いと書いて松良のはずだろう」
 思わず竹中は口許をほころばせる。過ちを笑われたと思ったのか、途端に九条公爵は気色ばんだ。だが、それを気にせず竹中は緩やかに首を振る。幼少の頃は、その不思議な字面に胸をときめかせただけだった。歴史に詳しい弟に教えられた、そのままの説明を彼は静かに語る。
 「いいえ、靺鞨は大八嶋の外側です。渤海の東北を駆ける、まつろわぬ遊牧民が築いた古代の自由国の呼称です」
 「渤海」
 驚いたように九条公爵は細い目を剥く。竹中は、余りにも偶然な古い感動との再会に、そしてその言葉が抱いていた余りの皮肉に、笑いを禁じることができなかった。
 「――そう、つまり今の満洲です」
 不意に、九条公爵は激しく声を上げて笑い始めた。もう堪えきれず、竹中も口に手を当てて笑う。笑うしかなかった。その余りの皮肉に、今は笑うしかなかった。
 「竹中君、君が閣議で切り棄てるように求めた、あの満洲か」
 「そうです、日本の手に余る、広大なあの北の大地です」
 「奇縁だな、そうとしか言えまい。これはまさに奇縁だ」
 ああ、とその声音で竹中は確信した。それを噛み締める間もなく、九条公爵は高らかに笑いながら告げる。
 「竹中雅臣君。君の父祖は千年の昔からあの土地を見詰めていたということだ」
 「父祖がどう考えていたかに興味はありませんが、古代から満洲はその土地の民のものということでしょう」
 「ああ、愉快だ。この大日本のまつろわぬ鬼門の逆賊が、あの大中国のまつろわぬ艮の蛮族と古代から通じていたとは。全くしてやられたものだ、君の造反が一千三百年も昔から約束されたなど誰が思うだろう」
 「お言葉ですが総理、これは造反ではありません。日本と彼の国のためを思えばこそ。あの土地を切り離さなければこの国は近いうちに瓦解し、彼の国は押し潰されて犠牲になります。共倒れを避けるためには、今の内に袂を分つほかありません」
 竹中の言葉を、笑いながら九条公爵は掌で押し止める。余りにも激しく笑いすぎて、言葉にもならないようだった。しばらく息を整え、それから彼はその長身を竹中に寄せる。
 「おや、君は思ったより背が高かったのだね。わたしとほとんど変わらない」
 「里は北国ですから」
 微笑んで竹中は皮肉を切り替えした。
 今まで一度足りとも、九条公爵を怖いと思ったことはない。鬱陶しいと思ったことは少なくないが、脅威を感じたことはなく、むしろ常に感じているのは憐憫の情だった。何かに怯えるように主義を転々とし、軍部に突き動かされる哀れな姿への同情だった。
 その憐憫の情すら、遂に枯渇した。何も残らないかと思ったが、そこから込み上げてくるのは震えるほどの笑いだった。滑稽さと愉快さばかりが、竹中の唇を震わせた。
 「ああ、好いことを訊くことができた。長年ずっと謎だったんだが、知っている人が誰もいなくてね。君の郷里が多賀城の向こうだと小耳に挟んで、最後にどうしても訊ねておきたかったんだ」
 「それはよかった。最後ばかりはお役に立てて、誠に光栄です」
 わざと「最後」という部分を強めて答えると、九条公爵は失笑した。そして手袋を外した右手をすっと差し出し、典雅な口振りで告げる。
 「ともあれ、長年ご苦労様。外務省官房長官は更迭となるが、君と夫人に不自由をおかけするのも本意ではない。慰労金は好きなだけ言いつけてくれたまえ、特例として無制限で認めよう」
 竹中は莞爾と微笑み、それから右手を差し出す。それを握ろうとした九条公爵の掌が、不意にぱんと乾いた音を立てた。
 内閣総理大臣兼任外務大臣九条礼文公爵の掌を振り払い、罷免された竹中雅臣子爵は踵を返す。
 二度と振り返らず、彼は二度と戻らなかった。


「この世に変わらないものがある?」

「栄枯衰勢、万物不変の理ばかりは永久に変わるまい」