戦車は先導する


 「武本大尉、貴公のご出身はどちらで?」
 自分の吐く息の白さを手持ち無沙汰に眺めていた彼は、不意に呼びかけられて、取り繕うように振り向いた。同じ配置についている兵士は、銃剣を雪の上に突いて杖のように両手を預けていた。軍帽の庇は雪と霜で白くぼやけ、表情まで何となく曖昧に見える。
 突然の反乱軍蜂起に対し、首都警備として近衛師団並びに陸軍師団が非常収集をかけられたのは未明のこと。陸軍大学校兵科にある武本は上官命令で急遽近衛師団へ編成されたが、同じ持ち場を与えられたこの男は確か、歩兵連隊に所属していたはずだ。階級は同じ大尉だが、陸大の選良でしかも近衛の連隊にある武本を相手に、兵士はやや格式ばった言葉遣いをした。
 咄嗟に返事をしそびれた武本に、兵士はやや押さえた白い息で呟いた。
 「自分は熊谷であります」
 「それなら、歩三ではないか?」
 「はい、反乱軍と同郷であります」
 昭和維新をとなえて蜂起したのは、第一師団を中心とした青年将校だと聞かされている。彼らを中心に不穏な動きがあるという噂はかねてから囁かれていたし、政府要人への襲撃事件も最近では後を立たなかったので、反乱の発生自体については不遜ながらも不思議なこととは思わなかった。折りしも第一師団の満州派遣が先日決定したばかりで、国内の維新を志向する下士官がそれに抵抗し何らかの行動に及ぶのではないか、とついこの間話題に上ったばかりだった。
 だが、この兵士が所属するという歩兵第三連隊とは、まさしく反乱の母体である第一師団に所属するものではなかったか。武本の混乱を見て取ったのか、儀杖じみた直立姿勢を崩さずに兵は語った。
 「自分は連隊長付きなので、同輩には統制派と呼ばれておりました。従って彼らにとっては志を妨げる敵になります」
 「同じ連隊内で統制派も皇道派もなかろう……」
 思わず武本は言葉を漏らす。
 今回の反乱を起こしたのは、常々皇道派と呼ばれて警戒されていた原理主義的な青年下士官だという。彼らは対立する立場にある派閥を総称して統制派と呼ぶが、その実体は現状維持を由とする保守的な士官らのことであった。確かに軍隊は人間関係が複雑な分、様々な派閥も生まれやすい土壌だとは武本自身も思うものの、同じ連隊内ですらこれほど激しく分裂しているとは予想していなかった。
 ちらちらと顔に降る雪を払いもせず、外套に大尉の肩章をつけた兵士は唇を引き結び、雪景色の官庁街を睨んでいる。武本は微かに首を振り、静かに白い言葉を吐き出した。
 「それはやりにくいだろう。反乱軍に率いられている同僚や身内もいるんじゃないのか?」
 武本が組み入れられた近衛師団は全国各地から集められた選良によって編成されており、配属が決定して初めて顔を合わせる者も少なくない。だが、歩兵連隊は出身地ごとに編成されるのが常のことだから、幼年学校からの幼馴染みや徴兵で取られた隣近所の人間が数多くいるはずだ。まして反乱を計画したのは下士官で、多くの兵士は何もわからず率いられるままに武器を取ったにすぎない。これ以上戦いづらい相手など、咄嗟には思い浮かばなかった。
 武本に話し掛けられ、兵士はじっと正面を見据えようとしたが、不意にその視線が揺れて地面に落ちた。積もったばかりの新雪が、昨夜の轍の後をすっぽりと覆い隠していた。
 「……自分も、奴らの心情がわからない訳ではありません。恐慌以来の不景気に加え、この数年はまるで天に見放されているような気がするのです。自分の実家は農家ですが、今年は桑が不作だったと聞きました。大凶作というほどのものではありませんが、この数年の気候は農村には厳しいのです。――だからといって、奴らのことを許す訳にはいきません。お国を守る使命を帯びた者が、帝都を乱すのは如何なる理由があっても許されることではありません」
 武本は痛ましげに目を細める。何か私見を述べようかと思ったが、さほど意味があることには思えなかったのでそれを飲み込んだ。反乱の一刻も早い終結は、恐らくは当事者全ての希望に違いなかった。
 その代わり、自分でも意外な言葉がふと零れ落ちた。
 「市街戦は、避けたいな」
 「武本大尉、一般市民は外出を自粛していますし、反乱軍も関係者以外には手出しをしないという声明を出しています。その点はご安心を」
 実直な人柄を伺わせる、飾りのない言葉で端的に兵士は述べた。だが、と武本は低く立ち込めた重い雲に目を向けた。
 「そうではない。自分はな、昭和七年の上海にいたんだ――」
 これまでずっと視線をずらそうとしなかった兵士が、初めて武本の方を向いた。武本も視線を合わせ、それから少しだけ眉根を寄せた。
 「別に戦闘を厭う訳じゃないんだ。本当のところ命が惜しくないとは言わんが、軍人を選んだ以上は覚悟もしているさ。ただ、市街戦は嫌だ。街は人の生きるべき場所であっても、戦うような場所ではないんだ」
 大通りに目をやると、幾つもの小さな路地が枝分かれして建物の影へ延びているのが見える。その角には小さな商店や、雪を被った生垣で囲まれた家屋敷、小さな古びた下宿宿、そして少し離れた高台には日枝神社の赤い鳥居がぼんやりと雪かすみの向こうに仄見える。
 この街並自体は少しも似ていないのに、それなのにまじまじと見ていると遠い叫び声が聞こえるような気がしてくる。街を軍服姿が横切るたび、遠い人影が二重写しに見えるような気がしてしまう。人々が息づくこの日常的な空気と、それに不似合いな軍服の対照が、四年前の光景を脳裏に鮮やかに描き出してしまう。
 「できれば、大きな衝突が起こる前に鎮圧したいものだな」
 「全くです」
 そんな事態ではない、とは二人共十分承知していたが、それでも小さく肩を竦めた彼らは顔を見合わせて微かに笑った。


「いつから顧みなくなった?」

「思い出したくない記憶に囚われてしまったときから」