逆しまな死


 明日、ウディンカが嫁いでいく。
 親を知らないデルスにとって、この十三の年まで養い育ててくれた彼女はまさしく母とも慕うべき女だった。美しく気高く勇敢で優しい、凡そナナイの美徳とするものを全てその身に備えた女だった。親兄弟を失って世を拗ねた幼児を拾い上げ、ナナイの男として最も誇るべき確かな腕を持つ狩人に育て上げてくれた女だった。
 デルスは弓は好きだったが、重いライフルは苦手だった。反動に耐え切れずいつも狙いから反れてしまう連射ライフルは嫌いだったが、ウディンカに命じられて渋々使わされた。弓よりも遠い獲物を狙えるというのがウディンカの主張だったが、馬がいなくては遠い獲物を拾うのも楽ではない、とデルスは常々考えていた。寒い冬が続いたので馬は全て食ってしまったから、狩りはいつも徒歩だった。そして狙いの狂いやすいライフルで獲られる獲物は、ごく稀にしか姿を見せないクマやヘラジカのような大きな動物に限られたから、肉を切り分けて持ち帰って再び獲物に戻ったときにはいつも山犬に喰い散らかされてしまっていた。
 だから、デルスはヘラジカよりも人間を狩った数の方が遥かに多かった。人間は上手く急所を狙わなくても、頭か腹に当ればほぼ確実に死んだ。そしてヘラジカよりも圧倒的に数が多かった。だから人間を狩るのはとても楽だった。
 去年死んだ古老の爺に言わせると、人間がこんなに増えたのはデルスが生まれた頃からだという。その頃から周りの国で戦が始まり、戦線上に横たわるこの茫漠とした草原が戦場になったため、人間が集まるようになったらしい。要するに人間たちは兵士で、互いに殺しあうためにわざわざ何もない草原を訪れるらしいが、なぜそんな愚かなことをするのかデルスが尋ねる前に、古老の爺は飢えて草の根を齧りながら死んだ。
 兵士が死ぬのは構わない。ナナイの知らぬところで勝手に戦って勝手に死んでゆくのは彼らの自由だ。しかし草原や河の上に見えない境界線を引き、狩猟や漁に出ることすら咎められるのは堪らなかった。その上彼らは、ナナイを見つけると様々なものを奪った。ただでさえ狩猟の制限で食料が乏しいにも関わらず、冬に備えて蓄えた乾し肉や、寒さを凌ぐために獣から譲り受けた毛皮や、住み心地のよい家と秋のうちに焼いた炭や、それから美しい娘たちを悉く奪おうとした。
 誇り高きナナイの女の操は固い。女はみな顔を汚し服を汚し、それでも奪われそうになれば迷わず死を選んだ。やってきた兵士たちは未婚も既婚も見境がなかったから、略奪されそうになって命を絶った若い母親も少なくなかった。厳しい気候の中で、母を失った乳飲み子も養い親と出会う前にほとんどが死んでいった。女が死ねば子供は生まれなくなるから、ナナイの男は兵士たちに歯向かい、そして悉く殺された。なけなしの食料と薪すら奪い取られたナナイは飢えと寒さで目に見えて数を減らしていった。
 美しいウディンカを護るために、デルスは兵士を撃った。ナナイの男はみな女を護るために兵士を殺した。男は夏がくると狩りのために集団で旅路につくならわしだったが、その群れに女を混ぜて放浪する者もいた。デルスもウディンカを連れて旅を続け、数の少ない兵士と遭遇すれば迷わず殺し、兵士が隊列を組んでいれば見つからないように身を隠した。食料も毛皮も少なく険しい旅の中で、弱い者は次々と死んだ。子供もほとんど育たず、デルスよりも若い者は遂に絶えた。
 旅を続ける足のない老人たちは、幼児を抱えて定住することを選んだが、肉や魚を届けに行くたびに目に見えてその数は減っていった。兵士たちは食料や住居だけでなく、民も時折奪ってゆくのだと老人は語った。僅かな銀の粒を老人に押し付けて、その引き換えに攫われる子供たちは二度と帰ってこないとも。きっと兵士たちは子供を食らっているに違いない、と泣き叫ぶ老婆の声は今も耳に残っている。
 ナナイの血を残すための縁組は、誰にとっても切実な問題だった。デルスのように群れで流れる民も、老人たちのように村に残る民も、どちらも残る数は決して多くなかった。特に女がいないのは切実で、ただでさえ生まれた子供が育ちにくいにも関わらず、その子供を産む女の数も足りないということは、ナナイにとって存続のかかった問題だった。
 美しいウディンカは、しかし言い寄る男を悉く袖にしていた。幼いデルスを抱えて苦労を重ねてきた彼女も、結婚してしまえば楽になるだろうと周囲は見ていたのだが、彼女はそれを拒み通した。多分、かつてシャマンとしての修行を積んだ過去が男を受け入れることを許さなかったのだろう。村が栄えていた頃は、ウディンカはよく預言を行う優れたシャマンだった。シャマンは霊力を保つため生涯独身を保つもので、幼い頃からウディンカもまた結婚は拒むべきものと教えられて育ってきたのだ。
 デルスはウディンカのその態度を好ましく思っていた。預言を行うシャマンとして結婚しないよう命じておきながら、後になってナナイの血を残すために結婚しろと言い出すのは、身勝手としか言いようがないと感じていた。また、嫁げば別の男のものになってしまうウディンカも、独身を保つ限り自分のもとにいてくれるのが大きかった。乳離れができていない、と揶揄されることもあったが、それでもデルスはウディンカから離れたくなかった。彼女の扶育が必要な年はとうに越えていたが、ウディンカと共にあることはデルスにとってごく自然なことだと信じていた。
 それなのに――そうなるためにはきわめて必然的な理由があったのだが、それでもデルスにとっては信じ難いことに――ウディンカは遂に嫁ぐことを決めてしまった。デルスは泣いた。泣きながら自分の無力を悔いた。
 長い旅路の中で、ウディンカはいつの間にか胸を病んでいた。一番傍にいたはずのデルスは、その緩やかな病の進行に気付かなかった。半年振りに戻った村の老婆に指摘されて、はじめてそれを知り愕然とした。それを隠し続けたウディンカが恨めしく、気付かなかった自分が憎かった。
 おしなべて病というものは、早かれ遅かれ命を奪うものだった。かつては薬や静養で完治した病も、この何もかもが欠乏したナナイにあっては、一度とりついた人体から二度と離れるものではなかった。病に冒された人はほつれた糸のようなもので、近いうちにその身をすり減らし、限界を迎えた瞬間にほつれた場所からぷつりと切れてしまう。特に旅にある病人の余命は短い。乾いた咳をするウディンカの痩せた背中を擦りながら、デルスは旅路を離れて村へ戻ることを決めた。
 そしてウディンカもまた、自分の命と向き合って大きな賭けに出ることを選んだ。早かれ遅かれ避けられぬ死を前に、自分の血を残しうるかもしれない道を選んだのだった。嫁ぎ先は、自分と同じ死の病に冒され村へ戻された若い男。徒に血を残さず死ぬよりは、もしかしたら生まれ得るかもしれない自分の子供に全てを託すことに彼女は決めたのだった。それはある意味で、誇り高いナナイの女ウディンカにひどく似つかわしい姿だった。
 ――激しく哭き叫ぶ空の下、夜明けと共にウディンカは嫁いでいく。
 男であるデルスは、もう嫁入の決まったウディンカに触れることはできない。古老から譲り受けた古い婚礼装束を夜なべして繕う彼女の傍に、寄り添うことはできない。
 だからデルスは狩りに出た。婚礼の場に相応しい獲物を、せめて最後に美しい最愛の女に奉げるために。


 晩秋の風は冷たく、時折興安嶺の頂から冷たい氷の欠片が降り注いでくる。夜空には大きな月が掛かっているが、吹き散らされた雲の欠片でゆらゆらと輪郭が覚束ない。潅木の茂みに身を預けながら、デルスは鮭皮の長靴を踏み締める。霜の降りた枯草がしゃりしゃりと微かな音を立て、それがひどく耳に障った。
 明朝から婚礼が始まるから、未明には村へ戻らなくてはならない。出立したのは五日前だからもう帰路に向いてはいるが、まだ満足の行く獲物は得られていなかった。婚礼の祭壇を飾る獲物は、できるだけ豪奢なものこそウディンカには相応しい。しかしナナイにとってのこの数年の受難は獣たちにとってもさほど変わるものではないらしく、角の立派なヘラジカはもう滅多に見かけなくなっていた。
 忘れた頃に姿を見せるのはウサギとそれを追うキツネくらいだが、小さな動物をライフルで撃つと毛皮の傷みが目立つので、デルスにとって余り望ましい獲物ではなかった。潅木を削って作った弓矢で銀ねずの毛皮を持つキツネは捕らえたが、傷を見れば武器は一目で知れてしまう。ウディンカへの奉げ物は、彼女が望んだライフルで仕留めたかった。
 彼女がライフルに拘ったのは、デルスを思ってのことだろう。弓矢でも人は殺せるが、兵士の隊列を殲滅しようとすれば矢を番える時間は命取りになる。迷わず殺しなさい、といつもウディンカは言った。食うために獣を狩るように、殺されないために彼らを狩りなさい、と。あなたが死ねば悲しむわたしのために、彼らを殺して生きなさい、と。
 思えばシャマンとしてはあるまじき言葉だろう。狩られ死んだ獣を哀れ悼み、その魂を慰めて、再び食料となって民に豊穣をもたらしてくれるように祈り祀るのがシャマンの務めだ。狩られる獲物への追慕を忘れろなどと、シャマンが語ってよいはずがない。だが、ウディンカの言いつけを忘れなかったために、デルスは今まで生きてきた。身を隠すもののない草原の只中で土色の軍服を纏った男たちに囲まれたときも、ただ独り生きて帰ることができた。もしも神に意思があるのなら、デルスは他の多くのように、とうに死ぬべき捨て置くべき子供だったはずだ。
 神が見捨てた自分の命を、拾ってくれたのはウディンカだ。だから彼女の言いつけは全て守る。彼女のためなら何だってする。
 だから――彼女へ奉げる十分な獲物が見つからず、デルスは苛立った。
 風が強い夜だった。今は月が照らしているが、明日の気候はわからない。もしかしたら雨になるかもしれないが、冷え込む夜更けはウディンカが苦しがる。せめて初夜の間だけでも穏やかな天候がもてばよいのに、とデルスは天を仰いだ。滲む月は雨の予兆だから、月が滲まないように固く瞬き、それから彼は袖で顔を拭った。
 ふと下ろした視線の先に、何か大きな影が見えた。踏み止まったデルスは足跡を殺すため、わざと緩くぬかるんだ土に長靴を突っ込む。月明かりに照らされた潅木に、何か巨大な獣の影が浮かび上がっていた。大きさで言えばヘラジカだろうか、枝のせいで角の有無はよくわからないが、あるとしても決して大きくはないだろう。老いれば老いるほど鹿の角は大きくなるから、まだ若い獣なのかもしれない。
 雌だろうか、とデルスは危ぶむ。この季節の雌は、まだ子供を孕んでいることがある。薬にする以外で孕んだ獣を殺してはならぬ、というのは狩人の掟だ。だが、と彼は月明かりに目を凝らす。かなり遠いのでよくは見えないが、身体つきは雄雄しくがっしりとしており、腹の辺りに目立つ影はない。禁忌に触れる可能性は決して高くはない。ならば禁を犯す危険を冒しても、ウディンカへの獲物は獲難かった。
 目測を定め、デルスはライフルを身構える。彼より大きなその獣を、どうやって持ち帰ればよいのかは、捕らえてから考えることにした。場合によっては首だけでも、足だけでも、と思いながら照準を合わせた。狩りをするときいつもそうするように、あらゆることを脳裏から追い出して引鉄を引いた。
 夜空に銃声が遥々と響いた。硝煙の臭いがデルスを包んだ。
 弾かれたように遠い潅木の茂みから、獣が飛び出してゆくのが見えた。遮るものがなくなったその影は、見まごうはずもない、余りにも巨大な一頭の馬だった。その姿に呆然とデルスは意気を呑まれた。獲物を外したことを悔むのも、一瞬忘れた。
 彼が我に帰ったのは、どさりと遠い微かな音が耳に響いたからだった。潅木の茂みを薙ぎ倒す音が遅れて響いたが、視線を戻してもその正体はよく見えなかった。馬はまだ潅木の脇をうろうろしていたが、デルスは確かめるために躊躇せず足を向ける。しばらく興奮した声を上げていた馬も、デルスが近寄るとやがて振り返りながら遠ざかっていった。
 「……ああ」
 潅木を掻き分け、デルスは小さな声を上げる。なるほど、そこには一人の男が倒れていた。あの馬に添っていたか乗っていたか、代わりに銃弾を受けてしまったのだろう。枯れた枝の影と黒っぽい服装で見分けづらかったが、触れてみると胸から腹にかけてがじっとりと重い感触の液体で濡れていた。助かる傷ではない。
 自分の危機と関わらない男を撃ったことに後口の悪さを覚え、デルスはその男を茂みから担ぎ出す。そして月明かりに透ける髪の毛の、鮮やかな赤さに驚いた。服装は兵士たちの着る軍服に少し似ていたが、色にも形にも覚えがない。黒髪ではないから中国や日本の兵士ではないだろうが、そういえば北のオロスの兵士は赤い髪をひどく嫌うはずで、だとすればいよいよ正体がわからない。蒼白な顔は彫りが深くさほどの歳にも見えなかったが、見慣れない顔立ちなので年齢を推し量ることは難しかった。
 草の上に横たえると、苦しげにうめき男は何か呟く。響きは中国語のようだったが、デルスのよくわからない言葉だった。ウディンカは様々な言葉に堪能なのできっとこの男とも話ができるだろうが、デルスが覚えた言葉はほんの僅かだった。発音の一つ一つも、ひどくたどたどしく響く。
 「すまん、わからない」
 「ああ、そうか」
 ようやくデルスのわかる語彙を男は呟いた。そして不意にその目を開いてデルスを見上げる。ウディンカの持っている瑪瑙のような色だ、と思いながら見ていると、男は不意に目を細めた。それが笑顔なのだと咄嗟にわからず、デルスは面食らう。
 「どうした」
 「驚いた、お前笑った」
 知っている僅かな単語を繋いで答えると、男はますます愉快そうな顔をした。何か言おうと口を開いた瞬間、音を立てて血が溢れた。
 止めをさした方が男のためだろうか、と逡巡していると、彼はふと手を差し伸べた。血塗れた手袋を剥がし拾い上げたその手は冷たく、そして驚くほど固かった。長年鋼を握り続けてきた男の持つ手だった。
 「お前は英雄だ。英雄、わかるか?」
 面食らって、デルスは目を見開く。それからようやく頷いた。デルスの知らない言葉を教えるため、昔ウディンカはよく知っている昔話を違う言葉で語り聞かせてくれたが、そのときに強く印象に残った言葉だった。
 「モルゲンだ。――強い、男?」
 「そうだ、お前はとても強い。そして難しいことをやりとげた」
 男の言いたいことがわからず首を傾げ、それからデルスは眉をしかめて笑った。こんなにも呆気なく撃たれた男が、自分を讃えるのがひどく不思議なことに思えた。
 男はデルスの顔を見て、嬉しそうに微笑む。もしかして父親とはこういう人間なのだろうか、とぼんやりとデルスは思った。
 「――が、これで終わる。いいか、お前が終わらせたんだ。もう――はない」
 わからない単語があったので、デルスは再び首を傾げる。男は少し考え込み、それから血と一緒に短い言葉を吐き出した。
 「誰も攻めてこなくなるぞ」
 「本当か?」
 デルスが答えると、男は嬉しそうに笑った。
 「苦労、しただろう。――はひどかった、お前たちには、悪いことをした」
 労わるような言葉に、デルスは目を丸くする。殺されていく男はいつでも、恨めしげに呪いの言葉を吐き棄てていくものだった。この男はどうして、こんなにも嬉しそうなのだろう。
 「ああ、よかった。これで全て終わる」
 「よかった? 死ぬのに?」
 「ああ。おれはずっと、この場所を――していた」
 言葉の意味は正確にはわからなかったが、きっと死に場所を探していたというような意味だろう。男の晴れやかな声音が、なぜかひどく苦しかった。
 「何か、ないのか?」
 「どういう意味だ?」
 十分な言葉がわからないのがもどかしかった。デルスは懸命に頭を捻り、ウディンカに学んだ言葉を思い出して繋いでいく。
 「死ぬのに、何か、ないのか?」
 「ああ――ああ、なるほど、わかった」
 男は笑いながら血を吐く。彼の言い残したいことを聞いても意味がわかるか自信はなかったが、せめて最後の言葉につきあうくらいはこの男への礼儀だと思った。
 男は少し考えるように目を伏せた。そのまま目を開かないのではないかと思ったが、やがて瞼を押し上げて瑪瑙の赤い瞳でデルスを射止めながら、彼は呟いた。
 「オレを――してくれ」
 「……?」
 ウディンカがこの場にいればいいのに、と思った。彼女ならきっと一つ残らずこの男の言葉を聞き取ってくれるはずなのに。
 もどかしげなデルスに、男は一度頷いて言い直した。
 「オレを、ここに。こう、わかるか?」
 男は冷たい手でデルスの腕を掴み、それから自分の身体の横に落とすと、もがくように指先で土を掻いた。ああ、とデルスは声を上げ、それからライフルの銃身についている銃剣で土を掘った。その土片を男に掛ける仕草をして見せると、彼は満足そうに頷く。ここに埋葬してほしいと、そう言ったのだろう。
 「それだけか?」
 「ああ、ありがとう」
 男は頷き、徐に自分の懐を探った。差し出された震える腕を支え、見るとその指は拳銃を掴んでいた。草原を走る馬賊が持つモーゼル銃とは異なる、獣骨の飾りがついた優美な形の銃だった。
 「これは――から、お前にやろう」
 「どうして」
 「お前が英雄だからだ」
 デルタは怪訝そうな顔をしたが、それを受け取ると男はほっとしたように息を吐き、そしてその真紅の眼差しで空を見上げた。中空の満月を追う瞳がどうしてこんなに輝くのか、デルスには不思議だった。
 「――シュエ」
 デルスは瞬く。どういう意味か訊ねようかと思ったが、無粋なので止めにした。
 その声音で何となくわかった。それはきっと、女の名前だ。
 頬に冷たい感触を覚え、デルスは顔を上げる。見上げると、月明かりに照らされて無数の氷の欠片がちらちらと舞い降りていた。冷たい炎のようなそれをしばし見送り、それから見下ろすと、男はまだ瑪瑙の瞳で空を仰いでいた。
 少し迷ったが、それが男の望みだと思うことにした。目を開けたまま息絶えた男を、そのままデルスは土に埋めた。
 大柄な男が完全に土に隠れる頃には、月はもう西へ向けて傾いていた。振り向いた東の空の彼方に、微かな黎明の兆しが見えた。遠くで燃える野火のような仄かな明かりが、空を薄紫に染め始める。
 ふと、デルスは男の形見となった拳銃に目を向けた。弾倉を開くと、一発だけ銃弾が残っている。ライフルを片身に持たせかけたまま、彼はふと拳銃を構えた。何を狙おうか少し迷い、それから西の中空へ真っ直ぐに腕を伸ばした。ライフルでもたまに行う、投げ打ちの姿勢だ。
 ライフルほどの衝撃はなく、美しい銃の最後の一発は撃ち放たれた。これならば手許でぶれることもなく、銃弾は真っ直ぐに月を撃ち抜くだろう。
 ウディンカの婚礼に、それは何より相応しい奉げ物となるはずだ。


「終わりか始まりか」

「ただの始まりの終わりだ」