魔術師の謀(はかりごと)


 翰林院大学士斐荼威が元は南蛮の出身であることを、文武百官に知らぬ者はない。
 官僚としてそれなりに実績を積んでいるものならば、皇帝の側近として寵用されてきた彼が還暦の祝いに正一品の冠と内閣大学士の称号を賜ったときの悶着を記憶しているに違いない。夷狄との批判を跳ね除けて彼がその地位を得たのは、ひとえに彼ほどの学識を持つ学者がいなかったからに他ならない。正確な官話を話し、儒学のみならずあらゆる学問に精通し、歴代稀に見る科挙の名問題を作成した彼を最高学府の長官にすることに、最も賛同を示したのは他ならぬ翰林院の官僚だった。
 京師の古老と呼ばれる者であれば、もしかしたら耶蘇会の宣教師が大々的にやってきたときのことを覚えているかもしれない。熱那亜という南蛮の土地から訪れた胡服の一行は京師の市井の耳目を集め、やがて皇帝の歓心を引き宮城へ招かれた。だが、一人また一人と櫛の歯が欠けるように宣教師は帰国し、またごく一部は技能を買われて職人として重用され、京師に店舗を構えることを許された。本来彼らが何の目的でこの国の土地を踏んだのか、正確に知っているものはごく稀だろう。
 市井に紛れた元宣教師を名乗る夷狄の職匠から、彼らがなぜ特殊な技能を身に付けているのか訊いたことがある者ももしかしたらいるかもしれない。自らの信仰を伝道するために遠い異国の土を踏んだ彼らは、その土地で疎まれることがないように、必ずや有益となる技術を身につけるよう訓練されたという。異文化社会で相容れない信仰を掲げることは、場合によっては命に関わる。だが身につけた技能の価値を理解させることは、信仰の教義を納得させることより遥かに容易い。そのため宣教師の多くは死に物狂いで技能を身に着け、皮肉にもその技能で劣る者だけがこの国で必要とされず本国へ送還されることになったのだという。もっとも、職工の多くが市井に同化した今となっては、それを知る者はごく稀だろう。
 しかし、斐荼威にまつわる噂を耳にしたことがある者は、おそらく決して少なくはないはずだ。彼が皇帝に寵愛された最大の理由はその勉学ではなく、彼の持つ特殊な技術にあるという、いわばありがちな風説である。
 そしてその技術は、――ますますありがちな話だが――特殊な西洋の卜占であるという。


 「師父、その牌は?」
 軽く手元を覗き込もうとする青年に、老いた士大夫はひらりと掌を翻した。古ぼけた彩色画は、つばの広い帽子を目深に被り杖を掲げる人物像だった。掠れて男か女かも判別できないが、何か物を載せた卓を前にしていることだけは辛うじてわかる。
 「道士とでもいえばわかりいいかのう。創造、意思、外交、熟練、巧妙を意味する」
 「まるで師父のようですね」
 青年は表情を崩して優雅に微笑む。くつろいだ襖の肩に緩く髪を下ろし、椅子に片腕を預けて卓上を眺める仕草はまるで碁でも打っているかのようだった。冷えやすい体質なのか、手元に置いた茶碗で時折温める指先は少女のように細い。指先だけでなく、なで肩の身体つきも優しげな面差しも、やや女性的ともいえるほど華奢だった。
 向かい合う老人は、年齢を感じさせないほど長身をぴんと伸ばし、豪奢な縫い取りのある黼服を見事に着こなしている。やや緩く巻いた髪と口許を覆う髭はもはや純白だが、深い皺に覆われた目は余りにも鮮やかな石青色だった。神仙のように人間離れした容貌の老人は、にやりと笑って卓上に牌を広げながら、物柔らかに語った。
 「しかし、そうしておられるとお父上に似てこられたな。お父上にも、迷われることがあるたびに塔羅を広げて欲しいとよくせがまれたものだよ」
 「父子二代揃って、不出来な門下でお恥ずかしい」
 「いやいや、頼られるのは決して疎ましいことではないのでな」
 この青年が生まれたときを、老人は知っている。青年の父にこの子の将来を観て欲しいと頼まれ、ひどく言葉を選ばざるを得なかったことも老人は昨日のことのようによく覚えている。老人より遥かに若かったその父はもう亡く、その地位を引き継いだ子供は老人の危惧とは裏腹に聡明な青年に育った。穏やかで人との諍いを好まぬ、優しい大人になった。
 だが、その気質が決して彼にとって幸運をもたらすものではないことは誰の目にも明らかだった。数年来の作物の不作がために国内外の擾乱は絶えず、その鎮圧に当たる官僚が各々勢力を伸ばして互いにしのぎを削りあい、その全てが彼の不徳によるものだと糾弾される。そして一言の弁明も許されず、ただよろずの民草に詫び続ける青年の姿は、余りにも無力で哀れだった。
 それでも、彼は一度たりとも卜占で政策を定めたことはない。迷いあぐね考え尽くした挙句、搾り出すように選び出した策の可否を問うために老人の元を訪れる。凶と出ればどれほど悩んだ案件でも迷わず棄てるその態度を、老人は短慮というより潔さだと思っていた。
 「安心なされよ。そのまま推し進めても大きな実りがある。但し多少の逆風に挫けぬ気構えが必要だ。いざとなれば搦手を使って道を抉じ開けるくらいで挑まねばならぬ」
 「ありがとうございます」
 ほっとしたように青年は肩を落とした。卓上を見渡し、老人は不思議そうに一枚の牌を拾い上げる。
 「しかし今回は、どんな懸案だったんだね。随分と迷いがあったようだが」
 拾い上げた牌に描かれていたのは、椅子に腰を下ろした女帝の姿だった。杖と鷲を抱いたその姿は、稚拙な絵柄にも関わらず威厳に溢れていた。
 青年は少し俯いて考える仕草をし、それから徐に顔を上げた。
 「妃を、もう一人迎えようかと」
 「妃?」
 さすがに予想外だったので、老人は訊ね返した。躊躇うように青年はおずおずと呟く。
 「もう妃達がわたしの手に余っているのは承知の上なのですが――師父は、施甸祥の事件は覚えておいでですか」
 「ああ」
 老人は得心して頷いた。二年ほど前の謀叛未遂事件で、当時はそれなりに騒がれたはずだが、いつしか日々の中に埋没してしまっていた。それだけ世が平穏と程遠かったともいえるし、事件の関係者がそれを一刻も早く忘れたがっていた証左でもあろう。ともあれ、主犯として処刑された官員の無罪を最後まで信じて懊悩していたのが他ならぬ目前の青年であったことだけは、老人は生涯忘れられぬだろう。
 「あれは不幸な事件だった。一族諸共絞首となった施家は哀れだが、あそこまで見事に足元を掬われては誰も庇いようがなかったろう、お前様も早く忘れなさい」
 「いえ、忘れるわけには参りません。それを如何ともできなかったのは、わたしの不明です」
 穏やかだが、有無を言わさない声音で青年は答えた。そして、そのままの決然とした口調で彼は続ける。
 「その施家の息女が、実は一人逃亡していました。先日その身柄が拘束されたのです」
 「お待ちなさい。もしかしてと思うが」
 老人は指の長い掌で青年を制する。だが青年は深く一度頷いて、はっきりと答えた。
 「はい。彼女の意思を問い、同意が得られるなら妃に迎えることに致します」
 顔中の皺を広げて碧眼を大きく見開いた後、老人は呆れたように呟いた。
 「……寝首を掻かれたらどうするつもりだね」
 「どうしようかと思っていましたが、師父の占いではそうはならない模様」
 唖然とする老人の顔を、優しげな青年は真っ直ぐに見詰めていた。迷いあぐね、手持ち無沙汰に髭を玩びながらようやく老人は次の言葉を探す。
 「あの事件に関しては、疚しい官吏がごまんといるだろうに。彼らが黙っているとは思えないが」
 「はい。そこで先日帰還させた官に諮問を行いましたところ、やはり処刑するのは忍びないとの意見を得ました」
 「まさか天津総督の杜淕ではないかね。奴はいかんぞ、元々やたらと甘い上に、長男が生まれたばかりとかで頭に羽が生えている」
 「子供ができて幸せなのは何も彼ばかりではありますまい」
 嫣然とも言えるほど優雅な笑みを見せた後、青年は不意に表情を引き締めた。それがやけに頼もしげに見えるのは、多分幼少時から見知っているが故の贔屓目だろう。
 「……陛下、もしそれでは凶の卦が出ていたら、どうなさるおつもりだったのですか」
 意地の悪い質問だとは思う。だが、一族諸共処断された罪人の娘への対応の選択肢はごく少ない。確かにこの国には、古代は女囚を後宮に入れるという慣例も存在したという。だが、現行の法規に照らせば時効を迎えていない以上、娘に下される処分はやはり一つだろう。
 青年は困ったように眉根を寄せて微笑む。それは、多分彼が普段一番よく見せるものだった。
 「どうしましょう。間違って逃がしてしまった、というのは駄目でしょうかね」
 さすがに呆れて老人は青年を眺める。だが、出なかった卦をとやかく言うことが無為だということは、他ならぬ彼が一番よく知っていた。
 「娘にふられたら格好がつかんぞ」
 「それが一番不安なのですが……まさか、そこを占ってもらうわけには参りませんよね」
 「わかってるじゃあないか。わたしは女心だけは占わん」
 真面目くさってそう告げる老人に、青年はくすくすと笑う。しばらく拗ねたように腕を組んだ後、思い出したように牌を拾い上げながら老人は笑った。


 ――卜占が、昔は大嫌いだった。
 母は占術の名手だったというが、時の権力者に虚飾のない卦を告げたために、磔刑にされて燃やされた。彼女については火柱となった姿と、それから木牌を並べるささくれた指先の記憶しかない。
 教会に引き取られ、遠い異郷に旅立つことだけを夢見て宣教師を志した。遠い東洋への出立が決まり、その前にはじめて名前しか知らなかった父の元を尋ねた。はじめてみる父の――そしてろくに言葉も交わさず別れた彼の姿は、母の形見の塔羅牌の一枚目、陰鬱な魔術師と恐ろしいほどよく似ていた。
 およそ俗麗凌亂たるあらゆる学才を身につけて彼は東洋の地を踏んだ。学術美術音楽芸術工芸、何を求められても彼はすぐさま差し出すことができた。知識の更新がままならないとわかっていたため、はじめから異郷の学問にも打ち込んだ。語学と古典と哲学を重視する異郷の学術体系に古の希臘を想起しながら、彼は当代一流の学者を目指した。受験資格をもたないと知りながら、官吏登用試験たる科挙に素性を偽って挑んだこともあった――それは途中で正体を見顕されて、結局成し遂げることはできなかったのだけれども。多分自らの宗教を伝道するより、この国の文化に染まることの方が、自分の為すべき使命のように思っていた気がする。
 その日々の中でなぜ卜占を披露することになったのか、実は彼自身よくわからない。怪力乱神を語らないはずの君子を目指していた彼が、なぜか木牌を手繰っていたときには、思わず愕然としたものだった。固く封印しているつもりだったのに、と衝撃を受けて、実は強く己を縛めておかなければ離れられないものだったのだと悟り、再び衝撃を受けた。権力者の元で卜占を行う以上、いつか母のように無惨な最期を遂げるのだと覚悟していた。
 それがいつの間にか、この地位にある。若い頃に渇望したこの国で――欧羅巴が古代に忘れ去った文化を抱く東洋の大国で当代一となる学者と認められている。その間に権力者は三人代わったが、彼らの信任はいよいよ篤いものとなり、殺されることもなく彼はこの年まで永らえた。
 その理由を考え、そして再び卜占が嫌いになった。
 ――母から譲り受けた占術の才は、他の何よりも確かなものだった。彼が牌を手繰るとき、人はほとんど運命を手繰るのを見るのと同じ眼差しを向けた。その卦は運命と同じでまさしく度し難く、荒唐無稽で、しかも余りにも確実だった。
 そして何より驚くべきことに、多分彼を寵用した権力者は、それに逆らうことを能としなかった。どれほど凶を示す卦が出ようとも、彼らは決して激することがなかった。
 多分彼らは怒りに任せて占術師を殺すことの無意味さを、誰よりもよくわかっていたのだと思う。それは個人の資質に左右される問題で、東洋人全般がそうであるとは到底思わないが、それでも故郷にいた頃には想像もつかなかった広大な土地とその度量の広さはどこか似通っている気がした。この地上の統治を神から委任されたと自負する、権力者の矜持を彼はそこに見た思いがした。
 やがて彼自身、敢えて凶の卦を告げることがなくなっていった。諂おうとしたわけではない、ただ自らに課せられた運命に逆らう術を知らず、目前に示された全てを黙って受け止める彼らに同情を覚えたのだった。凶卦の中にも光明を探し、語るのならば祝福を、そういつしか彼は自分自身を律していった。自然卜占の精度は落ちたが、代わりに得たものの方が遥かに多いだろう。
 「――師父」
 ふと茶碗を取りかけたときに呼び止められ、彼は顔を上げた。
 茶碗を掌で包んだ青年の眼差しには、親しみの色ばかりが浮かんでいる。幼いときから変わらない、柔らかく穏やかな色だった。
 「師父はわたしが生まれたときにも、占って下さったのですよね」
 「ああ。気が大人しくて他人に振り回され苦労ばかりするが、人を責めず優しい人物になるだろうとね。当たっているだろう?」
 「およそ皇帝というものに向きませんね」
 「まったくだ」
 彼は苦笑した。彼の卜占は基本的に当たるものだが、当たらずともよいと願うことまで当たってしまうことには全く閉口する。最初にその卦を出したときには思わずどう告げたものか迷ったが、蓋を開けてみれば皇帝という点さえ除けばこの上ない好青年に育ってくれた。問題はその唯一の欠点が、最もどうしようもないところであることぐらいだろうか。
 ――本当は青年にも、青年の父にも告げなかった部分がある。それは今もこの先も永劫に告げるつもりはないし、そういう卦は今までも腐るほどある。
 それを知ってか知らずか、青年は表情を伺うように軽く首を傾げた。
 「師父、わたしの子供が生まれたら、そのときにも占って頂けますか?」
 「それを知ってどうするのだね?」
 父親には訊ねるのを忘れていたが、ずっと訊いてみたい問いだった。意地悪いかと思ったが、青年はこともなげに応えた。
 「だって、師父は嘘は仰らないけれど、悪いようにも仰らないですから」
 「なるほど」
 ――やはり卜占は嫌いだ、と思った。孫ほど年の離れたこの主君の運命を、予め知ってしまっていることはどうしても疎ましい。多分自分が最期を看取ることになる主君の笑顔を眺めながら、斐荼威――ヴァレンティーノ・フェッラーリ=トレカーテは、その碧眼を細めて頷いた。
 「そうあらばお任せを。この名にかけて必ずやその生涯を照らし出してみせましょう」


「その手に掌握したものは?」

「こぼれ落ちそうなほどの幸福かねえ。時々こぼれるのはご愛嬌さ」。