女教皇の原罪


 「じゅうごえんえんごじゅっせん?」
 小さな少女がすらすらと訊き返すと、身を乗り出すように取り囲んでいた子供達が一斉に安堵にほんの少し落胆を混ぜた表情を見せた。
 「なぁんだ」
 「ほら、違うじゃない」
 「ほらって何だよ、お前だって間違いないって言ってたじゃないか」
 各々の感想を述べる子供達を見上げ、一際幼い少女は稚けなく小首を傾げた。鹿の子を結んだ髪が頬に零れてさらさら揺れる。
 「じゅうごえんごじゅっせんって、なぁに?」
 ふと子供達の一人、一際身体の大きな男の子が鳥打帽を押し上げて、真面目な顔で向き直る。彼女の質問には答えず、新しい言葉を提示した。
 「んじゃ、次はザジズゼゾ、だ」
 「ざじずぜぞ?」
 こともなげに発音してみせた少女を前に、彼は溜息を吐いた。そうして隣に立つ、やや年かさの女の子に肘を小突かれる。
 「誰よ、キヨちゃんに変な噂流したの。大体キヨちゃんはおひい様なんだから、そんなはずないじゃないの」
 「だからぁ、オレだっていきなり信じた訳じゃないだろ。ちゃんとこうやって……」
 「じゅうごえんごじゅっせんじゅうごえんごじゅっせんじゅうごえんごじゅっせん」
 やや舌足らずな口調ではあるが淀みない早口で発音した後、少女は再びきょとんと首を傾げた。
 「みんなもいえるの?」
 口々に何か言い合っていた子供達は、ふと少女の方を向き直った。そしてしばらく黙り込んだ後、誰とはなしに口を開く。
 「じゅうごえんごじゅっせん」
 「じゅうごえんごじゅっせん」
 「じゅうごえんごちゅっ……」
 舌を噛んで痛そうな顔をする女の子に視線が集まる。
 「お前、言えねーでやんの」
 「ちょっ……ちょっと噛んだだけじゃない」
 「いーや、お前ふてーせんじんなんだろう」
 一斉に小突かれて、舌を噛んだ女の子は見る見る泣きそうな顔になる。慌てて仲間の女の子が救いの手を入れた。
 「違うわよ、もしそうなら『チューゴエンコチュッセン』ってなっちゃうんだってお父さんが言ってたもん。第一、さっちゃんちは昔っからうちの隣組なんだもの」
 それに、と彼女は一際小さな少女に目を向ける。
 「キヨちゃんは麹町のお嬢様なんだからね、こんな疑いかけたの特高にばれたら、みんな捕まっちゃうんだから」
 「……つかまっちゃうの?」
 小さな声を洩らし、少女は袖の袂を掴んで泣きそうな顔で仲間達を見上げていた。慌てて子供達は彼女の前に屈み込む。
 「あ、大丈夫大丈夫、心配しなくても平気だから。特高なんてアカ狩りに行っちゃって、こんなとこで油売ってるはずないって」
 「そうそう、だから泣かないの」
 くるりとした聡明そうな目を何度か瞬かせ、涙を払って少女は肯いた。彼女の肩を掴み、年嵩の女の子が目を見ながら念を押す。
 「だから、このことは誰にも言っちゃ駄目よ」
 「このこと?」
 少女の問いに、真面目な顔でその女の子は肯いた。
 「不逞鮮人、ってこと。キヨちゃんは違うもの、忘れちゃっていいからね」


 飛石の上でとんとんと跳ねている娘を鏡子が見つけたのは、玄関のところで掃き掃除をしている最中だった。
 「あら、キヨちゃんお帰りなさい」
 「ただいまー」
 どこでお転婆をしてきたのか、四歳になった娘は着物の裾をすっかりはだけさせてしまっている。大方仲のよい子供達と、日枝神社の境内にでも行ってきたのだろう。近隣に住んでいるのは生憎と中学校に上がったような大人びた子供達ばかりなので、少し行かなければ近い年頃の子供達には出会えない。どうもこのところ新橋辺りから遊びに来る子供達と仲良くしているようで、益々悪戯に拍車が掛かっている節がある。夫はもう少し淑やかに育てたいようだが、鏡子としてはこのくらいの方が愛嬌があってよいと思っている。
 玄関に箒を立て掛けた鏡子は、娘の前にしゃがみ込んで簡単に御端折りを直した。両袖を広げて立っていた娘は、大人しくしていたのも束の間、直るや否や庭先に飛んできた蝶を見付けてすぐに走り去ってしまう。
 「もう……」
 少しだけ苦笑して、鏡子は箒を取った。定時に終業すれば、間もなく夫の帰宅時間になる。満洲で起こったという事件の余波で、もうこの数ヶ月定刻に帰れた試しなどないのだが、朝夕玄関先を自分で掃除するのだけは結婚当初からの彼女の日課だった。
 そのうち、庭の方へ行ったはずの娘がとことこと戻ってくる。飛び去った蝶の影を探しているのか、文字通り上の空で空中を眺めているので危なっかしいことこの上ない。躓きそうな敷石の前に回りこんで、小さな下駄を取られた瞬間に鏡子は抱き止めた。
 「あ」
 「危ないでしょう、ちゃんと足元に注意しないとね」
 「ちょうちょさん、いっちゃった」
 小さな指先が指し示す方向を振り向くと、ひらひらと夕暮の空に黒っぽい色合いの蝶が飛び去って行くのが見えた。この庭には橘が多いので、よくやってくる揚羽蝶の類だろう。
 「そうね、お家に帰るのかしらね。キヨちゃんもお家に入りなさいな、寿子さんが待ってるわよ」
 いつも振り切られる気の毒な乳母の名前を言ってみたが、それで大人しく引き止めておける娘ではなかった。不意を突いて小さな手で鏡子の箒を取ると、よたよたとそれを引き摺りながらこちらを見上げる。
 「キヨちゃんもおてつだいする」
 「あらまあ、どうしようかしら……でも、その箒はキヨちゃんにはちょっと大きいわよね」
 頬に手を当てて少し考えた後、鏡子は三和土に置いておいた小さな塵掃きを持ってきた。
 「それじゃあ、これでお願いしてもいいかしら?」
 「はい」
 嬉しそうにぱっと笑った娘を見ながら、鏡子もつられて微笑んだ。それからようやく立ち上がると、敷石を順番に掃いていく。娘は嬉しそうにその周りを飛び回り、そこかしこ気になるらしい箇所をぱたぱたと掃いていった。正直、二度手間三度手間にならない訳ではないのだが、鏡子としてはそうした仕草がどうしても可愛らしくて仕方ないのだった。
 何か嬉しそうに独り言を呟いていた娘が、ふと顔を上げてこちらを見上げた。もう飽きたのか、と思いきや、娘は不思議そうな顔で訊ねる。
 「おかかさま、じゅうごえんごじゅっせんっていえる?」
 「十五円五十銭?」
 聞き返し、ふと鏡子は手を止めた。思わず箒を取り落とし、娘の隣に膝を突く。
 「……それ、どこできいたの?」
 何か言いかけた娘は、ふと思い出したように口を押さえて黙り込んだ。しまった、というように首を振る娘の小さな肩を、鏡子は掌で包む。
 「怒らないから、かかさま怒らないから、キヨちゃん教えて。誰がキヨちゃんにそんなこと言ったの?」
 「だめ、とっこうにばれたら、みんなつかまっちゃうもん」
 家で聞かせた覚えのない言葉を呟く娘に、鏡子は愕然とする。慌てて視線を彷徨わせた瞬間、門扉の開く音がした。弾かれたように顔を上げたその先、前庭を横切る敷石の向こうで不思議そうに佇む夫、雅臣の姿があった。
 「あ、おととさまおかえりなさいませー」
 「ただいま、今日は早く終わってな」
 娘と妻の姿を見付けた彼は、一瞬表情を緩める。そして大股に近寄ろうとして、妻の表情に困惑の色を見て取って怪訝そうに訊ねた。
 「鏡子、どうした? 何かあったのか?」 
 「いえ、その……」
 「……キヨ、かかさまどうしたんだ」
 名指しで訊ねられ、娘はばつが悪そうに口を噤んだ。二人の様子を見比べていた雅臣は、やがて眉を曇らせて口を開いた。
 「とりあえず、いつまでもここにいても仕方ないだろう。家の中で詳しいことを聞かせてくれ」


 キヨ――竹中熙善(たけなかきよし)は、雅臣と鏡子の実子ではない。雅臣の妹ひで子が産んだ一人娘である。
 彼女につけられたその名の文字からも明らかなように、父親は朝鮮人であった。元は王家にも連なったという両班の出身で、祖国が併合された際に学位を取るため日本を訪れたが、祖国の革命運動に巻き込まれる中で大学を去った。ひで子と正式に籍を入れていた訳ではなかったが、内縁の夫婦として横浜郊外で睦まじく暮らしていた。夫婦は革命に対して積極的に賛同を示していた訳ではなかったが、人望が厚くまた名門の出自であったことから、多くの留学生や移民労働者の信頼を集めていたと言う。
 悲劇が起きたのは大正十二年秋。首都全域を壊滅に追いやった大震災の折、事実無根の流言により多くの朝鮮人が軍部と民衆の暴動に巻き込まれた。煕善の父親はそれを知らず、被害が大きかった日雇い労働者の集落に援助に行って殺害された。遺体は顔も見分けられない状態であったという。
 竹中の実家は東北の方にあったが、本家の当主である雅臣がずっと東京暮らしであったことから、ひで子は兄の元に預けられることになった。そこで夫の忘れ形見を産み、現在はもう一人の兄で雅臣の異母弟に当たる芳視の元へ身を寄せている。ひで子の状態が不安定な上に芳視も独り身であること、そして雅臣夫婦にまだ子供がなかったことから、生まれた娘は二人に引き取られた。いかにも「不逞鮮人」じみた名は、産みの母が彼女に授けた唯一のものだった。
 亡夫を慕うひで子の気持ちはわからないでもなかったが、余りにもあからさまに素性を示す名は煕善にとって不利になりうる。それを案じた雅臣夫婦は、常には仮名でその名を表すようにしていた。幸い外務官僚として大臣の側近を務める雅臣の威光もあり、煕善の生まれをとやかく言われたことはこれまでなかった。
 それゆえに、今回の件は鏡子にとって強い衝撃を伴った。それは雅臣にとっても同様、むしろそれ以上であった。
 「……震災のときの、戒厳令下で出た流言でしたわね」
 夫の背広を受け取りながら、鏡子は辛そうに呟く。
 「鮮人が火を着けた、井戸に毒を入れた、暴動を起こした、と」
 「……」
 ネクタイを緩めながら、雅臣は一言も口を利かない。外したネクタイを受け取り、それを畳みながら鏡子は夫を見上げた。
 「不逞鮮人を見分けるには、『十五円五十銭』『ザジズゼゾ』と言わせてみろ、と。上手く発音できなければ、鮮人だから殺してしまえ、と」
 「馬鹿馬鹿しい、第一わたしですら全く訛りがないわけではないだろう」
 幼少の一時期を福島の郷で過ごした雅臣は、今でこそほとんど正確な標準語を発音するが、それでも周囲の人間の影響もあってか未だに細かい発音には地方色が混じる。当時そうした勘違いから殺害された地方出身の出稼ぎ労働者も、相当数いたという。
 辛そうに俯いた鏡子は、搾り出すようにぽつりと呟いた。
 「もう、五年になるんですよ」
 「まだ五年だ。キヨはまだ四歳なんだ、わたし達が守ってやればいい」
 「それでも、あの子は毎日大きくなります。毎日、わたしの目の届かないところへも遊びに行くんです。そこでもしものことがあるんじゃないかと思うと……」
 言葉を詰まらせた妻を振り返り、雅臣は顔を覆った彼女の手に掌を乗せる。その手を払うように、鏡子は首を振った。
 「……ひで子さんにも、山佳さんにも申し訳が立ちません」
 「鏡子、泣くんじゃない。あの子は運が強い子なんだ、大丈夫だからそんなに泣くんじゃない」
 第一、と雅臣は身を屈めて妻の顔を覗き込む。
 「わたしが何とかするから。あの子の血が何者だろうと、悲運に巻き込まれないように――その為にわたしは働いているのだから。だから今からそんなに嘆くんじゃない、大丈夫だ鏡子」
 朝鮮の人間が罵られ差別されるのは、彼らの多くが貧しいため。彼らが貧しいのは、彼らの指導を自任して大陸へ進出した日本の経済政策の失策のため。経済政策に影響が及んだのも、元はといえば外交上の問題点を解決しきれなかったことに由来する。
 それは雅臣らの責任である。しかし同時にそれは、雅臣であれば解決しうる問題であるとも言える。責任が自分にあるということは、自分の手でそれを改善しうるということも意味している。
 妹と義弟を不幸にしたその分も、熙善だけは守らなければならない。それこそが償い得ない過ちを雪ぐ唯一の方法だと雅臣は信じている。
 一頻り嗚咽を洩らし、ようやく掌の下から泣き濡れた目を見せた妻に、雅臣は深く肯いて見せた。
 「大丈夫だ、わたしを信じろ」


「真実は優しいか」

「事実はときに厳しい。だが真実は事実ではない」