優しすぎた悪魔


 黄昏時の逢魔ヶ辻に、メフィストフェレスが佇んでいた。
 ウォトカに霞む目を瞬かせ、実純はその姿を凝視する。点り始めた街灯の下、道行く人々が見向きもしないで通り過ぎてゆくので、もしかして幻ではないかと思ったのだった。もうこの十数年で酔いが醒めたことなど数えるほどしかなかったので、遂に脳が冒され尽くしたかと自問する。
 地平線へと沈む夕焼けが、空だけでなく植民の町並みも行き過ぎる町の人々も余すことなく染め上げていた。低い塀やからたちの垣根の並ぶ路地も、細い路地の先に繋がる大通りを通り過ぎていく路面電車も、前かがみで急ぎ足に道を行く人も、全てが実純の嫌いな日本の風景そのものである。大嫌いなこの町の路地を、素面で通れるほど実純は無神経ではない。とりわけ夕日が全てを赤く染めると、移植された町の小さな違和感すら全て包み隠されて、一層実純は居た堪れなくなる。だから確かに今は酔いが醒めないように一際注意して、ウォトカの瓶を片手に握っているのだが、酔ったせいでこんな恐ろしい幻覚を見るくらいなら、酒を抜いておけばよかったと実純は密かに後悔した。
 四辻に佇んだメフィストフェレスは、黒に黄色と群青を差し込んだ女物の奇抜な銘仙を着ていた。項が見えるほど短くした髪は女性の断髪にしては短く、苦力の男にしてはやや長い。少年と見まごうほど華奢な身体で、袖から覗く手首がぞっとするほど青白い。顔には、稲荷で見かけるような白い狐の面をつけている。そして何より目を引くのが、その腕に構えたヴァイオリンだった。それを見たからこそ、実純はこの不審な人物がメフィストフェレスだとわかったのだ。
 いかにも安物といったヴァイオリンはところどころニスが剥げており、恐らく街道の古道具屋で叩き売られているような代物だろう。だがそれにも関わらず、その楽器は恐ろしいほどよく音が響いた。奏でているのはラヂオから流れる流行歌の類だが、聴いたこともない編曲を施して、もはや原形すら覚束ない。楽器も曲も取り立てるべきところのないつまらないものなのに、どちらも悪魔と契ったばかりに人を惑わす凄まじい魅力を手に入れている。どこにでもいるような普通の女に魔力の化粧を差して、ぞっとするほどの傾城に仕立て上げたようなものだった。
 それにも拘らず、人々は誰もその音色に耳を貸さない。耳に入っていないのだろうかと実純がいぶかしむほどに、誰もが無関心を崩さない。危険だとわかりつつも、惹きつけられるようにふらふらと実純はメフィストフェレスの前に立った。近づいてみると、身長はともかく身体つきが余りに細い。音楽など押しなべて体力勝負のものだから、これだけ細くては音色がもつはずもないだろうに、メフィストフェレスはたじろぎもせずに芯の通った音色を奏で続ける。そしてやがて曲が佳境に差し掛かると、不意に音色を不思議な形へ捻じ曲げてみせた。
 一息を置く間もなくメフィストフェレスが弾き始めた音色に、実純は戦慄する。細かく弦を刻み、音階を切り詰めていくその曲には覚えがあった。覚えがあるどころではない。実純が最も恐れている作曲家の、最も恐ろしい楽曲である。
 ――ウォルフガング・アマデウス・モツァルトによる交響曲第二十五番、第一楽章アレグロ・コン・ブリオ。
 天才が生み出した、聴く者を奈落へと突き落とす狂気としか言いようのない旋律を耳にして、その瞬間実純は確かに意識を失った。


 ウンター・デン・リンデンのその名の由来となった菩提樹の並木を見上げ、ああ、と実純は溜息をついた。それは自分の魂を置き忘れてきた、懐かしいベルリンの風景だった。美しく並ぶ木々の隙間からチューニングを取るオーボエの音色が響き、石畳の上を行き交う学生たちが一時憂いを忘れてそれに耳を傾ける。木漏れ日の向こうに横たわる蒼穹は、古人の奏でた音楽を全て抱いてそこにあるように思われた。
 遊学と称してロンドンやパリも訪れたが、実純にとって最も居心地がいい町がここだった。神の使途と信じてやまないバッハ親子やベートーヴェンやモツァルトが通ったかもしれないと思うだけで、実純はベルリンが愛しくて堪らなかった。古い建物のひびの一つ一つまで、彼らが行き交った往時を示す掛け替えのないものに思われた。日が暮れると沿道のベルリン歌劇場(オパー)に繰り出して、天井桟敷を芸大の友人達と共に占拠した。舞台の上で繰り広げられる美しい愛憎劇と、石造りの巨大な箱の中を充たす音楽そのものに酔い痴れた。
 物心ついたときから実純は音楽を愛していた。代々の公家である実家の家業は竜笛で、兄たちは学業に忙しく早々と放り出してしまったが、実純だけは人一倍熱心に稽古を積んだ。宮内庁で侍従長を務めた厳格な父は、音楽にばかりふける実純にいい顔をしなかったが、早くに養子に出ていた叔父だけは感心だと褒めてくれた。ついでに彼の養子先の家業だった琵琶まで押し付けてきたのには閉口したが、稽古してみるとそれもまた笛と違った面白味があった。
 おかげでちっとも面白いと思えなかった勉強はまるでものにならず、辛うじて学習院の高等科までは出たものの、兄たちが行った帝大にはとても無理だと自分でもわかっていた。公家の本分である家業を疎かにしているはずの兄たちが父に褒められ、自分ばかりが叱られるのがつまらなくて、拗ねては悪友と遊び歩いたりもしたが、結局稽古をすっぽかすのが嫌で家に戻って一層怒られたりした。
 それでも音楽と名の付くものは全て愛しかった。初等部の音楽の授業で習った唱歌も、街頭ラヂオから流れてくる他愛ない歌謡曲も、通学路沿いの窓辺から聞こえてくる女学生のピアノの稽古も、全てが好きだった。音楽にとりつかれていると誰かに言われたが、それで構わないと実純は思った。
 父が自分を帝大へと行かせたがっているのはわかっていたが、実純が芸大への進学を望むのはごく自然なことだった。ひどい喧嘩になり家を飛び出して、叔父のところへ逃げ込み、追い駆けてきた父と喧喧囂囂の討論の末に提示されたのが、留学という選択肢だった。他ならぬ叔父自身、若い頃にフランスとドイツで政治を学んだことがあり、協力は惜しまないとの言質を取り付けることができたのだった。
 今になって思えば、素行のまずい侯爵令息が国内であらぬ噂を立てられるよりはと島流しにされたようなものだったのだが、それでも当時の自分は有頂天だった。語学の壁は、必要という現実と熱意の前に脆くも崩れ去った。当時、総合大学の方にはそれなりに日本人留学生もいたが、実純は現地の芸大学生とばかりつるんでいたように思う。
 いや、必ずしもそれは正確ではないかもしれない、と実純は記憶を手繰る。留学していた三年の月日を振り返ると、まずウンター・デン・リンデンの風景とベルリン・オパーで聴いたはじめて聴いた夜の女王のアリアが脳裏に蘇るが、それと共に決まって思い出されるのが、菩提樹の下で読んだ『ファウスト』だった。
 日常会話では不自由がない程度のドイツ語をたしなんだ実純も、いきなり原書で文学作品を読めたはずがない。確か、最初は実家からの斡旋で日本に駐留経験のある退役武官だったかを家庭教師につけられたはずだった。とは言え音楽漬けの日々に浸る実純がろくに個人授業に出るはずもなく、すっぽかし続けた末に自然消滅となった覚えがある。申し訳ないことをしたはずだが、今となっては相手の顔も実は朧気だった。
 ただ、その男が貸してくれたゲーテだけは今でも覚えている。実純が余りに文芸に疎いのに呆れ、まず慣れてみろと渡してくれたのが『ファウスト』の私家訳ノートだった。岩波で出た翻訳を兄の本棚で見かけた、と言う実純にその男は確か、オーストリア訛りのドイツ語でこう告げた。
 「あの訳は確かに秀逸だが、俺としては今一つ納得がいかないところもあってな。例えば"Verweile doch"が『まあ、待て』だったか、確かに雰囲気はそれで問題ないが、地獄に落ちても構わないという意思表示でそれはやや意味が弱い気がする。他にも気になり始めたらどうしようもなくて、結局全部訳してしまった。別に表に出すつもりもないが、勿体ないと思うならば読んでやってくれ」
 本当は小説を読む時間があるなら楽譜の一つも覚えたかったが、授業に出ない後ろめたさからページを捲り始めたところ、いつの間にか実純は夢中になった。主人公を翻弄する悪魔が見せる変幻自在の物語に、文字通り魅惑された。母語話者でないはずの男が紡ぎだした日本語は軍人らしくやや無骨の色を帯びていたが、しかし何ら原作の風味に遜色を与えるものには思えなかった。オペラにもなっていることを知って観に行ったし、斬新な音色には感心したものだが、純粋に芸術としての価値を与えるならば実純は原作の方に賞賛を惜しまない。
 問題の台詞は物語の序盤で現れた。それは、主人公ファウストが自分を堕落させるために現れた悪魔メフィストフェレスに対し、魂を奉げる契約の証として定めた呪文だった。
 ――時間よ止まれ、お前は余りに美しい。
 もし音楽の悪魔がいるのなら、叫んでも構わないかな、と実純は口の中で唱えてみたりしたものだった。


 留学の年限を迎え帰国した実純を待っていたのは、宮内庁での雅楽師の仕事だった。家業の竜笛と、叔父に託された琵琶を活かせる格好の仕事だと父は語ったが、実純はそれを頑として断った。
 幼い頃から親しんできた雅楽を厭うようになった訳ではない、ただ母国であるはずのこの日本の、その最も国粋的な場所に押し込められることが耐えられなかった。三年の間に身体全体に染み込んだドイツ古典派の巨匠たちの音色を真っ向から否定する、小さな世界とどうしても相容れることができなかった。心の中で竜笛に詫びながら、父の目の前で圧し折って、そして二度と敷居をまたがない覚悟で家を出た。
 さりとて、日本の芸大を出たわけでもない実純に世間は厳しかった。まだ日本に西洋楽団は数えるほどしかなく、父の反対を受けている実純がもぐり込める隙はほとんどなかった。追われるように国を離れ、竜笛をフルートに持ち替えて欧州の小さな楽団を浪人のように渡り歩き、やっとの思いで糊口を凌ぎながら日々を過ごした。ベルリンで学び修めた指揮を活かせる機会には恵まれなかったが、それでも音楽と触れてさえいられたら構わなかった。
 父の訃報も、本当は実純にとって永久の帰国の理由になるものではなかった。葬儀のあと、すぐさま欧州への船便に飛び乗ろうとした実純を引きとめたのは、総理まで務めた叔父だった。留学の際に大恩を受けたあの叔父から受けたのは、内々の依頼だった。
 満洲で楽団を作ること、それが叔父に提示された任務だった。ロシア経営の鉄道の拠点があるハルビンでは、鉄道会社に附属する楽団が住民たちの福利施設として絶大な支持を受けているという。南満洲の鉄道権益を手に入れた日本もそれに倣い、現地職員の娯楽と文化水準の向上をはかるべく鉄道株式会社附属楽団が発足されることになった。その責任者を務めてくれないか、そう持ちかけられたのだった。
 往年の大陸浪人の夢を見て、多くの移民が満洲へ渡っている時勢のこと。折りしもロシアで起こった革命から逃れるべく多くの白系ロシア人やユダヤ人が満洲へと亡命してきており、没落した貴族の音楽家の噂もちらほらと耳には入ってきていた。それならば人材を集めるのも容易かろうと、二つ返事で実純はそれを請けた。何より、自分の手で楽団を作れるというその任務に、実純は酔いしれた。叔父の浮かない顔はもはや目端にも入らなかった。
 かくして奉天へ渡ったのは、もう十五年も前のことだろうか。やってきた満洲は国内で聴いていた噂とはかけ離れていた。募集に応じて集まってくるのはごろつきの類ばかりで、質草に取られた楽器を買い戻すための金を渡せば、すぐにそれを博打ですってきてしまうようなことが相次いだ。改めて考えてみれば当然のことだが、内地で上手くやっていける奏者はわざわざ大陸へ渡ってくる必要などないわけで、つまり満洲の邦人楽員たちは概ね素行が止まないか腕が不十分か、何らかの問題を抱えているということになる。稽古に楽員が揃わない、やってきた奏者も手が震えてろくに楽器すら持てない、気付けば楽器そのものが勝手に売られている、そんなことはざらだった。彼らの相手をするのに素面では太刀打ちできない、といきおい実純の酒の量も増えた。ハルビンの気位の高いロシア人たちが、まさかそんな状態の日本人楽団を歯牙に掛けるはずもなかった。
 何度も逃げ出したいと思ったが、その勇気すら持てなかった。楽団員たちにすら侮られる侯爵家の若造が、後ろ楯である実家を裏切って欧州へ逃げ込んだところで、手も足も出ないのは火を見るより明らかだった。さりとて今更日本へ逃げ帰ったところで、実純の居場所がどこにもないことも知れきっていた。進退窮まった挙句、名前だけの楽団を率い、書類上にしか存在しない演奏会で予算を請求することが、いつしか普通のことになっていった。
 落魄れて音楽を生み出さない音楽家に成り果てたと気付いたときから、実純の酔いは醒めたことがない。終わりのない悪夢のような沈黙に支配され、それはまさしく地獄だった。
 音楽のないところは、いつでもどこでも、実純にとって地獄だった。


 ばちん、と鋭い音に実純は目を瞠る。長い悪夢から彼を引き戻したのは、ヴァイオリンの弦が切れた音だった。
 メフィストフェレスはそれをものともしない。切れてだらりと垂れ下がった弦もそのままに、残った弦と白い左手の指先を駆使して遜色のない音色を辿り続ける。そしてはじめて実純は、メフィストフェレスのヴァイオリンに残っている弦が最後のG線一本であることに気付いた。初春の嵐のように激しく、処女の肌のように甘やかで、白鳥の翼のように滑らかなこの音が真実の旋律だとすれば、今まで音楽だと信じてきたものは何だったのだろう、と実純は立ち竦んだ。悪魔と契ったという伝説を持つ数多のヴィルトゥオージは、この音色を夢見て魂を売り渡していったのだろうか、と思った。
 ――Verweile doch! Du bist so schon. 
 叫びそうになった言葉を飲み込み、実純は唇を噛んだ。必死に首を振り、そして目の前の悪魔を見据えた。
 メフィストフェレスが奏でているのは、まさしく至美そのものだった。古の巨匠が生み出した瑕疵なき音色を更なる高みへと上らせるのは、まさに悪魔の所業に他ならない。人をして二度と得られぬ快楽へと酔わせしむるのは、神にも天使にも、凡そ良心の伴うものには決して行えない行為である。この音色を耳にしたものは、天から与えられる救済をも永久に拒み、奈落の底で酔い続けることを選ぶに違いない。
 だが、実純がメフィストフェレスへの屈服を跳ね除けたのは、地獄を恐れたがためではない。メフィストフェレスのヴァイオリンが奏でるその音色が、その一音一音の顕れたその瞬間に依拠しているためだった。時が止まれば音色はただの瞬間の音となり、その力を失い色褪せる。メフィストフェレスは、時間という神の領分にある大いなる摂理の中でその魔力を用いていた。真に堕落し地獄へ身を落とした者には、悪魔の誘惑すらもはや届かない。
 音楽は時間の芸術だと、学生時代に言い出したのは誰だったか。記憶すらあやふやなのに、その言葉だけが今になってひどく鋭く実純を貫いた。堕落し時間の観念を失った者を、音楽は許さない。時が停滞した世界でまどろむ者を覆うのは、狂わんばかりの静寂でしかありえない。音楽に触れることは、神が定めた摂理に対し誠実に生きるものだけに与えられた特権だ。
 ならば、街頭で誰にも顧られることなくヴァイオリンを弾くメフィストフェレスは何だろう。神に見捨てられた墮天使のなれの果てが、どうしてこれほど神に忠誠を尽くすのだろう。それが掟だとしても、その中から彼を追放したのは他ならぬ神のはずだ。
 実純の手の中から、ウォトカの瓶が滑り落ちた。鋭い音と共に強いアルコホルの匂いが立ち上ったが、それすら忘れて彼はふらりと足を運ぶ。メフィストフェレスは、実純に息が掛かるほど顔を寄せられてもその音色を止めない。それこそが自らの証明であるかのように、細かく弦を刻み続ける。酒で青黒くなった指を伸ばし、実純はメフィストフェレスへ差し伸べる。
 彼の指先が届いた瞬間、ばしんと激しい音がした。熱い衝撃に顔を覆い、そして実純は音色が絶えたことに気付く。振り向けた目の先には、四弦の全て切れたヴァイオリンがあった。ヴァイオリンが堕ちたのだ、と実純は確信した。今この瞬間、絶頂を迎えたヴァイオリンは叫んだのだ。悪魔にその魂を売り渡し、永劫の沈黙へと至るあの文言を。
 ――時間よ止まれ、お前は余りに美しい、と。
 歪んだ唇を引き攣らせ、実純は荒々しく腕を伸ばす。絶命したヴァイオリンをもぎ取るように振り落とし、返す手で弦が毛羽立った弓を薙ぎ払い、そしてメフィストフェレスの顔面を覆う狐の面を掴み取る。ヴァイオリンの弦で切れた腕から血が流れ、もぎ取った面を地面へ投げ捨てると真紅の雫が散った。実純は莞爾と笑う。神の怒りを買い天界を追われた天使こそが、地獄の悪魔の正体だという。やはりそうだ、仮面を剥ぎ取ったその奥にあるのは、栄光を忘れられない哀れな天使の白面だ。
 天を恨みながら、神を羨みながら、それでも最後の審判の日に全ての罪が許されることを望んでやまない、醜悪な彼自身だ。
 「メフィストフェレス、契約だ」
 天使の面影を残したままの悪魔は、眉一つ動かさない。ただ地獄の深淵のような瞳で、実純を凝視する。その細い顎を指先で摘み、実純は笑う。
 「陶酔もいらん、憎悪もいらん、歓喜もいらん。あらゆる人間の感じる全てを味わい尽くさせる必要はない。ただ、お前の知る全ての音楽を俺の前に並べてみせろ。もし飽き足らせることができれば、俺はこの魂などお前にくれてやる」
 むしろそれは救済だ。音楽という呪われた神の摂理に囚われた実純を解き放つ唯一の方法だ。
 ふとメフィストフェレスは、狐面よりも淡白な無表情を実純に向けた。そしてしばし彼を凝視したあと、緋色の薄い唇を割って微笑を見せる。立ち込め始めた薄闇の中で、その面差しだけが白く浮かび上がっていた。


 王道楽土と謳われた満洲で、駐留日本人と白系ロシア人の共演する日露交歓交響管弦楽大演奏会が大成功を収めたのは、その一年後。指揮者大雲寺実純の名は一躍不動のものとなり、国際社会で賞賛を受けた満洲交響管弦楽団の公演は日本内地での悲願となる。
 楽団の名を彩ったのが、ヴァイオリンの第一奏者を兼ねるコンツェルトマエストロの存在であった。鬼神パガニーニの再来、当代随一のヴィルトゥオーゾと讃えられながら、遂にその名は明かされることがなく、人々は畏怖と尊敬を込めてその人物を『無名の悪魔』と呼んだ。
 経営難に苦しむ満洲鉄道株式会社から独立を果たし、やがて世界唯一の無国籍交響楽団を自称するに至った楽団が、満洲皇帝の庇護下でベルリン・オパーに倣ったバロック建築のオペラホールを建設するのは更にその一年後。柿落とし公演の『フィデリオ』で、謎の歌姫チェ・ヒソンが彗星の如く現れ一世を風靡するまでには、この瞬間から二年分の音色を必要とする。


「望みが叶えば救われるのか」

「俺は救済を望んだんだ、魂をも奉げるほどに」