世界という名の卵


 晩秋の風に、巨大な梧桐の葉が音もなく落ちる。普段なら気付かないそんな庭院の景色に気を取られたのがいけなかった。
 不意に後頭部に衝撃を感じ、その慣性のまま杜淕は背後へ大きく仰け反った。背中へ長く編み下ろした辮髪を引っ張られたと気付くのと、その犯人に目星をつけるのは、ほぼ同時だった。悲鳴の代わりに顔を顰めると、案の定能天気なほど明るい少女の声が耳元へ飛び込んできた。
 「なーなー、淕ー」
 曲がりなりにも宰相位にある初老の男の名を、軽々しく呼びつけられる人物は決して多くない。辮髪を引っ張られて大きく背中側へ仰け反った姿勢のまま、器用に淕は視線を動かして声の主に目を向けた。逆転した天地の中から、大きな目を瞬かせた快活そうな少女の顔が覗き込んでいた。
 「何ですか陛下。背後から襲わないで下さい」
 「がら空きなのが悪いんだろ」
 「背中を守っていれば天井から襲い掛かるではありませんか」
 「ったりめーだろ。頭も守ってたら床下掘ってやる」
 「ああもう」
 ようやく少女が手を離したので、淕は掛け声を上げて半身を起こす。無理な姿勢を強いられて軋む背骨を伸ばしながら、彼が背後を振り向くと、小柄な少女がそこに佇んで、彼をじっと見上げていた。
 身長は淕の胸元へ辛うじて頭が届く程度だろう、質素な黒衣に包んだ腕を組み、肩の辺りまでしか届かない髪を無理に頭上に纏め上げた彼女は、その若さも相まっていかにも陋巷に住まう町娘のような雰囲気を放っていた。せわしなく靴をかたかたと鳴らす仕草も上品とは言い難く、くるくるとした瞳にも可憐というよりはどこか小狡そうな光が宿っている。僅か十八のこの少女が、杜淕に平伏を強い得る数少ない地位を持つということなど、一見して看破できるものはほとんどいないに違いない。
 元々罪人の娘として投獄されていた彼女がひょんなことから後宮へ入り、皇帝の正妃の座に上り詰めたというのは、まさしく奇縁と呼ぶほかない。皇帝の崩御に伴い皇太后の地位を得た彼女は、姓を取って施太后と呼ばれていたが、その称号に相応しい威厳は欠片もない。身についた気品はどれほど零落しても失われることはないというが、むしろ彼女に関しては、並び得るもののない地位に上り詰めてなお失われないやくざ者の気風がその身を飾っていた。
 杜淕にとっては娘のような年頃であるこの皇太后は、子猫のように彼の辮髪にじゃれ付きながら陽気な声を上げた。
 「そんなことより淕、お前知ってるー? 世界って丸いらしいぜ」
 「天が丸いのは存じておりましたが、それは初耳です。また斐大学士ですか?」
 頗るつきの悍馬である彼女に飛び掛られながら、淕はうんざりと答えた。
 彼女の師傅である翰林院大学士の斐荼威は、元を辿れば南蛮の出自で、時折気紛れに南蛮式の珍妙な学問を披瀝する。とはいえこの中華の威信のもとでは夷狄の学術など翰林院に取り入れられるはずもなく、それを十分承知した上で老学者はかつて蓄えた知識を虫干しするように取り出すに過ぎない。淕にとっては異郷の神話のような荒唐無稽な話ばかりだが、それでも好奇心が人並外れて旺盛な施太后の関心を買うには十分なのだろう。
 淕の首筋に飛び掛かると、羽交い絞めにするように施太后はしがみついた。新しい知識を仕入れたことで機嫌がよいのだろう、頻りに絡んでくるのには閉口するが、拗ねて八つ当たりをされるよりはましなので淕は大人しく為されるがままにする。
 淕の長身の背中に攀じ登りながら、施太后は饒舌に語った。
 「おう。最近じゃ百年くらい前に迦利略とかいう天文学者が言い出して、羅馬では大揉めにもめたらしい。寺の坊主が信じなくて大騒ぎしたらしいが、今じゃ船乗りとかは大体信じてるとか言ってたぜ」
 「しかしそれだと、世界の縁の方にいると落ちてしまうのではありませんか?」
 淕はとりあえず脳裏に球体を思い描いてみた。世界の上半分は碗を臥せたように天が被さっているはずだから、地上は球の下半分といったところか。碗のような地上の中央に彼らの帝国が入っている様子を想像したが、よく考えたら世界の外側へ行けば行くほど傾斜は強くなるはずだ。あの老学者ならばいかにも少女をからかうために言い出しかねない、滑稽な図だった。
 首を捻る彼の背中にぶら下がったまま、施太后は肩の上に顎を乗せる。幾ら小柄とはいえ重さがみしりと肩に圧し掛かったが、淕も敢えて振り落としはしなかった。
 「おう、オレもそう思ったんだけどさ。何か世界って真ん中に軸があって、ぐるぐる回ってるんだってさ。ほら、水入れた天秤振り回して踊る大道芸とかあるじゃん、あんな感じじゃね?」
 そう言いながら少女は細い指先を回してみせる。それを眺め、淕は声を上げて頷いた。
 「ああ、それなら中心が陛下なのは間違いないですね」
 「あ、お前もそう思う? 斐の爺もそんなことほざいてた」
 「当たり前です、道理で最近ひどく振り回されている気がすると思いました」
 施太后を肩にぶら下げたまま、淕は回廊を下り始める。いつまでも廊下の中程で彼女の悪ふざけに付き合っている場合でもない、どうせ何を決めるにしても皇太后の御璽が必要なのだから、施氏ごと連れていってしまおうという腹積もりだった。
 不意に施太后は、淕の背中を膝で軽く蹴る。怪訝そうに目を向けた彼に、彼女は真顔で尋ねた。
 「んじゃ、オレがいなかったら誰が回すんだ?」
 「さあ。世界が止まるのではないですか?」
 「馬鹿言え、百年前にはオレ生まれてないもん」
 投げやりな淕の回答に、少女は膨れ面を作る。首を締められそうになり、淕は振り解く代わりにぶら下がった施太后を後手に回した腕で支えた。子供のように負ぶわれる格好になった施氏は、空いた腕で淕の冠の花翎を弄り始める。
 片腕で彼女の手悪さを押し止めながら、淕は紅葉の庭院に目をやった。木々の落葉や斜陽は冷え込み始めた空気を映しており、ふと触れた施太后の指先が冷たいのも、この秋の空気にさらされたからだろうかとぼんやり思った。
 「だったら迦利略は百年前に陛下の誕生を予言したのでしょう。天文博士なら、予言は十八番でしょうから」
 淕の横顔を覗き込み、施太后は何度か大きな目を瞬かせた。
 「あ、なるほど。ってそれじゃどっちみち世界止まっちゃうじゃん。縁の方にいる奴にとっちゃ死活問題じゃねぇの」
 「それなら陛下はどう思われるのですか」
 埒があかないので、軽く肩を竦めて施太后を背負いなおし、淕は軽い調子で訊ねた。何を考えているのか今一つ掴みかねる上司ではあるが、周囲が思うよりは物事を考え込むところがあるのが、この少女の特性だった。しばしばくだらないことに拘泥しがちだが、それでも彼女の置かれている身分を考えれば、何も考えず周囲の言うことに流されるよりは遥かにいいだろう。
 淕の肩に肘を乗せて、頭上に顎を乗せて少し考える声を上げ、施氏は答える。
 「うーん、オレ的には旦那やセンが軸になって回ってんじゃねーかと思う」
 「皇帝がですか?」
 思わず淕は訊ね返した。彼の冠の上で指を組み、妙に真面目くさった声で彼女は呟いた。
 「だって世界の真ん中だもん」
 くすりと淕は気取られないように笑みを零す。
 荒唐無稽と天衣無縫を絵に描いたような女だが、施太后はそれでも亡夫やその遺児である幼帝を尊重することを忘れない。敬意というよりもそれはむしろ、それこそ信仰に近いようなものだった。
 彼女は、単に理念的なものだけでなく、恐らく感覚的なものとして、皇帝を世界の中心だと信じている。多くの臣下が感じるような忠誠心とは、また一線を画するであろう彼女のそういったところを、淕は微笑ましいと感じている。
 今でこそかなり沈静化したとはいえ、先帝つまり施氏の夫が崩御したばかりの頃、国内は相当に荒れていた。皇位継承をめぐる諸問題に加え、王朝の簒奪を目論んだ叛乱までも起こり、杜淕と施太后の尽力がなければ恐らく幼帝はその地位を追われていたに違いない。もし先帝がもう少し寿命を保ったとしても、在位中にそれなりの危機には見舞われたのではないかと淕はひっそり考えている。
 万が一――臣下としてそんなことを考えるのは大変な不敬だとわかっていても――仮に王朝を奪われるようなことになっていたらどうなっていたのだろう、と淕は時々考える。大人しく温厚な先帝も、まだ幼いその息子も、恐らくは追われるままにその地位を退いたに違いない。中華帝国の皇帝は天子として、人間で上帝に最も近いところに坐するとされるから、文字通り世界の中心であることは疑うべくもないだろう。しかし一度天命を失った皇帝は、世界の中心から退かざるを得ない。そのとき施氏はどうするのか、という疑問が脳裏にもたげるのだった。
 不意に、施氏の快活な声が頭上から響く。
 「って言うか、今んとこオレ的に世界のど真ん中はセンしかありえねーし。だったらアレじゃん、オレがど真ん中にセンを置いてやりゃ楽じゃね?」
 淕は堪らず吹き出した。なるほどそれは、施太后が行った一連の行動そのものだ。
 彼女にとって皇帝は亡夫の遺児しかありえない。もし周囲がそれを認めないのなら、自分が政権を奪い取ってそれを譲ればいい。それが彼女の理屈だろう。
 世界が認めないのなら、自分が世界を捻じ曲げてもそれを認めさせようとする、力押しの彼女の振舞は確かに傍迷惑に過ぎる。だが、その明瞭さは複雑怪奇な権力の場にあってはいっそ清々しかった。
 そしてそれを支える彼女の行動の根拠もまた、ひどく身勝手だが理解は容易い。要するに、彼女の見る世界において、愛しい人が中心にあるというそれだけのことだ。
 「ああ、確かに」
 「だろ?」
 淕の笑いを肯定と受け取ったのだろう、施太后は肩の上まで攀じ登ると、頭の上から彼を覗き込んだ。髷から零れた後れ毛を揺らし、彼女はにんまりと笑う。
 結局、自分の愛し児を万人に敬わせようとした彼女の我侭に、最後まで手を貸しているのは淕自身である。少々甘やかしすぎたかと苦笑し、彼は上目遣いに彼女を見上げた。
 「いえ、でもそれなら世界を振り回す理由を説明できません」
 「あ」
 自分でも自覚はあるのだろう、不意を突かれたような顔をして、施氏は目を瞠った。淕はわざと呆れたような声を上げる。
 「お気付きでなかったのですか?」
 何しろ、杜淕が後ろ楯に立たなければ本当は何もできないはずの、ただの小娘だった。それなのにここまで傍若無人に振舞い続けて今の地位を獲得したのは、ひとえにそれを淕が全面的に許してしまったからに他ならない。彼女を押し止める気概を持たなかったといえばそれまでだが、淕とて誰彼構わず力を貸すはずもないし、元々は人に乞われて尽力するような性質でなかったことを彼自身承知している。
 要するに、彼とてこの小さな皇太后が世界の中心であることについて、吝かではないということである。
 「って、オレはそんなに振り回してるかよ」
 不服そうに頬を膨らます施太后を担ぎ上げて、杜淕は笑いながら回廊に目を向けた。風景が、いつも執務室から見える見慣れた姿に近付いていく。掃除をする者には厭わしいかもしれないが、それでも風に舞う紅葉の姿はやはり目に好ましい。
 施太后に髪の毛を引っ張られるのを感じながら、杜淕はわざと肩を竦めた。慌てて体勢を立て直そうと肩の上でもがく彼女に腕を回し、抱き下ろしながら淕は大袈裟に頷いた。
 「はい、思い切り」
 「ちぇー、そんじゃ今日もきりきり回してやる」
 欄間で頭をぶつけないように下ろされた施太后は、威勢良く腰に手を当てると、宦官の控える執務の間へとずかずかと入っていった。庭院の景色を惜しむように一度振り向き、それから軋む肩を回して、杜淕は彼女の侍従のようにその後ろをついていった。


「中には何が入っていた?」

「とんでもない渾沌が詰まっていたものです、全く」