力の証明


 「夏阮蜃(シァ・ユェンシェン)が死んだらしいぞ」
 林は顔を振り向ける。噛み潰しそうなほど短くなった紙巻煙草を咥えた陳が、ふくらんだ鼻の穴から煙を吹きだしていた。鋭い音と共に痰を吐いて、林は薄汚れた赤ら顔でせせら笑った。
 「あの爺がか。何度目だ」
 「今度こそ本気だぜ。鴉片(アヘン)をかけてもいい。とうとう爺も年貢の納め時なんだろう」
 洋車(ヤンチャ)と呼ばれる人力車の梶棒に片身を預け、同業の陳は目脂のこびり付いた目を瞬かせる。顔中を覆う深い皺の割に、若々しい愛嬌のある眼差しが閃いた。もっとも林自身も彼とそう変わらない顔をしているだろうから、殊更に老けているなどとは思わない。上海に住まう多くの人夫は似たようなもので、貧困と重労働とそれを誤魔化すための酒や鴉片によって、二十歳を越えれば歳毎に老け込む早さが五つばかり増えていく。三十を越える頃には干乾びた老人のように死ぬ者も少なくはなかった。
 「今、何歳になるんだっけな」
 「さあてね、俺の爺さんの頃には宰相なんざやってたっつから、じきに百の声でも聞くようなところじゃねえの?」
 まさか、と林は鼻先で笑ったが、わざわざ指を折って数えようとも思わなかった。陳なども生来計算は苦手で、ついでに目に一丁字もないものだから、自嘲を込めて五十を越えた物の数はいつでも「ほとんど百」としていた。適当な通貨数枚で人を乗せては夕べの鴉片に変えるような生活だと、自分の年よりも大きな数字などほとんど縁もない。
 そんな彼等と比べると、噂に上る夏阮蜃はまさしく化物じみた長寿を誇る人物といえた。その寿命だけではない、彼に関して言えばその履歴実力権威どれをとっても、全てにおいて人間離れしていたと言ってもよい。
 北方で辛うじて命脈を保っていた王朝が崩壊したのは、確か三十年ほど前だったか。当時大臣の地位にあったという夏阮蜃は、革命の余波を逃れ一族を引き連れて江南へ引き上げてきたという。官僚は地元との癒着を防ぐために、必ず出身地から離れた任地に回される。従って位人臣を極めた夏の帰郷は、数十年ぶりの凱旋にも等しいものだったらしい。
 しかし故郷の江南は、当時猖獗を窮める列強分割時代にあった。名もなき小鎮だった上海は土着民すら立ち入りを禁じられ、大陸に刺さった楔のように西洋人の砦としての繁栄を遂げていた。様々なあくどい手管で立身を果たしてきた夏阮蜃ももはやここまでかと思われたそのとき、彼は予想もつかない手段に及んだ。官僚時代に築いた情報網と莫大な資産を元に、江南の大運河を闊歩する青幇(チンパン)の再編を始めたのだった。
 いわゆる「秘密結社」と称される青幇は、元々は運輸業の相互互助組織として萌芽したものと伝えられるが、反政府活動にも及ぶことがしばしばあったことから、官僚だった夏阮蜃からみれば仇敵にも等しい間柄だった。だが、彼は英仏を中心とした地方貿易商人(カントリートレーダー)によって解体寸前にまで追い込まれていた青幇に喝を入れ、同時に江南各地に置かれた租界の警察権を持つ各国行政官と癒着することで治安機構に中国人が介入することを可能にした。青幇は往年の活気を取り戻して暗躍し、租界警察は牙を抜かれ、列強の抑圧の象徴だった上海は見る間に頽廃と享楽の魔都へとその姿を変えた。
 人は本来、秩序を好む。なればこそ現状に不満を抱きつつも、それが崩れたときの渾沌を恐れ息をひそめて暮らしてゆける。しかし、なぜ夏が役人としてやってこれたのか誰もが訝しむほどに、その感覚が彼には決定的に欠けていた。租界警察の署長の肩書を買いながら、鴉片の密売で膨大な富を蓄え、一方で酷使される労働者を煽動して民族運動を起こし、租界に侵入しようとする政治的な思惑を徹底的に排除した。上海は今や、もう一人の夏阮蜃と呼べるほどに彼を体現し尽くしていた。
 彼の行ったこと全てを詳らかにできる者など上海のどこにもいない。その独得の性質ゆえに彼を疎んだ者も決して少なくない。だが彼を知らない者は、この上海に一人としていなかった。文字を知らずとも、秩序を知らずとも、夏阮蜃はまさしく上海そのもののように屹立する存在だった。郊外に彼の構えた邸宅は、皇帝のそれのように威厳に満ちていた。
 「そうか、死んだのか」
 感慨深げに呟いた林の隣で、煙草で唇を焦がした陳があちちと声を上げた。
 「隠してはいるが、『宮殿』には昨日から洋鬼子(ヤングイズ)や各地の大御所どもがぞろぞろ入り込んでる。広まるのも時間の問題だな」
 鬼子、と人々に憎まれる外国人らを手懐けて意のままに操る夏阮蜃は、恨みも買う一方で庶民からは圧倒的な人気も集めていた。労働者達にとって、自分達の同胞が侵略者と対等以上に渡り合う様は無条件に小気味よいものだったし、外国人が幾ら偉そうに振舞っていてもひとたび夏阮蜃の前に出れば見る影もなかろうなどと考えるだけで、胸のすくような思いをしたのは事実だった。
 赤ら顔で仰いだ空は、真昼にも関わらず灰色にくすんでいた。鴉片の煙が凝っているようだ、などと柄にもなく林は思う。
 「んで、後は誰が襲ぐんだ。爺に倅はなかったろ」
 「名立たる龍門の徒だもんよ」
 陳は鼻を鳴らした。
 夏阮蜃が男色家だったのは、その名ほどではないがやはり有名な話だった。海派俳優(ハイははいゆう)のパトロンとして彼らを手当たり次第に引き摺り込んでいた彼は、跡継を残すための妻帯すらしない筋金入りの趣味人だった。
 「ほれ未亡人がいるだろう、いつも傍に連れてたかわゆいのが。表向きは養子ってことだから、あれに任せるんじゃないのか」
 「まだガキだろう」
 「だからだよ。周りにとってもやりやすい」
 ああ、と林は得心する。夏阮蜃の姿は遠目に見かけたこともあったが、この十年ほど、その傍らには常に同じ人物が添っていた。まだ年端も行かぬ、大柄な夏阮蜃と並ぶと人形のように見えるような少年で、夏阮蜃が日本で商売を広げていた際に拾ってきたと言われているが、確かに小柄で色白な体躯と表情の乏しい顔は感情の起伏の少ない日本人らしくも見えた。
 「何しろ爺のお気に入りだからなあ。養子は他にもいたはずだが、いつの間にか全員消えちまっただろう? とんだ傾城さ、相当恨みも買ってるだろう」
 「日系だってのも、その辺からきた噂かもな」
 「違いねえ、嫌な野郎はみんな東洋鬼(トンヤングイ)か洋鬼子と決まってら」
 上流階級の醜聞ほど面白い話題はなかなか他にない。下卑た笑い声と共に、林は腰の物入れを解いた。自分で巻いた不恰好な紙巻煙草を取り出して差し出すと、陳は拝むように掌を上げた。二人で紫煙を燻らせ、各々の薄汚れた洋車に身体を預ける。
 洋車だけではない。湿気を帯びて乾くことのない道も、落書きと黴で汚された石造りの古い建物も、軒を貫くように走る物干しとそれに吊るされた洗濯物も、埃を被って壊れた店の看板も、天秤棒を担いで行き交う人々も、全てが泥水で洗ったようにくすんでいた。近くの窓から女の化粧の膏くさい臭いが漂ってきて、赤子の泣く声と誰かに怒鳴る声が同時に響いた。昼下がりの物憂い時間は間もなく過ぎて、夜に向けて街はこれから活気を増してゆく。
 ふと煙草を深々と吸い込み、それを吐き出しながら陳はぽつりと呟いた。
 「俺ぁ、今のこの街は嫌いじゃねえなあ」
 林は黙ってそれを受け流す。この街に住んでいれば、それは自明のことだ。相容れないものを懐に抱き込むほどこの街は美しくはない。好む好まざるに関わらず、住み着いてしまえる人間はこの街に魅入られているようなものだった。この街を激しく憎んでいても、離れられない人間とて少なくない。清流に姿を晒されては生きられないものも、魔都に沈む泥はいつでも覆い隠してくれる。
 「クソ爺にぁ違いねえが、いなくなられてこの街が変わるのだけは勘弁願いてえ」
 「まったくだ、あのチビ助の手腕を眺めるしかねえ」
 爛熟した都市は、腐り落ちる直前の危うい均衡の上で成り立っている。泥が増えれば生物は窒息し、掻き出されれば住処を失い乾涸びる。そして夏阮蜃は間違いなく、魔都の創造主として君臨していた。彼を失ったこの街がどのように姿を変えるのか、敢えて考えようとも思わない。
 煙草の煙を目で追っていた二人は、それゆえに雑踏に紛れたその人影に呼び止められるまで気付かなかった。
 「もし、どちらでもよろしいので火車站(えき)までお願いできますか」
 耳に馴染まない滑らかな北京官話に、危うく林は煙草を取り落としそうになった。振り向いたそこに足音もなく佇んでいたのは、革の旅行鞄を下げた細身の小柄な男だった。青年というより少年といった方が相応しい雰囲気だったが、その割には全体的に余裕に満ちた雰囲気が漂っていた。身に纏うのは、まるでどこかの使用人を思わせる白い木綿の中華服だったが、その面差しを不躾に眺めた後に林は息を呑んだ。
 彼はにこりと微笑み、隠しから硬貨を取り出す。そしてまず陳に、それから林に、それぞれ手をとって握らせた。ドル硬貨に目を丸くする二人を尻目に、少し考えるような仕草をした後、徐に彼は林を指した。左手の指に、大きな翡翠の指輪がはまっているのが見えた。
 「近いからあなたに。手を貸してください」
 確かに、陳よりも林の方が手前にいた。青年が勝手に荷物を座席に運び上げるので、慌てて林が銀貨を握っていない方の手を突き出すと、そっと触れるだけで軽く彼は洋車に飛び乗った。自分で勝手に薄汚れた黄色の幌を引き、それからひらりと掌を翻す。林は一度陳に泳ぐ視線を彷徨わせたが、彼は脅えたように首を振るばかりだった。躊躇いながら、それでも林は棹を引いて駆け出す。誰も乗せていないのではないかと思うほどに、車は軽かった。
 重く口を閉ざしたまま、林はわざと人通りの少ない道を選ぶ。改めて後ろを振り向く勇気は、もうどこにも残っていなかった。そんな彼をからかうように、くすくすと微かな笑い声が首筋を撫でた。その声音すらも、少年のように稚い。
 「あなたは口が堅そうだから、こっそり教えてあげましょう。お爺さんはまだ亡くなってはいませんよ」
 心中を見透かされたようで、背筋を凍らせて林は足を速めた。遠慮のない物乞いの子供たちすら慌てて飛び退き、不倶の老人は身を翻して路を空ける。だが、微かに笑みを含んだ声は車輪の轟音や軒の鈴にも掻き消えることなく耳元まで忍び込む。
 「みんなを騙している最中です。弔問にいらっしゃった方も誰もご存知ではありません。間もなく噂が広まって、お爺さんが亡くなったと信じた方々が行動を始めたら、お爺さんはもう一度だけ地獄の底から舞い戻ってきてくれますよ」
 林はがむしゃらに足を運ぶ。耳鳴りがするほど走っているのに、彼の声は滑るように耳朶をくすぐった。さっき触れられた手に細い指の感触が残っているようで、赤ら顔から血が噴き出しそうな気がしていた。
 薄暗い路地の突き当たりが白く輝いている。そこを曲がれば光の溢れる站前(えきまえ)の大通りだったが、その明るさに林は脅えた。
 「今度こそそれでおしまい。ですが夏阮蜃は亡くなりませんよ、ぼくはあくまで名代。お爺さんはぼくには甘いから、ぼくを苛める不届き者にはいつまでも容赦しません」
 それはそうだろう。これまでも幾たびとなく夏阮蜃の訃報は囁かれたが、ぞろりと不届き者が動く段になれば彼は舞い戻ってきた。弔問客の委細を述べた陳の言葉が本当なら、今回のは今までになく大規模な謀略だ。上海全土を陥れるだろう、夏阮蜃の巨大な罠から誰が逃れ得る。
 「教えてあげるのはあなただけ。噂好きのお友達にも、決して喋ってはいけませんよ」
 ほとんど往来を蹴散らすようにして、林は細い路地を走りぬいた。鮮やかな大通りの明るさに目が眩んだが、固く瞼を閉じたまま彼は走った。
 当たり前だ、誰がこんな恐ろしい話を広めるだろう。魔都の帝王は、まさしく己の命すらも弄んで秩序を排する。そして少なくともこの都市がある限りは存続する、不死の命を手にしようとしているのだ。その死を誰も信じなければ、彼は文字通り不死身の化物として人口に膾炙し、永遠に君臨し続けることができる。
 首の血管が破れそうなほど激しく脈打っていた。林が立ち止まった広場の先に、巨大な駅舎がそびえている。站前の広場には巨大な荷物を抱えた人々が蹲り、席の空きや遅れがちな列車の到着を待っていた。
 ぜえぜえと息を切らし、顎から頬から汗を滴らせる林の脇にひらりと飛び降りた青年は、ふと左手の指輪を外して林の掌に落とし込んだ。翡翠の滑らかな緑がつるりと目を刺した。
 「……」
 戸惑って顔を上げる林に、彼はにっこりと目を細める。際立った派手さはないが、端整な面差しには微笑がよく似合った。
 「ぼくはこれからしばらく上海を離れます。またお会いすることがあるとすれば、そのときはこの街がもう磐石になっていると思ってくださって結構です」
 「これは……」
 やっとの思いで林は声を絞り出す。汗みずくになった全身や、燃えているような顔よりも、指に残る感触が一番熱かった。
 軽やかに瞬いて、彼は静かに声を落とした。
 「問わず語りに付き合って頂いたお礼です。おかげさまで覚悟が決まりましたから」
 それから旅行鞄を両手で下げると、不意に深々とその場で頭を下げた。見慣れないそれは、以前乗せたことのある日本人の仕草そのものだった。
 早い夕刊売りの声が遠近でこだました。雑踏は足早に行き交い、屯する人々は身じろぎをするばかりでその場を動かない。子供の泣き喚く声と、喧嘩腰の怒声と、馬車に繋がれた馬の嘶きがざわめきの中で一際耳を貫く。泥と腐り掛けた残飯と排泄物が広場の隅で異臭を放ち、じっとりと湿った空気は重く立ち込めて傾いた日光すら遮る。
 魔都上海の站前で、林は青年の背中が見えなくなるまで立ち尽くしていた。

 ――上海芙蓉公司総裁として、夏阮蜃に代わり夏家当主を引き継いだ秋二が就任する、まさに一年前のことになる。


「得たものの大きさを知っているか」

「さあね、ぼくが得たのは権力ではなくただの寵愛だ」