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 Walking in the Air 
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 「……凄く不思議なんだけれど」
 現在の自分の尺寸に合致した服が詰まったクローゼットを前に、素乾竜血樹はぼんやりと佇む。
 年齢は一応十八歳、性別は一応男性、多分一児の父。
 ――但し、今の身体はかつて同級生だった施寛美もといベル・グロリアス嬢のものだった。
 「何でセニャンの服、スカートしかないんだ?」
 「元々レディーはスカート派なんだよ」
 小柄な『少女』の脇に立ち、彼女の戸籍上の夫は服を物色し始めた。背の高いクローゼットの上の方は、背の低い施寛美では手が届かない。高い位置に仕舞い込んだ冬物の厚手のセーターを引っ張り出しながら、デイビーは付け加える。
 「第一、ずっとレディーは寝たきりなんだから、着替えも俺がやってた訳。意外と寝てる人は重いんだぜ? だから、ワンピースとかが楽で、どうしてもそういう服が増えるんだよな」
 「何だかいかがわしいな」
 腕組みをしてクローゼットを見上げる『少女』の顔を、デイビーはねめつける。本来の彼女よりも五割増は美人に見えるが、その中身が実際は彼女と同い年の男であることを彼はよく知っている。それも、ただの知り合いであればともかく、彼の愛する眠り姫がかつて狂うほど焦がれた男であれば、尚のことだ。
 憮然としながらデイビーは言った。「脱がすときには、ズボンの方がいかがわしいぞ、想像してみろ」
 しばらく考え込んだ後、少女の成りをした少年は呟いた。「……すまん、俺が悪かった」


 四ヶ月間、ほとんど身動ぎ一つせずに眠り続けたベル・グロリアスの身体は、やはり随分筋力が落ちていたらしい。彼女の身体を図らずも借用する羽目になった竜血樹は、この数日間リハビリと称して部屋の中をうろうろと徘徊していたのだが、大抵いつも途中で力尽きて動けなくなりデイビーにベッドへと強制連行されていた。
 だが、昨日遂に一日力尽きず動けるようになったと言うことで、晴れてデイビーから外出の許可を取り付けたのだった。やはり日がな一日部屋の中で過ごすのは苦痛なのか、と思ったデイビーは、そう言えばかつて亡くなる直前までこの少年が鳥篭の小鳥のように囚われて過ごしていたことを今更のように思い出していた。
 「……それじゃ、どこか近場をぶらつくか?」
 そうデイビーが提案した瞬間に竜血樹が見せた表情で、彼はもう少し早くそれに気付いてやるべきだったか、と少し悔やむ。彼に対して私怨がない訳ではないが、一連の事態を俯瞰すれば紛れもなく彼は一方的に虐げられた被害者で、それゆえに文字通り身を滅ぼしているのだ。改めて考えれば自分より十も若い、幼いくらいの男である。幾ら大人びた真似をしても、所詮中身はまだまだ稚い部分が多い。
 外出するなら部屋着という訳にもいくまい、とデイビーは随分久しくベルのクローゼットを開いた。眠っていては着る機会の全くないセーターやコートなどを、ここぞとばかりに引っ張り出していくと、それを隣でずっと眺めていた竜血樹が少しだけ困ったような表情を見せた。
 ベルが決して見せることのないその手の表情が、恐らく同じ身体を使っても雰囲気を変えてしまう最大の要因だろうとデイビーは思う。はっきり言って、竜血樹が入っている方が普段のベルの数倍美人に見えるのだった。
 そんな彼の様子に首を傾げながら、デイビーは訊ねる。「どうした、何か不服か?」
 「いや……女物だなーって思って」
 「当たり前だろ、レディーは女の子なんだから」
 『Lady is a girl』というデイビーの言葉の矛盾には気づく様子もなく、竜血樹は躊躇うような様子を見せた。それでようやく、デイビーはその理由に気付く。
 「ああ、あんたそういや男だっけ。やっぱスカートは嫌か」
 「……できれば避けたいところだが、こういうのしかないのなら仕方ない」意を決したように彼は答えた。
 デイビーは肩を竦めると、できるだけプレーンなスカートを選び直した。
 「ちょっとだけ我慢しろよ。どこか店に入ったら、もうちょっとボーイッシュな格好を買ってやるから」
 驚いたように顔を上げる竜血樹の表情は、少しベルのものと似ていた。思わずたじろぎそうになり、デイビーは開き直る。「何だ」
 「それは悪い。俺だっていつまでここにいるのかわからないし、俺が我慢すれば客観的にはおかしい格好じゃないんだし」
 慌てたように緩く首を振る仕草を眺めながら、ふとデイビーは笑った。「ロニー、あんた俺が無職だから気をつかってんだろ。気にするな、俺お金持ちだから」
 きょとんとした顔をする竜血樹の表情は、相応に幼い。思わずその頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜると、竜血樹は窮屈そうに片目を閉じながら言った。
 「……でも、もったいないことをするのはよくない」
 「何だそりゃ。……ああ、ロニーはお爺ちゃんっ子育ちだからな」
 この数日で何となく見当が付いたのだが、どうもこの高貴な雰囲気を漂わせた憑依霊は、なかなか憎めない人柄をしているらしい。無愛想な表情をしながらも、好奇心は割合に旺盛だし、色々と不慣れな仕草で気を遣っているようだった。大半は空回ってしまうのだが、そう言った彼の性格はデイビーは嫌いではない。
 「せっかく生き返ってんだし、せっかく四ヶ月ぶりに表を歩けるんだ、嫌な格好をしてることほどもったいないこともないだろ。次はないかもしれないんだぜ?」
 ふと竜血樹は言葉を飲み込んだ後、小さく肩を窄めた。「……申し訳ない」
 「気にするな。大丈夫、そのうちレディーも着るだろうから全く無駄になるわけでもないさ」
 奥の方にあったマフラーを引き摺り出して振り向くと、デイビーは首を傾げた。「これでいいだろうな。着てみて寒かったら言えよ。何かお前一人がレディーのヌードを眺めるのは癪だから、俺もこっちでごそごそ準備してやる」
 こくんと頷き、竜血樹はソファの上に開陳された服を拾い上げた。
 「見事なまでに真っ黒だな」
 「まあな、好きな色なんだってさ」
 何となく、喪服だというところは伏せておいた。彼女が誰の為に喪に服そうとしていたのか知らない訳ではないが、彼にそれを伝えるのは少し惨い気がした。
 じっと竜血樹は表情を伺うようにデイビーを見上げていたが、すぐにふと目を反らすと着ていた部屋着を脱ぎ捨てた。それから半裸の姿になって、ふと思い出したように言い出す。
 「下着って……」
 「……気にするな。気にしたら負けだ」
 無理矢理カットソーを押し付けるように被せながら、デイビーも思わず目を反らした。


 「んじゃ、これとこれも。ああ、今着せてるのも一式よろしく。お支払い? んじゃ例によってこれで」
 行きつけらしいブティックに入るや否や、デイビーは片っ端から服を選んではそれを竜血樹に試着させて行った。自由に選ばせたら遠慮をしてろくなものを手に取らないだろう、という配慮ではあったのだが、それにしても有無を言わさぬ勢いに竜血樹は為すすべもなく服を着替え続けた。
 金色のカードを店員に渡して、まだ店内をきょろきょろと見回す男の姿が、竜血樹にはひどく不可解で恐ろしいものに映った。思わず棚の影に隠れながらおずおずと様子を見守っていると、振り向いたデイビーは目敏くその姿を見つけだす。思わず逃げ腰になる彼の腕を引っ張り、デイビーは笑う。
 「どうしたんだい、気に入らない? なかなか似合ってるぜロニー」
 「いや……これ絶対行きすぎだから。買いすぎだってば。そんなに着尽くせない」
 するとデイビーは憮然としながら小さな顔を覗き込む。「女の子に一週間以内で重複した服を着せるのは、俺のポリシーに反するの」
 俺は男だけど、という竜血樹の呟きは完全に黙殺された。半ば怯えたように竜血樹はこっそりと服のタグを捲ったが、値札のようなものは書かれていない。つまりは、そう言った種類の店なのだろう。極めて一般的な全韓共和国人民の金銭感覚をしている竜血樹は、こっそりと震え上がる。
 デイビーは腰に手を当てて、大きな仕草で店内を見渡した。
 「ロニー、皇帝の癖に貧乏性だなあ」
 「元々、借金しか残さず滅んだ国なんだから、そこの残党もできるだけ慎ましく生きるのが礼儀だろう」
 近代化の過程でふっかけられた様々な賠償金や租借金は、多分先人が踏み倒したに違いない。竜血樹にとって何の自慢にもならないが、財産の類は曽祖父の代で全て没収されており、残った僅かな遺産も全て活動資金に消えた。歴代皇帝の中で、最も質素な生活をしてきた自信はある。
 「んでも、今ロニーはレディーなんだし、もう死んじゃってるんだから別に構わないだろ」
 そう言いながら別の棚の方へ足を向けるデイビーを、思わず竜血樹は追いかけた。「いや、遠慮とかじゃなくて本当にもういいから。って言うか頼むからもうやめてくれお願いだ」
 「ロニーに哀願されちゃったよ」
 ようやく振り向いたデイビーに、ようやく竜血樹はほっと溜息を吐いた。幾らなんでも、これ以上の買物は控えてもらわないと、こちらが見ていて落ち着かない。
 「申し訳ない、すまないと思うが本当にもうやめてくれ。お前が資産家なのもよくわかったから」
 この数日見ている限り、特に働いている様子もなく家で自分の面倒をみてくれているのだから、これは職業区分上は間違いなく無職となるだろう。女性であれば主婦という言い回しもあるが、配偶者の収入を得ない専業の主婦業はよほどアナーキーな場合を除いてあり得ない。
 てっきり竜血樹は、意識不明の『妻』の介護をする為に自宅にいるデイビーがそれなりの補助金でも受けて生活しているのだろうと思っていた。だが、その前提は取り敢えず今この瞬間には完全に崩れ去っている。
 「……祖先の遺産をこんな形で食い潰すのはよくない。頼む、もうこの辺りで」
 「平気、これ俺が稼いだポケットマネーだもん。さすがに親の脛を齧る年じゃないさ」
 ふと見ると、デイビーは大きく肩を竦めて見せた。きょとんとしながら彼を見上げる『少女』の顔に向かって、デイビーは指を立ててみせる。
 「今は確かに主夫だけど、テロの前は一応テレビのレイトショーで偉そうなこと喋って知識人の真似事してたし、番組制作やらライターみたいなこともしてたんだよ。お堅いところだと、ちょっとだけ銀行にいたこともあるぜ」
 驚いたように竜血樹は、ベルの黒い目を瞠る。「それは凄いな」
 「軍隊にもいたことあるし」
 意外なほどあっさりと言われ、竜血樹は一瞬その意味を捉えかねた。彼の何度も大きく瞬く黒い目を眺めながら、デイビーは意外なほどに衒いもなく言ってのけた。「うちの男は皆予備役に入ってるんでね、一応俺も軍服着たら准佐なの」
 レディーには言ったことないんだけど、と呟くようにデイビーは付け加えた。
 竜血樹は、首を傾げながら尋ねる。「遠征にも出たのか?」
 「ロニーはいちいち言葉遣いが古臭いよ」
 棚の帽子を物色しながら、デイビーは『少女』の顔を見下ろす。「この間だって海外派兵の要請が来てたけど、かみさん具合が悪いって理由で断ったんだ。意外と需要があるって言うか、むしろこれが仕事の長続きしない最大の原因。戻ってきたら大抵人生観変わっちまって、前の仕事続ける気にはなれなくなっちゃうんだ」
 「そうか、それではデイビーは半分軍人なんだな」
 頭の上に次々帽子を載せられながら、竜血樹はまじまじとデイビーを見上げる。複雑そうな横目でそれを見下ろしながら、デイビーは指先に載せた帽子をくるりと回した。「レディーの顔でそんな風に見るなよ、ばつが悪い。俺、テロリストの制圧に行ったこともあるんだから」
 目の上にまでずれた帽子を押し上げながら、竜血樹はつばの下からデイビーの表情を伺った。「……それは悪かった」
 「あんたの爺さん先生にはばれてたかもしれないけどな、まあいいや」
 デイビーは二つの帽子を交互にベルの頭に載せる。顎に指を当てて考えた後、彼はベージュのハンチング帽を指で摘んで頭の上で振り、店の奥に向かって声を張り上げた。「これも頼むよ」
 「……セニャンも軍人を嫌がりはしないと思うよ、うちの国も徴兵制だったし」
 帽子のつばを抑えながら、竜血樹は言った。片方の帽子を棚に戻しながら振り向くデイビーに、彼は少し声を抑える。「俺も行くつもりだったから。十八歳からなんで、間に合わなかったけど」
 「皇帝は武器を取っちゃいけないんじゃないっけ?」中国通の祖父の雑学を思い出しながら、デイビーはからかうように笑う。
 だが竜血樹は、帽子を深めに被り直しながら零した。
 「関係ないよそんなの。俺は、守りたいものは自分の手で守りたかった」
 そっか、と相槌を打ちながら、デイビーは店の奥からカートに乗ってやってくる荷物の方を振り向いた。


 「やっぱり俺も持つよ」
 大量の包みを抱えて揚々と歩くデイビーに取り縋りながら、竜血樹は彼の袖を引っ張った。
 「駄目。途中で疲れて動けなくなったら、誰がロニーを担いで帰ると思ってんだ。仮にも女の子に、こんな荷物は持たせられません」
 威厳を保とうとする父親のような口調で、デイビーは正面を見据えて早足に歩く。その両腕には、大量の荷物が絶妙のバランスで積み上げられていた。荷物の発送もしてもらえるとの話だったが、当座必要な服なのだからすぐに持って帰れなければ意味がないと、デイビーが一人で抱え上げてしまったのだった。
 「俺は男だ」
 「外身はレディー・ベルのだ。気持ちだけ頂いておくよ」
 素気無くあしらわれ、竜血樹は肩を落として大人しく隣をついて歩いた。取り敢えずこの荷物を一旦置いてこようか、と思いながら横目でデイビーは竜血樹の様子を見る。長い黒髪をきつい三つ編みにして帽子の中に押し込み、大きめのコートとマフラーで身体の線を隠すと、ボーイッシュとは言い難いベルの容貌も随分中性的に見えるようになった。とは言え、彼固有の無駄に高貴な気配は隠し難く、下手をしたら香港系マフィアの御曹司といった風情になってしまったかもしれない。
 竜血樹に服の好みを訊ねても、安いものしか選ぼうとしなかったので、業を煮やしたデイビーは取り敢えずほとんど全て自分の趣味で彼の衣装を選んでしまった。何となく青やベージュが多くなってしまったのは、ただ一度会っただけの本来の竜血樹の印象に引き摺られてしまった為だろう、と思う。あの淡い金髪と闇の奥のように黒い瞳は、今も脳裏に焼き付いている。幾らあどけないベルの容姿をしていようとも、ふとした面影があのときの彼の姿と重なってしまう。
 従って、ベルと本来の竜血樹とではかなり顔立ちも体格も色合いも違うのに、デイビーはつい竜血樹に合わせたものばかりを選んでしまった。中身が竜血樹だからそれを着こなせているのであって、ベルが戻ってきてもこの服は着られないだろう、などとぼんやりと思う。第一、喪服しか着ないと公言して憚らない彼女に、こんな水色やブラウンの暖かそうな服を着せるのは至難の業だろう。
 「そういや、ロニーは元々どのくらいの体格だったっけ。意外とでかかった印象があるぞ」
 きょとん、と竜血樹はデイビーを仰ぐ。それから少し考えた後、指を折りながら言った。「……多分、180センチくらいだと思う。5フィート11インチ」
 「やっぱそれだけあったんだ。俺が6フィート2インチだから、意外と変わらなかったんだな」
 「だからやっぱり俺も持つ」
 竜血樹が猫のように荷物を狙うので、慌ててデイビーはそれを持ち上げた。荷物のてっぺんがぐらりと揺れたが、一つも落とさずにすんだ。「危ないなロニー。残念でした、よーちよち、手が届くようになったら持たせてあげるよーん」
 「子供扱いするな」竜血樹は顔をしかめて腕を掻いたが、届かないどころかデイビーにぶつかりそうになって危ないので、渋々といった風情で諦めた。
 声を上げて勝ち誇ったように笑いながら、デイビーは竜血樹を見下ろす。「ロニー、お前意外と可愛いのな。絶対図体に中身がついて行ってなかったって。今のレディーの外身、意外と似合ってるぜ」
 拗ねたように竜血樹は顔を背ける。かなりベルの身体にも慣れたのか、本来の彼らしい仕草を見せるようになったのだが、小柄なベルの体格で男っぽい振る舞いをすると丁度十四、五歳くらいの少年のように見える。そうして見ると言動もそれらしく見えてくるのが不思議なところで、丸っきりデイビーは竜血樹をジュニアハイスクールの男の子くらいに扱っていた。
 ふと、竜血樹はぴたりと足を止めた。行き過ぎかけたデイビーは、仕方なく後ろ向きに隣まで戻って行く。
 「何だ、今度は何が気になるんだ」
 「あれは、船か?」
 竜血樹は、革の手袋で覆った指を伸ばした。目を向けると、建物の切れ間から覗く坂道の下の方に、行き止まりのガードレールと白いカモメの姿が見えた。小さな遊覧船が水面をのろのろと過ぎてゆくのがわかる。
 「ああ、港が近いからな」
 「港?」
 「知らないか、ここいら辺はでかい中洲なんだ。だからあちこちに埠頭がある」
 ふうん、と竜血樹は道の先を見詰めながら言った。デイビーは肘で彼を突付く。「さ、一旦戻るぞ。せっかくだから、ディナーはどこか美味い物喰いに行くか」
 竜血樹は少し渋るように俯いた。「ん……」
 「今は寒いし、調子も戻ってないんだから……もう少ししたら港も連れて行ってやるから我慢しろ」
 歳の離れた弟にでも言い聞かせるように、デイビーは言った。「ロニー、お前その身体がレディーのもんだって忘れてるんじゃないだろうな。風邪でも引かせたら承知しないぞ」
 「そうだな……」ようやく竜血樹は頷いた。隣を歩き始めたのを見て、デイビーもまた一つ満足そうに頷くと早足に歩き始めた。
 大量の荷物を申し訳なさそうに見上げる竜血樹を横目で眺めながら、デイビーはふと愉快そうに笑って見せた。
 「他の人から見たら、俺達どんな関係に見えてるんだろうな」
 「少なくとも、新婚の夫婦じゃないと思う」
 指先に目を落としながら、竜血樹は答える。デイビーは眉間を寄せながら言った。「一応男の子に見えるように仕立てたんだから、そこまで立ち戻らなくていいだろ」
 「じゃあ、ゲイのカップル」
 思わずデイビーはつんのめりそうになる。「待て、この体格差でか? だったら何だ俺は攻めか!」
 「真に受けるな」憮然としながら竜血樹は顔を背ける。
 「あんまり子供扱いするから、からかっただけだ」
 「な……」思わず声を荒げそうになったデイビーは、通り過ぎる周囲の視線を感じて言葉を飲み込む。それから、自分よりも先を歩き始めた竜血樹に向かって慌てて小声で言った。
 「ロニーが相手だと、何だか洒落にならない。俺、この手の話題は苦手なんだよ」
 「俺だって好きじゃない」
 むっつりとしながら、竜血樹は小走りに足を捌いていく。追いつけない訳ではないが、荷物の多いデイビーは懸命にそれを追い掛けた。「ちょ、待てよロニー。何拗ねてんだ、あんまり急ぐと途中でばてるぞ。おい、ちょっと……」
 意外なほどに足早に進んで間合いを取った竜血樹は、ふとくるりとデイビーの方を振り向くと一言言い放った。
 「そうだな、ロリコン」
 そして飛び跳ねるような大股で人込みを掻き分け、あっという間に遠ざかって行く。
 「あ、待て、ちょっと待てロニー、待てってば!」
 慌てて荷物を落とさないように駆け出しながら、デイビーは小さな背中に向かって叫んだ。
 「レディーのその顔で言われると、ダメージでかいよロニー!」


 コンドミニアムのロビーを抜け、エレベーターで自宅のある最上階まで一気に戻ったデイビーは、荷物を床に置きながら思わず溜め込んでいた愚痴を撒いた。
 「持つなって言ったのは俺だけど、待ってくれたっていいんじゃないかなロニー。っつか、鍵持ってないんだから先帰っても入れないだろ」
 膝を押さえて息を切らせながら、デイビーは顔を上げる。そして左右を見回し、ようやく辺りに誰もいないことに気付いた。
 「あれ」
 身を隠すようなものが何もない廊下を見回し、デイビーは呼び掛ける。「ロニー、ロニー出ておいでー」
 猫を呼ぶように唇を鳴らしてみるが、静まり返った廊下はしんと何の音もしない。ただでさえクリスマス休暇で帰省している入居者が多く、クリスマスリースをつけたドアだけが音もなく並んでいた。
 振り向いたデイビーは、エレベーターの方に戻ってみる。ドアは閉まっているが、ボタンを押すとすぐに開いた。
 怪訝そうに首を傾げ、デイビーはそのまま地上階まで降りてみる。ロビーを覗いたが、まるで人気はなかった。一頻りうろうろした後、そう言えばオートロックの集合玄関を潜るにも鍵と暗証番号が必要だったことを思い出す。
 「……やべ」
 いつもの条件反射で、すっかり意識に止めてもいなかったが、竜血樹の中身は少なくともこの数日ここに住み着いたばかりの部外者なのだった。もしかしたら外で立ち往生しているのを置き忘れてきてしまっただろうか、とデイビーは表に出てみる。
 ガラスの自動ドアはすぐに閉まり、ギフトボックスや外の石壁だけが冷やかな立体の平面を作っている。そのどこにも、人の形の影はない。
 ようやくデイビーは、状況のまずさに気が付いた。
 はじめて表に出たばかりの竜血樹がどこにも行く宛てのないことと、それほど遠出をしていなかったと言うことで油断していた。途中で先走ってしまっても、自宅まで戻れば合流できるだろうと高を括っていた。それ以外には、どこにも行かないだろうと思っていた。
 口数が多くはないが、従順で聞き分けのよい性格だと思い込んでいた。自分の状況をきちんと弁えた、大人しいけれど賢明な少年だと思っていた。ベル・グロリアスに特別の好意を寄せてはいなくても、彼女の身体を粗末に扱うような人間ではないと信じ込んでいた。
 「まさかと思うけど、このタイミングをずっと伺ってたんじゃないだろうな……」
 ベル・グロリアスの身体を使って、思い残したことをやり遂げる瞬間を、物静かな小鳥のふりをしながら部屋の中で待ち望んでいたのではないだろうか。
 だとしたら自分の行った対応は、多分考えられる限りで最悪のものだった。デイビーは顔をしかめて舌を打つ。
 「……そういや、双子とレディーをここに亡命させたの、ロニーだったんだよな」
 もしかしたら全く地の利がないという訳でもないのかもしれない。だが、彼の行動原理がさっぱりつかめないデイビーには、その行き先の方向さえも絞り込むことができない。
 デイビーは腕にはめた時計を見た。それから空を見上げてみる。午後四時を回ったばかりの空は、既に暗く澱んでいる。五時前には完全に日が落ちてしまうから、そうなると一気に寒くなる。
 「畜生、アジア人のバイタリティが憎いぜ!」
 独り言を零しながら、デイビーは薄暗くなり始めた凍る道を駆け出した。


 以前なら、一日駆け回っても息が上がることなどなかったのに、と思いながら竜血樹は立ち止まった。
 細い路地に通じるビルの隙間に身を潜ませると、彼は荒い息を切らせて背中を壁に預ける。足だけでなく、腕までがろくに上がらない。思いの他に早かった身体の限界に、竜血樹は顔をしかめて蹲る。
 首筋が弾けそうなほど激しく脈打っているのが感じられた。声を出すこともできないほど息が辛く、目の前がくらくらと回っていた。やはりこれは自分の身体ではないのだ、ということを竜血樹は今更のように感じる。
 (違う――)
 竜血樹は、苦痛で涙ぐみそうになりながら空を仰いだ。小さく切り取られた細い空は、鈍い灰色に濁っている。火照った肌でも刺すような冷たさは感じるから、もうじき雪でも振り出すのだろう。
 (この、命さえも、俺のものじゃない)
 胸元を押さえて竜血樹は地面に腰を落とした。この身体に入り込んでからずっと、少し無理をするだけで傷む足が、限界の悲鳴を上げていた。指先も痺れてきて、手首はもう自分の意思では動かない。小さな痩せぎすの身体は、さっきまでは汗を滲ませていたのに、それが冷えてあっという間に冷たくなっていく。
 この全てに、竜血樹は覚えがない。こんな身体は、自分のものではない。その実感を彼は苦痛と共に心に刻む。
 今ここで動けないほど疲れきっているのは、紛れもなく彼の知る施寛美という女の身体だ。そして彼女は今も生きているのだから、この身体に宿る命は紛れもなく彼女のものだ。もう既に失われた彼の命はどこにもない。あるのは、彼の意志だけだ。
 「……セニャン、ごめん」
 あの、焼き尽くすほど激しい彼女の眼差しを知っている。今、彼にこうして身体を与えているのも、もしかしたら彼女の意思なのかもしれないと、そんなことすら思ってしまう。なればこそ彼女の身体を粗末に扱う訳にはいかない。それは知っているつもりだった。
 だが、自分でもこれほど自分を抑えることができないということを、彼はきっとはじめて知った。
 「ごめん、絶対返すから、だから少し貸してくれ」
 今こうしている瞬間にも、彼女の限られた寿命を自分が無断で借用しているということはわかっている。自分が彼女の中にいる限り、彼女が彼女自身の為に使える時間が削られていくことを悟っている。できる限り早く彼女にこの身体を返さなくては、彼女の貴重な時間を自分が食い潰してしまうということも理解している。
 それでも、その衝動を止めることができなかった。酷使される彼女の身体の苦痛は、彼自身の苦痛でもあったが、それでも押し殺すことができなかった。
 こんなにも、自分が身勝手な人間だと、痛感したことはなかった。
 竜血樹は、ふと足を掻いてみる。まだ筋肉や関節が激しく痛むが、立てないほどひどくはない。這うようにして立ち上がり、再び壁伝いに大通りへと出る。よろけながら横を見ると、鏡面ガラスに施寛美の華奢な姿が映っていた。
 ぼろぼろに解れた髪の毛が、頬や肩に落ちている。目を逸らしそうになった彼は、ふと彼女の顔に割合大きな傷があることに気付いた。近眼気味の彼女の目では今まで気付かなかったが、額から左頬にかけて、目元で寸断された一続きの大きな傷が走っているのがわかる。
 竜血樹は思わず、最後に会ったときのことを思い出す。こんな傷は、多分彼女のどこにもありはしなかった。腕を覆う傷や、衣服の下に隠した様々な痣も多分、あのときにはなかった。
 これも全て、彼女が自分の為に負ったものだろうか、と竜血樹はぼんやりと思う。自分と再会してから彼女が眠りに落ちるまでの期間は、確か一週間もなかったはずだ。その期間にこの傷は全て負ったものだろうから――やはりそうなのだろう。
 「……どうして」
 どうして自分なんだ、と竜血樹は握った拳を壁面に押し当てる。傷つけることしかしない、顧みることもしない、ただ彼女を食い潰すだけの自分のことを、どうして彼女は好きになどなってしまったのだろう。そう思わずにはいられなかった。
 今だって、動きたくないと悲鳴を上げる彼女の身体を、こんなにも酷使する。彼女のことを裏切り続けて、自分のことだけを考えている。
 もう一度竜血樹は、鏡面に映った施寛美の顔に向かって拳を当てた。
 「ごめん」
 ゆらりとよろめきながら、彼は長い緩やかな坂道を下り始めた。
 帽子が落ちて、長い髪がはらりと背中に落ちたが、それにすら気付きはしなかった。


 今日歩いた道を全て確かめるように走り回り、もう一度彼と別れたところまでやって来て、デイビーは周囲を見渡した。だが、それらしい人影は雑踏のどこにも見えない。駆け回るデイビーを遠巻きに眺めながら進む人垣のどこにも、あの見慣れた施寛美の小さな姿はなかった。
 「くそっ! どこ行ったんだ」
 幾らかなり動けるようになったとは言え、今のベルの体力にしてみたらかなり歩き回ったはずだ。そう遠くまで行けるはずがない、と思いながらデイビーは頭を巡らせる。その瞬間、街頭のイルミネーションがぱっと波に洗われるように灯り始めた。
 俄かに明るくなった代わりに、人の姿がシルエットになって見分けにくくなる。舌を打って、デイビーはブロックの角まで足を運ぶ。
 『港?』
 長い緩やかな坂道に通じる道の傍に立ち、デイビーは竜血樹の言葉を思い出す。そう言えば、あの直後から様子がおかしくなって、すぐに姿を消してしまったのだった。会話の流れを思い出そうと、デイビーはこめかみに指を当てる。
 『今は寒いし、調子も戻ってないんだから……もう少ししたら港も連れて行ってやるから我慢しろ』
 そうだ、多分こう言った。それに一度は、あの少年も頷いたはずだ。
 「今、こんな無茶をしなくても。っつかクルージングデートはレディーとがいい」
 そこまで口に上らせて、ふとデイビーは口元に指を当てる。そう言えば、何となく漠然と竜血樹は彼の気が済むまでベルの中に居座っているような印象があったが、当初の内に彼はそれをきっぱりと否定したはずだ。なぜこうなったのか、いつまでこうなっているのか、自分にもわからない、と。
 「……」
 元々、彼が望んでこうなった訳ではない。望みが叶えられるなら、もっと別の場所に現れるはずだ、それは二人で審議して出た結論だ。理由もわからないまま、唐突に彼はベル・グロリアスの身体を得た。ならばもしかしたらこの瞬間にも竜血樹は、彼女の身体を離れてしまうのかもしれない。そのことにようやく思い至る。
 「……くそっ!」
 余り感情を上らせないので、外に出たいということ以外を望む素振りを見せないので、完全に忘れていた。竜血樹が、僅か十八年足らずで押し潰されるようにして世を去った、まだ未来を願う年頃の少年だったということを。彼にもまだきっと、数え切れないほどの未練が渦巻いていただろうことを。
 そこまで考えると、デイビーは迷わず港へと向かう坂道を駆け下り始めた。ライトアップされた遊覧船と、光の点滅する港の景色が道の涯に横たわっていた。


 賑わう港から少し離れた、古い煉瓦の倉庫が立ち並ぶ埠頭の脇に、『彼』はいた。
 「――馬鹿野郎」
 もっと色々言葉を考えていたはずなのだが、デイビーの口を突いたのは、余りにも平凡な一言だった。
 竜血樹は重そうに首をもたげる。髪を解れさせ、どこか放心したような虚ろな表情は、あのときのベル・グロリアスと余りにもよく似ていた。脳裏を過ぎる熱い炎を振り払い、デイビーは息を切らせながら彼の前に蹲った。
 買ったばかりの服をぐちゃぐちゃに着崩し、煉瓦の壁に背中を預け、壊れた人形のような姿勢でベルの身体はそこに投げ出されていた。帽子とマフラーはどこかになくしたらしく、虚ろな表情を浮かべた顔は寒風にさらされて真っ白に色をなくしていた。幸い怪我をしている様子はないが、疲れきって動けなくなったという風情を濃厚に漂わせていた。
 真っ白に濁った盛大な溜息を落とし、デイビーは冷え切った頬を軽く叩く。ようやくその黒い瞳が、何度か瞬いた。
 ほっとしたようにもう一度安堵の溜息を落とし、デイビーは大きな掌で黒髪の頭を掻き混ぜた。そのままがしがしと頭を掴んで、何度か揺さ振る。
 「あのな、この辺は結構治安悪いから、あんまり一人歩きをしちゃいけないの」
 「……うん、さっき絡まれた」
 ぽつりと竜血樹は零した。思わず顔色を変えるデイビーに、小さな声で竜血樹は付け加えた。「大丈夫、殺しはしなかったから」
 デイビーは眉間を寄せた。そう言えばさっき道端に何人か酔っ払いが転がっているようだったが、きちんと観察する余裕などなかった。
 何か言おうと思ったが、憔悴しきった竜血樹を見ていると一刻も早く連れ帰るのが先決な気がした。何度か息を整えて、立ち上がるとデイビーは手を伸ばす。「ほら、取り敢えず帰るぞ」
 だが、竜血樹は手を伸ばそうとしない。じれったそうにもう一度手を差し伸べると、デイビーは言った。
 「俺の腕は、野郎を姫抱きにする為にある訳じゃないの」
 「うん……ちょっと待って。動けない」
 虚ろなその声を聞いて、デイビーは竜血樹に背中を向けると、もう一度屈み込んだ。そして無造作に投げ出された細い腕を取ると、それを自分の肩に掛ける。
 「ちゃんと掴まれよ」
 「ごめん」
 背負い上げると、肩に頭を凭せ掛けられるのを感じた。耳の辺りに小さな吐息と、弱い声が響く。
 どの道を通ろう、と少し考えた後、デイビーは港側を過ぎる賑やかな道を選んだ。多分人目を集めてしまうだろうが、この際どうでもよかった。
 背中に負った小さな身体は、全ての体重を預けているのに驚くほど軽い。既にすっかり冷え切っていて、背負う背中が冷たかった。
 横目で顔を伺おうとするが、海辺の方をじっと見詰めているのかデイビーからは表情が伺えない。やれやれと溜息を落とし、デイビーはゆっくりと足を運んだ。賑やかなイルミネーションの間から、あちこちでクリスマスキャロルが聞こえた。
 しばらく押し黙った後、竜血樹が何も言わないので、ようやくデイビーは訊ねた。
 「寒いか?」
 「うん」
 「すぐ帰るからな」
 こくりと頷く感触がした。デイビーは正面に向き直った。
 「どこに行くつもりだったんだ?」
 どうして、と訊ねるつもりはなかった。どこへ行くのかわかれば、必然的に全てがわかるような気がした。
 「……船で、遠くまで」
 ぽつりと竜血樹は呟いた。小さく溜息を落とし、デイビーは道に落ちたタイルの影を踏む。「逃げたかったのか?」
 「そうじゃない」
 首を振ろうとしたのか、首筋に柔らかい髪が押し当てられた。しばらく置いて、くぐもったベルの声で竜血樹は言った。
 「会いに、行きたかったんだ」
 「誰に」
 反射的にそう言ってから、デイビーはしまったと思った。わかりきった答えのはずで、それも彼の一番のトラウマだ。
 どうフォローしたものか、と迷っていると、竜血樹はまた零すように小さく言った。
 「一番好きだった人」
 嘘を言え、とデイビーは思う。「だった」ではない。今もこんな風に、後先を忘れて駆け出してしまうほど好きなくせに。
 ふと思い出したように、竜血樹は付け加えた。「――それと、俺の子供」
 「ちょっと待てそれ訊いてない」
 思わずうろたえて、デイビーは振り向く。ぼんやりと虚ろな表情が彼の目を捉えた。「……言わなかったか」
 「嘘だろちょっと待って……ロニー、念の為に訊くけど年は幾つだっけ」
 「生きてたら十八」
 うわ、とデイビーは率直な声を洩らす。なるほど、妙に老成している原因はそこだったか、とデイビーはようやく得心した。
 竜血樹はぽつぽつと続けた。冷え切っていた息が、少しだけ温まり始めていた。「……俺の誕生日の頃が予定日だったから、今は多分四ヶ月くらい。男でも女でも、母親と相談して名前は決めてある」
 「どんな名前だ?」
 「俺がまだ呼んだことないのに、人に教えられない。ごめん」
 そうか、とデイビーは頷いた。
 今更のように、デイビーはベルのあの猛攻に靡かなかった彼の意志の固さを思い出した。確かにベルにもなかなか鬼気迫るものがありすぎたが、あの少女にあれだけ献身されて毫ほども揺るがないとは何事だろうと、常々デイビーは不思議に思っていた。なるほどそれは家庭を持つゆえのものだったのか、と今更ながら納得する。
 「……でもな、お父さんがこの成りだとお母さんも子供もびっくりするぞ」
 うっかり子供を諭すような口振りになってしまったが、今度は竜血樹も機嫌を損ねはしていないようだった。
 「わかってる。セニャンをいつまでも借りる訳にもいかないから、一目会ったら戻って来るつもりだった」
 「一目でいいのか、かえって寂しいだろそれは」
 「でも、欲張れないんだから構わない。一目でいいんだ」
 『少女』の声が耳元で濡れた。あやすようにそれを揺すり上げ、デイビーはイルミネーションに目を向ける。「どこにいるんだ。レディー達みたいに、こっちに亡命させたのか」
 また首を振ったのだろう、首筋で柔らかい髪が擦れた。
 「船で、もっと遠くに。凄く遠いところ。半端なことじゃ辿り着けないところ」
 「……そりゃえらく難儀だな。往復するだけで相当かかるだろうそれは」
 こくんと肩に額がぶつかった。「でも、同じ世界の中だ」
 少し意味を考えそうになって、デイビーはふと空を仰いだ。なるほど、死んでしまっては多分遺した人と会うこともない。
 「何でわざわざそんな遠くに。もうちょっと近場じゃ駄目だったのか」
 竜血樹は、掠れた声で言った。少し、少年じみた声に聞こえた。
 「俺のせいであいつは特級のお尋ね者だから、追手がすぐ来るようなところじゃ駄目だった。世界の果てまで追いかけられそうだったから、その向こうまで逃がさなきゃ駄目だった。セニャンも双子も、そこまで公安に警戒されてはいなかったから、地球を半周逃げたらそれで済んだけど、あいつは駄目だったんだ」
 今一つ要領を得なかったが、デイビーは頷いた。「もう誰も追いかけては来ないのにな」
 彼等をあそこまで追い詰めた国家は、既に跡形もない。もう竜血樹は、追われて狩られる獲物ではなくなったはずなのだ。僅か数ヶ月でこんなにも大きく変わった現状を思うと、何となく哀れだった――僅か数ヶ月、生き延びれば彼は自由の身だったのだ。
 「多分、それすら知らずに今も逃げてる。可哀想だ」
 竜血樹は、デイビーの肩口に顔を埋めた。肩を揺すり上げてそれを宥め、デイビーはふと自分の帽子をその頭に被せた。
 海風が一気に冷たくなってきた。湿気を帯びた空気の中で、イルミネーションの灯りがぼんやりと輪郭を滲ませる。ちかちかと点滅する光の向こうで、時折波を照らす灯台の光が揺れていた。少し道を急ごうか、とデイビーは足を速める。
 ぐったりとデイビーの背中に体重を預けた竜血樹は、小さな声で訊ねた。
 「デイビー、お前親はいるか?」
 「あ? ああ、両親揃って元気に今日も全米を舞台に行方不明」
 物心ついたときから、滅多に姿を見せない両親ではあったが、憎めない二人だった。仕事と銘打って両親共にしょっちゅう失踪するので、幼い頃は父の実家で祖父母と伯父母に育てられていたが、毎年クリスマスになると二人でプレゼントを抱えて実家に戻ってきていた。多分今年もオハイオの実家に戻っているのだろうが、いつの間にかデイビーの方が帰省しないことが増えた。
 竜血樹は一人ごちるように少しだけ身の上を話す。「俺は、二人とも覚えてない。ずっと先生が親代わりだった」
 「いい親じゃないか。ちょっと怖くて過保護だけど」
 率直な印象をデイビーが述べると、竜血樹は肩口で大きく頷いた。「うん、俺は凄く好きだった」
 だけど、と彼は続ける。「先生は一人しかいないんだ」
 「あの老人がうじゃうじゃいたら怖いだろ」
 「……そうじゃなくて、他の子供は大抵二人親がいるだろ。で、寒いときとか両手で両親に手を繋がれて歩くだろ。あれ、羨ましくって」
 急に背中に負ぶさっているのが小さな子供のような気がして、デイビーは眉根を寄せて笑った。「羨ましいのかあれ」
 「羨ましいよ。手袋がいらない」
 「なんだそりゃ」
 そう言えば、とデイビーも自分の子供時代を振り返ってみる。自分は大抵四六時中祖父に纏わりついていたが、両親が帰省していて買い出しに行くときには、そんな風に手を繋いでもらった覚えがある。あれは、片手だと余るほどのやんちゃだった自分を押さえる為に両親が生み出した連係プレイだと思っていた。
 「……俺、凄くやりたくって。大きくなったら絶対あれをやろうって思ってたんだ」
 「お父さんお母さんは片手分の手袋がいるぞ」
 「いいじゃないか、一組を一緒に使えば」
 竜血樹の息がようやく白くなってきた。こんなにも寒いのに、さっきまでは息も濁らないほど冷え切っていたのだから、少しましになってきたのだろう。ついでに眼鏡が曇ったが、デイビーは特には何も言わなかった。
 「早く家庭を持って、家族を守れるようになりたかった。セニャンの口でこんなこと言うと、何か申し訳ないしちょっと笑えるんだけど」
 幼いほど拙い声で、この小さな少女の姿で、徴兵に行きたかったと語った言葉をデイビーはぼんやりと思い出す。女の子にはなかなかわかってもらえないが、戦争がなくならない国の男にとって軍隊は意外と憧れる職場なのだ。強くなりたいという彼等の願いを知らずに軍を非難する女性に会うと、デイビーも時折少しだけ悲しくなることがある。
 何となくデイビーには、このもう今は亡き少年が、急に身近に感じられた気がした。
 「強いお父さんか――いい夢だと思うぞ。そんな風に聞くと、俺もやりたくなった」
 「セニャンが母親か」
 「当たり前だ。何か凄く笑えるけどな。エプロンかけたレディーは想像できない」
 くすくすと背中で笑い声がした。それから、小さくもう一言彼は付け加える。「父親姿のセニャンも変だ」
 「やろうとしたくせに」デイビーも笑ってみせる。それから、もう一度軽い身体を揺すり上げた。小さな頭がことんと肩に預けられるのを感じた。
 「もうしない。多分無理だ、間に合わない」
 掠れた声は平気を装うふりをしていたが、その語尾が揺れるのがわかってしまった。デイビーは黙って地面に目を落とす。イルミネーションの無数の電球から伸びた影が、複雑に地面で絡まっていた。
 「……俺、親がいなくて寂しかったのに、俺の子供も同じ思いをするのかな」
 しばらく逡巡した後、デイビーは首を傾けて言った。「魂だけなら、日に千里を駆けるって言うよな。何だっけ、中国の古文で読んだ」
 「『古今小説』だったっけ。確か、『范巨卿鶏黍死生交』の中の一節」
 うろ覚えのフレーズを完璧に少年が暗記していたことに、デイビーは素直に驚く。「孔子に論語だったか」
 「古文の練習でよく読んでたから。……でも俺、死んでからのことは全然わからなかった。また何もわからなくなるかもしれない。千里なんてきっと無理だ」
 少し賑やかな繁華街への道を曲がりながら、デイビーはのんびりと言う。「馬鹿言え、コリアで死んだロニーが今はアメリカにいるんだ。ちょっと行き先を間違えただけで、千里どころか万里だって越えられた。次は、道を間違えなければいいんだ」
 竜血樹は何も言わなかった。それでもデイビーは、煉瓦からタイルに代わった道を踏みながら、含めるように続ける。
 「ロニー、あんた傍に行ってやることもできるよ。今焦ることはない、必ず行ける」
 「……行けるかな」
 「行けばいい」
 きっぱりとそう言い聞かせると、デイビーは前を向き直った。肩口で、黙ったまま頷く感触がした。「ん……」
 白い息をなびかせながら、デイビーは空を見上げた。空を覆う街路樹いっぱいに、暖かい色の灯火が灯っていた。
 もうじきイブだな、と何とはなしにデイビーは思った。


 「牛乳もらうよ」
 「ああ、温まったか?」
 帰るや否やデイビーはストーブを入れて風呂を沸かすと、冷え切ったベルの身体を温める為に竜血樹を浴槽に押し込んでいた。たっぷり一時間近く長湯した後、彼は一握りだけ銀髪の入った黒髪を拭いながら台所の方へ姿を現した。
 ディナーに行きそびれたデイビーは、ありあわせの食材を煮込んで作ったシチューのようなものを掻き混ぜていた。冷蔵庫を開ける音を聞いて、何の気なしに振り向いたデイビーは、ぎょっとライトブラウンの目を瞠る。
 牛乳のパックを片手に冷蔵庫を閉めているのは、腰にタオルを巻いて肩にタオルを掛けただけの小柄な『少女』だった。きょとんとしながらこちらをじっと眺める視線から慌てて目を逸らしながら、デイビーは声を荒げる。「ちょ……そこの少年! 外身が女の子だってことを忘れてるんじゃない!」
 「あ」じっと自分の姿を見下ろした竜血樹は、牛乳をテーブルの上に置くと大股に風呂場へと戻って行った。
 「そうだな、小さいから湯冷めしたらいけない」
 「論点違うそこ! わざとボケてんじゃないだろうな!」
 思わずウッドスプーンを握り締めたままデイビーは叫ぶ。それを背中で聞きながら、竜血樹はガウンを羽織って戻って来た。「集合住宅で叫ぶと近所迷惑だから、やめた方がいいと思う」
 「叫ばせたのはどこの誰だ」
 デイビーは頭に腕を押し当てた。その脇に寄ってきて、竜血樹は鍋の中を覗き込む。「やっぱりデイビーは料理が上手いな。いい主夫になるだろう」
 「何だよそれ」ことこと煮込んだ名前もついていない料理を掻き混ぜるデイビーの横顔を、竜血樹は上目遣いに見上げる。「セニャンの料理は凄いぞ。調理実習で惨劇を起こしたことがある。セニャンを台所に立たせるくらいなら、デイビーは専業主夫にならなければならない」
 「惨劇ねえ……」
 確かに彼女は料理が上手そうな風ではない。ろくに料理を作って食べているところを見たことがないので何ともいえないが、料理音痴だと言われると確かに納得できた。ああいうタイプの女性は、家事仕事に生甲斐を見出せないことが多い。
 「俺は隣の班だったけれど、こっちの鍋にまで引火させたのはセニャンだけだ。彼女はきっと料理で人を殺せる」
 「……生粋のテロリストな訳だ」
 鍋の中に火が入るのはわかるが、それが引火するとは何をやらかしたのだろう、とデイビーは思う。だが、その光景を想像すらすることができなかった。
 ふとデイビーは竜血樹の方を振り向くと、思い出したように言った。「もう動けるなら、そこにサラダを作ってるからテーブルのセットをしておいてくれ。後、冷蔵庫の中に鶏の冷作りがあるから切り分けておいてもらえるか?」
 牛乳を冷蔵庫に戻すついでに、棒状に締めてラップで包んだ鶏肉を取り出すと、竜血樹は目に付いたペティナイフで切り分ける。少し指先が不自由だったが、そのくらいの作業ならば彼にもこなすことができた。
 そうする間にも、デイビーはミルクパンで沸かしたチャイの火を止める。それから片手で皿を戸棚から二つ取り出すと、煮込み鍋で煮込んだシチューの具が均等に分かれるように器用につぎ分けていった。見惚れるような手際のよさに、竜血樹は感心したような声を上げる。
 「本当にデイビーは、いい父親になれるな」
 「そりゃどうも。いっそお母さんになった方がいいかもな」
 半ば自棄でデイビーはそんなことを言う。おかしそうに笑いながら、竜血樹はデイビーの脇から皿を取りテーブルに配膳すると、不意に小さく言った。
 「……シャオ・ティエン・シュ、だ」
 「は?」
 突然意味のわからない言葉を聞き、デイビーは思わず振り向いた。「何だそりゃ。中国語か?」
 そこまで言いかけて、ふとデイビーはその語呂に似た響きを見つける。三音節の、「樹」の音で終わる随分聞き慣れた雰囲気を持つ一つの単語。
 「教えてもいいのか?」
 思わずデイビーは竜血樹の方を振り向く。少女の顔をした少年は、少しだけ肩を竦めると微笑んだ。
 「もしもその名前の子供と会ったら、そのときにはデイビー、すまないが俺の代わりに手を繋いでやってもらえるか?」
 「え」
 竜血樹は柔らかく首を振った。その優しげな仕草は、ベルは見せることがない。
 「一度だけでいいから。もしも運よく会えたら、そのときは頼む。俺のことは出さなくていいから」
 デイビーはじっとその表情を見詰めた。その目を見上げ、彼は少し首を傾げる。「悪い、ちょっと重いか」
 「俺でいいのか?」
 つと小鍋に向き直り、カップを隣に広げると、デイビーは呟いた。くっきりとした『少女』の声が響く。「他には誰も頼めない」
 確かに重いな、とデイビーは茶葉の回る鍋の表面を見ながら思った。多分これは、彼が一生背負うことになる約束だ。出会えるまでも、出会ってからも、きっと彼はその子供を見放すことはできない。
 ぐい、とデイビーは口元を曲げて笑った。一度曇って、真ん中から曇りの取れた眼鏡で振り向くと、紗のかかったような竜血樹の姿が見えた。蜃気楼を見るほど暑かったあの日、窓越しに見た面影がふと重なって見えた。
 「……ロニーの子供なら、娘だとすげー美人だろうな。いいぜ、片手といわずどこまでも」
 「ロリコンが言うと洒落にならない。そこまでの保護はいらない」
 あっさりと真顔で切り返されて、デイビーは思わず顔をしかめた。だが、じっとこちらを眺める視線に、抗えるはずもない。
 「――頼めるか?」
 「ああ。断ったらレディーが怖い」
 つぎ分けたチャイのカップを持ってテーブルに就きながら、デイビーは頷いた。そして顔を上げると、にっと笑ってみせる。
 「取り敢えず、冷める前に喰うか」










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