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 Walking in the Air 
 1 





 瞼を開いてはじめに感じたのは、自分に動かすべき瞼があることへの疑問だった。
 なぜならば、意識を取り戻す前の最後の記憶と言えば、自分の咽喉に向けて重い刃を翻したこと。
 ――そして、その一瞬後に感じた閃くような熱い衝撃と、身を焦がすほどの未練に似た思いだったからだ。


 『彼』は、ふと首を巡らせた。
 どうやら室内らしいが、落ち着いた色の壁紙やくすんだ色のベッド、非常に清潔なシーツと緩く揺れるカーテンには全く見覚えがない。余り広い部屋ではないものの、掃除はきちんと行き届いているらしく、気持ちのよい風が僅かに開いたベッドの隣の窓から入り込んで空気を揺らしていた。
 更に首を伸ばして見ると、透き通ったガラス越しに窓の外の景色が見えた。眼下には華奢なフォルムの建物が幾つも天へと向かってそびえており、その間を縦横に通る路地には人や車の姿が玩具のように小さく見えた。だが、記憶の中にあるどの景色よりもそれは活気に満ちており、色彩も鮮やかで、その上道路標識や信号はまるで目新しい形をしていた。
 そしてその奥に、大きな木が立っているのが見えた。鉛筆のような整った樹形は、大型の針葉樹だろう。それに無数の煌く飾りがつけられているのが目を引いた。何かのディスプレイなのかもしれない、とぼんやり『彼』は思う。
 空はスモッグがかかって僅かに霞んでいる。だが、よく晴れた空は高く、気持ちのよい風に押し上げられるようにして天蓋を伏せている。最後に空を見たのがいつだったか思い出そうとして頭を掻き、『彼』はようやく重要なことに気付いた。
 顔に掛かる長い髪が、黒かった。
 「……あ?」
 思わず見下ろした自分の姿は、どうやらベッドの上に横たわっていたらしい。軽くて温かい布団を除けると、その下にある身体は記憶の中の自分のものより遥かに華奢だった。肌を覆う黒く丈の長い細身の服は、どうも女物のワンピースに酷似しており、更に言えば軽い布越しに浮かび上がる身体の線も、どう考えても柔らかい丸みのある女性のものだ。
 思わず掌をまじまじと覗き込み、傷だらけのそれの思いがけぬ小ささに愕然とする。慌てて首筋に纏わりつく髪の毛を引っ掴むと、腰の辺りまで届く長い黒髪が肩口から零れ落ちた。顔の右側に落ちる髪の一握りだけがなぜか透き通る銀色をしているが、いずれにしても今まで触れたことのない手触りの髪の毛だった。
 とりあえず立ち上がろうとしたが、長らく動かしていなかったらしい身体は思うように動かない。眩暈と手足の痛みに耐えかねてベッドから転がり落ちると、ひどく耳障りな音がして全身に衝撃が走った。一瞬身動きが取れなくなり、『彼』は頭を押さえる。
 その瞬間だった。壁側から騒々しい足音が響いたかと思うと、そこにある扉がけたたましい音を立てて開いた。
 「レディーっ! 目が覚めたの、大丈夫かい!?」
 耳に馴染みがないが、辛うじて意味が掴めるその言葉は、恐らく英語だろう。若い男の叫び声に顔を上げようとした瞬間、大きな腕にきつく抱き着かれて身動きが取れなくなる。凄まじい勢いで駆け寄ってきた男の、くるくると巻いた柔らかいハニーブロンドと、首筋に当たる冷たい眼鏡の感触だけが何とか把握できる全てのものだった。
 「レディーってば、ホントもう目を覚まさないかと思った。すんごい心配したんだよ、どうしようかと思ったんだから」
 早口に捲くし立てる男の声は、ほとんど泣いているようだった。ひどく聞き取りづらかったが、彼が心底心配していたことと、『彼』が何か特殊な状況に置かれていたことだけはよくわかった。
 どうにもばつが悪く、首を傾げながら『彼』は口を開く。
 「いや、その……」
 「ああ、ごめんよ! つい勢い余って……苦しかった? ごめんごめん」
 慌てて腕を解いた男は、そのまま『彼』の細い肩を掴むとその顔を覗き込む。心底心配そうな、労わるような男の表情は至って真剣そのものだった。顔立ち自体は典型的なアングロサクソンといったところで、眉から鼻筋にかけての線はシャープだが、ライトブラウンの瞳は温かく涙ぐんでいる。
 だが、その顔にはどこかで見覚えがあった。僅かに顔をしかめた後、記憶の中で合致する人物を見つけた『彼』は思わず声を上げる。
 「あ、お前あのとき官邸にいた……っ!」
 そこまで母語で言い掛けて、自分の声にも驚き『彼』は口を噤む。その声にもやはり覚えがある。記憶の中と少し違うのは、自分が自分の声として直接話しているからに違いないだろう。だがその声とこれまでに見た自分の身体的特徴が、ほぼ完全に一致する人物にも記憶の中で行き当たった。
 怪訝そうな顔をする男に、思わず『彼』は再び言う。今度は英語を何とか選択して話すことができた。
 「……もしかしてこれ、セニャンの身体か。セ・カンメイの身体じゃないか!」
 「レディー・ベル、どうしたんだよ。何が」
 先ほどまでと別の意味で心配そうな表情を浮かべ、男は『彼』を再び覗き込む。その肩口を掴み、『彼』は何とかわかっている状況を口にする。
 「覚えていないか、総統官邸で窓ガラス越しにあったことがあるだろう。俺だ、あのときの官娼だ」
 『官娼』という単語がなかなか出て来なくて詰まったが、それなりに流暢に言葉を発音することはできた。だが、自分の話す声にはどうしても馴染めない。違和感と戦いながら、『彼』は男に向かって自分自身を紹介した。
 「状況は俺にもわからん。だが、俺は取り敢えず『素乾竜血樹』だ。セニャンは話したことはなかったか?」
 信じてもらうのは無理だろうか、と顔をしかめる『彼』をまじまじと眺めていた男は、ふと思い出したように口を開けた。そして見る見るうちに表情を歪めると、思い切り息を飲んで仰け反る。そして大仰な動きで『彼』を指差し、驚くほどの大声で叫んだ。
 「まさか、あのとき窓の向こうにいたレディーの大好きなキラキラ金髪美形皇帝にーちゃんっ!?」
 「何だか訳のわからん認識だが、多分それであってるはずだ」
 辛うじてそう答えた瞬間、『彼』は胸座を掴まれて前後にゆさゆさと勢いよく揺さ振られた。為すすべもなく脳味噌をシェイクされる『彼』に向かい、男は涙と鼻水を飛ばしながら喚き散らす。
 「うあああ貴様レディーに取り付いてどういうつもりだーーーっ! 俺のレディーをとっとと帰せーーーっ!」
 がくがくと揺さ振られながら、『彼』もまたこれはどういうことだろうという不可解な謎に頭を痛めていた。


 「……取り敢えず、一つだけわかったことなんだが」
 ベッドにもたれるように座り込んで、『彼』――もとい竜血樹はげんなりと首を出した。
 「女の身体は、結構非力でぐにゃぐにゃしてる。余り乱暴に扱うと、多分思ってるよりあっさり壊れるぞ」
 「わかってるよそんなこと……あああレディーの身体に手を上げちゃったよ俺……」
 竜血樹の目の前で、男は頭を抱えて蹲る。本気で自己嫌悪している様子を見ていると、何となく不憫にならないでもなかった。
 手串で乱れた髪を邪魔にならないように掻き揚げると、竜血樹はまだ収まらない吐き気を堪えながら身体を支えた。「本当に申し訳ないんだが、俺にも状況は全く理解できない。だが、お前の様子だとセニャン――セ・カンメイは具合でも悪くしているようだな」
 「お前じゃなくてデイビー」
 突っ撥ねるようにそう言うと、男は泣きそうな顔で振り向いた。「あんたのせいだからな。あんたのせいでレディー、こんなことになっちまったんだからな。畜生恨むぜロニー」
 ロニーというのが自分につけられた愛称だろうか、と竜血樹はぼんやり考えた。少しだけ、自分に一番馴染んでいる通称と似ている気がして、心の奥の方が疼いた。だが、それを敢えて訂正するつもりにもなれないので、仕方なく彼は首を振る。
 「……どういうことか、説明してもらっても構わないか?」
 ――そう語る内にも、手足や身体のあちこちが鈍く痛んだ。部屋の中は温められているが、それでも手首に痣の残る腕は、じんじんと氷のように冷たかった。決して重い身体ではないのに、それを支えるには案外力が要った。この身体の主が――施寛美の名で連続テロを起こし逮捕されたはずの女が、ひどく身体を傷つけていることだけは誰よりもよくわかった。仮にも面識があり、どころか自分を助ける為に尽力してくれた相手である。彼女の身に起こった事情は気に掛かった。
 やがてデイビーは、眼鏡を鼻の頭に押し上げると暗く沈んだ声でぽつりぽつりと語り始めた。
 「ロニー、あんた途中で死んじまったから知らないんだろうけど……レディー、あんたを助ける為にかなり無茶したんだぜ? 収容所に逮捕されて拷問受けるし、脱獄した後もあんたを助ける為に収容所から官邸までデモを率いて歩いて行っちゃうし、挙句事態を収拾する為にぼろぼろのなりで演説うって。それだけやって国一つ、完全に叩き潰したんだぜ」
 「――それでは、革命は為し遂げたんだな」
 「ロニー、本当に何も知らないんだな。今あの国はジョン・スハンとかいう軍人が大統領になってて、ファーストレディーにローズ……あのタイホアが収まってる。けど、実質前の体制を壊したのはレディー・ベルだ。ロニー恋しさで何もかも捨てて犠牲にして突っ走ってきたのに、肝心のあんたが死んじまったから彼女にとっては全部無駄になっちまったんだよ。それでショックと怪我とで倒れちゃって、何とかここまで連れて帰ってきたけど――今まで一度も、目を覚まさない」
 「……それは」
 確かに、彼女の好意を知らなかったことにできるほど彼も鈍感ではない。眼差しだけで焦がされるほど、強い思いを向けられていたのはわかっている。それでも、彼にとって向かい合うことのできる女性はたった一人しかいなかった。今だって、本当ならば彼女の元で目覚めたかった。
 ただ、自分の為に彼女がそんなにも自分を犠牲にしたと言われ、それでも何も感じずにはいられない。彼の決して長くない生涯の中で、数少ない信頼を置ける人物だったことは紛れもない事実なのだ。いつか自分を忘れて幸せになってくれたら、と祈らずにはいられない女だった。
 オーバーアクションで鼻を啜るデイビーに、竜血樹はばつの悪そうな顔を向ける。すると縋るような眼差しでデイビーはにじり寄ってきた。嫌な予感に刈られて竜血樹は後退るが、非力な女の身体で足掻いてもたかが知れている。あっという間に追い付かれ、広い掌で再び肩を痛いほどに掴まれる。
 「なあ、ロニー今レディーと一つなんだろ? だったらレディー呼び戻したりとかできない訳? あの世の狭間とかにうっかりレディー迷い込んじゃったりしてんじゃないの? それ何とかならないのかなあって言うかせめてそれくらいして欲しいんだけどなあロニー!」
 「いや、申し訳ないけど、本当に俺にも訳がわからないんだ……そもそもあの世とか言われても」
 寸前の記憶は、放送局のカメラの前でナイフを咽喉に突き立てた瞬間のことだ。外の景色を見る限りだと季節は冬のようだから、少なくとも数ヶ月間の記憶は一切ない。ましてや彼女の意識など、どこをどうやって探せばよいのか見当もつかない。
 そこまで考えかけて、竜血樹はふと重要なことに思い至った。と言うよりも非常に根本的な問題なのだが、当たり前すぎてなかなか気付くのが難しかったのだ。
 「……それよりデイビーとやら、お前随分あっさりと状況を納得してしまっていないか? 俺はまだこの状況を受け容れかねているんだが」
 この身体はどうやら紛れもなく施寛美のものに違いないらしい。彼女の声帯を使って話すのだから、声も彼女と全く同じになってしまうし、肉体的制限もあるから仕草も元の自分と全く同じにすることはできない。他人が見れば、施寛美が様々な要因によって激的な性格変動を起こしてしまったと考えるのが自然なように思うし、自分が既に肉体の滅んだ素乾竜血樹であると証明することなどできもしないのだ。彼自身が、この状況を誰よりも疑っていた。
 すると彼は、ほとんど外聞もなく泣き喚きながら竜血樹――もとい施寛美の項に手を回した。
 「俺だってレディーが記憶喪失で人格が変わっちゃったとか考えたいけどさ。だって今のあんたレディーより美人度当社比五割増なんだよーっ! 畜生何で同じ顔してるのに中身入れ替わっただけでこんなに顔付き変わるんだよいっそ詐欺だと訴えたい! って言うかオーラが違うんだオーラが! レディーにあるまじきこのキラキラさは俺的にどうかと思うんだ!」
 思わず顔を引き攣らせ、げんなりと竜血樹は呟いた。
 「……信じがたい状況を飲み込んでもらえたのはありがたいが、その根拠は何だか色々凄く嫌だ」
 「俺だって嫌さレディーが別の男と一心同体になってるなんて、早くレディーを戻してよーっ!」
 力任せに二の腕を掴まれて再びぐらぐらと揺らされ、竜血樹はもはやデイビーが落ち着くまで無抵抗を決め込もうと心に誓う。竜血樹よりも数倍早く状況を飲み込んでしまったらしいデイビーは、本来男であったはずの竜血樹に対してまるで容赦しない。こんな風に腕を掴まれて振られることもかつてない訳ではなかったが、ここまで身体に堪えるとは思っても見なかった。男女の身体の作りは根本的に違うのだな、などと下らないことが脳裏を過ぎった。
 ふと、生前女性には僅かな例外を除いて手を上げることがなかったが、そうしておいて本当によかった、などとぼんやり思った。


 一頻り騒いで、デイビーが何とか落ち着きを取り戻したときには、既に施寛美の身体はぐったりと疲れ切っていた。
 どちらかと言えば、精神的なものもかなり大きかったが、肉体的な疲労がないとも言いがたい。腕をもたげ、足元を掻いて、ようやく竜血樹は彼女の身体が思っていたよりもずっと細くて力がないことに気付いた。そう言えば、さっきのデイビーの話によると彼女はこの数ヶ月間眠ったままのはずだ。自分自身の世話すらできなかったに違いないし、それゆえ筋肉の衰えも甚だしい。
 意識も戻らないまま、辛うじて身体だけはこんな風に使えるほど生きているのだから、それには他人の介助が必要に違いない。
 「……デイビー、もしかしてお前、ずっと彼女の面倒を見てたのか?」
 そう言いながら竜血樹は自分の鼻先を指差す。一瞬たじろいだものの、ばつが悪そうにデイビーは頷いた。鼻先にずれた眼鏡が、少しくたびれている印象を見る者に与えた。
 竜血樹は首を傾げ、もう一度尋ねる。「ここ、お前の家か? 彼女を病院とかに入れなかったのか?」
 「ちゃんと医者には診せてるさ。今日だって、さっき病院に連れて行ったところ。知ってる? 病院って、何ヶ月も容態が変わらない患者を収容しておく訳にはいかないらしいんだぜ。まぁ転院とかすればいいんだろうけど」
 憮然としながらデイビーは目を反らす。彼もどうやら騒ぎ過ぎて疲れたのだろう、床の上に座り込んだまま重そうに溜息を吐いた。
 「……まださ、一年にならないんだよ、レディー・ベルがこっちで暮らし始めて。その間に見知った場所は限られてるし、ぶっちゃけ病院とかは完全に彼女の未知の領域な訳。病院なんかに入れてたら、目が覚めたときいきなり全然知らない場所なんだぜ? かわいそうだろそんなの」
 確かにそれは不安だ、と竜血樹は自分の経験に照らし合わせて思う。どのくらい眠っていたのか、ここがどこで周りに誰がいるのか、幾ら記憶を辿ってもわからないという不安は一種独特のものだ。あの波乱の中で意識をなくしたのなら、目覚めたときにその状態だとひどく恐ろしいだろう。
 しかし、と一方で竜血樹は目の前の男に目を向ける。小柄な施寛美の目にひどく大きく映る男は、見たところまだ三十にもならないだろう。人のよさそうな雰囲気をしているが、そうは言ってもまだ若い男である。四六時中眠ったままの女の面倒を見るのは、彼自身にも負担になるに違いない。
 ふと自分の手元に目を落とした竜血樹は、意外なものに目を止めて首を傾げた。左手をまじまじと覗き込んだ後、彼は今着ている服の胸元を引っ張って中を覗き込む。その瞬間、思い切り隣から張り手で度突かれる。
 「覗くなーーーっ!」
 横様に張り倒され、為すすべもなく横倒しにされた竜血樹は、非力な身体を呪いながらぼんやりと呟く。
 「だから女に手を上げるのは……」
 「わかってるよ俺だってやっちゃったと思ったよーっ!」
 大袈裟な仕草で懊悩するデイビーの脇に起き上がり、竜血樹は言った。「……夫婦なのか、お前等」
 言いながら、彼は左手を顔の脇に掲げる。その薬指に、銀色の小さな環がはまっていた。
 「それが何で服を覗き込むことに繋がるんだよ」
 恨めしそうにねめつけるデイビーに、悪意のない調子で竜血樹は言う。「いや、意識のないセニャンに手を出してるんだとしたら、デイビーは相当な鬼畜だと思っ……」
 危うく首を締められそうになり、慌てて竜血樹は不自由な身体で後退る。はっと我に帰ったデイビーもまた、愕然として項垂れた。
 意外と容赦のないデイビーに警戒して間合いを取りながら、竜血樹は注意深く声を掛ける。「そうじゃなくて……その、何て言うか」
 「……籍を入れたのは帰ってきた直後。レディーの意思を問う余裕はなかったんだけど、そうでもしないと他の人に対して俺が彼女の面倒見る理由がつかなかったんだよ。こうしておいたら一応それなりの保護とか出るしさ……ちなみに神に誓って、俺はちょっかいを出したことはありません」
 疲れ切った乾いた声で、デイビーは語った。小さく頷き、竜血樹は彼の顔を見遣る。「不憫な男だな、お前」
 「紳士と言って」
 溜息を吐く男の憔悴した顔を眺めていると、ひどく申し訳なかった。本当に、どうして自分はよりにもよって施寛美の中に入り込んでしまったのだろうと頭を抱えそうになる。どうしようもないのはわかっていたが、それでもこの状況は何とかしてやりたかった。
 不意に竜血樹は、かつて自分が語ったはずの言葉を思い出す。
 「……プリーズ・ヘルプ・ハー」
 「言われるまでもない、わかってる」膝を抱え込んで顔を埋めてしまったデイビーは、しおしおと泣きそうな声で言った。「手段を選ぶつもりはないさ。俺は俺の出来る限りをするまでだ。それでどうしようもなかったらホントどうしようもないんだけど……」
 多分、全力でこの男は彼女に尽くしているのだろう。筆舌に尽くしがたい、人のよい男だと竜血樹は縮こまった姿を眺めながら思った。
 施寛美が素乾竜血樹に恋しているのはわかっていた。それゆえに、あそこまで尽力してくれたことを思うと、どうしようもない申し訳なさに駆り立てられる。いっそ、どうしてその対象が自分だったのだろうなどと思わずにはいられなかった。
 「デイビーに惚れていたら、セニャンはもっとずっと楽だったろうな」
 「俺だってそう思うよ」
 忖度なくデイビーも答える。そして重そうに顔を上げると、沈み込んだ声で付け加えた。「……だけど、レディーが好きなのはあんただし、ロニーのことが好きなレディーが俺は好きなんだし、そう思うと一概には否定できない」
 やるせなさに竜血樹は唇を引き結ぶ。確かにそれは厳然たる事実で、その前提がなければ彼女は何も為し遂げることはなかっただろう――但し、それが彼女の幸福とは一切無縁のところで起こったこともまた事実なのだが。
 どうしようもない思いで、ぽつりと竜血樹は呟いた。
 「俺がセニャンなら、多分迷わずお前を選ぶだろうに」
 素乾竜血樹が、迷わずあの女性を選んだように。
 デイビーは泣き笑いのような表情を浮かべると、小さく言った。「ありがと。その五割増美人のキラキラ顔で言われなかったらどれほど嬉しかったかと思うよ」
 そして、ふと思い出したように顔を上げると声を強張らせる。
 「……ところで、いつまで長居をするつもりだい? ロニーが入ってる限り、多分レディーは出てこない。早いとこ帰ってもらえたらありがたいんだけど」
 その真面目な顔に、竜血樹は居た堪れなさを感じながら簡潔に告白した。
 「いや、だからどうして俺がここにいるのかもわからないし、どうやって帰るのかもわからない」
 多分もう一度死んだ状態に戻る方法は幾らでもあるのだろうが、肝心なのは施寛美の身体を傷つけないことだ。彼女の肉体に致命的な損傷を与えず、中身だけ死んでいる状態に戻すという器用な方法など、竜血樹が知るはずがない。
 だが彼の告白を聞いた瞬間、見る見るうちにデイビーの顔色が蒼褪めた。その豹変に、竜血樹も暗澹たる思いを抱きながら、またもや間合いを取り始めた。
 「な……ちょっと待ってよどういうことだよロニーっ! 勝手に入り込んでおいて、とっととレディーに身体を返せーーっ!」
 「だから俺の意思とは関係ないんだ! 俺だってできるものならホンファンのところに行きたかった!」
 思いのたけを叫びながら、竜血樹は何とか今度こそデイビーの攻撃を腕で防いだ。うっかり殺されてこの身体まで駄目になったら、自分はもう一度死んだ状態に戻るだけだろうが、施寛美とデイビーに余りにも申し訳ない。ついでに言えば、余り痛い思いばかりするのもいい加減勘弁願いたい。
 「取り敢えず落ち着け、落ち着いて状況を何とか分析するしかないだろう!」


 しばらく格闘した後、取り敢えず男二人は協議をすることにした。
 「……まず、今わかっていることを一つずつ挙げていくぞ」
 竜血樹の言葉に、真剣そのものの表情でデイビーは頷く。彼の目の前に、竜血樹は施寛美の節が立った細い指を立てる。
 「一つ、この身体はセ・カンメイもといベル・グロリアスのものだが、現在中身は俺こと素乾竜血樹である」
 「大前提だしな、疑っても仕方がない」
 頷くデイビーに、竜血樹はもう一本指を立ててみせる。
 「一つ、セ・カンメイは八月十五日以来ざっと四ヶ月間意識不明の状態が続いているが一応は生きていて、逆に俺は八月十四日に既に死んでいる」
 「つまり中の人は、いわゆる幽霊みたいなもんってことだ」
 厳密にそう言えるのかはわからなかったが、同意とも否定とも取れない仕草で竜血樹は肩を竦めた。そしてもう一本の指を立てる。
 「一つ、俺はなぜこのような事態になったのかわからないし、この四ヶ月間の記憶も一切ない。あの世とか天国とかいったものの記憶もない」
 「要するに、寝て目が覚めたらここにいたってのと同じ状態だな」
 次第にデイビーの口調が投げ遣りになってきている気がしたが、竜血樹は気にせず更に指を立てる。
 「そして俺としては重要な一つ、なぜ彼女の身体に入り込んだのかわからない俺は、出方もわからない。従ってセ・カンメイの引き戻し方もわからない」
 きっぱりと言い切る竜血樹の言葉に、デイビーは沈鬱そうな表情で俯いた。「……一番肝心な部分がわかってない訳だよ」
 肩身の狭い思いで頷きながら、竜血樹は残っていた指を立てた。そして意外と小さな掌を不自由そうに掲げる。
 「最後にもう一つ、この身体はどうも普通の人間と同じような生命活動をしているから、それが止まったら俺もセニャンも入れなくなる」
 俯いたままふと腕を伸ばしたデイビーは、施寛美の細い手首を握った。そして指先で探るように彼女の骨の周りを撫でる。「……うん、ちゃんと脈もあるし息もしてるし温かい。ってことはあれだロニー、お前レディーの手足だけじゃなくて内臓までばっちり借用してるってことだな」
 「借物だってことは重々承知している。少なくとも俺が入ったせいで致命的な損傷を得ることがないようには気をつけるよ」
 どちらかと言えばそれはデイビーにも気を付けてもらいたい部分なのだが、と内心で思いながら竜血樹は答えた。
 「……取り敢えず、俺が断言できるのはこれが全てだ」
 額を押さえながら、デイビーは暗澹とした声で呟いた。「何にもわかってないのとほとんど変わらないじゃないか」
 「俺は、セニャンに身体を返す意志がある。方法がわからないのだから、それさえ探り当てたら構わないんだ」
 慣れないスカートをどう裁いてよいのかわからず、やむなく竜血樹は胡座に組んだ足元に裾を押し当てた。女顔だとか言われながらも、約十八年間付き合ってきた自分の身体は紛れもなく男のものだった。女の身体をどう扱えばいいのかまるで見当がつかないのが、目下悩みの種になりそうだと彼は思った。
 ふと、デイビーが意外そうに顔を上げた。
 「……俺はてっきりロニーがこの世に未練たらたらで戻ってきたものだと思ってたんだけど、何だ、返しちゃっても構わないって思ってる訳?」
 「未練がない訳ではないが、このままセニャンを乗っ取ろうと思うほど俺も厚かましくはない」
 まして、彼女が自分の為にぼろぼろになりはてて眠り続けているのなら尚のことだった。できるだけよいコンディションで彼女にもう一度明け渡さなければ、彼女のみならずデイビーに対しても申し訳が立たない。
 だが、デイビーはふとブラウンの眼差しを細めると不審さを隠さずに言った。
 「――でも、そこを離れたらロニーはまた、何もできないし何もわからなくなっちゃうんだろ?」
 一瞬竜血樹は言葉に詰まる。
 確かに、今こうして応酬をしていることは、一見自然なことに思えていたが、実際は信じがたいことのはずだ。多分今入り込んでいる施寛美の身体を離れたら、もう二度とこうして口を利くことも何かを考えることもできなくなってしまうに違いない。
 だが、竜血樹はそれでも緩く首を振る。視野の端で、黒い真っ直ぐな髪の毛が揺れた。
 「俺はもう死んだ人間だ。こうしてここで自分の意思を振り回している方がおかしいんだ。第一、借物は必ず元の持ち主に戻さなければならないし、この身体を借り受けたのも俺の意思とは関係ない」
 思いの外に、声音は決然と響いた。そう語る竜血樹をまじまじと眺めると、デイビーはふと肩を竦めて息を吐いた。
 「……ロニーがそれで構わないのならいいけど」
 「デイビーだって、セニャンに戻ってもらいたいのだろう?」
 そう言うと、デイビーはひらひらと掌を振った。「そりゃそうだけど……まあいいよ。レディーに目を覚ましてもらいたい、俺の希望はそれだけだ。ずっと動かなかったらレディーの身体も鈍っちゃうだろうし、リハビリとしてロニーが筋トレをしに来てくれたんだと思うことにするさ。まあ後は、追々考えよう」
 「いつになるかわからないが、必ず返すから。少なくとも、これ以上お前達を振り回して悲しませるのは、俺としても申し訳なくて不本意だ」
 不意にデイビーは足を崩すと、黙ったまま立ち上がった。そして施寛美の頭に掌を載せると、それをくしゃくしゃと掻き混ぜる。大きな力のある掌に撫で回され、思わず竜血樹は顔をしかめた。
 「な……」
 「……取り敢えず、腹減っただろ。レディーの身体も四ヶ月栄養点滴だけで繋いでたんだし、その様子じゃお供えとかもあんたの口には入ってないみたいだから、何か消化のいいもの作ってやるよ」
 不機嫌そうにデイビーはそう言うと、先ほど入ってきたドアの方に足を向けた。きょとんとした顔で見上げる竜血樹を振り向くと、デイビーは大袈裟に肩を上げて見せた。
 「身体返すって言ってるんだから、ロニーはお客だよ。追い出すいわれはないし、第一その身体はレディーのもんだ。しばらくはレディーのついでにお前も面倒見といてやるよ」
 信じられないような思いで竜血樹は何度も瞬いてみる。少し動きは鈍いようだが、思うように動かない身体の器官は一つもない。
 (――俺は、死んだのに)
 あれだけ追い込まれ、自刎して果てて、肉体は完全に滅び去って。
 ――それなのに、今息を吸い込むと、胸の奥に冷たい空気が入り込む感触がする。身体の芯で脈打つ心臓は、紛れもなく生きている人物のものだ。
 望みもしない場所で、意外すぎる人物の身体に入り込んで、思いもかけない人と巡り合って。
 (どうして――)
 何も理解できなかった。何も納得できなかった。余りにも理不尽で、余りにもあり得なかった。
 ふと、ドアの向こうに消えたはずのデイビーの声が聞こえてきた。
 「こっちに来い、食卓には座れるだろ? 好き嫌いがあるなら早めに言えよ」
 (セニャン)
 のろのろと立ち上がった竜血樹は、思うように動かない重い身体を引き摺りながら、よろめき足を運んだ。
 もう適わなくなったはずの全てのことが、今目の前にこうして転がっている。失ったはずのものが、惜し気もなく辺りに散らばっている。
 けれどそこに彼の意志はない。本当に望むものは、ここにはない。
 (ごめん)
 ――それでも今彼は、ここで彼女の身体の中に生きている。それは紛れもない事実だった。
 「アレルギーとかはレディーの体質で注意すれば大丈夫だな? 卵とベーコンとチーズはいけるか?」
 デイビーの声は、張り上げている風でもないがよく通る。長く使われていない施寛美の咽喉ではあるが、意外とくっきりした声が出せた。
 「ああ、ソーセージは苦手だが、ベーコンならいける」
 やっとの思いで戸口に辿り着き、その向こうを覗くと、きちんと片付いたキッチンダイニングが広がっていた。端のコンロの前で、妙に慣れた手捌きで鍋を混ぜるデイビーの後姿が見える。始めて見る景色なのに、妙に見覚えがある気がするのは、多分施寛美の目がそれを知っているからだろう。
 少し迷って、テーブルの端の方にちんまりと腰を下ろすと、竜血樹は身を縮めた。所在なさげに少しだけ視線を巡らせていると、ふと後ろからぬっと腕が伸びてきて驚いた。見ると、デイビーがかちゃかちゃと音を立ててスプーンとフォークを器用に並べていく。
 「……ま、入ってしまったものは仕方ないさ。中身が野郎と思うとぞっとしないけど、外身がレディーだってことで大目に見ておいてやるよ。何とかなるまで、ここで大人しくしてたらいい」
 そしてふと鍋の方に足を運びながら、ぽつりと呟いた。
 「あんなろくでもない死に方したんだ。今度はもう少し、ましな往き方したっていいだろ。レディーだってきっとそれを望む」
 一瞬何か言おうとした竜血樹は、結局適当な言葉を考え出すことができなかった。しばらく押し黙って、それからようやく鍋を掻き混ぜるデイビーの背中に呟いた。
 「……ありがとう」
 「レディーに礼を言うんだな。ま、野郎二人で同じ屋根の下ってのもむさ苦しいけどさ、俺もわざわざあんたを苛めようとは思わないし」
 ほら、と目の前に湯気を立てる器が置かれた。チーズとミルクの匂いがする、粥のようなものが入っていた。とろりとしたそれを口に入れると、米とは違う甘くて柔らかい味がする。パンをちぎってリゾットに仕立てたらしい。
 しばらく無言でそれを口に運んでいた竜血樹は、ふと思い出したように手を止めると、スプーンをかちゃんと置く。
 「あれ、不味かった? 俺は風邪引いたときそれが一番なんだけど」
 振り向いたデイビーに、竜血樹は改めて頭を下げた。
 「……しばらく厄介になると思うが、よろしく頼む」
 「何だよ改まって。レディーの顔でそんなことされると照れ臭いよ」
 竜血樹は何となく苦笑しながら、改めてスプーンを手に取ると、チーズのパン粥を口に運んだ。
 ――取り敢えず、料理の上手いこの男に世話になるのであれば、そうまんざらでもない日々を過ごすことができそうだ、とぼんやり思った。
 自分の寿命から少しはみ出した、期間のわからない『余暇』を。










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