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 Walking in the Air 
 3 





 カレンダーの日付を見て、デイビーはこっそりと溜息を吐いた。
 普段明るい表情ばかりを浮かべているが、今日ばかりは少し気が滅入る。それを気取られまいとするのも彼なりの周囲への思いやりなのだが、テレビの前のカウチに猫のように寝そべってくつろぐ人物は気付いているのかいないのか。
 その外身と同居を始めたのはこの夏からだが、その中の人がやってきたのはずっと後だ。デイビーにとってそれは余りありがたい客ではなかったのだが、無下に追い払うこともできないまま、『彼』が居座ってそろそろ一週間になる。
 テーブルに手を伸ばしてミルクの入ったカップをもたげながら、彼――竜血樹はよく通る少女の声で呼び掛けた。「デイビー」
 「何だよ、俺はあんたのママじゃないんだロニー、用があるならこっちへ出向け」
 朝食の食器を片付けながら、デイビーは腰に手を当てて竜血樹の方へ歩いていく。別に竜血樹を丁重に扱おうという意識はさらさらないが、彼が今使用している身体はベル・グロリアスのものなのだ。迂闊に重いものを持たせたり水仕事を任せて、傷の治りに響いてもいけない。自然とデイビーは、竜血樹ごとお姫様扱いをする羽目になってしまう。
 ソファの上に膝を抱え、湯気を立てるカップを両手で抱え込んだまま、竜血樹は首を傾げた。普段のベルよりも五割増華やかな雰囲気にも、いい加減にデイビーは慣れてきた。
 「何の用だい?」
 「今日は何だか賑やかだが、クリスマスとは何なんだ?」
 ふとテレビを見ると、いつものニュースのはずなのに、デスクの前にクリスマス風のフラワーアレンジとリースが飾られているのが見える。ニュースの内容も、街の賑わいをライブカメラで映したもののようだった。
 デイビーは溜息を吐く。「今日はクリスマスじゃなくて、クリスマス・イブ」
 「何だかよくわからないが、まだ朝なのに前夜祭か。アメリカ人は気が早いな」
 何の衒いもなく竜血樹は言い、ミルクに口を付ける。軽く肩を竦めて、デイビーは竜血樹の頭にぽんと掌を載せた。突然で驚いたのだろう、竜血樹は少しカップを傾けて零しそうになった。「何だ、危ないな」
 「今日はな、俺デイビットソン・A・ステュワートの誕生日だから、全米を上げて祝福してくれてる最中な訳。おわかり?」
 きょとん、と振り仰いだ竜血樹は、黒い瞳を瞠って声を上げた。
 「そうか、それはめでたい。幾つになったんだ?」
 「いきなり致命傷ドンピシャリだよロニー。十七の坊やみたいに誕生日が楽しみな年じゃないのは確かだね」
 暗澹たる顔でデイビーはソファの背もたれに突っ伏す。竜血樹は少しむっとしたように彼の頭に指の甲をぶつけた。「一日足りなかっただけで、もう十八だ」
 「そんな風に胸張って年を言える時代が懐かしいよ……」
 情けない声を上げるデイビーの様子をまじまじと眺めていた竜血樹は、少女の顔を華やかに綻ばせて言った。「安心しろ、男の価値は五十代からだと言うじゃないか」
 「ごめん今真剣に気になったんだけど、ロニー俺を幾つだと思ってたの」デイビーはよろよろと顔を上げる。
 竜血樹は、特有の無邪気で真面目な表情を浮かべた。
 「……いや、ロリコンってのは言葉のあやだからそこまで気にしなくても。愛があれば年の差なんて」
 思わずデイビーは目の前の『少女』の頭を両手で掴むとわしわしと前後に振った。
 「二十九歳! ようやく今日からにじゅうきゅうなの!」
 為すすべもなく細い首を前後に揺すられながら、竜血樹はがくがく震える声で言った。
 「いいじゃないかあまり代わりがなくて。二十八も二十九も、四捨五入で三十だ」
 切れ切れのその言葉を聞いた瞬間、デイビーは本気で竜血樹をソファに叩き付けた。しばらく潰れたように動きを止めた後、のろのろと竜血樹は顔を起こす。
 「……幾らセニャンがタフでも、病み上がりに今のはやりすぎだと思うぞ」
 「やらせたのはどこの誰だ」
 デイビーは頭を抱えて、憮然と呟いた。


 「要するに、クリスマスとはキリストの誕生日のことなんだな」
 一通りデイビーによって、テレビに映るクリスマス状況のニュースを解説されて、竜血樹は確認するように頷いた。やれやれと頭を掻くデイビーに、もう一言質問が重ねられる。
 「……クリスがクライストなのはわかった。だが、マスの部分の意味がわからない」
 「ミサ。礼拝のこと」
 間髪入れないデイビーの返答に、ようやく腑に落ちたという表情を竜血樹は浮かべて見せた。
 「つまりは宗教儀礼なのだろう? 欧米社会は常にキリスト教によって規定されるという言説は正しかったのだな」
 もっともらしい文章とは往々にして、至極当然なことをわざと難しく言い回しているに過ぎないことが多い。それを持論としているデイビーは、ややこしい言い回しばかりを使う竜血樹に向かってひょいと肩を竦めて見せた。
 「天然ボケがそういう真っ当なこといっても、突っ込み待ちにしか聞こえないよロニー」
 「ボケ? ……記憶力はそれほど悪くなかったつもりなんだが、何か記憶違いがあったか?」
 一瞬ふざけているのかと思ったが、口調は極めて真面目だった。元来鋭い印象のあるベルの目に好奇心と僅かな不安を滲ませ、くるりとこちらを見詰める眼差しに、デイビーは何となくばつが悪くて再びハニーブロンドの頭をがりりと掻いた。
 「ロニー真性だよね。何でロリコンはわかるのに天然ボケは知らないのかなあ、ボキャビル偏ってるよ」
 「仕方がないだろう、その辺りは閨の聞きかじりなんだから」
 「生々しいなあ。って言うか普段どういう会話をしてたんだよロニー……」
 むっとしたように口を尖らせる竜血樹に向かって、デイビーはげんなりと項垂れた。彼を取り巻いた状況の幾らかは一応知っているので、余りにもあっさりと『閨』などと際どい単語を出されると何となく気分的に堪える。
 先ほどからの流れで、悄然としているデイビーを眺めながら、竜血樹はその肩を突付いた。「どうしてお前が落ち込むんだ。せっかくの誕生日だろう」
 「だぁかぁらぁ、俺はもう誕生日が楽しいお年頃じゃない訳」
 掌を上げてひらひらと振るデイビーをきっかりと見据え、竜血樹は首を傾げた。
 「……どうして、自分の生まれた日が嬉しくないんだ? 自分が人生を始めた日は、一年に一度しかないだろうに」
 「故人に言われると妙に痛いねそれ。そう言われたら確かにそうなんだけどさ」
 デイビーはようやく顔を上げると、明るい色の瞳に影を落としながら呟いた。
 「……また、レディーとの年の差が開いちゃったなーって思った訳さ」
 「ロリコンってのそこまで気にする必要はないぞ。第一セニャンはもう結婚できる年だし、ロリコンでも犯罪にはならない」
 悪意はないのだろうが、デイビーは思わずベルの容姿の向こうに見える竜血樹をねめつける。「だから連呼しなくていいって」
 そして軽く首を振ると、頬杖を突いて溜息を落とした。「俺、レディーには二十六って言ってたんだよね」
 竜血樹は何度か軽く瞬いた。それからデイビーの顔をまじまじと眺め、腑に落ちたというように軽く頷いた後、首を傾げる。
 「八歳差と十一歳差か。違いは微々たるもんだが、気分的には大きいかもな」
 「だろ?」
 デイビーは同意を求めて身を乗り出す。「一桁と二桁の違いは俺的にやっぱ大きいんだよ! ましてや来年になってみなよ、レディーが十九で俺は三十!」
 「……墓穴掘るなよ」
 竜血樹はどこか呆れたように呟いた。だが、あの悩みのなさそうな男がいつになく暗然としているのを見ると、何となくこちらまで気分が重くなってくる。
 「セニャンはそういうのを気にする性格じゃないだろう」
 「レディーが気にしなくても、俺はやっぱり気になるの。しかも彼女の知らない内にまた一つ年食っちゃったなんて……」
 溜息ばかり落とすデイビーは、ソファにしゃがみ込んで項垂れ眼鏡を外した。その様子をまじまじと眺めながら、竜血樹はぽつりと呟く。
 「……お前、もしかして実はセニャンに誕生日を祝って欲しかったんじゃないか?」
 デイビーは驚いたように顔を上げる。「どうしてそうなるんだ」
 「『へえ誕生日なの、それはおめでたいじゃない。年の差? あんたあたしより子供っぽいくせに、何でそんなの気にしなきゃいけないの』」
 何度か瞬いて、不意にきつい目をすると、ベルの唇はさらさらと暗誦でもするように一息に語った。余りにも普段のベルそのものだったので、驚いてデイビーは唖然と口を半開きにしたまま彼女の顔を眺める。
 「……れ、レディー・ベル?」
 「……似てたか?」
 ふっと呪縛でも解けたように、彼女の中から華やかな気配が漂いだした。その口振りも仕草も竜血樹のものだったので、デイビーはやれやれと肩を窄めた。「その外身でやられちゃ洒落にならないよ」
 「セニャンにそうやって否定して欲しいんだろうデイビーは。多分彼女が一言そう言えば、お前の悩みは解消する」
 「どこまで俺って単純な男だと思われてんだ……」そう呟いたものの、デイビーは少しだけ顔を上げた。「……ああ、でも今レディーが言ったんじゃないってわかったらちょっと凹んだから、もしかしたらそうなのかも」
 その様子をまじまじと眺めていた竜血樹は、ぽつりと思い出したように言った。
 「……どうして俺、戻らないんだろうな」
 「心残りとかまだ残ってるんじゃないの?」
 竜血樹は怪訝な顔をする。「未練は全部片付けたと思っていたんだが。むしろ、こうしてる方が色々思いが残る」
 しばらく二人で押し黙り、それから徐にデイビーが顔を上げた。
 「……ポスト見てくる。そうだよ、今日はイブでバースデーなんだよ」


 「……何だそれ」
 戻ってきたデイビーの手の中に目をやった竜血樹は、思わず目を瞠った。手の中のカードの宛名を確かめながら、デイビーは顔を上げる。
 「ん、クリスマスカード。知らない?」
 ぱらりと何枚かトランプのように広げて見せたそれは、丁度ポストカードのサイズの紙だった。色とりどりのそれらは、金粉がちりばめられていたり切り絵になっていたりと見た目にも楽しい。だが、如何せんその量が尋常ではなかった。厚みだけを見ると、辞書くらいになってしまうかもしれない。
 「本当はもう少し早く送るもんなんだけどさ、皆俺の誕生日に合わせて送ろうと思うらしくって。そのおかげでカードをオーナメントにしても、時期がずれちゃうのがちょっと寂しいところ」
 そして大量のカードをテーブルの上に置いた。何となくその字面を目で追うと、『Merry Christmas』や『Happy Birthday』の他に、季節の挨拶を述べたものも少なくない。それにしても、この陽気な男の友好関係を偲ばせる凄まじい量だった。
 「『あけましておめでとう』まである……要するに拝牌みたいなものか」
 「拝牌の方がわかんないよ」
 宛名と文面を眺めながらデイビーは少しだけ笑う。「新年の挨拶も兼ねてるからね。仲がいい相手に今年あったこととか書いて送るんだよ。あ、ローズからも来てる。ほらほら、サーディンからはもっと前に届いてたんだけどさ」
 手に持っていたカードを置いて、竜血樹はデイビーの方を覗き込む。「ああ、チャンニャンか。さっきもニュースに出てたけど、相変わらず元気そうだな」
 「今年は結婚報告が結構多いなあ。みんな元気そうで何よりだ」
 嬉しそうに独り言でコメントを返すデイビーに、まじまじとカードの一枚を眺めていた竜血樹はちょっと向き直る。そして服の袖をちょっと引っ張りながら訊ねた。
 「これ、何だ?」
 デイビーは言われるままにそちらを見る。そこには、可愛らしいクリスマスカードに、少し立体的な赤い服に白い髭の老人が描かれていた。
 「ああ、サンタクロースか」
 「サンタクロオス? 何者だ?」
 真剣な顔で訊ねる様子がおかしくて、思わずデイビーは吹き出す。「何だ知らないのか、そういやクリスマスがなかったらサンタもいないよな」
 「それはどうでもいい。何なんだ、サンタクロオスって」
 小柄なベルの身体で腕を掴まれると、子供にごねられているような気がした。顔を綻ばせながら、デイビーは簡潔に言う。「サンタクロースは今夜クリスマス・イブの晩、世界中のよい子にプレゼントを持ってきてくれる、優しいお爺さんなんだよ」
 「ボランティア?」
 どこかずれた竜血樹の反応を愉快がりながら、デイビーは答える。「いや、今も健在のお伽噺だよ。よい子にしてなきゃサンタさんは来ないぞ、は十二月のお父さんお母さんの口癖だな」
 「ああ、なるほど。公安が来るぞ、と似たようなもんか」
 どこか上の空で頷きながら、竜血樹は食い入るようにカード上の人物を眺める。丸々とデフォルメされた可愛らしいぬいぐるみ風の人物像だが、見知ったサンタクロースの他に、どこかでその姿には覚えがあるような気がした。
 どこで見たのだろう、と少し考えてみたデイビーは、竜血樹の呟きでようやく恵心した。
 「……先生、元気かな」
 なるほど、とデイビーは掌を、竜血樹の頭に載せた。瀬戸甫民とサンタクロースは、確かに風貌だけ見ればよく似ているかもしれない。
 しかし、余りにも真剣な竜血樹の表情を見ていると逆に笑えてきて仕方がなかった。これで中身は十八の男なのだから、なかなかメルヘンな感性の持ち主なのかもしれないなどと笑いを堪えながら思う。
 「サンタクロオスって何人だ? キリスト教の聖人みたいだが、英語っぽくないな、ラテン系か?」
 「聖ニコラウスさ。フィンランドに住んでるってことになってるが、元々はトルコ人だな」
 ぱっと竜血樹は顔を上げ、肩に髪の毛を弾ませて振り向く。「トルコ? 先生と同じだ、先生の母君はトルコ人だったって」
 「あそこも昔はキリスト教国だったしなー……でもあの老人はどっちかと言えばムスリムっぽくなかったか。まぁ、カソリックもイスラームも経典の民だから、一神教って意味じゃ似たようなもんなんだろうけどな」
 だが、どうもその辺りは耳に入っていないらしい。意外と宗教の染み付いているアメリカ人と違い、共産圏育ちの竜血樹は宗教観には疎いらしい。だが、懸命に老人を眺めている姿は子供っぽくもあり、少し哀れな感じでもあった。
 改めてもう一度サンタクロースを眺めてみると、好々爺然とした笑顔を浮かべるその人形が、火薬を解して不穏な爆発物を作りテロを巻き起こした老人の姿と重なった。プレゼントの代わりに禍を置いていくのは、悪い子のところに来るブラックサンタだ。
 「ま、よい子にしてたらロニーの枕許にも、プレゼントを置きに来てくれるさ」
 子供扱いするな、とでも返ってくるかな、と思っていたが、結局竜血樹は何も言わなかった。


 懐かしそうに一頻りカードをざっと眺めたデイビーは、ふと思い出したように顔を上げた。そして興味深げにカードを眺めている『少女』の横顔を呼び止める。
 「そうだ、ロニーも誰かに書く?」
 驚いたように竜血樹は顔を上げた。困惑する彼を残して、デイビーは再び席を立つ。「今年の余りがあるんだよ。せっかくだから、誰かに出したら?」
 「いや、俺は……」
 「もうチャンスはないかもしれないんだし。いいじゃないか、イブなんだから。届くのはしばらく先になるけど、まあ新年の挨拶ってことで」
 書斎のドアを開けて、何やらごそごそと音を立ててからデイビーは引き返してきた。「あったあった。ほら、何枚くらいいる?」
 「いや……」
 顔の前で掌を振って抵抗しようとしたが、ふと竜血樹はそのカードに目を止めると、しばらく躊躇った後にぽつりと言った。
 「……それじゃ、三枚」
 「それでいいの?」
 デイビーは首を傾げながら、竜血樹の目の前に何枚かのカードを広げた。ついでにじゃらりと音を立てて、色とりどりのペンが刺さったスタンドを並べる「んじゃ、好きなの選びなよ。ペンもこの辺のを使ってさ」
 細い万年筆を一本引き抜いた竜血樹は、髪の毛を後ろに掻き揚げて、クラシックな写真のカードを一枚抜き取るとそれをまじまじと眺めた。
 「……いいのかな、びっくりさせるんじゃないかな」
 「いいじゃないかびっくりさせたら。意外な人からの手紙は案外嬉しいもんだぞ」
 「でも俺、死んだし」
 躊躇するようにデイビーの顔を見上げる『少女』の面差しに、眼鏡を押し上げながら彼は笑って返す。「いいじゃないか、ニューイヤーズカード・フロム・ヘブンで」
 「そうかな……」
 急に大人しくなって、竜血樹は金の文字で季節の挨拶が書かれた紙面をまじまじと見詰める。それから考え込むような仕草をした後にペンを走らせようとして、再び躊躇うようにペンを上げた。
 何を書こうか迷っているらしい彼の隣を立ちながら、デイビーは何となく思い出したように呟く。
 「……そうそう、俺の個人的なカードのコツなんだけどさ、禁句は避けて書くようにしろよ」
 「禁句?」
 こちらを仰ぐあどけない顔から、デイビーは顔をそらす。
 「俺的三大禁句は、『もしも』『いつか』『ごめん』だな」
 竜血樹はふとカードに目を落とした。それから、今自分が書こうとした言葉が残っているかのように、ペン先をまじまじと眺める。
 「カードは来年のこの時期にも、アドレス確かめるのに見直すものなんだから、未来の不確定要素を書き込むのは実現しててもしてなくても何となく気恥ずかしいじゃないか。何か書くなら『もしも』や『いつか』じゃなくて、来年は絶対こうしてみせるって決意を書いた方がいいよ」
 そして、ふと口調を落として言葉を繋いだ。「……それから、謝るんだったらせっかくのカードに書くんじゃなくて、直接口頭での方がいい。カードを見るたび、謝られえる原因を思い出すのはあんまりよくない。できればカードには、めいっぱい楽しい嬉しいことを書くんだ。その方が、読む方も楽しいし嬉しい。俺は少なくとも、そう信じてる」
 「もう会えないなら、余計にそうだな」
 竜血樹は、ベルの口元を少しだけ綻ばせた。それが彼女のよく見せていた皮肉げな微笑ではなかったので、やはりこの人物はベルではないのだということを改めて何となくデイビーは感じる。仲がよかった友人という訳でも、ましてやベル自身でもない存在なのに、一週間もこうしているとこの少年が妙に身近な存在に感じられていた。
 「……ああ、故人が送るときにはその辺は特に注意しなきゃいけない」
 「死んだら普通手紙なんて書かないだろう」
 間髪いれずに振り向いた竜血樹は、それからようやく気付いたようにふと口元に指を当てた。「……あ、そういうことか」
 デイビーは軽く頷く。「生前に書いた最後の手紙っての、届いてからしばらくは凄く痛いんだけど、それでも凄く嬉しいんだよ。嬉しいってのともちょっと違うかな、でもあんまり悪い感じじゃないんだ。だからロニーも送った方がいい」
 予備役とは言え軍隊にもいて、しかもいかにも友達が多そうな人好きのする性質の彼が、今まで親しい人を誰も亡くしていないという方が不自然だった。デイビーの顔をしばらくじっと眺めていた竜血樹は、徐にテーブルに向き直ると、ペンを握り直した。「うん、気を付ける」
 「誰に書くんだ?」
 初めの一文を書き出した竜血樹の手元を、デイビーは無造作に覗き込む。細く節立ったゆびが、針先で引っ掻いたような几帳面な文字を綴っていた。どうやら漢字の文章らしい。
 顎にペンの頭を当てて考え込みながら、言葉を書き連ねていった竜血樹は、ようやくデイビーの視線に気付いてはっと振り向いた。
 「何覗いてるんだ」
 「いいじゃん、ロニーにとっての三大人物って気になるよ」
 「気にしなくていい」
 頬を赤くしながら、竜血樹はテーブルの上に伏せるようにして文面を隠した。それでも覗こうとすると、恥ずかしそうに首を何度も振りながら噛みついてくる。
 「覗きは変態の始まりだ、やめろよデイビー」
 やれやれと肩を竦め、デイビーは踵を返す。「手紙覗いたくらいで変態呼ばわりはひどいよロニー。はいはいわかりましたわかりました、俺も向こうでごそごそやってくるよ」
 そしてテーブルの上に広げた自分宛てのカードを拾い集めると、片手をひらひらと振りながら書斎の方へと消えていった。


 僅か三枚のカードに小一時間も掛けた竜血樹は、ご丁寧にそれをエンボスで飾られた封筒に納めると、ようやくデイビーの侵入を許可した。結局書き上がるまで書斎に監禁されてしまったデイビーは少し憮然としていたが、表情に乏しい顔で喜ぶ竜血樹の様子を見ていると、何だかどうでもよくなったような気分になってしまっていた。
 「投函しに行くぞ。自分でポストに入れるか?」
 玄関でコートに袖を通しながら呼びかけると、奥の方からぱたぱたと竜血樹が駆け出してきた。家の中で下ろしていた黒髪を手際よく纏めて帽子に突っ込み、ぎこちない仕草でマフラーを巻く。「すまんちょっと待ってくれ、自分で入れたい」
 そんな子供っぽい仕草が妙に微笑ましく、デイビーはポケットに手を突っ込んだまま『少女』の様子を眺めていた。見ると、手袋をはめた手に持っているカードは二通しかない。
 「あれ、三通書いたんじゃなかったっけ」
 「ああ、一通は宛先がわからないから」
 コートの前ボタンを不器用に締めて、竜血樹は顔を上げた。「デイビーに預けてもいいか?」
 「俺はロニーのメールボックスか」
 デイビーは苦笑した。元々何となく、三通の内の一通くらいは押し付けられるような気がしていた。この愛妻家で子煩悩な彼が、届かないという理由で何も書き残さないはずがなかった。たとえそれが形見となってしまう重いものだとしても、それを遺さずにはいられないのが竜血樹の竜血樹たる所以だ。
 「俺がちゃんと会える保証はないぞ」
 デイビーは笑顔で緩く首を振ったが、竜血樹は無邪気なほど明るい笑顔で言った。「大丈夫だ、できるようなら俺がちゃんと誘導するから」
 「そりゃ頼もしいパパだ」
 竜血樹がようやく準備を整え終わったので、ようやくデイビーはドアを押し開けた。今や遅しと竜血樹は隙間から外へ抜け出し、先回りしてエレベーターの下りボタンを押している。こうした面は、本当にまだまだ子供っぽい、と苦笑しながらデイビーはドアの鍵を掛けて後を追いかけた。
 「――んで、本当のところ誰に書いたんだ? 一通はまあわかったけど」
 街の中を歩くと、いよいよデイビーとベルの体格差は目立ってしまう。少し背中を屈めて、できるだけゆっくりとデイビーは足を捌いた。
 竜血樹は真っ直ぐにデイビーを見上げると、子供のような笑顔を見せた。「一つは先生に書いた。もう一つは内緒」
 「内緒かよ」
 「ああ、内緒だ」
 竜血樹はカードをポケットに入れたまま、それを押さえる。本当に見せてくれるつもりはないらしい。
 「何書いたんだ?」
 「禁句は避けた。先生には、元気ですか、こっちはなかなか悪いところじゃありませんって。嘘じゃないからな」
 デイビーも少しだけ、つられたように笑った。「確かに嘘じゃないや。あの御老体、ロニーからの手紙はどれほど驚くだろうな。んで、泣いて喜ぶぞきっと」
 「ああ、先生には申し訳なかったから。ちゃんと届くかなあ」
 懐かしそうに目を細めて、竜血樹は白く曇った空を見上げる。デイビーがその目の先を追うと、街路樹の梢に飾られたオーナメントが見えた。
 「大丈夫さ、大分前に郵政が復興して国際郵便も大丈夫になったってローズから手紙が届いたし。住所さえ間違ってなければ届くよ」
 「なら大丈夫だな。家を引き払っていたらいけないから、王朝派の連絡先を宛名に書いたんだ。多分簡単には解散していないだろうから」
 半島随一を誇ったテロ組織の名前が余りに軽く発音されるのを聞いて、デイビーは苦笑する。「嫌がらせに届くどの手紙より、強烈なメールボムだな」
 ふと竜血樹はその言葉に、表情を曇らせる。
 「……そう言えば、差出人を書かなかったんだけど、大丈夫かな。住所を書いた方がよかったかな」
 「俺の住所はやめてくれ。あの老人に乗り込まれるのだけは勘弁だ」
 お手上げと言うようにデイビーは顔の両脇に掌を上げる。そしてじっとこちらを見詰める竜血樹の、帽子を被った頭に掌をぽんと載せた。「大丈夫だ、筆跡はそのままなんだろ? あの先生なら一発でわかるよきっと」
 ちらりと見た竜血樹の字は、筆圧が強いらしく紙面が凹むほどに黒々と書かれており、直線的で几帳面な人柄のわかる字をしていた。同じ筆圧の強い字でも、ベルが書くような擦った後がつく大胆な筆跡とは大分違う。竜血樹の生前の筆跡と全く同じかどうかはわからないが、かなり大きな手掛かりにはなるだろう。あの竜血樹に忠誠を誓ってやまなかった老人ならば、見分けられるのではないかとデイビーは思う。
 「あの先生には、何だかんだ言って俺達も世話になったしな。元気だといいよな」
 デイビーは正面に向き直ると、竜血樹の脇に屈み込んでまっすぐ指をさした。「ほら、あの青い看板が郵便局。ロニー、一人で切手買って投函できるか?」
 意外そうに振り向いて、竜血樹は首を傾げる。「デイビー、何か用事があるのか?」
 「ちょっとした野暮用でね。すぐ戻るけど、いいかな?」
 少し不安がない訳でもなかったが、また子供扱いされるのも嫌なので、竜血樹はこくりと頷いた。その様子を眺めて、デイビーはポケットから五ドルの札を一枚渡す。「国際ならこれで十分二通分いけるからな。んじゃ、終わったら看板の前で待ってろよ」
 そう説明されている間に丁度郵便局の正面に辿り着いていたので、竜血樹は五ドルを受け取って再び頷いた。
 「それじゃあ、また後で」


 慣れない施設での郵送に幾らか手間取ったが、何とかカードを投函した竜血樹はそのままくるりと踵を返すとばたばたとドアの外に出た。
 英語の看板が立ち並ぶ街頭にデイビーの姿が見えないので、竜血樹は少しだけたじろいだが、すぐに道の対岸から耳に馴染んだ声を聞く。たった一人しか呼ばない愛称に顔を上げると、石畳の道の反対側で大きく腕を振る大柄な男の姿が見えた。
 「や、待たせたね」
 駆け寄ってくるデイビーに、竜血樹は軽く首を振る。「いや、俺も今出てきたところだから……」
 そしてすぐにコートのポケットに手を突っ込むと、セントコインと数枚のドル札を引っ張り出した。「これ、おつり」
 「何だロニー、律儀だな」
 片手で受け取ったデイビーは、それを改めることもなくポケットの中に突っ込んだ。その手元を見つめながら、少しばつが悪そうに竜血樹は小声で言う。「……ごめん、ちょっと募金したんで足りないんだけど」
 「ああ、最近多いもんな。東アジアの復興資金だろ、何なら全部入れたって構わなかったのに」
 頓着せずにデイビーは笑う。その様子をじっと注意深く伺っていた竜血樹は、不意に表情を緩めた。「ああ、でもちょっと多かったから」
 そしてふと彼は、デイビーのもう片方の手に何かが抱えられているのに気づいた。思わずそれを凝視すると、それに気づいたデイビーが笑いながら前に差し出した。「ああ、これ。すぐそこで見つけてたんだよ」
 大きめの紙袋を受け取った竜血樹は、デイビーの顔の方をじっと見上げる。少し照れくさそうに笑って、デイビーは掌を前に差し出した。
 「ほら、開けてみろ」
 袋の中には、包装紙で包まれた大きな塊が入っている。何度かデイビーの顔を見上げながら、促されて竜血樹は包装紙の縁に貼られたテープを注意深く剥がし始めた。案外無造作に貼られたテープの端をじれったそうに爪で擦る竜血樹の様子を、デイビーは微笑ましげに眺める。
 「破ってしまえばいいんだよロニー。喜んでびりびり破るのがアメリカ流だ」
 「でも、包装紙も商品の一部だ」
 真剣な顔で丁寧にテープを剥がしていった竜血樹は、包装紙の端から覗いたものに思わず目を瞠った。途端に彼は、残りの包装紙をじれったそうに剥がす。びり、と鈍い音を立てて、包装紙が大きく裂けた。
 赤地に緑の葉がちりばめられた包装紙の内側から現れたのは、両手で抱えるほどの大きさの人形だった。顔の辺りを陶器で作られた精緻な人形は、白いボアの縁取りがある赤い衣装を着て、白い長い髭を蓄えた老人だった。好々爺然と細めた目に、青いガラスを埋め込まれたその人形が、サンタクロースと呼ばれるフィンランド在住のトルコ人であることを竜血樹は既に知っている。今夜、世界中の子供のところにプレゼントを届けにやってくるボランティアの、人のよい子供好きの老人だ。
 けれど、と竜血樹は顔を上げた。
 ハニーブロンドの癖毛を引っ掻きながら、デイビーはちらりと対岸の店に目を向けた。見ると、雪を模した白い綿で覆われたウィンドウには、様々なクリスマス用の雑貨が陳列されている。その中から、数人の老人の人形がこちらを見つめていたが、その誰と比べても今ここにある人形は覚えのある面影によく似ていた。
 デイビーはさらりと言う。「クリスマスだしな。大事にしろよ」
 「……俺にか?」
 「お前以外の誰が喜ぶんだ、そんな不気味な人形」
 人形とデイビーの顔を交互に見比べて、それから竜血樹は大切そうに人形を抱え込んだ。十八の男がやっていると思うとぞっとしない仕草だが、小柄で幼く見えるベルの身体でそういう行動をするとひどく様になって見える。
 竜血樹はまじまじと人形の顔を覗き込んだ。随分長い間売れ残っていたのだろう、衣裳の一部が日に焼けて褪せている。顔に落ちた埃を手袋で擦って落としながら、竜血樹はふと笑った。
 「先生だ。ありえないくらいよく似てる」
 「だろう。俺も目を疑ったよ。絶対このサンタ、夜な夜な官公庁の煙突に爆弾を投げ込んでいくんだぜ?」
 一頻り人形の顔を眺め、髭を撫で、それから綿が詰まっているらしい手足を動かして、竜血樹は不意にデイビーの方を振り仰いだ。
 「……ありがとう」
 「どうだ、気に入ったか」
 デイビーの言葉に、竜血樹は何度も何度も頷いてみせる。その勢いに押されて、デイビーは思わずその頭を撫でるように押さえた。
 「わかったわかった。よかったな老人、多分一緒に作られた兄弟の誰よりも喜ばれたぞ。長い人生捨てたもんじゃないな」
 大きな掌で人形の頭部をがしがしと撫で、それから竜血樹の頭もついでにがしがしと撫でると、デイビーはまた煉瓦舗装の道に足を踏み出し始めた。「んじゃ、この後どうする? リクエストあるか?」
 首が痛くなりそうなほどデイビーの顔をまっすぐ見上げた竜血樹は、何度か大きな黒いベルの目を瞬かせた後、ふと呟いた。
 「一度帰って着替えてもいいか? せっかくデイビーの誕生日なんだから、今夜はどこかディナーに行こうか」
 「おお、それじゃあどこかに予約を入れなきゃな。どこ辺りなら捻じ込めるかな」
 心なしかデイビーの表情が晴れやいだ。その表情をじっと眺めながら、竜血樹は付け加える。
 「……奢ったりとかはできないんだけど」
 「未成年が気を使うんじゃありません。いいよいいよお兄さんに任せとけ、いい店にご招待してやるよ」
 わくわくとデイビーは足取りを弾ませて踵を返した。その背中を小走りに追いかけつつ、竜血樹はちらりと腕の中の人形に目を注いだ。
 目を細めた老人の表情が、心なしか笑っているように見えた。


 窓の傍に、輪郭のぼやけた丸い月が掛かり始めていた。窓自体は大きいが、摩天楼に切り取られた空は小さく、それもどんよりと曇っていることが多いので、月が見えることは天に間近なこの部屋でも思いの外に短い。この一週間で竜血樹はそれをよく知った。
 窓の下を見下ろすと、無数の光の粒がちりばめられて、日中とまるで異なる輪郭を露わにしていた。自分の眼下に並々と水が張られ、天上の星が水面に映り込んでいるようだ、と竜血樹には思えた。
 ベッドの上に置いた人形に目を落とし、竜血樹はふとそれを抱え上げた。
 (――どうして、セニャンなんだろうと、思っていた)
 未練がなかったとは言わない。この世に残る全ての人に、もう一度会えるものなら会いたかった。余り広く人と誼を結ぶことはついにできなかったが、その割には大切にしたい人と多くめぐり会えたと思う。施寛美という女性は、確実にその中の一人に名を連ねるはずだ。
 けれど思いの強さでいけば、竜血樹には世界の全てを軽く凌駕するほど愛しい女性がいる。血族のいない自分にとって、たった一人の血縁に当たるはずの子供がいる。彼女達を差し置いて、自分が守るべきものなど他に何もないと常に思い続けていた。
 だから、どうして自分が施寛美の命を借りたのか、どうしてそんなことができたのか、何もわからなかった。同じ命を借りるなら、どうして愛しい女性の元へ辿り着けないところに来てしまったのだろう、と悔しくすら思った。これは単なる運命の悪戯で、偶然そうなっただけに過ぎず、目覚めたときと同様に何の前触れもなく再び自分は消え去るのだと思っていた。
 (一目会いたいのは、ホンファンなのに。あいつに会えるなら、どうなったって構わなかったのに)
 世界一幸せにしたい女性が、あの彼方にいる女性だった。今も彼女の幸せを願わずにはいられない。
 けれどどこかで、それが不可能なこともわかっていた。自分と共にあることを何よりの幸せといい、生涯傍に寄り添うことを何より望んだあの女性は、きっと自分と離れて幸せになどなることはできない。今自分がそうであるように、心の一番大きな場所に深い喪失を抱えて生き続けなければならない。
 幸せにしたくて、それなのについに幸せにしてやることができなかった。自分も共に幸せになることが、彼女を幸せにする唯一で最善の方法だったのだから、自分にはもう二度ときっとそれを叶えることはできない。それは竜血樹自身にとっても、最大の不幸だ。
 ――それでもそれとは別に、幸せになって欲しいと願う女性も確かに存在した。
 自分の為に身体を痛め、心を失うほどに力を尽くしてくれたその女性には、今も感謝してもし尽くせない。彼女の思いに応えることはどうしてもできなかったが、自分と離れたところでその幸せを見つけることができることを、今も願わずにはいられない。無責任と言われたらその言葉は甘んじて受け止める他ないが、彼女を愛してくれる人が現れることを祈らずにはいられなかった。
 (世界一幸せにしたい女は、ホンファンだ。それは決して変わらない)
 けれど、世界一幸せになって欲しい女性は、他ならぬ施寛美だ。自分の分も、幸せにしてやれなかった女性の分も、全てを受け止めて幸せになってくれたら、きっと自分達の分も含めて無数の人々が救われる。彼女の幸せは、もっと数多くの人々の幸せに繋がっていく。
 彼女には、間違いなくデイビーが必要だ。彼ならば、施寛美と共に幸せになることができる。
 竜血樹が遺す重すぎるものを全て預かった上で、それでも平気そうな顔をして笑ってくれる彼ならば、彼女にも押し潰されることもなく、彼女を支えて共に歩んでくれる。
 それは竜血樹の希望だ。もう間もなく消えていく自分が、この世界に残すことのできる唯一の希望だ。
 ――暗い窓に映った睫毛を伏せて、それから竜血樹は面を上げた。鏡のように艶やかな黒い窓には、黒いドレスを纏った『少女』の姿が映し出されている。細い腕で人形を抱え、象牙色の肌と黒い癖のない髪を持つ、華奢でどこか幼さの残る彼女を、じっと竜血樹は凝視した。取り立てて人目を引く容貌をしている訳でもないし、一見すればすぐに折れてしまいそうなほどか細い、どこにでもいるような東洋人の少女にしか見えない。
 けれど、ガラスの向こうからこちらを凝視する眼差しは驚くほど強い。その瞳で彼女を見つめているのは竜血樹かもしれないが、その眼差しは施寛美のものだ。彼女は永劫、その眼差しを捨てることはないだろう。
 (セニャン、お前を受け止めることは俺にはできない)
 この滾るような瞳を受け止められる器量は、自分にはない。それを受け止めることができるのは、多分知る限りでも一人しかいない。
 (お前は、その目でデイビーだけを見つめるんだ。それできっと、お前は幸せになれる)
 部屋にあった化粧道具で薄く紅を引いた唇を、彼は引き結ぶ。
 中身が変わると雰囲気まで変わる、とデイビーは言ったが、今のこの姿は本来の彼女とよく似ているはずだ。そうなるように、精一杯記憶の中の彼女に似せた。
 それでよい。竜血樹の存在を主張する必要はどこにもない。
 (――ここにやってきたのは、きっと偶然じゃない)
 これは必然だ。素乾竜血樹と施寛美とデイビットソン・A・ステュワートの、それぞれの運命を繋ぐ為の必然だ。
 その果てを見ることは竜血樹にはない。それでも、今ここにこうして自分がいることは、大切な運命の歯車の一つだ。いつかやってくる未来に今を繋ぐ為、きっとここに自分はいる。そしてその未来はきっと、まだ見ぬ我が子の幸せに繋がっていく。
 (俺はきっと、それを繋ぐ為にここにきたんだ)
 背後のドアの向こうで、物音が聞こえた。振り向いた視線の先で、伸びやかな明るい声が響く。
 「ロニー、準備できた? 入るよ?」
 「ああ」
 向き直ると同時に、ドアが開いた。「オイスターは好きか? グランド・セントラルのバーに予約を入れたんだけ……」
 ダブルのコートにマフラーを着込んで、出かける準備をすっかり整えて入ってきたデイビーは、戸口のところで固まった。ぽかんと口を半開きにして佇む彼に、竜血樹はピンクに染めた唇を微笑ませる。人形を片腕に抱えたまま、ドレスの裾をできるだけ淑やかに摘んで見せた。
 「行こうか」
 「……ロニー、そういう趣味があった訳?」
 唖然としたデイビーの言葉に、思わず竜血樹は吹き出しそうになる。「普段着だと不恰好だろう?」
 「無理をすることはないんだよロニー。レディーも割とそういうの気にしたけど、食事は美味しく頂くのが一番の作法なんだから」
 だが、デイビーの隣を素通りして竜血樹はドアの方へと向かおうとする。慌てて追い掛けるデイビーを振り向きもせず、結い上げた髪の毛を僅かに揺らして竜血樹はふと言った。「すまない、急いでもいいか? あんまり時間がない」
 デイビーは目を瞠った。すぐにその背中に追い付くと、細い腕を掴む。手荒なほどに強くその腕を引っ張り振り向かせるが、竜血樹は目を伏せたまま合わせようとしなかった。
 「時間って、どういうことだ?」
 「……ごめん、やっぱり俺はもう死んだんだ。だからもう、こんなことしてちゃいけない」
 微笑もうとしたが、目の下に走る傷が少し引き攣った。目を逸らす『少女』の頬を押さえ、デイビーはその細い肩を揺する。「ロニーお前」
 ふと竜血樹は視線を巡らせた。その眼差しは、いつものあの鋭くきついベルのものではなく、穏やかな竜血樹のものだった。
 「俺、デイビーに何もお礼できないから、せめてセニャンのふりをしようと思って……ごめんな、多分時間がぎりぎりだ。だから急ごう」
 「ロニー!」
 デイビーは、ドレスを着込んだベルの両肩を掴んだ。ライトブラウンの瞳で覗き込むと、ようやく黒い瞳が躊躇うように彼の姿を捉えた。
 「……これはセニャンだ。この身体も、この生命も、セニャンのものだ。俺はセニャンの何もかもを借りてるにすぎないんだ」
 だから、と竜血樹は言葉を接ぐ。細い肩に指先が食い込むほど、デイビーはきつくベル・グロリアスの身体を掴んだ。
 「この幸せも、全部セニャンのものだ。俺はきっと、それを知りたくて、ここにきたんだ」
 その瞬間、音が止まった。時間すら止まったように、デイビーには感じられた。


 「俺、セニャンに返すときにはもっとさっさと抜けるつもりだったんだけど、ごめん」
 ベル・グロリアスに、施寛美にしか見えない姿で、竜血樹は微笑む。それでもその表情は、張り詰めたように強張った。
 「……ごめん、やっぱり俺、自分で思ってたより未練がましかったみたいだ」
 呆然とその表情を見詰めたまま、デイビーは言葉を失う。少し歪んだベルの表情に、真夏の陽炎のようなガラス越しに見た美貌が過ぎった。
 「ロニー、もういくのか? 嘘じゃないんだな、冗談とかじゃ承知しないぞ」
 竜血樹は黙って頷く。じっとそれを凝視していたデイビーは、不意に深々と溜息を吐いた。「そうか」
 「ごめん」
 「……仕方ないだろ。謝ることじゃない、向こうに行ったらゆっくり休んでおいで」
 思いがけないデイビーの言葉に、竜血樹は目を瞠る。それから小さく頷くと、静かに俯いた。
 「でも俺、やり残したことだらけだったんだ。ここに来て、ようやく気付いたことばかりだった」
 デイビーはふと小さく溜息を吐くと、部屋の奥に戻っていった。ソファに黙って座り込むと、その隣に竜血樹が肩を窄めて佇んだ。
 「……俺、もっと知りたいことたくさんあったんだ。やりたいこともあったんだよ」
 懺悔をするような表情だった。デイビーはふと見上げると、一つ息を吐いて柔らかく言う。
 「またこの次の楽しみに取っておけよ。全部やり尽くしてしまった人生ほどつまんないものはないって言うぜ?」
 「本当は、もっと学校とか通いたかった。お前みたいな友達も欲しかった」
 雨垂れを落とすような、零れるような口調だった。苦笑しながらデイビーは、少年じみた表情を浮かべるベルの顔を見詰める。
 「俺は学校、それほど好きじゃなかったな。そんなにいいところだったか? 試験とかきつかっただろ、特にコリアは凄いって聞くし」
 「ちゃんと勉強してたよ。『プログラム』に巻き込まれなかったら、翌週がテストだった。勉強は、努力が裏切られないから好きだった」
 「真面目な奴だなロニー。よしよし、『天国は正直者のものである』」
 聖書の文言を引用しながら、デイビーは腕を伸ばして再びベルの細い腕を掴んだ。今度は大人しく、竜血樹もデイビーの隣に腰を下ろした。
 「……軍隊にだって入りたかった」
 抑えた口調だったが、デイビーにはその真意が痛いほどよくわかっていた。少しだけ目を細め、彼は首を曲げる。
 「でもそうしたら、あんたと俺が戦わなきゃいけないかもしれなかったんだ。俺は嫌だぜ、結果的によかったんだよ」
 竜血樹は少しだけ微笑んだ。だが、すぐにその顔が泣き出しそうなほどに歪む。
 「セニャンを泣かせた。凄く泣かせた」
 「レディーだけじゃないだろ、この罪な男が。仕方がないなあ、フォローは俺に任せとけ」
 軽口を叩くようなデイビーの口振りに、竜血樹は少しだけ頷く。
 「お前にも、世話になった。なりっぱなしだったよ」
 「おう、こんな客はさすがの俺にとってもはじめてだったもんな」
 わざと明るくデイビーは笑う。だが今度は、竜血樹は笑わなかった。
 「……服や人形、買ってもらったのに、どれも持っていけない」
 「レディーに回すよ。丸っきり無駄になる訳じゃない」
 デイビーは腕を伸ばして、竜血樹が抱え込んだ人形の頭を撫でた。それから竜血樹自身の頭もがしがしと撫でる。
 犬か猫のように眩しそうに目を閉じながら、竜血樹は言う。
 「ディナーも、俺が誘ったのにごめん」
 「いいさ、次回は本物のレディー・ベルに相手を頼むから」
 子供がぽつぽつと言葉を零すように、竜血樹は人形に目をやると、『少女』の掠れた声を落とした。
 「……先生にも、何も親孝行できなかった」
 デイビーは目を細める。あの老人はデイビーにとっては、何ものにも情を寄せない冷徹な雰囲気を漂わせて戦い続けているような印象があった。けれど彼を慕い、親と呼ぶこの少年にとっては、きっとそれこそサンタクロースのように優しい老人だったのだろう。
 ベルの頭を抱き寄せてみると、竜血樹は抗いもせず身を寄せた。自分の肩に竜血樹の頭を載せながら、デイビーはそっとそれを撫でた。
 「あのな、親なんてのは本当は子供に見返りなんかこれっぽっちも求めてないもんなんだよ。あの先生だって、ロニーが幸せになるのが一番の望みのはずだ」
 顔をデイビーの肩に埋めたまま頷き、くぐもった声で呟いた。「そうかな」
 「ロニーはどうだ? あんたの子供が身体を張って、あんたの為に何かを一生懸命やってくれたら嬉しいか?」
 竜血樹はぐいぐいと首を振る。おずおずとデイビーの袖を掴んだ指が、きつく握り締められた。
 「……ホンファンもいっぱい悲しませた。あいつが泣いてたらどうしよう。今も泣いてたらどうしたらいいんだろう」
 「うん、すぐに行ってやれるさ。見えなくても触れられなくても、傍にいてやれ」
 竜血樹が普段はなかなか口にしない、取り乱したときにしか呼ばない彼の大切な女性の名前を聞きながら、デイビーは少年の背中を撫でた。ふと、小さな嗚咽が洩れ始めた。ひきつけるように震える背中を、何度も何度もデイビーは叩く。
 掠れた声で、竜血樹はひとりごちるように呟く。
 「俺、いろんな人悲しませた。何にもできなくて、悲しませることしかできなかった。いっそ生まれなきゃよかった」
 「馬鹿言うな」
 コートだけでも脱いでおけばよかったかな、と思いながらデイビーはマフラーを自分の首から抜き取った。上着をまだ着ていないベルの剥き出しの肩にそれを掛けて、その上から『彼』の身体を抱え直す。
 「あのなあ、お前が生まれたとき、どれくらいの人が喜んだと思うんだ。お前は、この世に生まれて無事ここまで大きくなっただけで、物凄くたくさんの人を幸せにしてるんだ。お前が死んで泣いた人は、みんな一度はお前のおかげで嬉しいと思ったことがある人だ。――そんなの、寿命の長さとは関係ない。悲しませっぱなしの人生なんてそうそうないさ、最後にはちゃんと帳尻が合うもんだよ」
 柔らかく語られる明るい穏やかな声に、竜血樹は一度だけこくりと頷いた。「……ん」
 子供をあやすように抱え込んだ肩をゆっくりと揺らしながら、デイビーは穏やかな口振りでふと尋ねる。
 「ロニー、お前幸せか? 幸せだったか?」
 「うん」
 迷いのない返答に、デイビーは目を細める。あれほど救いがないように見える生涯でも、これほど未練を残せるのは、その全てに愛着があった証だ。ならばきっとそれだけで、彼の生涯は有意義だったのだろう。
 「それならいい。お前が幸せなら、お前に関わった全ての人が救われる――そうか、幸せだったんだな。それはよかった」
 泣いたとき特有の、少し火照った体温と熱い息が抱え込んだ掌に伝わった。押し殺したような言葉にならない声が、微かに洩れる。
 ベルが泣いたときいつもそうしていたように、華奢な身体を庇うように抱き込むと、言い聞かせるようにデイビーはゆっくりと語った。
 「……後は気にするな。こっちのことは俺に任せて、お前は大事な人の傍でゆっくり休め。ゆっくり休んで元気になったら、そのときはまたいつでもいいから会いにこい。安心しろ俺の家系は長生きだから、お前が還ってくるならいつまでだって待ってやる。キリスト教は死んだらそれきりだけど、中国人は五十年で転生だったっけな。五十年なら俺の曾孫の代だ」
 「……どうなるかは、俺にもわかんない。あいつに会えるかな、また生まれることできるかな」
 呟くような小さな声に、デイビーは頷く。何度も肩を背中を叩きながら、何度も頷いた。
 「大丈夫だ、ロニーがそう信じるなら、きっとそうなるよ。俺はいつだってこの国のどこかにいて、レディー・ベルを追っ掛けてるからな。だからそれを目印にして、ロニーもいつか還ってこいよ」
 自分は恵まれている、とデイビーは思う。竜血樹の持てなかった、彼の手を擦り抜けてしまった全てのものを、自分はきつく握り締めたまま離さないでいることができた。それは思いの強さではなく、幸運だった為に過ぎない。それを皆で共有できたら、もっと皆幸せになれる。
 不意に竜血樹は、輪郭のぼやけた声で呟いた。
 「ありがとう」
 デイビーは頷く。その肩に齧り付くようにしがみ付いて、小柄な『少女』は何度も繰り返す。
 「ありがとう、ありがとう、ありがとう」
 「うん、わかった。わかったよ」
 「ありがとう。本当にありがとう。ありがとう。ありがと――」
 壊れたように何度も何度も、幼い声は繰り返した。幾ら宥めるように揺すって背中を叩いても、嗚咽の混じったその声はいつまでも止まなかった。
 その小さな小さな声が、いつか寝息に変わったのを聞いて、ふとデイビーは少女の姿を覗き込んだ。
 見ると、その傷付いた細い手首に絡みつくように、長く編んだ亜麻色の髪の毛が握られていた。
 急に外が明るくなった気がして、デイビーは顔を上げた。
 窓の外に、真っ白な雪が降り始めていた。


 廊下を郵便配達夫の通り過ぎる音が聞こえた。
 少し寝過ごしたデイビーは、寝癖のついたハニーブロンドをがしがしと引っ掻きながらポストに向かう。廊下側に置いたポストから郵便物を受け取ると、寒そうに身を屈めて逃げ込むように部屋の中へ入り込んだ。
 毎日の癖で宛名を確かめながら郵便物を改めたデイビーは、その中にふと見覚えのあるカードサイズの、エンボスが押された封筒を見つけた。
 「あれ」
 宛先は間違いなく自分の名前とアドレスなのだが、差出人の名前がない。しかし、針で引っ掻いて刻み付けたような几帳面な筆跡には何となく見覚えがあった。疑いもせず封を切ると、中にカードが入っているのが見えた。
 カードを引っ張り出して広げてみると、ポップアップのカードの中央からクリスマスツリーが飛び出した。少し時期を外したカードのデザインに目を落とすと、『Merry Christmas!』の綴りの上に、定規で引いたような二重の訂正線が引かれていて、その下にサインペンで『Happy Birthday!』と書き直されていた。
 思わず笑いながらデイビーは文面に目を落とし、一瞬表情を取り落とした。

  親愛なるデイビーへ
  誕生日おめでとう。それからどうもありがとう、いろいろお世話になりました。

 金属か何か固いものに刻んだような鋭い筆跡と、それを綴る指先とがその瞬間に脳裏で結び付いた。痣の残った筋張った少女の掌と、真夏の窓ガラス越しに見た、手首に真一文字の傷を刻んだ白い掌が重なった気がした。

  俺はもう消えたかな、自分でもどうなってるかよくわからないや。
  でも、色々ありがたかったのは事実です。ありがとう。
  余り人付き合いしたことなかったので、とても新鮮でした。

 「そうだろうなあ」思わずデイビーは言葉を洩らす。
 不器用で、物事を知らない、大人しい割には手の掛かる、老成しているくせにどこか子供っぽい厄介な少年だった。
 それでも兄弟のいないデイビーには、何となく弟のような気がしていた。少なくとも、世話を焼くのが嫌だった試しはない。

  俺が言うのもおかしいけど、セニャンをよろしくお願いします。
  彼女はきっと、必ずデイビーのことが好きなはずだから。
  多分彼女が一番信頼しているのは、俺じゃなくてデイビーのはずだから。

 苦笑するようにデイビーは眉根を寄せた。女の子に信頼されるということは、裏返すと甲斐性なしと言われているようなものだ。
 それでも、不器用なアルファベットの綴りはとても真摯な印象を持っていた。多分素直にそう言うことを書いたのだろうから、やはり人付き合いの少ない子供だったのだろう。それなのに一児の父というのだから、ある意味では微笑ましい。

  余り長々と書くのも照れ臭いので、この辺りにします。
  本当にありがとう。どうか幸せに。

 差出人の名前はなかった。それでも、誰からのものかはよくわかった。デイビーは瞑想するように深く目を閉じる。
 少年の生涯を全て知っている訳ではない。けれど、彼が自分を幸せだと断言して、他人のそれを祈ることができるのが、本当はどれほど凄いことかとデイビーは思う。見る人全てが自分より恵まれて見えて、誰彼構わず恨んだり妬んだりしてもおかしくないような運命しか与えられていなかった気がしていた。
 「ホント、ロニーは幸せ者だよ」
 心の底からそう思う。今度は迷わず、一番好きな人の元へ辿り着けるだろうか、とデイビーは窓を振り向いた。リビングの奥の広い窓には、どこまでも広がる銀色の景色が映し出されている。空はまだ薄白く曇っているが、朝の光は降り積もった雪の上に満ちている。
 リビングのソファに腰を下ろし、隣に置いたままのサンタクロース人形を座り直させると、デイビーは再びカードに目を落とした。文面を読み返そうとして、その下に追伸文が入っていることに気付く。

  PostScript:
  サイドボードに、もう一通のカードを入れさせてもらっています。
  いつかの為に、預かっておいて下さい。

 デイビーは立ち上がると、壁際のボードの抽斗を開けた。幾つか順番に見て、ふとベルの身長を思い出し、その三段ほど下を調べた。白い封筒に収まったカードが、アドレスもなく、ただ宛名だけ書かれて抽斗の底に沈んでいた。
 「……『いつか』は禁句だって言ったのに」
 目を細めてデイビーはそれを拾い上げる。漢字とハングルで書かれているのは、相手の名前だろう。普通のチャイニーズやコリアンにしては綴りの長い、多分世界に一人しかいないだろう名前だった。
 「――シャオティエンシュって、こんな字を書くんだな」
 糊付けされていない封筒を開きそうになって、何となく手を止め、デイビーは再び抽斗を封印した。ここを再び開くのは一体いつになるだろう、と天井を仰ぐ。その中の文面を読んでいい人間がこの部屋の中に現れるまで、どのくらい時間が掛かるのかデイビーにも見当が付かない。確かにそれは、遠いかもしれない「いつか」のことだ。
 もう一度カードを見直して、季節を逃しかけたオーナメントの紐に通すと、デイビーは喝を入れるように自分の両頬を掌でぱしんと叩いた。
 彼の『妻』はまだ目覚めていない。雪が降ったので毛布を一枚増やして、それから今日も病院に連れて行こう、と思う。
 今日も一日、やらなければならないことは幾らでもある。


 「いつか」はまだ遠い。
 けれどいつか、必ずやってくる。


  Walking in the Air 完










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