クロスフェード わたしはきっと もっとずっとしあわせな せかいいちのふしあわせものでした 「お前は、何か芸ができるのか?」 そうわたしに尋ねたのは、帽子を目深に被った小さな男の子だった。 その大人びた口調がおかしくて、本当は笑いを堪えるのが大変だった。 けれどその真面目な言葉は、他の人みたいに揶揄したり蔑んだりする色が混ざっていない純粋なものだった。だからわたしも、彼に真面目に答えた。 「歌を唄います」 芽生えてはいけない恋だった。 咲く前に摘み取られなければいけない恋だった。 けれど、そのとき取りこぼされて、ここに咲いてしまった。 「月の仙女」 そう名乗ったのは、みすぼらしい身形をした小さな女の子だった。 面差しまでは暗くてよく見えなかったけれど、ぼろぼろの服と髪をした、古傷の臭いのするまだあどけない彼女は、たった一人で夜道の真ん中に立っていた。 臆することなく僕を見詰めるその瞳は、僕の姿を正確に写し取っていた。月明かりを背負った彼女の姿は逆光でよく見えなかったけれど、なぜか僕はそれがとても美しいのだと確信していた。 なるほど彼女が、昔話の女神なのかと思った。 「ああ、ならば僕を存分に清めておくれ」 身を焦がすような恋だった。 全てを焼き尽くす烈しい恋だった。 けれど、忌まわしい劫火も、始めはささやかな火種にすぎなかった。 「そいつを殺したら、うちはあんたらを庇えへんで」 暴漢に囲まれて見上げた屋根の上、腕を組んで佇む人影がそこにいた。 突き上げる紺碧の蒼穹を背負い、黄色い塵灰の積もった屋根を双の脚で踏み締めているのは、短い黒髪に短衣を纏った細身の人物。少年のような凛々しい輪郭だが、仄見える面差しには微かに女性らしい紅が見えた。 高飛車な物言いや、人々を睥睨する眼差しは、どこか野生の猛禽に似た印象を持っていた。 恥も外聞もなく、俺はその場に現れた救いの女神に縋り付く。 「誰だかわからないけど、とりあえず助けてくれ!」 湧き出す泉のような恋だった。 ささやかに心の表面を流れる恋だった。 けれど、その勢いを押し止められず、やがて全てを翻弄された。 「死ね、あんたなんか死んでしまえ」 唇を戦慄かせた彼女の顔は、紙のように白かった。 ずっと知らなかった彼女の声を、はじめて聴いたな、とぼんやりと思った。 てっきり喋れないのだと思っていた彼女の声が、思いの他に愛らしくて、それが何となく好ましかった。だからつい、彼女に向けて笑顔を向けてしまった。 随分久し振りに笑ったのだと、気付いたのはもう笑った後だった。 「ああ、それじゃあいつ頃死なせてくれるのかな」 音もなく始まった恋だった。 眠っている内に降り積もってしまった恋だった。 けれど、気付いたときには醜いことを、全て覆い隠してくれていた。 「それでは、お前様はどのように思う?」 一目見てすぐにわかった。この人は、きっとこの国に潰されてしまう、と。 だからこの人を守るには、この国を潰さなければならない、と。すぐにそう確信した。 この人と世界を天秤に掛けたら、その傾きを計るまでもない。自分の中で、世界は軽々と吹き飛んでしまうほど軽いものだった。 余りにも容易かった。たった一目でよかった。 恋に落ちるには、それで十分だった。 「うちに任せ。うちが、世界を潰したる」 突然の波のように押し寄せた恋だった。 打ち寄せては引き再び寄せてくる恋だった。 けれど、それはいつしか巌を砕き、世界を飲み込む津波となった。 「だから、あんたは間違ってる」 烈しい目をした少女だった。そんな目を見たことがない、と思った。 けれどそれに覚えがあることに気付いたのは、実はずっと後になってからだった。幼い頃から親しんだ絵画の中の女性と彼女が同じ目をしているのだと気付いたのは、不覚にも二人が隣り合って俺の目前に並んでからだった。 百年前の女性と同じ目を、今この目の前に佇む少女は持っていた。 それを運命と呼ぶのは、感傷に過ぎる評価だろうか。 「いいや、やっぱり俺の目に狂いはないよ」 真夏の夢のような恋だった。 すぐに儚い夜の夢のようにすぐ覚めるはずの恋だった。 けれど、明けども覚めず抱き続けた夢は、いつか現実となった。 身を焦がす苦しさも あふれ出す憎しみも たび重なる切なさも 押し寄せる激しさも 言い知れぬ虚しさも ――全てはこの幸福な想いゆえならば。 |