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肖像

 俺は、
 もう一度彼女と、会わなければならない

 もう一度彼女と、向かい合わなければならない



 何十年ぶりに絵筆をとったのだろう。
 彼女に「画伯」とからかわれるほど絵ばかり描いていた俺が、
 子供の頃から目に映るものを何でも写し取ってきた俺が、
 こんなに長い間、絵筆を投げていられるとは思わなかった。


 白いキャンバスの前に座り込んだ途端、
 そこに彼女の姿が浮かび上がって見えた。
 あれから三十年、毎夜のようにうなされ続けた彼女の姿だった。
 あの日から少しも色褪せず、俺を見据える美しい女の面影だった。

 挫けそうになる自分の心に、自分自身で発破をかける。
 このキャンバスは俺の心だ、
 この面影は俺の記憶だ、
 彼女から逃げた、俺の忌まわしい過去だ――と。



 強い女だった。
 人並みの幸せなど、望むべくもないほどに強すぎる女だった。
 凡人に過ぎない自分が焦がれるには、
 余りにも彼女が抱えるものは大きすぎた。

 それでも好きだった。

 既に夫のいる彼女に、何度も迫った。
 彼女の夫に、彼女を譲って欲しいと食い下がった。
 彼女の全てが好きだった。
 彼女の全てが欲しかった。

 何度断られても諦めなかった。
 いつも迷惑がられるほど纏わりついていた。
 きっと足手纏いになっただろうけれど、
 敢えて気付かないふりをし続けた。


 ――それなのに。
 あのとき、彼女を救えなかった。

 助けを求められる女ではないと知っていたのに、
 他人に重荷を預けられない女だとわかっていたのに、
 俺は彼女の小さな手を放した。
 黄沙と炎の嵐の中に、彼女を一人で置き去りにした。

 翼をもぎ取られてなお空へとはばたいた彼女が、
 どこへ堕ちたのかも俺は知らない。


 あのときの彼女の瞳を忘れない。
 あのときの微笑みを忘れることなどできない。
 好きだからこそ手を放したのだと、
 幾ら自分に言い聞かせても言い訳にしかならなかった。
 彼女だからきっと大丈夫だと、
 無責任な自分の言い分に幾度となくうなされた。


 俺は逃げた。
 そして逃げ続けた。
 愛した女性の面影から逃れるように、国を離れた。
 東の涯にいる彼女を逃れるように、
 太陽の影を避けるように西へと移り住んだ。

 どこへ逃げても、彼女の面影が離れなかった。
 恨むような女ではないと誰よりもよくわかっているのに
 彼女と向かい合うことができなかった。
 どこかで生きているかもしれない彼女を
 探しにいくことさえできなかった。

 彼女を助けられなかった俺は、
 彼女を救う可能性すらも拒み続けた。



 ――ひたすらに絵筆に絵具を載せる自分を、
 狂ったようだと形容するもう一人の自分を感じた。
 構うものか、狂ったって構わない。
 俺の罪だ。
 それを贖えるのは俺だけだ。

 ああ、肌の色はもっと白かった。
 紅潮したときにはいつも紅色に染まったんだ。
 違う、彼女の骨格はもっと細かった。
 ただ一度垣間見た剥き出しの肢体を忘れるものか。
 あの黒髪は、もっとしなやかで細かった。
 その一本一本を今も覚えている。
 そうだ、彼女の衣裳はそんなに新しい絹ではない。
 しっかりと着込んで身体に馴染んだ風合が、堪らなく色っぽいのだ。

 手首が、貝殻のような爪が、二の腕が、肩口が、鎖骨が、
 爪先が、踝が、脛が、膝が、腿が、
 華奢な腰周りが、細くくびれた胴が、頼りない胸元が、
 首筋が、その項が、生際が、耳元が、丸い頬が、細い顎が、
 唇が、鼻筋が、緩く弧を描く眉が、秀でた額が、
 睫毛が、瞼が、眼窩の微かな窪みが、目尻に落ちた僅かな紅色が、

 ――そしてその瞳が、漆黒の眼差しが

 ああ、こんなにも愛しかったんだ。


 彼女を心から追い出していた訳じゃない。
 彼女を記憶から失って生きていくことなどできない。
 彼女と出会わなかったら俺が生まれた意味などない。
 ただ、向かい合うことが怖かったのだ。
 こんなにも愛しい彼女と、彼女を愛しく思う俺自身が。


 ごめんね、窮屈だっただろう。
 俺の狭い心の中に、三十年も閉じ込めていたなんて。

 俺の心の中で色褪せなかったきみは、
 遠い黄色の大地と紺碧の蒼穹の間で土になったきみは、
 今、ここで永遠に生き続けるんだ。

 そして俺を、永遠に見つめ続けるんだ。
 俺を、俺の心を、俺の末裔を、
 考えうる限り遠い未来まで、永遠に縛め続けるんだ。


 ようやく見つけたよ。
 俺の愛した、韃靼の空を翔ける白い鷹。

 俺は永遠に、きみのものだ。
 ――マダム・イーグル。



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