47 照れ隠し | モクジ | 49 見つかった!


二月の丘

 「ああ、こんなところにいたのか」
 背後から呼びかけると、彼はちょっと振り向いて笑った。
 この間短く切ったばかりの髪が額の上でぴんとはねて、大人びた面差しの彼には少し不似合いな雰囲気がした。
 これでも俺より幾つ年下なんだったっけ、と思いながら俺は彼の隣にしゃがみ込んだ。枯れ草の上は意外と日当たりがよかったけれど、風はまだかなり冷たい。思わず俺は上着の襟を掻き合わせた。


 「寒くないか、ここ」
 小高い丘になっているここは、村落の辺りが一望できる代わりに、かなり風が強い。それでも、涼しげな顔で彼はさらりと言った。
 「そうかな、ここは随分春が早いよ」
 ふと彼は、地面に当てていた掌をもたげて指で地面を示した。見ると、たんぽぽか何かの平べったい雑草が赤茶けた葉の中央に、小さな緑色の蕾を載せていた。なるほど、大人だったらしゃがまないとこれには気付かない。
 彼は、もたげた腕を膝に載せると空を見上げた。
 「北部はまだ雪が積もってるって。小さい国みたいだけど、意外と気候は違うんだな」
 「随分遠くに来ちまったな、お互いに」
 妙な感慨を感じて相槌を打つと、彼も照れ笑いのような顔をした。
 「本当だよ。まさか、自分がこんな場所でこんなことするなんて、考えたこともなかった」
 全くだ、と笑ってから、ふと俺は気付いた。
 「そう言えば、お前がここに来る前何をやってたのか、全然聞いたことなかったよな」
 改めてそんなことを言うと妙な気もしたけれど、よく考えたらほぼ毎日避難所や詰め所で顔を突き合わせているはずなのに、彼について俺達はほとんど何も知らないのだ。俺と一緒にこっちに来た同僚は、まあ本当のところを言えば彼と面識があったと言えるかもしれないが、それとてほんの一瞬のことだった。
 こうしてみると、ひどい言い方にはなるけれど、彼も得体が知れない男だ。彼も、自分の身内について語るのはやぶさかでないようだけれど、自分から進んで身の上を話すタイプではない。噂はあれこれと耳に入るが、本人が語らないことを信じる訳にもいかない。
 少しだけ、彼が笑う声が聞こえた。
 「普通の高校生だったよ。色々あって一度国外に移住したけど、友達との縁で姉と一緒にこっちに帰ってきたんだ」
 「身も蓋もない言い方をするなあ」
 俺は帽子を脱いで頭を引っ掻いた。その『色々』が、本当に凄まじかったのだということは、実は彼の公式のデータにも掲載されているし、俺も知っている。彼の『友達』や『姉』が実はとんでもない人物であることも、広く知られていないだけで別に隠されている情報ではない。
 だけど、俺が知りたいのはそんな彼の温厚さと掛け離れた過去ではなくて、むしろ彼がどうしてこんな田舎で土に埋もれていることを選んだのかという部分だった。
 それをどう説明したものか、と考えたけれど上手く言葉に表せそうになかったので、俺は質問を変えた。
 「それじゃあ、お前小さい頃の夢って何だった?」
 我ながら唐突で間抜けな質問だと思った。口に出してから、思わずちょっと後悔した。
 けれど、彼は一瞬虚を突かれたような顔をして、それから真面目に考え込み始めた。
 「……夢、ねえ」
 「俺はさあ、伯父貴があれだから結構軍人ってのに憧れててな。結局叶わなかった訳じゃないんだけど、何だかんだ言ってコネも使った挙げ句、こういうところで土嚢を積んだりしてる訳。別に卑下する訳じゃないけど、まさか子供の頃は農家や大工や土木技師の真似事まで手がけるなんて思わなかったよ」
 おどけた調子でそう言うと、彼も笑った。
 それから少し考えて、彼はふとぽつりと言った。
 「うちの母親は、いわゆる水商売をしていたんだけど」
 思わず、彼の方に首を向けた。その視線に気付いたのか、正面を向いたまま彼は微かに肩を竦める。
 「まあ、時々人を雇うこともあったけど、小さい店だから大体一人でやってたんだ。で、忙しいときは俺と姉が手伝いをしてた訳。子供の頃から、多分何となくそんな空気の中で一生過ごすんじゃないかなと思ってたよ。こう見えて俺、ビール注ぐの上手いんだ」
 意外な気がした。この、人一倍真面目そうな青年が、夜の店でボーイをしているところはなかなか想像ができなくて、無理に想像すると何となく笑えてしまいそうなほどの違和感があった。
 彼も当時のことを思い出したのだろうか、少しだけ笑うとふと向き直った。そして袖を捲り日に焼けた腕を組んで、こちらを覗き込む。
 「水商売は、要するに水を売ってお金をもらう仕事だよな。原価はただに近い物を売買する訳だから、そこに水以外の物もくっつけなくちゃお客さんが代金を払う理由がない。お前は、そこに何がつくと思う?」
 「え……」
 さすがに言葉にするのが幾らか躊躇われた。俺だって、そういった類の店に行ったことがない訳ではないけれど、本人もそんな店に立っていたという相手にそれを言うのは、少し抵抗があった。
 言い淀んでいると、不意に彼は切れ長の目を細めて笑った。何となく、心中を見透かされたような気がした。
 「……綺麗な女性達を売り物にしている訳じゃないよ。そんなことをしたら、店が競り場になってしまう。それじゃあお客さんに落ち着いてお水を楽しんでもらえなくなってしまうだろう?」
 俺は思わず瞬く。面食らう俺に、彼は妙に余裕のある笑顔を見せる。俺より彼は、幾つ年下だっただろうか。
 「ああいう店は、美味しい水と美味しい空気をお客さんに楽しんでもらう場所を用意しているんだよ。普段は言えない愚痴や、日頃の鬱憤を綺麗に流して、また翌日から元気になれる為の場所を提供している訳さ。だから、料金表がない店も少なくない。あれは法外なお金をふっかける為じゃなくて、お客さんのそれぞれから、それに見合った報酬を受け取る為のものなんだよ」
 「んじゃ、もしも俺がおまえんとこ行ったら、ちょっとくらいはサービスしてくれるのか?」
 冗談めかしてそう言うと、彼は小さく声を上げて笑った。
 「そんなこと言っても、こっちだって商売だからね。ホステスさん達だって自分の現実があるし、ある意味ではお客さん以上に厳しいかもしれないその現実をしまい込んで、楽しい場所を作ってくれている訳だから、それに対する正当な報酬は頂くよ」
 上手く誤魔化されてしまったけれど、まあきっとそうだろう。彼のように真摯に説明されると、浮ついたネオンサインの別世界が妙に身近に感じられるような気がした。
 ふと、正面から風が吹いたので、彼はそちらをもう一度向いた。前よりいっそう短くなった前髪が、額の辺りでゆらゆら揺れた。
 「……と、幾ら綺麗事を並べたって、ちょっとへまをしたら彼女達はすぐ売り物として扱われてしまうんだけどね。俺の姉だって、商品として街角に立ったことがない訳じゃない」
 ぽつりとさり気なく零した、聞き落としそうな言葉だったけど、思わず俺は顔を上げた。彼の姉と言えば、ついこの間新大統領と婚約したばかりの革命の功労者のはずだ。
 けれど、それを特に意に介するでもなく彼は淡々と呟いた。
 「別に彼女はそれを恥じる人じゃないし、俺も哀れむつもりはない。だけど、俺自身の自負はちょっと傷付いた。俺達が受け取るのはサービスへの対価であって、姉という商品への対価じゃないんだから」
 そして彼は膝の上に頬杖を突いた。その仕草だけは、妙に年相応に幼く見える。
 「まあね、俺は男だから結局母や姉と同じ仕事はできないし、そうしたらどうしても裏方で店を差配することにもなる。そんな仕事を女衒みたいにいう人もいるけど、実際彼女達を売り物にするかどうかを左右しかねないんだから、まああまり否定はできないね」
 「つくづく身も蓋もない言い方をする奴だな、お前も。お前自身は、母ちゃん姉ちゃんを売るつもりはないんだろ」
 わざわざちょっとひねくれた言い方をする辺り、何となく彼の子供っぽさを見るような気がした。
 正直言って、軍部から回されてきたそこいらの大人より、未成年の彼の方がよっぽど役に立つことが多い。配給の計算や資金運営といった帳面仕事を任せておけば、まず間違いがない。何より誠実さが必要な作業だから、はじめは少し難色を示す人もいたはずなのだが、今は誰もが彼に全幅の信頼を寄せている。それも全て、彼のこういった履歴に由来するのだとしたら、かなり周囲にとっても意外なことだろう。
 ふときょとん、と振り向いた彼は、小さく肩を竦めた。
 「うん、まあ、そうだね。武道をやってたのも、家族で男は俺しかいなかったし、俺が二人を守らなきゃと思ったのが最初だったから。姉は姉で小さい頃から、いつか自分は女王様になるって言って聞かなかったから、きっと俺は彼女に一生引き摺られるんだろうなあと思ってたんだ」
 まだラジオと新聞でしか見たことがない、新しく俺の伯母になる女の姿を思い浮かべて、俺は思わず吹き出した。
 「すげぇな、それを叶えちまった訳だお前の姉ちゃん」
 「全くだよ」
 笑いながら彼はふと立ち上がった。作業着の枯れ草を叩いて、それから大きく伸びをする。余り大柄な印象ではなかったけれど、このところ背も急に伸びたようだ。
 「さて、手の掛かる女王様も手を離れたことだし、執事兼番頭はどこで何をすればいいのか、と考えたとき、俺はここにいた訳だ」
 正面から吹く風に上着を煽られながら、彼は真っ直ぐ正面を見渡した。まだ冬枯れの色に覆われた村落が、丘の下には広がっている。寒々しい景色ではあるが、去年の夏に氾濫した川の後始末を終えたばかりの俺達にとっては、ようやく希望が見え始めた光景に感じられる。
 「俺は俺だし、場所が変わったって能力が突然大きく変化するはずはないからね。だったら、今俺がやってることも根本的には店でやってたこととほとんど同じなんじゃないかな。帳面をつけて、下拵えをして、上手く回るように差配して、周囲とのバランスを取っていくんだから」
 一歩間違ったら人売りになってしまうことにも変わりはないし、と彼は少し笑いながら付け加えた。
 違いない、と俺も笑った。
 俺達は所詮、裏方だ。ここで活躍するべき主役は、ここで生まれ生きていく全ての人達であって、俺達じゃない。乾けば飢え、浸水すれば飢える彼らがこの場所に誇りを持って生きていくには、乗り越えなければならない壁がたくさんある。俺達は、その裏方としてここを駆け回っているに過ぎない。
 「まあ、難儀な仕事ではあるな」
 「やりがいはあるけど、地味だよね」
 「俺達らしいと言えばらしいよな」
 お互い、呆れたように肩を竦めながら笑った。
 きっと俺達はみんな、こうしてこの地方の泥と砂埃の中に埋もれていくんだろう。それでも、俺達がここで奔走した為に何かが残るのだとしたら、なかなかやりがいのある仕事なのかもしれない。
 二月の風はまだ寒い。けれど半年もしたらきっと、国号が変わって最初の麦が取れる。秋には米も実るし、冬が来る前に芋も取れる。季節の野菜の種はまいたし、果物の苗も僅かだけど植えた。今年実らなくても、いつかきっとそれは根付く。
 来年の今頃も、風は冷たいだろう。だけどそれを和らげるのが、きっと俺達の仕事だ。
 ふと、彼が笑ったままこちらを向いた。
 「それで、お前何の用だったんだ?」
 「あ」
 すっかり忘れていた俺は、慌てて立ち上がった。
 「いや、昼飯ができたから呼んでこいって言われてたんだ。すまんすまん、すっかり忘れてた」
 「忘れるなよ、いい加減腹減ってんだから」
 彼は呆れた顔で踵を返す。俺も振り向いた瞬間、丘のふもとから昇る炊事の煙と手を振る人影が見えた。今日はどの地区の人が炊き出しに来てくれてたんだっけ、すっかり待たせてしまった。
 手を振りながら俺達は丘を駆け下りた。二月の追風が背中を押した。


 今はまだ寒い丘だ。
 けれどその内、ここにも花は咲くだろう。



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