有刺鉄線の約束 その老婆は、今日も日溜まりの置き石に腰掛けていた。 その石の表面に、花のような模様があるのに気付いたのは、確か前回ここにやって来たときだった。模様の正体は、実は古代の植物の化石で、そうした石を忍石と呼ぶのだと老婆は教えてくれたのだった。 けれどそのとき、僕の隣で興味深そうに忍石を眺めていた少女は今日はいない。多分彼女は、もう二度とここへやって来ることはない。 そして僕もきっと、今日を限りにもう二度とここへ来ることはない。この老婆とも、この石とも多分永遠に別れることになる。老婆と僕を繋ぐものは、絹糸一本ほどの細くて頼りないものに過ぎないのだから。 僕はふと振り返る。木立の向こうに、ぐるりと張り巡らされた背の高い有刺鉄線が見えた。ここからでは木陰に隠れているところに、僕がようやく潜れるくらいの僅かなほつれがあるのだ。 間もなく僕はそこを潜れなくなる。最近急に背が伸び始めて、前に来たときには難なく通れたそこが、今日はかなり窮屈になってしまっていた。引っかかってそこで動けなくなってしまったら、見付かり次第射殺されることになっているから、僕はもう二度とそこを潜らないことを決めた。 目の前に、背中を丸めて座っている老婆がいる。 彼女と会うのは、だから、今日が最後になる。 「ああ、この前の」 顔を起こした老婆は、僕の姿を見つけて破顔した。目尻に皺を寄せた老婆の笑顔がこの前とは違う色を浮かべているのは、すぐにわかった。多分、僕が伝えなくても彼女はどこからか聞き出しているのだろう。 それでも、僕は伝えなくてはいけない。僕はここに来なければいけなかったのだ。 老婆の脇に立って、それから見下ろすのは失礼かと思い、その場に腰を屈めた。跪く格好で彼女を見上げると、老婆は微かに首を傾げて微笑んだ。その表情があの少女に驚くほどよく似ていて、ちょっとぎょっとした。 ――本当は、驚くまでもないことのはずなのに。 「来てくれたんだねえ」 緩く波打つ銀髪を、後ろで一つに纏めた彼女は感慨深げにそう言った。僕の髪とよく似た色のそれに、ふと手をやって老婆は僕をじっと見る。彼女の髪は本当は、その色に至るには早すぎるはずだ。僕もまたそうであるように。 「約束しましたから」 僕も目を細める。 前に来たとき、別れ際に確かにそう約束した。また来るか、と尋ねた彼女に僕は頷いた。正確には、僕の隣にいた少女が頷いて、僕にもそれを促したのだった。 ただの社交辞令とも取れる他愛ない約束だったけれど、そしてその約束をしたもう一人はそれを守れないけれど、だからこそ僕はそれを守らなければならなかった。その約束がどれほど彼女にとって重いものか、知っているからこそ絶対に破る訳にはいかなかった。 「すみません。この次は、もうないんですけど」 例え彼女に、永遠の別れを告げる為の邂逅であったとしても。 ――僕は約束を守らなければならない。 老婆はまた、にっこりと笑った。幼いあの少女と最後にあったときの面影と、その表情が重なった。 「いいんだよ、あなたは約束を守ってくれた。それで十分だ」 僕も微笑もうとしたけれど、何だか照れ臭くて変な顔になった気がする。それを見られるのが嫌で、思わず俯いてしまった。 老婆は、この有刺鉄線の内側に囚われている女囚だ。終身刑に処せられた彼女の罪状を羅列すると、その名目だけで書類数枚を割かなければならないのだが、その要旨は実は一言に尽きる。 かつてこの国で、皇帝と呼ばれた男に愛されたこと。それが彼女の犯した最大の罪だった。 彼女の愛した男が何をしたのか、そして彼に最後まで付き従った彼女が何をしたのか、正確に知る術はない。事実は歪曲されて記録され、人々の記憶は風化している。当時を知る人はもうほとんど残っていない。 ただわかっているのは、彼女の愛した男は彼女を残して去り、二度と戻ってこなかったこと。そして逮捕当時身重だった彼女は、生まれたばかりの我が子に乳も与えられないままその子を奪い取られたこと。それ以来彼女は孤独なままここで生き続けていること。僅かにそれだけだった。 彼女を囲む有刺鉄線には、僅かな綻びがある。その隙間を抜けて、つい先日までここにやってくる少女がいた。僕をここへ連れてきた張本人でもあった彼女が、何かを知っていたとは思えない。ただ幼い好奇心で、博識な老婆の元へ通っていたに過ぎないだろう。 けれど、僕をここへ連れてきた張本人でもある彼女は、恐らくもう二度とここへは来ない。幼い彼女は両親に手を引かれ、僕にも知らせないうちに、恐らくは自分自身も訳がわからない内に、この地を去った。多分南の国境線を抜け、この国を捨てたのだと思う。 ――だから老婆は、また孤独になる。 愛する男を奪われ、我が子を奪われた彼女は、今またここを訪れるたった一人の幼い少女までも奪われたのだ。 再見、という他愛ない別れの挨拶は、またも意味を失ったのだった。だからせめて僕だけでもそれを守らなければならない、そんな残酷な正義感が僕の意識にあったことは否定できない。 忍石は、二人も座れるほど大きくない。あの少女なら老婆の膝の上にも座れたけれど、僕はそうもいかない。だから僕は地面に座り込んで、老婆の膝の脇に背中を預けることにした。 日の当たる場所だった。この外の辺りは宿舎が多くて少し薄暗かったが、隔離されているがゆえに何も周りにないこの場所は、よそよりも気持ちがよい空間だった。 あの少女は、子猫のように日溜まりを探してここに辿り着いたのだろうか。そんなことを考えていると、老婆はふと静かな声を漏らした。 「ありがとう、あなたのおかげでまた待ち続ける勇気が持てた」 僕は思わず瞬いて、老婆の顔を見上げる。その額に、彼女の節だった掌がそっと載せられた。 「約束は、破られた訳じゃないんだよ。まだ果たされていないだけなんだ」 孫にするように、僕の頭を優しく撫でながら、老婆は静かにそう語った。 僕は、投げ出していた自分の膝を折り曲げて胸に抱き寄せた。顔を膝に埋めると、老婆の堅い指は僕の短く切り込んだ髪の毛を梳いた。本当はこの髪をあまり人に触らせるのが好きではないのだけど、なぜか今日だけは平気だった。 「――あの人、いつ帰るかなんて言わなかった。ただあの人は、わたしのところ以外に帰る場所なんてないからね、わたしが待っていてあげないと帰る場所をなくしてしまうのよ」 彼女がどんな顔をしているのか、その声だけでわかった。あの、いつも少女に語っていたときのような、少し照れたようなはにかむような表情だ。精一杯それを誤魔化そうとする、苦笑いに似た表情だ。 あの気の強かった少女も、よくそんな顔をした。 「わたしが待っている限り、あの約束は続いているの。わたしが待つのをやめてしまったら、今もここへ向かっているかもしれないあの人は、帰る場所をなくしてしまうのよ。約束は破られた訳じゃない、まだ果たされていないだけなのよ」 けれどその時間がどれほど長かったことか。僕は彼女の時間を思うたび、自分のこれまでの生涯を思わず振り返らずにいられないのだ。決して短かったとも容易かったとも思えないその時間の、およそ二倍を彼女は待ち続けている。 「あの人の言葉を嘘にしてはいけない、あの人を嘘つきにしてはいけない。あの人は必ず約束を守る人よ――そう信じられるから、わたしは待ち続けられるの」 「辛くはないんですか」 僕の少し訛のある言葉を、彼女は正確に聞き取ってくれたらしい。少し古めかしい、美しい宮廷風の言葉で彼女は語る。 「辛いものか、わたしが信じるだけであの人への想いを守ることができるんだ。これほど易しいことはない」 そんなはずがない。信じると言うことがどれほど難しいものか、彼女が誰よりも一番よく知っているはずだ。誰よりも裏切られ続けた彼女ならば、全ての約束の儚さを身にしみて知っているはずだ。 それなのにどうして笑えるのだろう。あんなに眩い、少女のように初々しい表情で微笑むことができるのだろう。 膝に顔を伏せた僕の髪を、彼女はゆっくりと優しく撫でる。かつて拳銃の胼胝があったという小さな掌は、今は寒風にさらされて痛々しく荒れている。僕の髪の毛が何度も引っかかったけれど、その感触さえ今は悲しかった。 「――第一、あの人は帰ってきてくれたんだから」 思わず僕は顔を上げた。見上げると、僕の髪に載せていた掌を緩くもたげた老婆が、こちらを見ていた。あの、いつもの照れを押し隠した微笑みだ。 「あの人も、あの人の子供も、わたしの元を去ったけれど――カンメイが帰ってきたんだよ。三代かけてあの人は、わたしのところへ帰ってきた。今は、またどこかへ旅立っただけなんだ。またいつか帰ってくるよ、わたしはそう信じる」 老婆はどこか遠くを見るように、目を細めた。その横顔に僕は思わず目を奪われる。 下から見上げなければ、きっと見えなかっただろう。髪の毛で隠した耳の下から首筋にかけて、古い火傷の痕があった。忍石の花模様にも似た、決して小さくないそれは、年齢を重ねた今となってはさほど目立つものではなくなっている。けれど若い頃の滑らかな肌には、さぞ痛々しかったことだろう。 それが彼女の過去とどのように繋がるのかは、僕にはわからない。今日で別れてしまう僕には、きっと永久に知る術はない。けれどその傷が、今の彼女へと繋がっていることは間違いないだろう。彼女の強さを生み出した、彼女の過去の歴史の一つなのだろうか、とぼんやりと思う。この忍石に刻まれた、古代の植物のように。 ふと視線に気付いた彼女は、片方の掌でそっとその傷を包んだ。慌てて僕は目を逸らす。 ――昔の恋を今も守り続けている女性に、それは余りに配慮のない行為だ。 再び僕の髪を撫でて、彼女は優しく語った。 「あなたを、もう待ちはしないよ。わたしはあの人を待つので精一杯だ。それにこんな若い男の子とこそこそ会ったりしていたら、あの人にやきもちを焼かれてしまうからね」 僕は再び俯いた。 日溜まりの暖かい光と、老婆の温かい掌を、今はせめて覚えておきたかった。 彼女の恋を、その約束を、この年若い僕も忘れない為に。 |