35 焦燥 | モクジ | 37 違う


宴の声

 笑い声が聞こえた。
 一斉に弾けたその声の中でも、一際くっきりと響くお父さんの声はよくわかる。際だって低い訳でも、目立って高い訳でもなくて、それなのにどれだけたくさんの人が一斉に話していても必ず聞き分けられる、花椒みたいな独特の声。聞いたときに、いつも少し痺れるような感触のあるあの声は、きっと世界中を探しても他に見付からないと思う。
 お父さんのこと、わたしは余り好きじゃない。
 だけど実は、お父さんの声だけは凄く好き。本当はニジガロの声よりも好きかもしれないくらいだってこと、ニジガロには絶対言えないし、ましてやお父さんには何があっても言うつもりはない。お父さんの一部分でも好きだなんてこと、誰にも知られたくなんかない。
 あの声を聞いたらいつも、頭の奥が痺れたみたいになって、何も考えられなくなってしまう。だから聞かないように気をつけているつもりなのだけど、笑う声はよく響くから、つい耳が傾いてしまう。
 お父さんが笑ってる。そのこと自体は余り嬉しいことじゃないはずなのに、その声が聞こえることを嬉しいと感じてしまう。あの声を聞かないように離れているのはわたし自身のはずなのに、それがここまで届くのをつい好ましいと思ってしまう。
 ――だからわたしは愚かだと、馬鹿にされるのだ。


 「――ああ、だからドイツの連中は扱いやすいのだよ。連中はトルコ製の粗悪品に馴れすぎたせいで、やたら技術だけ持っているからね。あんな芥殻を買い取ってくれて、全くありがたい限りだ」
 酒壺を載せたお盆を捧げ持つわたしの顔に、お父さんのチャルワの房がばさりと当たった。琥珀の飾りが頬を打つけれど、少し湿った音がするだけでほとんどそれは誰にも聞こえない。
 木の器台だと、琥珀や銀の飾りがぶつかったとき、耳障りな音がするのだという。お父さんはそれが凄く嫌いだから、代わりにいつも若い女のシロを使う。
 さっきお酒が切れたとき、代わりの酒壺を持ってきてみたら、宴の最初からお盆を支えていたシロのお姉さんの腕がもう真っ赤に腫れていた。大丈夫かなと思いながら新しい酒壺に変えた途端、お姉さんはお盆を取り落とした。酒壺は急いで支えたので溢れなかったけれど、お父さんは宴席のお客さんと一緒に笑いながら、杖でお姉さんを一度撲った。
 だから、わたしが代わって器台になった。本当はお父さんはわたしのことが一番嫌いだから、こうして傍にいることさえ疎ましいかもしれないけど、次の人が来るまではどうしようもない。後で怒られるかもしれないけど、それはそのときのことだ。
 ――宴席のみんなはまた一斉に笑い声を上げる。少しでも遅れるのを恐れるように、全く同じ拍子で首を傾け、同じ声を上げて笑う。
 ここにいるのは、村の偉い人ばかりだ。この前代替わりしたばかりの祭司の長もいるし、シュ・ドゥルグの家柄の人はみんなチャルワを着込んで並んでいる。同じ黒い布でテーラー髷を覆って、左耳に同じ琥珀の耳飾りを下げ、右手に同じ図柄の盃を掲げている。黒と黄色と赤の三色で彩られた人達がずらりと並んでいると、それだけで盃の模様みたいだった。
 ああ、あそこにいるのはお母さんのお兄さんだ。お父さんの従弟で、義理のお兄さんに当たるけど、今日は末席の方に座っている。
 無理もない、お母さんが罪人として『追放』されたのはついこの間なのだから。だから誰よりも由緒ある家の長のはずだけど、今日は一番地味な格好で、ようやく宴席の端に加わっているに過ぎないのだ。
 突然、お父さんが笑った。その途端、宴席のみんなも同時に笑う。
 お母さんのお兄さんは、誰よりも高い声で笑う。引きつったみたいな顔をして、一生懸命笑い声を上げる。それに負けじとみんな声を張り上げる。湖の波のような、笑い声が宴席に響く。
 お父さんの声は、誰よりもよく響く。山から吹き下ろす冬の風のように、強く厳しく美しく響く。きっとこの中で心の底から笑っている、唯一の声だから、こんなにも自信に満ちて響くのだと思う。


 みんな、お父さんが笑うから一生懸命笑う。
 お父さんは、何がおかしくて笑うんだろう。



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