33 眠い | モクジ | 35 焦燥


 「疲れたわ」
 俺の顔を見るなり、彼女はそう言った。
 「うん、お疲れ様」
 憔悴した彼女の顔を見ながら、やっとの思いで俺はそう言ったけれど、その次の言葉が言えなかった。
 何を言えばいいのか、どう言ったらいいのか、全然わからなかった。言いたい言葉はもっとたくさんあるはずなのに、どれから言えばいいのかわからなかった。
 ――だって、こんなに嬉しいのはじめてなんだ。
 俺、どうしたらいいか本当にわからないんだ。



 ドアのところに突っ立ったままの俺をじっと眺めながら、彼女は首を傾げた。
 「どうしてそんなところに突っ立ってるの」
 ちょっと突っ撥ねるような彼女の独特の口調に、叱られた子供のように肩を窄めながら慌てて俺はすぐ傍まで寄る。彼女の声は小さくて掠れていて、すぐ傍まで寄らないとほとんど聞き取れそうになかった。
 改めて見ると、ベッドの上の彼女はまだ青白い顔をしていた。細い手足を重そうに投げ出して、黒に一房だけ銀を混ぜた長い髪を緩く編んで肩口に流していた。疲れきった色を浮かべて、それでも笑うその頬に、髪の毛がちょっと掛かっていたので、それを指先で摘む。眩しそうにくまのできた目元を細めながら、彼女は小さく言った。
 「もうふらふらなんだから。丸二日も掛かるし、死ぬかと思った」
 「……ホント、お疲れ様」
 何を言えばいいのかわからなくて、情けないことにさっきと同じ言葉を繰り返してしまう。
 緩く目を細めながら、彼女は俺の手を掴んだ。小さくて冷たい湿った感触に思わず身を固くしたものの、それを気取られないように笑ってみせる。
 ――こんなとき、どんな顔をすればいいのか全然わからないよ。
 「見てきた?」
 「うん、レディーによく似た美人だ」
 頷いてみせると、彼女は少し憮然とした顔をする。
 「あたしあんなにくしゃくしゃじゃないわ。どっちかと言えばあんた似よ」
 彼女の真面目な口振りに思わず吹き出すと、少し俺を睨んだ後、彼女もつられて笑顔を見せた。やつれた目元を細めながら、彼女は黒目がちの瞳で俺を見上げる。
 「目は何色かしら。黒の方が強く出やすいのよね」
 「案外青とか緑かもね。俺の母方はそうなんだ」
 「癖毛かしら。あんたみたいなブロンドだと綺麗なのに」
 「間を取ってブルネットかも。ストレートでも可愛いよ」
 ようやくまともな言葉が喋れることに気付いて、ちょっとほっとした。もしかしたらこのまま言葉が喋れなくなってしまうかもしれない、と思うくらいに嬉しかったんだ。本当に、全部の言葉が意味なんかなくしてしまうくらいに嬉しくて、何を言えばいいかわからなかったんだ。
 どうしよう、きっと俺、世界一嬉しい記録を更新しちゃった。
 前人未到だ、こんなときどうしたらいいのかわからないよ。


 ――陣痛が来たとき、俺は丁度仕事で遠方にいた。報せを受けて、全部放り投げて慌てて帰ろうとする俺を、引きとめたのは電話の向こうの彼女だった。
 『男がお産のときに来るのは、あたしの故郷じゃよっぽどのときだけなのよ。験が悪いからあんたは来ちゃ駄目』
 本当は自分だって初産で不安だろうに、立ち会うつもり満々だった俺を彼女はそんな風に追い払ってしまった。結局仕事を片付けるのに一日掛かってしまって、移動に更にほとんど一日かかって、ようやくこっちに戻ってきたときにまだ生まれてないとか聞かされたときは本気で蒼褪めた。
 正直言って、彼女が子供を産むなんてとてもじゃないけど信じられなかった。あの人形みたいに小さくて細くて、鋭いきつい目をして世界中を睨んでいるような彼女が、人間の親になるなんて悪い冗談のような気がしていた。確かにまだ小さかったテンを引き取って、あそこまで大きくしたのは彼女だけど、それとこれとはどこか根本的に違うような気がしていた。
 そりゃあ彼女が母親になる原因を作ったのは不肖この俺で、つまり俺は彼女の子供の父親になる訳だけど、でも何だかやっぱり実感が湧かなくて変な感じがした。ずっと本当は人間の親になるということが不安で、でも彼女は俺以上に母親然としていないものだから、どこかでちょっと妙な安堵を覚えたりしていた。
 車を急がせていた道中、無事生まれたと知らされて、なぜか引き返したいような衝動にも駆られていた。どことなく彼女に置いていかれてしまったような不安と、訳のわからない恐怖が募っていた。一人で彼女に取り残されてしまったような気がしていた。
 ――だからまさか、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
 あの子の顔を見て、それから彼女の顔を見て、こんなに嬉しいなんて思いもしなかった。


 お産の後、彼女はまだ眠っていないのだろう。焦点の合わない虚ろな目で、彼女は俺の顔をじっと見上げた。それから思い出したように、ぽつりと小さく呟いた。
 「ありがと」
 思わず瞬いて、俺は彼女の顔を覗き込む。今までにほとんど見たことがないほど、優しく彼女は微笑んだ。
 「……あたし、今までたくさん死なせたわ」
 一瞬言葉の意味がわからなくて、それからようやく理解して、俺は慌てて首を振った。けれど彼女も、ゆるゆると首を振る。
 「――テンの親も、エバの親も、ほとんどあたしが殺したみたいなものよ。あたし、あの子達を精一杯育ててきたし、二人ともあたしのこと恨んだりしない子だけど、だからと言ってあの子の親が還ってくる訳じゃないの。本人達に許された訳じゃないから、あの子達が恨まなくてもあたしの罪は消えたりしないの」
 新生児室のガラスに張り付いて、生まれたばかりの『妹』を覗き込んでいた二人の姿が脳裏を過ぎった。その面差しを見るたびに、俺達の犯した罪の重さを突き付けられるけれど、それを軽く凌駕する愛しさに支えられて今まで一緒に暮らしてきた、大切なうちの長男と長女だ。
 あの子達が可愛ければ可愛いほど、彼女が罪の重みに苛まれているのを知っている。他人の自分ですらこんなにも可愛いのだから、その親が生きていればどれほど慈しんだだろう、と悩む彼女を知っている。俺だって、幾度となく似た思いに駆られたものだった。
 その罪は俺も同じだ、と言いたかったけど、咽喉元でつかえたみたいで声にならなかった。認めるには余りにも勇気のいる罪を、彼女は自分で静かに語る。
 「一度死んでしまったら、もう二度と命は戻らないの。あたしが奪った人生は、もうやり直しが効かないの」
 「……ちょっと休んだ方がいいよ」
 青白いのを通り越して、ほとんど血の気のない白い唇でそう言うので、何だか凄く怖かった。今だけは、そんなことを言って欲しくなかった。だから冷たい唇に指先を当てて言葉を封じようとしたけれど、彼女は静かに首を振った。
 「――でもね、あたし、人を一人産んだのよ。新しい人生を持つ子供を、一人増やすことができたの。奪うばかりで、殺すばかりだったあたしがね、命を一つ生み出すことができたの」
 寝そべったままの彼女の頭を両手で撫でて、それから頬を包むように俺は覗き込む。その目尻を、涙が伝うのが見えた。
 「数の上はね、全然釣り合わないわよ。産んだのはやっと一人で、殺したのはもうわかんないくらいだものね。でもね、あたしの分身でもあんたの分身でもない、一人前の新品の人生を持ってる人間を産むことができたの。それが凄く嬉しいのよ」
 親指で涙を拭うと、彼女はぎゅっと目を閉じた。初めて会った十七歳のときと変わらない、どこかあどけない面影だった。
 「……あんたのおかげよ。あんたのおかげで、あたしあの子を産めたの。ありがとう、それだけどうしても言いたかったのよ」
 ――こんな素直な彼女を見るのは、何だか凄く久々な気がした。いつもぎりぎりまで張り詰めて強がって、力を尽くして全てに抗おうとする彼女が、こんな風に俺の手の中でじっとしているのが何だか信じられなかった。
 「取り敢えず、凄く眠いわ。陣痛来てから生まれるまで、結局一度も寝てないの。寝ちゃってもいい? 寝るわよ」
 衒いのない口調に、俺は思わず苦笑する。それから何か答えようとしたけれど、また言葉が咽喉の奥で詰まってしまって声にならなかった。
 言いたいことは山のようにあるのに、そのどれも言葉にならなくて、思いばかりが先走って、なぜか目から涙になって溢れてきてしまった。どうしようと思ったけど止められなくて、まどろみかける彼女の胸元に突っ伏してしまう。
 テンの父親は、この嬉しさを知らずにいってしまった。
 エバの父親は、この嬉しさを拒絶していってしまった。
 得られなかった分も、望まれなかった分も、彼らの喜びを全部俺が一人で預かってしまったような気がした。どうして俺ばかりが、こんなに恵まれた役どころを与えられたのだろう、と思うと不公平な気がした。
 ふと、俺の頭に冷たい細い手が載せられた。涙で曇った眼鏡を外して顔を拭うと、やつれた顔で笑う彼女が見えた。
 ――駄目だなあ、やっぱりお母さんには敵わないや。



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