31 緊迫 | モクジ | 33 眠い


寒い日

 その日の朝、いつもよりも少し早く目が覚めた。
 オンドルの毛布から出た瞬間、肌に当たる空気がいつもよりも冷たかった。普段なら平気だけれど、今日は思わず昨夜床に落とした上着を拾う。
 そしてカーテンの重い布地を捲った瞬間、目に刺さる光がいつもよりも眩しい。

 ――あ。

 思わず振り向くと、さっきまでわたしのいたところに、無造作に投げ出された二本の腕が見えた。はだけたその肩口に、揺り起こそうとわたしは手を伸ばす。
 けれど、彼の身体に掌を載せた瞬間、ふと手を止めた。
 (せっかくもう少し寝られるのだものね)
 代わりに、毛布の端をもたげて彼の両腕に掛け直す。首筋から寒気が入らないように布団の端を軽く押さえて、わたしはオンドルの端に腰を下ろした。
 頬に影を落とすほど長い睫毛、普段よりもずっと年相応の、無防備な幼い寝顔を眺めていると、何となくちょっとだけ泣きたいような気分になる。
 ふと彼が寝返りを打ったので、綺麗な白い顔に亜麻色の真っ直ぐな髪が少し零れた。起こさないように気を付けながら、指先でそれをちょっと摘んで掻き分ける。
 少しだけ彼は何か小さな寝言を言ったけれど、これくらいで起きてくれる人だったらわたしはきっと毎朝の苦労が半分で済んでしまうわ。
 (ちょっと早いけど、ご飯の用意をしようかしら)
 ふと立ち上がろうとして、何かに上着の裾が引っ掛かったみたいにつんのめった。振り向くと、彼の掌がわたしの裾をぎゅっと握ってしまっている。
 「……もう」
 多分外してしまって、代わりに毛布の端を握らせてしまえば、彼はきっと気付かない。けれど今日はもう少しだけ、こうしてじっとしていることにした。
 いつもの日常が始まるまで、今日はまだ時間があるのだもの。

 ***

 「あ、ホンファン、こっちこっち」
 人込みの中でも一際目を引く長身が、わたしに向けて手を振った。もう、大丈夫よこっちからでも見えるもの。
 駅の広い庇の下、二本の傘を抱えてわたしは人込みを掻き分ける。久し振りの街なのでちょっと苦労していたら、あっという間に彼がこちらへやって来て、庇うようにわたしの肩を引き寄せた。傍に彼がいるだけで、本当に驚くほど歩きやすくなるのね。
 「ごめんな急に呼び出して」
 「もう、朝ちゃんと傘を持って行くように言ったでしょ」
 「うん、ごめんな」
 天気予報では、今日の昼過ぎから雨が降るとなっていた。ちゃんといつもは鞄に折畳の傘も入れてたのに、いつの間に抜いちゃってたのかしら。
 本格的な寒波の前に冬支度を済ませてしまうはずだったのに、だいぶ予定がずれてしまって、わたしはちょっと機嫌を損ねていた。本当はもう少し文句と注意をしようと来る途中に思っていたのだけど、彼の顔を見たら何となくどうでもよくなってしまう。いけないわねこれって。
 「せっかくだから、ちょっと街の中うろうろしてから帰らないか?」
 「……でも、晩御飯の用意もあるわ」
 本当は今日の内にこの冬の白菜を漬けてしまおうと思ってたし。
 「第一、あんまり二人で一緒のところを見られたら」
 「久々に帽子被るよ」
 彼は屈託なく笑う。確かに彼の一番の特徴は、この長い真っ直ぐな亜麻色の髪の毛。それさえ隠してしまえば、遠目ではうんとわかりにくくなるけれど。
 でも、自分の顔だけで充分目立ってしまうって言うこと、あなたはもう少し自覚した方がいいと思う。
 「こんな風に街中来るのも久々なんだし、寒いからコーヒーでも飲んで帰ろう」
 そんな風に言いながら、彼はわたしを抱え込むと半ば無理矢理歩き出してしまった。片手で器用に傘を広げると、わたしの上に差し掛けてくれる。そんなことしたらあなたの肩が濡れちゃうのに。
 ――要するに、見事にデートに誘い出されてしまったのだ、と今更になってわたしは気付いて、ちょっとだけ後悔した。
 もう、わたしはこういった面では、絶対彼に敵わないのに。


 「どこに行くつもりなの?」
 「どこに行こうか」
 ぱらぱら降る雨の中で、特に行き先を決める様子もなく彼はうろうろそぞろ歩く。時々雲の様子を見上げるけれど、どことなく上の空の様子だった。
 「ねえ、やっぱり風邪引いたらよくないし、今日は帰りましょう。また今度一緒にお買物に来ればいいんだし」
 「やだ。今日でなきゃ駄目なんだ」
 思いの外にきっぱりと言われて、わたしは思わず彼の顔を見上げる。
 「……何かの記念日だったかしら、今日」
 「ううん、俺達がはじめて会ったのは二週間前で、お前が家に来たのは三日後だ」
 よく覚えてるのね……わたしも覚えてたけど。
 「来週は先生のお誕生日よね。今、セーター編んでるんだけど」
 「俺はクラスの奴推薦のコーヒーセット買った。クッキー添えようかと思ったんだけど、あんまり堅いと駄目だから、またフルーツケーキ焼いてくれな」
 「わたしのでいいならいつでも作るけど……」
 プレゼントを買いに行く訳でもなかったのね。
 彼の少しわくわくした表情を、ちょっと訝しげに見上げてみる。それに気付いた彼は、少しにこっと笑って見せた。
 「もうちょっとだから、寒いけど我慢して欲しい」
 「ええ、わたしは平気よ」
 それに、そんな顔をされたら、わたしが嫌って言えるはずないのに。
 でも、本当にどこへ行くつもりなのかしら。もう日が落ちて真っ暗になってしまうのに。
 ――その途端、傘の端から落ちる雨の雫をじっと眺めていた彼が、ふと嬉しそうな声を上げた。
 「あ、ほら」
 めいっぱい片腕で抱き寄せられて、少し屈んだ彼と目線が揃う。
 もう日が落ちて真っ暗になった街に、ビルやイルミネーションの明りが灯った。その逆光に照らされるように、雨の中にふわりと白いものが舞うのが見えた。あっという間にその白い羽のような柔らかい光が、雨に取り変わっていく。
 「ほらホンファン、雪だ。初雪だよ」
 真っ白な彼の息の向こうで、雨が一瞬で雪模様に変わっていく。雨のときとその勢いは変わらないけれど、質感はずっと柔らかくなった。
 彼は傘を畳んでしまうと、嬉しそうに振り向いた。
 「あのな、初雪のときに一緒にいる恋人同士は、絶対結ばれるんだって」
 思わずわたしは彼の顔を見上げる。帽子や零れた髪の毛に、雪の結晶をいっぱいくっ付けて彼はとても嬉しそうに笑う。
 「夕方から雪になるだろうって、今日はクラスでずっと持ちきりで。俺、今日はじめてそれ知って。で、どうしても初雪の瞬間にホンファンと一緒にいたかったんだ。忙しいのに無理矢理呼び出してごめんな」
 寒さで真っ赤になった頬で、そんな風に笑う。
 どうしてそんなに衒いもなく、そんなことを言えてしまうの。
 「ごめんなホンファン、寒かったよな。そろそろ帰ろうか」
 彼はわたしの手を握る。そうして、寒くないように彼のポケットの中にわたしの手を押し込む。
 ――どうしてそんなに、あなたは優しいの。
 わたしより先に何歩か進みかけた彼は、わたしが立ち止まっているのに気付いて不思議そうに振り返る。
 「どうした、何かあったのか?」
 「……あのね」
 言いかけたわたしは、彼の目を見て言葉を飲み込んだ。
 ――どちらにしても、余り必要のないことだもの。
 代わりに少し逡巡して、彼を目を見上げる。不思議そうにじっとこちらを見る、深い紫の瞳。その瞳に言わなきゃいけないことは、もっと他にある。
 「ありがとうロン、ずっと一緒にいてくれるのね」
 怪訝そうに少し首を傾げながら、彼は何度も頷いた。
 「当たり前だろう、もしお前が嫌だって言っても、俺は一緒にいるからな」
 真面目な顔がおかしくて、思わずくすくす笑ってしまうと、益々不思議そうに彼はわたしの顔を覗き込む。そんなに真剣な顔をされると、余計に笑ってしまうわ。
 ふとわたしの傘を取り上げながら、彼はまだ不思議そうにわたしの肩を抱え込んだ。けれどあんまり笑っていると、彼までとうとうつられたように笑い出してしまった。
 「コーヒー行こうか」
 「先生が待ってるわ」
 「今日くらいは大目に見てもらおう」
 そうね、初雪だものね。


 ――でも、早起きの先生は多分知ってると思うの。
 本当の初雪は今日の朝一番で、朝日と一緒に溶けてしまったってこと。
 そしてそのときも、あなたとわたしは一緒にいたってこともね。



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