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初春のヴィオロン

 灰白色の長羽織が、その細い背中でふわりと翻った。
 遠目では無地にしか見えなかったが、よく見るとそれは桜をちりばめた小紋だった。柄の割に彩りの欠ける羽織だが、花寒の時期にはどことなく似つかわしかった。
 長めに着流した寸丈の着物は淡い藍色。雪駄の鼻緒と合わせた色味や、鳶茶の半帯に挿した銀の帯揚げは、こんな片田舎には勿体ないような洗練された雰囲気を醸し出していた。
 長い黒髪は、項の辺りで堅い髷に纏めている。そこいらで青菜を洗う主婦と変わらない平凡な髪型だったが、それを止める銀の笄は今まで見たことがないような形をしていた。丁度蝶番のところで止めた一組の蛤に、髷をはませているような、そんな少し見慣れない飾りをしていた。
 勝手先に椅子を出して往来を眺めていた山佳は、すぐにその人物に目星をつける。何のことはない、先日書簡で来訪を告げていた知人であろう。記憶にある限りで会ったことはなかったが、流麗な墨痕やたおやかな文面から感じていた印象そのままの人物だった。
 (佳人だろうとは思ったが)
 山佳は目を細める。藍色の裾が翻ると同時に、砂埃がふと顔を打った。
 細い首を傾がせて、その人物は左右を見回している。懐から出してしげしげと見直しているのは、先日山佳が先方に送った葉書だろう。妻のひで子に書かせた蘭が、その裏側から覗いている。
 (なかなか粋なお人だねえ)
 頭の後で腕を組み、脚を組んで山佳は小さく口笛を吹いた。
 彼の目の前を素通りした佳人は、遠方からの来訪にも関わらず風呂敷包みも行李も鞄も持っていなかった。だからこそ、その姿はいよいよ一幅の絵のように様になっていた。
 ――その細い手が下げているのは、古びたヴィオロン箱一つだった。


 「姐さん」
 眺めていると、佳人を一人の少年が呼び止めた。身体が小さくて苛められては、よく泣きついてくる秋二だ。今日も洋達が遊びに行ってしまって、一人で取り残されていたのだろう。
 振り向いた佳人の手が下げた、古びた革の手提げ箱に彼は目を縫いとめる。それからようやく振り仰ぎ、細やかな面を仰いだ。
 「姐さん、これヴィオロン?」
 一瞬きょとんと首を傾げた佳人は、すぐにたおやかな笑みを浮かべると頷いた。「はい、洋琴が入っていました。よくご存じですね」
 当たり前だ、と山佳は唇で笑う。彼の吟じる詩を、門前の小僧さながらに諳んじてみせる少年だ。ヴィオロンとはどんな楽器なのか、と散々に詰め寄られ、山佳自身がほとほと手を焼いたことがあった。
 何も知らない佳人に、少年はぱっと顔を輝かせる。
 「『秋のヴィオロンの長いすすり泣きは、モノトーンにけだるい僕の心を傷つける』」
 「ヴェルレーヌですね」
 目を細めて佳人は頷く。得意げに胸を反らし、それから秋二は背伸びをして佳人に詰め寄った。
 「姐さん、ヴィオロン弾けるんだろ?」
 頷いた佳人に、言質を取ったと言わんばかりの勢いで秋二は飛び跳ねる。まあ無理もないだろう、と山佳は肩を竦める。あれだけ長年、まだ見ぬ楽器に胸をときめかせていた少年だ。
 「何でもいいから、ちょっと聞かせてくれよ。俺、ヴィオロン聴いたことがないんだ。一度でいいから聴いてみたかったんだ」
 嬉しそうに詰め寄る少年に、佳人は少し困ったように首を傾げる。
 それからふとおもむろに地面に箱を置くと、突然それを開いた。
 勢い込んで覗き込んだ秋二は、ぽかんと驚いたようにその中をじっと眺めると、見る見る内に顔を歪めて佳人を罵った。
 「嘘吐き!」
 「嘘を言った覚えはないのですが」
 秋二の隣にしゃがみ込んだまま、佳人は困ったように彼を見上げた。そしてふと、箱の中から布に巻いた筆を取りだしてみせる。益々泣きそうな顔で、秋二は唇を尖らせる。
 「嘘吐きじゃないか! 何でヴィオロンの箱にそんな普通の荷物を入れてるんだ!」
 まあ、秋二の主張ももっともだろう、と山佳は無責任に傍観する。普通の感覚ならば、あんな歪な容れ物に荷物を詰めようとは思わない。容量も少ないだろうし、第一楽器入れは壊れやすい楽器を保護する為のものだ。その中に別の物を入れてしまっては、肝心の楽器がむき出しになってしまう。
 さて、と眺めている山佳の前で、佳人は少年をじっと見上げた。顔の片側は前髪で覆ってしまっていてよく見えないが、黒目がちのよく整った面差しをしているのは遠目でもよくわかる。半べその少年の肩を取って、穏やかな声が響いた。
 「この箱の洋琴は、残念ながら焼けてしまったのですよ。これも焼いてしまえばよかったのですが、主人の形見の品なので、ついつい箱だけでもと持ってきてしまったのです。空箱を下げるのも寂しいので、ついでに手荷物を詰めたという次第です。その事情はわかりますか?」
 諭すような口調に、仕方なくと言った様子で秋二は頷いた。それから小さく、「勿体ない」と呟く。
 苦笑のような笑顔で、佳人は箱の蓋を閉めた。
 「はい、本当に。勿体ない人を亡くしました」
 秋二は思いもよらぬことを言われたと言わんばかりに、きょとんとした。そんな彼の目の前で、すっと立ち上がった佳人は箱を下げ直して視線を巡らせた。
 「……ところで、あなたにヴィオロンの詩を教えて下さった方は、どこのお宅におられますか?」
 一瞬目が合いそうになり、山佳は慌てて逸らす。
 だが、秋二は意外そうな声をあげた。
 「あれ、姐さん知らないの? 山さんは、あそこに座ってるあのおっちゃん」
 「ああ、ありがとうございます」
 肩を竦めた山佳は、ばつが悪そうに頭をがりがりと引っ掻く。足音も立てずに歩み寄ってきた佳人は、彼の目の前で足を止めると深々と腰を折った。背中越しに、こちらを興味深げに眺めている秋二の視線が飛んできた。
 居たたまれず振り向いた山佳に、佳人は婉然と微笑む。
 「お初にお目もじいたします、佐野と申します」
 「ああ、こりゃ遠いところをどうも……」
 あたふたと席を立つ山佳の目の前で、佐野と名乗った佳人はくるりと背中を向けた。そして彼を取り残して、秋二にひらりと掌を振る。
 「……本当にありがとうございます、危うく迷子になるところでした」
 持て余すように腕を組んだ山佳と、何を考えているのかわからない笑顔を浮かべる佐野を見比べ、ようやく秋二は笑った。帰路の方に足を向けながら、彼は大きく手を振る。
 「山さん同人の仲間には意地悪いから、姐さん覚悟しろよー」
 「はい、よくわかりました」
 秋二が振り向かなくなるのを待って、ようやく山佳は細い背中を小突く。きょとん、と秀麗な面差しをようやく佳人は向けた。それからふと、蠱惑的とも言えるような笑みを唇に載せる。
 「――本当に、行き過ぎるかと思いました崔氏」
 「その名前は呼ぶな」
 不意に眉を曇らせ、山佳は灰色の長羽織の袖を引いた。それからヴィオロンの箱を預かると、勝手の戸を押し開けて潜った。猫のような仕草で、佐野はそれに続いた。
 ふと、玄関先まで案内されながら、佐野はおかしそうに微笑む。
 「随分大きくおなりですが、悪戯好きは変わらないご様子」
 「あんたほど変わらない化物はいないさ。ここまで親父が言ってた通りだとは思わなかった」
 ――この佳人と会ったのは、山佳もとい崔がまだ赤子のときだったという。無論彼の方にこんな佳人の記憶はない。今回の縁故も、彼自身のものではなくて本来は親の代に結ばれたものだ。
 「もしものときは、いつでも高見の見物に戻って下さって結構ですよ」
 「馬鹿言うな、もう懲りた」
 玄関の戸を引き、山佳は客人を招き入れる。
 麗しい客人は、ふと片膝と片手を地面に着け、流麗な礼をした。
 ――日本の衣装と風土にそぐわない、草の匂いがする大陸の礼だった。


 同人雑誌『瑠璃の甍』に歌人佐野の名が加わった、その春のことであった。



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