20 軽蔑 | モクジ | 22 感動


猟犬と龍

 伝説でしか知らない蝶をはじめて捕えた人間ならば、わたしの気持ちがわかるだろう。
 薄汚い監獄の中、灰色の看守の制服に囲まれた、そこだけが仄白く光を放っているように見えた。
 鼻を突く異臭と、床に落ちた少なくない量の血に塗れて、それは身体を折り曲げうつ伏せに倒れていた。
 ――その、亜麻色に輝く長い髪を見た瞬間、理性の掛け金が外れる音を聞いた。
 気が遠くなるほど長い間抑え続けた、鈍い色をした自分の情念が。


 「何だ、猿轡を噛ませているのか。これだと話にならないではないか」
 人垣の中央に屈み込み、その髪を引っ張って仰向かせてみると、ぐったりと目を閉じたその人物の口元が雑巾のような布で縛られているのが見えた。本来ここで行われるべき目的は、過激派勢力の中枢にいたこの人物を取り調べることなのだから、これでは意味を為さない。
 ほとんど着衣らしい着衣をつけていない白い身体を見遣るが、文字通りほとんど完膚なきまでに引き裂かれたような傷で覆われていた。手足だけでなく肋骨の周りにも青黒く腫れ上がった打撲痕があり、どうやら何箇所か骨折しているらしい。肩の辺りには一際目立つ包帯が巻かれていたが、その下から滲み出たばかりの鮮血がそれを濡らしていた。
 ――この状態は、普通は尋問と言わない。最も適当な言葉を探すとすれば、私刑だろう。
 「は、舌を噛む可能性がありましたので、そのような措置に致しました次第であります」
 「そうか、舌を噛むのか」
 きつく結ばれた瞼を縁取る、淡い色の睫毛を眺めながらわたしは笑う。
 死ぬつもりなら、もっと早く自分でどうにでもしていただろう。わざわざ途中からこのような措置を取るということは、取調の苦痛に堪えかねて自ら命を絶つことがないようにしているだけだ。
 下手な取調員は、その匙加減を間違えて囚人を殺してしまう。苦痛を与えれば自白するだろうと単純に考え、口を割らない囚人に過激な拷問を加えてしまうのだ。結果、その苦痛に堪えかねて途中で自害した囚人は少なくない。
 冷静に考えれば、取調が完了して情報を搾り尽くされた囚人を生かしておくメリットはどこにもない。元より過激派組織に名を連ねた者はほぼ例外なく極刑のはずだから、証言を吐き出したところで生き延びることは不可能である。それは囚人も十分弁えているし、だからこそ逮捕されるや否や、隙を見て毒を仰ぐ過激派が大半を占めるのだ。
 拷問とは、一時的でも構わないから現状の苦痛を逃れたいと思わせることが肝要なのだ。そして、判断力を奪い精神的に追い詰めるには、断続的な苦痛が非常に有効だ。一定の時間囚人の意思とは関係なく暴力を加え、その後自白を促し、再び意思を封じて苦痛を与える――どうやら今回の取調員らは、そのコツを十分心得ているらしい。
 「そうだな、そう言えばこいつも逮捕時に自傷行為に及んでいたか」
 現場を目撃した訳ではないが、報告によると、逮捕時にこの人物は折れたナイフの断片で肩口や胸元を何度も抉っていたという。他にも深い傷が幾つもあり、体力も消耗していたということがあって、しばらくは監視をつけられたまま病院に入院していたはずだ。
 だが、本当に死ぬつもりなら首を切ればいい。過激派の筆頭、旧王朝派の中心人物である彼が、他の工作員のように毒を持っていないというのも思えばおかしな話である。
 ――つまりは、警備の手薄になる隙を突いて逃亡を企てようと考えているだけだろう、そうわたしは結論を出す。
 「困った坊やだ。お前は生きて、我々の手の内にいなければならない。死なれては困るが、逃げられたらもっと困るのだよ」
 意識のない顔に、穏やかにわたしは語る。
 血に濡れた面差しは、意外なほどに傷が少ない。歯の何本かはもう抜かれているだろうと踏んでいたのだが、どうやら首から上にはまだ暴力が及んでいないらしい。倒れたときについたらしい擦傷と、後は他の部分の傷から血が飛んだだけだろう。
 それも理解できない訳ではない。この人物――この少年の端正な容貌は、傷つけるには余りにも惜しいのだ。
 きつく瞼を結んでいても、猿轡で口元を半ば隠されていても、その面差しが整っているのはよくわかる。血が通っているのか疑わしいほど白い肌に、月光のような淡い金の髪が乱れて掛かる様は、男のわたしでも妙な気分になるほど妖艶だった。
 ふと、その目を開けさせてみたくなり、わたしは引っ掴んだ髪の毛を振って彼の頭を揺すった。うめくように顔を歪めて咽喉を鳴らし、少年は長い睫毛を震えさせる。それにも構わず何度も揺さ振っていると、ようやくその睫毛の影に僅かな光が宿った。
 細く開かれた瞳が、僅かに紫の光を宿しているのが見えた。これまでに見たことのないその色に、わたしは少しだけ息を飲む。ぞっとするほど冷たく、ぞっとするほどこの少年に似つかわしい色合いをしていた。
 「目が覚めたか、皇帝陛下」
 髪を引っ張って顔を上げさせたが、彼は呻き声一つ立てようとしない。ただ、虚ろな目でこちらを眺めるだけだった。
 「……何だ、自白剤を使ったのか」
 急に興味が削げ、わたしは手を離した。ごとりと重い音を立て、少年は床に頭を落とす。そのまま目を閉じることもなく、彼はこちらをぼんやりと眺め続けていた。
 古いと言われようが、自白剤の投与なしにどこまで証言を引き出せるかが取調員の腕の見せ所だとわたしは思っている。これでもかつてはそれなりに自分で腕を鳴らした覚えがあったからこそ、既に薬に漬けられた対象は興味を削いだ。それにしても、これは投与のし過ぎだろう。これでは既に、正気をなくしている。
 自白剤を使ったのに、まだ猿轡を噛ませて拷問を加えているということは、今回の取調員はよほどのサディストが揃っているらしい。もっとも、この顔を眺めていると屈服させたいと思う気持ちもわからないではないが。
 そんなことを思っていると、隣に立った看守の一人が意外なことを言った。
 「それが……未だに有効な証言を吐いていないのです」
 「は?」
 思わず耳を疑って、わたしは言葉を重ねて訊ねた。
 「幾つも項目があるだろう。旧王朝派の活動拠点にしても、瀬戸甫民の所在にしても、今後の活動計画にしても――」
 そして、一瞬虚ろな紫の瞳に目を向けて、それから言葉を繋いだ。「皇帝の妻子の消息に関しても」
 「その、どの一つに関しても、有力な証言を得られていないのです」
 さすがのわたしも呆れた。そこまでの口の固さは、これまで聞いたことがない。
 調書によると、僅かに十七歳。わたしの一回り以上も年下の子供が、東アジア最大級の過激派の頂点にいるということも悪い冗談のような話だと思っていたが、その強情さは確かにその地位に相応しいものだったらしい。
 「……怖気付いた死にぞこないと思っていたが、案外骨があるようだな」
 なるほど、これほどまでに口が固ければ自害の必要もないだろう。
 一度そがれた興味が再びわたしの中で鎌首をもたげた。投げ捨てた少年の顔に手を伸ばすと、項の辺りで固く結ばれた猿轡を解いてみる。死ぬ気がないのであれば、やはりこれは必要ない。それよりもこの少年がどんな顔でこの状況を受け入れているのかが気になった。
 旧社会のヒエラルキーの頂点、並ぶ者のない貴人として生まれたときからもてはやされていた、この幼い男が最悪の囚人として扱われるときに、どんな顔をするのか。既に正気を失った唇に浮かぶのは、屈辱か恐怖かはたまた憎悪か。
 微かな異臭を放つ汚いぼろ布は、丁度噛まれていた辺りに唾液と血液を染み込ませて、じっとりと湿っていた。汚らわしいそれを摘み上げて放り、わたしは再び亜麻色の髪の毛を引き掴んでこちらの方を仰向かせる。
 その瞬間、ぼんやりと虚ろに濁っていた瞳がゆっくりと瞬いた。暗い色に一筋の光が滲む。
 女のような細い顎に、血と唾液の混ざったような液体が零れた。口の中を切っていたのか、それとももっと深い場所が出血していたのか、猿轡で押さえ込まれていたかなりの量がその口許を汚す。喘鳴と共に吐き出されたそれらは、やがて床に落ちて粘着質な音を立てた。
 肉食の獣のように、或いは紅が落ちた売春婦のように、赤く汚れた唇はしばらく空気を求めるように震えていた。だが、その瞳がわたしの姿を捉えた刹那、端正ともいえるその形が歪む。

 ――弓靂心だな

 歪んだ唇からは掠れた荒い吐息しか洩れなかった。だが、その形がわたしの名前を描いたのはすぐに見て取れた。
 些か意表を突かれたが、旧王朝派の頂点にまで自分の名前を把握されているのは逆に光栄にすら感じられた。思わず笑みを浮かべて顔を近づけると、ふと喘鳴に掻き消されかけた微かな声が耳に届いた。

 ――飼主のものに手をつけるとは、驚くほど躾の悪い狗だ

 そして、その鮮血に染まった唇が言葉を拒むように引き結ばれ、その口角を上げた。そうして作り出された表情は、普通笑顔と呼ばれる種類のものだ。
 心底愉快そうに、少年は血に塗れた唇を笑みの形に曲げていた。
 一瞬脳裏が真っ白になった気がした。鈍い音で我に帰ったときには、染みだらけのコンクリートの床の上に微かに身体を震わせる少年が転がっていた。彼を床に力一杯叩きつけたのだと気付くには、もう少し時間が掛かった。
 こんな子供が、わたしの半分も生きていない幼い少年が、このわたしを侮辱するか。ふとわたしは立ち上がると、まだ小さく身動ぎする少年の、血で汚れた亜麻色の髪に覆われた頭を革靴の底で踏み付けた。ぎり、とにじって見下すと、その忌々しい表情は伺えなくなった。
 「……鳴かない駒鳥に用はない。急ぎ身柄を軍部大臣邸に移動させろ」
 あの、もっぱらに美少年を好み囲っているという、変態のところへ。社会身分を得た者は少なからずその嗜好に走る傾向があるが、私の知る中ではあの男が群を抜いている。
 わたしを侮辱した罰だ。死よりも苦しい屈辱を味わってみろ。
 抗うこともなく踏みつけられている少年に、わたしは優しげな声で語りかける。
 「――狗ならば、飼主のもとへ獲物は送り届けないとな」
 床に落ちた長い髪の毛が、微かに揺れた。青黒い傷に覆われた細い肢体は、抗うこともできずに投げ出されている。その表情は伺えないが、それでよい。あの忌々しい面差しはもう二度と見たくなどない。精々皇帝などという空虚な身分に生まれついたことを嘆き、自らの愚かさを悔やむがいい。
 この撃ち落された、幼い雛鳥めが。
 貴様の翼は飛び立つ前にもぎ取ってやる。



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