13 悩む | モクジ | 15 驚き


日の短い日

 「トンジ?」
 僕が耳慣れない言葉を復唱すると、馬車の上に大きな袋を積み上げていた遊星さんは、白い息を吐きながらこちらを振り向いて頷いた。項の辺りで結んだ固そうな髪の毛が、ちょっと積もった雪の欠片をぴんとはねた。
 「そう、冬至。今日は一年で一番日が短いんだ」
 へえ、と相槌を打つ僕に、遊星さんはいつもの楽しそうな笑顔を見せる。
 「何でも昔、とんでもない馬鹿息子がこの日に死んだらしくってな、それ以来家に災いばかりが起こるようになったんで、父親が息子の嫌いな小豆粥を家の周りに撒いてみたら、悪鬼が退散したんだそうな。で、今日はみんなそれに倣って小豆粥を食うんだよ。お前は小豆粥は食えるか?」
 「はい、僕はお豆好きですよ」
 十件分くらいの小豆粥に使えそうな深紅の豆が詰まったズタ袋を持ち上げて、僕は遊星さんの後を追いかけた。雪を被っていた豆の袋は少し湿って重かったけれど、最近ではすっかり穀物の重さにも馴れたように思う。
 これから、食料の足りない家に遊星さんは小豆を配給に行くつもりらしい。乗馬にも使う白馬の首をぽんと叩き、遊星さんは明るい掛け声で追い立てた。
 それにしても、一年で一番日中の短い日、という響きには何となく覚えがあった。どこで聞いたんだっけ、と首を捻っていたら、遊星さんが少し足取りを緩めて、僕の隣に立った。
 「そう言えばフェイロン、お前は何歳だったっけな。冬至の小豆粥には白玉が入ってて、年の数だけ食うと縁起がいいんだ。ゲルダとハファがこねてただろ、あれお前は好きか? 俺は大好きなんだけど」
 「ええと……」
 僕は、白玉粉を丸めていた遊星さんの奥さんと娘さんの姿を思い出しながら、ちょっと空を見上げて考えた。自分の年齢を数えたことは、そう言えばここ数年ついぞなかった。考える余裕がなかったのかもしれない。
 誕生日を祝った記憶があるのは、十五歳が最後だ。その年の秋に色々あって、その次に季節を知ったときはもう夏だったから、冬生まれの僕はその間に、確実に一つ年を取っている。そのまま冬を一回迎えて、軍隊に移ってもう一回冬を数えて、研究所で二回目の年を越す直前にここへ移ってきたから……。
 ――あ。


 「自分の年を忘れるのはまだ早すぎるだろ。白玉いっぱい食いたかったら、ちょっとくらいサバ読んでも構わないぞ」
 愉快そうにこちらを向いた遊星さんは、立ち止まってしまった僕に気付いて少し引き返してきた。
 「どうした、ブーツに雪が入ったか」
 「すみません、すっかり忘れてたんですけど……」
 僕の故郷では、一年で一番昼の時間の短い日は、太陽の復活を祈る祭の日。
 けれどそれが催行される本来の理由を、僕はようやく思い出した。
 「あの、今日ってもしかしたら」
 きょとん、とこちらを覗き込む遊星さんに、僕はちょっと苦笑いを向けた。何となく、改めてこういうことをいうのは妙にばつが悪かった。
 「……実は僕の誕生日みたいです」
 ――もう覚束ない記憶になりつつあるけれど、確かに毎年盛大な祭祀が執り行われていたのは、太陽が上がる時間が一年で一番短い日だったはずだ。そしてその日こそ、僕が生まれた日だったはずだ。僕の故郷とこの町は、余りにも気候が違うので、なかなかぴんと来なかったのだ。
 ふと見ると、遊星さんは大きな目と口をぽかんと開けたままこちらをじっと眺めていた。それから何度か大きく瞬くと、慌てて馬を止めて雪を蹴散らしながら家の方へ駆け出した。思わずそれを目で追うと、彼の駆けていく先には、勝手口のところに積んだ白玉粉の袋を取りに出たゲルダさんの姿が見える。
 「おーいゲルダ大変だ! 今日は豆を全部小豆粥にするんじゃなくて、赤飯炊いてくれ赤飯! フェイロン今日が誕生日らしい! わかめスープは俺が作るから、お前は急いで糯米を炊いてくれ! フェイロンの誕生日なんだ、しっかり祝ってやらないと!」
 大声でそう叫ぶ遊星さんの後ろ姿をぼんやりと見送っていた僕は、ふと急に恥ずかしくなって、慌ててその後を追い掛けた。
 「いえ、すっかり忘れてたんですし、別に何もしなくて構いませんから! お願いだから大声で連呼するのやめてください!」


 ――本当は。
 僕にとって誕生日は、ずっと嬉しくも何ともないものだった。
 誕生日になると僕は毎年、苦手な日光の下に一日中さらされて、三日三晩不眠不休の儀式を執り行うという義務を課せられていた。それが、生まれた村の中で僕に与えられた役割であることはわかっていたけれど、決して僕がそれを望んでいなかったこともまた事実だった。
 何よりその儀式は、一年ごとに次第に僕にとって暗い影を落とすものになっていった。他の子供達にはきっと嬉しいはずの、歳を取るということが、僕にとっては何より忌まわしく恐ろしいものとなっていたと言えるかもしれない。
 生まれたときから、僕には与えられていた運命がある。村の誰もが知っていて、無論僕も幼い頃から言い聞かされていた。必ず起こると誰もが確信していたそれは、きっと僕以外の誰が与えられたとしても、恐ろしい宿命だっただろう。
 僕は二十歳までに発狂し、村に危害を加えるようになる、と言われていたのだ。
 予言ではなく、逃れられない将来の予定として語られていたその宿命こそ、僕の生命を忌まわしいものにする最大の原因だった。
 自分で言うのもおかしいけれど、僕は村の中で与えられた自分の役割や、自分の運命に対して、かなり従順に生きてきたと思っている。あの頃は、いつか狂うと信じられていた自分を哀れだと感じたこともなかった。
 ――だから、狂う前に村人によって屠られるという自分の運命に対しても、疑問を感じたことはずっとなかった。僕自身、村を害するくらいなら死んだ方がましだとずっと考えていた。
 民俗的な風習をとやかく言うわけではないけれど、思えば乱暴な風習だったかもしれない。僕の父やその祖は皆、その風習によって十代の間に命を絶たれていたのだから、現代的な考え方をすれば、随分野蛮な風習がつい近年まで維持されていたと言えるだろう。
 あの頃はそれを何とも思っていなかった。いつか縊られ解体されて湖に沈められる為に飼育される、村の中の家畜としての生活を、不当だと思ったことなど一度もなかった。僕は自分をそういう種類の生き物であると、ずっと信じて生きていた。
 それでも、僕だって数は少ないけれど愛着のあるものを持っていたし、屠られるそのときにそれらを全て奪われるのだと思ったらさすがに寂しかった。だから普段はその運命を意識しないように努めていたけれど、誕生日にはどうしても思い出さざるを得ない。そして僕が狂う期限までを、指を折って数えてしまう。
 ――僕は、だからずっと誕生日が嫌いだった。短くなっていく昼の時間を肌で感じるくらいなら、太陽なんか昇らなければいいと思っていた。
 きっと僕は、永久に二十歳を迎えることはないと思っていた。
 もしもその日を迎えるならば、祭の席で唄われるのは祝福の歌ではなく、僕の血を迸らせた歓喜の歌だと思っていた。


 「塩漬けのわかめはまだ残ってたよな。誕生日といえばやっぱわかめスープがなくちゃ始まらないよな」
 作業着に前掛けを引っ掛けて、遊星さんはいそいそと台所の食物庫を探っていた。大慌てで糯米を倉庫から運んできたゲルダさんは、勝手口に佇む僕に気が付くと、不意ににっこりと微笑んだ。顔やあちこちに大きな痣があるけれど、灰色の目をしたゲルダさんの笑顔はいつものようにすごく優しい。
 ゲルダさんのスカートの裾から、不意にひょっこりと小さな影が覗いた。長い黒髪をふわふわと揺らして、無口なお母さんを代弁するように、彼女は明るく笑う。
 「フェイロンお兄様ってば、今日がお誕生日だったのね。もっと早く言ってくれたらよかったのに、うっかり屋さんなんだから」
 「ごめんなさい、すっかり忘れてしまっていて……」
 こちらに駆け寄ってくる夏火を受け止めて、僕は肩を竦める。ついこの間、十二歳の誕生日を迎えたばかりの、遊星さんとゲルダさんの一人娘だ。母親似の青っぽい目をした、屈託のない彼女の笑顔を眺めていると、ついこちらまで笑顔になってしまう。
 「おーいゲルダ、この間のハファの誕生日の後、わかめをどこにしまったかな。あと白胡麻な、胡麻の入ってないわかめスープなんてわかめスープじゃないからな」
 僕は知らなかったのだけど、この辺りでは誕生日には必ずわかめスープを食べるらしい。あちこちをひっくり返す遊星さんの隣から覗き込んで、ゲルダさんはあっさりと塩漬けわかめの壷を出してしまう。
 ふとその様子を眺めていた僕は、夏火に腕を引かれて振り向いた。見ると、白玉粉を顔に散らしたまま彼女は嬉しそうにこちらを見上げている。
 「後でゆきうさぎ作ってあげるね。わたし、雪でひよこも作れるのよ」
 「ありがとうございます」
 思わず顔をほころばせると、彼女はわくわくと僕に背伸びをした。
 「お兄様、それで、何歳になったの?」
 一瞬僕はこわばった。
 ――二十歳までに発狂するという、あの宿命が脳裏を過ぎった。
 「……はたちに、なりました」
 少し声が掠れた。
 もしかしたら僕は、自分でも気付かない内に狂ってしまっているのではないだろうか。もしかしたらこのまま、僕はこの町にまで危害を加えるのではないだろうか。
 遊星さんやゲルダさんや、可愛い夏火にまで牙を剥くのではないだろうか。いや、今この瞬間に気付かず災いを為しているのではないだろうか。
 急に、焦げ付くような不安に駆られた。
 ――それだけは嫌だ。生まれた村よりも、今までにすごしたどの場所よりも、居心地のよいこの場所を僕は壊したくない。もしも僕がこれを壊してしまうなら、僕はその前に死ななければならない。
 「おめでとう!」
 その瞬間に、僕の耳を明るい声が貫いた。ふと視線を落とすと、僕の両手を握ってぶんぶんと振り回す夏火の満面の笑顔が見えた。
 「まあ、おめでとうお兄様! 二十歳だなんて、これで大人の仲間入りね! 凄いわ、本当におめでとう!」
 飛び跳ねて喜ぶ夏火を呆然と見下ろして、それから僕は顔を上げた。わかめの壷と、糯米のボールを抱えた遊星さんとゲルダさんも、嬉しそうにこちらに笑顔を向けていた。
 「……いいんでしょうか」
 思わず呟いた僕に、遊星さんは大きな声で笑う。夏火とよく似た印象の、あのいつもの最上の笑顔だ。
 「誰に遠慮してるんだ、そりゃ一層めでたいじゃないか! 後で爆竹も鳴らそうな、とびっきりの酒も開けてやるからな。思ってたよりも早くうちの子が成人しちまったな」
 何度も何度も瞬いている内に、ゆるゆると胸の奥で新しい感情が沸き起こってきた。
 「おめでたい、ですか?」
 「めでたいじゃないか! こりゃ春節の前に餅が足りなくなりそうだ」
 遊星さんと、何度も頷くゲルダさんの笑顔を見ていると、何だか急に熱い思いが込み上げてきた。どうしようと思っている間に、顔中が熱くなって目から何か溢れてきた。
 「お兄様、どうしたの!」
 「あ、こら泣くなフェイロン、大丈夫だ安心しろ餅が足りなくなったらすぐ搗けばいいんだから、そんなこと気にするな!」
 うろたえる遊星さんと、咎めるようにその肩を小突くゲルダさんを眺めながら、そして夏火を見下ろしながら、僕は緩く首を振った。
 どんな顔をしていいかわからなかった。どんな顔をしているのかわからなかった。
 でもこの感情の名前は知っている。どう感じているのか、自分でもわかっている。
 「……嬉しいんです。こんな風に嬉しいの初めてで、どうしたらいいかわからなくて。誕生日嬉しいの、初めてなんです」
 ようやくそれだけ言うと、僕はその場にしゃがみ込んでしまった。背中の辺りに、夏火の小さな掌の感触がした。
 足音の後、頭に大きな掌が載せられた感触がした。がしがしと髪を撫でるのは、遊星さんのいつもの癖だ。肩の辺りを優しく叩くのは、指が足りないゲルダさんの掌だ。
 家族だ。みんな、僕の大切な家族だ。
 よかった、と思った。これからもみんなと一緒にいられてよかった。みんなに害を為さなくてすんでよかった。
 みんなをこれからも守ることができてよかった。
 温かい掌の中で、僕はぎゅっと目を瞑る。ふと遠い面影が脳裏を閃いた。
 ――狂わなかったよ、僕は。これからも僕はこの地上にいる。
 ――天には帰らない。僕は永久に、この地上で生きていく。
 今はもう手が届かない、けれど同じ大地のどこかにいる面影に、僕は呼びかける。
 どうかいつまでも、この温かい輪の中にいられるようにと、ぼんやり僕は祈った。



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