12 絶望 | モクジ | 14 悦


 「ありがとうございました」
 老人の家族は深々と頭を下げた。その手にあるのはほんの僅かな荷物を詰め込んだ鞄だけで、随分長い間ここにいたような気がする老人の所持品の少なさに改めて俺は驚いた。決して他の人と比べて際立って少ないと言う訳ではないのだが、本来の持ち主以外の人に抱えられる荷物は、一際空虚でささやかなものに見えてしまうように思う。
 老人の娘と思しき中年の女は、涙を拭ってみせながら笑顔すら浮かべてみせる。「おじいちゃんも最期はあんなに安らかで……先生のお蔭です」
 神妙そうな顔を繕いつつ、俺は腰を折った。
 「いえ、力不足で申し訳ありませんでした」
 それから顔を上げると、女性に背後を促す。別の荷物を抱えた、彼女の夫らしき男と、老人から見て孫に当たるだろう少年が、いかにも手持ち無沙汰な様子でそこに佇んでいる。そちらに向けて小さく頷くと、女性はもう一度頭を下げた。「それじゃそろそろ失礼しますね。本当に先生、ありがとうございました」
 女性は踵を返し、残った家族と共に廊下へと出る。家族で何やら囁き合いながら去る後姿を見送ると、ふと背後のベッドを振り返った。もう綺麗に片付けられていて、シーツすら剥ぎ取られた空のベッドに目を落とし、何とはなしにぽつりと呟く。
 「……あんた達の方が、よっぽど安らかな顔をしているよ」



 医者なんて仕事をしていて何だけど、俺は人の死が得意じゃない。まぁ、それが平気な奴も滅多にいないだろうけど、ここまで生理的な嫌悪感を抱いてしまうのも珍しいんじゃないかと思っている。
 理由らしい理由はない。ただ、子供の頃から何かが死ぬのが凄く嫌で、一度死んだ動物はどれほど生前好きだったものが相手でもなかなか近寄れなかった。
 自分を可愛がってくれた祖母が死んだとき、生前はあれだけ世話になっていたにも関わらず、棺を覗こうともしなかった俺を、白状な孫だと言う伯母もいた。けれど、きっと俺は一目でも死に顔を見てしまったら、それが焼きついてしまって生前の面影を完全に忘れてしまう。それがわかっていたから、何と言われても斎場の端から動かなかった。
 市場に行けば鳩や鶏や食用の犬が生きたまま並んでいて、頼めばその場で絞めてくれる。頼めば生きたまま連れて帰らせてくれることもあるが、どのみち家で屠殺することになる。矛盾しているかもしれないが、俺はそういったのにはさほど抵抗がない。時間があれば自分で買物に行くこともあるし、最近すっかり足腰の弱った親に頼まれて捌くこともある。
 余りにも呆気なく食用肉になる動物の死は、俺の中ではとても納得がいく。些か人間寄りに歪められた形とは言え、食物連鎖の輪の中で行なわれる生死は利に適ったごく自然なもので、つまりその動物の死は俺達の生に直結したものなんだと思うことができる。
 けれど、家族や患者の死は、それとは明確に異なっている。死んだ者を丁寧に弔う家族は、まるで相手が生きているかのように扱う。湯灌の湯が熱すぎたりぬるければクレームをつける遺族もいるし、死んだからといって家族を粗雑に扱われても平気な人はまずいない。生活に直結する訳でもない、何をしても返答はない、ただの死肉の塊を生前と全く同じように扱うことに、疑問を抱く人間はおかしいのだろうか。思春期の頃から、そんな風に思うようになった。
 多分その根底には、人が死んでしまうことへの嫌悪感があるんだろうと思って、医者を志した。子供が好きだったので小児科を希望したものの、その頃ちょっと多かった辺境紛争や過激派テロの為に軍隊が増員されていて、軍医が足りなかったので半ば強制的にそっちに回された。硝煙の臭いをぷんぷんさせながら今更子供のお医者さんを名乗るのも抵抗があり、内科に志望を出した。
 結果的には、それでよかったんだと思う。こうした大病院にかかる小児患者には、かなり性質の悪い病気に冒されていることが多い。一般的な人間と比べて遥かに短い寿命しか持てない子供と接する機会が、必然的に急増する。ただでさえ死体が苦手な俺が、我慢できるはずがないだろう。
 そんな訳で、俺は日々担当する患者の大半を占める老人を看取っている。いつか慣れるかと思いながら、未だに慣れない違和感を誤魔化しながらかなり割り切って仕事をこなしている。


 「――医者の仕事には、大きく二種類があるんですよ」
 俺はふと顔を上げた。見ると、塔副院長が学界で発表する原稿に目を落としていた。
 俺の上司に当たる内科部長で、この国立平壌中央病院の副院長を務める塔先生は、多分俺が最も尊敬する医者の一人だと思う。病理で大きな発見や技術開発をする傍ら、権力の椅子に踏ん反り返ることもなく今も最前線の医療現場に携わっている。俺は病理の単位が一番苦手だったので、彼のようにはなれないだろうが、それでも憧れることくらいは許されるだろう。
 明日からの学界で義州市まで出張なので、俺はその手伝いに借り出されている。スライドの確認をしながら肺のレントゲン越しに俺は塔先生を見た。
 紙面から目を上げず、塔先生は言う。「一つは、患者の病気を治療すること。病理と言うのは正確な対応をしてやれば、想定内のレスポンスをするものです。必要なのは技術者としての適性です」
 「……俺が微妙に苦手な分野かもしれないです」
 俺が苦虫を噛み潰したような顔をすると、見てもいないのにおかしそうに先生は温厚そうな顔で笑った。
 「確かに金君は、もうちょっと病理研究報告書を暗記した方がいいでしょう。君も、何度も慣れた手順を間違えることはありませんが、最新の情報は逐一入手するよう心掛けなさい」
 「劉公主が得意なアレですね」
 時間があれば嬉しそうにレポートや論文や数字を読んでいる、あの銀色の『お姫様』を思い浮かべながら俺は少し肩を竦めた。研究畑から移ってきたあいつは、そういった方面に滅法強い。研究所には十年近く務めていたというから、かなり飛び級をした上でずっと研究一筋だったのだろう、今も外来に出るよりは、病理研究に篭っている方が好きらしい。
 塔先生は笑いながら言った。「劉君のは、まあ仕方がないでしょう。彼は医者というよりは研究者です。医者に必要なもう一つの資質が決定的に欠けている」
 意外な言葉を聞いた気がして、俺は顔を上げた。劉公主を病院に引っ張ってきたのは塔先生だという話で、だからこそ劉公主の腕を一番高く買っているのもこの先生だと思っていた。今となっては恥ずかしくて誰にも言えないが、劉公主本人に会うまでは、憧れの塔先生の秘蔵っ子ということで彼に対して妙なライバル心を燃やしていたりもした。……あいつ本人を前にして、それを維持できるほど俺も人外ではなかったが。
 不思議そうな顔をする俺の前から、塔先生はスライドを一つ拾い上げて光に透かした。肺水腫の肺胞細胞越しに、薄っすらと先生の細い目が見えた。
 「医者のもう一つの仕事は、患者を見取ることですよ。不思議なことに、病理は幾らでも想定できるのに、人の死はどれも全く予想がつかない。同じ病気の人はいても、同じ死を遂げる人は二人といない。亡くなった方や遺族の方に適切な対応をしなければならない以上、医者は死をも乗り越えるメタの観点を持たなければならないのですよ」
 「……そりゃ、全く哲学者ですね」
 俺のぼやきに、初めて先生は頷いた。「そう、死を理解できない人が、患者から病による死を遠ざけようとしたところで、必ずその論理は途中で破綻します。医者は技術者でもありますが、人間は機械ではありません」
 塔先生の言葉に、俺は顔を曇らせる。だとしたら、俺は絶望的に医者としての適性はない。
 「――俺には、人の死がよくわかりません。家畜とかと違って、死んだ人の死体を丁重に扱う感覚が今一つ理解できないし、そうすることで何の意味があるのかもよくわかりません。死んだ人は感覚なんてないんだから、どう扱われても関係ないはずです」
 死は死だ。市場の店先で絞められる鶏と、病院のベッドの上で遺族に見取られて死ぬ老人の死に、軽重はない。明日の俺の栄養になる鶏と、俺の給料の元になった老人は、俺という存在を維持する上でどちらも必要なものだ。死後の扱われ方で、死んだものの貴賎を問うのはもっての外だと思っている。
 ふと、塔先生の細い目が俺を捕えた。その目尻に、柔らかい笑い皺が寄る。
 「わたしにもわかりませんよそんなこと。ただ、多くの死が他の多くの生物にとって必要なように、人の死は人が人である為に必要なのではないでしょうか」
 きょとん、とずれた眼鏡を直しもしない俺の目の前で、先生は軽く自分の鼻先を突付いた。慌てて俺は眼鏡を直す。
 「同族の死を悼み埋葬するのは、人がチンパンジーとの共通祖先から分化した直後に成立した特徴だそうですよ。死者の為に手を合わせて、花を供えることは、人間を人間たらしめる重要な要因です。金君はいつも遺族の方や死体から逃げてますが、寒食にはお墓参りには行くし、患者さんが亡くなったらお線香を立てるでしょう」
 全部見通されていた、ということで俺は少し顔を赤くする。それは、あくまで他の人に従っているにすぎない。
 それでも塔先生は、俺の肩をぽんと軽く叩いた。「それに疑問を抱くのはよいことです。問題意識が生まれなければ、それを真剣に考えることはありませんから。金君には、そうした倫理面での適性が充分にありますよ」
 思わず俺は顔を上げた。年齢を問わず患者に人気のある、温厚などこか気品のある笑顔で、塔先生は頷いた。
 それからふと、俺が確認を済ませたスライドをケースにしまいながら、ぽつりと零すように言った。
 

  ――医学の発達で、昔は助からなかった命が助かるようになりました。
  けれどそれが本当に正しいことなのか、わたしにはときどきわからなくなるのです。
  それはもしかしたら神への冒涜なのかもしれない、
  命を司る神に対して、真っ向から刃向かう所業なのかもしれない、と。



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