08 意地 | モクジ | 10 強がり


 真夜中に、ふと目が覚めた。
 普段なら一度寝たら何があっても朝までは目を覚まさないはずなのに、ふと薄目を開けるとまだ空気が闇色のままだったので、一番驚いたのは彼自身だった。まだ瞼も重いし、身体もベッドを恋しがっている。それなのに眠りの底から意識だけが立ち戻ってしまったような、そんな不思議な感触だった。
 (……もう一度寝よう)
 時計を見るまでもない。今寝直しても朝まで十分時間はある。
 そう思い寝返りを打った彼は、ふと暗く冷たい空気の中に微かな物音を聞いた。シーツと髪の擦れる音かと思ったが、少しだけ耳を凝らすとそれが人の吐息の混ざったものであることがわかる。
 思わず少しだけ身を起こした。声の方を求めて、頭を巡らせて部屋の隅に目を向ける。少しずつ慣れてきた目が、そこに見慣れた人の姿を捉えた。
 長い黒髪を緩く編み、上着を羽織った彼女は、部屋の端にある椅子に腰掛けていた。彼の机の隣に一つ余分に据えられたそれは、食卓で余った行き場のない椅子を持ってきただけの飾りのないもので、その背凭れに彼女は肩を預けていた。細い肩の鋭い線が薄明かりに、ひどく痛々しく映る。
 彼女は背中を向けているので、表情は伺えない。けれど白く細い掌で顔を覆う仕草や、押し殺した微かな声から彼女が泣いているらしいということはすぐにわかった。
 彼はひどく驚いた。彼女と暮らすようになってからもう二年になるが、彼女がそんな風に泣いているところなどほとんど見たことがなかったのだ。確かに彼女が泣かないなどとは思っていなかったが、それでも彼女はいつも穏やかに微笑んでいて当然のような気がしていた。そうしていて欲しかったという希望も決してなかった訳ではないが、だからといって実際の彼女の感情から目を反らすほど自分は愚かではないつもりだった。
 しかし、彼女の顔を覆う掌から漏れるのは、紛れもなくすすり泣くような声だった。懸命に押し殺してはいるのだが、その気配を放っておけるほど彼女は彼にとってどうでもよい存在ではない。気丈で健気な彼女の性分を誰よりもよく知っているからこそ、彼は黙ってみていることはできなかった。
 「……ホンファン?」
 そっと名前を呼びかけると、それでも彼女は驚いたようにびくりと肩を振るわせた。それから怯えたような仕草でおずおずとこちらを振り向く。慌てて掌で擦る目元が赤く染まっているのは、薄明かりでもよくわかった。
 微かに掠れた声で、彼女は早口に言う。「ごめんなさい、起こしちゃったわね」
 「どうしたんだ?」ベッドの上に身を起こすと、寝起きで言うことのきかない身体を引き摺って彼女の方ににじり寄る。彼女は何とか微笑もうとしたが、涙で頬が引き攣るのは隠し切れなかった。少しだけ身を引こうとする彼女の腕を掴むと、彼はそっと頬に手を伸ばした。「昼間、何か嫌なことでもあったのか?」
 その掌の上に、ふと彼女は自分の掌を重ねた。見た目よりも少し乾いた、かさかさと荒れた彼女の肌の感触がした。「ううん、ちょっと夢見が悪かっただけ。ごめんね、あなた明日早いのに」
 軽く首を振ると、彼はふと彼女の頬に添えた掌で涙を拭った。それから片方の腕を肩に回すと、不器用な仕草で彼女を抱き寄せる。まだ身長は彼女とさほど変わらないのに、精一杯背伸びして大人びた仕草を彼は探る。
 「お前を泣かせるような悪い夢は許せないな。どんな夢なんだ、悪夢は口に出したら正夢にならないって言うぞ」
 頼りないほど細い彼の腕の中に抱き込められて、彼女は一瞬きょとんとした表情をしたが、すぐにくすくすと小声で笑った。それから、そっと何度か首を横に振る。「……昔のことを夢に見ちゃったの。時間は遡らないから、正夢にはならないわ」
 「昔……」そう言えば彼女の過去について今までろくに聞いたことがなかった、と思いついた彼は、少しだけ遠慮がちに抱き込んだ彼女の顔を覗き込んだ。「ホンファン、お前が泣くのはよっぽどだと思う。どんなことがあったんだ?」
 「大したことじゃないの」
 彼の視線を反らしながら、彼女は静かに俯く。それでもその目元を追い掛けると、ようやく彼女は目を細めた。「わたしにも、お父さんとお母さんがいたってだけのこと。それからお兄さんがいたってだけのことよ」
 きょとん、と虚を突かれたような顔をする彼の頬に、彼女はふと手を伸ばす。
 「ごめんね、あなたは、ご両親のこと覚えていないのに」
 ――確かに、と彼は思う。まだ自分が赤子の頃に亡くなったという両親のことは、当然だが一欠けらも覚えていない。それが嫌で、どうして自分だけが予め奪われているのか納得できなくて、幼い頃はよく駄々を捏ねて周りを困らせた。
 けれど、とも彼は思う。多分それと紅凰の涙は根本的に異なるはずだ。はじめから知らないよりも、途中で奪われる方が辛いに決まっている。現に、今もし紅凰と引き換えにすれば両親が戻ると言われたところで、彼は迷わず断るはずだ。彼女に代えられる存在など、どこにもない。
 そう言えば、彼にも親がいないのでごく当然のように思っていたが、考えてみれば路上で暮らしていた彼女にもかつては家族がいたはずである。今まで自分がそれを持たないのをいいことに、完全に失念していたということを彼は少し恥じる。
 「……紅凰、兄弟いたんだ」今までずっと昼も夜も一緒にいて、そんなことも知らない自分が彼は情けなかった。
 ふと、薄明かりの中で彼女は微笑む。「わたしが小さい頃にね、引き取られてきたの。ちょっと憧れてたわ」
 思わず彼は紅凰を腕の中に抱え込んで引き寄せる。
 「……何か妬ける。お前、好きだったんだろそいつのこと」
 「兄妹だもの」くすくすと軽い笑い声が胸元で響いた。けれどそれは、すぐに夜闇に溶けるように消えてしまう。
 少し考えて、彼は紅凰の漆黒の髪に掌を滑らせながら尋ねる。「親は、どんな人だったんだ?」
 柔らかい沈黙を落とした後、くぐもった優しい声で彼女は答える。「お父さんは、いつも泥だらけで走り回ってるような元気な人よ。面倒見がよくて、でもそそっかしくて、よく失敗して、大声で笑う人だったわ。怒ったところを見たことがないの」
 ふうん、と彼は首を傾げる。「似てなさそうだけど、やっぱり似てるんだな。ホンファンがいつも笑ってるのは、父親似なんだ」
 「そうかもしれないね」紅凰は静かに笑う。「お母さんは、反対に大人しい人だったから。口数が少なくて、でもとても優しいの。花や草木の名前に詳しくて、お料理が上手だったのよ。小さい頃からたくさん教えてもらったわ」
 「それは感謝しないといけないな。おかげでホンファンの料理はあんなに美味いんだ」
 紅凰の感触を確かめるように、彼は彼女の髪や耳や輪郭に掌を這わせる。ふと彼女の目元に指先を当てると、少し冷たく湿っていた。
 そこで止めた彼の指を細い掌で受け止めると、紅凰は彼の胸元にそっと頬を当てる。「お兄さんは、とても頭がいいの。綺麗で優しくて少しぼーっとしてて……どことなくあなたに似ていたわ」
 それからふと顔を上げると、彼に向かって悪戯っぽく微笑んでみせる。
 「――フェイロンって、名前だったの」
 思わず彼は目を瞠る。
 その瞬間、見詰めた彼女の瞳から再び涙が零れ落ちた。慌てて頬に掌を当てると、紅凰もまた驚いたようにそこに掌を重ねた。
 「――やだ、どうして……」
 彼はふと、彼女の背中に腕を回し、とんとんと軽く叩き始めた。溢れる涙を笑って誤魔化そうとしていた紅凰は、それに耐えかねて不意に顔を歪めて掌で口元を覆った。小さくうめくように洩れた声が、やがて彼の腕の中で嗚咽の形に変わる。
 ――こんな泣き方を、彼は知らない。奪われて憤る哭き方は知っていても、喪われたものを悼む泣き方は知らない。はじめから持たないものばかりだった。持つ人を横目に、羨むようなものばかりだった。
 「――ごめ、…ごめん…なさ……」
 「謝ることじゃないよ」静かに彼は、まだ伸びきらない腕でも余るほど細い背中を撫でる。
 亡くすことが、こんなにも痛ましいことだと知らなかった。遺されたものが、こんな風に生きていかなければならないということも知らなかった。他ならぬ当事者の一番近くにいたのに、それを知らずにいた自分が寂しかった。
 弱い手で自分の胸元を握る彼女を壊さないように、彼は丁寧に声音を選ぶ。
 「……俺にくれた名前、大事な人のだったんだな」
 「ごめ……」謝りかけた彼女をぐいときつく抱き寄せて、彼は言葉を塞ぐ。
 「謝るな」
 ――彼女を、紅凰を、もう一人にはしたくないと思った。これ以上悲しませたくなかった。一人で声を殺して泣かせてはいけないと思った。
 「お前の父親の分も母親の分も兄の分も、俺が一緒にいるから。お前を一人にはしないから。ずっと傍にいるから」
 彼が持たなかった全ての人の分も、彼女がいれば満たされる。彼よりももっと多くを亡くした彼女にそれを求めるのは酷だとは思ったけれど、それでも彼女が失ったものの何分の一かでも埋めることができたら、と願わずにはいられなかった。
 せめて、彼女が悲しいとき――誰かに一番傍にいて欲しいときには、いつでも寄り添うことができたら、と希った。
 「――だから、一人で泣くな」
 紅凰の髪に載せた掌に、頷く感触が伝わった。もう彼女は言葉など言える状態ではなかったけれど、それで十分だった。
 夜闇はじりとも動かない。その中で、泣いた彼女の微かな熱が、ひどく愛しかった。


 ――彼が次に気付いたときには、もう昼前の太陽が窓から射していて、いつものように微笑む彼女が一頻りの家事を済ませてしまった後なのではあるが、それはまた別の話。



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