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擦り剥いた膝

 もうずっと前のことだよ。
 あの子がずっと小さかった頃のことだ。
 あの子を泣かせたことがあった。
 あんなに泣かせたのはあのときの一度きりだろう。



 なぜだかわたしはその日とても急いでいた。
 何かあれこれと考えながらとにかく道を歩いていたんだ。
 それですっかり忘れていた。
 あの子をお連れしていたことを。

 その頃あの子はとてもお小さくて、
 ようやく大人の膝の辺りまでしか背が届かなかった。
 だからといって軽く見ていた訳ではないが、
 子供の苦手なわたしには少し手に余る相手だったように思う。

 滅多にわがままを言ったりむやみに騒いだりする子ではなく、
 どちらかと言えば大人しい聞き分けのよい子供だった。
 ただ少し言葉数も少なく表情も乏しくて、
 何を考えているのかわかりにくいので少し困惑していた。

 母親から譲り受けた亜麻色の髪がどうしても目立ってしまうので、
 黒く染めたことがあったのだよ。
 ところが子供の肌だから染料に負けて真っ赤になってしまってね。
 痛痒かっただろうに、わたしが気付くまで何も言わなかったんだ。

 可愛くなかった訳ではないのだけれど、
 扱いに少し手を焼いていたのは否めない。
 あの子の親を死なせたというわたしの罪悪感が、
 あの子を育てなければならないという義務感にすり替わっていた。

 多分あのときもそんなことを考えていたのだと思う。
 それで随分早足で街中を進んでいてね、
 いつの間にかあの子の手を離してしまっていることに
 気付いたのはかなり経ってからだった。


 慌てて振り向いたけれど、どこにも姿が見えなくて、
 さりとて普段の呼び方をすると怪しまれるから、
 黙ったままわたしはあちこちを眺め回したよ。
 自分の迂闊さを心底悔いたものだった。

 そのとき雑踏の向こう側に、
 小さなあの子のかぶった帽子が見えた。
 こちらに気付かなかったらしく、辺りを見回していた。
 思わずわたしは、あの子の名前を呼んでいたよ。

 あの子のことを呼び付けにしたのは、多分最初で最後だろう。
 ようやくわたしに気付いたあの子は、
 ぱっとこちらに顔を向けてね
 人混みに揉まれながら一生懸命駆け寄ってきた。

 しゃがみ込んで覗き込むと、
 息を切らせながら嬉しそうに笑うんだ。
 よく見たらどこかで転んだらしく、
 膝のところを擦り剥いていた。

 痛くないのかと尋ねた途端、
 あの子は自分の足元を見下ろして、
 それから驚くほどの大声でわんわん泣き出した。
 こちらが面食らうほどの大きな声だったよ。

 そんなに元気に泣けるなら大丈夫だと
 幾らなだめてもきかなくてね。
 結局背中に負ぶって家まで連れて帰った。
 その間中あの子は珍しく泣きじゃくっていた。


 振り返ってやればよかったんだと、
 そのとき初めてわたしは気付いたよ。
 何かを与えようと無理に背伸びをすることはない、
 ただ時々振り向いてやればよかったんだ。

 はじめてあの子に甘えてもらった気がしたよ。
 泣き喚く子供はうるさくて苦手だったし、
 挙げ句の果てに服まで汚されてしまったのだけど、
 それでもまんざら悪い気はしなかった。

 もうすっかりあの子は大きくなったはずなのに、
 不思議なもので、思い出すのはいつもあのときの泣き顔なのだよ。
 全身でわたしに取り縋るように泣きじゃくる、
 あの子が精一杯示そうとした感情だったんだ。



 あの子は可愛いよ。
 誰よりも可愛い、わたしの主君だ。
 あの子はわたしを信じてくれた。
 だからわたしは、それにお応えするまでだ。



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