02 怒り | モクジ | 04 元気


写真

 ――写すことを許されたのは、仕事で余ったフィルムの残り、たった一枚だった。
 撮るのは俺。だから、二人一緒には写れない。
 最初で最後の一枚だから、大切に写したかった――。


 「ここでもいいかしら」
 紅凰が足を止めたのは、土手から対岸へと掛かる大きな橋のたもとだった。そこにあった石組みの階段を、彼女はどこか覚束ない足取りでとんとんと降りる。柔らかく波打つ黒髪が背中で軽く跳ねた。
 褪せた緋色のチマの裾が揺れるたび、すぐ後ろから追い掛ける竜血樹は端正な顔を強張らせる。
 「お、おい……もうちょっとゆっくり降りろ。踏み外したら……あ」
 伸ばし掛けた腕を払うように、紅凰は軽く足元を踏み切った。最後の三段程を飛び降りた彼女は、そのまま勢いに任せて数歩前のめりに足を運んだ後、柔らかい仕草でくるりと振り返る。ふわりと空気を孕んで広がった裾を押さえて、それから彼女は顔に掛かる髪の毛を払って微笑んだ。
 「大丈夫よ、ロンは心配性ね」
 「お前そんなこと言って」
 慌てて彼女の隣に飛び降りた竜血樹は、おろおろと手を伸ばす。しかし逃げるように軽く身をかわされて、仕方なく彼は手持ち無沙汰な様子で自分の髪に手をやった。それから、肩から下げたカメラケースを背負いなおし、左右を見渡した。
 「……ちょっと寒いんじゃないか?」
 「そんなこともないわ。確かに今日はちょっと冷えるけど、それほどでもないし」
 笑う紅凰に目を向けると、彼は少し苦笑するように肩を竦めた。「……お前は大丈夫でも……ほら、さ」
 「わたしが平気なんだもの、きっと大丈夫よ」
 明るくそう言って川原の石を踏む紅凰の背中を目で追うと、不意に竜血樹はその肩に手を掛ける。
 「きっとじゃ駄目だ。本当に大丈夫なのか?」
 心底労わりの篭った声音に一瞬紅凰は表情をなくしたが、すぐに彼女は微笑を取り繕う。「大丈夫って言ってるでしょ? 本当にロンは心配屋さんなんだから」
 そして肩に載せられた白い掌を手に取って優しく外すと、跳ねるような足取りで彼との距離を開けた。
 「ほら、カメラを用意して」
 緩やかだけれど冷たい川風にゆったりと編んだ長い髪を遊ばせて、紅凰は軽く手を打った。少し哀しげな笑顔を一瞬浮かべて、竜血樹はケースを地面に下ろすと、中からカメラを引っ張り出した。
 大型のレンズを取り付けながら、彼は顔を上げる。
 「……フラッシュはいらないかな」
 「平気よ」
 早々に傾き始めた冬の太陽に目をやりながら、紅凰は乱れた前髪を掻き揚げた。その指の間からさらさらと細い髪の毛が零れ落ちるのが、ひどくいとおしいと竜血樹は取り止めもなく思う。「まだ日は高いもの、早く写してしまえば平気だわ」
 弱い風に煽られるたびにふわふわと頼りなく揺れるチマチョゴリは、彼女にはひどく似合っていたが、それ以上に寒々しくて見ているのが辛かった。
 せっかく写真に写るのだし、と言うことで紅凰は「多分もう二度と着られないだろうから」と家にあった古い民族衣装を着てきたのだった。随分古くて安っぽい間に合わせの代物ではあったけれど、それを選んだ彼女の思いは痛いほどよくわかったから、竜血樹は特には反対しなかった。だが、いつまでもその姿で風に晒しているのは何とも忍びなくて、彼は急いでカメラの用意を整えた。
 ストラップを首に通し、細い身体に不釣合いなほど大きな古いカメラをもたげてファインダーから覗き込むと、竜血樹は手早く露出とピントを合わせた。工作活動の様々な記録を残す目的等で、プロ用の大型のカメラの扱いには彼も昔から慣れていたが、こんな風にして人物のポートレートを撮るのは初めてだった。細かい調整はやはり普段のようには行かず、僅かに緊張して手も震えていた。何度かファインダーを覗き込んでは微調整を繰り返し、それからフィルムの確認をして、ようやく彼はカメラを構えた。
 ようやくピントの合ったファインダー越しの女性は、色褪せたチマチョゴリと鮮やかな黒髪を風に遊ばせて微笑んでいた。いかにも幸せそうな微笑ではあるのだが、竜血樹にはそれが無性に痛々しかった。
 風に吹かれるたびに安物の薄い布が身体に纏わりついて、細く尖った肩や腰や首筋の線が顕わになる。長く伸ばした美しい黒髪は、それでも辛い環境に晒され続けて来た為だろう、根元は艶やかに美しいが、毛先の方ともなると長さも不揃いで所々刎ねているのが見て取れる。思い出したように胸元を掻き合わせる白い細い手は、ズームで見ると寒さにひび割れてささくれているのがよくわかる。
 ――そして何より、その笑顔が辛かった。
 「ホンファン」
 不意に呼び掛けられて、彼女は笑顔のままで軽く首を傾げる。
 カメラを下ろしながら、竜血樹は寂しげな笑顔で再び呼び掛けた。「ホンファン――」
 一瞬歪んだ笑顔を、それでも紅凰は取り繕う。
 「なあに?」
 その僅かな隙間をじっと見詰めながら、竜血樹は静かに声を掛けた。
 「……ごめんな」
 そしてそっと首を横に振った。
 その瞬間だった。再び紅凰の表情が歪み、今度はもうどう取り繕おうとしても笑顔に見えなくなっていた。
 「……せっかく、笑おうと思ったのに……」
 言葉を詰まらせた彼女に、竜血樹はそっと足を寄せる。今度はもう、紅凰は逃げようとはしなかった。目の前まで歩み寄って来て、掌をその細い肩に掛ける、その彼の足元をじっと見詰めていた。そして黙ったまま彼の腕の中にそっと引き寄せられていった。
 褪せたチョゴリの下の肩は、やはりすっかり冷たくなっていた。


 竜血樹の厚手のジャケットの胸元に顔を埋めて、くぐもった声で紅凰は呟く。
 「……どうしてなんだろね」
 「ごめんな」カメラを脇の方に押しやると、竜血樹は紅凰の背中に回した腕に力を込めた。髪の毛をそっと撫でると、彼女の頭を自分の胸に押し当てる。こんなにも彼女は小さかったのか、と改めて愕然とした。
 「ごめんな、俺のせいで。全部俺のせいで……」
 自分自身の運命はもう、わかっていた。どう足掻いても決して逃れられないとわかっていたから、自然のままに受け入れていた。それが自分の運命なのだと諦めていた。
 けれど、その中に彼女を巻き込んでしまったのが辛かった。一番大切な、誰よりも守りたかった女性を、その愛しさゆえに自分自身の波瀾の運命の中に絡め取って、翻弄してしまったのが辛かった。自分と出会わなければきっと、彼女はこんな運命を背負わずに済んだのに。
 すすり泣くようなか細い声で、紅凰は切れ切れに言った。
 「……ううん、あなたは悪くない。ロンは、悪くないよ」
 それから、弱々しい腕で不意に竜血樹の身体を押して身を引く。それでも彼女を離そうとしない竜血樹の腕の中から、ぐっしょりと濡れた眼差しで彼女は川面を見遣った。細くはあるが川の流れは早く、見るからに凍えそうだった。
 「――赤ちゃん、いなくなっちゃえば、もっと一緒にいられるのに」
 ぽつりと呟いたか細い声に、竜血樹ははっと目を瞠る。そして紅凰の顔を覗き込んだ。涙で虚ろに濁った瞳は、ぼんやりとした狂気の色すら滲ませていた。
 歯を食い縛り顔を歪めると、竜血樹は紅凰の身体を再びきつく抱き込む。何度も何度も首を振りながら、彼は嗚咽を噛み殺した。
 それでも紅凰は、彼の腕の中でぽつりぽつりとくぐもった呟き声を洩らす。
 「わたし、いいよ、死んじゃったって。ロンと一緒にいられないくらいなら、そっちの方がまだましよ。――ロンといられないなら、命なんかいらないよ。ねえ、ロンのお父さんとお母さんみたいに、一緒にいよう。最期まで一緒にいようよ……」
 それ以上言わせまいとするように、竜血樹は力任せに紅凰の細い身体を抱きすくめた。そして彼女が息を詰まらせる音を聞いて、慌てて腕を緩め、再び大切そうに抱え込む。
 何度も何度も首を振った。壊れたように首を振った。濡れた頬に風がひどく冷たかった。
 しばらく嗚咽を押し殺していた竜血樹は、やがてふとぽつりと言った。
 「駄目だ。死ぬのは許さない。殺すのは許さない」
 殺す、という響きにびくりと紅凰は身を強張らせた。怯えたようにしがみ付く彼女の背中を優しく擦りながら、竜血樹は枯れた小さな声で淡々と言った。
 「――俺がお前を愛するみたいに、お前が俺を愛するみたいに、そんな風にして俺の親はお前の親は俺達を遺したんだ。俺とお前の先祖の誰かたった一人でも生きることを諦めてしまってたら、俺達は生まれて来られなかった。こんな風に出会えなかったんだよ。――俺、お前ともしも出会えなかったらなんて、思うだけでも嫌だよ。離れるのは辛いけど、でもだからって出会わなければよかったなんて絶対に思わないよ」
 紅凰の肩が大きく震えた。細い骨ばった肩が、背骨の触れる小さな背中が、彼の掌の中で哀れなほどに小刻みに震えていた。
 「お前と会えた幸せは、途切れさせたらいけない。俺達の子供に孫にその先に、受け継がせなければいけない。――駄目だよ死んだら。絶対に駄目だ」
 確かに彼女と別れることは辛いけれど、一瞬でも一緒にいることが出来たなら、僅かの間でも心を交し合うことが出来たなら、それはあらゆる悲しみと引き換えても余りあるほどの幸せだ。自分が生きたことで、こんな風に彼女と出会ったことで――いつか遠い未来に生まれてくる誰かが自分と同じ幸せに触れることが出来るなら、それはきっと何よりも大切な生きる意味そのものだ。
 竜血樹の胸元を掴んでいた紅凰の腕が、そっと解かれて下りて行った。そして彼女自身の腹部を庇うようにそっと載せられる。息づいたばかりの小さな小さな命を庇う白い掌に自分の掌を重ねて、竜血樹は笑って見せた。自分の笑顔は見えなかったけれど、花がほころぶように微笑んだ彼女の笑顔が鏡なら、きっと自分も幸せそうに笑っているのだろう。
 こんな風に彼女と出会って微笑み合う為に自分が生まれてきたのなら、命とは何て尊いものなのだろう。
 ――ああ、だから。
 だから人は愛し合って、命を次に残すのか。
 「……ありがとう」
 掠れた声で紅凰は、それでも明るく言った。幾らかの虚勢はあるかもしれないけれど、それでもその笑顔は本当だと竜血樹は思った。
 大丈夫だ、と思った。彼女は強いから、優しくてとても強い心を持っているから、これからもずっと生きていける。すぐ傍で守り続けることは適わなくても、きっともう一つの命を抱いて生きていける。例え自分がいなくなってしまった後も、彼女が生きている限り、彼女との間に残した命が続く限り、自分が彼女を愛したと言うその心は消えない。
 ふと彼は、カメラを手に取りながらそっと後退った。赤い目をしたまま笑って、紅凰もまたそっと彼から離れる。
 僅かに小首を傾げ、彼女は頬を指先で拭った。「目、真っ赤でしょう?」
 「夕日でわからないよ」
 ほんのりと赤みを帯びた斜光に合わせて少し露出を上げながら、カメラを構えた竜血樹は掌を振る。
 「行くよ」
 二度と触れることは出来なくても、二度と会うことは出来なくても、彼女の心と身体に刻まれた想いは決して消えることはない。命が受け継がれていく限り、永久に消えることのないそれは、残酷な、けれど何者にも犯すことの出来ない絶対の救いだ。
 ファインダーの中は、そのまま駆け寄ってもう一度抱き締めたいような笑顔だった。――けれど、もう手の届かない笑顔だった。
 これ以上近付いたら、ピントがぼやけてしまうから。



02 怒り | モクジ | 04 元気