夜明け
車のドアを開けたクレア・パーマンは、ドライブの間中ずっとクーラーをつけっぱなしだったことを僅かに後悔した。初秋のオハイオの湖を渡る風は既にひんやりと冷たく、編集部のエアコンよりもずっと快い。無造作なシャツ一枚だと肌寒いほどで、深い緑の木々や明るい湖の匂いが、頭の天辺にまで染み付いていた都会の喧騒を洗い流していくようだった。
革命の前夜にかの国の特集を用意していた彼女の雑誌社は、その後もずっと情報の早さと正確さで業界をリードし続けていた。少なくとも英語圏における東亜情勢の報道機関では随一との評判を取り、爆発的に部数も伸びた。編集長のバーグナーはあちこちから押し寄せるオファーを尽く断っていたが、旧知の仲間にでも頼まれたのか最近では少しずつテレビに顔を見せるようにもなった。
知識人が『August Great Revolution』と命名した革命は、勢いを止めることを知らなかった。アメリカ軍の介入を伴う軍事色の強い新政権により、半島は一気にその色を塗り替えられた。その動揺はすぐさま周辺に伝播し、東の大和列島と西の中国大陸は相次いで政権の交代が起こった。元よりいずれも民衆に相当な無理を強いていたことから、人心が革命勢力に寝返って行くのは一瞬のことだった。既に半島は沈静化し始めているというが、まだ大陸や列島での内乱は続くだろう。いずれにしても、今年中に東アジアの地図は大きく塗り替えられることが間違いなかった。
そんな情勢を前に、クレアが休んでいる暇などどこにもなかった。休もうと考えることすら、どこかに置き忘れたようにずっと走り続けていた。毎日が我を忘れるほど忙しく、それが快感にすらなっていた。――だから、半島の騒動が一段落したとして休暇を与えられたとき、クレアは一瞬途方に暮れたほどだった。
編集部で絶え間なくなり続ける電話や、編集作業の指示の声、ひっきりなしに寄せられる質問への応答から構成された騒音が、いつしか身体の芯まで染み込んでいた。家に帰っても静かにしているとその音が耳の奥に甦って来るので、毎日家にいても好きなロックを大音量で流しながら生活していた。四六時中、喧しい音に囲まれていた。
だからこそ、迷った末にグースヴォイスに足を運んだクレアは、その静けさに圧倒されたのだった。無論、クレアの車が踏み込めるような場所なのだから、物音が全くないなどということはない。遠く人々の生活する音も聞こえるし、湖面を走る風の音も絶えることはない。これまでに絶滅した多くの鳥が最後まで生息したという広大な森林からも、鳥や虫の声は遠近からこだまする。だが、そんな物音が一層喧騒に慣れきった耳にはしみた。
せっかくの休日を一日潰してここまでやって来て、正解だった、と心底そう思った。
「――あなたの雑誌、拝見したわ」
随分久しくミュージアムに足を運んだクレアを、初老の美しい管理人は温かく出迎えた。彼女が肩に掛けた薄手のカーディガンに羨ましげな視線が落ちそうになり、クレアは慌てて視線を上げた。アーサー・ジョセフの娘は、おっとりとした上品な笑みを見せる。「あなたの記事、とても面白くてね。身内でも随分興味深く読ませて頂いたのよ」
思わず赤面しながら、若い記者は舌足らずで俯く。「いえ、そんな……ジェリーとアーサー卿のおかげです。こちらで伺ったこととか、凄く役に立ったんです本当に。どうもありがとうございます」
「まあ」ジェラルディンは嬉しそうに淡いブロンドを揺らして微笑む。「それは光栄だわ。お役に立てたのなら、アーサーもきっと喜ぶわね」
そして、照れるクレアを館内に招き入れた。美術品の前で足を止めようとするクレアを促し、ジェラルディンは奥の方へと進んでいく。きょとんとしながら追い掛けて行ったクレアは、あのアーサー自筆画を収めた部屋の前で思わずもう一度足を止めた。
予め電話で連絡を入れていたからだろう、あの中華の貴婦人を描いた巨大な肖像画の前のホールには、前回にはなかったミニテーブルと椅子が据えられていた。しかも丁寧なことに、その上にはポットとカップと幾らかの焼き菓子までが用意されている。思わずクレアは、小柄な身体をもっと縮ませて恐縮した。「お気遣いありがとうございます」
椅子の背を引いて賓客を席に着かせると、ジェラルディンは目元に柔らかい皺を寄せて微笑んだ。「いいえ、Ms.パーマンこそお疲れだったのではない? ここのところ、本当に情勢が大きく動いてしまっていたから、雑誌を何冊出しても追い付かなかったでしょう」
ポットから香りのよい紅茶を注がれて、思わずほっとしてしまったクレアはこくりと頷く。「本当に。あたしも一応ジャーナリストの端くれとして、それなりに世界の情勢には気を配ってたつもりだったんですけど、全然それじゃ足りなくて。本を出せば出すだけ売れるってことは、きっと皆興味があるからなんでしょうけど……あたしを含んで、今まで何を見てたんだろうって思っちゃいます」
カップに口を付けようとするクレアの前に、ジャムの入った小皿を差し出しながら、ジェラルディンは明るいブルーの瞳を瞬かせる。「それは仕方がないわよ。あの地域は今まで、わたし達の世界じゃなかったんですもの」
「え」きょとんと顔を上げるクレアの前で、ジェラルディンは自分の紅茶にジャムを落として掻き混ぜる。紅茶の色が一層鮮やかになった。「だって、今まで欧米とアジアは全く分断されたものだったでしょう? 交流もないし、利害もほとんど及ばない、何となく経済的に裏でこそこそやり取りはしていたかもしれないけれど、それも国交と呼べるほどのものではないし。要するに、わたし達の範疇ではない異世界だったのよね。あなた、アジア経済が今報道されるほどのものだったって、アメリカのどのくらいの人が知っていたと思う?」
そう言われると、確かに答えようがない。ぽかんとしながらジェラルディンの顔を眺め、クレアは子供じみた舌足らずの口調で言った。「……なるほど。同じ地図の上にあっても、全くの別世界ってことがあり得るんですね」
「そもそも、一人の人間が一生に移動しきれる距離なんて限られているんだもの。見ず知らずどころか、ほとんど情報が入ってこない場所だって幾らでもあるけれど、大抵の人にとってはそれは存在しないに等しいでしょうね」
ジェラルディンは、知的な眼差しを細めながら綺麗な指でスプーンを掻き混ぜた。「ましてや少し時間がずれてしまえば、誰もそれを取り沙汰そうとも思わないでしょう。それこそマダム・イーグルは百数年前の北師には現実にいたのでしょうけど、わたしだって彼女が自分と同じ世界に本当に生きていた人だなんて思えないわ」
彼女の言葉に促されるように、クレアは壁面に飾られた等身大の女性の肖像を見上げた。異国的なその容貌も、重厚な筆遣いも、鮮烈な眼差しも、確かに非常に精緻に描かれているにも関わらず、現実に存在する彼女の姿は想像し切れなかった。きっと凛々しいだろう、だとか威厳と清々しさを共に併せ持つのだろう、だとかイメージすることは出来るが、どれも『東洋異聞』に書かれた描写の借用でしかないことに気付くと、改めてクレアは愕然とする。
「――もっとも、実際に起こっていることを広く伝えて、遠い場所で起こった事件を自分の世界の出来事だと感じさせる為の架橋になるのが、雑誌でありニュースであるんだけど。その意味でも、クレアあなたのしている仕事は非常に有意義なものだと思うわ」
にっこりと微笑むジェラルディンに、思わず小柄なクレアは俯いた。そんな自覚をして仕事をしていたことなどほとんどなかったのもあり、何だかひどくばつが悪い思いだった。それでも、そんな風に褒められるのはやはりとても誇らしい。
ふと横目でもう一度マダム・イーグルの肖像を見上げ、クレアはぽつりと呟いた。
「……もしも、今の世界に彼女がいたら、どんなことになっていたんでしょうね」
世界史の授業でもほとんど学ぶことのなかった、東洋の近代。ほとんどの記録を消されながら、今この美術館の壁で遥か遠くを睨むように見据えている女性は、往時の革命にも大きな影響を与えた人物だったはずだ。彼女を記した文献には『東洋異聞』の他にも、各国領事や記者が記した文章が少量見付かったが、それ等を幾ら読んでも彼女の姿を再びここに甦らせることは出来ない。
クレアと差し向かいで、彼女と同じように肖像を見上げていた初老のジェラルディンは、不意に物静かな――けれどしっかりとした声で言葉を綴った。
「――きっと、どこかにいるのでしょう。だから革命が起こったのだわ」
思わずクレアは正面に向き直った。かつて肖像画の夫人に狂おしいほど焦がれた男の娘は、静かな眼差しで東洋の貴婦人を見詰めていた。恐らくは父譲りだと思われる夢見るような眼差しに、クレアはなぜか見てはいけないものを見たような気分に駆られた。
「マダム・イーグルが、この革命を起こしたんですか?」
到底あり得ないことだとわかっていても、思わずクレアは尋ね返す。その言葉に、ようやくジェラルディンは彼女の方を振り向いた。そしてカップに唇を当てて口元を湿らせると、再び穏やかに微笑んだ。
「彼女と同じ運命を持つ人がどこかにいても、不思議なことではないでしょう?」
世界は一つではないのだもの――そう、ジェラルディンは笑った。
「それじゃ、MOと牛乳買ってくればいいのね」
玄関から呼び掛けた麗玉に、奥の方から心配そうな声が答えた。
「一人でも大丈夫かい?」
「やっぱり俺も一緒に行った方が」
間仕切りの衝立の向こうから覗いた二つの顔は、どちらも徹夜明けのこの上ないむさ苦しさを放っていた。ぼさぼさの頭と無精髭の浮いた顔で心配そうに呼び掛けられ、思わず麗玉は声を上げて笑う。
「そんな顔したデアンさんと一緒に歩いてたら、そっちの方が公安に怪しまれちゃうよ。大丈夫だって、昨日も二人が寝てる間に買物済ませてきちゃったんだもの」
それじゃ行ってきます、と踵を返す麗玉の背中を、再び間延びした不安そうな声が追い掛けた。「気を付けておいで、デモに遭遇したら巻き込まれないように大人しくじっとしてるんだよ」
「怪しい人がうろうろしてたら近付いてはいけないよ。人気の少ない建物の辺りはちゃんと避けるんだよ」
「はいはい」ドアを閉めて聞き流しながら、麗玉は階段へと通じる廊下をぱたぱたと駆け下りた。
確かに一時期は、この開城もそれなりに荒れた。政権の崩壊が報じられてしばらくは街の中も混乱したし、金融機関や医療機関には人々が殺到してほとんど麻痺していたこともあった。連日学校や役場の前ではデモが起こって、それを鎮圧する公安も凍結してしまっていた。店頭からは商品が消え、それどころか営業している店がほとんど稀になって、場所によっては強盗や略奪も幾らか起こっていたらしい。
首都の平壌はもっとひどかったらしい。国家の中央機関だった『青屋根御殿』こと総統官邸は不審火によって炎上し、台風の中にも関わらず詰め掛けた人々が快哉を叫んでいたのだという。その様子は地方にも中継で伝えられ、名実共に旧体制の崩壊を全国に知らしめた。
巷間に膾炙する怪しげな噂によれば、官邸に火を着けたのは人ならぬ妖だっただの、九天玄女だとか地下女将軍だとかの女神だっただのと色々好き勝手言われている。
大方旧政府がそれだけひどかったことを示すだけのデマだろうと言われているが、意外と目撃者は多いらしい。集団ヒステリーで幻覚を見たのだという人もいて、最近では割とそれが噂の真相としては主流を占めているようだ。
麗玉自身、あのテレビ中継の後はしばらくショックで何も考えられなかった。見知った人を亡くすのは初めてではなかったけれど、あれは余りにも衝撃が強過ぎた。本当は、今でも時々あの様子を夢に見るほどなのだ。ずっと作り物のような怖い顔で笑っていたあの人が、不意にひどく優しい目をして、自分の咽喉にナイフを突き立てながら鮮血を噴き上げて画面の向こうに消えていった様子を。
ふと麗玉は顔を上げる。大通りの方で、大きなビジョンを載せた車が新政府の公約を放送しているのが見えた。移住してきたり、混乱で家財が不足したりしてニュースを得られない人の為に、アメリカが全国の街に提供したものだと麗玉は聞いている。評判は上々で、いつもその周りには人だかりが見えるが、野次を飛ばすような人はいない。
長期化するかと見られていた混乱は、誰が思っていたよりも早く沈静化した。大半は武力によるものではあったが、軍部の統率が取れていた為に、それほど過激なものにはならなかった。暴動を起こしている正体が民衆そのものにあるということを、政府の上層部は十分見極めていたのだろう。処分も比較的緩やかなものだったし、復興活動の開始も早かった。
新政府のトップが元々旧政府の軍部にいた人だったということで、政権移動の際の摩擦も余り強くないまま済んだことも、この国にとっては幸運なことだった。国民を上手くなだめながら旧政府関係者との和解策を進めて行く、新政府への評価は確かに高い。旧政府がかつての王朝派を追い回すのに使っていた労力を全て復興や救援に割いていれば、このような革命は起こらなかっただろう、などとテレビに映る訳知り顔の人は語る。確かに新政府は旧政府の失敗を十二分に踏まえた上で、敗北した勢力に寛容な対処をする道を選んだのだろうから、ある意味ではその説は事実かもしれない。
麗玉にはややこしいことはよくわからないし、余り今の政府がどうこうと言うことに興味はない。旧政府の官邸の下働きをしていたし、その職場が焼け落ちたと聞かされたときは少し驚いたけれど、でももう二度と戻らないと思っていた場所なのだから余り感慨もない。
――ただ、もしももっと早くこの国が今のように変わっていたらあの人は死ななくてすんだのではないか、と思うことがある。
もちろんそれは後付で、本当はあの人が死ななくてはこの国は変われなかったのだろうと言うこともわかっている。それでも、あの人の犠牲の上で今自分がこんな風に暮らしているのは、何となく後ろめたいような思いが残る。
麗玉が人込みの脇を通り過ぎるとき、不意にどよっと群衆がざわめいた。見ると人の黒い頭越しに、大写しに映し出された臨時大統領の姿が見分けられた。何か政府発表をしたのだろうか、とは思ったけれど、別にここで注目しなくてもきっと家に帰ればまたニュースでやっているはずだ。一刻を争うほど深刻なニュースなんて、今はもうほとんどないのだから。
テレビ越しに見る大統領は眉間に傷のある体格のよい男の人で、その隣には綺麗な格好をした若い女の人が大抵いつも付き従っているのを麗玉は知っている。始めはテレビに映るその人達を少し怖そうだと思っていたのだけれど、慣れてくればそうでもない。今はもういないあの人を小鳥みたいに閉じ込めて『チョウアイ』していた前の総統に比べたら、四六時中『アイジン』を連れ回している今の大統領の方がよっぽどかましだと思う(本当のことを言えば、麗玉はその『アイジン』に大統領が連れ回されているように見えるのだけど)。第一、今の大統領は前の総統と比べるとずっと見栄えもいいし、やっていることも理に適っている。
「へえ、それじゃあセ・カンメイはやっぱり死んだんだねえ」
聞き覚えのある名前に、麗玉は思わず身を竦ませる。立ち止まって振り向くと、ビジョンの前に立った中年のおばさんが何人かで頷きあっている。「まあ、可哀想だけど仕方ないでしょう。テロリストはやっぱり、国を乱すしかしないんだもの」
――あの綺麗な人が、助けてあげてと言っていた女の人。ベル・グロリアスと名乗った、麗玉に「ありがと」と言ったあの人。
マスコミでもこのところ、少し騒がれていた。あの巨大な革命の元凶を作り旧政府に拘束された彼女は、その後脱獄したと言われていたが、その行方を誰も知らなかったのだ。そこで珍しい昆虫を採集するように、彼女を探す動きがあちこちで起こっていたらしい。彼女を英雄視する人も多かったが、一方でやはり危険人物に過ぎないと見なす声も根強かった。誰の手にも余るであろう彼女を本当に見付けてしまったらどうするかなんて、恐らくは誰も考えてはいなかった。
「――それにしても、高々十八の女の子が収容所で虐待されて、挙句人知れず死んじゃってたってのは惨いでしょう。前の政府は、そう言うところは残酷だったから」頓着なくそう言うおばさんの声に、麗玉は身を強張らせた。
それでは、あの綺麗な人があんな風にこの世界に別れを告げたように、彼女もまた悲惨な最期を遂げたのだろうか。
或いは、もしかしたらあの優しい人を、彼女は追い駆けていってしまったのだろうか。
麗玉は首を振る。けれど、あの張り詰めた弦のような女の人が死ぬとしたら、それ以外に考えられなかった。
(――あたしの負けだ、悔しいけど負けだ)
何度もぐいぐいと首を振り、ようやく再び麗玉は足を運んだ。そこの角の雑貨店が、今日は安売りをしているはずだ。
再びどよめきが聞こえたが、彼女はもう耳を塞いだ。空はよく晴れている。今日はいい天気の日だ。もう嫌な時代は終わった。臨時大統領はきっといい人で、この国は平和になる。これからはもう、幸せに暮らしていけるのだ。
(デアンさんも負けたね。もう勝てないね)
早くMOと牛乳を買って帰ろう、と思った。きっと早く帰らないと、家で待っている二人が心配する。あの家はもう麗玉の家で、二人はほとんどもう麗玉の家族なのだ。あの綺麗な人が、そうなるようにしてくれたのだ。
麗玉は、不意に駆け出した。ひどく悲しい気分だった。胸の奥に大きな穴が空いてしまったような気分だった。
けれど、ずっとわだかまっていた何かも一緒に消えていくような気がした。喪失感と爽快感が、同時に胸の奥で吹いた。
――もうこの国は、あの二人がいなくても大丈夫なのだ。
旧中華民連邦共和国、首都北師。
古くは、歴代の中華皇帝が都した、世界の中心だった。絢爛豪華な宮殿はとうの昔に破壊し尽くされ跡形もないが、焚書を免れた文献を紐解けば、文字通り筆舌に尽くしがたいとされる美しさが競って書き記されていた。
本来は誰かの意志によって受動的に首都として選定されたその都は、余りにも長く皇帝のおわします玉座の在り処としてあり続けたことから、いつしか権力を手にした者が挙って目指す夢の都となっていた。皇帝の座所が玉座なのではなく、玉座に座る者が皇帝として崇められるという、倒錯した事態が長年続いていたのである。
とは言え、全韓共和国の崩壊から巻き起こった一連の極東革命の中、この都市も今また大きく姿を変えようとしていた。国家の首脳陣の大半は退陣に追い遣られ、或いは単発のクーデターによって歴史の闇に姿を消して行った。そして長年続いた圧迫的な統治機構から解放された民衆は、自由の匂いに戸惑いながら新たな活路を見出そうとつるはしや農具を手に都中を舞台に蠢いていた。
急激な近代化を遂げる都市の中心部は、政府関連施設の破壊が相次いでいるばかりでなく、残党の首狩りのような凄まじい事態すら起こっている。都市を囲む城壁の外側に広がる農村地域ではさすがにそこまでの勢いはないが、やがて北京城内へと通じて行く全ての道の上を、革命の声は足早に駆け抜けていっていた。
――都市部から取り残され、百年前とほとんど変わらず捨て置かれた農村が広がる城外も、均等に動乱の渦は呑み込んでいったのだった。
処刑された人のものか屠殺された獣のものか、それすらもわからない得体の知れない血溜まりの落ちた土の街道を、ふと古びた靴が踏んだ。よたよたと覚束ない足取りは老人に特有のもので、足元だけでなく膝も腰もとうの昔に折れ曲がっている。靴の端は擦り切れ、彼の歩いた道程の長さを思わせた。
片方の手で杖を突いた老人は、もう片方の手に大切そうに布の包みを抱えていた。黄色い絹に五指の龍を刺繍した緞子は、壷か何かを包み込んでいるらしいが、見た目よりは重くもないらしい。みすぼらしい身成に不似合いな、豪奢な包みを決して取り落とさないように、老人は一足一足確かめるようにゆっくりと道を行く。身を隠すものなど何もない炎天の下、彼は決して自分の足を休めることはない。
その道の先に、北師城がある。そしてその中央に、今も残る瓦礫の山がある。百年以上も昔に王朝が崩壊したとき、真っ先に焼き壊された宮殿跡である。そのほぼ中央部に、今はもう存在しないが、かつては玉座があったのだ。
――そこは、世界の中心だった。全ての皇帝はそこで天命を得、天意を代行する天子として君臨した。
「……陛下、もうじきですよ」
その場所を知らないまま生涯を終えた彼の主君に、老人は呟くように語り掛ける。
いつか連れて行きたいと思っていたが、まさかこんな形になるとは思いもしなかった。玉座だけではない、皇帝の正装である五指龍の龍袍も、皇帝の為だけに設えられる宮殿も、それどころか本来は皇帝自らが治めるべきだった広大な中華の大地すらも知らないまま逝ってしまった主君に、こんな形で全てを教えることになるなどと考えたことすらもなかった。
「それとももう、天の上からご覧になられましたか。或いは、もう興味などありませんか」
咎める色は、その声音にはもうどこにも残っていない。ただただ、悔いるような哀しげな青い目を細め、老人は腕の中の包みに目を落とす。老骨では見上げるほどすらりとしていた若い長身は、既にこの地上のどこにもない。彼の腕の中に収まるほどの大きさを残し、炎と煙になって天上へ戻っていってしまった。
ふと目を落とした老人は、陽炎の揺らめく道の中央に一頭の蝶が止まっているのを見付けた。大きな翅をゆらりゆらりと揺らしていた蝶は、彼の姿に気付くや否や音もなくふわりと飛び立った。はたはたとぜんまい仕掛けのような動きで、蝶は空へと舞い上がる。
老人は蝶の姿を目で追った。どこまでも深く青い空を背負い、蝶は軽々と揺らめきながら上昇を続ける。雲一つない晴天を前に、少しも臆することなく誇り高く蝶は舞い上がって行った。
――蝶の小さな羽ばたきは、今僅かな風を生んだ。それを軸に、細く緩やかな上昇気流が発生し、それに乗った蝶は高く高く天の涯てを目指し翅をはためかせる。
やがて蝶の僅かな羽ばたきが生んだ上昇気流は、地軸の回転に影響されて東を向く大きな空気の流れとなる。ジェット気流と呼ばれるそれは、太平洋の真ん中で熱せられて気化した海水を孕み、更に激しい気流へと成長する。地球の自転に動かされて少しずつ移動してゆく巨大な気流はやがて地球の裏側へと辿り付く。
そして半月後にはアメリカの都市に、嵐として上陸するかもしれない。
カオス理論の説明として、よく使われる有名な喩話だった。元は都市の名前も理屈の解説も違ったはずで、次第に口頭で語られる内に変化してしまっているようだが、ただ、蝶が空へと舞い上がるという一点だけはいつまでも変わらない。
(予測は出来なくとも、法則はある。それがカオスだったか――)
小さく空に消えてゆく蝶の姿を目で追い掛けた老人は、それが見えなくなるまでじっと見守り続けていた。覚束ない上昇気流に乗って、頼りなくひらひら、ひらひらと舞い遊ぶ蝶の姿は、老いた目が痛むほどに美しい姿だった。
蒼穹にやがて溶け込むように見えなくなった翅を見上げていると、カオスの語源になった、希臘神話のフレーズがふと脳裏を過ぎった。昔、そう言えば世界中の神話を語り聞かせたこともあったのだ、ということを今更になってぼんやりと思い出す。寝物語にそれをねだっていた幼子は、もうこの地上のどこにもいない。
(混沌、ただ漠々と口を開いている空隙)
不意に老人は、道の先でけたたましい叫び声が響くのを聞き止める。恐らくは逃亡していた旧体制派の残党が追手に見付かったのだろう。これまでの屈折が溜まり込んでいる民衆に、掛け金はない。発見された男は十中八九その場で断末魔の悲鳴を上げることになるだろう。
行き過ぎた政府の圧制に対する、強烈な反発があちこちで爆発していた。恐らくは無関係の者も多く巻き込まれているだろうし、歪んだ政府が抑え付けていた頃よりも治安は目に見えて悪化の一途を辿っている。半島では比較的早く新体制が生まれ、治安も回復しつつあるが、復興が遅れている郊外や半島の余波によって崩壊した大陸側では、まだ凄惨な悲劇が繰り返されていた。
東アジア全体を覆う、革命の渦。それがもたらしたものは、決して安寧でも平和でもない。竜巻のような混沌の渦が駆け抜けて行った後に残されたのは、無秩序が支配する元始の泥のような世界だった。
(けれども、全ての創造の源泉――それが混沌)
見上げると、雲一つない澄み切った空は思いの外に高い。真夏の色よりも更に深く高いそれは、季節が移ったことを静かに告げていた。恐らくはあの蝶も、やがて過ぎる季節の中で塵灰に姿を変え、次代に命を繋ぐのだろう。
腕に抱え込んだ錦の包みを大切そうに抱え直すと、老人は正面に向き直った。一点へと消えてゆく道は陽炎に果てを揺らしながら、どこまでも真っ直ぐに伸びている。
再び老人はよたよたとした覚束ない足取りで、足を街道沿いに進め始めた。
――うん、それじゃあ書類は届いたんだね。
国籍の移動は上手く行きそう? 二人とも同じ書式だから、多分片方上手く行けばどっちも大丈夫だと思うよ――うん、そう。
今は、そっちはどんな具合? まだ荒れてるんじゃないかな。治安の方は大丈夫?
……うん、うん。ああ、それはよかった。でも油断は駄目だからね、ちゃんと気をつけておくんだよ。目立つ立場にいるんだから、自重しないと色々危ないんだからね……そりゃ心配もするよ、友達なんだから。
そっちのことは、こっちでも一応毎日ニュースでやってるよ。詳しいことはあんまりよくわかんないんだけど……あ、でもこの間はローズも映ってた。あ、今また映ってる。うん、こっちは今丁度朝のニュースの時間なんだ。
……大丈夫大丈夫、ちゃんと美人に映ってるから。あ、でも化粧は気を付けなよ、あんまり派手にしてたら、丸っきり臨時大統領か鎮圧将軍の愛人にしか見えないからね。ローズは構わないかもしれないけど、そんな噂が立っちゃったらサーディンが可哀想だろ、同じ顔してんだから。
――え、嘘。マジ? うわあおめでとう……だよね? へええそれじゃローズもいよいよ押し掛けファーストレディーなんだ。こりゃ話題になるなあ……うん、うん。
ああ、それじゃあ秩序が回復次第、機を見てってことになるんだ。ああ、それはいいね。おめでたい話題は皆好きだからね。おめでとう、その時期には俺からも何か贈るよ。花嫁の父代理ってんでどうだ。
え、お店? ああ……どうしようかとも思ったんだけど、一応そのままにしてあるよ。出戻って来たときに困るだろ? ……ごめんごめん、ご馳走様。わかったわかった、惚気ないでよ。こっちが恥ずかしいじゃないか。
内装はそのままにしてあるよ。部屋の方は一応この間片付けに行ってきたから、観葉植物も俺んとこ持って来たよ。レディーが気に入って毎日手入れしてる。うん……ああいいよいいよ気にしないで、こういうのってお互い様だから、さ。そっちのも、俺達が滅茶苦茶やったの片付けてもらってるみたいなとこもあるんだし、ホント気にしないで。
そうそう、そう言えばお店と言えばあのバーグナーなんだけどさ、今度ピュリッツァー賞獲っちゃったんだって。あれだよあのジャーナリストが貰う賞のすげーヤツ。ほら、そっちの情勢を報じるのどこよりも早かったし、報道姿勢も随分評価されたみたいで。うん、根が真面目な人だからね、俺も凄く妥当だと思う。今度バーグナーんとこの雑誌も何部か送ろうか? 結構参考になると思うよ。
OK、ちゃんと伝えておくよ。喜ぶと思うよバーグナー、『TWIN』がなくなって息抜きできる場所が見付からないって嘆いてたから。双子からおめでとうなんて言われたら舞い上がっちゃうよきっと。何なら二人の名前で花束も添えておこうか?
――うん、こっちは全然変わんないよ。車も多いし、人も多いし、治安もそこそこで、時々あんまよくないことも起こるけど概ね平和。うん、全然変わってないよホント。そっちに比べたら本当に比較にならないと思う。
そっちは一日一日が凄いだろうね。ニュース見てても思うもん、凄いよあの復興の勢い。指示が上手いのかもしれないけど、元々のエネルギーも凄かったんだろうねそっちの国。あの騒動のときにも思ったけど、本当に火が着いて爆発しちゃったみたいな勢いだったもんね。
あの状態からどこまで変わっていくんだろうね、俺には全然見当がつかないや。
――レディー?
……うん、変わんないよ、元気でやってる。この間も俺、殴られたんだ、うっかり風呂覗いて……あはは、そりゃ言い過ぎだよ。
うん、うん。大丈夫だよホント。ローズが心配性なだけだって。第一この俺がついてるんだし、ちょっとくらい信頼してよ。
え、前科? いや俺結構忍耐力あるし、大丈夫大丈夫。いやホント小姑怖くてそんなこと出来ませんって……誰が小姑って? ローズに決まってるじゃないか。
え、今? 今は……寝ちゃってるんだけど、起こそうか?
あ、いい? そりゃ助かるよ。レディー寝起き悪いからさ、ほら、また殴られるの俺なんだよね。
……仕方がないよ、そっちとこっちには時差があるんだから、時間が合わないだけだって。別にレディー、双子のことは全然怒ってないよ。うん、むしろありがたいくらいなんじゃないかな。ほら、レディーってばいつもあんな調子だから、口に出すことはないんだけど。うん、見てて思うよ。ホントホント、嘘じゃないよ。
――あ、そっか。そっちは忙しいんだね、ごめんよ長電話。今度はこっちから掛けるからね。
うん、ありがとう。まあこっちはこっちのペースでぼちぼちやっていくよ。そっちは大変だと思うけど、うん、頑張ってね。出来ることあったらまたいつでも呼んでくれたら構わないから。結構暇なんだよね、俺。遠慮しなくていいからさ。
ホント、応援してるからね。
開け広げたままのベランダから、緩く朝の風が流れ込んでカーテンを揺らした。
ガラス越しの空を見上げると、摩天楼の上には果てしなく淡い天色が広がっている。天を貫こうと伸びるビルの屋根を軽々と飛び越えたかのように、上空はどこまでも高い。
小さな古いテレビは、今朝も見慣れた顔のキャスターを映していた。画面の端では、見慣れた国の風景が異境のこととして映し出されている。淡々とニュースを読み上げる声が聞き慣れた人名を発音し、やがて画面は別の風景に切り替わった。
ふと腕を伸ばして、彼はテレビの電源をオフにする。短く切り込んだハニーブロンドの癖毛をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、鼻に引っ掛けた眼鏡を押し上げる。よく見ると、肌の色が数箇所でうっすらとではあるが斑になっているのがわかる。
洗い晒しのシャツとジーパンでオフの装いを着込んだ彼は、コードレスの受話器をコーヒーテーブルの上に無造作に置くと、思い出したように頭を廻らせて立ち上がった。遠く街の雑踏が聞こえるだけの静かな部屋の中で、彼の足に踏まれた床板だけが小さな軋む音を立てた。
余り狭くない部屋の反対側、明り取りの窓辺に置かれた大きめのベッドの傍まで足を進めると、彼はその端に腰を下ろす。糊の効いた洗い晒しのシーツが、石鹸の匂いと衣擦れの音を漂わせながら皺を寄せた。
その白いシーツを抱え込んで、繭のように包まった一人の少女が静かな寝息を立てていた。
枕元に扇状に打ち広げられた長い黒髪の中に、一房だけ銀髪が混じっている。けれどそれはもう、本来の標識としては何の意味も持たなくなっていた。永劫それを消すことは出来なくても、それが示していた意味はもうどこにも残ってはいない。
折り曲げられた細い腕や掌には、白い包帯が巻き付けられている。不自由そうに投げ出された指は、包帯の端から今もまだ青黒い痣の残る肌を覗かせていた。多分、この中の幾らかはこのまま痕に残ってしまうだろう。
腕だけではない、肌蹴たキャミソールの間に覗く胸元や、シーツの中できつく折り曲げられた足にも無数の傷が残っている。骨にまで達するほどの負傷も少なくなかったことを思えば、今はもう随分と回復したのかもしれないが、それでも見ているだけで痛みを覚えるほどの傷を負いながら、彼女はただ眠っていた。
黒い睫毛は薄い瞼を縁取ったまま、じりとも動かない。その左目の睫毛のすぐ下から頬に掛けて、それから丁度眉間のところに、薬の匂いのするガーゼが貼り付けられていた。それを除けば、額から頬に掛けて真っ直ぐ一直線に、決して浅くはない裂傷が走っている。
それを気にする様子もなく、ただ淡々とした無表情で彼女は眠りの中に沈んでいた。僅かに開かれた薄紅の唇も、小さな擦り傷の痕を残した鼻筋も、少し痩せた白い頬も、ほんの僅かしかめられた細い眉も、まだ成熟しきらないあどけなさを色濃く残している。
その顔に掛かる髪の毛を払おうと、彼は腕を伸ばした。そして髪を摘む指の背で、血の気の薄い白い顔をそっと撫でる。それに気付きもしない寝顔を、彼はそっと目を細めて見守る。ライトブラウンの瞳は、あくまでも柔らかかった。
それからふと、眠る少女が胸元に抱え込んだリボンのようなものに指を這わせる。淡い亜麻色の、繊維が零れ落ちないように編み込まれたそれは、長い人間の髪の毛だった。記憶の中ではもっと鮮烈な色をしていた気がするのだが、それはもう少し褪せかけたような淡い落ち着いた色味に変わっていた。それとももしかしたら記憶の方が間違いで、はじめからこんな色だったのかもしれない。だが、それを確かめる方法はもうどこにもない。
――遠く、渋滞に巻き込まれた車が苛立たしげにクラクションを鳴らすのが聞こえた。路地裏に群れる鳩が一斉に飛び立つ羽音が響いた。窓の外で、白い翼をはためかせた鳥の一群が一息に上空へと舞い上がる。それを目で追い掛けながら、彼は少女の髪を撫でた。
「……悪い夢は終わったかい、レディー・ベル」
返事はない。身動ぎ一つしない彼女は、蛹のように眠っている。
それをわかりきった上で、そっと抱き込むように彼は彼女の顔を覗き込んだ。囁くような抑えた声は、いいようもないほど優しい。
「目一杯、幸せな夢を見るんだよ。目が覚めたときに泣かなくてすむ、いい夢だけを見ればいいんだよ」
そして、シーツの端を不器用に握った掌に、彼は自分の掌を重ねた。丸ごとすっぽりと隠れてしまうほど、彼女の掌は小さい。
――この掌で、彼女が抱えた荷物は余りにも重い。それを投げ出したことを咎めるのは、きっと彼は許せない。
そしてそれを許すことを、彼女はきっと許さない。わかっているけれど、傷だらけの掌を見るとやはり心は痛む。
「……全部忘れていいよ、レディーは自分の幸せを許してあげていいんだよ」
彼は、小さな掌を壊さないようにそっと握ったまま、不意に身を屈めた。
彼女の黒髪に一度だけ軽くキスをして、彼は彼女の耳元に囁いた。
寝苦しい真夏の夜はもう明けた。儚い真夏の夜の夢はもう跡形もない。
――そして、朝露に濡れる頬が乾くまで彼女は眠るのだろう。
「――だから、それまでゆっくりお休み」
完
|