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第十五夜・下



昔者、荘周夢為胡蝶。
栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。
不知周也。
俄然覚、則遽遽然周也。
不知周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。


昔、わたしは蝶になった夢を見た。
ひらひらとして、確かに蝶になっていた。
いつの間にか楽しくて思いのままに飛び回り、
わたし自身のことを忘れる始末だった。
ふと目が醒めると、何とわたしはわたしだった。
わたしがその夢の中で蝶になったのか、
蝶がその夢の中でわたしになったのかはわからない。

(『荘子』斉物論篇13 より抜粋)



  第十五夜 下



 既に官邸も、その周囲に林立する高層建築も間近に迫っていた。
 彼女まで――一人群衆を抜け駆け出して行ったベル・グロリアスまでの距離はほんの僅かだと言うのに、デイビーはこんなところで足止めを食っていた。
 辺り見渡す限りを埋め尽くすほどに膨張した民衆の先頭部を、軍服姿で拳銃を構えた男達がぐるりと囲う。何台ものジープが立ち並び、不穏で物々しい雰囲気を更に煽っていた。平壌市街の入り口に張られた検問が、彼等を待ち伏せしていたのである。
 「だから通す訳には行かないって言ってるだろうが!」
 荒々しく怒鳴りつける兵士と、それに挑みかかる血気逸る若者が、今にも殴り合いの喧嘩を始めそうな剣呑な顔をして睨み合っている。
 「通せっつってるだろ!」
 ふと見ると、一対一だったはずの彼等の双方に加勢が入っていく。集団同士の衝突は、どんな場合でも大抵惨事を免れ得ない上に、大変時間が掛かる。そのことに気付いたデイビーは、黙って当事者二人の首根っこを引っ掴んだ。
 「な……っ!」
 デイビーは同時に声を上げた二人の若者の額を打ちつけて、乱暴に脇に放り投げる。共に十キロの道程を歩いて来たずぶ濡れの民衆や、待ち伏せていた兵士達はさすがに呆気に取られて言葉を失った。
 その間を、デイビーは力任せに押し退けて通り過ぎて行こうとする。それに気付いた兵士の数名が慌てて行く手を遮ろうと銃剣を構えるが、銃身をひょいと握ったデイビーは軽々とそれを捻じ上げてしまった。てこの要領で不自然な方向に腕を回されてしまった彼等は、呆気なく雨の跳ねる地面に引き倒されてしまった。
 今度は、とばかりに別の兵士達がデイビーの腕に掴み掛かるが、それをひょいひょいと軽く交わした彼は長身を生かして次々と彼等を引き摺り投げ捨てる。元より兵士達よりも少なくとも頭半分は抜きん出ている上に、随分大柄な体躯と力任せの荒業を駆使するものだから、徴兵で取られてきたばかりの学生出の兵士達も次第に腰が引けてくる。
 余りに次々と呆気なく片付けてしまうので、デモに参加した血気逸る若者などは拍手をしながら歓声を上げ始める始末だった。やれやれとばかりに掌を払ったデイビーは、不意に検問のほぼ中央でくるりと振り向くと親指を立ててウインクをすると、親指をぴんと立てて見せた。それを受けて一気にデモの民衆は歓声を上げ盛り上がる。
 引き倒されていた兵士達は泥まみれの顔をしたまま慌てて起き上がると、彼等を大人しく鎮圧しようと武器を拾い上げた。その瞬間、無数の一般市民の間からあ、という声が次々に漏れる。
 振り向いた兵士達は、一息に検問を抜けて駆け出すデイビーの後姿に気付き、歯噛みする思いで銃口を構えた。その瞬間、彼等の背中にずぶ濡れの若者達が齧り付いて動きを封じる。凄まじい歓声と、兵士達の怒鳴り声が重なり合って暗く曇った空に反響する。
 そのとき、彼等はまだ誰も気付いていなかった。ずっと降り注ぎ続けていた重い雨が、ようやくその瞬間に上がったと言うことに。
 何故ならば彼等はそのとき、力任せに暴れ合い、服や髪に含んだ雨水を散らしながら殴り合っていたのだった。


 いつからなのかは、もう覚えていない。
 いつから彼をこんな風に思うようになったのか――彼への感情がこんな形に変わった、その境界線は自分でもわからない。
 はじめはただの興味本位だった、それは間違いない。
 目も眩むような秀麗さと、それが意味する恐ろしさに。この国では生きることすら許されないはずの、異国の血を色濃く引いた容貌に息を飲んだ。生きているだけで罪を問われるはずの、人目に触れてはいけないはずの姿で、毅然と背筋を伸ばす彼に目を惹かれた。
 彼がどんな事情を抱えているのか、それが始めは気になっていた。彼の背後に時折垣間見える暗い部分を、いけないとはわかりつつも覗き込まずにはいられなくなった。
 彼が今、何を見詰めているのか。次に気になるようになったのはそんなことだった。常に超然と正面を見据える彼の、その視線の先に何があるのか、覗き込みたくて堪らなくなった。
 彼が見ているものを、同じ視線で自分も見てみたくなった。きっとそんなことをしたら戻れなくなる、そんなことはわかっていた。それでも惹かれずにはいられなかった。多分それは、熟れた林檎が地上に落ちるように余りにも自然な流れだった。
 彼が好きだった。あの遥かなところを見詰める眼差しが、ぴんと伸ばされた真っ直ぐな背筋が、何にも汚されることのない凛とした姿が好きだった。時を追うごとに明かされてゆく、彼の背負う飲み込まれそうなほど長く暗い歴史も、彼の生まれ付いた重く惨たらしい宿命も、彼の身に危険と悲劇しかもたらさない罪深い容貌も、そんな何もかもが愛しかった。
 彼のことをよく知っている訳ではない。彼の抱えるものや彼自身のことなどほんの指先ほども知りはしない。それでも構わなかった。彼が自分達を救う為なら自分の身を幾らでも犠牲に出来る人だという、それだけがわかっていれば充分だった。
 彼が自分を助けたように、今度は自分が彼を助けたかった。その為なら手段など選んではいられなかった。どれほど愚かしくても、彼の為になることならば全てが正義であるように思えた。彼が好きだった。自分にとって、彼は世界の中心だった。
 自分が逃げたことで家族が殺されたことも、親友を見殺しにして逃げたことも、自分の起こした行為によって数え切れない人々が巻き込まれて犠牲になったことも、全て赦せた。彼を助ける為に、自分は必要な人間なのだ――そう信じることで、今までずっと走って来た。
 (――あいつを助けられないあたしは、いらない)
 神がいなければ、生贄を捧げる巫女はただの人殺しにすぎない。彼を失った自分は、それこそただ生きているだけで罪深い存在なのだ――そう、思った。彼に殉じて死ぬことが出来ればどれほどよいだろうと思った。
 けれど、と一方で思う。彼がいなくなってしまった今、彼が為し遂げようとしたことを継承できる人間は自分の他にはいないのではないだろうか――だとしたら、それは彼に最も近付ける最後の方法なのではないだろうか。
 (だったら、あたしがあいつになればいい)
 自分が彼に代わり、彼の守ろうとしていたものを守ったならば、少なくとも彼の遺志は救われる。彼に触れることすら適わない今となっては、そんな僅かな残り香にも縋り付きたかった。
 どれほど強い思いを遺したとしても、死んだ彼にはもう何を為すことも出来ない。ならば彼に代わり、彼が願ったことをやり遂げるのが、唯一で最善の彼への餞なのだ。そう思わなければ、立ち上がることも出来なかった。
 (あいつは、皇帝だから)
 彼は森羅万象を統べるべく地上に遣わされた、天の末子。
 だから彼を失ったこの国は、この世界は全て、彼の形見だ。
 (あたしがこの世界を、受け継ぐから)
 彼のいない、光も闇も失った、汚くて臭くて始末に負えない醜いこの世界は。
 彼を恋い慕って止まない、この混沌の娘がそのまま引き継ぐのだ。


 レディー・ベルの居場所をデイビーは既に確信していた。
 炎に引き寄せられて真夏の夜を舞う蝶のように、彼女があの燃える炎の元にいるということは、文字通り火を見るよりも明らかだった。だが、炎上する建築物があのとき進入した物々しい建物だと気付くのは、実はその脇にある公園の存在に気付いてからだった。それほどに、その周辺は様相を変えてしまっていたのだ。
 あれだけ閑散としていた公園には野次馬が群がり、周辺の道路は全ての車線に車がぎちぎちに詰まっていて一向に動く気配を見せない。時折鳴り響く爆音や、木造建築が燃えながら崩れ落ちる脆い音を掻き消さんばかりの勢いで、歓声を上げる人々がそこにいた。
 不思議なことに――いや、本当は何ら不思議などないのかもしれないが、群がる群衆の顔に恐怖の色はなかった。浮かんでいるのはただひたすらな狂乱と歓喜の表情ばかりで、そんな人々がぞっとするほどの数で集まって、公園からこちらを覗き込んでいたのである。
 官邸の塀に沿って走る舗道はひび割れ、飛び散った瓦礫が積もっている。時折勢いよく煙を噴き出す塀の向こうでは、燃え上がる巨大な宮殿とも言えそうな建築が間近に見える。熱風が吹き付け瓦礫を散らす道路の上は、冷静に考えれば間違いなく立ち入り禁止区域に指定されるであろう惨状を見せているのに、意外なことにそこを行く人の影は決して少なくなかった。騒ぎに乗じて破壊活動を行う、あの白髯の老人の『同志』かとも思ったが、どうやら大半は単なる興味本位のようだった。馬鹿な奴等だ、とも一瞬思いはしたのだが、人間の好奇心はしばしば恐怖心を忘れさせてしまうと言うことも同時に思い出して何となくデイビーは首を振る。他ならぬ自分自身、似たような状況と言えるのかもしれない。
 路上には、幾らか負傷者の姿も見分けられた。だが、手を貸す人は思いの他に少ない。僅かな憤りを感じない訳ではなかったが、今は自分自身が足を止めている場合ではなかった。とにかく彼女のところへ、とそれだけを念じながら走っていた。
 (この火の、どこにいる)
 燃え上がる炎は近付いてみると、想像以上に大きかった。あの官邸が丸ごと燃えているのだから至極当然のことで、だからこそ遠目からは目標にしやすかったのだが、ここに来て彼女がいるかもしれない範囲が広過ぎることに困惑する。この炎の外側を埋める野次馬の中にいるか、或いは壁から火薬を投げ込む過激派の中に紛れ込んでいるか――。
 見当を付けかねて彼が頭を巡らせた、その瞬間だった。
 不意に官邸の正面の方から、凄まじい歓声が聞こえてきた。この非常時に何を、と顔をしかめたデイビーは、ふと思わず耳をすませる。意味がわからなくて無意味に聞こえていた音の羅列の中に、たった一つデイビーの耳にも聞き分けられる音が混ざっているのに気付いたのだった。
 かつて何度か双子がうっかりと呼んだことがある。あの老人が、険しい声音で呼んでいた覚えがある。彼女を捕らえたあの男が、ニュースを読み上げる声が、何度も何度も彼女に向かって呼び掛けていた、その単語。
 デイビーがただの一度も呼んだことのない、ベル・グロリアスのもう一つの名前――。
 やがて音は、その単語一つに淘汰されて行く。知らずの内に、彼はそれに引き寄せられるように官邸の正面側にある広場の方へと足を向けていた。程なくして、断続的に噴き上がる火災の炎の間に、黒く蠢く余りにも広大な平たい塊が見えてきた。
 蟻の群れを思わせるそれは、無限に思えるほど無数の人々が作る群衆だった。これほどまでに誰もが同じ髪の色を持っているということが、デイビーはわかっていてもどこかで納得しきることが出来ない。ぞわりと肌の内側を撫でられるような気味の悪い違和感を覚えながら、それでも彼はそちらの方へ足を運んで行った。
 (誰かが扇動しているんだろうか)
 ふとあの老人の姿が浮かんだ気がした。確かに出来すぎた大袈裟な演出だが、それでもこの情況にはきっと何よりも効果的に作用するようにデイビーには思えた。一つの国家が崩れ、新たな日が昇るという大仰な儀式に現れるには、きっと彼女は最適の女神になるのだろう。
 (――ああ、そうか)
 不意に閃くように、デイビーは思い出した。(レディーの一番欲しいものって)
 あれだけ疎みながら、それでも彼女が求めたものが、今ようやく彼女の目前に現れたのだ――きっとこの炎のどこかに彼女がいて、或いはこの炎そのものが人々にとって彼女の象徴で、だからこの歓声が起こり、これだけの人々が群れ集っているのであれば、それは彼女が狂うほどに欲したものがようやく彼女の掌中に納められているからに他ならない。
 人々は――多分、デイビーが共に歩んで来た人々も混ざっているだろうと思われる数え切れない人々は、口々に一つの言葉を叫んでいた。彼等が救世主と信じる、新しい時代を作り上げてくれると信じる、少女の名前を。
 ――セ・カンメイ、と。

 
 ベル・グロリアス――施寛美は、崩れた官邸正門の瓦礫の上によじ登った。元々官邸全体がその正面に設えられた広場よりもやや高めに建築されており、広場の内側を一望できるようになっていた。その為、広場いっぱいに米粒を詰め込んだようにぎっしりと人々がひしめき合っているのがこの場所からもよく見えた。
 瓦礫の山に取り付くようにして座り込んでいる彼女の姿に気付いているのかいないのか、歓声は一向に勢いを衰えさせない。その様をぐるりと見渡し、寛美はふと半身を起こして足を伸ばすと正面に向き直って座った。彼女の姿を目視した民衆の中からまずどよめきが起こり、それから一斉に轟くような歓声があがった。
 瀬戸甫民の姿を探そうかと彼女は少しだけ考えたが、それが余りにも不毛なのでやめにした。恐らくこの歓声も彼女の名を呼ぶ演出も、甫民以下の王朝派の陽動によるものだろうとは勘付いていたが、それに頓着するつもりは毛頭ない。むしろこの騒動を収束させる為には好都合だ、と彼女は少しだけ唇を歪めた。
 不意に風が吹いた。上昇気流に長い髪を躍らせながら、彼女はふと立ち上がる。そして大きく右腕を伸ばして真横に突き出すと、それをゆっくりと正面に向けて動かした。更にそれを正面から左肩の辺りまでゆったりと翼のように動かすと、そこで黒く煤けた肘をたわませて身体の前に下ろし、それからぼろぼろに破けた黒いスカートの裾を摘むように動かない指に絡めた。
 歓声は次第に再びざわめきに戻り、それから急速に収束する。彼女の妖精のようなその御辞儀を前にする頃には、広場には奇妙な静寂が下りていた。到底数え切れないほどの人間がぎっしりと詰まった広場が、その一瞬しんと鋭い音が響くほど静まった。
 「ぼくら、影法師」
 だから、身を大きく反らせて張り上げた彼女の声は思いの外に朗々と響いた。もとより全ての人に声が届くなどと思ってはいないし、そうするつもりもない。前列で声を聞いた人々がそれを後から伝播してくれればそれで十分だと彼女は考えていた。それでも、一人でも多くに聞こえるに越したことはない。演劇部で覚え、セントラルパークで鍛え、『W.D.』で会得した声音を彼女は響かせる。
 「もしもお気にさわったら
  夏の一夜のまどろみに見た
  夢まぼろしとお考えください」
 どよめきを前に、寛美は鋭く広場を見渡すと、金の房を絡めたままの左側の腕も伸ばす。鈍く痛む腕で舞うように宙を掻き、記憶の中に今も残る芝居の台詞を朗誦する。目の前をうねる亜麻色の遺髪にぼんやりと目を向けると、生ぬるいスポットライトの温度とドーランの匂い、周囲の沈黙がなぜか痛いほど鮮烈に思い出された。
 「この愚にもつかない
  夢のような物語
  皆様、お叱りくださるな」
 何を言っているんだ、とどよめく声が一際高く上がったが、それを無視して寛美は脚を組み替えた。
 高校の演劇部で、たった一度客演しただけの芝居をこれだけ詳しく覚えている自分がおかしかった。自分にしか出来ない役割だ、とこんな風に割り振られた役柄があることが無性に誇らしく、それなりに懸命に練習したということがもう遠い過去のことのように思えていた。
 あの頃の自分にこなせる役割は、舞台の上でライトを浴びて暗記した台詞をくるくると回しながら飛び跳ねる妖精役が限界だった。今から思えば本当に笑えるほど幼く無邪気な誇りを抱えていられた。一年足らずの間にこれだけ無数のことに巻き込まれ飲み込まれ、挙句こんな場所に立つことになるなどと、夢にも思わなかった。いつの間にか自分がこれだけの人間を率いてしまうなどと、思ってもみなかった。
 けれど、と彼女は頭のどこかで思わずにはられないのだ。
 (あたしは、あたしだ。何をしてもどこにいてもどんなことを思っても、無力な小娘だ)
 今これだけの人間を前にして、おこがましい弁舌を打つことなどできはしない。語るべき言葉など持ち合わせてはいない。
 「ご容赦あれば、一層の励み」
 だからこそ、もしかしたらこれほどこの場に適した台詞はないのかもしれないと思う。
 ――十六世紀の遠い異国で、喜劇の幕を引く為に語られたこの台詞。
 「このパック、何を隠そう正直者
  幸運にも毒舌から逃げられましたら
  芸居に磨きをかけましょう」
 いつしか、再びどよめきは鎮まり始めていた。
 踊るように宙を掻く腕は、血と煤に塗れて時折力なくたわむ。元より手首より先はろくに動かず、腕と亜麻色の長い髪の房を繋ぎ止めるだけの部品のように見える。細い傷だらけの脚もろくに上がらず、水気を吸って重く垂れ下がる破れた黒いスカートの裾が絡みつく。軽やかな、と形容するには余りにもその身のこなしは疲労と傷に蝕まれていた。
 けれどもその姿は炎上する官邸の逆光を背に負い、奇妙な迫力を伴って人々の目に映りこむ。天へと勢いよく舞い上がり、または眩く降り注ぐ火の粉の中で、ぞっとするほど現実味を帯びた幽玄の生物のように見えた。例えば、真夏の夜を覆う泥のような闇の中から湧き出るように姿を見せた、悪戯好きの妖精パックのように。
 不意に彼女は唇をぐいと曲げて笑った。哄笑にも似たその表情で彼女は、どんよりと重く垂れた天を見上げる。
 (まるで、道化だ)
 無数の観客を前に、彼女は四肢を遊ばせる。そのたびにもつれた黒い彼女の毛先やスカートの裾が生き物のように揺れた。含んだ水気を飛ばしながら、金色の遺髪がしなった。
 たった一人の男を助けたくて、助けられなくて惨めに地上を這いずる自分も。
 彼を慕う者の手によって、こんなにも易々と壊れたこの国の支配者達も。
 確固たる信念も持たないまま、彼女を担ぎ上げたこんなにも無数の人々も。
 崩れ落ちた無数の建物も、焼け落ちたこの官邸も、占拠された放送電波も、あちこちで上がった蒼い炎も、常に立ち込めていた火薬の臭いも、後に残る瓦礫の山も、瓦礫になり損ねたあのガラスの塔も。
 きっと、天から見下ろせばそれは道化以外の何ものでもないだろう。矛盾に満ちた、余りにも滑稽な猿芝居のようにしか見えないだろう。或いは周囲を取り囲む観衆にとっては、またとない愉快な見世物になるはずだ。
 彼の命と、自分の魂を賭けた、これは一世一代の大喜劇だ。
 「パックに二言はありませぬ」
 両腕を大きく広げ、もう一度にっこりと微笑む。
 真夏の夜はすぐに醒める。真夏の悪夢はすぐに覚める。真夏の熱狂はすぐに冷める。
 例えこれだけ荒れ果てた国も、禍根だけを取り除いてやれば、やがて何事もなかったかのように再興してゆく。二度と帰らない者達の存在を忘れ去って、鮮やかな朝の光の中でまるで全てが夢だったかのようにやがて人々は語るだろう。
 褪めないのは自分の思いだけで十分だ。
 「それでは皆様、おやすみなさい」
 ――この国をこんなにも踏み躙ったのは、紛れもなく自分だった。自分一人の力で荒らしたのではなくても、施寛美と報じられた一テロリストが引き金を引いたのは間違いなかった。そんな自分を救いと信じて無数の人々がついて来た。
 彼以外の人間がどうなろうと、今も正直なところを言えば知ったことではない。彼のいないこの世界になど、もう何の未練も興味も残ってはいない。自分諸共滅びてしまえば構わない、とさえ思う。
 けれど、彼がその世界の安寧とそこに住まう人々の幸福を願わずにはいられない男だったと知っている以上、むざむざとどめを刺そうなどとも思えなかった。まして、彼がそれを願うが為に自分の命を投げ出して、それゆえに何を願うことも叶わない姿に成り果ててしまったのであれば、その願いを踏み躙ることなど出来なかった。
 この国を滅ぼそうとするのも、救おうとするのも、全ては彼の為なのだ。そんな自分の罪深さを笑わずにはいられない。
 けれどそんな自分に救いを求めた人々もまた、愚かで罪深くて愛しい存在なのかもしれない。――彼への愛しさで救世主を気取るテロリストと、身の周りの人々を守りたさにそれを支援する人々に、どれほどの違いがあるだろう。
 「ご贔屓ならば拍手喝采」
 朗々と響く彼女の声に、彼女の姿を見守る人々は息を飲んだ。
 その台詞の典拠がわかる人間など、多分ほとんどいない。彼女の語る言葉の意味も、きちんと捉えられる人は数少ない。その声音を耳にすることが出来た人間すら、広場全体から見ればほんの一握りにも満たないはずだ。
 それにも関わらず、人々は瓦礫の上で蠢くように舞う彼女の姿に釘付けになっていた。
 彼等は、この閉ざされた世界を飲み込んだ巨大な無秩序の正体を、そこに見ていた。
 「――パックがお礼申し上げます」
 その瞬間、彼女の背後で燃えていた巨大な建築物が低く鈍い音を立てて崩れ落ちた。ゆっくりと倒壊する炎の城を背景に、少女は醜く優雅な仕草で深々と腰を折る。赤く白く輝く眩い炎の吹雪が、その小さな姿を覆い隠さんばかりに激しく降り注いだ。
 官邸前の広場に、拍手が響いた。歓声が轟いた。快哉が場を埋め尽くした。
 この国とそこに住まう全ての人を解き放ち、損害と恩恵を同時にもたらした小さな一人の女神がそこにいた。
 その瞬間、惜しみない賞賛が、小さな混沌の娘へと注がれていた。


 (――夢なんかじゃない)
 彼が死んだのも、無数のものが壊れたのも、夢なんかじゃない。
 同胞を庇護していた国家という枠組みそのものが失われたのも、夢なんかじゃない。
 この国がなくなって、この国に暮らす全ての人が難民となってしまったのも、夢なんかじゃない。
 そんなことを全て自分がやってしまったということも、夢なんかじゃない。
 だから布団の中でじっとしていても、永遠にオモニが起こしに来てなどくれない。
 一度壊れたものは決して元と同じ姿には戻らない。一度死んだ人は決して生き返ってくることはない。
 彼と、もう二度と会うことも適わない。
 (これが現実だ)
 何もかも絶対に元には戻らないし、絶対に取り返しもつかない。
 それが現実というものだ。
 真夏の夜の熱に浮かされ、夢見心地の狂乱の末に残った、余りにも残酷で恐ろしい現実なのだ。


 「忘れ物は、見付かりましたね」
 不意に、ミレアの事務的な声ががらんと響いた。
 鼓膜の表面をうっすらとなぞるだけの言葉は、ほとんど紅凰の中には届かなかった。ただ壊れたように頷く彼女に、再び無機質な声は呼び掛ける。「それでは、あなたは再び旅立つのですね」
 ふと、紅凰は胸に赤子を抱きかかえたまま顔を上げた。深い絶望の色だけを宿した瞳で、見えないはずのミレアの姿をじっと見上げる。「……どこに、行けばいいんですか」
 ほんの僅かな沈黙を置き、僅かに色を滲ませた声でミレアは答える。「今度こそ、『ここでないどこか』を目指せばよいのではありませんか? ……わたしが決めることではありませんが」
 そして、彼女が抱える宙に浮いた分厚い本がふと紅凰の隣にやってくる。床に置かれて動かなくなった本の代わりに、紅凰の周りに散らばった長い黒髪が掻き集められて一つに束ねられた。それに目もくれようとしない紅凰の腕の隣で、それは綺麗に整えられて再び動きを止める。
 「粗末にしない方がよいでしょう。売れば幾らかの旅銭にはなります」
 言葉と同時に、人為的な動きで床から分厚い本は飛び立った。その不可思議な状況にも、まるで紅凰は意識を向けない。ただ胸に抱いた産湯にも浸からないままの眠る赤子をゆっくりと揺らしながら、彼女はぽつりと呟いた。
 「……どこに行けばいいのか、わかりません。何をしたらいいのかもわからないんです」
 竜血樹にもう二度と逢えない世界に、何の意味があるのかわからない。虚ろな眼差しで彼女はそう呟いた。
 古い倉庫特有のひんやりとした空気は、何も纏わない紅凰の肌の表面から少しずつ体温を削り取っていた。けれど震えるでもなく、泣き出すでもなく、紅凰はそこにいた。彼女にとっては確かに、そこは世界の果てだった。
 その様子をじっと目に見えない目で眺めていたミレアは、静かな声で呟いた。
 「……アンティアーロ・アンティラーゼ」
 「もう、どこにも行きたくありません」
 どこを目指しても彼がいないことを突き付けられるだけなら、傷は深く抉れるだけ。絶望に傷付くのが怖かったし、哀しみを癒すことも自分で許せなかった。どうすればいいのか、全く見当もつかなかった。
 けれどその瞬間、ふと紅凰はミレアの言葉と重なるように脳裏に響いたその言葉の本当の意味に顔を上げる。微かに動いた本は、ミレアが紅凰に目を向けたことを示しているのだろう。
 静かな、けれどいたわるような色の滲んだ声で、ミレアはあの文言を繰り返した。「『あなたの旅は、終わってはいません』」
 ぼんやりと本の向こう側に広がる空間を紅凰は見上げた。ミレアの声音は、彼女がかつて本当に人間だったのかもしれない、と思えるような匂いを感じさせた。「今でこそ慣用化されていますが、元々は昔、絶望の最中にあった若者に瀕死の師が言い残した言葉です。若者は旅を続け、やがてこの大陸を救いました」
 「……わたしがもっと苦しめば、何かが救われるのですか?」
 あらゆる感情をなくしてしまったような紅凰の声が、棚の間にひんやりと響いた。表情の作り方も忘れてしまった彼女の方が、投げ出された人形のように無機質に座り込んでいた。このまま他の忘れ物と並んで棚の中に陳列されていても、多分さほど違和感を覚えさせないような姿だった。
 肺腑も持たないはずなのに、深々と息を吐いてミレアは語る。「救われるかもしれませんし、傷付くかもしれません。木の葉の間を吹く風が、蛹を地に落とすか蝶を空へ舞い上がらせるかなど、誰にもわかりません。けれど風が吹くのと同じように、人もまた生きている限り旅を続けなければなりません」
 紅凰の虚ろに澄み切った眼差しに、ミレアは淡々と続けた。「……生きると言うことは、終わりのない旅と同じだからです。かつての若者が師の旅を受け継ぎ、やがて若者の旅をその弟子が引き継ぎ、更にその弟子の旅を別の誰かが引き受けて、今のこの世界は存在します。あなたも誰かから預かったはずの旅があるはずです。それを次の誰かに引き渡すまで、あなたは旅を終えてはいけないのです。あなたの旅は、あなたの過去にいた無数の人々と、あなたの未来にいる無限の人々の旅なのです――あなた一人がそれを捨てることは、決して許されないのですよ」
 ぼんやりと紅凰は透明なミレアの姿を見詰める。砂の女にもまた、同じことを教えたのだろうか、とそんなことを何とはなしに思う。
 「ここはあなたの旅の終わりではありません――あなたが愛した全ての人と、あなたを愛した全ての人の旅を、あなたは引き受けているのです」
 ふと、もう朧気にしか覚えていない両親の面影が目の前を掠めた。父と母と、兄と呼んだ青年と、それから故郷にいた数限りない人々の姿が陽炎のように冷たい空気の中に浮かんだ。
 もう、世界のどこにもいないはずの人々。もう二度と逢えない、かつての自分と共に死んだ人々。
 「……わたしには、重いです」ぽつりと溜息のような言葉を洩らした瞬間だった。
 火が着いたように、前触れもなく赤子が泣き出した。
 はっと意識を引き戻された紅凰は、慌てて腕の中の赤子を抱え直して小さく揺らす。うろたえた眼差しを彷徨わせ、縋るように紅凰はミレアへと目を向けた。けれど彼女は、何も言葉を紡ごうとはしなかった。
 がらんとした空洞の多い部屋の中で、赤子の泣き声は反響して揺らぎながら響いた。一頻りうろたえた後、怯えたように母親はその子を胸に抱き込んで首を振る。
 「その子に、まだ旅は早過ぎます。今はまだ、あなたが抱いていかなければならないでしょう」女性らしい柔らかさをふと滲ませ、ミレアの本が紅凰の脇を通り過ぎた。「――いらっしゃい、産湯につかわせてあげましょう」
 呆然と目を見開いた紅凰は、ようやく言葉の意味を悟って頷いた。「は、はい。ありがとう、ございます」
 ミレアの姿を追い掛けて振り向くと、そこにはあの扉が待ち構えていたかのように佇んでいた。軋む音を立てて開いた扉の脇で、ミレアは静かに促す。
 「――無限の草原で生まれたのは、その子が初めてです。もしかしたらその子は、普通の人よりももっと沢山の人々の旅を受け継ぐのかもしれません」
 ふと紅凰は、自分の胸に抱いた赤子に目を落とした。真っ赤な顔で泣きじゃくる子は、けれど彼の――父に当たる男の面影を誰よりも強く受け継いでいる。旅の半ばで切り取られてしまった彼の命を、この子が続けてくれるのだろうか、とぼんやりと彼女は思う。それはきっととても惨いことだと思ったが、それでもそう信じたかった。
 それだけがたった一つの救いのように、思えた。
 耳鳴りのする頭に響いて、子供の泣き声が何倍の大きさにも聞こえた。ふら付く足で身体を支え、何とかナイフと髪束を拾い上げると、紅凰は小さな擦れた声で呟いた。
 「……今は、まだ何もわかりません」
 扉の脇に立つミレアは、何も言わなかった。子供の泣き顔を覗き込んだまま、紅凰はぼんやりとからからに乾いた声で続けた。「ロンがいないのが悲しいです。彼にもう逢えないのが哀しいです。全部捨ててしまいたいです。旅なんか投げ捨ててしまいたいです」
 それでも、小さな身体を反らせて泣き喚く子供を愛しそうに抱き締めて、母になったばかりの女は言った。「――でも、ロンと逢えたことは幸せです。ロンはわたしの幸せです。その続きにこの子がいて、この子の先にも幸せがあるのなら――」
 ミレアの本は、頷くように揺れた。
 「あなたは、その幸せを繋ぐ旅の途中にあるのです」
 ああ、と紅凰は確信のように思う。
 もうきっと自分には、あの幸せは二度と訪れることはないだろうけれど。
 それでも、幸せだったという事実は、決して消えないのだ、と。
 (……『アンティアーロ・アンティラーゼ』)
 ――あなたとの幸せを手に入れる為の道程は、もう絶えた。
 これからは、あなたとわたしが誰よりも幸せであったという証に。
 あなたとわたしの間に生まれたこの子が、限りない祝福を享けて生まれたのだという証に――
 わたしは旅を続けよう。
 ――全身を引き摺るように、這いずるように、紅凰はミレアの押さえる扉へと足を運ぶ。その胸で、赤子は信じられないほどの泣き声を響かせる。冷えた倉庫の、もうずっと長い間動くことのない澱んだ空気が隅々まで小さく揺れる。
 そして紅凰と赤子を飲み込んだ扉は、ふと軋む音を立てて閉ざされた。ばたん、という重い音と同時に、重い静寂が天井から降りた。
 『忘れ物預かり所』の扉は、そして重い沈黙の帳を下ろした。


 遠く銃声の聞こえる廊下に、軍靴とは明らかに異質の硬質な足音が響いた。
 異常な緊張感に包まれたソウル基地の内部で、そこだけ妙に清涼な雰囲気が漂う。だが、血生臭い空気が立ち込める中で、その清浄さはむしろひどく異質なものだった。
 空調管理の麻痺した真夏の屋内にも関わらず、丈の長く黒い上着の裾は軽く翻る。目深に被った黒い帽子の下、形よく尖った細い顎と真紅の唇がひどく鮮やかなコントラストを描く。肩口から胸元へ零れ落ちて緩く束ねられた長い髪は、光を含んだ柔らかい銀の色。
 爪先の向こうでふと響いた重い銃声に顔を上げ、彼はふと微笑んだ。初めの一発の後に軽い銃声が何発か続くのを聞き、彼はほんの僅か足を速めた。
 ――ソウル基地を混乱に導いたそもそもの原因である全秀漢元陸軍大佐は、既に遥か前に基地を脱出している。しかし彼の追討部隊への足止めとして、また現場での人気が高い責任者を外したことに対する政府への不満の裏返しとして、彼に直接従っていた若手兵士の一部が基地の内部で武器を握ったのであった。
 全の処分が政府決定である以上、この暴動は無論謀叛に当たる。直ちにこれは中央政府に連絡され、鎮圧許可が下りた。思いの外に鎮圧に手間取った追討部隊の司令官は近隣の駐屯基地に援軍を要請し、一方の全秀漢派もまた彼の影響の強かった地域の部隊に暫時連絡を入れていった為、軍部の亀裂は時間を追うに連れて全国へと広がっていった。そして全韓共和国南部において軍事上最大の要地であるソウル陸軍基地は、今や内部で分裂した軍部が互いに殺し合う前線そのものに変わり果てていた。
 市民への被害拡大を防ぐ為、同時に外部からの武力を抑える為、基地は全派の青年将校らによって内部から封鎖されている。だがそれは逆に言えば外へと逃げることをも封じ込んでいることになり――いずれかが全滅するまで、或いは降伏するまで、抗争が鎮まることがないということを示していた。
 そして現在も追討部隊の兵士等は、思いの外に苦戦を強いられていた。廊下のあちこちにある椅子や事務机を積み上げただけのバリケードを前に、姿も見えないままにじりじりとした睨み合いが続いていた。
 蜂起したのは、この基地の規模からすればごく一部に過ぎない全秀漢直属の兵士のみだったはずだった。だが元々現場での戦闘経験が多い彼等は、確実に敵対する兵力を削っていった。その技術と兵力を前に、元々政府に対してそれほど忠誠心の強くない徴兵されたての予備兵が投降した。また騒動の中で政府への疑問を抱いた若手の志願兵も寝返った。もとより誰も易々と鎮圧できるなどと考えてはいなかったが、これ以上戦闘が長期化すると全滅の恐れも無視できなくなってくる。早く反乱派の主戦力を削ぎ、基地を開放して援軍を迎え入れなければならない。司令部はそう苛立っていた。
 しかし――。
 『まだH区が落ちないのか、女性兵一人だという話じゃなかったのか』無線機から響く上官の叱責に肩を竦め、兵士達は廊下の壁に背を当てたまま、廊下の先にそびえる簡素な砦を見遣った。事務具を積み上げてスチール棚の鉄板で補強しただけのバリケードは、確かに見た目は子供が遊びで作るものに酷似している。だがそこの隙間から時折覗く銃口は、既に彼等に十分な恐怖心を植え付けていた。
 銃撃の間に垣間見える姿や、こちらへと撃ち込まれる銃弾の間隔から察すれば、バリケードの向こうにいるのは確かに一人だけのはずだった。そしてその人物を追い込んだ部隊の兵士は皆、その敵兵が女性であることも知っていた。女だからと特に侮った訳でもないが、十人を越える編成で挑んでいるのである、幾ら相手が歴戦に慣れた兵士でもすぐに鎮圧できるはずだった。
 しかしその編成は既に、別部隊と組み直さなければならないほどに数を減らしていた。バリケードが穴だらけになるほど射撃しているにも関わらず、それを全て遮った彼女は、不意に一瞬の隙を突いて銃口を閃かせると確実に彼女の敵を仕留めていくのである。火薬庫に近い要所である為に迂闊に手榴弾を使う訳にもいかず、突破口も見付からないままに彼等はその場に立ち尽くしていた。
 痛いほど張り詰めた空気の中、その声は余りにも唐突だった。
 「あのー、ちょっと失礼しますが」
 さほど大きな声でもなかったが、剃刀の刃のような緊張の中では信じられないほどよく響いた。声の主に最も近いところにいた兵士は、構えていた銃を取り落とすほどにびくりと身を強張らせる。
 バリケードの中の敵を警戒して動けないのか、或いは突然の部外者の乱入に身が竦んだのか、誰も答える者は誰もいない。けれど視線は一瞬宙を彷徨い、おずおずと声の方に向けられた。リノリウムの淡い色の床に影を落とすほど、全身を黒一色で固めた男がそこに佇んでいた。薄手のやはり黒い手袋に覆われた手には何も得物はない。
 ――どう考えても、関係者ではあり得なかった。
 どこから入ってきたのだろう、ともっともな疑問を抱かせるに十分な時間を置いて、男はふと帽子のつばを押し上げた。その瞬間、淡い碧眼が閃くように微笑んだ。
 「僕の奥さんに、何してるんですか?」
 そして次の瞬間、蒸し暑い緊張の中に冷たく鈍い音が響いた。硬く脆いものが砕ける音から一瞬遅れて、大型の機関銃が落ちてリノリウムの床で重い音を立てた。
 思わず銃口を向けて後退る兵士達を前に、男は僅かに眉根を寄せて小首を傾げて見せた。その片手には捩じ折られた首筋を握られた兵士が、だらりとぶら下げられている。血泡を吐いて白目を剥いた死体に一瞥もくれないまま、男はそれを脇に放り投げる。濡れた土嚢を投げるような湿った嫌な音がした。
 戦場でも滅多にないほど異様な光景に、取り乱した兵士の一人が構えた拳銃の金具をかちりと鳴らす。それが彼の命取りになった。
 次の瞬間、彼は目標物を見失ってしまったのだった。うろたえ視線を彷徨わせようとしたときには既に、背後から咽喉元に細い手袋の指が掛かっていた。
 不意に続け様の銃声と、跳弾の音。しかし狙いを定め切れなかった銃弾は廊下に黒い痕跡だけを残し、ごく至近距離からそれを打ち込んだ兵士は、項と額に一双の掌を掛けられた。勢いよく反らされた首はよく響く音を立てて折れ、骨の飛び出した咽喉元から鮮血が散った。
 あっと言う間に足元に骸を並べた男は、少しだけ顔の脇に落ちた髪を耳の上に掻き揚げながらおっとりとした口を開く。「皆さん揃ってたった一人の女性追い詰めるのは、些かフェアではありませんよね。か弱い人妻を相手に、何をするおつもりだったのですか?」
 そして、もう三人しか残っていない兵士達にちらりと涼しげな視線を向けた。蛇に射竦められた蛙のように、身動きが取れない彼等の一人の腰で、ふと無線機が耳障りなノイズ雑じりの音を立てた。
 『H区部隊、どうした何か報告しろ。異常があったのか――』
 「……異常、ねえ」
 ――無線機のスイッチを手探りで探し出し、男はそれを無下に切る。目を見開いたまま事切れた通信係の脇にしゃがみ込んだまま、残った兵士を振り仰いで男はうそ寒い笑みを浮かべる。つい一瞬前に通信係の咽喉笛を握り潰した指先が、今度は彼等に向けられる番だった。
 刹那、残った兵士の片方が戦慄く声を張り上げた。大きく見開いた目をどこかに彷徨わせ、軍帽が落ちるのも構わずに頭を掌で押さえ、丸く開いたまま強張った口から言葉にならない叫びを垂れ流す。膝を床にがくんと突けた瞬間、肩から下げたままの大型拳銃ががしゃんと重く鋭い音を立てた。
 黒い男はそちらに視線を向けると、小さく舌を打った。そして同時にとんと爪先で床を踏み切ると、一足で乱心した兵士の前に詰め寄る。
 ふと背を反らせた途端、黒い帽子が弾けるように落ちた。その下から溢れるように落ちた長い銀の束ね髪が、獣の尾のように細い背中で大きくはねた。ふと兵士の上げていた恐怖の叫びが音を消す。彼の表情を、銀の髪と黒の背中が一瞬だけ隠した。
 呆然と立ち尽くすもう一人の兵士の目前で、銀髪の男は一度大きく身を捩った。その瞬間、咽喉元から血を噴き上げながらゆっくりと壁に向かって斃れ込む同僚の、凍り付いた表情が目に入った。そして同じ視野の中に、口元を鮮血で染め上げて何か肉片のようなものをくわえた男の、ぞっとするほど冷たい横顔が映る。
 重さのある塊が床に落ちる鈍い音と、男が吐き出した兵士の咽喉笛が落ちる湿った音が同時に廊下に響いた。乱れた銀の髪に頓着する様子を見せず、男は無造作に手袋で口元を拭う。だが、顎から滴るほどの鮮血は彼の頬まで擦れた跡を伸ばしただけだった。
 野生の獣にひどくよく似た端正さで、男はふと最後に残った兵士を見た。膝頭がぶつかるほど全身が震えていたが、彼は彼自身意外なほどしっかりした声で言った。
 「……お前は、何者だ」
 男はふと、ひどく嬉しそうに口元を綻ばせる。目元を彩る長い睫毛まで、鮮血が飛んでいるのが見分けられるほど淡い色をしているのがよく見えた。「そこにいる女性の、夫です」
 なぜか男は、その質問に妙に気をよくしたようだった。空気の雰囲気を変えるほどに、彼の全身に漲っていた緊張が解けるのがわかった。
 「奥さんを助けに来たのですよ。もしかしたらこんなことになってるんじゃないかと思いまして」
 男の回答は、兵士の疑問を何一つ解決しなかった。だが、もしも彼が助かろうとするつもりなら、ここから切り込むしかないということだけはよくわかった。
 「それだけ大切なら、家の中に入れて守ってやればいいだろう。今からでも遅くない、そうしたらどうだ」
 魂胆を読まれないように押さえた声で兵士は言う。すると男は軽く小首を傾げて見せた。血塗れの、あれだけのことをやってみせる獰猛な人物だとわかっているのに、妙な可憐さを感じさせる仕草だった。
 「僕も本当はそうしたいところなんですけどね、奥さんがやりたいと言うものですから。まあ、それも男の甲斐性ですよ」
 まるで妻のパートタイム就労を許可するような口振りで言うが、兵士はぞっと総毛立つのを感じた。だが、それを気取られないようにさり気なく言葉を選ぶ。
 「――だが、彼女は謀叛に加担した。それは即刻処分の対象になる行為だ。今の内に連れて帰っておかなくていいのか」
 その背中で、音を立てないように注意深く小銃の安全装置を外した。
 「謀叛」男はまた、おかしそうに笑う。
 兵士はふと瞬く。「何がおかしい」
 「言葉の選択が不適です。大丈夫、彼女は処分なんてされませんよ」
 訳がわからない言葉だったが、それは敢えて無視することにした。指先だけに神経を集中させ、早撃ちに備えて構えを取ろうとする。
 すると男は、きょとんと首を傾げて瞬いた。「……おや、もしかして知らないのですか? 言葉は正しく知っておいた方がよいのですよ」
 慇懃に聞こえるほど丁寧な言葉を使う男が言うと、それはほとんど嫌味でしかなかった。だが言わせておけばよい、と僅かに引き攣った顔で兵士は男を眺める。とにかくこの至近距離であれば、どう撃っても当たるはずだ。一発でも当てて動きを封じれば何とかなる。
 血塗れの顔で晴れやかに微笑み、男はほとんど歌うように言った。
 「知らないのなら教えてあげましょう」
 兵士は身構える。これならばいける、と思った。
 「――これを、『革命』と言うのですよ」
 廊下に炸裂音が響いた。


 「どうもありがとうございます」
 硝煙と血の臭いが立ち込める中で、彼は白い手を伸ばした。
 血をたっぷりと吸い込んだ黒い手袋は、無造作に足元に投げ捨ててある。そのすぐ脇に、正確に眉間を撃ち抜かれた兵士の頭が転がっていた。
 「――さて僕の大事な奥さん、もうお気は済みましたか?」
 バリケードを装甲していた弾痕だらけの鉄板を力任せに引き剥がすと、その向こうに立つ人物の姿がようやく露わになった。椅子や机の脚越しに、黒髪の掛かる白い顔がこちらを見詰めていた。
 その右の頬に、くっきりと古い引き攣れた傷が走っているのが薄闇の中でもよく見える。その傷跡に彼が血を拭った白い指先を伸ばすと、射撃用の厚い皮のグローブをはめたままの手が柔らかく被せられた。床に銃を下ろす金具の音が小さく響いた。
 ふと、鈴を鳴らすようなか細い声が漏れた。「……エバは」
 小さく頷くと、彼はもう片方の腕もバリケードの向こう側に突っ込んで、彼女の黒髪に添えた。「ええ、順調ですよ。ちゃんとお家で待ってます――復讐が終わるのも、時間の問題になりました。さあ、早く帰りましょう」
 そして手を解いた彼は、高く構えられた椅子を幾つか積み下ろし、人が一人抜けられるほどの隙間を作り出す。それから向こう側に身を乗り出してもう一度両腕を伸ばすと、そこにいる女性兵の両脇に手を掛けた。ほとんど抵抗もせず、彼女はバリケードから這い出すようにして彼に抱き寄せられた。
 彼女の細い身体を引き上げると、彼は胸元に抱き込むように引き寄せた。そして黒髪のさらさらした感触を確かめるように頬を当てると、そのまま彼女を軽々と抱え上げた。
 「我侭はこれきりにして下さいね。ダワ、もう離しませんよ」
 彼の首筋に顔を埋め、彼女は小さく頷いた。
 それを合図にしたように、彼は黒い上着の裾を裁くと、音の絶えた廊下に堅い足音を響かせて引き上げていった。
 後には、累々と並ぶ屍の群れだけが、冷たい血の海と共に残されるだけだった。


 津波の音のように、群衆のシュプレヒコールは静まることなく響き続けていた。眩暈がするほどの熱気の中、群衆の端からやっとの思いで抜け出したデイビーは、官邸の裏手に回り込むと崩れた塀に足を掛けた。もはや躊躇っている時間など、どこにもなかった。
 炎の脇を掻い潜り、手当たり次第に彼は焼き散らされた庭園を駆け回る。見覚えのあるところを探そうと思ったが、焼き崩れ倒壊した部分も多く、それを避けていると思いの他に時間を食った。
 『青屋根御殿』の別称の由来になった灰青の艶やかな屋根瓦は地面に崩れ落ちて粉々に砕け、煤に塗れて真っ黒に変色している。それを踏み分け、彼は人の姿を探した。
 ふと、木材が燃えるときに独特の粉っぽい白煙に混じり、一際異臭を放つ黒煙が屋内から漏れ出しているのに気付く。それがガソリンの臭いだと気付き、デイビーは顔をしかめた。多分に人為的な火災だと言う、そのことが何かひどく嫌な気分を起こさせた。
 鼓膜が裂けるのではないかと思えるほど凄まじいあの歓声が、炎の中だとまるで嘘のように聞き分けられなくなっていた。ごうごうと至近距離で燃え上がる炎や、燻り絶え間なく崩れ続ける木材のぶつかり合う音が、水浸しの外界からこの空間を焼き切ってしまっているように思えた。灼熱の風が渦巻く中で、吹き煽られた煙が視界を遮り、息を塞ぐ。
 その煙が途切れた一瞬、目の前に広がる空間の向こう側に小さな人影を見付ける。思わずぱっと表情を明るくしながら、彼はばたばたと足を速めた。纏わりつく煙を腕で払い、その華奢な姿を確かめようと目を凝らす。
 その瞬間、彼は目を疑った。足がすっかり重くなり果てていることも忘れ、思わず全力を絞って彼は駆ける。
 そこにいたのは、さっきまであの群衆の前に降臨し、この国の命運をも握ろうとしていた――ぼろぼろに破れた黒い薄手のワンピース姿の、長い黒髪を振り乱した小柄な少女だった。煙のフィルターを挟んだ遠目でも一目でわかるほどにあちこちに傷を負った彼女は、焼けた地面にへたり込んで、じっと燃える炎を見詰めていた。
 そしてその白い腕は掲げられ、その先に握った拳銃を自分の米神に押し当てていたのである。
 彼女がこちらに気付くよりも早く駆け寄ったデイビーは、後ろ側から彼女の腕を引っ掴んだ。はっと振り向いた彼女は、死に物狂いで抵抗する。
 「離して!」
 こちらを向き直り驚愕した彼女の顔は、紛れもなくあのレディー・ベルのものだった。振り払おうともがく彼女の細い両腕を頭の上に捩じ上げて、デイビーは必死に首を振る。
 だが彼女もまた必死だった。煤塗れの頬に太い涙の筋を流しながら、懸命に叫ぶ。「離して! お願い離してよ! 死なせて、あたし死ななきゃいけないの!」
 何度も何度も壊れたように首を振り、デイビーは彼女の腫れた掌から黒く重い拳銃をもぎ取ろうとする。その瞬間、ベルは戦慄く声を張り上げた。「駄目なの、あたし死ななきゃ駄目なの! あいつに謝りに行かなきゃいけないの!」
 その瞬間、ぽかんとデイビーはベルの泣き濡れた顔をじっと見詰めた。漆黒の眼差しでライトブラウンの目を見上げ、むせび泣きながら彼女は咽喉を絞る。
 「あいつを助けに来たのよ、あたし。こんな風に死なせる為に来た訳じゃないの。幸せになって欲しかったの。一緒にいられなくてもいいのよ、とにかく助けたかったの。なのに……」
 見ると、彼女の頭上に纏めて捩じ上げた両掌の、拳銃を握っていない左手の方は何かしっかりと細長い柔らかいものを握り締めているのがわかった。遠目で姿を見たときにはほとんど見分けられなかったが、炎の光を受けて金色に見えるそれは、どうやら人間の髪のようだった。その持ち主として思い当たるのは、デイビーの記憶の中にも一人しか該当しない。
 思わず彼は、掌に込めた力を緩めた。痛々しい傷で埋められた細い腕を、自分の馬鹿力で締め上げていたことにようやく気付き、いたわるようにその変色した肌を撫でる。よほど痛かっただろうに、彼女は両腕に握ったものを決して手放そうとしなかった。
 その瞬間に再びベルは渾身の力でもがいたが、元より非力な彼女の消耗し尽くした体力では、それほどの抵抗にはならなかった。
 嗚咽を洩らして泣きじゃくりながら、彼女は弱々しく呟く。「あいつがいなきゃ意味がないの。この国も、この世界も、あいつがいなきゃいらないの。あんたも双子も先生もいらない。平和とかもいらない。何にもいらない。あたしだって必要ない。全部いらない――だから死なせてよ」
 彼女の顔をじっと覗き込み、デイビーは険しい顔で首を振る。その目をじっと至近で見詰めながら、泥に塗れて乾いた唇でベルは言う。「あいつがいないのに、どうしてそんなものばかり残ってるの。全部いらないの。なくなっちゃえばいいのよ。あんたなんかいなくなっちゃえばいいの。あんたなんか見たくない。あたしはあいつに会いたいの――だから離してよ。あたしなんか構ってないで、どこにでも適当に行っちゃって。勝手にどこかに消えてよ」
 構うな、というくせに、懸命に英語を綴る唇があどけなかった。濡れそぼって固まった睫毛が細かく震えるのが幼かった。額から頬に走る一本の傷の周りが引き攣れて、泣き濡れた表情を引き攣らせているのが堪らなく痛々しくて、愛しかった。
 不意にくしゅ、と顔を歪め、ベルは詰るように声を荒げる。「……何で黙ってるの。これだけ言われて、何で何も言い返さないの? 悔しいでしょ、あたしなんか面倒で邪魔臭いだけでしょ?」
 ああ、とデイビーは目を細める。いつでも彼女はこうだ。どれだけ強がってどれだけ無関心を装っても、相手が何を思っているのか必死に探ろうとしている。自分が知らないと言うことを、そしてそこから出る犠牲をいつも何よりも恐れている。無知によって自分が誰かを傷つけてしまうのではないかと、怯えながら強がって冷酷なふりをする。
 ねえ、とベルは小さな声を上げた。「何か言ってよ。馬鹿にされて悔しいんでしょ。これだけしてもいらないなんて言われて、腹立つんでしょ。ねえ、何か言い返してよ」
 (あれ)
 デイビーは目を細めたまま、少しだけ口元を緩めた。そして、拳銃を握り締めた手だけは押さえたまま、もう片方の腕を外して彼女の頬に軽く当てる。濡れた顔がびくりと強張るのを掌で感じながら、僅かに微笑む。(俺に喋るなって言ったの、忘れた?)
 けれど不意に彼は、誰も聞きとがめる人間など周りにいないことに気付いた。焼けた空気の中、湿ったベルの肌が掌に心地よかった。
 (ああでも、だったら、構わないか――レディー)
 デイビーは随分久しく口を利いた。久方ぶりに言葉を発音する咽喉は少し引き攣ったようだったが、言葉そのものは震えることもなく、明瞭な輪郭を伴った。
 「レディー・ベルにとって、俺は必要な奴だから、傍にいるよ」
 驚いたように目を見開き、ベルは呆然とその顔を見詰める。そしてしばらく唇を震わせた後、擦れた声で彼女は言う。「あたしは、あんたなんかいらない。何もいらない。あいつに会えるの以外、何も意味がない」
 「レディーが必要ないと思っても、レディーの人生にとって、俺は必要な人間だ。だから、どれだけ嫌われても離れたりなんかしない」
 ひび割れた地面に水を注ぐように、デイビーはゆっくりとベルの目に向かって言い聞かせる。その瞬間、激情の色を目に浮かべ、ベルは癇癪を起こしたように首を振る。「あたしはここで死ぬの! あたしの人生はここで終わるの、だからあんたはどこかに行くのよ」
 ふと、かつて『W.D.』で無敗を誇ったベル・グロリアスの経歴にたった一つの黒い星を残したときの、あの討論を思い出した。あのときの彼女もこんな風に余裕をなくし、滲むほど濡れた見開かれた目でデイビーのことを睨んでいた。だから彼は既に、今度もまた彼女が自分に最後には押し切られることを確信していた。彼女はこれでは、決して自分には勝てない――決して、死ぬことなど出来ないと。
 目の前にいるのは、決して無敗の女神ではない。自分に押し切られ、打ち負かされてしまう、非力なただの少女だ。どれほど虚勢を張って女王を演じようとも、こんな風に楽屋に下りれば、自分の腕に収まるほど小さな未成年の女の子に過ぎない。
 「――でも、レディーは今、生きてるだろ」
 デイビーはふと、ベルの拳銃を押さえていた方の手も離した。それにも気付かない様子で、彼女は齧り付くように言う。「だから死ぬのよ」
 彼女の頬にそっと指を走らせ、顔にこびり付いた泥を払いながら、彼は静かに言った。「俺を置いて?」
 びくりと彼女は身体を強張らせた。その表情が歪むのを指先でも感じながら、デイビーはふと自分がひどくアンフェアなことをしているような気分になる。けれど、とそれを何とか彼は振り切った。「……俺を、こんなところに残して?」
 「だから、どこかに行けって言ってるじゃない」
 小さく震える声で呟き、ベルは頭を振った。頬を拭うデイビーの指を払い除け、しゃくり上げながら彼女は言葉を接ぐ。「帰るところがあるじゃないの、あんた。あたしなんかに構ってないで、さっさとアメリカ帰ればいいじゃない」
 手を払われたデイビーは、それでも再びベルの頬を両手で包み込む。彼女が目を背けたりしないよう、添えた掌でベルの顔を少し仰向かせる。
 「レディーは生きなきゃいけない。俺がレディーにとって必要なように、レディーが俺には必要だ。だからレディー・ベルは俺と一緒に帰るんだ」
 再び目に涙をいっぱいに溜めて、ベルは唇を戦慄かせる。そして震える声で溜息を吐くように言った。「勝手に決めないで」
 「俺が決めたんじゃないよ」
 ――何もかもなくして、惨めに踏み躙られて、こんなにぼろぼろになって。
 それでも彼女は、これからも生きていかなければならない。多分もっと長い間、もっと険しい道を、歩いていかなければならない。躓きながら、転んで泣いて自分で傷を舐めながら、それでも一人で行くことはきっと出来るだろう。
 けれど道を誤らないように、険しい道で諦めないように、隣で支える人はきっと必要で。こんな風に立ち上がれないとき、肩を支えて抱き上げて一緒に進んでいくべき人は必ず必要で。
 そしてきっとそれは自分の役割だ。どの道を歩む義務も持たない、自由な自分の役割だ。
 デイビーは不意に、口角を上げてにんまりと笑って見せた。僅かに瞠る黒い目に、明るい声で彼は告げる。
 「きっと、そうなる運命に決まってたんだ」
 あのとき――かつて彼女を討論で打ち負かしたとき、ひどい後口の悪さを感じた。彼女の弱みに付け込んで、無防備な彼女を無理矢理捻じ伏せた嫌悪感がいつまでもわだかまっていた。いつものような勝利の爽快感など、どこにも感じることは出来なかった。
 今再び、あのときと同じ弱みを突いて、彼女を多分傷付けた。けれど今回は、そんな後悔の念は感じないままで済んだ。それが自分でも少し意外で、けれど少し嬉しかった。
 ――ベルは、デイビーの掌の中で見る見る表情を歪めると、崩れるように彼の方に顔を伏せて来た。抱き止める腕を払いもせず、雨水と汗に濡れたシャツの胸元に顔を埋め、爪の間に煤と黒く変色した血が入り込んだぼろぼろの指先で服の布地を握り潰し、彼女はそのまま声を上げて泣き始めた。
 多分、言いたい言葉は言い尽くせないほどにあるだろうに、そのどれも言葉になってはいなかった。ただ、啜り上げながら断続的に洩れる呻き声のような嗚咽だけが炎の天蓋の下に小さく響いた。長い黒髪の貼り付いた小さな背中を撫でるたび、その声は一層大きく響く。
 抱え込むと腕の中にすっぽりと収まってしまう華奢で小さな身体は、泣きじゃくり興奮しているのに、思いの他にひんやりとしていた。炎から吐き出される熱風の間では、その感触は心地よかった。
 ふとデイビーは、雨雲までも焼き尽くさんばかりに燃え上がる巨大な炎の塊を見上げた。いつしか止んでいた雨に代わり、白く燃える炎の雨が音もなく天から降り注ぐ。この国の権威の象徴を焼き尽くし、それに飽き足らずまだ尚何かを絡め取ろうと赤い舌を伸ばす炎は、馬鹿みたいに巨大な力を持て余した化物のように思えた。
燃え盛る炎と比べると、人の温もりが余りにも儚いということを、多分彼は初めて知った。それでも、凍えそうなほど寒い雪の日に肌の温もりが恋しくて堪らないように、こんな灼熱の空気の中ではひんやりとした人の体温が堪らなく愛しい。
 何度も何度も抱き締めたはずなのに、彼女の体温をこんな風に感じるのは初めてだった。それは多分、今までずっと彼女が自分の温もりを押し殺し、誰も踏み込ませまいと心に高い砦を築いてしまっていたからだろう――震えながら涙を流すベルの余りにも無防備で幼い姿に目を落とし、その背中を何度も何度も擦りながらデイビーはそう思う。
 (――やっと終わった)
 きっと彼女がこの国を捨てたときから始まっていただろう長い長い旅が、ようやく終わった気がした。
 それは、きっと彼自身の旅の終わりでもあるのだと、ぼんやりと思った。


 ――平壌、現代テレビ放送局。
 「……本当に、間違いはないんだな」
 プロデューサーとしてここまで一連の報道を率いてきていた李は、彼にしては珍しく慎重そうな調子で念を押した。数名のADが無数の紙束を前に、大声を張り上げて確認する。「はい、ファックスだけでなく、メールと電話とで既に確認済みです」
 「うちは東海岸には拠点が少ない。だからと言って間違いでしたではすまされないが、本当に大丈夫だな」再度李は念を押す。
 外への取材から帰って以降、濡れた髪にタオルを被せたままのADの朴が急かすように早口に言う。「大丈夫です。それにこれは、絶対に伝えなきゃいけないはずです」
報道に携わる者の使命感に突き動かされ、スタジオの中に集まったスタッフは皆高揚した意気を持て余していた。李の決断が思いの外に遅いので、誰もがじりじりとしながら彼の指示を待っている。この瞬間、ここにいるということを誰もが誇りに思っていた。
 あの血糊がぶちまけられたスタジオは、現在は鍵が掛けられて封鎖されている。だが、あの鮮血の生臭さ鮮やかさ、そして凄惨さはここにいる全ての人間の脳裏に焼き付いていた。悪夢のような光景で、凄絶で恐ろしい事件ではあったし、恐怖の余り戦線を降りた者も数人はいたが、ここに残る彼等の中には少なくともそれを嫌な体験だったと片付けてしまえる者はいなかった。
 ふと、李は口元の髭に手をやりながら、ゆっくりと命知らずな彼等を見渡した。「万に一つこれが誤報なら、俺達は全員首が飛ぶ。それどころか、真実を報道したとしても今後の流れ次第ではどうなるかわからない。お前達全員と、報道を見る人間全員の命運が掛かった決断だ。それを俺が下しても構わないんだな」
 一瞬の躊躇いの後、声は揃った。「はい」
 それがこの昂揚感に逸った若さの暴走だとしても、李に止めるすべはない。もう一度だけ彼は口を開きかけたが、口ごもるように唇を動かすと、言葉を飲み込んだ。そして足元に一瞬だけ目を落とし、再びそれを上げた。
 彼の方に、スタッフ全員の視線が注がれた。
 「――全員、配置につけ」
 「はい」散弾銃の弾が飛び出すように、全員が各々の持ち場へ飛んだ。デスクの奥で背筋を伸ばし、その前に原稿を積み上げ、照明のコードを引き、マイクの音量をテストし、カメラの向きを動かし、管制室のデスクにつき、モニターをオンにして、機器のキューを動かし、設定を確認する。
 そしてその一番背後へ回り込んだ李は、もう一度声を張り上げる。「タイムキーパー、用意」
 「はい」小柄な女性がストップウォッチを握り、モニターに映る現在放送中の政府広報を見遣る。タイミングを図り、彼女は指を上に突き上げた。
 「いきなりいきます、十秒前」
 緊張感がスタジオ全体を膨張させたようだった。ざわめきが止み、機械の上げる僅かな唸りだけが低く響く。
 カウントダウンは三秒前で、指信号に変わった。油で黒く汚れた細い指が、一本ずつ折り曲げられて。
 最後の一本が振り下ろされた、一秒後。
 「臨時ニュースをお知らせします」
 女性アナウンサーは、カメラを見据えて言った。袖口にはまだ、僅かにあのときの血痕が染み付いたままだった。
 ほぼ同じ瞬間、全国のテレビが一斉にそのニュースを受信していた。
 『先程、国立平壌中央病院で、国家総督以下数名の大臣が死亡したとの情報が入りました。平壌を中心として相次いでいるデモとの関連はまだ不明ですが、これで我が国の体制はほぼ名実共に崩壊したものと見られます――また同じ頃、元山海軍基地の発表により、アメリカ海軍が半島に上陸したことが確認されました。彼等は、我が国の全権代表として、全秀漢元陸軍大佐を迎えた模様です』
 一瞬原稿に目を落とし、そして彼女は再び淡々と発言した。
 『人民の皆さん、時代が変わりました』




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