モドル | ススム | モクジ

第十五夜・上


『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、
 諸国の民はむなしいことを企てるのか。
 地上の王たちはこぞって立ち上がり、
 指導者たちは団結して、
 主とそのメシアに逆らう』

(使徒言行録 四章二十五節・二十六節より)



  第十五夜・上



 「うん、台風一過って感じだね」
 ヘリコプターのステップから飛び降りた李永山海軍中将は、晴れやかな笑顔で伸びをした。その隣に並んで飛び降りた秀漢は、ふと振り向くと腕を伸ばして大花を手伝う。よじ登るときはそれほど難しくなかったが、勢いをつけて飛び降りるには少し高過ぎる高さだったので、大花には案外ありがたかった。
 ヘリコプターから長く伸びる影の中から空を仰ぐと、既に西に傾いた太陽は確かにくっきりとした輪郭を中空に描いている。灰色の雲はまだ多いが、その縁は紫から茜色に染まり始めており、じきに訪れる夕暮れの色を柔らかく滲ませていた。
 海軍基地に相応しく、高台にあるこのヘリポートからも海がよく見えた。思っていたよりも波は高いが、恐らく普段は穏やかな入江なのだろうと何となく大花は思う。よく目を凝らすと遠くには砂浜もあるようなので、時期さえよければ海水浴も出来そうだなどと緊迫感のないことを彼女は考えていた。
 不意に秀漢の声がそんな夢想を現実に引き戻す。「……先方は、もう到着の様子だが?」
 彼の指の示す先に目を向けると、幾つもの物々しい巨大な戦艦が停泊する軍港の沖の方に、一際目立つ黒い戦艦のシルエットが浮かんで見えた。しかも一隻ではない。重なり合う影は少なくとも四隻以上で、そのいずれもに星条旗がはためいているのが遠目にも見えた。
 軍事には疎い大花でも、それらが主力艦クラスの大規模なものであることくらいはわかる。この港の中に停泊している軍艦もこの国にあるものの中では恐らく最大級なのだろうが、こうして見ると軍備の差は歴然としていた。向こうがその気になれば、この基地もあっと言う間に鎮圧されそうに思えた――何より、総司令官の人となりを垣間見ていれば尚更に。
 ふと秀漢を見上げると、彼は呆然としたような表情を浮かべたまま黙り込んでいた。その隣で、軍帽の庇を抑えながら李中将は明るく言う。「あれ、空母も混じってるや。やっこさん完璧にやる気だねー臨戦態勢じゃないか」
 「この状態でどうやって対談に持ち込むつもりだ」あくまで能天気な中将の襟首に掴み掛からんばかりの勢いで、秀漢は早口に捲くし立てた。「戦闘回避だの交渉だのとふやけたことを言っている場合ではないつもりのようだぞ先方は! 貴様状況をどう認識していた!」
 「向こうに聞く気がないんだったら、こっちから言いに行かなきゃねえ」いかにも面倒くさそうに溜息を吐き、半島内の海軍で最も強い権力を持つ男はひらひらと掌を振った。
 「と言う訳で、誰か適当な船用意してね。俺とこのお嬢さんとスハンくんとでちょっと行って来るからさ」
 な、と言葉を途切らせる秀漢に、李中将はあくまでのんびりと言ってのけた。「駄目だなあスハンくん、真面目なのはいいけどいつでも剣呑な方向に話を持って行くのは悪い癖だよ。すぐに戦闘っての、今時流行んないからね」
 その二人の間できょろきょろと状況を見回していた大花は、小さく手を上げて見せた。「取り敢えず、あんまり待たせても悪いしさ、ちゃちゃっと準備をして行ってみない? まさか向こうもいきなり沈めたりはしないでしょ」
 「……お前達は揃いも揃って……」
 心底頭痛がすると言うように、秀漢は額に手を当てて溜息を吐いた。


 「は?」
 アメリカ海軍太平洋艦隊第三艦隊機動部隊提督、カーター・フィリップス少将は見張りの報告に耳を疑った。若い頃のようにとは言わないが、五十を回ったばかりの歳で幻聴が聞こえるのはさすがに彼自身でも嫌だった。「……もう一度、ゆっくりと丁寧に報告したまえモリスン伍長。きみの言葉は訛りが酷すぎる」
 「ですから」兵卒上がりの若い兵士は、困惑を色濃く滲ませたまま早口に捲くし立てた。「あの基地の方から、一艘のカッターがこちらに向かっているんです。乗員は三名、一人は海軍の上級士官の制服を着用していて、一人は何故か陸軍士官の制服で、もう一人は盛装した一般女性らしいということなんです。彼等は白旗を揚げて、こちらを目指しています」
 何度聞いても、フィリップス少将にとってそれは冗談にしか聞こえなかった。海軍士官はともかく、何故陸軍の人間とドレスアップした貴婦人がこの船を目指す必要がある。更に、彼等が使用しているのがカッターボートと言う時点でふざけているとしか思えない。そもそも、あれだけやる気を滾らせた宣戦布告を一方的に送りつけたのはあの国のはずである、何故今更になってその国の人間が白旗を掲げてこの戦艦にやってくるのか皆目見当が付かない。降伏するつもりにしても、まだ常識的な方法がありそうなものである。
 若い伍長は困り果てたと言う顔で指令を待つ。「白旗を揚げていますし、第一彼等の基地の目前です、攻撃を加える訳にはいかないと思うのですが。かといって、民間人ならともかく相手は軍人ですし……こう言う場合、どうしたらよいのでしょう」
 少将は頭を抱えた。浮き足立った本国からの命令で組まれた急ごしらえの編成で、慌しくこんなところまで追い遣られてしまったのである。しかもそこは状況のわからないいきなりの最前線で、更に珍妙な突発事項ばかりが連発しているのだ。自分自身は臆病ではないとずっと自負していたのだが、その確信は既にすっかり揺らいでしまっていた。
 どちらかと言えば、フィリップス自身穏健派で鳴らした軍人である。彼が前哨で駆り出された時点で、本国の方針が出来得る限り戦闘回避を望むという方向で固まっているということは明らかだった。「コストのかかる戦争によってではなく、この事件を足掛かりにした交渉によって国交の正常化を求める」という本国総司令部からの指令も、概ねフィリップスは同意していた。
 だが、最も基本的な問題として、相手と話が通じるかという点で彼は頭を痛めていた。戦闘を回避するには、まず対話が不可欠である。しかしその対話が成り立つのか、仮にそれが実現したところで相互の理解が為し遂げられるのか、元々フィリップスは不安を感じていた。
 「……やはり、この国との対話は夢の夢なのか……?」理解しようと努力をしていない訳ではないが、いきなりこのカウンターは堪える。得体の知れない行動は、不信感を煽らずにはいなかった。
 頭を抱える少将を困惑気味に見下ろすモリスン伍長は、上官の呻き声が止むのを待って尋ねる。「……それで、カッターはどうしましょう?」
 「迎え入れない訳にはいかないだろう」頭を抱えたまま、フィリップス少将は首を振る。「その代わり、十分な警戒は怠るな。用件だけ聞いて、出来るようであれば拘束だ。トロイの木馬の逸話を忘れるな」
 「い、イエッサー」悄然とした上官の姿を心配そうに眺めながら、伍長は敬礼をして踵を返した。重い扉の音が軋む。
 幾ら打ち消そうとしても不安は残ったが、いつまでも落ち込んでいる訳にも行かず、少将は首を振り立ち上がった。


 「やっぱり手漕ぎボートは池で二人乗りするべき乗り物だわ」縄梯子で甲板によじ登った大花は、開口一番そんなことを呟いた。
 その後から上って来た秀漢は、沈鬱な口調で訂正する。「手漕ぎボートではない、カッターだ」
 「似たようなものだよねえ」更にその後を上って来た李中将は、ぽんぽんと大花と秀漢の肩を軽く叩いた。「ことに、スハンくんはさぞやいい眺めだったねえ」
 訳がわからないという表情を浮かべる二人に、にっこりと無邪気に笑って見せた李中将は、ふと大花の方に目をやる。白地に赤薔薇、秀漢のところに初めて侵入したときと同じドレスを着込んだ彼女は、きょとんとしたまま深々とスリットの入った足を捌き、それからはっと表情を変えた。
 ほとんど条件反射で秀漢の背中を力いっぱい叩くと、大花はついでに李中将までばんばんと叩きのめす。「やだーおじさんやめてよー!」
 少しだけよろけた秀漢は、憮然とした表情を顔中に浮かべて眉間の傷を引き攣らせると、おもむろに口を開いた。「……ところで、いつまでそこの人を待たせるつもりだ」
 彼が目を向ける方向を、つられるように大花と中将も見る。そこに、途方に暮れた面持ちをした水兵服姿の男が三人ほど立ち尽くしていた。何となくばつが悪かった二人は、愛想笑いのような表情を浮かべてひらひらと掌を振る。「ハーイ」
 思い切り白旗を振り回しながら敵艦に接近した彼等のカッターは、波の上で待たされる事もなく梯子が投げ掛けられ、乗艦を認められた。上官からの許可が下りてのことなのだろうが、それでも水兵達は困惑と躊躇の色を隠しきれない様子だった。無理もない、こんな連中を乗せたことがもしも自分の判断だったら、秀漢でも懊悩することだろう。こっそりと彼は同情の念を胸の奥で呟いた。
 見てはいけないものを見てしまったような、居た堪れなさそうな顔をする水兵達に向かい、ようやく大花は何事か語り始めた。流暢な英語を喋ってはいるが、何故か彼女を挟んで水兵達は驚いたような歓声を上げると、見る見る表情を緩ませて笑い声すら上げ始めた。突然敵艦にカッターボートで闖入した海軍将校と元陸軍士官と謎の女の三人組を一体どんな具合に説明したのかはわからないが、秀漢にはそれがどうしてもまともにことが進んでいる様子には思えなかった。
 一頻り談笑し終えると、水兵の一人が手招きをしながら踵を返した。くるりと振り向いた大花は、これ以上ないくらいに艶然と微笑むと二人に向かって手招きをする。
 「話付いたわよ、行きましょ」
 「……一体どういう話のつけ方をしたんだ」能天気に突き進もうとする李中将の肩を抑え、秀漢は険しい表情を浮かべる。片目を瞑って見せた大花は、真っ赤に塗った自分の唇に人差し指の先を当てて見せた。「知らない方がいいわよ。取り敢えず行きましょ」
 女一人ならばまだ何とでも誤魔化せようが、この大の男二人を引き連れて何と言い包めたのかは全く見当が付かなかった。だが、考えてばかりいても事態が好転する訳ではないのだと割り切り、秀漢はようやく足を運ぶ。ふと隣を見ると、何やら李はひらひらと掌を振っていた。その視線の先を辿ると、先程の内でも見張りを続行すると思しき水兵がやはり笑顔で掌を振っていた。
 一応身分上は自分より出世しているが、学生時代に李中将にかなりの恩を売った覚えのある秀漢は、相応の気安さで彼の頭に拳を入れた。そして頭を抱える彼を半ば引き摺るようにして、大花とその前を行く水兵の背中を追った。


 「と、言う訳で」大花はにっこりと笑う。「ちょっと不自由だけど我慢してね」
 もう何が起こっても驚かない覚悟を決めていた秀漢は、むっつりと押し黙ってその台詞を聞き流した。その隣でがちゃがちゃと賑やかな音を立てる李中将が果てしなく鬱陶しかったが、それすら無視して彼は黙り込む。
 「あ、おじさん怒った?」
 「スハンくんのむっつりは今日に始まったことじゃないさ」あくまで陽気な全韓共和国海軍中将は、自分の両腕を顔の前に掲げて何度も揺さぶった。そのがっしりとした両手首には、金属製の手錠がはまっている。隣の秀漢もまた同様の状況に置かれていたが、彼は大人しく椅子に腰掛けたまままんじりともしなかった。
 首を傾げながら手錠の鎖を鳴らす李中将は、感心したように言った。「知恵の輪みたいにはいかないねえ。これで俺達は身動きが取れないって訳だ」
 「……捕虜への扱いとしては、若干問題があると思うがな」秀漢はようやく重い口を開いた。その彼の肩を軽く叩きながら、唯一拘束を受けていない大花は明るく言う。「仕方ないじゃない、おじさん達二人とも強そうだし。対話がしたいんだったら、これっくらいのパフォーマンスは仕込まなきゃ」
 もう何度目になるかわからない重い溜息を落とし、秀漢は正面に横たわる巨大な楕円形のテーブルに目を落とした。色が白でなければ顔が映るのではないかと思うほど磨き上げられており、確かに対談の席としては相応しいものかもしれない。だが、その席に齧り付く為の手段は必ずしもそれに相応しい正当なものとは言えなかった。
 ――一言でいってしまえば、盛装したこの少女は全秀漢元陸軍大佐と李永山海軍中将をこの戦艦に引き渡したのである。正確を求めれば、売った――ように見せかけた、と言う表現の方が正しいかもしれない。大胆なことに、彼女は米国本国のスパイの振りをして何らかの工作活動を行った結果、軍部の上級将校を捕縛したということにしたのであった。
 どう考えてもその設定には無理がある。暗号も何一つ知らないし、これまでアメリカ艦隊や本国に連絡を入れた形跡もない。まともに考えたらそんなものは到底受け入れられるはずもないのだが、それを無理矢理押し通してしまう辺りが彼女の彼女たる所以なのかもしれない。更に言えば、この行動が少なくとも戦闘を行うつもりの全韓共和国側にとって益がないと言うことも、彼女の無茶を押し通してしまう原因の一つではあった。
 (……アメリカ側も、情報が混乱しているのは間違いないようだな)艦内の様子に耳を澄ませながら、秀漢は顔を険しくして考え込む。(確かに、対話に持ち込むのであればこれが一番近道ではあるだろうが)
 白旗を挙げた人間は原則として攻撃してはならない。それを踏まえた上で、彼等は敢えて軍服のまま乗り込んで行ったのである。民間人であれば適当に保護をするか、最悪の場合黙殺してしまってもそれで話は済む。逆に言えば、民間人のふりをして乗り込んだ場合、上手くしてもこの艦に足を踏み込んだ時点で為せることは終わってしまうのである。民間人が戦況に関わる対談を敵方の司令官と行うことなど通常ではあり得ないし、そもそも身分を偽って敵の艦隊に侵入することは欺瞞作戦に当たるのだから、それが知れた時点で殺されても文句は言えない。
 しかしそれが軍人であれば話は違う。初めから身分を誤魔化している訳ではないのだから欺瞞には当たらないし、敵の基地は目の鼻の先にあるのだから、うっかり誤射に見せかけて沈めてしまう訳にもいかない。しかも、相手が軍人であることを踏まえて乗艦を許したのであれば、相応の処遇も求められる。捕虜として拘束するにしても、様々な考慮は行われなければならない。
 無論、逆にそれを利用した作戦も存在する。必然的に艦内の警戒は厳しくなり、その結果として彼等の手首には手錠が掛けられているのである。何らかの状況の変化が起こるか、帰艦後米国本国に引き渡されるまで、秀漢達は戒めを受けることを求められた。その代わりに、この艦隊を率いる提督との対面を取り付けたのだった。
この軍服でこの国を守ってきたという矜持は些かそれに抵抗を感じていたが、今はそんなものよりも優先すべきことがある。やむなく秀漢は甘んじて現在の状況を受け入れた。
 「平和的解決を切望していますってね、ちゃんと伝えてるわよ」
 女性であるということも手伝って、大花の手首には戒めがない。楽天的に構えてはいるが、仮に問題が起こった場合ここにいる三人の中で最も危険な立場に置かれているということを、彼女が理解しているのかはやや疑わしかった。身体的拘束がないということは、あらぬ行動に及んだときには真っ先に銃弾を撃ち込まれるということと同義だということに、この無邪気な貴婦人は気付いているのかいないのか。
 「後はよろしくお願いね、ちゃんと橋渡しはしてあげるから――」
 その瞬間に部屋のドアががちゃりと重い音を立てた。ぎぃ、と重い音を立てて開いた分厚い扉の向こうから、白と紺を基調とした米海軍服姿の男が入ってくる。戦艦の低い天井がそれほど違和感なく見えるやや小柄な男は、胸元や肩や帽子に身分を示す様々な勲章を光らせていた。その後ろには、大柄な李中将よりもまだ背の高いような若い軍人がやはり何人か控えている。
 外国人を見知らぬ目には物珍しい、茶色い髪と茶色い目をした男は、異国的な険しい面差しで彼等に何か言った。海軍的な、明晰でよく通る言葉を、大花が指を折りながら翻訳する。「アメリカ合衆国海軍太平洋艦隊の、第三艦隊機動部隊リーダーで、戦艦アトランタ艦長の、カーター・フィリップスさんですって」
 「……言われたことを、言われた通りに正確に訳しなさい。伝聞調は必要ない」早口に大花に伝えると、手錠を嵌められたまま秀漢と李中将は椅子から立ち上がった。
 「全韓共和国元山基地総督、李永山であります」笑顔を幾らか引き締め、永山もまた簡潔に自分の身分を述べた。訳語を懸命に探しながら、大花はそれを異国の言葉で告げる。
 ふと、フィリップス少将と名乗った男が何事か秀漢の方を向きながら告げた。
 「『あなたは陸軍軍人の制服ですが?』」違和感が拭い切れないといった顔をして、大花は秀漢の表情を覗き込んだ。
 少しだけ躊躇ったが、出来る限り簡潔に海軍らしく秀漢は名乗る。「全韓共和国元陸軍所属大佐で、現在は反逆者として本国から追討命令が下されています、全秀漢であります」
 ――世界の中で、今自分が所属している立ち位置が、ようやく見えた気がした。


 事務机で帳面の整理をしていた小魚は、ふと物音を聞いた気がして顔を上げた。
 (――全さんや楊さん達、やっぱり蜂起するんだろうか)
 腰を浮かせた小魚は、その物音の方向に気付いてぎょっと表情を強張らせる。思わず立ち上がると、迷わず扉を押し開き廊下を下る。初めはただの早足だったが、次第に加速し彼は全力で駆け出していた。
 物音は、被災者達が避難している武道場の方から響いていたのだ。怒号や、物を壊すような荒々しい音が断続的に基地を震わせる。ただの小競り合いなら、と半ば念じながら小魚は騒ぎの源を目指していたが、そんな単純なものですむはずがないと考える自分も確かに彼自身の中にいた。
 ほとんどの基地所属人員はあちこちに出払っているのだろう、誰とも擦れ違わずに彼は長い廊下を走り通した。本棟と武道場を繋ぐ壁のない渡り廊下で、突風に吹き煽られながら台風一過の青空を映す水溜りの水を撥ね、半開きのままになっているペンキ塗りの金属の引戸を力任せに押し開けた。
 そしてその瞬間、反射的に小魚は肩を竦めた。人が投げ飛ばされる重い音と、感情的な怒声が同時に耳を突いたのである。目を見開いて、それからすぐさま彼は中に駆け込む。「何をしてる!」
 ふと小魚は、絡みつくような無数の視線を感じて立ち止まった。広大な武道場の中に所狭しと座り込んだ人々が、皆一斉に彼へ目を向けたのである。困り果てているような、縋り付くような、そんな弱々しい目が全て彼一人へと注がれる。思わず小魚は足を竦ませたが、すぐに耳を貫く騒音に意識を引き戻された。
 顔を上げると、丁度武道場の正面の辺りで数人の若者が取っ組み合いの喧嘩をしているのが見える。徒党を組んだ喧嘩らしく、積極的に殴り合っているのはそれぞれ五人ずつくらい、更にその周りを同じような年頃の若者達が取り囲んでいるようだった。
 喧嘩は白熱を極めているらしく、投げ飛ばされた人は勢いよく近くのブルーシートの上に滑り込む。そのたびに、泥に汚れた僅かな荷物が跳ね飛ばされて辺りに散乱していった。住民達が避難するときに何とか掻き集めて持ってきたのだろう、空の鍋や木箱が派手な音を立てて転がる。必死の様相でそれを拾い集める老婆の姿が目に入った瞬間、小魚は騒動の中心に駆け出していた。
 「やめ……っ!」
 言い終わる前に小魚は、一番ひどく取っ組み合っている二人を引き剥がした。それぞれをギャラリーの方に突き返すと同時に、さっき投げ飛ばされた若者が身を起こして突進して来る。身を交わしてそれを避け、後ろ手に相手の腕を捩じ上げて引き倒し、それから一息だけ息を整えて声を張り上げた。「やめろ、何やってんだよ!」
 素早く周囲を見渡すと、彼の周りを囲むのは泥塗れの顔をした少年達と、妙に小奇麗な格好をした若者達のグループにわかれているらしいことがわかった。どうやらこの避難所に逃げ込んで来ていた若者と、外部からやってきた若者が何らかの事情で殴り合いの喧嘩をしていたらしい。――多分、小奇麗な方はあの高台の居住区にいた人々の子弟だろう。
 あっと言う間に小魚に投げ飛ばされて気を抜かれてしまったらしい若者達は、乱入してきたのが一人だけだと見分けた途端にみるみる色を為す。
 「……余所者は黙ってろ!」
 「関係ねえんだよ!」
 小魚を罵るときだけ、喧嘩をしていた双方の声が揃う。思わず眉を寄せて、小魚は援軍になってくれそうな人の姿を探したが、見たところ避難所内にいる大半の若者はこの騒動に加勢しているようだった。基地の軍人は、と考えかけて諦めたように首を振る――今はほぼ全員が、居住区や水の引いた地域の方に出向いているはずだ。
 彼の周りを取り囲んだ若者達の肩越しに、不安げな避難民の顔が覗いていた。働ける人々は概ね出てしまっているらしく、残っているのは老人と子供、それから幼児を連れた母親らしい女性達ばかりだった。迂闊に巻き込むのも気が咎め、小魚は援助への期待を捨て去った。
 とは言え一人で仲裁しなければならないことに一抹の不安を感じながら、彼は左右を見渡した。
 「……取り敢えず落ち着いて。何があったのか、順を追って説明して下さい」
 出来るだけ静かな調子で丁寧に言うと、間に割り込まれた若者達の煮えた頭も幾らか冷めてきたらしく、もうこれ以上罵ろうとも殴りかかろうともしなくなった。その代わり、彼等はばつが悪そうに視線を反らし、こちらに目を向けようとしない。怪訝に思いながらもう一度小魚が尋ねようとした瞬間、ふと外野の位置にいた泥塗れの少年がぽつりと呟いた。
 「……そいつら、米を返せって」
 「え」思わずそちらに小魚が顔を向けると、少年は拗ねたように自分の爪先に視線を落としたまま小さく続けた。「食料の米、元々は自分達の蓄えじゃったけ、勝手に持って行くなって。全部返せって」
 避難所の若者達は、口々に小さな声で何かを呟き始めた。これが激化したらもう一度喧嘩が再開される、と身構える小魚の耳に、別の方向から新しい声が届く。「だって、仕方がないだろう」
 割と身奇麗な格好をした若者達の中でも、一際大人びた青年が腕組みをしながら低く言う。頬に殴られた痕と思しき紫の痣がくっきりと残っていた。「そっちに食料がないからとか言われて、全部持って行かれたら、こっちもすっからかんになっちまう。期限がわかってるなら我慢もするが、こんな先の見えない状態で貯蔵をゼロにするってのはさすがに勘弁してくれ」
 思わずむっとして、小魚は声を荒げそうになる。「そんなときだから、協力が必要なんだろう。いつまでこの混乱が続くかわからないんだったら、出来るだけ大人数で協調して善策を探る方が効率もいいじゃないか」
 迂闊に小魚が興奮しては、再び火に油を注ぐことになる。喧嘩の仲裁をする人間は出来るだけ冷静で、中立にいるに越したことはない。そう念じながら彼は何とか私情を飲み込むことにした。汚れた軍服姿の小魚が自分達の味方だと信じて疑わない避難民達は、共に憤ってくれない小魚に幾らか不満そうな色を滲ませているが、とにかく今は丸く治めることの方が先決なのだ。
 だが、居住区の若者は顔を歪めながら低く言う。「協力とか協調とか、そう言うのやめてくれないか。一方的にこっちが負担を掛けられるだけの状態ってのは、ちょっと違うだろう。今回のも、こっちの意向をほとんど無視して勝手に食料を持ち出して……」
 「元はと言やぁ、わい等の作った米じゃろうが!」人垣の中から、ひどく訛った老人の声が響く。口々にそれに同意する声が重なるが、それをやや意識して背中側に押しやりつつ、小魚は居住区側の連中に目を向ける。
 「……あんまり神経を逆撫でしないでくれないか。場合によったら、俺達は徒党を組んで居住区の貯蔵庫に押し入ってたかもしれないんだ」
 思いの他に毒のある言い回しになり、少しだけ小魚は後悔したが、案外居住区側のリーダーと思しき男は落ち着いた調子で言葉を接いだ。「押し入って来なかったから、話が通じるだろうと思ってわざわざ来たんじゃないか――お前、家族は平壌か?」
 唐突に脈絡のない質問をされ、思わず面食らったものの、小魚はごく平静を装って答えた。「いや、ソウル辺りで活動してる姉がいるだけだけど」
 それを聞いた男はこれ見よがしに溜息を吐き、肩をすくめる。「だったらわからなくっても仕方がないか。あのな、お前達が悪魔の巣窟みたいに言う俺達の『居住区』には、俺達だけじゃなくて子供も老人もいるんだよ。――まあ、仮に食料にしても何にしても、俺達若いのに我慢しろってのは目をつぶる。我慢してし切れないもんじゃないからな。でも、老人子供の分まで『下』の連中の為に持って行かれるってのは、何かおかしくないか?」
 余り避難所内の人々に聞かれたい言葉ではなかったので、小魚はわざと声を抑え、相手にも倣うように促した。「……天災は、子供や老人を避けて通る訳じゃない」
 「でも救援作業は人がやるもんだ。だっておかしいだろ、救援ってのは余力のある人間がその余力の範囲でやるべきことであって、自分のことで精一杯の人間にまでそれを強要するのは搾取と同じじゃないか」
 小魚は訝しげに青年達の顔を見回したが、彼等は真剣にそう考えているらしかった。知らずに小魚の表情は曇る。
 (……少しも、状況をわかってないんだ)
 確かにある局面に置いては、彼等の言うことにも一理あるかもしれない。しかし今はそんな生ぬるいことを言える場合ではない。彼等が直面している問題は台風による災害だけではなく、平壌で今まさに起こっているかもしれない政府破壊活動と、その後に待ち受ける無政府状態の可能性なのである。仮に政府がなくなり、このまま穀物の収穫の目処がつかなくなれば、やれ弱者だ強者だなどと言えなくなってしまう。今ある食料を全部均等に割り振っても、餓死者が出かねない事態に陥ってしまうだろう。
 それでも、と小魚は唇を噛む。多分、彼等にとってそれは正当な理論に基づいた、正義の行動なのだ。自分自身の利益を追求することは良心が咎める人でも、それが自分の庇護の元にある弱者の為――家族の為と言う名聞を得た瞬間に、当然の権利として主張されるものになる。相手が存在して、その相手の背後にもやはりその家族があるのだということが見えなくなるのだ。
 ふと、避難所の若者の一人が声を上げる。「それじゃ、おめえらの飯を割り振りゃえかろう!」
 「それが分けてもらってる奴等の言うことか!」そのすぐ脇にいた居住区側の少年が、整えた髪を乱して食って掛かる。慌てて二人を引き剥がしながら、小魚は顔を歪めた。「だからって喧嘩して解決する問題じゃないだろ」
 (どうすればいい――どうすれば、どちらも納得してくれるんだろう)
 ふと、小魚に抑え付けられた少年が力任せにもがきながら大声で罵る。「家族がいない奴に、俺達の事情がわかって堪るか!」
 「余所者は勝手にどっか行けぇ、関係ねぇじゃろ!」
 どちら側から飛んできた言葉かは関係なかった。その瞬間、小魚は自分でも自分の表情が強張るのを感じた。
 「……余所者?」
 問い返す訳でもなく、ただ口の中で呟いた言葉を聞き付けた少年が続け様に叫ぶ。「そうだよ、どうせあんた余所者じゃないか! どうしようもなくなったらどこにでも好きなところに行けるんだろ! 俺達はここから離れられないんだよ、ここにいられなくなったらどこにも行き場なんかないんだよ!」
 小魚はふと顔を上げる。泥に塗れた避難民も、埃っぽい居住区の青少年も、確かに皆同じような眼差しをこちらに向けていた。その向こう側、騒動を不安そうに見守る老人や子供や子供を抱いた女性達もまた、居た堪れなさそうな、けれどよく似た色合いの眼差しでこちらを見遣る。不意に眩暈のような疎外感を小魚は感じた。
 (――どうすれば、いい?)
 こちらに向けられる眼差しの全てが、その瞬間彼を除外しようとするものに思えた。
 お前のいるべき場所はここではない。
 お前のいるべき場所は、どこにもない、と。
 (何と言えば、通じるんだろう――)


 「――うわあ、見事な宣戦布告だ」
 秀漢の脇からテーブルを覗き込んだ李中将は、呆れたような間の抜けた声を上げた。秀漢もまた、眉間の傷を引き攣らせて眼前に広げられた書類の一枚一枚に目を落とす。
 大きな仕草で両腕を広げるフィリップス艦長の言葉を、困惑の色も露わにした大花が訳す。「我が国の最高機密までも抜き出されたのです、これでもまだ、戦争をするつもりはなかったと?」
 手錠を嵌められた両手を顔の前で組み合わせ、重い溜息を落とすように秀漢はひとりごちた。「……セト・ホーミンの仕業だ」
 「だね。相変わらずの腕前だ。全く、嫌になるほど元気な老人だよ」仮にも敵の将軍を前に、李は足を組んで背もたれに身を預ける。じゃらりと手錠の鎖を鳴らしながら、彼はほとんど投げ遣りに言い放った。「真に受けることはないよ、ちょっとしたボケ老人の悪戯だから。我々も手を焼いているんだ。きゃんゆーあんだすたーん?」
 大花は小さく肩を竦めると、幾らかまともな口調に訂正して翻訳した。自分がどんな口振りで話しても通訳を介せば関係ないと学習した中将は、使い慣れない敬語を頭の片隅から引っ張り出すことなどとうの昔に諦めていた。
 見る見る顔を歪める茶髪茶眼の将校に、秀漢は幾らか言葉を補足する。「反政府組織の首謀者が、当政府の撹乱の為に行ったものだと思われます。彼等どころか、正直なところを言えば当国軍部にも現在戦争をするだけの余力はありません」
 盛装した妙齢の通訳の言葉を最後まで黙って聞いていた将校は、不意に眉を曇らせる。そして一息に何か険しい口調で捲くし立てた。米神に指先を押し当て、苦しそうに大花は何とかそれを訳す。「えっと……こ、この国が戦争をするつもりはなくとも、情報の漏洩は極めて忌々しき問題です。仮にそのリーダーが、彼等を援助する近隣の国に我々の情報を流してしまえば、計り知れない損失になります。仮にあなた達に戦争の意思がないのだとすれば、こちらはその組織そのものの解体とリーダーの身柄の引き渡しを期待したい」
 秀漢は唇を引き結ぶ。確かにその言い分もよくわかった。しかし、今までどれほど腐心しても為し遂げられなかった瀬戸甫民の捕縛など、事実上不可能に近い。ましてや彼は、あの亜麻色の髪の主君を喪った直後なのである。復讐に燃える彼を取り押さえる術など到底ないことは、これまで彼の好敵手として最も近い場所にいた秀漢自身が一番よくわかっている。
 (――軍事介入という腹づもりか)
 秀漢は、指先が白くなるほど組んだ掌に力を込める。瀬戸甫民並びに王朝派の鎮圧に託けて軍隊を上陸させ、あわよくば統治を行うと言う算段なのだろう。この国には何も資源になりそうなものはないが、中華と大和とロシアの間に位置するという立地条件はアメリカにとって魅力的なはずだ。東アジアで何かことが起こったときの為に、拠点として押さえておきたい場所には違いない――。
 つまり戦争をするにしてもしないにしても、元よりアメリカ側の方針は決まっていたと言うことになる。
 直接目視した訳ではないが、時折入る報告やニュース等の情報から首都の惨状は見当が付いていた。捨て身になった王朝派の率いる暴動は、皇帝を間接的に殺害した現政府を崩壊させず収束することなどないだろう。しかし旗頭のなくなった王朝派もまた、無政府状態のこの国を支えるだけの力を持つことはない。その後に待つのは混沌のような無政府状態に違いない。
 外部の軍事介入は、もしかしたら一時的に事態を収めるには効果的かもしれない。けれども長期的に考えれば、それが大きなマイナスになることは間違いなかった。物資の欠乏したこの国家が復興する上で、多量の物資を搾取する軍隊は大きな足枷になる。
 不意に、目の前の外国人将校は指を折りながら、固い声音で何か言い出した。その顔をじっと眺めて指を折りながら、大花は懸命に訳語を探す。決して優秀な通訳とは言えないが、それでも意思の疎通を図ることは出来るのだから、その貢献は評価されてもよいだろう、と何とはなしに秀漢は思う。
 「……まず、論点を整理しましょう」
 大花は、顔の横に上げた右手の指を順番に折りながら説明し始めた。「その一、あなた達は、失礼ですが政府の特使と言う訳でも国家の代表者と言う訳でもない。但し現在内政は非常に混乱しており、それが収拾するまでには時間が掛かる。そこで軍部の中でも特に強い権限を持つアドミラル・リーと、そのご友人のMr.チョンがわたし達を宥める為に、独断でここへ来た。間違いないですね?」
 意図を掴みかねて不安げな表情を見せる大花の向こうで、フィリップス艦長は何か思惑を潜ませたような険しい表情でこちらを伺っている。秀漢と李中将は顔を見合わせ、まずは一度頷いた。
 軽く首を揺らし、続ける艦長の言葉を大花がまたたどたどしく訳す。「その二、しかし現行の政府は今回の混乱でほとんど機能が麻痺しており、今後も恐らくは回復する見込みはない。また、そのときはあなた達が真っ先に国内の安定の為に働くことになる予定であるし、それが可能な身分だ。そう信じてもよいのですね?」
 「そういうことになってしまうねえ」李中将は少し面白くなさそうにそう言った。「何だかまるで、俺は事実上の元首みたいじゃないか。スハンくんは参謀長ってところかい? えらく所帯じみた国家だねえ」
 フィリップスの発言の意図を捉えかねた秀漢は怪訝そうに目を上げる。一瞬こちらを凝視する茶色い眼差しと視線がぶつかったが、相手は決してそれを反らそうとしない。それでようやく、秀漢はその真意を垣間見た。
 アメリカ人艦長の発言を最後まで聞き、大花は眉間を少し寄せながら語り始めた。
 「そしてその三、――これがわたし達には非常に重要なポイントなのですが――この国には、戦争をするつもりは初めからなかった。それを証明する証拠は何かありますか?」
 少しだけ迷ったが、秀漢は頷く。「……貴国の軍事機密が漏洩し、それが不安と混乱の原因となったのです。こちらも手の内を明かすのが筋でしょう――メモとペンをお貸し下さい」
 大花による言葉を聞いた艦長は、すぐさま背後の兵士に短い命令を言い付ける。背後に佇んでいた背の高い兵士は、自分の胸ポケットから取り出した小さな手帳のページを切り取り、挿していたペンを添えて艦長に渡した。それを渡された大花は、軽く頷くと颯爽と足を捌いてこちらの方に向かって来る。こうして見ると、生来の向こう見ずで無鉄砲なところが影を潜めているのもあって、正式会談に動員された行儀のよいコンパニオンに見えなくもない。
 秀漢の目の前に紙を置くと、大花は短く言った。「手錠は外せませんって」頷いた秀漢は、鎖の音を鳴らしながらキャップを外した銀色の軸のボールペンを受け取る。
 何を書くつもりなのかはとうに李中将もわかっているようだが、特に意見はしなかった。「相変わらず達筆だねえ」と言った暢気なことを呟きながら、その筆跡を目で追い掛ける。
 短い文言を綴った秀漢は、ペンを白いテーブルの上にことりと置いた。そのメモを拾い上げた大花は、見慣れないアルファベットの文字列に僅かに首を傾げながらテーブルの対岸へと運んで行く。それを渡された艦長も一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐに意味を理解したらしく、僅かにではあるが顔色を変えた。
 「中央の混乱を見る限りだと、軍籍を剥奪されているとは言え、わたしのパスワードはまだ中央のコンピューターからは抹消されていないものと思われます。それを使って本国の中央管制システムに入って下さい、軍備の全てがわかります。それを参照すれば、本国が貴国と戦争するだけの軍備を整えていないことも見えるでしょう」
 ――フィリップスは、秀漢にプレッシャーを掛けてその反応を見ていたのだ。本当に自分の手の内を明かしても、それが実となり戻って来る相手なのかを見極めようとしていたのである。国家間で行われるべき対話を託すのに、この捕虜軍人は果たして十分な器を持っているのか――また、彼等の背後に横たわる全韓共和国という国家は果たしてどのような情況に置かれているのか。
 戦う必要はない。戦争を行う力もない。ならばそれを隠す必要はない――本当に危険なのは侮られることではなく、過大に評価されることだということを秀漢はよく知っている。今ここで優先するべきなのは、国家の面子ではなく正当な評価と誠実さへの信頼なのである。
 大花に翻訳された言葉を聞くと、秀漢よりも恐らくは幾らか若い艦長は軽く頷いた。そしてメモを背後の兵士の一人に渡す。それを手に、彼はドアを押し開けてどこかへと消えて行った。恐らくは確認に向かったのだろう。
 だが、その確認結果を手にする前から、フィリップス艦長は既に秀漢の言葉を信頼しているようだった。真剣そのものといった眼差しをしながら彼の語った言葉は、しかし大花の華やかな声音を通すとまるでちょっとしたブラック・ジョークのように響いた。
 「……なるほど、あなたがこの国を背負えるかどうかは別にしても、少なくともこの国を潰すだけの力は持っている訳ですね」
 秀漢は僅かに眉尻を上げた。それではまるで、自分達が平壌で暴れている施寛美達と同じだと言われているようなものだった。
 けれども彼は言葉を飲み込む。フィリップス艦長は、まだ何か言葉を続けているのだった。通訳に翻訳される間のタイムラグをやっとの思いでやり過ごした彼に、大花は思いの外に平静な声で語った。
 「でしたら、一つ提案をします。――この国を、我が国アメリカに預けて下さい。現在の暴動を鎮圧し、秩序を回復させてあげましょう」
 「……それが本音ですか」珍しく、思ったことがそのまま口に出た。意外に短い一言に翻訳された彼の言葉を聞き、微かにフィリップスは笑みのようなものを表情に浮かべる。彼が表情を変えるのを秀漢ははじめて見たが、それは表情を緩めると言うよりも、逆に張り詰めたような笑みだった。
 こちらの国と、あちらの国、生き延びる為にその両国の間を彷徨った少女の口を借りて、この戦艦の艦長の言葉は秀漢達に届けられた。「国民の為を思うのなら、それが最も正しい方法です」
 ふと秀漢は、大花を通訳に使ったことを今更になって後悔した。
 ――彼女に語らせるには、その台詞は些か皮肉が利き過ぎていた。


 「国民の、為――」
 秀漢は苦いものを口にしたように、顔をしかめて小さく反芻した。フィリップス艦長は、意味などわからないだろうに秀漢の言葉に感慨深げに頷いてみせる。
 これまで、全ての私心を捨てて国家の為民衆の為にと尽くしてきた彼にとって、それは余りにも重い言葉だった。自由も地位も名誉も――家族すらも犠牲にして、ただひたすらこの国の脆い平和を守ろうと願い続けて戦ってきた彼の半生を、あっさりと一言で持ち上げられたような虚無感が胸の奥に広がった。
 隣で腕を組んだままの李中将がふと、淡白に思えるほどさり気なく呟く。「……軽々しく言われたい台詞じゃないね、それ。俺達が今までやってたこと、全部無駄だったって言われてる気がするよ」
 彼の挙動にはいつも胃を痛めていた秀漢だが、今日ばかりは同感だった。相手が眼前にいる以上、大っぴらに同意の意を表す訳にはいかないが、それでも秀漢は頷くようにして俯く。何か言葉を探そうと思ったが、適当な言葉が見付からなかった。
 ――確かに、傍から見ればテロリストの横行を許した無力な軍隊に見えるかもしれない。けれどもある局面においては、テロリスト達のともすれば過激な反発によってこの国の均衡が保たれていたと言うこともまた事実なのである。何も考えずに総力を挙げて彼等を弾圧していれば、恐らくは共倒れも避けられない事態だった。ひどく歪んだ形ではあったが、あれもまたこの国を形成する上では不可欠な条件だったのだと主張せずにはいられない。
 この国は決して総統の住まう官邸だけによって形成されたものではなく、それに乱暴に圧力をかけて調整を行う旧王朝派テロリストと、双方の均衡を調整し外敵を退ける軍隊との連立によってはじめて成り立っていたものなのだと今更ながらに強く思う。そして自分は、その中でも直接人民を保護することの出来る軍隊に所属していたことを、除籍された今でも誇りに思う。
 この国がそのような歪んだ成り立ちを余儀なくされた、背後の事情も知らずに一方的に口を挟まれるのはひどく不愉快だった。そして同時に、そのような状況を何一つ知らずに力任せにこの国を鎮圧しようとする態度の滲む口振りが、目の前に座る軍人の背後に背負われた国家の方針が、ひどく恐ろしいものに思われた。
 見ると、時折大花の眼差しが顔色を覗うようにこちら側に向けられる。秀漢が目配せを送ると、彼女はばつが悪そうに少しだけ俯いた。彼女自身がもたらした流れの成り行きとは言え、この残酷な台詞をどこまでも口にさせ続けるのは余りに忍びなかった。どうすれば相手の米国艦隊提督にもう少し柔らかい言葉を語らせることが出来るだろう、と秀漢は逡巡する。
 今にも机の上に足を投げ出しそうなほど姿勢を崩して、元山基地総督李中将はひどく投げ遣りな言葉を吐く。「まあね、うちの基地が戦うのを投げちゃったら目下の海防は全部解除されちゃう訳だから。って言うか、俺がここにいる限り基地に指示なんて出せないんだから、同意を求める意味なんてないじゃないか」
 頂点が指示を出さない限り下層部は動けない――一極集中型の権力構造は兼ねてから秀漢自身が懸念している部分だった。だからこそ今回はそれを逆手に取り、自分達がそれほどに軍事上意味のある捕虜だと強調することで会談に漕ぎ付けることも出来た。しかしここに来て、その策略も暗礁に乗り上げたことに秀漢は顔をしかめる。
 大花は躊躇うような素振りを見せたが、茶色い頭の異人提督に急かされて渋々と言った様子で李中将の言葉を説明した。彼女もまた、自分を介して語られる言葉の一つ一つの危うさに気を揉んでいるのだろう。
 ふと、李の言葉を聞いて何やら考え込むような仕草をした提督は、秀漢達をじっと眺めながら早口に語り始めた。それを耳にした瞬間、大花の表情がひどく強張る。
 フィリップス提督の言葉が終わった後もしばらく大花はその表情のまま黙り込んでいたが、双方の視線に促されてようやく彼女は重い唇を押し開いた。
 「……あなた達にもお願いしたいのです。我々が介入するとなると、過激派勢力による反発も免れ得ないでしょう――ですから、あなた達の軍隊にも我々のバックアップをしてもらいたい。クーデターの一翼を、担って欲しいのですよ」
 秀漢は思わず目を瞠る。隣の李もまた絶句しているようだった。
 つまり、同胞同士を戦わせる間に、彼等の国が政権を奪取すると言い出しているのである。慣らした鴫に蛤を咥えさせ、人為的に漁夫の利を謀ろうとしているのだ。
 それは外部から見れば単純に反目し合う国内の二勢力かもしれない。しかし大花から見れば、片や友人や同志によって組織された、自分達の不遇な立場に抵抗する為の唯一の勢力――片や、その仲間を助けたいが為に接近して頼っている唯一の拠所になる。その複雑な立場を慮れば、彼女の胸中は察するに余りある。
 自分が口にする内容に顔を歪めつつ、大花は言葉を懸命に綴る。「国民の幸福を真っ先に考えたら、迷うことはないはずです。今あなた達が同意してくれさえすればいいのです。我々の準備は既に整っています」
 秀漢は黙ったまま、睨むように相手の米国提督の顔を見た。彼もまた、彼等の顔を抉るように鋭く見詰めている。
 彼も譲れないのだ、と思った。本国からの命令か、或いは彼自身の判断かはわからない。けれども、この提案は向こうにとっては相当大きな譲歩なのだろう、ということは察することが出来る。
 宣戦布告を突き付けられた以上、それが仮に偽造だとしても、黙殺することは国家の面目として許されない。その気になればすぐさま攻撃を開始することも可能なのだろう。こちら側の胡散臭い軍人の言葉に耳を貸し、協力を仰ぐこと自体、本国のタカ派が知れば大きな批判の材料となり得るに違いない。
 自国の方針に従いつつ戦争を回避するには、この方法しかないのかもしれない。秀漢とて同じ立場に置かれれば、恐らく同じような提案しか出来ないだろう。相手の立場も、わからない訳ではなかった。
 (けれども、こちらも譲れない)
 荒れた国は一刻も早く復興しなければならない。その邪魔になるものは、何であろうと取り除かなければならない。そして国家の安全の妨げになるものを除去するのが軍隊というものの存在意義ならば、ここで秀漢が為すべきことは決まっていた。
 (――譲る訳には、いかない)
 決してこの国が、この国の人間が侮られることのないように、改めて相手の顔を見据え直す。そして新しい糸口を探ろうと口を開いた瞬間だった。
 不意に、大花がフィリップス提督の方を向き、何か早口に言い出した。
 思わず秀漢はぽかんと呆気に取られるが、異人提督の方も負けず劣らず間の抜けた表情を見せる。何か躊躇いがちに口を開いたが、早口に捲くし立てる大花に彼は言葉をなくしてしまったようだった。
 李中将が興味深げに身を乗り出した瞬間、ふと大花は自分の持ち物を探り始めた。そして一瞬表情を明るくすると、中から掌に納まるほどの物を取り出した。
 再び彼等は絶句する。さすがの李中将すら、今度は唖然としたまま言葉を失っていた。
 彼女がかぱりと開き、鮮やかに染めた指先でキーを叩き始めたその機械は、携帯電話にひどくよく似た形をしていたのだ。


 今にも取っ組み合いが始まりそうな、ぎりぎりの状況だった。
 (……どうすればいい、どうすれば)
 小魚は唇を噛みながら、双方を抑える。だが、それもほとんど限界だった。声高に主張し合っていた双方の言葉も次第に大人しくなり始めていたが、それは決して事態の沈静を意味しない。逆に、言葉の通じない暴力に訴えようとしている気配が肌の表面に痛いほど伝わって来ていた。
 とても自分一人では抑えきれない、と考えた小魚は、傍で不安げに成り行きを眺めていた子供達に外から人を呼んでくるよう頼んだが、間に合うかどうかもわからなかった。また他に仲裁の人手が来たところで、根本的な解決にはならないことも痛いほどよくわかっていた。
 (とにかく、ここで喧嘩される訳にはいかない――)
 だが、彼等を避難所の外へ追い出そうにも、迂闊に口を開いて刺激してはかえって逆効果になる恐れもある。身動きもとれず、まんじりとしながら冷や汗が流れる感触だけを感じていた。
 ――その瞬間だった。
 不意に、痛いほどの沈黙を突き破る電子音が鳴り響いた。誰もが呆気に取られる中、小魚は一人で蒼褪める。
 「……」
 うろたえる小魚に、居住区側の青年達から突き刺さるような視線が注がれる。その意味を理解したらしい避難所側の少年達も、嘲るような色を滲ませた視線を向ける。
 高らかに鳴り響く電子呼び出し音に、誰かがぼそりと吐き捨てるように言う。「……電源、切っておけよ」
 「その前に、こんなところで持ち歩くなよ」
 全身の血の気が引いたまま、小魚は慌てて自分の胸ポケットから音源を取り出すと、取り落としそうになりながらそれをかぱりと開く。人から怪しまれないようにと携帯電話に似せたその形状が、今ほど忌々しく思えたことはない。震えた指で、薄緑の光を乗せたキーを押すと、受話孔から場違いに明るい声が聞こえてきた。『もしもし、シャオユウ?』
 「タイホア、今取り込み中」
 問答無用で切り捨てようとした小魚を、携帯電話型衛星通信機は必死の声で呼び止める。『ちょちょちょ、ちょっと待ってよ。こっちも一大事なんだから、もうちょっと話聞きなさいよ』
 特大の音量で喋る大花の声は、周囲の人にまで聞こえているのではないかと思うほどに騒々しい。小魚を取り囲む人々の冷たかったはずの視線はいつの間にか生温く温度を上げ、彼を遠巻きに眺めている。
 血の気が引き切った顔に今度は灼熱感を覚えながら、小魚はこれ以上ないほど冷淡に言い放つ。「こっちもそれどころじゃないんだ。悪いけど、タイホアに付き合ってる余裕はないから」
 そして彼は通信機を耳から外すと、電源ボタンに指を掛けた。だがそれを遮るように、小魚とほとんど同じで、それでも随分と賑やかで華やかな声音は叫ぶ。
 『待ちなさいよ、国家の命運掛かってるんだから最後まで聞きなさい!』
 どうせまた彼女が大袈裟な騙りをしているのだろう、と小魚は真に受けようとしなかったが、それを漏れ聞いた周囲の方が怪訝そうに彼の顔を見上げた。取り敢えず続けろ、と言うような身振りをすぐ目の前にいた少年が見せるので、脇を見ると別の青年もまたそれに同意して頷いている。どうやら概ね周囲は話の続行を望んでいるらしい、と判断し、ようやく小魚は通信機を耳に当て直した。
 「……何。下らない用事だったら承知しないよ」
 『大丈夫、深刻さでは折紙つきよ』訳のわからない自信に満ち溢れた口調で大花は断言する。常に意味もなく自信過剰気味な双子の姉に泣かされ続けてきた小魚は、半ばうんざりとしながら続きを促そうとした。
 だが、彼が言葉を発する前に大花は鮮やかに切り出した。
 『あのね、今ここにアメリカ海軍の人がいるのよ。しょーもないことでいつまでもうだうだ粘ってさあ、いつまでも平行線で全然埒が開かないのよ。戦争するかこの国寄越すか二つに一つーとか訳わかんないことうじうじ続けて、まどろっこしいったらありゃしない』
 一瞬彼女の言葉の意味がわからず小魚は困惑する。そんな彼に決定的打撃を与える一言を、大花はいとも容易く言い出した。
 『お願いシャオユウ、話つけて』


 全元大佐と、フィリップス提督と、李中将と、それからその場に居合わせた米国戦艦アトランタ号乗組員の数名が呆然と見守る中で、華やかにドレスアップした妙齢の女性は軽やかに笑った。その耳に押し当てられている物は、どこからどう見ても携帯電話以外の何物でもない。秀漢だけは辛うじてそれの正体を知っていたが、それでもこの流れの中で引っ張り出されるには余りにも不適当な物だという見解には変わりがなかった。
 どうやら通信先の相手に対し、彼女は随分と一方的に話をつけてしまったらしい。何やら高圧的な物言いで説き伏せると、携帯電話型通信機を耳から外してにっこりと微笑んだ。そして何か短い言葉を発したかと思うと、その小型機器を押し付けるようにフィリップスに渡す。目を白黒させながらそれを受け取った提督は、しばらく逡巡した挙句に為すすべもなくそれを耳に当てた。通信先の相手も英語がわかる人物らしく、ひどく気弱そうな声で短い挨拶らしい言葉を発していた。
 手錠を嵌められたままの手を机の上に組み、手指で額をきつく押さえながら、秀漢は重苦しく抑えた低い声を出す。「……何のつもりだ、これは」
 腕組みをして通話状況を見守っていた大花は、ふと秀漢達の方に気付いて足を運ぶと、悪びれもせずに言った。「ほら、あのおじさん『国民の幸福』云々って言ってたじゃない。だから、国民のホントの本音を教えてあげようと思って」
 「相手は誰だ。どこの誰を勝手にこの国の国民代表にした」唸るように言う秀漢に、大花は軽く小首を傾げる。「弟。ほら、羅州で暴動起こしたり災害に巻き込まれたりしてるっぽい、あいつよ。草の根運動臭いことやってたから周りにいっぱい普通の人もいるだろうし、暴動起こしてるくらいだから皆現状に不満持ってるだろうし、しかも丁度災害に巻き込まれた直後の地域だもの、一番救いの手が欲しい人達の生の声が聞けるんじゃないかしらとか思った訳よ。現地での仲間とかにインタビューしてもいいし、もしも一人で地味な作業やってるんだったら、誰か道端でとっ捕まえて意見を聞けばよさそうでしょ」
 何の疑いも持たない様子で、着飾った美女は自分の言葉に何度も頷く。その隣でひどく納得しながらやはりうんうんと頷いているかつての同期の姿に頭痛を掻き立てられながら、秀漢はほとんど独り言のように呟いた。「……向こうが予断を許さない状況だったらどうするつもりだったんだ。呼び出し音が命取りになることもあるだろう」
 「大丈夫よ、あいつがマナーモードにしとけばいいんだもの。第一、銃声も爆音も聞こえなかったから、戦闘中じゃなかったみたいよ」
 これ以上彼女に何か言っても無駄だと判断し、秀漢はむっつりと押し黙ったまま通信機相手にしどろもどろになっている敵国の艦長の姿を見遣った。彼と、通信機の電波の向こうにいるであろう彼女の弟とに、秀漢はなぜか共感によく似た同情の念を呼び起こされる。片や対立する相手としてついさっきまで腹の探り合いをしていた相手であるし、片や一面識もない相手ではあるのだが、今だけは彼等の心中を察するに余りある。
 思わず秀漢は立ち上がると、耳に当てた通信機を持て余してうろたえているフィリップス艦長の傍へ足を運んだ。彼の背後に控えていた兵士達が身構えるが、秀漢が何もせず、ただフィリップスの隣で通信内容を聞こうとしているだけだと判断すると、その場に足踏みをして立ち止まった。
 比較的大きな音量に設定されているらしい通信機越しの声は、隣に立てば十分内容が聞き分けられた。大花と恐ろしくよく似た、けれどそれに比べると遥かに静かで大人しい声は、恐らく彼女の弟のものだろう。流暢な英語で話しているので内容はわからないが、強張っていたフィリップスの表情に少しずつ落ち着きが戻りつつあるのを見ると、随分冷静で地に脚のついた発言をしているらしい。
 ところがふと、その沈着の声が突然途切れた。思わず覗き込むように様子を覗うと、怪訝そうに首を傾げていたフィリップスと視線が合った。ばつが悪くて目を反らした瞬間、くっきりとした少し幼い声が秀漢の耳にも届く。
 秀漢は再び顔を上げた。先程の少年よりも幾らか幼く高い声は、南方訛りのハングルを話していたのである。多分意味がわからないのだろう、少しだけ眉をしかめるフィリップスの隣で、思わず秀漢は耳をそばだてる。
 『えっと……何かよくわかんないけど、わかんないなりに、俺の意見ゆうてみます』
 ――この状況では決して起こり得ない事態に陥っていることだけは、少なくとも確かだった。


 「……と言う訳で、要するに飯があれば当分我慢出来そうってことです」
 一頻り語った内容を端的に纏めた後、泥を頬にこびり付かせた少年は小魚に向かって背伸びした。その手から通信機を受け取った小魚は、何度か口の中で小さくアルファベットを発音すると、少年の語った内容を流暢な英語に翻訳して通話孔に話し始める。彼の周りを囲む人々は、概ねその様子を尊敬のこもった眼差しで眺めていたが、幾らかの少年達は疑わしげな表情を隠そうとしなかった。彼が本当に正確に言葉を伝えているのか判断できない以上、それを疑うのも当然だろうと小魚はどこか諦めたように考える。
 ふと、小魚の言葉を黙って聞いていた通信機の向こう側の人物は、低い声で訝しげに尋ねた。
 『……確かに、食糧支援は容易い。復興への資金援助も、国連を通して働きかければある程度はすぐに集まるだろう。しかしだね、この国の現状を見る限りでは、復興の為に外部から手が入ることもある程度は必要だと思われる。なぜならば、善意から送付される資金や食料が全て平和的な復興活動に使われると言うことが保障されない為だ。現在の無政府無秩序状態の国家に物的援助をしたところで、その中身が旧支配者層やテロリスト集団へと丸ごと流れてしまうようでは意味がないのだよ。違うかね?』
 思わず口を開きかけた小魚は、ふと思い出したように顔を上げると周囲を見渡した。そして人垣の中に、先程の喧嘩の中心にいた居住区側の青年を見付け、掌を振って招き寄せる。短く「Just a minutes」とだけ通話孔に告げた小魚は、怪訝そうな顔で立ち尽くす青年の手に通信機を押し付ける。思いの外に土に汚れていた青年の細長い手をぽんと叩き、彼は端的に言う。
 「幸い飯とお金は何とか工面出来るらしいんだけど、せっかく送ったそれをどこかに独り占めされる可能性があるんじゃないかって危惧してるらしい。支援する側にとっては避難所の人間も居住区の人間も、ただの同じ全韓共和国の国民に過ぎないそうだよ」
 たじろぐように周囲に視線を泳がせながら通信機を耳に当てた青年は、周囲の熱い視線を浴びながらつっかえながら語り始める。「え、えっと……それは多分、直接地方ごとに物資を輸送すればある程度解決するんじゃないかと思います。今までそれを阻害していたのは平壌の政府だった訳で、政府がなくなってる今なら援助物資を搾取する仲介も入らずに、頂ける支援物資を全て国民に均等に配布出来るんじゃないかと思います……お、おかしいですかこれ」
 そして押し戻すように小型の通信機を小魚に突き返す。真っ赤になって俯く青年の横顔を眺めながら、小魚は彼の言葉を掻い摘んで英語に直してみせた。そして最後に、付け加える。「――と言う意見が出ています。それに対しては何かありますか?」
 通信機の向こうにいる男は、しばらく沈黙した後にようやく発言した。『それは認めよう。しかし、ソフト面での援助はあくまで一次的なものに過ぎないと言う点も考慮して頂きたい。外部からの干渉が入ることを望まない国民感情もわからない訳ではないが、この国は根底から変えられなければならない。国家の復興の目処も立たないまま物的支援ばかりをしても、それはただの浪費に過ぎないのだ』
 「余所者に口出しされるのは本意じゃないだろうけど、この荒れた国を何とかするには外国の協力も必要じゃないか、と言ってるよ。割れた器に水を入れても零れるだけだから、先にひび割れを直させて欲しいってことだね」小魚は顔を上げ、意見を募るように視線を廻らせる。
 数名の少年達が互いを小突きあったが、少し気の弱そうな雰囲気の泥塗れの少年が押し出されるようにして小魚の側に寄って来た。一つ頷いて通信機を受け取った少年は、思いの外にしっかりとした声で言う。
 「でも、これだけの人が暮らしているなら、人手は十分じゃないかと思う。むしろ見返りを求めることの出来る働き場が沢山あるってことだから、見す見すそこを他人に預けたくはないです。もっと言えば、ここは俺達のところなんだから――やっぱり、自分達の力で自分達の国は何とかしたい」
 それをそのまま伝えた小魚に、通信機越しの男はやはり考え込むように沈黙した。
 同じように黙り込んで言葉を待っていると、幾らか抑えた遠慮がちの声音が響いた。
 『――失礼に当たったら申し訳ないが、この国の荒廃が長かったことを思えば、君達は正常な国家の状態を知らないのではないか? そんな状態で本当にこの国を正しい姿に導けるのかと言えば、わたしはそれを疑問視せずにはいられない。他国の状況や技術を知らないまま復興活動を行おうとしても、やがては破綻するのではないかね?』
 それは多分、彼――小魚達の亡命先だった国家の人間にとっては、最大限に想像力を働かせた結果の意見なのだろう。彼等の国が地上の全ての国で最も理想的なものだと信じている人々にとって、それはきっとごく当たり前の感覚なのだろう。その気持ちは、小魚とてわからない訳ではない。
 確かにあの国で、『プログラム』ほどに理不尽な生命の危機に晒されたことは、少なくともない。しかしそこで差別を受けたことは一度や二度ではなかったし、惨めな思いをしたことがないとは言えなかった。
 さすがにそれをここにいる多くの『同胞』に聞かせることに抵抗を感じずにはいられないが、この国と比べてあの国がどれほどましであっても、そこが絶対の楽園ではないことを彼は知っている。またここ以外に居場所のない人々がいるということも痛いほどによく知っている。なればこそ、賢しらにあの国を賛美する気にはなれなかった。
 小魚は小さく息を吸うと、不意にひどく穏やかに言った。
 「……確かに、我々の多くはあなた達の持つ豊かさや平穏さを知りません。けれど、幸福がどんなものであるか知らないほど、我々は無知でもありません」
世界中の国が全てあの国になる必要はない。彼等には理解出来ないかもしれないが、例えあの国にあらゆる水準が遠く及ばなくても、生きていることを無条件に幸福だと思える場所もある。そして、そこで生きることが出来るのはひどく誇らしいことだと、小魚自身はそう思う。
 「我々は――この国の地方の農村で災害に巻き込まれた不運な農民は、あなたにとって理解出来ない誤った幸福を望んでいるとお思いですか? 願わくはその判断を、あなた自身に下して欲しいのです」
 そして小魚は返答を待たず、傍で様子を伺っている少年達に電話機を渡す。自由に言えばいい、と身振りで示した小魚は、小さく息を吐いて凝りをほぐすように首を振った。彼等の言葉は一つ残らず伝えなければいけない、だから語られる言葉を聞き流すことは出来ない。成り行きで押し付けられたものではあっても、意気込まずにはいられない。
 ふと小魚は、避難所の入り口に目を向けた。慌てふためき駆けつけたのだろう、外からやって来た数人の人影がまろぶと同時にがたがたと騒々しい音が響く。すっかり出遅れて場違いになってしまった仲裁者の登場に、小魚は思わず笑みを浮かべた。
 見慣れた人影が慌しげにこちらへと駆け寄ってくるのを見て、彼は掌をひょいと挙げて見せた。


 「……面白いことになってると思わないかい?」
 いつの間にか机の上に足を投げ出して我が物顔で踏ん反り返っていた李中将は、誰とはなしに愉快そうな声を投げ掛けた。その隣に為すすべもなく立ち尽くしていた若い長身の兵士は、困り果てたような表情をそちらに向ける。
 彼の背中をぽんと小突き、李は縛めがついたままの自分の指先で前方を指し示した。
 「真面目くさった顔でケータイ抱えてるそちらの提督と、同じく真面目くさった神妙な顔でその内容を立ち聞きしてるうちのスハンくんと、その隣でいちいち同時通訳してくれてる妙齢の可愛いコレ。どうよあの光景?」
 大花を指し示しながら小指を立てて見せた李中将のジェスチャーに、周囲の兵士から微かな笑い声が零れた。ホールの中に散在している兵士達も、揶揄するように自分の小指を立てては笑いさざめいた。どうやらその仕草は、両国の共通語だったらしい。
 ――と、それまでじっと黙り込んで聞き入っていたフィリップス提督が不意に口を開いた。慌てて黙り込む兵士達の前で、彼は些か強張った声音で言い出した。意味がわからない李中将は黙って訳語を待つ。すぐに大花が通訳を始めた。彼女は隣の秀漢へと話しているつもりらしく、こちらを向き直ることはしない。だが、その声は十分こちらにまで届いた。
 「けれど、ローカルな集団による暴動があちこちで発生しているという情報もあります。勢力が一つにならないと、やはり分裂して新しい混乱が発生するのは明らかです。少しの間だけでも、国連か連邦に入ってもらって一つの統治機構を作り上げた方が賢明です」
 秀漢の表情が強張るのが、遠目にもはっきりとわかった。李自身もその言葉の妥当性は理解できるが、心理的な抵抗は禁じえない。政権の一点集中の恐ろしさが身にしみている彼等にとって、勢力の分散を批判されることは苦渋を舐めるようなことだった。――政府と軍部と反体制、この三者のどれが欠けても恐らくこの国は生き残ってはこられなかった。
 多分、通話機の向こうでも同じような翻訳が行われたのだろう。どうやらそれに対する新しい意見が述べられたらしく、フィリップス提督と秀漢と大花が一斉に耳を寄せた。
 言葉の意味もわからないだろうに懸命に耳をすます提督の隣で、ふと秀漢が顔色を変えた。声すら上げそうになる彼の様子に気付いた提督は、訝しげにそちらにちらりと目を向ける。
 どんな話題が供されているのか気になったものの、どうやらこちら側の言葉で話されているらしく、内容を大花は口にしない。秀漢の耳に届いているのだから構わない、という判断なのだろうが、その内容が気になった李は指先を空中でくるくると回し始めた。そちらにふと気を引かれた大花が振り向くのを見て、彼は明るい声を彼女に投げる。
 「どうしたの? スハンくんうろたえてるねえ」
 少しだけ小首を傾げながら、大花は抑えた声で答える。「何か、向こう側が若い男の人に代わったんだけど、おじさんの知り合いなのかしら……実はあたしもこの声、覚えがある気がするのよね……」
 興味津々で身を乗り出す李の前で一頻り首を捻った後、彼女はぽんと自分の手を打った。
 「ああ、あの官邸の警備兵!」


 『……別に俺達も、好きで反逆を起こしている訳じゃありません』
 通話孔の向こうから聞こえてきた声は、本来ならば取り立てて特徴があるというほどのものではない。けれども秀漢には、それを述べる相手の姿を明白に思い浮かべることが出来た。何しろ、この一連の騒動に巻き込まれる直前に顔を見たばかりの甥であり、直々に派遣指令を下した部下なのだ。
 確かに、彼を南方の暴風雨被災地に派遣したのは他ならぬ秀漢自身なのだから、これも十分あり得る事態だと納得しなければならないのかもしれないが、これほどまでに偶然が重なるとほとんど悪い冗談のようだった。何かに担がれているような気がして、秀漢は思わず眉間に指を当てて頭痛を堪える。
 全く意味のわからないだろう言葉を、それでも真面目に聞いていたフィリップス提督は、秀漢の様子の変化に気付くと幾らか訝しそうな表情を浮かべた。だが、どうやら彼が苦悩に苛まれているらしいと察すると、どこか労うような仕草で秀漢の様子を覗き込んだ。心配を掛けるのも本意ではないので、秀漢は軽く顔の前で掌を振って流そうとする。
 そんな彼等の様子を知りもせず、通信機から流れる声はひたすらに熱っぽく主張した。『現在我が国の軍部で起こっている各地の反乱は、政府の対応に対して軍人全般が抱いた不満によるものです。ただのローカルな反逆行為だと捉えられるのは心外です』
 『あなたも軍人ならわかるでしょう、この緊急時に対テロ戦線で屈指の処理能力を持つ司令官を外すという政府の愚が。――彼等は自分達がイニシアチブを取る為だけに、軍部そのものを侮辱して迫害しているに等しいんです』更に早口に捲くし立てる声が重なった。
 ここまで昂ぶった口調だと普段の話し方を察することも難しいが、恐らく甥と組んでいた相方の若い兵士だろうと目星を付ける。
 (……その外された司令官とは、誰のことだ)
 答えのわかり切った質問を、心の中だけで通信機の向こうに投げ掛ける。だが、そんな彼の心の声を一切無視して若い兵士はひたすらに続けた。『だから我々は、全司令官の権限と名誉の回復を願って――』
 「……だが、それより優先すべき事項は、本当に何もないのか?」
 通信機の向こうにいる若者と秀漢が知り合いらしい、と途中で察したフィリップスは、秀漢の方に通話孔を向けていた。そこに向かって、秀漢は押し殺した声で話し掛ける。「わたしは指示を変更した覚えもないし、官邸が現在の任務を与えた訳でもないだろう。お前達は、そんなところで一体何をやっているのだ」
 一瞬通信機は黙り込んだ。だが、次の瞬間に向こう側で若者達がうろたえる様子を中継し始める。『え、嘘、今の大佐? 何で大佐がそこにいる訳?』
 『嘘だろ行方不明じゃなかったのかよ伯父貴! っつか生きてたの?』
 秀漢の頭痛は、耳鳴りまで伴い始めていた。何か色々言ってやりたいことはあったが、どこから言えばいいのか見当が付かないので仕方なく彼はむっつりと黙り込んで眉間の傷を引き攣らせていた。
 状況が理解できずに取り残されているフィリップスは、大花による幾らか事実関係の曖昧な説明を受けながら、何度か深く頷く。その内容の確認もしておきたかったが、秀漢にはもはやそこまでの気力は残されていなかった。
 「ま、安否が伝えられてよかったじゃないのスハンくん」いつの間にか背後に立っていた李は、ほとんど他人事のような能天気さで秀漢の肩をぽんぽんと叩く。それからふと、何か悪戯でも思いついたようにぎょろりとした目を瞬かせると、にっと歯を見せて笑った。
 大花とフィリップスの方に首だけ向けると、彼はひどく軽い調子で言い出した。「あ、そうだ。うちの軍部を本当に味方につけたいんだったら、スハンくん保護してるってことを前面に押し出して宣伝してみたらいいんじゃないか。スハンくん軍内じゃ人気者だし、昔から恩義も大安売りしてるから、それだけで落ちるとこも多いよ。そのついでにちょちょいっとテロリストに睨みをきかせてごらんよ、今なら世論も味方についてくれるって」
 早口な李の言葉を一瞬呆気に取られて聞いた後、大花は弾けたように嬉々とした笑顔を浮かべ、フィリップスの腕を掴んで早口に語り始めた。さほど大柄ではない提督もまた、大花によって翻訳された李の言葉に唖然とした表情を浮かべるが、半信半疑に幾らかの希望を織り交ぜたような視線を秀漢におずおずと向ける。
 「……誰がテロリストに睨みをきかせるんだ」
 根本的に意見しておきたい部分は山のようにあったのだが、ようやくそれだけ言った秀漢に、李はほとんど無責任に思えるほどの素直さで答えた。「決まってるじゃない、スハンくん任せたよ。大丈夫大丈夫、この人達に兵力を借りたら何とかなるって」
 秀漢もまた、幾らかむきになって声を荒げる。「その理屈だと、先程彼等に提示されたのと同じことではないか。アメリカの軍事介入にはお前も難色を示していたではないか」
 「全然違うって。さっきのはアメリカの侵攻を許しちゃって、その尻馬に俺達が乗るってこと。これは、スハンくんを俺達とあの人が一緒になって担いじゃうってこと。いいじゃないかスハンくん、このままこの人達味方につけてこの国乗っ取っちゃおうよ」どこまで本気だか全くわからないほど明るい表情で、李は恐ろしい野望を口にする。
 それを押し留めようとした秀漢の耳元を、ふと大花の明るい声が掠める。嫌な予感に駆られて顔を向けると、フィリップスとその周りのアメリカ兵に向かって大花が興奮気味の早口で何やら捲くし立てていた。それを囲むネイビーの軍服姿の男達の表情も、本気なのかふざけているのか秀漢には見分けがつかない。
 まだ何か語り続けている大花の肩に掌を載せ、秀漢はひどく低い声を絞り出した。「……お前、何を話している」
 「今おじさん達の話してた内容」大花は悪びれもせず、明るく答える。「そうよね考えればそれもアリじゃない。この国の人々にとって見れば、あちこちで信任の厚い人が代表して政府ぶっ潰してくれるんだし、アメリカにとっても自分の意見を聞いてくれる人が尖兵になってくれたら、これ以上やり易いことはないわ」
 まさか肝心のアメリカ側は真に受けることはないだろう、と一縷の望みを託すような思いで秀漢は視線を彷徨わせたが、ふと通信機を手に何か妙に強い調子で話している提督の姿が目に入った。嫌な予感がして大花の方に顔を向けると、彼女はこれ以上ないほど極上の笑顔で秀漢に笑いかける。「『それでは仮にそちら側の代表としてジョン・スハンを迎え、我々戦艦アトランタ及び全権代表カーター・フィリップスが彼と協力体制を結ぶとしたら、それでもあなたがた国民の反発感情は変わりませんか』――うわぁ、もうあの人も必死よねえ」
 「……どうして名前を挙げた当事者を放置して勝手に話を進めていくんだ、お前達は」
 搾り出すように言った秀漢の言葉は、紛れもない心底からの本音だった。


 「……そもそも、ジョン・スハンって誰」
 流暢な英語風の発音で語られた人物に全く見当をつけられなかった小魚は、思わず通信機を耳元から外して呟いた。
 取り乱した余り、通話の最中にも関わらず小魚に通信機を押し付けた張本人の二人は、遠巻きに身構えながら口々に叫ぶ。
 「俺達の上官、ここに救援送った張本人だって。もんの凄い正義派!」
 「っつか俺の伯父貴! 馬鹿を見る正直者を体現してる人!」
 褒めているはずなのに少しのありがたみも感じられない解説を聞きながら、ようやく小魚はその人物に心当たりを見付けた。食料運搬の作業中にも何度か噂になっていたし、そう言えば若手の兵士達が暴走しようとしたのも彼が権限を剥奪されたからだったはずだ。更に言えば、大花と行動を同じくしていると目星をつけたはずの人物なのだ。「――ああ、あの大佐」
 少し視線を彷徨わせた後、小魚は控えめな口調で米国提督とされる人物に提案された内容を口にした。「……その人が俺達の代表者として、アメリカ側と協力してくれるんだってさ。それでもこの国にアメリカが入り込むのは嫌か、だって」
 他ならぬ全秀漢の元部下二人は顔を見合わせ、それから軍部関係者に視線を送る。しばらく無言で目配せした挙句、何やら共通の見解を示す空気を漂わせた彼等は、おずおずと一般市民の方に目を向ける。躊躇うような彼等の視線に、さっきまで乱闘していた若者達は首を竦めた。同意とも反対とも取れかねる彼等の視線を、小魚は纏める。
 「……どうやら軍部の人達は賛成みたいだけど、皆はどう?」
 敢えて軍人と市民を分断して表現した小魚の発言に、ふと低いがよく通る女性の声が応えた。「居住区側の人間にとっちゃあ、元体制にいた人間が介入してくれることはありがてえじゃろ。んで避難所側の人間にとっても、この時点でもう援助を考慮しとった人間がブレーキを握ってくれるんじゃったら悪い話じゃないはずで。何か文句あったら後で纏めて聞くわ」
 何となくわかれた人垣の向こう側に、見慣れた小柄な人影が見えた。思わず小魚は声を弾ませる。「権さん」
 「どうせこれ以上悪うなるこたぁないんじゃし、えかろう。やってもらってみ」泥塗れの帽子で顔の汗を拭いながら、作業着姿の工作員は口元を曲げて笑う。「第一、こっちが云々言おうと上手くいくもんは適当に上手くいく、どうしょうもねえことはどうしょうもねえ。ま、うちの私見を言わせてもらやあ、ジョン・スハンで駄目なら他の誰がやってもおえんじゃろうけど……これはホンマ蛇足じゃな」
 軍服姿の若者達は、我が意を得たりと喜色を露わにする。率先して救援作業を指示し、武力行使にまで及んだ女傑の発言に、異論を唱える者は取り敢えず現れなかった。些か強引だったか、と小魚は少しだけ危ぶんだが、もう一度だけと念を押して彼は人々に意見を求めた。
 「本当に構わないね。後でリコールするのは難しいけど、それでも大丈夫だね」
 ふと、人込みの端の方で小さな拍手の音が聞こえた。幾らかどよめきも同時に起こったが、その拍手の音は次第に波のように広がって行く。やがて狭い体育館の中は満場の拍手で埋められた。
 その様子をぼんやりと眺めながら、小魚は再び通信機に耳を当てる。そして少し小さく息を吐くと、抑えた声で言った。
 「――お待たせしました。現在聞こえる拍手の通りだそうです」
 それから少しだけ冷めた眼差しを人垣に向け、天井に向けると、呟くようにさり気なく付け加えた。
 「これが、現時点でわたしの目の前にいる、全韓共和国羅州市弘南地区、避難民達の一部の見解です」
 あくまでも、その程度の意見でしかないと伝えておきたかったが、それはどれほど理解してもらえるものか。




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