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第十四夜・下


神の御子は今宵しも ベツレヘムに生まれたもう
いざや友よ、もろともに 急ぎ行きて拝まずや
急ぎ行きて拝まずや

賎の女をば母として 生まれましし嬰児は
まことの神、君の君 急ぎ行きて拝まずや
急ぎ行きて拝まずや

「神に栄えあれかし」と 御使いらの声すなり
地なる人もたたえつつ 急ぎ行きて拝まずや
急ぎ行きて拝まずや

とこしなえの御言葉は 今ぞ人となり給う
待ち望みし主の民よ おのが幸を祝わずや
おのが幸を祝わずや

(賛美歌111番)



  第十四夜・下


 官邸の周囲を取り囲む塀を打ち壊すように、蒼い炎が次々と上がる。
 そしてその奥で、建物の原型を留めもしない勢いの紅蓮の炎が噴き上がる。土塀の弾ける重い音が響くたび、悲鳴が上がって官邸を取り囲む民衆達は散って行った。
 人々に押し流されながら、弓は左腕で口と鼻を覆って炎上するかつての職場と対峙する。これだけの嵐の中にも関わらず、こんなにも呆気なく燃え上がるとは思わなかった。恐らくはあの骸の周りに撒いたガソリンだけでなく、外壁には火薬も仕掛けていたのだろうが、それにしてもいっそ憎らしくなるほどの勢いの炎であった。
 不意に弓は歓声のようなものを聞き、首を巡らせた。見ると、官邸を見下ろす高台の公園に逃げ出したはずの人々が集まっている。ぎっしりと詰められたように固まった彼等は、一つ火柱が上がるたび一つ瓦が崩れるたび手を叩き歓喜の声を上げる。もしかしたらまだ中に誰か残っているかもしれないと言う可能性を無視し、まるでよく出来た見世物を楽しむように彼等ははしゃいでいた。
 「……誰のおかげで、暮らしていけていたと思っている」
 ぎり、と弓は奥歯を噛んだ。政府の危機をそんなにも無邪気に喜ぶ民衆の姿が堪らなく憎かった。
 別に彼等の為と念じながら政を執り行っていた訳ではないが、結果的に彼等を保護し続けていたのはこの国家に他ならない。そしてその義務を捨て権利だけを求めて政務を怠る上層に代わり、政務を預かってきたのは他ならぬ自分自身なのだ。彼の職務全てを否定する、彼等の歓喜の声が堪らなく憎たらしかった。
 弓の隣で、背後で、次々と狂気じみた歓声を上げる彼等の内、誰一人として雨水に濡れることを厭う者はいない。嵐の中でこんな風に狂乱することそのものにカタルシスを覚えているとしか思えない、常軌を逸した人々の群れ。
 再びどおんと鼓膜をつんざくような重い音が響き渡る。壁に仕掛けられた火薬による爆風で、よろけた弓はバランスを失って水溜りに倒れ込む。シャワーの湯よりも熱く滾る雨水を頭から被り、思わず彼は呻き声を上げた。傷の右腕を庇おうとして図らずも顔から滑り込むことになり、小石や大粒の灰の欠片で頬を大きく擦り剥いたのだ。
 「大丈夫か?」
 ふと語り掛けられる声を聞き、目の周りに飛び散った飛沫を掌で拭って弓は顔を上げる。見ると、小汚い作業着に身を固めた大柄な男が、彼に向けて手を伸ばしていた。一瞬手を伸ばしそうになった瞬間、再び爆音が轟く。
 同時に、男は弾かれたように振り向いて感嘆詞を洩らした。「おお、すげー。景気よく燃えちまえ!」
 す、と彼の掌が一瞬反れた。
 男の横顔越しに噴きあがる炎を凝視し、不意に弓は延べられた手を乱暴に振り払う。「触るな」
 「いや、でもあんた、凄い怪我してるじゃないか」
 振り向いた顔に困惑を滲ませる男の周りに、何人かの同じような身成の人間が寄って来る。思わず右腕を背中の方に隠しながら、弓は頭を振る。雨水と泥水を吸い込んだ前髪から、鋭く飛沫が散った。「俺に構うな! 助けを求めた覚えはない!」
 がら、と音を立てて官邸の屋根が炎の中に崩れ落ちるのが見えた。奥歯を噛んで弓は男達を睨む。
 (そんなイデオロギーなんて、持ち合わせていないくせに)
 多くの人民は平和に暮らしていたはずである。国家の基盤を揺るがすような問題は、全て解決させたはずである。ただ大人しく暮らしていく分には、何の不満もない国だったはずである。
 周辺国との関係で血を流し続けたこの国は、だからこそ徹底して外部分子を排除した。使えるものは何でも使い――本来ならば敵であるはずの旧王朝の勢力まで利用して、外圧を撥ね退け国家の平安を図っていた。長年の願望であった半島統一も無事果たし、鎖国に伴う最大の難関であった食糧事情も麻薬絡みで確立した貿易ネットワークによって安定させ、国家そのものは安定期にあったはずである。
 確かにそれは微妙な均衡の上に成り立っているに過ぎない。だからこそ、少しでもそのバランスを崩そうとする者は排斥する必要があった。しかし普通の人間が普通に大人しく生きていこうとすれば、恐らくはそのラインには触れずにすむ。国家の安定と自身の平和が保障されているのだから、どうして好き好んでその均衡を崩す必要があるのだろう。
 (何もわかっていないくせに)
 無能な首脳の影で働き続けること、彼等に代わり政策を執り行い続けることの苦労など、誰にも理解されようとは思わなかった。しかし、自分が血汗を滲ませ出した政令に下される評判を、何もしていない連中が享受するというのはやはりひどく心に堪えた。
 影としてではなく、事実上だけではなく、名実共にこの国が欲しかった。そして華々しい光の中に立っていた人々の亡き今、ここは確かに彼が支配するべき国のはずだった。
 (……わたしの国に、何の文句がある)
 弓は首を振り、前髪から滴り落ちる雨水を払った。鋭く睨み上げる彼をまじまじと眺めていた男達は、急に興味をそがれたように手を引く。
 「……構うなって言ってんだし、いいんじゃねえの?」
 「だな。頼んでまで助けてやる義理はないんだし」
 (何が義理だ)
 奥歯を噛み締める弓の目前で、後から寄って来た数人の男達は踵を返して去って行く。一番初めに声を掛けて来た男だけが、仲間の背中を困惑して眺めながらその場に残った。
 拗ねたように、突っ撥ねるように弓は首を叛ける。「お前も行ったらどうだ。怖いんだろう」
 「……あんた、人を探してるんだろ?」不意に大柄な男は言った。
 一瞬虚を突かれたように顔を上げる弓の左脇に、男は有無を言わせず腕を掛ける。
 「は、離せ」
 「あんただけあの中で逆走してた。誰かとはぐれたんじゃないのか?」
 思わず弓は押し黙る。だが、助け起こされてようやく立ち上がった時点で、彼は思い出したように男の腕を無理矢理振り払った。
 困ったように少し肩を竦めながら、男は目を細めた。「大丈夫さ、まだ見たところあんたほどの怪我人はいないよ。ちゃんとどこかに逃げてるって」
 「……逃げるものか」不意に、搾り出すように弓は低い声を出した。
 驚いたように彼の顔を見る男に向かい、唾を吐き掛けるように弓は言い放った。「お前にあいつの何がわかる! いいか、あいつはじきにここに来る! 俺に潰される為に、必ずここに戻ってくるんだ!」
 言い終わって深く息を吐き、弓はふと口にしたことの余りの無為さに照れ、思い出したように顔を赤くした。その顔をじっと眺めていた男は、ようやく腑に落ちたと言うように笑顔で頷いた。
 「ああ、あんた、待ってるんだ」
 意外な響きに思わずぽかんと男の顔を見上げた弓は、慌てて取り繕うように俯いた。その左の肩を軽く叩き、男は僅かに心配そうな色を声音に滲ませながら笑う。
 「それにしたって、通りの向かいに行った方がいいよ。こっちだと危ないし、その怪我も病院に行った方がいい」
 差し出された掌を乱雑に振り払い、弓はずかずかと大股で再び人並みを逆走し始める。
 その後姿を心配そうに眺めながら、男は大声でその場から呼び掛けた。「気を付けろよ! さっき向こうでも爆発してたぞ!」
 いたわるような色の声を聞かなかったことにして、弓は肩を活からせて人垣を遡って行った。
 自分が没個性の大衆になることだけは、何があっても許せなかったのだ。


 さすがの強行軍に、頭が朦朧としていた僅かな間のことだった。
 顔を上げた瞬間、視野の中にいたはずのベルの姿が消えてしまっていたのだ。
 思わずデイビーは左右を見渡し、それから背後を振り返る。もしや付いて来れなくなってしまったのでは、と案じたが、彼女の姿は既にどこにも見ることが出来なかった。
 慌てて正面に向き直るデイビーは、軽く肩を叩かれる感触を覚えてそちらを向く。そこを歩いていた壮年の男が、前方を指差しながら彼に何やら告げた。凄まじい雨音と見知らぬ言語にほとんど意味はわからなかったが、そのジェスチャーの意味は何となくわかる。
 納得しそうになって、ようやくデイビーはそれがほとんどあり得ないことに気付いた。あの、自分以上にぼろぼろになって今にも倒れそうな彼女が、まさかまだ先へ突っ切って行っているなんてことがあるはずがない。
 それでもデイビーは足を速めて彼の前を覆う人垣に追い付くと、強引にそれを掻き分けた。見ると、人垣の先頭から抜け出した先に、水煙に煙る黒い小さな影が動いているのに気付く。重そうに足をずるずる引き摺って、襤褸切れのようにみすぼらしく濡れそぼり、そんな姿で彼女は道を走っていた。ほとんど歩いているのとは変わらないようなペースなのだが、それでも着実に彼女はこの行軍と間合いを開いていく。
 すぐにその背中を追い掛けようとしたが、関節が鋭く突き刺さるように痛んで動きを妨げる。その上人垣を分けようにも、小柄なベルと違ってデイビーはなかなか隙間をこじ開けて進むことが出来ない。
 随分と遠くを突き進む彼女の姿が霞んだ気がして、彼は掌で顔に伝う雨水を乱雑に拭う。だが、どうやら跳ね上がる雨の飛沫の水煙で煙っている彼女の小さな後姿は、次第に白い霞の中に見えなくなって行ってしまう。
 思い切り大声で彼女を呼び止めたかったが、デイビーは咽喉元まで出掛かった声を飲み込んだ。彼女との約束を破る訳には行かなかった。
 (行き場はわかってる――)
 必ず後から追い付ける、そう念じて彼はぐいと首を振った。


 もうどのくらい歩いたのか、彼女自身わからなくなっていた。
 既に歩く以外の感覚を忘れそうになっていた。そのことにふと気付き、彼女は何となく顔を上げて、見渡す限りに広がる無数の棚に目をやった。
 棚には、本当に無数のものが並んでいた。小さなものだと虫ピンや小さくなった鉛筆、大きなものだと家一軒がまるごと置かれていたりした。こんなものをどうやって忘れるのだろう、と少しだけ彼女は不思議に思う。それとももしかしたらそれには、止むを得ない事情があったのだろうか。
 見たところ、人や動物はいないようだった。砂の女の言ったように、いる場所を教えてくれるのだろうかと彼女は考える。
 (だとしたら、地図もくれたらいいな)
 ようやくこの世界の地理にも慣れて来た。しかし、ネーヴェン・バーブと言う土地がどこにあるのかはまだわからない。どうやって行けばよいのだろうか。それはここから遠いところだろうか。色々なことを考えた。
 何かを考えるたびに、頭がずきずきと痛んだ。疲労もあって、なかなか一つの纏まったことが考えられなくなってゆく。思考の断片とともに痛みを感じながら、それでも彼女は黙って歩き続けた。
 彼はどんな顔をするだろう。何て声を掛けよう。色々なことがあったが、何から話そう。その前に自分は泣くのではないか。泣くと涙で前が霞むから、それは少し困る。彼を見ていたい。彼に触れたい。五感で彼を感じたい。彼の声。その目。唇の動き。掌。もしかして背は伸びたのだろうか。彼は変わってないだろうか。自分は変わってないだろうか――。
 不意にミレアは立ち止まった。俯きながら歩いていた彼女は、つんのめったように立ち止まり、それからぱっと顔を上げる。知らずに胸が高鳴った。
 「……!」
 ふとミレアは、ぱたんと本を閉じた。そしてそれを棚の端に置くと、代わりにその棚の中から何かを取り出す。薄暗くてよく見えないが、それは細長かった。僅かに彼女は首を傾げて目を細めるが、よくわからなかった。
 それからミレアは、反対側の棚から何かを取り出した。それは片手で抱えられるほどの、ぼろ布の包みだった。何だろうと彼女は目を凝らす。その前に、ミレアは初めに「一回の人生に一つだけ」と前置いていたはずだった。何故二つも取り出すのだろう。
 おもむろにミレアは言った。「ホンファン」
 どうして名前を、と思ったが、彼女は――紅凰はじっとミレアの手に抱えられた二つのものを見詰めた。何か、ひどく不吉な予感がした。
 「あなたが探しているのは、これですね」
 ミレアはすっと細長いものを差し出した。それが何かをようやく見極めて、紅凰は思わず目を見開く。それはくるりと紅凰の顔の前で方向を変えた。鼓動が一つ音を立てたきり、止まってしまう気がした。
 鋭い切先は赤黒く汚れている。握れと言わんばかりに向けられた柄にもどす黒い染みが落ちている。
 それは、一振りのナイフだった。


 官邸の周辺は異常な恐慌状態に陥っていた。
 民衆の鎮圧の為に送り込まれていたはずの公安や兵士は、皆急遽職務を変更し、民衆の安全な避難を誘導する方に回っていた。もはや誰が敵で誰が味方なのか冷静に判断することなど出来ず、鎮圧も後回しにするしかなかった。
 首都全体を巻き込んだ混乱で交通網は完全に麻痺しており、官邸の消火活動もままならなかった。そもそも逃げ惑う人々とどこで起こるか全く読めない断続的な爆発により、近付くことすら困難な状態なのである。幸い天から降り注ぐ土砂降りの雨水と、至近に燃え移りそうな建物がほとんどないと言う立地により、類焼だけは防げそうなのだが、それゆえに消火すら後回しにされているのが現状だった。
 炎上した官邸から何とか脱出した金は、しかしその際に杖と傘を真っ黒に焦がしてしまっていた。撃たれた傷で思うように動かない足を引き摺りながら門へ向かっていると、それに気付いた若い警備兵と思しき兵士が肩を貸しに駆け寄って来てくれた。思わず彼は頭を下げる。
 「すみません」
 「いえ、それよりあなたが最後ですよね?」降り掛かる火の粉を片腕で振り払いながら、若い兵士は左右に頭を巡らせた。
 少し逡巡したが、金はそれに頷いて見せた。「……裏口側にいた中では、多分わたしが最後です」
 弓が出て来なかったことに対して不安がない訳ではなかったが、他にも官邸には別の門がある。正門の方まで出ているのだろう、と金は内心で高を括ることにした。もしもこれで焼け死ぬのなら、それもまた彼の裁量であろう。
 ふと見上げると、黒煙を噴き上げながら官邸の屋根が瓦解してゆく様が、まるでコマ送りのようにくっきりと目に映った。この国の権威の象徴としてそびえ続けた壮麗な建物はしかし、焼け落ちてゆくその瞬間には思いの他に感慨を残さなかった。自分自身も毎日そこに勤め、この国を動かしていた政府の中枢施設だと言うのに、それが失われることにほとんど何の抵抗も感じなかった。
 何か感じるとすれば、それこそ弓に対する罪悪感に似た意識であった。
 ――この国は様々な矛盾を抱えた、醜怪な化け物のような国だった。元来、難民の寄せ集めのような形で建国していながら、外部の勢力を排除することによって国家の体裁を整えているという異様な国家は、成立した時点で既に破綻していたようなものだった。それに気付かず――いや、わかっていても敢えて目をつぶり、刹那主義に流されるようにしてこの国は存続していた。
 本来ならばきっともっと前にこの国は潰れていただろうに、偶然に偶然が重なって今まで来てしまっていた。本当は誰かがどこかで潰さねばならない危険な砂上の楼閣だったのに、政府と旧王朝派そして中華を初めとする諸外国の思惑が複雑に絡み合い、芯柱が歪んだままこの国は体裁ばかりが凝らされていった。
 それにも関わらず、この国には圧倒的に人員が不足していた。風土的なものか或いは荒廃する国土が人心まで浸食したのか、無能で腐敗した為政者が国家の頂点を牛耳り、志ある者はそれゆえに皆離反していた。残ったのは甘い汁に群がろうとする小物ばかり。
 弓にとって不幸だったのは、彼がなまじその歪んだ国を支えるだけの力を持っていたことだろう。実力は自信を生み、自信は野心を生む。この国の舞台骨を支えるべき裏方として登用されたはずの弓は、やがて飾りに過ぎない上層部を削ぎ落とし、自分自身が表へと立つことを夢見るようになった。所詮は寸法の狂ったいずれ崩れる欠陥品なのに、頂点に固執する余り弓は国家の姿そのものを見失ってしまった。
 彼も目を覚ませば、自分が狙うものの空虚さに気付くはずだった。しかし周囲はそれを端から眺めながら、それでも現状を少しでも長く維持して己の身が安らかならんことを望み、弓の目を現実から反らさせ続けた。明らかに道を踏み誤った彼を放置して、僅かな身の安定と引き換えに彼が破滅へとのめり込むのを座視したのは他ならぬ自分達なのだ。
 だからと言って今更何か彼の為に尽くそうと思うほど、金も既に清廉ではない。炎の中に飛び込んで彼の安否を気遣おうなどと毛頭思わない。ただ、あの有能で愚かな青年が支え、支えきれずに崩れたこの国家の行く末と、彼自身の命運を見定めることだけは、最低限の礼儀として執り行っておきたかった。
 炎と煙の渦にじっと目を凝らし、金は顔をしかめた。
 (それにしても、一体どこに――)
 「どうかしました?」若い兵士は怪訝そうに金を覗き込む。
 軽く首を振り、金は男の肩を借りた。「いえ、別に……」
 見付けられることを期待した訳ではないが、それでもその辺りのどこかに彼がいるような気がして、金はふと路上に目を向けた。
 そしてその瞬間、黒煙と白煙の入り混じる濁った空気の向こう側に、信じられないものを見た。
 煙に浮かび上がるのは、水辺の鳥のように華奢で小柄なシルエット。熱風の隙間からは、ずたずたに引き裂けた黒いスカートと血泥に塗れた細い足が覗く。重そうに引き摺られる足は、それでも大股に一歩ずつこちらへと踏み込んで来る。二、三歩進むごとに大きくよろける覚束ない足元は、たどたどしい舞踏のように不規則に歩幅を刻んだ。
 不意に、金からそう遠くない壁が崩れて青い炎が噴き上がった。その爆風が煙を引き千切り、一瞬細い少女の姿を露わにする。雨水に濡れそぼった長い黒髪を顔に貼り付け、表情すら判然としない。だが右の額の上から流れる一筋の髪房の銀の光と、真っ直ぐに正面だけを見据える眼差しの光はあくまでも鋭い。全身に叩き付ける熱風にぐらりと大きく身体を傾がせるが、決して歩みを止めようとはしなかった。
 ふと崩れた壁の辺りから、凄まじい土埃が彼女に圧し掛かる。思わず金も隣の兵士も固く目を閉じて身構えたが、おずおずと再び目を開けると、そこに埃の壁を突き破って現れる少女の姿が見えた。今にも倒れそうなほどふら付いているのに、まだ尚走ろうとするように細い傷だらけの腕を掻く。鬱血し紫に腫れ上がった掌はほとんど感覚を失っているようで、意思の関与しない動きで揺れていた。
 その面差しは、感情をどこかで取り落としたような無表情で、一際幼さが目立った。だが、その額と頬に走る鋭い裂傷は黒く凝固した血に土埃が絡み付き、固まった傷口が割れて再び血を流し始めていた。黒い煤と灰色の泥の間で流れる、褐色の血が酷く生々しかった。
 ――施寛美だった。会議場で逮捕され、あの収容所の壁に標本の蝶のように縫い付けられていた少女が、彼の目の前にいた。
 思わず金は呆気に取られ、信じられない彼女の姿に見入った。隣の兵士もまた、その余りに凄惨な姿に目を奪われ、息を飲む。だがその視線をまるで意に介さず、少女はじりじりと二人の目前に迫って来た。足が痛むのだろう、片方の足を順番に庇いながら歩くので、その身体は左右に揺れた。だが、その割には随分とその歩みは速い。
そして一瞬、二人の姿に目を止め、ひどく顔をしかめる。金が身構えた次の瞬間、彼女は二人の隣を大きく迂回して擦れ違って行った。
 慌てて振り向くが、彼女の小さな背中はただ黙々と歩みを進めるだけだった。時折何かを求めるように官邸の壁に目を向けるが、見付からないのだろう、すぐに正面に向き直り淡々と足を運び続ける。ようやく金はそのときになって、彼女が誰も連れていないことに気付いた。
 よろめきながらたった一人で進んでゆく姿はとても小さいのに、何故かひどい威圧感を感じさせる。その後姿をじっと網膜に焼き付け、金はようやく前に向き直った。隣の若い兵士はそれに気付き、未練がましそうにこちらに顔を向ける。
 何か言おうと言葉を必死に選ぶ兵士に向かい、金は静かに言った。
 「放っておきましょう――彼女は、きっとそれを望んでいる」
 一瞬兵士はひどく悲しそうな顔をしたが、黙って頷いた。そして金を片腕に抱え、ふら付きながら火から遠い場所へと歩き始める。
 (そう言えば、向こうは正門か――)
 不意に金は思い出した。
 それが自分にとって何の意味も持たないことであると知りながら。


 はじめは幻覚かと思った。
 塵灰や煙に霞む細い姿に目を疑った。再び見えることを願い過ぎたゆえの、幻影だと思った。
 だが、と弓は目を瞠る。唯でさえ視界が悪い濁った風の中、疲労と出血で益々霞む自分の目を何度も擦り、瞬く。
 煙の中から生まれ出るように目前に現れたのは、紛れもない施寛美の姿だった。長い髪を乱し、薄く頼りない布を全身に貼り付かせ、亡者のように覚束ない動きで―― それなのに前を見据える眼光はどこまでも鋭く、強い。彼女は自分が手ずからつけた傷を全身に残し、その姿を何一つ恥らうことなくこちらへと向かって来ていた。
 思わず腰を浮かせた弓は、彼女の正面に相対するように立つ。遠くを見詰める彼女の視線を遮るように、彼女の視線を独占するように、早足にこちらへと迫る彼女の前方を自分の身で塞ぐ。そして薄く笑った。
 (やっと来た)
 ようやく彼女がここへとやってきた。誰よりも自分を憎むはずの彼女が、気が触れそうなほどに待ち望んだ彼女が、ようやくここへ――自分を殺す為に、自分に殺される為に自分の元へとやって来た。そのことが。
 眩暈がするほどに嬉しかった。
 何か適当な言葉を呼び掛けてやろうかと思ったが、言葉が見付からなかった。しばらく言葉を探して逡巡したが、戦慄く唇から漏れる声は言葉の形を取らなかった。
 「は……」
 目の前に彼女がいて、こちらを見ている。それだけのことで、全身が震えた。
 (やはりお前とわたしは、互いに食い合う運命なのだ)
 予感が――何より強く願った希望が確信に変わるのを感じながら、彼は声を上げて笑った。意外なほどの勢いでこちらへと向かって来る彼女の姿を熱っぽい眼差しで眺めながら、残っている方の左手を彼女に向けて高く伸べる。
 ――そしてそれは、ほんの一瞬だった。
 弓の目前で、施寛美はふらりとよろけるように足を捌いて脇に逸れ、彼の隣を素通りしたのだった。
 水気を吸ったまま重く揺れる長い黒髪は、彼女の背中で軽く跳ねて弓の腕を一瞬舐めたが、すぐに何の未練もなく下へと向けて落下し彼女の背中へと戻って行った。かすることすらなかった。あっという間に彼女は弓の背中の後ろへと駆けて行った。
 降り注ぐ雨水は、残り香すら残してくれなかった。
 片手を伸べた姿勢のまま、目を瞠った表情のまま、弓は呆然と硬直する。そして軋む音がしそうなほどぎこちない動きで背後を振り返った。
 考える前に身体が動いた。右腕を伸ばしそうになって肘から先がないことを思い出し、すぐさま半身を翻して左腕を伸ばす。そしてふらりと意思のない動きで振り回される細い腕を掴むと、それを勢いだけで引き寄せた。ずるりと少女の泥まみれの素足が滑り、そのまま力任せに引き摺られて弓の元に倒れ込む。
 「……セ・カンメイ」
 やっとの思いで擦れた声を絞り出し、弓はようやく再び手中に入れた少女の顔を覗き込んだ。怒りか憎しみか悲しみか――どんな表情を向けられていても平気なつもりでいたにも関わらず、彼は思わずぎょっと身を竦ませる。
 彼女の眼差しは尚も、遠く前だけを見詰めていたのである。燃え上がる炎の芯、そしてそこへ辿り着く為の入り口を捜し求めるその目は、狂気すら感じるほどに鋭く強かったのである。
 「離して」
 不意に、ひどく小さな擦れた声が少女の唇から漏れた。弓に対してどんな感情を抱いているのかすらわからない声音、そしてその目は決して弓に向けられることはない。
 「……助けに、行かなくちゃ」
 かっと弓は自分の全身の血が逆流するのを感じた。普段なら辛うじて押し留められる怒りすら、抑えられないほど彼は追い詰められていた。「無駄だあの男は死んだ!」
 「離して」
 彼女は首を振る。濡れた髪の毛が無造作に顔中に貼りつくが、それに気付いてすらいないようだった。どんな染料にも決して染まらないはずの銀の髪房は、すっかり泥と埃と煤に塗れ、薄汚れた灰色に成り果てていた。
 「邪魔よ、どけて」
 どうしてこの少女はこんなにも自分の神経を逆撫でするのが上手いのだろう、と妙なことで感心しながら、彼は握った腕に力を込めた。見ると彼女の手首には手錠と針金の痕が色濃く残っており、指がまともに曲がらないほど腫れ上がっている。こんな風に荒っぽく握られて痛くないはずはないだろうに、それでも彼女は視線を動かさない。
 彼女の軟化しない態度に逆上し、弓は無茶苦茶に捲くし立てた。「俺を見ろ、俺を憎め! お前が一番憎むべきはこの俺のはずだ! もう二度と逃がすものか!」
 そして一層強く施寛美の腕を掴んで捻り上げる。
 だが、ベルはやはり声一つ立てなかった。遠くにきっちりと目の焦点を合わせたまま、空いている方の手でふとぼろぼろに避けて濡れそぼったスカートの裾を弄る。泥に塗れている足の付け根が思いの他に白く、ぎょっとした弓は思わず目を取られる。
 その次の瞬間、彼は頬に固く生温かいものの感触を覚えた。
 「離して」
 食い込むほど強く押し付けられたそれは、見るまでもなく見当が付いていた。眼球を動かして視野の端に辛うじて捕らえられるそれは、黒く細長い金属塊――彼女が常に携帯している、彼が一度は取り上げたはずのマカロフだった。思いの他にその感触がぬるいのは、恐らく彼女の肌の温度が溶け込んでいるからだろう。
 (――『やる』)
 あのプログラムの音声を何度も何度も繰り返し聞いた弓には、その拳銃の出自と彼女がそれを携え続ける意味がよくわかっていた。抉られるような痛みを伴う事実を、哄笑を張り付かせた口で彼は語る。
 「……あの男の形見か」
 あの皇帝から手渡された唯一のもの、この国を捨てたときに彼女の手の中にたった一つ残ったもの、それがこの拳銃だ。彼女が大切に抱え込むそれを、自分の血飛沫で汚すのもあまり悪くはない気がした。「まあ、そんなのもいいだろう」
 恐怖感はなかった。彼女がこの拳銃を目にするたび、自分を思い出すだろうことが喜ばしくすらあった。
 その瞬間、不意に銃口が視野から外れた。
 パァン
 鼓膜を突き破るような炸裂音が響き渡る。次の瞬間、拳銃の方に向けられたままだった視線の端を、水と泥に塗れた細い姿がしなるように過ぎる。既に自分に背中を向けた彼女の立ち姿へ視線が追い付くのと、銃声に驚いた自分の左手が彼女の腕を離してしまっていたことに気付くのはほぼ同時だった。銃弾が当たらないように足元に威嚇射撃をされたのだと悟った弓は、屈辱に顔を赤くする。
 「待……」
 突然、彼の腕の僅かに届かない距離に立っていた少女がこちらを振り向いた。そして弓は、その眼差しに身を竦ませた。
 彼女の目には、自分が映ってはいなかったのだ。皇帝への思慕に盲いたその目は恐ろしく空虚で、写り込む何もかもが価値をなくし飲み込まれていくようだった。
 そして閃くように、弓は悟った。
 (――光が消えた世界には、闇すら存在しない)
 施寛美は一度深く瞬くと、水を吸って重く垂れ下がる長い黒髪を弾ませて正面に向き直った。もう弓の場所からは彼女の背中しか見えなくなってしまう。襟元がずれ落ちて剥き出しになった細い白い背中に、黒い濡れた髪の毛が貼り付いているのが奇妙に官能的だった。
 (光があり、初めて闇は形を作り得る。闇があって光はその輪郭をようやく露わにする)
 不意に、炎で熱せられた空気が一気に上昇した。立ち上る大きな熱風の塊に煽られて、火の粉が雪のように降り注ぐ。そして濡れそぼった少女の肌の表面で、灼熱の光の粉は儚く溶けた。彼女の細い腕が鬱陶しそうに一度だけそれを払おうとしたが、やがてそんなことにすら頓着するのを止めて足を運ぶことに没頭していく。
 (渾沌だ――)
 光も闇も、全ての秩序が崩れ去った世界を支配するのは、たった一つの巨大な渦。例え秩序の中でどれだけの権勢を持っていても、どれだけの実力を兼ね備えていても、その渦の中では誰もが等しく飲み込まれて行くしかない。
 そしてその渦を細い腕で描いた全ての元凶、渾沌そのものの実態が、今彼の目の前をよろめきながら去って行った。
 決して積もることのない炎の雪が、二人の間に音もなく降り注いだ。


 官邸の正面を守っていた巨大な門の扉は、爆風で大きく歪んで外れ掛けていた。
 扉に続く壁の一部は崩れて巨大な穴を開けており、肌を融かすような灼熱の空気を吹き出してはいるが、小柄な少女の体躯では何とか入れそうな様子だった。ごうごうと音を立てて炎を噴き上げる官邸の敷地内に、迷わず彼女は足を踏み込む。
 その瞬間、何度目かわからない爆音が彼女の至近で響き渡る。巨大な空気の塊と粉々になったコンクリート片もろとも、少女は道路の真ん中まで吹っ飛ばされた。湿った音を立てて強か叩き付けられ小さな呻き声を洩らしたが、長い髪を地面に擦り付けて何とか身を起こすと、再びよろよろと立ち上がり門扉の残骸へと齧り付く。
 今の爆発で、両開きの門扉の片方は完全に外れてしまっていた。それを踏み越え、彼女は官邸敷地内へと身を滑り込ませた。
 広大な面積を誇っていたはずの一国の最高機関は、完全に炎の海に飲み込まれていた。塀と建築物との間隔が広いので何とかその間を動くことは出来るが、とても建物の中には入れるような状態ではなくなっている。既に正面玄関の梁は大きくたわみ、崩れ落ちるまでほとんど時間はないような状態だった。
 左右を見渡した拍子に黒煙を吸い込んで、少女は苦しそうに身体を折って咳き込んだ。元々は木造の伝統建築なので有害なガスはさほど発生してはいないようだが、濡れた木材が燃えているので煙の量が尋常ではなかった。咳き込むとぼろぼろに酷使した身体が悲鳴を上げたが、今更引き返す訳には行かない。煤と泥ですっかり薄汚れた銀の髪房を乱雑な仕草で掻き揚げると、細い腕で口元を覆って彼女はふらりと庭の方に足を向けた。
 我を忘れて駆け出していたときの僅かな記憶を辿り、少女は一つの窓を目指す。目印になりそうな庭木はもう炭になってしまっているか、さもなくば爆発に巻き込まれて地に折れ伏している。第一窓そのものが炎を噴き上げていて、とても近付けるような状態ではなくなっていたのだが、それでも臆することなく彼女は駆けて行った。
 咽喉を詰まらせる煙にむせながら、少女は声を張り上げる。
 「Mr.リューっ!?」
 絶望的な勢いで噴き上がる炎が、食い掛かるように容赦なく腕を伸ばす。瓦礫に足を取られながら、天から降り注ぐ雨水と足元から昇り上がる炎の間で彼女は一人駆け回った。多分ここだった気がする、或いはもう少し奥だったか、もしかしたらもう通り過ぎているかもしれない。持てない確信に振り回され、這いずるように一つの窓と、その奥にいたはずの男の姿を彼女は求めた。
 そしてふと、建物沿いに恐らく庭園として整備されていたらしい、広めに切り取られた空間で足を止めた。綺麗に整えられていたらしい花は熱風と炎ですっかり萎れて色褪せ、その上に崩れた壁の破片を被って見るも無残な姿に変わり果てている。置石は爆風で煽られたのだろう、横転して泥に塗れた根元を露わにする。何か意匠を凝らした亭のようなものを設えていたのだろうが、既にそれは黒い炎を燻らせる巨大な薪でしかなくなっていた。
 その庭園の端に、ぽつりと一人の老人が佇んでいるのを発見したのである。身に掛かる火の粉を払おうともせず、じっと炎を見上げる矮小な老人の姿には覚えがあった。思わず少女は足を速める。
 老人は静かにこちらに目を向けた。その眼差しに縋り付くように、少女は声を上げる。
 「セト・ホーミン!」
 「また来たのか、セ・カンメイ」
 老人の声は、虚ろに冷やかに響いた。
 すっかり乾いた白い髭が、顎の辺りで小さく揺れた。


 ――もっと高く燃え上がれ。
 甫民はじっと炎上する官邸を庭から見上げていた。元々こうなることを見越していた訳ではないが、崩れた壁に開いた穴が通気孔の役割を果たし、建築物は根元の方まで満遍なく火が回っている。急激な空気の対流と外の嵐で凄まじい勢いの風が吹き荒れてはいるが、それゆえに風の流れさえ読み切れたら炎に巻き込まれることもなく至近から火災を眺めることが出来た。
 ――もっと熱く燃え上がれ。
 初めにガソリンをぶちまけた上、脱出時にも随所に火薬とガソリンを撒いておいたので、打ち付ける雨と高い湿度にも関わらず炎の勢いは衰えない。延焼が起こるのはさすがに気が咎めるので雨脚が火花を消してくれるのはありがたかったが、炎が途中で消えるのだけは何としても避けなければならない。壁を崩したのには、官邸を完膚なきまで叩き潰す他に、消火活動を妨害すると言う意図もあった。
 ――天に届くまで、あらゆる柵を燃やし尽くすまで、もっともっと燃え上がれ。
 それが今、甫民が主君に対してしてやれる唯一のことだった。期待と策謀によって押し潰してしまった若過ぎた皇帝へのせめてもの懺悔だった。だからこそ、火をつけてもその場から立ち去ることなど出来なかった。
 煙の一筋すら見落とすまいと気を張っていた甫民は、ふとその瞬間足音を聞いた気がした。やはり不思議な気がしなかった。これは全て予め天によって定められていた、天命なのだと言う気がしてならなかった。
 顔を向けたその場所に、煙に紛れるようにして、施寛美が立っていた。泥と血に塗れ、みすぼらしく濡れそぼって、あちこちに焼け焦げまでも作り、ぼろぼろに傷付いた痩せた少女の立ち姿。大きく引き裂けたスカートとそこから伸びる剥き出しになった足に目が行くが、よく見ると今にも破れ落ちそうな黒い服の下に覗く白い肌も、所々で大きく裂けてずる剥けになっている。
 長い黒髪は整えれば若さゆえの艶やかさを湛えていただろうに、水を含み振り乱されて顔や肩や首筋に貼り付く。乾ききらない血痕が肌の表面で弾かれて脈様の模様を滲ませ、更に髪の毛が黒い乱線を描いて、白い肌にグロテスクな柄模様を浮かび上がらせていた。
 銀の髪房は見る影もなく汚れ、鬱陶しそうに掻き揚げたのだろう、額の上で無残にもつれている。とても若い娘だとは思えない、見るも無残な姿をして彼女はこちらを見詰めていた。
 そして次の瞬間、彼女は悲しげに顔を歪めて声を上げる。
 「セト・ホーミン!」
 縋り付くように、希うように、彼女の目は何かを捜し求めていた。今のこの視線も決して甫民自身に向けられた訳ではなく、その背後に捜し求める者の手掛かりを見出したからに違いない。縋るようなその目が何故かひどく忌々しく甫民には感じられた。
 「また来たのか、セ・カンメイ」
 甫民にとって今、一番会いたくない人物だった。多分未来永劫、最も会いたくない人物になるはずの少女だった。それがよりによってこの瞬間、目の前に現れると言う皮肉がおかしくて、彼は髭の下でほんの僅かに笑った。
 それに気付いてはいないのだろう、少女はこちらへと足を向ける。一体どんな道程を辿ってきたのか、その足は靴をなくしてまともに歩けるのが奇跡に思えるような状態になっていた。本人は走っているつもりなのかもしれないが、ふらふらとよろける足取りはほんの僅かな凹凸にも足を取られそうなほど覚束ない。それなのに、何をそんなに確信しているのか、彼女は迷わずこちらを目指す。
 迷いのないその目が、その心が、甫民には無条件で腹立たしかった。自分自身の行いに何の疑いも持たない幼さが、許せなかった。
 「ここに何の用だ」突き放すように甫民は言う。
 顔に縺れかかる髪を振り払うように首を振り、彼女は声を張り上げた。
 「あいつを、助けに来たの」
 そして不意に、安堵したように表情を緩ませた。「……よかった、あなたがいるなら。助けてくれたのね……」
 消え入るような言葉尻は僅かに震える。今にも泣き出しそうなほど顔を歪め、彼女はそこにへたり込む。そして掌で顔を覆い、弱々しい声を洩らした。「よかった……間に合わなかったらどうしようって思った。よかったぁ……」
 その手首には縛られた痕がくっきりと青紫に浮かんでおり、掌全体も腫れ上がっていたが、それには気付いてすらいないような様子だった。
 甫民はふと彼女に足を向ける。そして寛美のすぐ脇に立つと、冷やかな眼差しで見下ろした。何度も何度も顔を擦ると、少女はようやく項を反らして老人の顔を見上げる。
 「――それで、あいつは?」
 甫民は何も答えなかった。僅かに怪訝そうに寛美は首を傾げるが、その表情はやはり自分の確信を信じて疑わないものだった。あれだけのことをしてきたはずなのに、こんな表情をすると信じられないほど幼い。これも天の皮肉か、と思うと甫民は臓腑を抉られるほどの憎悪に駆られる。
 黙ったままで彼は、不意に右腕を突き出した。その節くれ立った煤塗れの手に絡まった、亜麻色の長い髪の房が空中で頼りなくゆらりと揺れた。そちらに引き込まれるように目を向けた寛美は、きょとんとしたまま何度か瞬く。
 「……え?」
 そしておずおずと甫民の顔を見上げた。だが彼は依然として無言のまま、険しい表情で彼女を見下ろすだけである。その表情と柔らかく光る長い髪を何度も見比べ、次第に寛美は表情を強張らせ始める。
 「……それ、あいつの、よね?」
 それでも甫民は何も言わなかった。ようやく寛美は老人のその表情の中に、燃えるような激情を見付け出す。寛美の強張った表情は、やがて不安に引き攣ったものへと変わっていく。「あいつ、どこよ」
 甫民は不意に首を巡らせると、燃え上がる炎の方に目を向けた。つられるようにそちらに目を向けた寛美は、震える唇で戦慄くように叫ぶ。「どこにいるのよ! どうしたのよあいつを!」
 「――陛下は、崩御なさった」
 ぽつりと小さくこぼした甫民の言葉の意味が理解出来ないと言うように、寛美はへたり込んだまま大きく見開いた目を何度も瞬かせる。「……ほ、うぎょ?」
 押し殺した声で、それでも耐え切れないと言うように甫民は早口に捲くし立てた。「あなたを助ける為に、御自害なさった。民衆を扇動して収容所に囚われたあなたを解放させる為に、電波ジャックを行って自分が首を突く様を全国に公開したのだそうだ――国民全員が、証人だ」
 「……何それ」
 震える声で寛美は縋る。「何よ、タチ悪い冗談やめてよ」
 その彼女の顔をかするように、甫民は亜麻色の髪を垂らす。それを掌で受ける寛美をなじるように、老人は言った。「何が『助ける』だ。二度も陛下にその身を助けられておきながら、ただの一度も助けられなかった」
 寛美は小さく首を振る。「やめてよ、笑えないよそれ」
 俯く彼女の顔に、甫民は力任せに長い亜麻色の髪房を押し付けた。動けずにいる彼女をこのまま詰り殺しそうな勢いで、老人は咽喉を震わせた。「陛下はあなたの為にお亡くなりになった。無力なあなたに殺されたのだ」
 目に見えるほどびくりと寛美は身体を強張らせた。そして自分の目の前に垂らされた髪の毛に縋り付くように腕を絡めると、何度も何度も首を振った。「待ってよ。わかんないわよどういうことよ、あいつここにいるんでしょ?」
 甫民は不意に掌を離した。長い髪を取りこぼさないように身を乗り出して受け取ると、寛美は顔を押し付けた。そしてそこに血の匂いを嗅ぎ取る。
 「……だって、あなた強いじゃない」
 「それでも陛下は死んだ」
 深く切り付けるように甫民は言った。「あなたのせいだ。あなたの不断が悪いのだ」
 「でも……」
 「あなたが陛下を殺したのだ」老人は彼女に、口を挟む隙を与えなかった。
 へたり込むと、唯でさえ小柄な寛美はいよいよ小さく子供じみて見える。彼女があの皇帝と天命を共に分かつ者だという、それがひどく腹立たしかった。
 打ちひしがれたような、絶望に歪む彼女の表情を見ても、老いた胸には何の感慨も沸いてはこなかった。八つ当たりだとわかっていても、それでも誰かに当たらなければ堪えきれなかった。どうして、という感情を押し留めることは出来なかった。
 「どうして陛下がお亡くなりにならなければならない。どうしてあの陛下が犠牲にならなければならない。お優しい気性の大人しい、いつも無欲で本来ならば誰に害を為すこともお望みになられないあのお方が、どうしてこんな末路へと辿り着かなければならない」
 ――わかっている。そんな彼だからこそ、真っ先に自らの身を捨てることを選んだことを。誰も切り捨てられない彼だからこそ、これ以外の道を選ぶことなど出来なかったことを。
 それでも同じ宿命に生まれ付いたはずの彼女が、余りにも対照的な道を歩んでいるのを見るのは堪らなかった。
 「陛下もあなたも、共に天命を受けて生まれたはずなのに」
 天の子たる皇帝は、世界の理を司る。光と陰のもたらす摂理の流れを司る。
 それゆえに彼は、道理の中に絡め取られて動きを封じ込まれた。僅かな自由すら奪われて、檻の中で無残な最期を遂げた。
 ――同じ宿命に生まれつきながら、彼女の掌には光陰の届かぬ原始の泥がもたらされていた。全てを無に帰し、渾沌へと導く力。檻を崩し、枷を壊し、全てのものを混 沌の泥に溶かし込む力。
 何の法則もなくただ子供じみた無秩序に彩られた行動で、何もかもを乱していくことしかしない。真っ先にその煽りを受けるのは、常にもう一人の天子だった。
 「光陰の息子と、混沌の娘」
 秩序は、法規は、国家は――本来天の息子が司るはずだったものは、いつしか彼の手に負えない化物に成り果てていた。守らなければならないはずの土地を人を食い荒らし肥太る巨大な蜘蛛と成り果てて、巨大な糸の罠を張り巡らせていた。
 その糸に絡め取られた美しい蝶は。毒が回ってもう動けなくなったはずの彼は。
 その美しい翅で回りを魅了し、自分諸共に銀の糸で全てを絡め取って堕ちて行った。そして自分の死と引き換えに、全てを混沌の娘に預け渡したのだ。
 この世界の荒廃に、彼は何の罪もないはずなのに。
 ――いや。
 二人が共に天の代弁者であるならば。
 「背負う罪悪は同じはずなのに――」
 小さな擦れた声で、寛美は泣き出しそうなか細い声を絞り出した。「……やめて」
 だが、甫民は断罪の手を緩めることはしなかった。多くの敵に同胞に恐れられた甫民の厳然とした憎悪が、今は唯一人の目の前でしゃがみ込む少女に向けられていた。 「陛下の代わりに、あなたが死ねばよかったのだ」
 「やめてよ……」
 甫民は白髯に覆われた顔を歪めた。そして彼女の方に身を屈めると、その顔に吐き捨てるように語り始めた。「――やがてこの国は崩れ落ちる。そしてきっと陛下崩御の報は、全世界に広がる。それが何を意味するかわかるか」
 心細げに目を瞠る彼女に、刻み付けるように老人は続ける。「陛下が誰より無事を願った女が、そして陛下の子が、恐らくは今この瞬間も追手から逃れようとしているはずだ」
 一瞬凍り付いた後、齧り付くように寛美は顔を上げた。「知ってるわよそんなこと!」
 その表情を歪ませる感情の正体を、甫民は知らない訳ではない。嫉妬で歪んだ顔を隠しもしない少女を、甫民はひどく冷やかに見下ろした。
 そして次の瞬間、少女は息を飲んで言葉を失った。彼女の額の辺りで絡まる銀色の髪房を、老いて骨ばった指が荒々しく引き掴んでいた。「何を知っているんだあなたは――あの女が、陛下なしに生きていける女ではないと、知っていてそれを口走るか」
 瞼を唇を引き攣らせて甫民の表情を上目遣いに伺った寛美は、やがてその言葉の真意を悟り咽喉から声をこぼした。「……それ」
 ――元より彼女が無事に逃げ延びられるなどと、甫民も思ってなどいなかった。ただ余りに残忍な運命の中で、奇跡を願わずにはいられなかったのだ。しかし政府による彼女の捜索が途中で打ち切られ、彼女と子供の消息が伝えられないという情報を手に入れたときから、願いは淡い期待に変わっていた。
 生きていれば――やがてあの二人の再会の日を見ることが適うかもしれない。或いは主君の子と――彼の初めの主君であった公主から数えれば四代目に当たる幼子と見える日も来るかもしれない。諦めなければ、強すぎる願いはいつか適うかもしれない。そう、信じていた。
 けれど、多分あの女は――その身に皇帝の子を抱えた女は、彼の死を知ってそれでも生きていることを選ぶことなど出来ない。あの二人を誰よりも傍で知っているからこそ、一連の出来事が最悪の流れを辿っていることが見えてしまった。
 甫民は少女の黒髪を掻き揚げ、泥まみれの幼い顔を睨む。彼女はきっと、彼の目が灰青であることを知るだろう。
 「……あの女と、陛下の御子が亡くなれば、それはあなたのせいだ」
 驚愕に見開かれた目と、僅かに開かれたまま震える唇は、何故か無表情に近かった。その色を失った白い顔に上る表情は、哀惜と後悔だろう。それでよい、と甫民は思う。どれだけ痛めつけても満足することは到底あり得ないが、それでも彼女が悔いて自分の行為を理解すれば、それは幾らかの心の慰めになる。
 (――それも、全てわたしの自己満足に過ぎないのだが)
 主君は怒るだろうか、とふと思った。彼を慕い彼の片割れである天の娘を痛めつけることは、彼の意思に叛くことに違いない。それを彼は嘆くだろうか、とぼんやりと老人は考えた。
 そして、あの若い主君はもう二度と何かを思うことすら出来なくなっていることに改めて気付いた。
 あれだけいとおしんでいた女を、もう恋しいと思うことすら適わない。そんな彼が堪らなく哀しかった。
 「……や……」
 長い亜麻色の遺髪を握り締め、寛美は小さな声を洩らした。その両の目から、透明な涙がぼろぼろと流れ始める。頬の泥を洗い流す涙は、土の色に黄色く濁って顎から落ちていった。
 その頬の上に、別の涙の雫が二粒落ちた。老人の目に映る少女の顔が、大きく歪んだ。
 「……ぃ…やぁぁ……っ……」
 涙は、煌々と燃える炎の色を映し、赤く染まって見えた。


 どす黒い血の色が、強く彼女の目を刺した。その色の禍々しさに、思わず紅凰は後退る。
 「ち、違います」
 頭痛も忘れて彼女は何度も首を振った。
 「わたしが逢いたいのは、ロンで……」
 「そうですよ」冷淡なほど静かに、ミレアは言った。「だから、これです」
 不意に最悪の想像が脳裏を過ぎる。思わず紅凰は膝を突いて、それを打ち消すように首を振った。長い髪の毛が床に広がる。「だって、『ネーヴェン・バーブ』へ行けば……ここへ来れば、逢えるって……」
 そしてその瞬間、奇妙な違和感を覚える。「ネーヴェン・バーブ……?」
 ナイフを掲げたまま、ミレアは言った。その淡々とした声音は、鼓膜ではなく頭の中に直接響いているような気がした。音ではなく意味として響く声音が、その意味を告げる。
 「そう、『ネーヴェン・バーブ』――ここの言葉で、『ここではないどこか』」
 ふと脳裏に、その言葉を初めて聞いたときの記憶が甦った。どこともわからない港で、道行く人を片端から捕まえて尋ねた。その内の一人が――ひどく煩わしそうに答えた言葉。
 それを頼りに、ずっと歩き続けて来ていた。ひたすらそれだけを尋ね続けて、そこへ辿り着くことを信じて、ここまでやって来た。
 知らずに彼女は、乱れた黒髪を掻き毟る。「――逢わせて下さい」
 そして、狂騒を起こしたように虚空を――ミレアのいるであろう位置を見据える。
 「お願い、逢わせて! ロンに逢わせて! もう冗談は止めて、あの人はどこにいるの?」
 「彼は――」ミレアは、珍しく少し躊躇った後に、静かに答えた。
 「素乾竜血樹は、死にました」
 彼女が何を言ったのか、紅凰には理解出来なかった。
 ぽかんとした表情を浮かべる彼女に、ミレアは補足する。「彼は、自らそのナイフで首を突いて死にました」
 「嘘!」ミレアの言葉が終わらない内に、投げ付けるように紅凰は叫んだ。「嘘よ! 誤魔化さないで!」
 本当に逢えるのだと、それだけを信じて苦痛に耐えてきた。延々と歩き続けた結果が、これでは許せなかった。こんな結末を信じる訳には行かなかった。
 「逢わせてよ、ロンに逢わせて!」
 身を乗り出すと、その鼻先にずいとナイフの柄が突き付けられた。鮮烈で生々しい血の臭いが鼻を突いた。
 思わず彼女は、そのナイフに指先を当てた。何度か躊躇った後に指を絡めると、不意に重みが掛かる。それを胸元に引き寄せて、呆然と紅凰は見詰めた。血はだいぶ乾いていたものの、柄の辺りの窪みに入り込んだ部分はまだぬるぬるとした光沢を放っていた。
 「……これ、ロンの、血……?」
 呟いた紅凰に、ミレアは答える。「そうです」
 指先で柄に彫り込まれた模様をなぞると、乾き掛けて粉っぽくなった血が着いた。少しだけ指で口に含むと、金臭い味がする。
 震える声で彼女は呟く。「……信じないから」
 それでも、するすると身体の中に絶望が流し込まれていくような気がした。
 ナイフ自体には見覚えがなかった。彼は幾つか護身用に持っていたが、それをじっくりと見せてもらったことはなかったし、こんな大振りのナイフはおぼろげな記憶の中でも該当するものがない。
 けれど、その刀身全体を染め抜いた血が彼のものだと言うことは、不思議なくらいすんなりと受け入れられた。昔から嫌が応にも慣れさせられて来たはずの血の匂いが、他の誰のものでもなくてただ彼自身のものだということを、何故かひどく確信していた。
 思わず紅凰はそのナイフを胸に抱く。刃が白い胸や腕を傷付けたが、そんなものは気にもならなかった。ただずっと彼の身体を流れていたはずの血液――そんな彼の肉体の断片すら、堪らなく愛しかった。
 乾いた瞳を見開いたまま、彼女は呟く。「迎えに来るって、言ったの――」
 その声音すら生々しく覚えている。
 ――優しい声。今にも泣き出しそうなほど悲しげなのに、それでも精一杯の虚勢を張った声。ずっとそんな人だった。年上の彼女につりあうようにと、いつも背伸びをしていた。
 幻のように美しい人だった。その白い肌の内側を流れていたのが、こんなに赤く黒い血だというのは、納得しているはずなのにそれでも信じられなかった。泣くことすらも忘れて、彼女はその乾いた血液のざらざらとした感触を確かめていた。
 おもむろにミレアの声が響いた。「もう一つ、あなたには忘れ物があります」
 俯いたまま紅凰は首を振る。
 「……一回の人生に、一つだけではないのですか……?」
 まだ乾き切っておらず粘り付く鮮血をいとおしむように一心に掌に移しながら、彼女は小さく呟く。淡々としたミレアの声が、がらんとした棚の間に寒々しかった。
 「あなたは、『紅凰』の前に『劉夏火』の人生を持っています。だからあなたには、二つ目の忘れ物を与えられる権利があります」
 詭弁だ、と彼女は考える。もうとっくの昔に、その人生は捨てたのだ。一番逢いたい人に逢えないのなら、もうどんなものも意味がない。二つ目はいらない。もう何もいらない。
 そんな彼女の前に、ぼろ布の包みが差し出された。見向きもしない紅凰に、ミレアが珍しく優しげな声で言う。「……どうか受け取って下さい」
 けれど彼女は黒髪を振り乱して首を振る。自分の血とナイフの血とで白い胸元を染めながら、紅凰は顔を背けた。
 震える小さな声で彼女は呟く。「いらない。……いらないから、ロンに逢わせて。一目でいいから。一瞬だけでいいから……」
 けれど、ミレアは包みを抱えたまま紅凰の前へと回り込む。それを避け続けて、遂に紅凰は床に突っ伏した。涙すら出なかった。涙の代わりに彼女は、傷付いた肌から血を流していた。何も考えられなかった。考えたくなかった。
 不意にミレアの、よく通る声が耳を刺した。
 「いいから受け取って下さい。これは『彼』の望みです」
 彼、という言葉に思わず紅凰は顔をもたげた。そして宙を見詰め、自分のすぐ前に布包みが浮いているのに気付く。ミレアの目に見えない手が、中を見せるように布の端をゆっくりと払う。その布が、やはり赤黒く汚れているのがわかった。今度は誰の血だろう、とほとんど絶望的な思いで彼女はそれを見る。
 そして何度か瞬き、目を見開いた。
 「覚えていませんか? あの草原の中で、生まれた子供です」ミレアの声がほんの僅か暖かくなった。「あなたが産んだ子供です」
 何度か瞬いて、紅凰は記憶の霞を払った。――そう、確かあの『無限の草原』の中で凄まじい痛みに襲われて、意識すらほとんどなくしてしまった。それでも辛うじて残った僅かな意識の中で、彼女はこの子を産んだのだ。産湯も産着も何もなく、自分が着ていたぼろの服を仕方なくこの子に着せたのだった。
 紅凰は、身体を引き摺りながらその子ににじり寄った。まだ臍の緒も付いたままのその赤ん坊は、皺くちゃの顔のままで眠っていた。目に見えるものは何もその身体を支えてはいないのに、透明な腕の中で子供は寝息を立てている。
 あやすようにゆったりと赤子を揺すりながら、ミレアの声は淡々と言った。「どちらもあなたのものです。あなたがどうするかまでは、わたしの言及できる問題ではありませんが」
 紅凰は、赤ん坊を見開いた眼差しで見詰めた。身じろぎ一つせずに寝息を立てる子供が、冷たい空気にひどく不似合いだった。
 どす黒く凝固した血液で肌に染みを作った赤ん坊は、真っ赤なぐしゃぐしゃな顔をしていて、まるで人間には見えなかった。人の皮を被っていない、剥き出しになった命の塊のようで――ひどく、醜いと彼女は思った。こんなものをずっと抱えて、自分は歩いていたのかとぼんやりと思う。
 ふと彼女は、胸に抱いたナイフに目を落とした。つい今し方突き付けられた、愛しい男の最期の残骸。その、失われた命。
 そして、困り果てたような泣き出しそうな表情を浮かべ、ひどく小さな声で呟いた。
 「――ごめんね」
 その次の瞬間、彼女はナイフを持ち替えた。そしてそれを構える。
 ぐっと目を閉じると、瞼の裏が炎のように熱かった。


 いつだっただろう、彼に、この歌の最後をねだられたことがあった。

  冬が来たら 柔らかい雪が降り始める

 「あの歌を最後まで聴いた恋人達は、近い内に必ず別れるって言われてるの」
 そう言って断った彼女に、彼は眉をひそめた。「俺は、絶対に別れないからな。絶対に、死ぬまで一緒だからな」

  だから私はあなたと共に 白く冷たい雪の下で

 だから、唄えなかった。もしも最後まで唄ったら、本当に彼を奪われてしまうような気がした。
 残酷で、だけどあまりにも確かな予感。それはきっと二人とも感じていた。

  白く冷たい雪の下で あなたと共に眠りましょう

 あのときに唄えばよかった。強く彼女はそう思う。
 こんな風に別れてしまうのなら、せめて聴かせてあげればよかった。
 ――誰よりも彼女の歌声を愛してくれたあの男に。

  もう二度と目覚めなくていい あなたの夢だけ見ていたい


 振り上げたナイフが、ざくりという音を立てた。漆黒の髪の毛が床に散る。
 左手で自分の長い髪の房を握った紅凰は、右手に握ったナイフでそれを根元から切り落としたのだった。膝裏を越える長さを誇っていた闇色の髪の毛は、房のまま床へと落ちる。何も浮かばない表情のまま、紅凰は虚空を見詰めた。
 項すら満足に隠せないざんばら髪になった彼女は、ナイフを髪の房の隣に置くと、そっと血塗れの両手を前に差し伸べた。覚束ない手付きで受け取った赤子をそっと揺すると、睫毛すら疎らな瞼が少しだけ揺れる。思わず紅凰は身構えたが、細い腕の中で赤子は小さな手の小さな指をくわえて、そのまま寝入ってしまった。
 生まれたばかりの、産湯にすら浸かっていない子供は、ひどく頼りなかった。少しでも力の入れ方を間違えたらくたくたに崩れてしまいそうなほど、小さくて柔らかかくて脆そうだった。恐る恐る指先で触れてみると、ナイフを握り過ぎて白く冷たくなった彼女の肌に、じわりと温もりが伝わって来る。生臭い血の臭いのする、いとおしい命の塊――。
 「何でだろ……」
 紅凰はぽつりと呟いた。「こんなにくしゃくしゃなのに、ロンによく似てるの……」
 全ての荷物を手放してしまってどこにいるかわからないミレアに向かって、紅凰は言った。「よく似てるの、そっくりなの」
 「親子ですから」
 ミレアの声に、紅凰は何度も何度も頷いた。ばさばさに乱れた髪の下で、彼女は目を見開いた。
 「……ロン、ごめんね」
 虚ろな声が棚の間でがらんと響いた。涙すら流さずに、からからに乾き切った声で紅凰は呟いた。「ごめんね、わたしまだ行けない。あなたの赤ちゃん捨てられない。だからごめんね。まだ、あなたのところへ行けない」
 ――彼を愛しく思えばこそ、この子を置いてはいけなかった。
 もう他に血族のいない、たった一人ぼっちの人だった。あの遥か昔の王朝の血をその身に宿す、最後の一人だった。
 だからこそ彼の命は、駆け引きの道具にされた。家族を持つことも許されず、死ぬことすら許されなかった。
 そんな宿命に気付きもせず、無邪気に自分に纏わりついていた彼が堪らなく不憫だった。――その運命に気付いてなお、それから懸命に目を逸らして笑おうとする彼が堪らなく悲しかった。
 彼を置いて逃げることになったとき、本当はどこかでわかっていた。彼はその身を賭して自分とこの子を守ろうとしているのだと言うことを。勝ち目のない戦いに身を投じようとしていることを。そしてそんなにも――我が身を犠牲にしてまでも、彼が自分とこの子の無事を願い続けていると言うことを。
 「ごめんね……ごめんね、わたしまだあなたに会えない」
 この子を連れていくことは出来なかった。そんなにも彼が望んだこの子の命を、自分が葬り去ることは出来なかった。
 さりとて、自分だけがいくことも出来なかった。そんなことをしたら、こんな小さな赤ん坊が一人で生きていくことなんて出来ない。
 この子を、あの砂の女にする訳には行かない。あんな悲しい声をして、砂漠で一人彷徨う宿命を負わせる訳には行かない。
 ――どれも選べなかった。彼をいとおしく思えばこそ、彼から離れていくことしか出来なかった。彼から一番遠いところで、彼の面影を抱えて蹲るしか出来なかった。
 「……ごめんね、ごめんね。いつか会いに行くからね――絶対会いに行くからね。ごめんね、ごめんね……」
 あなたのことを忘れた訳ではないから。
 あなたのことを嫌いになった訳ではないから。
 あなたの傍にいたくない訳ではないのだから。
 だから、それまで待っていて。一人は寂しいだろうけど、どうか先に待っていて。
 ――涙すら出なかった。悲しさと愛しさに、全てを塞き止められたようだった。




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