モドル | ススム | モクジ

第十四夜・上


今吾生之爲我有而利我亦大矣
論其貴賤爵爲天子不足以比焉
論其軽重富有天下不可以易之
論其安危一曙失之終身不復得

わたしはただ、わたし自身の為に生きている。
この命は、天子よりも尊くて、
世界よりも価値があり、
そして一度失われたら、二度と戻ることはない。

(『呂氏春秋』巻第二 本生より)



  第十四夜・上



 全韓共和国総統官邸――別名青屋根御殿。
 王朝期に建てられたこの豪勢な木造建築は、嵐の中で無数の民衆に取り囲まれていた。
 口々に上がる怒声は、無数に重なり合ってもはや言葉の意味を為さない。時折何か大きなものが吹き飛ばされてぶつかり合う音や、ごうごうと唸る風の音と混ざり合い、日常を圧倒するような気配を作り上げていた。
 官邸を囲む塀には数箇所の門があるが、そこには長銃を抱えた幾人もの警備兵が身構えている。さすがに拳銃を恐れた人々はある程度の距離を保ってはいたが、拳銃を中心にして広がる半円形の真空空間は少しずつ面積を縮ませていた。
 首都を突然襲った暴動は、政府に対する憤怒の情を噴出させていた。政府の中枢であり象徴であり、同時にこの動乱を巻き起こした『元凶』の発生地であるここ総統官邸は、混迷を来たす首都の中でも最も混沌とした場所に成り果てていた。
 この要所を守る為に軍部からかなりの人数が緊急派遣をされてはいたが、幾ら相手が武力を持たない民衆だとしても、これだけの数で掛かって来られると焼け石に水に等しい状態でしかない。兵士達は、文字通り嵐が過ぎ去るのをじっと待ち続けるしかなかった。
 「……どうなってるんだ」頭から雨水でずぶ濡れになった兵士が、誰とはなしに呟く。そうしている間にも、官邸を囲む人垣は一層厚みを増していく。天上で吹き荒れる嵐も一向に勢いを衰えさせる気配を見せない。さっき台風の目が通過したので、ようやく半分は過ぎ去ったのだろうが、それでもまだ今までと同じだけの嵐が待っているのかと思うと気が遠くなりそうだった。
 ましてや官邸に押しかける人の嵐は、例え天の嵐が過ぎ去ったところで収まると言う保障はどこにもない。これだけの人間を、どうやれば片付けることが出来るのか、到底見当がつかなかった。
 数人で組み、門扉を守る衛兵の一人がぽつりと呟いた。「――こんなときに、全大佐を外すなんて」
 彼の仲間は少し驚いたようにそちらを向くが、ぼそぼそと抑えた声で軽く諌めただけだった。「大声では言うな。その発言、今すぐ俺達に撃たれても文句言えないぜ」
 「……この状態でこれ以上人手が減ってもいいのかよ」ふん、と兵士は鼻を鳴らした。「今でもぎりぎりなんだ、ほんの少しの変化で総崩れだ」
 ――その瞬間だった。
 ふと正門の前の人垣から、怒声とは異質の声が上がった。小さな悲鳴のような声や、押されて不服を訴える声――それが、始めは人垣の一番外側から、次第に内側へと近寄って来ていた。その周辺の人垣が揺れ、波紋のように動揺が伝播していく。
 険しい顔で、門扉を守っていた一塊の兵士はそちらに一斉に銃口を向ける。だが、彼等はその引き金を引くことが出来なかった。
 不意に人の群れの正面が割れた。無数の人垣の中に空いた円形の空間が、弾けたように最前列の最前列で口を開ける。
 そして円の中心には、腰の曲がった一人の老爺がいた。よく見ると、その濡れそぼって痩せた背には長い髪を垂らした細い人影が背負われているのがわかる。
 その濡れた髪の色が亜麻色であるのを見て取って、幾らかの兵士が動揺したような声を上げた。その真意に気付いたまた別の数名が、びくりと後退る。警戒して銃を構える兵士達を気にも止めず、老人は一歩ずつ足を擦りながら門扉の方へと歩み寄って行った。
 微章と腕章をつけた兵士が、周囲に押し出されるようにして老人の前に駆け寄る。
 「な、何の……」
 そしてびくりと身を竦ませた。老人が背負う亡骸から滴った血液が、雨で滲んで老人の服に赤黒い染みを作っているのが見えたのだ。思わず身構える若い兵士をねめつけ、老人は言った。ひどく静かであるにも関わらず、雨音に掻き消えないその声音が、死臭に似たぞくりとする空恐ろしいものを匂わせる。
 「そこを通すんだ。邪魔をするんじゃない」
 老人は武器らしい武器を掲げている訳ではないのに、その若い兵士は弾かれたように飛び退いた。少し離れたところにいた兵士達も、思わずそれを遠巻きにしてしまう。老人が全身から放つ殺気もさることながら、彼の背中にぐったりと抱えられた亜麻色の髪の主が意味するところを知っていれば、なおのこと押し留めることなど出来なかった。
 その凄惨な最期と、彼によって感染させられた人物の存在は、何よりも強い恐怖として彼等を竦み上がらせた。
 ごく当然のように、老人は脇に避けた兵士達の間を潜り、門扉の前に立った。「通せと言っているだろうが」
 その言葉に、慌てて兵士は重い鉄の扉を開く。本来ならば決して許されるはずがないことなのに、恐怖心がそれを強要した。
 人の背丈よりも遥かに高い鉄の引戸を開かせると、老人はその隙間からよたよたと足を引き摺りながら入っていった。そして扉は、内側から再び堅く閉ざされる。金属の軋む音を立てて、老人の姿は完全に官邸の敷地の内側へと消えた。
 少し遅れて、誰とはなく群衆の中から声が上がった。「あれ、伝染るんじゃ……」
 ざわめきは瞬く間に広がる。「伝染るって、どうなるんだよ」
 「テレビでなってたじゃないか」
 「死ぬのか?」
 兵士達が我に帰ったときには既に、狂騒を起こした人垣は手がつけられない状態になり果てていた。


 官邸の廊下中に敷き詰められた赤い毛氈に、汚く濁った雫が足跡のようにぽつぽつと落ちた。
 ふと甫民が顔を上げると、正面に数人の人間が佇み、彼を遠巻きに眺めているのが見える。恐らくは官邸の使用人の類だろう、男も女も綯交ぜになっているようだ。
 老いた背に主君の亡骸を背負ったまま、甫民は静かに言う。
 「――お前達の主は、ここにはいないのだろう? ならばどこへなりとも行けばいいじゃあないか」
 傲慢なほど居直る老人に、彼等は困惑の色を滲ませる。その狼狽する顔に向かって、甫民は見る者を竦み上がらせるような笑顔を浮かべた。
 「どうせここはじきに崩れ落ちる。もはや止まらないのだから、お前達はどこかへ逃げた方がいいだろうよ」
 彼等は色を失い、顔を見合わせる。しかし、今更になってもなお、どうするべきか逡巡しているのが甫民にとってはおかしかった。
 よく見ると武器を持っている人間も混ざっているようだが、誰も攻撃を仕掛けようとはしない。甫民は、哄笑で益々口元が歪むのを感じる。
 全ての元凶に用いられたウイルスの特性はよく知っている。酸素に極端に弱く空気感染が極めて稀な為、宿主が死ねば諸共に滅びざるを得ない非常に弱いウイルス――それが老いた彼の主君を追い詰めたものの正体だ。恐らくは、こうして亡骸を背負っている甫民ですら感染することは稀であろうと思われる。
 ただ、それが一度体内に入ると駆除することがほとんど不可能で、まず間違いなく血塗れになって最期を遂げる、というだけの話である。確かにそれは恐ろしいことかもしれないが――恐らくは、この背に負われた少年にとっても恐ろしいことであったかもしれないが――、今更になって徒にそれを回避しようとするのは余りにも無意味だ。返り血でウイルスに感染して死ぬ可能性よりも、このまま甫民を野放しにして巻き添えにされて死ぬ可能性の方が遥かに高いということに気付かない彼等が甫民には滑稽で堪らなかった。
 (……何を恐れる。ついこの間まで、お前達の主君に弄られてお前達に見殺しにされていた少年だろう)
 ――本当は、彼等全員を巻き添えにしてやりたい。けれどそれは、少なくとも今の目的ではなかった。
 もっと優先して、為すべきことがある。為し遂げなければならないことがある。
 「さあ、どこへなりとも行け」
 不意に硬化した甫民の声に弾かれるように、彼等は踵を返した。そして早足にばたばたとドアの方へと立ち去って行く。途中で他の使用人と出くわし、何やら短い声を上げて共に去って行く音も聞こえた。
 人の気配の消えた官邸の廊下を、再び甫民はよたよたと覚束ない足取りで進み始めた。
 もう誰もいない廊下の先に、彼の目的があることを信じて。
 彼の為すべきことがあることを信じて。


 渋滞した道路を横目に、歩道に半分乗り上げる形で車を止めた金は、せわしなく左右するワイパーを眺めながら煙草に火を付けた。そうしている間にも、歩道を学生の集団が何かわめきながら通り過ぎて行く。目をやるまでもない、その先にあるのは官邸だ。
 冷静さを完全に欠いた平壌は、集団ヒステリーに近い状態に置かれているようだった。こんな嵐の中で、気が触れたようにがなりたてながら集団で政府機関に暴動を起こしているなどと、確かに正気の沙汰とは思えない。
 (狂わせたのは、あいつか――)
 彼のあの姿を知れば、彼の為したことを思えば、それは大いに納得がいく気がした。
 ――その瞬間に居合わせることのできなかった自分ですら、こんなにも狂わされているのだから。
 (よく考えたら、俺もとんでもないことしでかしてるよな)
 これであの老人が更にとんでもない行動に出ようものなら、言い逃れが出来ないほど完璧に自分は共犯である。そんなものは性に合わないと自身が誰よりもわきまえていたはずなのに、それでも今だけは常軌を逸した自分を認めたいと思う自分自身がいる。
 独特の昂揚感を何とかなだめようと、煙を深く吸い込んだ瞬間だった。
 不意に電子音の旋律が耳を刺した。顔を少ししかめると、彼はハンドブレーキの隣の物入れに突っ込んだままの携帯電話を取り上げた。サブウィンドウに表示された発信者は、自分の勤務先である『病院』だった。――さぼりが遂にとがめられたか、とよくわからない覚悟を決めて彼はキーを押した。
 「はいよー」
 『金さんですか? どこにいるんですか何やってるんですか!』
 やたらと忙しない声が耳に響く。いつも金と劉のお守りに回されている韓の身上には同情するが、さすがにいきなりこの声は鬱陶しかった。
 通話口を耳から離しながら、奥歯で煙草をくわえたまま金は気のない返事をする。「ちょーっとした騒動に巻き込まれてるんだよ。白いお髭の魔法使いに馬車に変えられちまってさあ、十二時になったら魔法が解けるからそれまで待って」
 電波を越えてやってくる声は厳しい。『冗談を言っている場合じゃないんです! 本当に緊急事態なんですよ!』
 もう十分緊急事態じゃん、と軽口を叩きそうになった金は、有無を言わせず続く言葉に絶句した。
 一息に何も言わせず韓は語り、金は何も口を挟むことが出来なかった。挟める内容では到底あり得なかった。
 (――『傾国』……)初めてその言葉の意味を、実感を伴って理解した気がした。
 そして既にこの国が、立ち直りようがないほど完全に傾けられていたことにも。
 『――もしもし、聞いてますか、金さん? もしもし?』苛立つような声で韓は繰り返す。
 やっとの思いで、彼は掠れた声を絞り出す。「……ああ。それで、それはもうどこかに連絡は?」
 当然、と言わんばかりの調子で韓は答えた。『官邸には連絡しましたが、それ以外はまだです。当面伏せておく意向にはなっているようですが、正直どうなることやらこっちにも全然見当が付かないんで』
 「……だろうな。漏れたらこれでこの国も完全におしまいだ」
 頭のどこかが妙に突き抜けていた。重なり過ぎた異常事態に遂に自分の頭は麻痺したか、などとそれこそ他人事のように思う。
 通話口から聞こえてくる韓の声が苛立った。『だから早く戻って来てく』
 金は電話を握っている親指で、ホールドキーを押した。ぷつ、と音を立てて通話は途切れる。
 そして彼の掌の中で、再びさっきと同じ電子旋律が響き始める。ホールドキーに重ねた親指にぐいと力を込め、金は電話の電源そのものを切った。鈍い灰色に濁った液晶にふと目を落とすと、そのまま彼はもう一度物入れの中に携帯電話を投げ込んだ。
 それからカーラジオの操作盤の下にある灰皿を引っ張り出して煙草の灰を落とすと、歯形の付いたそれを再びくわえ直す。
 ふと思い付いてワイパーを切ると、あっという間にフロントガラスの視野は雨水に遮断された。これでいい、と彼は車のエンジンも切ってしまう。物音が消えると、これで完全に外の世界から切り離されたような気がした。
 あの、醒めない悪夢のような現実から、綺麗に遮断された気がした。


 「……わかりました」
 金は携帯電話を耳に当てたまま頷いた。それから通話を切り、折り畳み式の電話をぱたりと閉じる。
 隣の席で僅かに身を屈め、傷をかばうような格好でじっとしている弓は、全くこちらに意思を向ける気配がない。唇をぐいと引き結んだまま、じっとフロントガラスの向こうの景色を眺めていた。先導するジープとこの車の隙間から、大声で何かを喚いている学生の集団が垣間見えた。ジープに野次を飛ばしては威嚇の銃口を向けられているが、それにも全く頓着する様子を見せなかった。
 (――狂っている)
 ぽつりと閃くように金は思った。
 ここは、政府に反逆することが自動的に死を意味する国である。人間を含む動物の本性は、死を恐れるべきものなのに――ごく稀に、非常に稀に、自分の願いの為なら命をなげうっても構わないと自爆に及ぶ者はこれまでにもいたが、これだけの大人数が一斉に立ち上がるなど前代未聞だった。その気になれば、彼等を殲滅することなど難くはない。それは民衆の方もわかっているだろうに、それを踏まえた上で敢えて立ち上がっているのである。この平壌を揺らすほどの大人数が死を恐れない――この状況を、狂気と呼ばずに何と呼ぶ。
 「……何故殺さない」
 吐き捨てるような小さな声に、金は隣を向いた。苛々と膝頭を揺すりながら、弓書記官は険しい面差しで学生の集団を睨み続けていた。
 「この場で殺せばいいのだ。見せしめにも適当だと言うのに」
 (そんなことをしても、無意味なのだ)
 死を恐れない人間を殺しても、何の脅しにもなることはない。むしろ逆に怒りを煽り立て、この場を戦場にするだけである。軍備の整った一個師団でもあるのなら話は別だが、ここにいるのは僅か数名の護衛のみ――その上、足手纏いになることが間違いないこの車まである。まともにぶつかり合うなど愚の骨頂も極まったところなのだ。
 (この人もまた、狂っている――)
 ――事実上この国を支え続けていた、本来は有能な人物だった。しかし今は、こんな単純なことにすら気付かない。冷静な判断力をなくし、たった一人の少女に固執して暴走する、その姿はいっそ哀れに思えるほどだった。
 けれど、金は敢えてそれを指摘しなかった。処分されることへの恐怖心にも踏み止まらなかった訳ではないが、むしろ指摘することの無意味さを誰よりもよく知っていることの方が大きかった。このまま彼がどこへ行き着こうとしているのかはわからないが、それを見届けても構わないと頭のどこかで思っていた。
 だからこそ、敢えて金は弓の言葉には応えなかった。
 「……只今のは、病院からの連絡でした」
 怪訝そうに眉をひそめてこちらを向く弓に、彼は静かに補足する。「ウイルス感染者が入院中の、中央病院からです。緊急事態が発生しました」
 「何だ」
 全く気のない返事をする弓に、金は僅かに抑えた声で伝えた。「総統陛下並びに幕僚の方々併せて七名が、先ほど亡くなりました」
 こちらに向き直った弓が、充血した目を見開く。「……何?」
 「死因についてはわかりませんが――取り敢えず、上層部がこれで消えました」相変わらず静かに金は続ける。
 テレビを見せるように指示してあったのだ。凄絶な中継にショックを起こしたか気が触れて命諸共投げ捨てたかはわからないが、あの放送と何らかの関係があることは疑いようもない。だから、しいて死因を挙げるなら『呪い』とでもするべきだろうか、等とぼんやり金は考える。
 呪詛のような宗教行為自体は弾圧と厳罰の対象だが、それによる間接的殺人は罪には問われない、等と取り留めのないことが脳裏に浮かんだ。
 「どこまで伝わっている」
 張り詰めた声で弓は尋ねる。予期していた質問に、用意していた返答を金は与える。「まだ病院内部のみで封じ込んでいるようです。緘口令も既に布いています」
 口元を歪めて笑みのような表情を作ると、金よりも恐らくはかなり年下であるはずの若い書記官は鷹揚に言った。「……相変わらず、根回しが早い」
 「状況が状況ですので」
 普段ならばともかく、今は一介の指示待ちロボットになっていてはどうしようもないのである。何とかあの国の頽廃した政府を渡ってきた金は、自力で判断してそれを行動に移す力を持っているし、自分自身でそれをこなせる自信があった。
 弓はふと、落ちた右腕の包帯に残っている方の手を添え、ぽつりと呟いた。
 「――光がなくなれば、世界中を影が支配する。摂理だ」
 何か言おうと思ったが、敢えて金は口を噤んだ。
 ジープによって掻き分けられた人垣の間から、見慣れた青い屋根が見えたのだ。
 嵐を叩き付けられて一層鮮やかさを増し、黒い雨雲の中にそびえるそれこそ、彼等の普段の生息域――総統官邸である。


 自分よりも幸せになって欲しい人、は必ず世界のどこかにいる。
 どれだけ自分がぼろぼろに打ち破れても、濡れそぼって惨めな姿を晒しても、幸せにしたい人は必ずいる。
 ――デイビーは、ふと自分のすぐ脇でつんのめった少女の足元に目をやった。履いていたはずのサンダルをどこかになくし、足首までも血泥で汚しながら、それでも休まず歩き続ける小さな素足。その爪先が、大きく裂けて重そうに垂れ下がったスカートの裾を鬱陶しそうに蹴り上げていた。濡れたそれは細いしなやかなすねやふくらはぎに纏わりつき、彼女の歩みを邪魔している。
 ふと背後を振り向いたデイビーは、氾濫した川のように押し寄せる人々の濡れた頭を見て、立ち止まることを諦める。勢いの衰えない行軍は、拷問に遭っていたベルどころかデイビーにすら苦痛に思えるような代物だったが、それでも足を緩めることは許されない。どうしてこんなことになったのだろう、と思いながら、彼はベルの肩を抱え込んで抱き上げた。
 普段ならば何の負担にもならない華奢な彼女の身体が、ずしりと腕に堪える。それでも何とか抱きかかえると、いつになく大人しくベルは彼の両腕に納まった。一瞬放心したようなぼうっとした表情を浮かべたが、すぐに彼女は思い出したように瞬いて、裂けたスカートの裾を引き千切った。
 膝の上まで露わになった足を、そのまま雨水が洗う。薄い泥色の水が滴る足を僅かに掻いて、彼女は降りると言う意向を表した。少し躊躇したがそっと抱き下ろすと、ベルはふら付きながらも再び足を運び始めた。
 既に焦点が合っていない彼女の眼差しは、それでも鋭い。
 どのくらい離れているかわからない平壌の街を、その中心部にある青屋根御殿を、そしてその一室にいるはずの人を――その姿だけを見据えて彼女は歩く。痛々しいほどの一途さで、彼女はたった一人の男を見詰める。
 不意に彼女の細い肩に腕を回し、濡れた髪をそっと撫でた。それを振り払うでもなく、かと言ってこちらを振り向くでもなく、ベルはひたすらに遠い前だけを見続ける。
 そんな風に人を想う気持ちを、デイビーはよく知っている。だから押し留めはしなかった。
 どれだけ自分が傷付いても、どれだけ他人を傷付けても、それでも守りたい大切にしたい人がいる。そんな人を持つ幸せは、誰よりもよくわかっている。例え振り向かれることがなくても、どれだけ不毛だとわかっていても、それでもやめられない幸せな感情を知っている。
 (俺とレディーはきっと、同じことをしている)
 ひどく愚かで、誰もが蔑むであろう、忌々しく幼い行為。周囲の誰をも顧みず、巻き添えにすることにすら心を痛めることのない蛮行。他の誰も目に入らない――純粋さゆえの残虐さ。これは罪だ。犯罪そのものだ。
 (だったら俺達は同罪だ)
 庇うように抱き込んで、ふら付く彼女の身体を支え、デイビーは前を見る。
 少しだけ勢いを落とし始めた雨の中、遠く巨大な蜃気楼のようにぼんやりと摩天楼の姿が垣間見えた。
 あの麓のどこかに、彼がいる。彼女の旅がそこで終わる。
 それを思うと、知らずに胸が高鳴った。


 人込みを強引に掻き分け、官邸の裏口に弓達を乗せた車は止まった。
 金に傘を差し掛けられて、弓は身を屈め降車する。その瞬間、戸口の方から騒がしい声が聞こえてきた。弓が顔をしかめた瞬間、勝手口から数名の制服姿の女が飛び出してくる。遊び組か、さもなくば給仕の娘達だろう。
 「何をしている」露骨な嫌悪を露わにして、弓は声を荒げた。
 びくりと身を強張らせた彼女達は、広げようとした傘を自分の胸元に引き寄せる。紺色の裳裾が水たまりに浸されて色を変えた。その後ろから続く白いふわふわとした装束の娘に、一瞬弓は目を眇める。
 (――馬鹿な。施氏がここにいるはずがない)
 身を強張らせた彼は、その少女の方が幾らかふっくらした頬と丸みのある身体つきをしていることを確かめて、幾らか胸を撫で下ろす――思えば、舞姫の衣装姿の彼女と出会ったのが僅かに三日前であったことを、何とはなしに思い出す。
 それからすぐに気を取り直したように首を振り、鷹揚に彼は問う。「……何があった、勝手に持ち場を離れるな」
 「あ、あの、書記官様……書記官様もお逃げ下さい、ここは危ないんです」おろおろと取り乱した娘が上ずった声で応えた。
 むっとした様子で、弓は顎をしゃくる。「何があった、ウイルスの危険なら――」
 あの白い衣装の娘が、最前列の娘の間から首だけを突き出して早口に捲くし立てた。「違います! あの……総統陛下のお世話をしていた金髪の方……を連れた不審なおじいさんが乱入して、どうやらこのままここを爆破するつもりらしいんです!」
 言いよどんだ言葉の示す人物が、劉飛竜を示すのだと理解するのに、思いの外に弓は時間を要してしまった。
 信じられないような思いで、彼はやや間の抜けた返答をする。「……は?」
 「あの金髪の方からは、本当にウイルスが伝染るんですよね? だから警備の方も射撃する訳にはいかなくて……そこを退けて下さい、わたくし達は逃げますから!」
 呆気に取られる弓の隣をすり抜けて、彼女達は傘を広げて小鳥のようにばたばたと去っていく。
 金が弓の隣で、それをやり過ごすように見送った。戸口の方に視線を戻すと、まだ忙しない足音が続いている。
 不意に彼等の背後で一際高いざわめきが起こった。脱出者達が次々と裏門を開けて、外で抗議の声を上げていた民衆がそれに面食らったのだろう。断続的に聞こえるその声は、弓達に目もくれない様々な官邸関係者が脇をすり抜けていくたび、勢いを増していく。
 「……どうして、どいつもこいつも」
 弓は押し殺した声で洩らした。
 金の持つ傘はいつの間にかずれていて、その端からぼたぼたと勢いよく落ちる水が弓の頭を肩を一層ひどく濡らしていた。包帯できつく巻きつけてあるはずの失われた右腕はすっかり濡れそぼり、鮮肉から滴るような色の落ちた血液をぽたりと垂らす。一瞬ぎょっとした金は、こっそりと傘を差し掛け直した。
 だが、それにすら弓は気付いていなかった。血が滲むほどに唇を噛み、険しい目で絨毯の続く廊下を見据える。
 そして人の流れを遡り、勝手口に足を踏み込んだ。誰も彼を顧みようとする者はいなかったが、それに構う様子は見せない。やや大股な早足で、その後姿は意外なほどの勢いを持って小さくなっていく。
 ――一瞬逡巡したが、金はその場に傘を畳むと松葉杖と並べて壁にもたせ掛け、腕木に支えられて深く迫り出した軒に身を預けた。
 もっともその軒は、強い横風に煽られた雨水の前ではほとんど意味を為さないのだが。


 廊下の中央に据えられていたはずの大きな壺は、ぶちまけられた破片に姿を変えていた。確か国宝級の代物だったと聞いたが、破片になればその価値はもはや残ってはいない。構わず小さな破片を革靴で踏み付けると、足の下でぱきんと堅い音がした。
 もう内部に人はほとんど残っていないようだった。既に聞こえる物音は背後で響くだけのものであり、数百の人員を擁していたはずの国家の威信をかけた『青屋根御殿』はほぼ無人になり果てていた。
 どさくさに紛れ、壁に掛かっていた額を外して行った者がいるらしい。日焼けした白い壁紙の中で、目の高さに四角く新品の色が切り取られていた。生けられていたはずの花が踏み拉かれ、特有の青臭い息詰まる臭いを放っている。慌てて機密書類を持ち出そうとした者もいたのだろう、目立つ赤字で『秘』と判の押された書類が一枚、黒い足型に汚されて落ちていた。
 外の騒音はここまでも響いてくる。こんなにも騒がしく、そしてこんなにも静かなこの場所を、未だかつて彼は知らない。
 飢饉の年であろうと国境地帯で紛争の発生した年だろうと、常に空虚な威信で彩られていたはずの屋敷である。彼が離れていたこんなにも僅かな間に、こんなにも荒廃するとは、夢にも思わなかった。
 (――瀬戸はどこだ)
 あてずっぽうに彼は扉を開く。だがどの扉を開いても、廊下よりも更にひどい略奪の後のような惨状が広がっているだけである。散乱した書類が床を埋め尽くしていたり、開けっ放しの抽斗からだらしなく布のようなものが覗いていたり、或いはどうしたことだろうか、閉め切ってあるはずの窓が割れて雨水が吹き込んでいる部屋すらあった。
 あの少年がかつて押し込められていた部屋の扉もあった。廊下側から鍵の掛かる部屋を無造作に押し開けたが、中は主が運び出されたときと寸分の変化もない――シーツの皺や床にどす黒く残る血痕、花瓶に生けられたまま立ち枯れて腐った花などがそっくりそのまま残されている。血の臭いと花の腐臭、そして多分主が消える直前まで濃密に立ち込めていただろう性の臭いが今も生々しく鼻を突いた。
 その扉から離れ、次々と扉を開きながら弓は官邸の中心部へと向かう。裏口から最も遠い正面玄関の向かいには絨毯で埋められた幅の広い階段があり、真っ直ぐ続くその先には大規模な会議や行事の行われるホールがある。そこから直接入ることは出来ないが、すぐ隣接した部屋が総統の執務室であり――通常弓が仕事をこなしていたのも、その領域だ。
 ほとんど中を確かめることもなく、ただ慣性で扉を開きながら彼は自分の管轄の空間を目指す。どこかの開きっ放しの窓から吹き込む風が廊下で旋風を巻き、扉のぶつかるばたんばたんという忙しない音を立てた。絨毯敷きにも関わらず音が立ちそうな足捌きで、弓は階段の前に立つ。
 見ると、絨毯の毛足が所々でこすれたように乱れている。老人特有の足を引きずるように歩く足捌きの痕跡の隣に、赤い絨毯に紛れて見え難いが黒味を帯びた水滴の跡が落ちているのもわかる。唇を歪めて弓は笑い、階段に足を掛けた。
 段毎についている染みの隣に、よく似た色の水滴が並んで落ちる。


 階段を上ると、三つ並んだ両開きの扉が壁の中央にそそり立つ。その中央、臙脂のベルベットで一際重厚に設えられた扉は既に大きく開け放たれ、真っ赤な絨毯の敷き詰められたホールの内部が巨大な化け物の口のようにそこで待ち受けていた。
 一瞬階段の途中で足を止めたが、ぐいと正面を見上げると弓は更に一段ずつ上って行く。最後の段に足を掛けた瞬間、ホールの中に佇む矮小な人影が見えた。心は急くが、裏腹に足は重くなる。口元に笑みを浮かべ、弓は重い足を引き摺るように一歩ずつホールへとにじり寄った。
 煌々とシャンデリアに照らされたホールの内側は、防音壁の甲斐あって異様なほどの沈黙が保たれていた。最後にここが使われたのは確か先日の立食パーティーで、背の高い茸のような円形の小さなテーブルはそのときの配置そのままに壁に沿って並んでいた。
 正面の壁には、巨大な衝立が立てられている。金粉で彩られたその面の中では、弓の背丈ほどもある巨大な虎が毛を逆立ててこちらを威嚇していた。背後の松の枝に止まったカササギもまた、黒い翼を広げて鋭い嘴をもたげている。共産圏特有の毒々しいほど写実的な画風ではなく、極端にデフォルメされた伝統的な民画である――芸術性は高いが、その多くは旧王朝派一掃の際に共に焼失していた。恐らく現存しているものは、『芸術を好む』国家要職の私物に限られてくる。それらの中でも彼等の共有空間であるこのホールに飾られた衝立は、最も美しい優れたものだ、と素人ながらも弓はそう考えていた。
 そしてその衝立の前に、長い髪を打ち広げた人物が横たえられているのが見えた。
 どれほどの遠目でも、その亜麻色の髪を見ればすぐにわかる。その人物もまた、芸術性と希少性においてこの官邸が所有する最も価値のある財産の一つであり――少なくとも総統以下十数名の国家要職が他の芸術品に一切顧みなくなるだけの魅力を持っていた。
 「……は」不意に笑いが口から漏れた。
 あの毒々しいほどの演出で平壌を狂気の渦に巻き込んだ男が、彼の目の前に力なく横たわっているのが無性におかしかった。あんなに凄まじい死に様を見せておきながら、こんなところで指など組んで、いかにも神妙に死体然としているのが笑えて仕方なかった。あれだけ鮮血を吹き上げて事切れて見せたにも関わらず、今ここで色の抜けた薄紫の唇を引き結び絹のように薄い瞼を塞ぎ、生々しさや生気といったものと一切無縁な白い浄い雰囲気を纏っているのが堪らなく滑稽だった。
 ふらりと身体を傾がせて笑い声を上げながら、ぽつりと弓は呟いた。「それでいい。これで施氏は解放される」
 ――彼女が世界で一番愛した男。
 その男の死体が今自分の目の前にあるという、そのことが何よりも痛快だった。
 そしてふと、顔を上げた。正面から僅かに反れたところに立つ、背の低い腰の曲がった老人がそこにいた。益々弓は笑い声を高くした。
 「……セト・ホーミン、お前の負けだ。皇帝の血はそこで絶えた」
 ――これでもう、施氏が皇帝に心奪われることはない。未来永劫、例え彼女がどれほどそれを望んでも――皇帝はもはやどこにもいない。
 旧王朝派はこれで、全ての拠所をなくした。そして代々それに惹かれ続けた彼女の血筋もまた、愛するべき対象を失った。
 これでいい、と弓は笑う。
 政府の上層部も消えた。旧王朝を担う血筋も滅んだ。全ての光がここで消えた。
 光が消えた世界を征するのは、影だ。これまで暗躍していた国家の裏の闇から抜け出して、ようやく自分が全てを手に入れる番だ。
 その場に膝を突き、声を上げて弓は笑う。「記念にその男を剥製にでもしてやろうか――施氏の屍と並べて、このホールに飾ってやろうか。さぞや見応えがあるだろうよ」
 不意に、消え入りそうなほど仄かな掠れた声で、老人はぽつりと呟いた。「邪魔をするな――」
 そして手から下げていた瓶のようなものの口を開け、その中身を赤い絨毯に垂らす。水よりも軽く、妙に柔らかい液体は鼻に突く刺激臭を放ちながら、長い毛足に染み込んでゆく。たらり、たらりと少しずつ場所を変えながら、瀬戸甫民は彼の主君の周囲にその液体を垂らしていった。
 ふと弓は笑うのをやめた。その臭いが――ガソリンの放つものだと、気付くのに時間が掛かりすぎたことをようやく悟ったのだった。
 「皇帝家は断絶しても、それで我々王朝派が滅亡したことにはならない」
 空になった瓶を床に放つと、ごとんと重い音を立ててそれは少しだけ転がった。そちらには一瞥すら向けず、老人は皇帝の面差しを覗き込むようにしゃがみ込んだ。そして懐から、鞘に収められたやや大振りなナイフを取り出す。
 切れ味のように鋭利な音を立てて鞘を払うと、甫民は皇帝の亜麻色の髪を掻き集め、片手で拾い上げた。眩い照明で透き通る淡い色のその髪をいとおしむように一度だけそっと撫でると、その根元に青黒い刃を当てた。
 軽い音を立てて、亡骸の白い顔の脇に短く切れた髪の毛が散る。それでも男の髪にしてはやや長すぎるほどの長さではあったが、横たわっている為に前髪を額からこぼしているその面差しからは、何故かあのむせ返るほど妖艶で中性的な気配が抜けた。
 片手に髪の束の根元を握り締めたまま、老人はよろりと立ち上がった。亜麻色の束を握る手は下にだらりと垂らされて、長い髪の先は床で波を描いている。もう片方の手はナイフを握り締めたままで、その手が左手であることにふと弓は気付いた。
 左利きの老人は、ふっさりとした眉の下の細い目で弓の姿をじっと見やる。
 「陛下をお慕い申し上げる者が一人でも残っていれば、我々は滅びない。必ず、何度でも復讐の為に立ち上がる」
 「ならば一人残さず殺すまでだ」
 口元を歪め、弓は傲慢に老人を見下す。
 ふと甫民は、細い目をじっと閉じてこぼすように呟く。「――愚かなことを。そんなことなど、出来るはずがないのに」
 気色ばんだ弓は思わず足を一歩踏み込んだが、射竦めるような甫民の眼差しに睨みつけられ、思わずその足を引いた。
 小柄な老人だった。若い頃はそれでも随分背があっただろうに、今となっては曲がった腰や縮んだ骨格は戻る術を持たない。小さく歪で、片腕を失った弓ですら簡単に組み伏せられそうな姿をしていた。それなのに、ゆらりと立ち上る透明な炎のようなものが彼の周りを覆っているように見えて、それがあらゆるものを弾くようで、まだ年若い弓を圧倒した。
 掠れた、一際低い声で老人はぼそりと呟いた。「憎しみは、消えることなどない」
 咽喉が痛くなるガソリン臭が、既に巨大なホール中に広がっていた。逃れようのない刺激臭と、今にもそれに引火しそうなほどの老人の迫力に、思わず弓は後退る。それを許さない老人は、追い詰めるようにゆったりと毛足の長い絨毯に足を踏み込む。足音一つ立たなかった。
 「今ここでわたしを殺しても、別の者がお前を憎む。今この瞬間にお前がお前を憎んでいる者を根絶やしにしても、新しい者がお前を憎むだけだ。永遠にそれを繰り返し、世界でたった一人になれば、そのときお前はお前自身を憎むだろう」
 ふ、と弓は唇を曲げる。精一杯の虚勢を張って、彼は咽喉を戦慄かせた。「詭弁だ。どこかで折衷したところで、個人的な感情に際限はない。下らない感情論に走るな、セト・ホーミン」
 「けれどその感情で、わたしはお前を殺せる」
 ふと甫民は、ナイフをすっともたげた。とても届くはずのない距離なのに、逃げ切れない間合いではないはずなのに、思わず弓は腰を抜かす。
 そんな彼を哄笑するでもなく、老人は淡々と語る。「……出ろ。陛下の御前で汚らわしい血を流すことは望まない。これ以上わたしを刺激するな」
 不意に弓は血を上らせた。
 彼――皇帝竜血樹の前だから猶予される、そのことが妙に腹立たしかった。
 (どうして……どうしてどいつもこいつも皇帝ばかり――)
 口に出してしまえば余計に惨めになりそうで何も言えなかった。しかし常に燻っていた本音に火を着けるにそれは十分だった。
 自分の半分しか生きていない、幼い男。何の力も持たずただ追われ続けるだけの、次代を残すことすら禁じられた、生まれながらの敗北者。政府の温情で生かされているだけのひ弱な少年が、無条件にもてはやされて施氏の心までも捕らえるというそのことが、ひどく弓を苛立たせた。
 「……ただ、皇帝に生まれたというだけじゃないか!」掠れた声で弓は叫んだ。
 ――旧王朝派の残党ではないかと疑われ、生家は故国を追われた。逃げ込んだこの国でも何もよくなりはせず、貧しさと差別は一層ひどくなるばかりだった。周囲を見返したい一心で勉学に励み、それゆえに売られるように養子にやられた。
 自分は力を持つ器だと自負していた。しかし生まれがどこまでも付き纏い、表へ立つことの邪魔をした。
 「皇帝だと言うだけだ――そいつが施氏に選ばれる理由など、そんなものだ!」
 あの皇帝には、この国を支えるだけの力量はない。ただそれに絡め取られるのが関の山だったではないか。
 生まれながらに身分が決まってしまうなら、努力だの苦労だのは何の意味もない――そして誰よりもそれを痛感しているからこそ、それを突き付ける皇帝の少年が憎かった。無条件に旧王朝派を背負い、国家を揺るがす楔になり得る力を持つ彼が憎かった。
 がむしゃらに怒鳴り散らす弓に向かい、静かな目をして老人は呟いた。「そうだとも。ただ皇帝の血筋に生まれた、ただそれだけで陛下は皇帝と呼ばれ、皇帝として育てられたのだ」
 弓はどこか勝ち誇ったように顎をしゃくり口元を歪めたが、甫民は口を挟ませる隙を与えなかった。
 「倫理哲学はお得意だが、歴代の祖廟が暗誦出来ずに何度もわたしに叱られた。ほんの片言しか話せない頃から、既に焼失した壇で執り行われる有職故実を暗記させられた。皇帝たるものの心得を朝に夜に教え込まれ、五経四書を全て諳んじるまでに至った。もはや滅亡した王朝の、焼け落ちた玉座に座りようがないことなどとうの昔からご存知で、それでも押し付けられたそんな諸々を拒むことも許されない――それが皇帝だ」
 老人は笑う。瞠られた目が青みを帯びていることに、ふと弓は気付いた。
 「囚人と何が違う。高々十七で我々の期待を押し付けられて、それも適う望みならよかろうが――王朝の復興など、誰が見ても不可能に決まっているだろう。お前達政府に対抗するイデオロギーを維持する為だけの、文字通りの人柱として生かされる、そんな運命のどこに救いがある」
 白髯に覆われた口を笑みの形に歪め、甫民はナイフをもたげたままじりじりと弓に詰め寄った。ゆっくりとした足取りではあるが、弓が後退らないことで、その間合いは確実に詰まっていく。
 「天下が乱れれば、どんな理由によるものであろうと、それは全て陛下の罪になる――それが天命だ。奴隷よりもまだ残酷な、天の子として生まれた者に押し付けられた宿命なのだ」
 お前にその覚悟があるのか、とその青い目は何よりも雄弁に語っていた。
 弓はその目を挑むように見据える。
 「――そうか、お前の仰ぐ陛下はそれはそれはお可哀想なことだな。あれだけ無力でいいように弄ばれて、それでも天の息子か」
 精一杯の皮肉を込めたつもりだったが、老人はまるで動じる様子を見せなかった。
 「それ以外の生き方を、誰も許しはしなかったのだ。お前達政府の人間も、我々王朝の残党も、寄って集って逃げ道を塞ぎ、陛下を追い詰めた。奴隷に鞭をくれるのと、一体何の違いがある」
 そしてふと、甫民は足を止めた。もたげたナイフはそのままだったが、絨毯に引き摺っていた亜麻色の髪を胸元に引き寄せる。その動作がなぜか懺悔の仕草に似ている気がして、弓は眉をひそめた。自分は、人を裁く権限は持っても、人を許す権限は持ち合わせていない。
 弓の困惑をよそに、老いた小さな男ははじめて声を震わせた。
 「幸せになりたい、と願うことすら許されなかったのだ。そんな生き方を、それでもお前は羨むか」
 ――何故か、鳥肌が立った。
 遺髪を取るくらいなのだ、殉じるつもりはないのだろう。しかしこの老人の全身から立ち上る殺気が、本当は弓にではなく老いた彼自身に向けられている気がしてならなかった。
 もがくことすら忘れた弓に、甫民はもう一度笑みの形に歪んだ表情を向ける。
 「幸いだったな、お前には天命がない。どこへなりとも行き、勝手に生きて、勝手に死ねばよい。それがお前に与えられた生き方だ」
 そして彼は、手にしたナイフをゆらりと戸口の方へと向けた。弓は唇を堅く引き結び、奥歯をぎりと音が立つほど噛み締めると、ようやく立ち上がった。
 言いようのない屈辱感と、理由のわからない安堵感に飲まれそうになりながら、それでも辛うじて彼は言葉を吐く。捨て台詞を吐き捨てる気力だけは何とか残っていて、それが自分自身でも不思議なほどだった。
 「……天子の残党は全て潰してやる。天命だの宿命だの、そんな下らないものなどないと言うことを教えてやる」
 逃げるのではない、と自分に言い聞かせながら踵を返し、弓はドアに左腕を預けた。その背中を、不意に老人の声が呼び止めた。
 「残党ではない」
 哄笑を取り繕って振り返ろうとする弓に、甫民はともすれば慈しみに取れるほど静かな声音で語り掛けた。
 「――天はもう一人、娘を地上に下している。あの子は、お前の手に納まる器ではない」
 笑みを取り繕った口元が引き攣った。
 咽喉を痙攣させて言葉を探した弓は、結局探しあぐねて甫民を睨み付けるに留まった。そして扉にわざとぶつかるように足を捌き、耳障りな音を立てながらホールを後にした。
 ふと階下から振り仰いだホールの戸口は、やはり赤黒く深い化け物の口のように見える。
 覗き込むのではなかった、と弓は唇を噛み、正面に向き直る。ひどく見慣れた、けれどどこか日常を忘れさせるほどの豪奢な趣向が細部に至るまで官邸の内部を覆っている。ここも全てあの赤黒い口に食われるのか、と思うと妙な感慨が胸を過ぎった。
 (別に、痛みなど感じるはずはないのに)
 芸術品も、あの死体も、食われたところで何も感じることはない。意思を持たないただの木切れや金片や肉塊に、それを見るものだけが何かの理由を見出そうとするだけだ。存在そのものが知られていなければ、例えそれが消滅しても、初めからなかったのと同じことだ。
 悼むのも惜むのも憎むのも、全てはこちら側から覗き込む自分達の感情に過ぎない。
 ふと、そんな詮無いことを思った。


 初めは、夕暮れだと思った。
 ただひたすらに目指す街は、ベルから見て西にある。だから、日暮の空が赤く染まっているのだと思った。
 (……そんなはず、ないじゃない)
 突かれたように彼女は顔を上げて目を瞠る。台風でまだ雨水の滴る空が、どうして夕日で染まるだろう。第一、長い真夏の日が落ちるにはまだ時間が早過ぎる。
 それなのに、西の空は本来ならばあり得ないほど赤々と明るく染まり上がっていた。訳がわからず何度か瞬き、ベルはようやく雨雲を染め上げた赤い光源の正体に気付いた。前を行く人の頭が逸れた拍子に、天へと躍り上がる朱赤の炎の端が彼女の目に飛び込んでくる。
 よく目を凝らせば、雨雲の中に半ば紛れ込んだ黒い霞が、炎と共に舞い上がる煙だということも見て取れた。もうもうと凄まじい勢いで煙と火の粉を吹き上げる何かが、平壌の市街のほぼ中央部で燃えているのだった。
 ほとんど蒼白になるほどにベルは顔色を変える。炎の位置はよくわからないが、こんな嵐の中であれだけの勢いを持って燃え上がっているのだ、尋常な火災ではない。そして何よりその炎の辺りには、あの青屋根御殿――総統官邸があったのではなかったか。
 (あいつがいるのに)
 彼女達を助ける為に捕らえられた囚人は、あの御殿に囚われているのではなかったか。
 思わず逸った足がもつれ、前のめりに彼女は転んだ。周囲の人間が驚いたように顔を向け、次々に手を伸ばすが、それらを乱暴に振り払って彼女は立ち上がる。そして既に歩くことすら覚束ないような血塗れのよろける足でふらふらと駆け出す。
 目の前が点滅して、ひどい頭痛が頭を打った。咽喉の奥に何か突っ込まれたようで、まともに息が出来なかった。耐久限度ぎりぎりまで酷使されている心臓が、痛みを伴うほど激しく脈を刻んだ。軋む足は既にしびれて痛みすら失い、膝の下で何か重い棒らしきものが身体を支えているような、麻痺した感触しかしなかった。足の裏が大地を掴んでいる感触すら失われて、本当に自分が立てているのかすらわからなくなっていた。バランスを繕う三半規管も麻痺しているらしく、全身を巨大なタンブラーの中に突っ込まれて掻き混ぜられているような、ひどい気分だった。
 それだけの痛みを伴ったところで、歩みはほんの僅か速まるだけ。それでも駆け出さずにはいられなかった。
 何も考えてはいなかった。何も考えることなど出来なかった。あらゆる理性が、弾け飛んだ。
 ただ、彼女に付き従う人垣を掻き分けて、彼女は嵐の中を駆けた。




モドル | ススム | モクジ