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第十三夜・下


あなたがたは、われの喜びを願いながら、
われのために聖戦に出かけていながら、
(一方で)かれらに好意を寄せるのか。
われはあなたがたの隠すことも、現わすことも知っている。
あなたがたの中このようなことをする者は、
本当に正しい道から迷い去った者である。

聖クルアーン マディーナ啓示13節
試問される女の章(アル・ムンタヒナ)より



   第十三夜・下



 ――一目見たときからわかっていた。この子は、天の最愛の末子なのだと。
 過去に四人の天子を知っている。彼等に注がれた天からの愛情の深さを知っている。だからこそわかった。この子へと注がれる愛情は、それ等すら凌駕する凄まじいものなのだと。
 愛するがゆえに手放したくなくて、最後まで傍に置こうとして、そして遂に最も苦しい末世に地上へと送り出さざるを得なくなってしまった、天の愚かさもよくわかった。それを深く悔いる悲しみすらもよくわかっていた。そしてそれを取り戻したいと願う心も。
 だからきっと、この子は――永遠の命を持つ神樹の名を与えられたこの子は、きっと天に望まれて還るのだろうと。そここそが彼の本当にいるべき場所なのだろうと。ずっとわかっていた。そう思っていた。
 けれど――何故天はわかってくれなかったのだろう。
 あなたと同じくらい、もしかしたらあなた以上に、わたしがこの子をいとおしいと思っていたことを。


 後部座席に座り込んだ老人は、何も言わずにじっと俯いていた。
 金もまた、何も話し掛けることはなかった。掛けるべき言葉など、何も見付からなかった。ただ、少なくともあの老人にとっては、考えられる限り最悪の事態に陥ってしまった、と考えても仕方のない罪悪感にばかり苛まれていた。
 どこに行くともなく車を渋滞の中に飲み込ませながら、ぼんやりと金は無数の車に埋められた道路を眺める。これだけ沢山の車があるのに、きっと死体を積んでいるのは自分の車だけだろう、と考えるとただでさえ薄かった現実感が更にどこかへ消えてしまうような気がした。
 そしてふと、今自分が一番言わねばならない言葉を思い出す。その言葉の残酷さに顔を歪め、逡巡していると、ふとぽつりと老人が言葉を漏らした。
零れるような呟くようなその言葉に、ふと金は耳を凝らした。
 「……まだ、十七なのですよ」
 そして、その言葉を聞いたことを心底悔いた。ずきんと身体の奥の方が痛んだ。
 優しげに聞こえるほど静かな声で、淡々と老人は言った。その膝に、既に命の戻らない少年の頭を載せて、ゆっくりと髪を撫でる。あたかも孫に対するようなその仕草が居た堪れなくて、敢えて金はフロントガラスを滑るワイパーの動きを目で追った。
 どちらかと言えば風の方が強い台風なのだろう、雨粒の感覚は広い。風の勢いで横殴りに引き伸ばされた大粒の雨は、フロントガラスに太く長い透明な斜線を描いてはワイパーに崩されて消えた。
 「明日がお誕生日だったのです」
 金は唇を噛んだ。どうしようもないのはわかっている。けれど、せめてこの苦痛だけでも何とかしたくて堪らなかった。
 「……まだまだ、子供なのですよ。身成ばかりはご立派になられて、周囲も期待を寄せておりましたが、中身はとんと子供のままで。いつまでも人見知りが激しくて、生真面目で、お優しくて――もう少し上手く立ち回ればよいものを、すぐに自分のせいだと思い詰めてしまう性質でした」
 医者としても個人としても、人の死に立ち会った瞬間はもう数え切れない。そしてそのたびに金はいつも同じ痛みに――いつまでも慣れることのない痛みに苛まれる。思い入れてはいけないといつも思っているのに、いつも途中でそれを忘れてしまう。
 「――やり残したこともあったでしょう。心残りもありましょう。怖かったでしょう、悔しかったでしょう、悲しかったでしょう」
 詭弁だ、と金は黙って考える。死んだ人間は、そんなことを考えることすら適わない。死とはそんなに綺麗なものではない、全てを奪う残酷極まりない現実そのものだ。全ては、残された側の勝手な憶測に過ぎない。
 死者に対し、生前と変わらない態度で接しようとする遺族の気持ちはわからなくはない。けれど金には、どうしても一度命を亡くした者を再び人として見ることが出来なかった。蒼褪めた肌や硬直していく身体、生きているときとは明らかに違う力のない表情を、自分と同じ生き物の持つものだと受け止めることは出来なかった。頭が納得しようとしても、身体が心がそれを拒絶する。
 完全に物体として認識出来れば構わない。けれど、直前まで治療を行っていた患者が、ずっと一緒に生活してきたはずの家族が、ある一瞬を境に物言わぬ物体になってしまうのは我慢出来なかった。どれだけ親しくしていたとしても関係ない、それはもう金の目には腐敗が進み行くだけの人の姿によく似た肉塊でしかない。そしてその残忍な事実と、そうとしか認知出来ない自分自身に吐き気を感じる。
 (何で死んだ)自分にそう尋ねる権利などないのは百も承知の上で、金は心中で呟く。どうしようもないのはわかっていたし、助からないのはわかっていた。むしろあの少年が助かると言うことは、彼の目的が果たせなくなってしまうことを意味していて――生き延びることなど、例え出来たとしても選べなかっただろう。
 それでも、この結末はあんまりだと思った。自分の姿を晒し者にして、その死に様を見世物にして、何を望むと言うのか。自分自身の尊厳をそんなにも傷付けて、一体何を守ろうと言うのか。決して彼は、あんな風に死ぬ為に生まれて来た訳ではないのに。そして自分もまた、それを見殺しにする為に医者になった訳ではないというのに。
 生気を感じさせないほどの美しさを誇っても、どれほど凄絶な覚悟を持っていたとしても、それは生きていてこそ湛えられるものに違いない。今後部座席で老人に抱えられて横たわるのは、どんな形状をしていてももはや蛋白質の塊に他ならない。
 (生きていてこそ、人間は人間の意味を持つんだ――死んだら全部終わりだ)
 次々と逡巡したが、金は何も言えなかった。老人の静かな声が、じわじわと彼の咽喉を締め付けた。助けられなかった無力な医者を、その声はやんわりとなじっているように思えた。
 「……けれど、どうしてこんなに安らかなお顔なのでしょう」
 思わず金はバックミラーに目を向けてしまった。その瞬間、崩れるように項垂れる老人の枯れた姿が目に映る。
 「――わたしは、そんなにも重圧を掛けてしまっていたのでしょうか」
 「爺さん」
 下唇をきつく噛み、目を固く閉じてぐいと首を振ると、やっとの思いで金は切り出した。一番悲しいのが自分でないのはよくわかっているつもりだったが、それでもこれ以上老人の自責の言葉を聞きたくはなかった。とんでもないエゴイストだ、と自分で自分を罵りながら、敢えて淡々とした声音を金は選ぶ。
 「……伝染病で死亡した場合、感染拡大の予防の為に、即日で火葬にすることが義務付けられている」
 僅かな眩暈と頭痛を感じた。激しく動くワイパーばかりを凝視しすぎて、目が回ってしまったのだろう、と金は強引に高を括る。
 老人は再び口を噤んだ。その小さな枯れ老いた姿をバックミラー越しに覗き見ながら、金は追い討ちを掛けようとするように続ける。「そいつの場合は特に――事実上J-815感染者で初めての死者だ。火葬か、さもなければ司法解剖に回さなければいけない」
 悲しむのはいつでも遺族の仕事で、医師の為すべきことではない。今はただ、自分の義務を果たすことに没頭しなければならない。それだけを自分に命じて彼は――まだ物事を達観するには若過ぎる医師は、毒を飲むような思いで残酷な現実を告げる。
 半島にしても中華にしても、大抵の場合人は死ねば土葬にされる。極力生前の姿に近い状態で丁重に葬り、遺された者はその墓を大切に守る。だからこそ、とりわけ年配の人間にとって、死んだ家族の身体を傷付けることや墓を守れないことはこの上ない苦痛に当たる。亡骸を切り刻んだ挙句に燃やして灰にするなどと、どれほどの絶望を伴うのだろう。
 ふと老人は、腕に遺体の上半身を支えると真っ直ぐに正面を見据えた。その皺に囲まれた青い目が捕らえているのが、ミラーに写り込んだ自分の顔なのだと気付き、金はひどく動揺する。部外者であるはずの彼よりも遥かに静かな目をして、老人は言った。
 「玉体をこれ以上傷付けたくはありませんな――」
 節立った指先が、紙のように褪せた白い亡骸の咽喉元に添えられる。老人の肩にもたれるような形で抱えられた若い亡骸の表情は、乾いた血の固まった長い髪の毛に隠されてよく見えない。けれど、それでよいのだと金は自分に言い聞かせる。血に塗れた美麗で冷たい彫像の表情なんて、グロテスク過ぎてきっと直視出来ないだろう。
 不意に老人はぽつりと言う。「――では、官邸にお車を回して頂けませんかな?」
 「……は?」言葉の意味が理解出来なかった金は、咄嗟に間の抜けた声を上げる。「官邸?」
 静かな小さな、けれど淀みのない声で老人は頷く。「はい、官邸へ。あの場所がよいのです」
 そして腕の中に抱えた、きっと老人よりも頭一つ分は背が高いだろう若者の頭を髪の毛を、まるで幼子にするような仕草で優しく撫でる。理由はわからないが、何故か金はその姿に寒気のようなものを覚える。歪で小さな老人の姿が、ひどく禍々しいものの予兆のように思えたのだ。
 (……いけない)
 自分自身に言い聞かせながら、金は生唾を飲み込む。この小さな老人が何かとんでもないことを企んでいるのは明白だった。漏洩した生物兵器に感染して死んだ人間を火葬にするのに、どうして総統官邸へと向かう必要がある。そもそもこの老人は、自分でも言っていたように旧王朝派の工作員として様々なことに手を染めてきた闘士ではないか。危険極まりない、超一級の手配犯であってもおかしくないはずである。
 けれど、金はそれを断ることが出来なかった。「……官邸で、いいんだな」
 つ、と車間距離を取ると、一気にハンドルを切ってやや強引に反対車線に入り込む。そして道路標識を確認し、行き先への最短の道程を頭の中で検索する。
 (同情は、しないつもりだったのに)孫ほどに若い主君を亡くした老爺に同情してしまったのか、或いは彼の静かだが有無を言わせない口調に呑まれてしまったのか、 はたまた僅かに何度か偶然擦れ違っただけの少年の運命に憐憫を覚えていたのか、自分でもよくわからない。けれど金はとにかく、官邸へ向けてハンドルを切った。
 吹き付ける雨粒の斜線の方向が、真逆に変わった。


 サンダルのストラップが切れてしまったので、ベルはその場でそれを脱ぎ捨てた。ほとんど踝の辺りまで浸水しており、時折尖った石やガラスの破片が流れてきたが、もはやそんなものに構っている余裕はなかった。足首に何かぶつかる感触はあったが、そこから流れ出す血を見ても痛みは感じなかった。
 「……平壌は、こっちよね?」
 誰とはなしに問い掛けると、周囲からどよめきのように返答がやって来る。「ああ」「後七キロだよ」「大丈夫だから」
 顔に濡れた髪の毛がべったりと張り付いて、目の前が暗かった。掻き揚げても掻き揚げても風雨であっという間に乱される髪に辟易して、既に掻き分けるのは諦めていた。肩に回された大きな腕に身体を時折預けながら、それでもただひたすらに彼女は歩き続けていた。
 ふと顔を上げると、自分の髪の毛に遮られた視界いっぱいに歩く人々の姿が見えた。視線を左右に揺らしたが、道の両脇も見えないほどに無数の人々が歩調を合わせて歩いているのがわかる。少し振り向いてみたところ、そこにも数限りない人々の影が揺れて見えた。
 押し寄せる津波のように、人々は無造作な隊列を組んで歩いていた。先頭に少女を掲げ、その周りを薄く人の垣が囲み、後方に無数の人々が縦列を組んでいた。壮年の男が多いが、女性や少年達の姿も目立つ。中には杖を突きながら行く老人の姿もあった。
 不意に彼女はぽつりと呟く。「……どうして、付いて来るの?」
 だが、どこを見ても返答は来なかった。虚ろな眼差しを頭上に向けると、自分を支えるデイビーの横顔が見える。だが、彼もまた何も答えようとしなかった。
 別にどうということはない、ただ自分は彼を――平壌に囚われているあの男を助けようと思っているだけなのに。
 それとも周りを埋め尽くす人々は皆、自分と同じように彼を助けようと思っているのだろうか。だとすれば彼等は皆、王朝派として戦い続けた人々だろうか。
 (訳わかんない……)
 何を考えるのも億劫だった。とにかく今は、自分のこの身体を突き動かす感情の奔流に任せて、平壤までの道を急ぎたかった。あの場所にいるはずの、あのとき再会した場所で今も佇んでいるはずの、あの人を助け出したかった。
 (どうやったら助け出せるかな)
 考えるなんてとても出来る状態ではなかった。身体中がぼろぼろに軋んで悲鳴を上げているし、満足に歩くことすら覚束ないのは自分でもわかっている。例えどんな案を考え出したところで、肝心の自分の身体が動かないのだからどうしようもない。
 (それでも、行かなくちゃ)
 一目でいいから、彼の姿を見たかった。彼の無事を確かめたかった。彼が死んだと言うあの男の言葉が嘘だと確かめたかった。それさえ叶うなら、そのまま官邸の衛兵に捕らえられても構わなかった。
 (会いたいの。とにかく彼に会いたいの――)
 ふと、足がもつれて大きくよろめいた。水の流れる道は、既にふらついている足元を無情にもさらってしまう。それでも泥を跳ね上げながら何とか身体を立て直したベルは、不意に頭を巡らせた。
 何故だろう、凄まじい歓声が響き渡っているように聞こえたのだ。
 嵐の音かと思ったが、それは道行く無数の人々の足が水を跳ね上げる音だった。各々の速さで、しかし着実に刻まれる足音は、何故か明るく力強かった。
 ずぶ濡れの髪の間から、彼女は人々の表情を伺う。彼等は皆一様に、希望に溢れ高潮した顔をしていた。人間の持つどの表情に近いかと言えば、それは何故か笑顔だった。
 「……何が、楽しいの?」
 再度問い掛けた声は、凄まじい数万の雑踏に掻き消された。


 「……まだ、ですか?」女は膝に手を突いて尋ねた。
 周囲を見渡すと、どこまでも無数の棚が広がり続けている。その間にぽつんと浮かぶ本は、幾ら見ても慣れることのない異様さでそこに佇んでいた。
 どのくらい歩いたのか、まるで見当が付かない。歩くこと自体には慣れ切っているつもりだったが、あちこちが痛む身体にはいい加減堪えた。息が切れ、目の前も揺れる。胃の辺りからも吐き気が込み上げ、寒くもないのに背筋がぞくりと冷たかった。
 少し先まで進んでいた宙に浮く本は、くるりとこちらを向いた。「もうすぐです。それとも、待っていますか?」
 本は不意に彼女の隣を素通りすると、背後に回り込んだ。かちゃりという音を聞いて振り向くと、さっき潜ったドアがすぐそこにある。畳んで置いた毛布もきちんとそこにあった。思わず彼女は、呆然と目を瞠る。
 「あの中で待っていても構いませんよ」穏やかな事務的な声で、ミレアはそう言った。「この通り、ドアは常にすぐ後ろにありますから」
 つまり、どれほど歩いてもこのドアからの距離は変わらないのだと知った彼女は、一瞬だけ迷った。足も痛むし、腹部から胸に掛けてが時折鋭く痛む。肩も重く、ずっと続いている頭痛と耳鳴りも消えなかった。正直なところ、これ以上動くのは苦痛だった。ミレアは探し出してくれたら、彼はすぐにあの部屋に戻って来ることができる。
 じっとりと冷たい汗の浮かんだ額を掌で押さえ、彼女は手近な棚に肩を預ける。柔らかいソファの上で休んでいられるなら、それは随分ありがたいことのように思えた。そう言えば、さっき目を覚ますまでの間、まともに休息を取った覚えがない。いつからあの場所で休んでいたのかわからないが、目が醒めたときから随分と疲れが残っていたように思う。
 それでも彼女は首を振った。「いいえ、すみません。もう大丈夫です」
 「そうですか?」ミレアは淡々と尋ね返す。
 彼女は身体中に長い髪の毛を纏わり付かせたまま、少し顔を歪めて微笑んだ。「はい。一瞬でも早く逢いたいの」
 「……そうですか」
 再び本は棚の間の通路に戻った。そして、ゆっくりと上下に動きながら前へと進んで行った。


 相当な大回りになる代わりに、迂回路を通る車の量は驚くほど少なかった。弓の腕に応急処置を施した病院を出て僅か二十分後には、専用車両は平壌市街へと差し掛かっていた。車に据え付けたGPSによれば、市街地は随分と混雑しているようなので、敢えて官邸に行く必要もないだろう、と彼は窓の外を何とはなしに眺める。
 (これで先回りになったはずだ)
 サジョンから平壌の間は、距離こそ短いが、あれだけ痛め付けられた身体で踏破するには余りにも遠いはずだった。ましてや周囲を数万の民衆が囲んでおり、折しも天候は嵐――まともに進んでゆけるはずがないだろう。
 平壌市街の入り口に警備を配し、その場でデモを行う民衆を制圧する――それで全ては片付くはずだ。軍部への指示は既に出してあるが、やはり彼女を仕留める瞬間は自分の目で確かめたかった。だからこそ、無理を押してここまで戻ってきたのだ。
 ふと、大粒の雨で曇ったフロントガラス越しに、ライトバーを振り回す軍服姿の男達が見えた。気付いた運転手がゆっくりと車を止めると、弓の姿に気付いた兵士がこつこつと後部座席の窓を叩いた。そちら側に座っていた金が僅かに窓を開けた瞬間、横殴りの雨が吹き込む。
 顔にかかる雨水を厭いながら、憮然と弓は顔をしかめる。「……何の用だ」
 「恐れ入ります、ここから先は護衛をつけさせて頂きます」雨音に風音に掻き消されないように、ずぶ濡れの兵士は声を張り上げた。そして隣の方に並んでいる別の兵士に、手を振って指図する。
 見ると、検問所の脇に止められていた数台の無骨なジープが、エンジンの音を立ててがたがたと揺れた。
 怪訝な表情を浮かべ、弓は早口に尋ねる。「そこまで警戒する必要もないだろう?」
 もはや意味を為さない軍帽を飛ばされないように押さえながら、兵士は再び声を張り上げる。「いえ、市民の大規模な暴動により、行政や官営の施設並びに政府関係車両が尽く被害に遭っています。現在、平壌市全域が非常に危険な状態です」
 思わず弓は目を瞠った。「な……デモがもう到着したのか!?」
 応対する兵士は訝しげに眉をひそめる。「……いえ、平壌中の市民がどうやら一斉に蜂起した模様です。現代テレビの電波ジャックによりテレビ局前に詰め掛けていた市民が、そのまま暴徒になって行政施設を破壊して回っているものと思われますが、放送の中断された現在もまだ規模が拡大し続けています。危険ですので、取り敢えず官邸まででも護衛をつけて下さい」
 「了解致しました、よろしくお願いします」弓の代わりに返事をしたのは金だった。彼は敬礼する兵士に目もくれずに窓を閉めると、弓の方を振り向く。「……取り敢えず、官邸に向かうのでよろしいですか?」
 弓は返事をしなかった。ただ、残った左手の指を口元に押し当てて、ひどく忌々しげな目付きで正面をねめつけていた。
 「どこまで、邪魔をするつもりなのだ……皇帝といい、施氏といい。何もわかっていないくせに」ぼそぼそと呟くその声は、鈍く低く響いた。心底憎らしげなその声音に、言いようのない殺意が滲み出ていた。
 金は何か言おうとしたが、言うべき言葉が見付からず、結局口を噤んだ。多分、何を言っても彼の耳には届きはしない。
 ――ふと嵐の音に混ざり、遠くシュプレヒコールが聞こえた気がした。


 ――戦争が先か、クーデターが先か。
 デスクの上に時間と共に次々と積み上げられていく資料を前に、バーグナーは逡巡する。
 伝えられる半島の情勢を聞く限りでは、いずれかあるいは双方の回避はまず不可能な状態だった。そしてかの国は、恐らくはそれに耐えるだけの力をもはや残してはいない。疲弊した国土と、荒廃した政府と、容赦のない武力――その先に待ち受けるものは、誰の目にも明らかなものだった。
 また、仮にそれらを押し留めたところで、これ以上あの国が体制を維持できるとは到底思えない。力尽くで抑え付けようとすれば、ぎりぎりのバランスで保たれている国家はそれに耐え切れないだろう。そんな隙を見せて、周辺の国が黙っているはずはなかった。
 (いずれにしても、破滅だけだ)
 ――行きつけの店の双子主人の、そして彼等の友人である少女の、故郷である国。世界の中から切り離された、立ち入ることの出来ない遠い国。旧態然とした、恐らくは放っておけばろくなことにならないであろう、世界の火薬庫。
 そんな国、あってもなくても構わない。むしろそのことによって彼等の国が東洋世界における利権を獲得出来るのであれば、かの国の自壊と制圧は望ましい事態であると言えなくもない。それはわかっているのに、何故か喜ぶことは出来なかった。
 報道倫理など、ここのところ批判を避ける為だけに意識していたようなものだったのに、何故かこの期に及んでかの国の国民に対し同情している自分を感じ、それを自分自身でも持て余していた。
 ふと彼は、デスク上に並べてあったファイルの一つを無造作に引き出した。分厚いプラスチックの表紙を捲ると、そこに挟んだままのプリントが滑り落ちる。荒い粒子で印刷されたくすんだ写真に目を落とし、彼は唇を固く引き結んだ。
 「編集長――」
 不意に呼び掛けられ、バーグナーは顔を上げる。僅か半日ですっかりくたびれてしまった記者が、数枚の書類を手に佇んでいた。彼はばさばさと手早く机の上に書類を広げて見せる。どの書類にも、専用印刷機で写し出された艶やかな写真が載っていた。半島の航空写真や、青と赤に塗り分けられたあの国の国旗、そして軍事パレードのような軍人達の隊列や、現地の都市の街並みを写した風景写真もある。僅か半日でよくこれだけ集めたものだ、と編集長は素直に部下の手腕に感心した。
 「表紙の写真、どれがいいですか?」中堅に差し掛かる年頃のその記者は、ぐったりとくたびれた顔とは裏腹に、ひどく威勢のよい声で尋ねた。彼だけではない、顔を上げてみれば室内にいる誰もがよれよれのシャツを腕捲りしたまま活気の溢れる応酬を行っている。恐らく今夜は徹夜だろうに、それを厭う様子を見せる者はどこにもいなかった。
 ふとバーグナーは僅かに眉を曇らせる。
 あの少年少女達にとって、母国による迫害と母国の崩壊は、どちらの方が大きな痛手なのだろう。そしてバーグナーが――逃げ込んだ先の国の住民達がその不幸に便乗して生業を行い、一時の話題を手に入れているということをどのような表情で受け止めるのだろう。そのことが無性に気になった。
 「編集長?」
 再び呼び掛けられ、はっと彼は我に返る。そしてはたと自分の手の中にある色の悪い写真に目を落とした。
 いかにも凡庸な小太りの中年男と、窓の中から身を乗り出して差し向かいで微笑む傾国の美貌。くすんだ淡い色の髪の毛は長く、耳元や肩口から零れたそれは、空中で寄る辺をなくしてさらりと垂れ下がっている。ここまでくっきりと半身を乗り出して、むしろ不自然なほどその姿を露わにした人物。
 一瞬逡巡したが、バーグナーは色の悪いその写真を並べられた書類の上に置いた。「なら、これを使おう」
 きょとんと瞬いた記者は、写真に目を落として声を上げる。「……これは」
 「官邸内部の極秘写真だそうだ。その男があの国の頂点なのだそうだよ」努めて平静にバーグナーは言う。かの国の君主である男の写真は、それだけで飛び切りのスクープだろう。しかし、目の前にいる記者も――そして恐らくは大多数の読者も、そちらには目を向けない。この写真の本当の主役が誰なのかは、誰もが見た瞬間に理解できる。
 恐らくはあの国の追悼特集の為に、これ以上ないほど相応しいグラビアを飾ってくれるだろう。
 「肖像権の問題はわたしが引き受ける。構わないからそれを使いなさい」
 その写真に食い入るように見入っていた記者は、バーグナーの言葉に弾かれたように顔を上げた。「い、いいんですか?」
 その手元は既に、広げられた書類を掻き集めている。そして彼はその一番上に、その写真を載せた。
 バーグナーが頷くのを確かめて、記者はばたばたと机の間を抜けると自分の席へと戻る。恐らく表紙のレイアウトを考えるのだろう。
 手元に写真をなくしたバーグナーは、手持ち無沙汰な気分で頬杖を突いた。本当は何の策も持ってはいないが、それでも今回の特集の表紙はどうしてもあの美貌で飾りたかったのだ。せめてかの遠い国へ、最後の手向けの意味を込めて。
 彼は黙ったままふと顔を上げた。
 時計の針は、この国がこの都市がようやく日付変更線を越えたばかりだと言うことを示していた。
 かの国よりも十三時間遅れた今日が、ようやくやってきたところだった。


 車窓の外に見える風景は、次第に緑を深くしていっていた。
 北へ向かうにつれて勢いを取り戻して行く風雨に洗われた風景は、半島の背骨を担う狼林山脈の南端に差し掛かる頃には、すっかり国境の喧騒を取り落とす。
 しんと静まり返った列車の中、大花は幾度となく秀漢に会話を持ち掛けては玉砕することを繰り返していた。何か話でもして気分を誤魔化さないと、あの息詰まるような凄惨な静止画像が何度も繰り返し頭の中で再生され、さしもの彼女でも気鬱に陥りそうなのだ。それにも関わらず全く相手をしてくれない秀漢に対し、幾らか彼女もじりじりとしてはいた。
 もっとも、「奥さんは?」だの「年下って好み?」だのと微妙過ぎる話題ばかりを持ち出す大花の方にも問題はあったのだが、旧国境を越えてからと言うものの頓に秀漢のただでさえ少ない口数は減っている。
 随分と悩んだ挙句、ようやく大花は無難だと思われる話題を探し出す。「……ところでさ、元山にいる友達ってどんな人?」
 ところがそれは禁句だったらしい。その瞬間、秀漢はあからさまに表情を歪めて早口に訂正した。「友人ではない、古い知人だ」
 「似たようなもんじゃない」ようやく得られた回答が余りにも素っ気無かったので、思わず大花は頬を膨らませる。「……何、女?」
 「あれを女だと呼ばわったら、地球上の全女性にわたしは殴り殺される」そう言い放つ真剣な表情が面白かったので、大花は身を乗り出した。「え、でもここぞってときに頼ってるくらいだし、いい人なんでしょ?」
 秀漢は眉間の向こう傷を引き攣らせ、暗い声で呟いた。「……あいつに頼ることなど、世界が破滅してもあり得ないと思っていたのだが」
 「でも、現実頼らざるを得ないのよね。元山の李永山中将って言ったっけ。そんなとんでもない人なの?」
 わくわくと頬杖を突いて大花が首を傾げた瞬間、不意に列車がブレーキの音を立てて止まった。勢い余って大花はボックス席の対面にいる秀漢の方まで転がってしまう。彼に支えられて身を起こし、彼女は怪訝そうに窓の外を見遣った。
 「な、何なの?」
 続けようとした言葉は、分厚い窓ガラス越しに響く凄まじい音に掻き消される。車両全体をびりびりと震わせる低く重い音の正体を捉えあぐね困惑する大花に、秀漢はうめくように言う。「……ヘリコプターだ」
 「はい?」思わず耳を疑った大花は、窓の外に降りて来る巨大な鉄の塊に気付き思わずガラスに貼りついた。巨大な五翼のプロペラを少しずつ減速させ、迷彩色の稚魚のような形をした巨大なそれは、確かにニュースや雑誌で見知っている軍事ヘリコプターそのものに違いない。線路端の鉄骨が無造作に置かれた空き地に、あたかもその威容を誇るようにそれは着陸した。
 そして着陸するや否や、その中から何故か海軍の制服を着込んだ兵士達が機敏な動作で降り立つ。それに気付いた列車の乗客達は窓辺に寄って不審の声を上げるが、そんな様子を意にも介さず兵士達はヘリコプターの搭乗口から降りたところにずらりと並んだ。
 彼等は明らかに列車の方を意識している。まさか、と大花は身を強張らせた。「……追手? さっきは見逃してくれたのに……」
 「いや」
 秀漢の顔は険しいが、これまでのものとは明らかに色合いが異なっていた。怒っているように見えるほど、眉間に寄せた皺は深い。よく見ると、握り締めた拳が今にも何かに殴り掛からんばかりに細かく震えている。
 その瞬間だった。ヘリコプターの脇に据え付けられたスピーカーから、割れ鐘を叩くようなひどく調子の外れた声が響いてきた。
 『スーハンくーん、元気かーい? 遅いから迎えにきちゃったよーっ!』
 信じられないものを見るように、大花は秀漢に目を向けた。その視線が痛くて堪らないとでも言うように、彼は深く俯いて重苦しい溜息を吐いた。
 力なく呟いた声は、ほとんどぼやきに近かった。「……だから、奴には頼りたくなかったんだ」


 「いやぁ、君の部下から連絡もらったときはさすがに耳を疑ったよー」
 半ば強引にヘリコプターに乗り換えさせられ、大花は落ち着かなげに内部を見回した。さすがに軍用ヘリコプターなどに乗るのは初めてで、目に映る何もかもが新鮮だった。思いの他に広い機内には十人を越える人影が見えるが、それでもまだゆとりがあるらしい。最大で二十七人まで乗れるんですよ、と隣を通った若い親切そうな兵士が教えてくれた。
 鼓膜をつんざくようなプロペラ音にも掻き消えない凄まじい大声で、秀漢の隣を陣取った中年の大男は笑った。随分大柄な印象だったはずの秀漢が、彼の隣では小さく見える。もっとも、この旧友の突然の出現に縮込んでいるだけなのかもしれないが。
 「まっさかあの真面目を膠で固めたみたいなスハンくんが反乱なんてねー、人はちょっと会わない間に変わるもんだねーっ! いつの間にか髭まで剃っちゃって、気分まで若返ってんじゃないの?」
 罪悪感からか羞恥からか、秀漢はこめかみを押さえて哀れなほどに顔を歪めていた。「……色々な事情があったんだ」
 「わかってるわかってるって! 俺達は友達じゃないか、以心伝心、心を以って心を伝うっ! だからキミの為にこんな風に駆け付けたんだよわかってるだろ?」大男は一枚板のように分厚い掌で容赦なく秀漢の背中を叩いた。前のめりに殴り倒された後、秀漢は苦しそうに何度もむせ返る。
 頭の螺旋が危ないのではないかと思うほどテンションの高いこの男こそが、半島海岸線随一の要衝元山を束ねる元山総督李永山だと言うことが、大花にはまるで悪ふざけの過ぎた冗談のように思えた。けれど丸太のような腕や肩を飾る階級章は、紛れもなく中将位を示す赤地に金の二つ星。
 (……ああ、この国はやっぱもう終わってた訳ね)国家の頽廃を目の当たりにして何となく大花は溜息をこぼした。
 と、不意に李中将は彼女の方をくるりと振り返る。思わずぎょっと身を強張らせる大花の姿をまじまじと検分すると、彼は何故かひどく感心したように深く頷いた。
 訳がわからず面食らう大花を眺めながら、彼は鹿爪らしく何度も首を振って見せる。「ああ、でもやっぱり好みは変わってないねえ。やっぱりスハンくんと言えば幼な妻と駆け落ちじゃなくっちゃね!」
 「……お前とはわたしに対する根本的な認識から語り合った方がよさそうだな」
 へえ、と大花は相槌を打つ。「もう前科持ちな訳ね。おじさんやるじゃない」
 もはや返事をする気力もないと言った様子で、秀漢はげんなりと首を振り話題を変えた。下手に何か言っても、更なる揶揄の言質になるだけである。「……しかしヨンサム、ヘリを一機出すのにどれだけのコストが掛かると思っている。しかもこんな目立つ真似をしてわたしを連れ出しては、元山基地そのものが反逆したものと見なされて攻撃対象にされるぞ」
 きょとん、と大きな目を瞬かせた李中将は、それからげらげらと声を上げて笑い出した。重なる轟音に思わず耳を押さえた大花は、周囲の誰もがそれを気にも留めていないことに気付き、軽く肩を竦めた。
 困惑の色を滲ませる秀漢の肩をへし折らんばかりの勢いで叩きながら、李中将は大声を張り上げる。「スハンくんは相変わらず肝心なところで抜けてるなあ! 俺達がクーデターを起こしたところで、誰が鎮圧するのさ。言っておくけど一応俺の基地、海軍力は半島一だよ」
 『俺の』と言う表現に秀漢は顔をしかめる。この男が海軍を私物化していることは、既に火を見るよりも明らかだった。「……しかしそれは、ヘリを私用したことの理由にはならない」
 「あ、いやいや。ちょっと速目に来てもらいたいなーとも思ってさ」にかっと李中将は罪のない子供じみた顔で笑った。「それがさあ、ちょっと困ったことになっちゃって。スハンくん英語出来たっけ?」
 妙な味のものを飲まされたような表情を浮かべ、秀漢は首を振る。「出来る訳がないだろう、外国語は外務専門要員しか学べない」
 あちゃー、と言いながら中将は自分の額をぺちぺちと叩く。
 「参ったなあ、どうやって対応すればいいんだか。何かさあ、アメリカ海軍の戦艦が来るらしいんだよねー」
 「わたしが知るか」顔をそむけ掛けた秀漢は、それからその言葉の意味にようやく気付いてそろりと顔色を変えた。「……アメリカ?」
 天真爛漫に中将は人差し指を立てて笑った。「弓の字がさ、俺達に無断で宣戦布告出してたらしいんだ。通訳も寄越してないのに困るよねえ」
 秀漢は思わず周りを見回した。忙しそうにあちこちを駆け回る兵士達に、冗談と言えと言わんばかりの眼差しを向けるが、誰も目を合わせようとしない。祈るような思いで辛うじて秀漢は口を開く。「……宣戦布告とは、戦争を始めることだ。わかってるな? そんなことがあり得るはずが……」
 「そうだよ、だから弓の字ってば勝手に戦争を始めちゃったんだってば。スハンくんも冷静になって現実を見詰めてよ」
 口を尖らせる李永山にだけは言われたくない台詞だったが、もはや秀漢もそこに構っている場合ではなかった。「待て、この国の現状をよく考えろ。王朝派の活動に加え、首都では暴動が発生しているのだろう? しかも上層部は尽く欠員で、官邸は国内情勢で手一杯で、更に軍部も混乱を極めている状態ではないか。これでどうやって戦争をすると言うんだ!」
 一息に捲くし立てた秀漢の顔を感心したように眺め、李中将はあっさりと言う。「だからさ、向こうとも相談してやめてもらうしかない訳だよね」
 「通訳は?」
 「だから英語の出来る人がいないんだってば」
 すっかり門外に追い遣られていた大花は、見たことがないほど取り乱している秀漢の様子を興味深げに眺めた後、ふと思い出してそろそろと掌を顔の脇に挙げた。「そう言えば、すっかり忘れてたんだけど」
 怪訝そうにこちらを見遣る二人の軍人に向かい、大花はばつが悪そうに笑ってみせる。「あたし、今は一応アメリカ国民でさ……」
 英語とか、話せたりなんかして。
 言い終わる前に、大花は巨大な海軍中将にがしっと肩を掴まれていた。「よっしゃ任せた! あああよかったーやっぱ通訳は綺麗な妙齢の女性に限るよねーっ! これで先方の心象もばっちり!」
 思い切り飛び跳ねん勢いで拳を握り、それを振り上げると李中将は腕を振り回しながら操縦室の方へ足を運んで行った。「さすがはスハンくん、問題もこれで一挙解決ーっ! んじゃちんたら飛んでないで、とっとと元山戻るよ!」
 その背中をぽかんと眺めていた大花は、袖をぐいと引かれて隣を向いた。片手で額を押さえたまま俯いた秀漢が、ほとんど呻くような声で低く尋ねる。「……お前、通訳の経験は?」
 「ないけど、どっちの言葉でも今は普通に会話出来るし……」何とかなる、と続けようとした言葉は、秀漢の盛大な溜息で掻き消えた。少しだけ大花はむっとしたが、その態度に何となく不安を煽られて仕方なく口を噤む。
 しばらくプロペラを回すエンジン音に聞き入った後、ようやく秀漢は小さな、けれどしっかりとした声で言った。
 「わたしも会談には同席しよう。反逆者の汚名を着てはいるが、この際向こうにはわからん。ヨンサムとお前に任せておいては、どんな無鉄砲を始めるかわかったものではないからな」


 目の前でのんびりと自販機の紙コップを啜る一つ年上の先輩を眺めながら、落ち着かなげに鄭は周囲を見回した。
 「やっぱり鎮圧しないとまずいですよ……どうして誰も動かないんですか」
 「指示がないからに決まってるだろうが。お前、何でそんなに無駄な仕事を増やしたがるのさ」
 この暑い時期に好き好んでホットのコーヒーを選んだ先輩の唐は、指先でコップの口を摘むようにして器用に口を付ける。それからもう片方の指先で摘んでいた煙草を加えると、美味そうに溜息を吐いた。自棄を起こしているとしか思えないほど身体に悪そうな取り合わせに、鄭は半ば呆れながらも声を上げる。「……指示がないって、上層部も何を考えてるんですか」
 これはもう暴動ですよ、と彼は声を潜めた。
 彼等が警備を勤める平壌空港は、民間機だけではなく軍用機も離着陸するもので、現在も滑走路の隅の方には小型軍用機やヘリコプターが並んで止められていた。だが、首都を中心として大規模な暴動が発生しているこの状況で、軍用機が一台たりとも出て行く気配がないというこの状況は余りにも異様だった。
 「そんなこと言ったって、台風で飛行機飛ばないんだから仕方ないだろ」「だったら地上を通って行けばいいでしょう」
 平壌での暴動の様子は逐一伝えられてくる。総統やその側近が欠けることによる指示系統の混乱で、政府側の旗色が非常に劣勢なこともよくわかっていた。幾ら兵力があっても足りないような状態だというのは間違いないのに――それにも関わらず、この空港を警備する鄭達には何の要請も来ないのである。飛行機などそもそも飛ばないような天候なのだから、いっそ大半の警備兵を首都の暴動鎮圧に回しても構わないだろうに、空軍の上層部は不自然なほどに何の打診も行っては来ないのである。
 猫舌なのだろうか、コーヒーに舐めるように口を付けると、すぐに唐はあちちと言いながら煙草をくわえ直した。それからあたかも付け加えのように言う。「またハイジャックされたら」
 「飛行機飛んでないでしょう」無下に鄭は切り捨てた。
 熱いのが苦手ならばアイスコーヒーを買えばいいだろうに、わざわざ煙草臭い息で吹いて冷ましながら熱い液体を啜る先輩の心情は、彼には全く理解出来なかった。常々思っていることではあったが、本当にこの先輩が自分と一つしか違わないと言うことが鄭にはひどく疑わしい。「ここは都市部から離れてますし、それほど警備が外れても問題がある場所ではありませんよね。だったら……」
 隣で喚き立てる後輩を、唐は横目でちろりと睨む。「馬鹿か。お前もあの放送を見ただろう、あんなのを流しておいて王朝派が大人しくしてると思ってるのか? 単なる市民だけの暴動だったら太刀打ち出来るかもしれんが、あいつ等が背後でうろついてたらまぁ俺達が後援に回ったところで軍部に勝ち目はねえよ。ゲリラ戦に関したら、俺達はあいつ等にとってはガキみたいなもんなんだから」
 「な……」不穏な台詞に鄭は息を飲んだ。それを振り払うように首を振って言葉を接ごうとする彼に、容赦のない言葉を唐は投げる。「本当に鎮圧するつもりなら、全大佐を出せばいいんだ」
 「……唐さん、何言ってるかわかってるんですか!」
 腰を浮かす鄭に向かい、きょとんと唐は瞬いてみせる。「知らないのか? 空軍の黄世宗閣下も、陸軍の潤思豊閣下も、全大佐の古い知り合いだって言うぜ」
 「それとこれとは……」
 「違わねえよ」ふう、と唐は白い煙を吐き出した。「騒ぎを煽っておいて、あの人を借り出さざるを得ない状況を作るか、さもなくばいっそどさくさに紛れてクーデターまで発展させるか。軍人ってのは基本的に馬鹿だしな。特に全秀漢の周辺は正義派揃いって言うし、あの人を助ける為にはそれくらいやるぜ」
 すっかり顔色を変えた鄭は、左右を忙しなく見回す。幸い人影はないようだが、それでも抑えた声で彼は囁いた。「……そ、そう言う話題はもう少し大人しく……」
 「ほらお前も。自分の保身だか俺を庇ってるんだかはわからんが、今お前は守りに入った」
 狐に摘まれたように怪訝そうに歪められた後輩の顔を、さも愉快そうに眺めながら唐はコーヒーを置いた。「それでいいんだよ。何も考えずに無鉄砲に飛び出す馬鹿が、怖気付いて大人しくなれば世の中の戦いは半分になるぜ」
 「……何が言いたいんですか」彼の真意と論理の展開が掴めずに困惑の色を滲ませる鄭の目の前で、ゆったりと一頻り煙草を味わってから、唐は少しだけ枯れた声で笑った。「んで、物音にびびって拳銃を構える馬鹿が、それを下ろす勇気を持てばもう半分の戦いはなくなるってことだ」
 無責任に風雨の吹き付ける窓ガラスを眺めて笑う唐に、鄭はあきれたような声を上げた。「理想論です。第一、そんなことになったら俺達は廃業じゃないですか」
 ぬるみかけたコーヒーに口を付けて、唐は何がおかしいのか再び声を上げて笑った。「もっともだ」
 「何がおかしいんですか」
 「あ」肩をいからせる鄭の前で、唐は紙コップの中の黒い液体を覗き込んだ。「……灰が落ちた。もう飲めねえかな」
 かくん、と肩を落として鄭は言った。「やめておいた方がいいですよ、身体に悪過ぎます」


 基地の事務室の扉を押し開けた小魚は、ふとその自分の腕を後ろから押さえ付けられて振り向いた。訝しげな表情を浮かべ、彼は言う。
 「楊さん、全さん、何ですか?」
 正しくは、彼等だけではない。十人はいるだろうか、中央から派遣されてきていたと思しき軍服姿の若い男がそこに佇んでいたのだ。
 口を切ったのは、全だった。「……その帳簿を貸してくれ。すぐに返す、迷惑は掛けない」
 小魚はもう片方の腕に抱えた帳面を見た。食料の在庫と各地の兵力を纏めたノートは、臨機応変に食糧不足に対応している今は、それほどの価値を持つ情報には思えなかった。
 けれど、何かが彼の中でざわついていた。迂闊に貸しては行けない気がしたので、何となく背後にそれを回しながら小魚は男達の顔を眺めた。ひどく思い詰めたような険しい表情が、只ならぬ状態を匂わせた。
 唾を飲み込み、ゆっくりと小魚は尋ねる。「……何に使うつもりですか?」
 彼等は一瞬顔を見合わせたが、頷き交わすと、代表するように楊が言う。「各地に駐留する兵卒を集めて、反乱軍を結成しようと思う。兵力を確かめておきたいし、その為にはその帳簿が必要なんだ、貸してくれ」
 思わず小魚は彼等の顔を見回した。「……俺に手の内話していいんですか?」
 「お前のことは信用してる」短く楊は言った。険しい顔はしていても、疑念を上らせている者はこの中にはいない。
 真摯なその表情には揺らぎそうになる。もしも出来るなら、それについて行きたいと思う自分も確かにそこにいる。迂闊にこれ以上話を聞いては、それを聞き入れてしまいそうで、それが自分で怖かった。
 慎重に言葉を選びながら、小魚は問い掛ける。「権さんには、もう話しましたか?」
 北へ戻るな、と言う彼女の言葉を踏まえた上で、彼は言った。全も楊も他の兵士達も、それは忘れてはいなかった。表情の深部に動揺の色を見せる。だが、それでも敢えて全は首を振った。
 「あの人は一介の自警団員に過ぎない。別に、あの人の言葉に拘束力がある訳じゃない」
 「詭弁です」きっぱりと小魚は言い切った。「権さんは事実上のこの地域の主導者です。彼女の指示がなければ、ここまでの救援作業は出来なかったはずです。あの人の指令にわざわざ叛くのは、人々の為にもなりません」
 「あの人は何もわかってない! 俺達の行動は、結果的には人民全員にとっていいことになるんだ!」激昂した男の一人が叫んだ。身を乗り出す彼を押し留めつつも、その言葉はその場の全員の代弁だった。
 口実はきっとどうでもいい、何かきっかけがあれば弾けるつもりだったのだろう。貧困に喘ぐ人々を見捨てられない正義感を持ち合わせているからこそ、今彼等はこうしてここから離反しようとする。その心に偽りはないだろうし、その気持にきっと濁りはない。
 けれど、と小魚は敢えて踏み止まる。「各地の暴動を抑止する為に、中枢都市を中心に公安が動き始めているのはわかっていますか?」
 「わかってる、だから時間が……」
 「あなた達、どのくらいの兵力を持っていくつもりなんですか?」
 冷たいほどにきっぱりと小魚は言った。既にそれは質問ではなく、通常は目の前にいる兵士達が使用する、詰問の口調だった。
 ――これ以上、誰も犠牲にしたくなかった。せめて自分の手の内にあるものだけでも守りたかった。
 険しく睨みつける幾つもの眼差しを見据えながら、淡々と小魚は続けた。「台風は北部に去りました、じきに公安の手が民衆抑止に動き始めます。真っ先に政府の意向から離反したこの地域は、公安が動けば交戦は免れ得ません。あなた達が留守にして、誰が皆を守るんですか」
 ソウルに大花がいる。平壌にベルがいる。ベルの傍らにデイビーがいる。彼女達を見捨てたい訳ではない。むしろ今すぐにでも助けに行きたい。
 けれどここにも人がいる。貧困と絶望の只中で蹲る人々が、彼等を――寄せ集めの軍隊と、自警団を唯一の頼みとして仰いでいる。
 大花が作っていた防衛線は、彼女の寄る辺の失脚と共に崩れ落ちてしまった。それは彼女の危機を意味していることには違いないが、それ以上にここで狼藉を働いている自分達にも言えることであった。
 (感情的になるんじゃない。怒りに任せたら後で後悔が残るだけだ)
 もし仮に今ここを離れたら、挙兵が可能な人数を掻き集めてここの守りを捨てたら、公安当局が動いた時点で数百数千の人々が犠牲になる。例え戦闘にならなくても、守りが緩んだ瞬間に恐らく、半ば強引に食料を奪われた「居住区」が反発する。既にここは、極限状態の人々が飽和した空間に押し込まれて命を繋いでいる世界なのだ。僅かな均衡のずれで呆気なく崩れ落ちてしまう。
 姉も仲間達も掛け替えのない存在だ。けれどそれは極論してしまえば、自分自身にとってのみ価値がある存在だ。
 人の命に軽重はない。三つの命と数百数千の命を天秤にかけて測ることは出来ない。――それでも、数百数千の命は数万数億の喜びを生み、悲しみを呼ぶ。もしもそれが失われたとき、悲しむ人間は自分一人ではない。
 そして悲しみはいつでも次の悲しみを呼ぶ。悲しむ人が多ければ多いほど、次に起こる悲しみは傷が深いのだ。
 「あなた達の行動はあなた達の勝手だと言いたいところだけど、羅州どころか半島南部全体の人間の命が掛かってるんだ、勝手に任せる訳には行かない」我ながら生意気な口を叩く、とは自覚していたが、ここで妥協する訳には行かなかった。
 不意に全が顔を紅潮させた。普段余り興奮したりしそうにない飄々とした人物であるだけに、ぎょっとするほどの気迫があった。
 「お前に何がわかる! 平壌に家族がいて、反逆者にされてる奴の気持がわかって堪るか!」
 (わかるよ、俺だってそれは無茶苦茶よくわかってるよ)
 小魚自身も疼いている部分だっただけに、胸の中がざわめいた。自分だけが辛いような顔をされると、思わず怒鳴り付けたいような気分になる。けれどそれを何とか押し殺さなければならない。激昂しては誰を納得させることも出来ない。出来るだけ冷静に、相手を納得させなければならない。
 突き崩されそうになりながら、それでも必死に組み立てた言葉を、彼はやっとの思いで口にする。「あんたこそ、自分が盾だと言うことを忘れるな。自分から攻め込んで自称誇り高く死ぬ前に、自分の背中で震えてる人達がいることを忘れるな」
 怒鳴ってはいけない。声が震えてもいけない。きちんと相手に届くように、出来るだけ大きな声を張り上げて、納得してもらわなければならない。何度かぐいぐいと首を振り、小魚は言う。
 「あんた達も軍人の端くれだったら、自分の強さをきっちり把握しろ。俺達は皆、守る人間を決められるほど強くない。目の前にいる人間をやっとの思いで守るだけの力しか持ってない。それなのに欲張って、結局両方を失うつもりなのか!?」
 そう思わなければ立っていけない。あいつを――平壌にいたあいつを既に犠牲にしてしまったのなら、これ以上の犠牲を出すことは許されない。もうこれ以上の失敗は許されないのだ。
 彼より僅かばかり年嵩の男達は、言葉に詰まって黙り込んだ。誰一人として納得している者はいないが、けれど小魚の言葉に全く耳を貸さなかった者もいない。多分誰もがどこかで引っ掛かっていた部分を、わざと突いてしまったのだろう。卑怯だとは思うが、それでも貴重な兵力を一つでも失うことは出来ない。小魚も必死だった。
 しばらく小魚と睨み合った後、不意に全が踵を反した。他の者達もそれに付き従い、最後に楊も小魚に背を向けた。唇を引き結んで、小魚はその背中を瞠っていた。
 と、不意に楊は小魚の方を振り返る。思わず挑むように身構える彼に、楊はにこりともせずに静かに言った。
 「……そっか、そう言えばお前、守るものを全部なくしちまってたんだっけ」
 くらりと目の前が揺れた。脳裏を過ぎるのは、更地になったアパート、血痕だけが残る店。思い出すだけで後悔と憎悪で卒倒しそうになる。
 帳簿を腕に抱き締めて、小魚はそれ等を振り払うようにもう一度ぐいと首を振った。
 「――守るよ俺は。ここの人達を、皆」
 もう償うことは出来ないけれど、それでも同じ悲しみを増やさないことは出来るかもしれない。生き延びることが出来た人は、いつかきっと必ず、生きていることを感謝したくなるほど幸せな瞬間に巡り合えるだろうから。
 それを信じて、自分自身もこうして生きているのだから。
 (――それが俺の使命だと思うんだ、タイホア)
 ふと楊は困ったような、柔らかい笑顔を見せた。「俺達はまだ、お前ほど達観出来てないけどさ――でも、いいなその考え方は」
 そしてすぐさま背後に振り直ると、遠ざかる全達の背中を足早に追い掛けて行った。
 その背中をじっと見送り、小魚は再び扉を開き直した。何故かひどく扉が重い気がした。


 『只今回線が非常に込み合っています。しばらく時間を置いてお掛け直――』
 通話ボタンをぷちんと乱暴に押し、朴はウエストポーチに携帯電話を投げ込んだ。(ああもう、放送局まで歩かなきゃ)
 外の嵐と凄まじい人波の惨状に気を取られ、うっかり彼女は大きな荷物を抱えた人々の一団に突っ込んでしまった。揉みくちゃにされた上に罵声を浴びせられて、ぽいと放り出されたときには既にげんなりとしていた。
 ここ平壌駅は、既に凄まじい数の人で埋め尽くされていた。混迷を極める首都を捨て、少しでも遠くへと逃げようとする人々が群れを為して殺到し、その勢いで麻痺した交通機関が彼等を足止めするという状態を繰り返していた。無限に続く悪循環で、巨大ではあるが古い駅舎に集う人々の数はどこまでも膨れ上がり、雨水に濡れた人間と古い木材の篭った臭いが辺りにむっと立ち込めている。
 (――これを、全てあの人が)
 ふと脳裏を、亜麻色の長い髪が過ぎった。哀しげに優しく微笑む端正な面差しと、あの毒々しいほどに凄艶で壮絶な血塗れの姿が、まだ網膜の中に焦げ付いているようだった。
 彼女の勤める放送局を乗っ取り、全国に向けて自分の恐ろしい死に様を放送して見せた、あの少年の行為が正しかったとは朴もさすがに思わない。けれど彼を僅かでも知ればこそ、その行為を弾劾することも非難することも出来なかった。死にたくないとあれだけ強く願っていながらあんな風に命を投げ出した彼を痛ましくは思っても、決して巻き添えにされた怒りなどは感じなかった。――多分それは、その場に居合わせた誰もが同じことだった。
 朴は再び大きく首を巡らせて、平壌駅の周囲を見渡した。いつまでもジャック事件を引き摺っている訳にはいかないので、首都を埋め尽くす暴動の中継にスタッフは飛んでいるのだが、放送局全体が事件後の対応に追われており手が足りないので、朴などは一人でこの駅を受け持つことになってしまったのだった。本当は携帯電話を使って中継を入れる予定だったが、電波が混戦し過ぎて使用不能に陥っており、恐らくは一旦局に戻らないといけないようだった。
 ジャック事件が起こったとき、朴も何か凄いことが起こったという程度の認識は持っていた。しかしそれが具体的にどんな効果をもたらすのかと言えば、まるで想像など出来なかった。歴史が動くほどとんでもない、凄まじい事態が発生したということは漠然と感じていたにも関わらず、こんな大混乱が起こる様子など微塵も思い描くことが出来ていなかった。多分誰もが同じで、だからこそこんな大混乱や大暴動が発生しているのだろう。
 (これを全部、あの人は想像していたの――?)
 不意に鳥肌が立った。
 自分が死んだ後の世界の様相を見越して、彼はあんな行動をしていたのだろうか。自分の消えた後の世界を脳裏に思い描き、彼はそうなるように未来を作り変えていたのだろうか。あのとき――僅かに言葉を交わし合ったときには彼の脳裏にしか存在しなかった、彼が空想した架空の世界の中に、今自分はいるのだろうか。そう思うと寒気が走った。
 (このまま、どんな世界を作るつもりだったの?)
 この世界の命運を大声で尋ねたかったが、答えてくれる人は既に自らの身を贄として投げ捨てていた。こんなことになるのなら、もっと強く聞き出しておけばよかった、と後悔ばかりが湧き上がる。引き止めることが出来なくても、出来る限りのものを残して留めておけばよかった、と詮無いことを強く願う。
 (――一人ぼっちで、こんな世界を眺めてたの?)
 家族を連れた幾人もの男が駅員を取り囲んで何やら捲くし立てている。別の方に首を巡らせると、窓口に無秩序に圧し掛かる人々が各々の好き勝手な主張をがなり立てているのが見えた。ただひたすら他人を押しのけ、この場から逃げ出すことに固執する人々の様は、まさに混沌と呼ぶに相応しかった。
 ――あのとき哀しげに遠くを眺めた瞳には、こんな世界が映っていたのだろうか。そう思うと、空恐ろしく感じると同時に、言いようのない憐憫の情が湧き上がった。どうして彼なのだろう、どうして彼だけがこんな運命を背負わざるを得なかったのだろう。そう思うと、堪らない運命の不条理を感じざるを得なかった。
 その瞬間、朴は人にぶつかって我に帰った。ぼんやりとしていたのは自分の方なので、思わず反射的に頭を下げる。「すみませんっ」
 「いえ……」素気無く気のない返事をしたその人は、耳に携帯電話を押し当てたまま軽い会釈を返す。それから小さく舌を打つと、何やらキーを弄り始めた。やはり彼も回線が繋がらないのだろう。なかなか粘っているが、埒が明かない様子だった。
 ――と、その面差しに目をやって思わず朴は息を飲んだ。「……あなた」
 一瞬だけ振り向いたその顔立ちは、氷のように鋭利に整っている。目元はカラーグラスで覆っているが、病的を通り越すほど白く冷たそうな頬や真紅の唇には覚えがあった。目深に被った黒い帽子の間から零れる絹糸のように透明な髪や、真夏にも関わらず黒の長袖に覆われたすらりとした長身は見間違えようもなかった。
 あの少年の亡骸を連れて行ったはずの、共犯の男だった。
 思わず彼の着る丈の長い上着の裾を掴みそうになったが、彼はするりとそれを振り解いた。そして視線を朴から改札の方に移すと、しなやかな身のこなしで去って行こうとする。慌てて朴は呼び掛けた。「あの、ちょっと……」
 「すみません、急いでいるんです」取り付くしまもなく、彼は足を運ぶ。
 それでも朴は粘った。「どこ行くんですか!?」
 彼は――あの少年は、どこへ行ったのか。何故この男は一人でこんなところにいるのか。あの後彼等は一体どうしていたのか。別に義務がある訳ではないのに、何としても聞き出さなければならないような気がした。
 鬱陶しそうに振り向いた男の面差しからは、あのときの笑顔の名残もない。それでもひるまずに、朴は詰め寄った。「覚えてませんか? 現代テレビのスタッフの朴です。皆気にしてるんです、どこ行くかくらい教えて下さい」
 男は小さくああ、と声を洩らした。「お世話になりました。お礼は改めて研究所の方から向かわせます」
 「そんなことじゃなくて!」埒が明かない会話に朴は語気を強めた。
 と、その瞬間、男は真夏にも関わらず黒い手袋をはめた掌をこちらに伸ばして来た。そして思わず身構える朴の額に掌を載せると、早口に言い放つ。「奥さんに会いに行くんです。急がなければならないので、失礼します」
 そしてとっ、と勢いをつけて掌を離した。よろけた朴がたたらを踏む間に、彼はするりと雑踏の中に身を潜ませてしまった。この蒸し暑い季節にあんな格好をしているにも関わらず、幾ら目を凝らしても一度見失った姿は探し出せなかった。
 ふと朴は、何か甘い匂いが自分の鼻腔に残っているのに気付いた。甘苦い独特の芳香が余りにも仄かな彼の残り香だと悟るのに、思いの他に時間を要する。
 (――あの人)
 煮え切らないものが胸の奥でわだかまるのを感じながら、朴は雑踏の中で改札の方に目を向けた。「……」
 行き過ぎる人々に遠巻きに避けられながら、それでも彼女は立ち尽くしたままで彼の姿を探したが、遂に見付け出すことは出来なかった。




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