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第十三夜・上


  めでたし、恩寵に満てるマリア
  主は御身と共にあり
  女性(にょしょう)らの中にありて御身は祝福されたり
  御身の御胎(みはら)に宿りたる果実
  イエズスもまた

  聖なるマリアよ
  われらのために祈り給え
  われら罪深き者らのため
  今、そしてわれらの
  死ぬる時にも  アーメン

(カトリック聖歌集627番)



   第十三夜・上



 「……くそ、電波が悪いな」
 電波の入り難いビル裏で渋滞に巻き込まれた金は、手持ち無沙汰にカーラジオのチャンネルを弄っていた。もう数十回繰り返した動作だったが、こうでもしていなければ、もう間が持たなかった。
 テレビ局へと通じる道は、凄まじい数の野次馬によって完全に寸断され、身動きが取れない状態になっていた。ぎっしりと鮨詰めになった無数の自家用車の間を、若者達はどこかはしゃいだような足取りで走り抜けて行き、渋滞の脇を追い抜いていく。いっそこのままこの車を乗り捨ててやろうかと金はやきもきしたが、まさかそんなことも出来ないので、じっと流れを待っていた。
 悪いことに、途中から電波を遮る建造物の密集する路地裏に入ってしまい、肝心の中継が聴こえなくなってしまったのだった。恐らくこの渋滞で足止めを喰らう他の誰よりも事の顛末が気になっているという自信があるだけに、それは余りにもじれったかった。
 祈るように指を組んだままじりとも動かない老人を横目で眺めながら、話し掛けることも出来なかった。急激に衰えた雨脚に従って動きの緩やかになったワイパーを眺めながら、仕方なく金はじっと空模様を睨むように眺めた。ボリュームを低く抑えたラジオが奏でるノイズを聞きながら、目まぐるしく移り変わる空模様を眺めていると、それだけで妙な不安が掻き立てられたが、それを何とか押し黙ってやり過ごそうと黙り込む。――恐らくは、隣の老人の方がずっと不安なはずなのだ、と自分に言い聞かせるしかなかった。
 そして彼はふと、車の窓を開けた。
 ついさっき台風の目に入ったのか、突然雨が止んで晴れ間の光すら射し込んだ。それなのに空の光が不意に翳ったように思ったのだ。「……もう台風に戻っちまったのか?」
 助手席の甫民が窓越しの空を見遣りながら言う。「……日蝕では?」
 「ああ、そう言えば今日だっけな。どさくさですっかり忘れてた」ボードからサングラスを取り出して、金は眼鏡と掛け替えた。身を乗り出して空を見ながら彼は言う。
 「すげー、太陽が半分になってら」それからサングラスを外すと、甫民の方に差し出した。
 だが彼は首を振る。意外そうな顔をしながら金は言った。「見てみろよ。こんな凄い日蝕、滅多にないぞ」
 甫民は、膝の上で握り締めた自分の拳に目を注いだ。「いえ、不吉ですから」
 「爺さんも迷信を信じるんだ」再びサングラスを鼻に引っ掛けて、金は空を見た。
 「……しっかしすっげえ、運がいいな。台風の最中だってのにこんな日蝕が見られるんだ」わざと明るく、金は天候を眺めながら話を振る。
 こんなにも異常な――針の穴に偶然糸が通るような、余りにも数奇な偶然の重なり過ぎた天象現象など、確かに金も手放しに喜ぼうと思えない。けれど、生半なことでは起こり得ないこの偶然には、何かまるで天そのものの意志のようなものが働いているような気がしてならなかった。無論そんな非科学的なものを信じる金ではなかったが、この現象は何らかの事象を暗示しているような妙な予感だけは拭い切れなかった。
 「――案外これもいい報せかもよ」その予感を敢えて明るい方に捉えながら、金は笑ってみせる。
 「ならばいいのですが」
 白い髭を垂らした老爺は、ぽつりと呟いてそのまま押し黙った。
 ――その瞬間、ノイズだけを吐き出していたスピーカーが、意味を持つ音を紡ぎだした。慌てて金は、ボリュームバーを捻る。


 画面を切り替えさせるや否や、スタッフは一斉にカメラの前に飛び出した。その瞬間に独特のよく通る声が響く。「近寄らないで」
 はっと立ち止まった人垣を掻き分けて、医務室から借りて来た白衣を羽織った劉が入って来た。彼は、血溜まりを避けながら倒れた竜血樹に近寄り、膝を突く。うつ伏せに倒れた彼の身体に手を掛けて、肩の辺りを抱えて抱き起こした。まだナイフに絡まったままの指を解き、そっとそれを抜くと、丁度鎖骨の間の窪みに突き刺さった傷からは意外と血が出なかった。
 ひた、と水の跳ねる音がした。竜血樹の亜麻色の髪がじっとりと血液を吸い込んで、それを滴らせている音だった。劉は冷たいほど蒼い目で、血に塗れた竜血樹の白い面を見遣る。白衣の袖でちょっとそれを拭うと、彼はまだ開かれたままの竜血樹の瞼に指を掛けた。どれほど目を凝らしても、もうその瞳の中に紫色の影は見えなかった。
 劉は静かに息を吐き、その目を伏せさせた。
 竜血樹の手を組ませ、血塗れの髪を軽く絞ると、劉は顔を上げて言った。「すみません、何か大きな布があればこちらに投げて下さい」
 「あ、あの……」驚きからか何なのか、大きく目を見開いたまま涙をぽろぽろ流していた若いADの女性が、薄手の水色の毛布を抱えてこちらへ来ようとした。それを劉は短くたしなめる。「伝染りますよ」
 「あ」小さく声を上げた女性は、おずおずと腰を沈めると毛布を投げた。それを片手で受け取ると、劉は竜血樹の身体を手早くそれで包んだ。顔の辺りまで布を被せてしまうと、劉はそれを抱えて立ち上がる。
 「……後で、保健所と研究所の人に来てもらいます。ご迷惑をお掛けしますが、しばらくここは使わないようにして下さい。念の為に皆さんも、感染検査をしてもらって下さい」
 「……あんたは」スタッフを庇うように背後に下がらせながら、ディレクターが言った。「劉さん、あんたは……」
 劉は少しだけ微笑んだ。「裏口を教えて下さい。そちらに車を回して、そこから帰ります。彼を連れて帰らなくてはいけないので」
 そして首を振り、乱れた髪の毛を掻き分けた。指先を濡らした鮮血が、銀色の髪の毛に掠れて汚した。
 「……損害はお手数ですが、後で官邸と国立研究所まで請求を出して下さい。機材と清掃分はもちろん、この毛布の分まで全部お支払いしますから」
 李ディレクターは訝しげに言う。「そうじゃなくて、あんたこそ、伝染病は――」
 「僕には、伝染らないんですよ」少し首を傾げて、劉は静かにそう言った。


 サジョン収容所の内部は、緊迫した空気が立ち込めていた。
 この収容所に拘束されているテロリスト・施寛美を解放することを要求した公共電波ジャック犯人の影響で、この収容所の周りには続々と人々が集まって来ていた。状況がわからないなりに野次馬として押し掛けている者から、完全に感化されて「セ・カンメイを解放せよ!」と叫んでいる者、また裏手の方には息を潜めた本業の王朝派過激テロリストまでが集まっていた。
 折りしも、台風の目に入って晴れ間すら垣間見えた空が、俄かに翳り始めた。窓の外を振り仰いだ彼等は、真昼の空の太陽が黒く欠けてゆくのを見た。
 ――日蝕だった。
 ただでさえ不吉なその天候現象に加え、それによって人々の動揺する声は収容所の内部にまで響いてくる。ひとたびこの規模の人数でパニックが起これば、それに対応するにはここを護る一個小隊では余りにも心許ない。ましてや逃亡やそれを処罰したことによる欠員が激しい現在、逃げるにも逃げられない状況にあっては残っている兵士達も暗澹たる思いを噛み締めていた。
 施寛美の連れとされる男を収容した独房の見張りを勤める兵士は、密かに溜息を吐いた。「……これからどうなるんだ?」
 「知るか。逃げた奴は片っ端から殺されてるって噂だ」
 ちっと一人が舌を打った。「何か、弓閣下はセ・カンメイをこっちに組み入れるつもりらしいぜ。そんな面倒なことせずに、さっさと殺して吊るせばいいのによ」
 「まあな。表に集まってる連中をこっち側に引き入れるつもりだろうけど、逆効果だと思うぞ俺は。今の内に潰しとかねえと、ホント冗談にならなくなるって」
 と、不意に彼等は同時に、鉄格子のはまった扉の向こうで奇妙な音を聞いた。何か電気機械が壊れるような、ばちっと言う奇妙な音。彼等は一瞬顔を見合わせた後、眉をひそめた。
 「何の音だ?」「……暗くて見えねえ。ライトが壊れたんじゃないのか? ぼろかったし」
 片方はあまり気にしていない様子だったが、もう一人が首を傾げながら鍵を出した。「一応念の為に見て来る」
 「お、おい」心配そうに引き止める片割れに、彼は肩から下げたサブマシンガンを構えて見せた。「大丈夫だって。何なら抵抗したってことにして、撃ち殺しちまえばいい」
 「そうか?」
 他愛ないくせに余りにも物騒な会話をしながら、片方が金属製のドアノブに手を掛けた瞬間のことだった。
 もう一人の目には、ドア全体が火花を散らしたように見えた。同時に、凄まじい悲鳴が上がる。ドアノブを握り締めたまま、彼の片割れは小さな炎を全身のあちこちから吹き上げて炎上したのだ。
 「な……」逃げ腰になりながら自分の銃を構える片方の兵士の前で、あっという間に黒焦げになった片割れはぷすぷすと嫌な臭いの黒煙を吹き上げながら倒れた。その重みで扉が開き、ある程度開いた時点で真っ黒になった兵士の残骸はぼとりと床に落ちる。
 そのドアの向こうから、大きな影がゆらりと出てきた。残された兵士は、我を忘れて悲鳴を上げる。「う……うわあああ!」
 その瞬間、人影は猫のような動きでドアから飛び出し、感電した兵士の脇にしゃがみ込む。彼のサブマシンガンが奪い取られたのを見て、ようやく残ったもう一人の兵士は自分の銃を構えた。だが、全身ががたがたと震える。その隙を、たった今脱獄したばかりの男は見逃してはくれなかった。
 大柄な男は、先を丸めたロープのような物を振り回していた。そしてそれを、残った見張兵目掛けて投げ付けたのである。それの材料が、独房中唯一の灯りであった電気スタンドのコードだと気付く前に、高圧電流を流す投げ縄は兵士の頭部に命中した。断続的な悲鳴を上げながら、彼もまた煙を上げてやがて動かなくなる。
 電気が逃げるのを待って、男はもう一人の兵士からも銃を奪い取った。こちらはシンプルな短銃だったので、ズボンのベルトに挟み込む。きちんと弾が詰まっているのを確認した彼は、険しい面持ちで顔を上げた。さっきの悲鳴を聞き付けたのだろう、幾つもの足音がばたばたと近付いて来ていた。少し遅れて、銃弾が脇を掠める。それから怒鳴り声のコーラスも聞こえる。
 彼は、敵の頭上から自分の頭上に掛けてをパラベラム弾で舐めていく。ガラス片を雨のようにばらばらと降らせながら、廊下から灯りが消えた。昼間にも関わらずこの暗さは一体何だろう、と僅かに彼は怪訝に思う。
 それからさっきまで感電装置に使っていたドアを今度は盾代わりにして、彼は敵兵を引き付けるだけ引き付けた。そして一瞬表情を凍り付かせると、今度は一気に兵士達の群れにマシンガンを掃射した。血飛沫が上がり、ばたばたと人が倒れる。後続の兵は、弾の直撃を免れたものの倒れた仲間に足止めを食らって動けなくなる。
 男は、容赦なく彼等に銃弾を打ち込んだ。(レディー・ベル、待ってろ)


 弓は再び、ベル――施寛美の前に立った。
 「どうだ、結論は出たか?」
 殴る代わりに、彼は少女の背中に腕を回し、長い黒髪を引っ掴んで仰向かせた。しかし、気だるそうに目を閉じた稀代の悪女、施寛美は唇を固く結んだまま何も言わない。
 ふと弓は、奇妙に優しげな声で言った。「……まだ、死に損ないの皇帝を助けるつもりか?」
 だが、やはり彼女は何も言わない。
 口元に笑みを浮かべると、彼女の耳に刻み付けるように弓は言った。「ああ、死に損ないじゃなくて、本当に死んだんだ。残念だったな」
 「……デマを」ようやく寛美は口を開けた。正面から見るのも汚らわしい、と言わんばかりの細めた横目でねめつける。
 益々愉快そうに弓は、理知的で酷薄そうな顔を歪めて笑った。「そう思うなら勝手にしろ。ついさっき、自殺するところが全国へテレビ中継されたところだ」
 そして人差指を立てると、それを彼女の細い喉元に当てる。「ここをこう、ナイフで突いてな」
 指でぐいと咽喉を突かれて、寛美は苦しそうに小さく咳き込んだ。
 彼女が身を捩じらせると、その拍子に手錠がぎしぎしと音を立てる。「……ばか、は、選んでいいなさ、い」
 小さくむせながら、彼女はじろりと弓を睨んだ。弓は声を上げて笑った。「まあいい。お前が従わないつもりなら、こちらにも考えがある」
 僅かに不安げな色を浮かべる寛美の銀色のメッシュをぐいと掴むと、弓はもう片方の人差指と中指でそれを挟む。
 「皇帝が死んで、我々は重要な人質を失った。過激派の人間はもう容赦しない。総攻撃も時間の問題だ。――ならば、こちらも手段を選んではいられない」
 「……吊るされたら、大声で、罵ってやる」唇を歪める彼女の頭を、弓は乱暴に押さえ付けた。思わず小さな悲鳴を上げて目を閉じる寛美に、弓は残忍そうな視線を注いだ。
 「いい気になるな。この悪賢い頭も、薬や何かで操られればどうしようもあるまい。第一人目に触れるのはどうせ遠目からだ。死体になっていても処理次第で誤魔化せると言うことを忘れるな」
 寛美はふと弓を見る。彼の表情からは笑みが消えていた――恐らく、本気だ。
 (……何が、あったの?)
 まさか、と彼女は思う。ずっとこの男は余裕を見せていた。自分の権力の拠点である総統達が全くの骨抜きにされていても、まるで平気の姿勢を崩さなかった。その彼がここまで追い詰められたのだとしたら――まさか。
 と、その瞬間。忙しない足音がばたばたと近寄って来るのが聞こえた。そしてノックの音もなく、乱暴にドアが開く。「ゆ、弓書記官! 大変です!」
 「無礼者」
 これ以上ないくらいに不機嫌な顔をして、弓は振り返った。ドアの戸口に手を掛けて数人の兵士が息を切らしているのを見た彼は、怪訝そうに眉根を寄せた。「何事だ」
 折り重なるようにしてぜいぜいと息を切らしていた兵士の一人が、思い出したようにドアの脇にある蛍光灯のスイッチに手を伸ばした。
 彼のカーキ色の軍服からどす黒い血痕が滴っているのを見て、弓は声を上げる。「何が……」
 「お逃げ下さい!」短くそう言うや否や、部屋の電気が落とされた。雨も風も止んでいるはずなのに、昼前の半地下の牢は真っ暗になる。
 襲撃を受けたときには自分の周りを暗くする、と言う護身のマニュアルを思い出した弓は、素早く寛美の隣の壁際に身を寄せた。遠く銃撃戦の音がする――いや、どちらかと言えば、一方的に銃の乱射が行われているような音だった。彼は軽く舌を打って、息を潜める。さっぱり状況が把握出来ない寛美は、黙ってそのまま俯いた。
 部屋の戸口の前で、数発の銃声が響いた。それからドアが開くときの、重く軋む音がする。戸口に折り重なっていた兵士達はどうなったのだろう、とぼんやりと寛美は考えた。
 そして僅かに、顔をもたげた。


 (……どこだ)
 彼は、襲い掛かる敵を薙ぎ払いながら周囲を見渡した。(レディーはどこだ)
 監獄から抜け出したものの、拘置所内は思いの外に広かった。それを虱潰しに捜して行く時間などどこにもない。そう判断した彼は、咄嗟に適当なところにいた兵士を捕まえた。恐慌を起こす兵士の腕を捩じ上げて武器を封じると、男は黙って背中を叩き先に進むよう促す。泣きそうな顔をしてこちらを見上げる兵士に、彼は頷いて見せて、銃を突き付けたまま先へと歩かせた。
 いつの間にか周囲を兵士達に囲まれたが、彼の一睨みで連中はおずおずと引き下がる。それでも飛び掛ろうとする無謀な者には、容赦のない弾丸が食らわされた。それにより、益々彼の要求を兵士達は大人しく飲むようになる。
 しばらく歩くと、不意に銃を突き付けていた兵士が逃げ出そうとした。その隙を見てこの凶悪犯を取り押さえようとした兵士は、一斉にマシンガンの掃射を食らって前のめりに倒れ込む。それから逃げ出した兵士の背中に、短銃の鋭い一撃が入った。アンモニアの臭いがふと鼻を突く。多分、恐怖のあまり失禁していたのだろう。
 隙のない動作で銃を身構えながら、彼は倒れた兵士から武器を抜き取った。と、その瞬間目が合った兵士が、その場にべたりとへたり込んで額づく。何か訳のわからないことを喚き散らす兵士につられるように、数人の生き残った兵士が跪いた。
 命乞いをしているのは、言葉の通じない彼にとっても明確だった。彼は僅かに荒んだ血塗れの笑みを見せると、銃を向けて顎をしゃくる。
 何度も何度も頷きながら、彼等は一斉にぞろぞろと一方向へ歩き出した。そして、そう遠くない一室の前で立ち止まり、膝を折る。部屋の扉は開いているようで、廊下の蛍光灯の明かりはその部屋の中へと吸い込まれているようだった。
 (……暗いな)
 もう一度だけ威嚇の為に銃口を向けると、一斉に兵士達は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。同じ方向へと向かっていると言うことは、恐らくその方向に出口があるのだろうと彼は目星を付ける。
 部屋に入ろうとして何かに躓いた彼は、足元を見下ろした。そしてそこに転がる負傷兵の一塊を見て、僅かに表情を曇らせる。
 しかしそれを踏み越えると、彼は暗黒の満ちる部屋へと滑り込んだ。


 一瞬、漆黒の闇に目が眩む。今は昼間だと思っていたが、いつの間に夜が来たのだろう、と彼は怪訝に思う。
 確か、今日目が覚めたのはうっすらとした日の光が窓から顔に落ちてきたからだったはずなのに。ずっと聞こえていたはずの嵐の音も、今は全く聞こえない。痛いほどの闇と静寂が彼の周囲を支配していた。
 (……声を)
 出してはいけない。何か喋ってはいけない。彼女との約束を思いながら、彼はじっと目を凝らす。
 だが、息遣いすらも押し殺された部屋の中からは、僅かな気配しか感じられなかった。(……どこだ)
 と、不意に何かが光った気がした。じっと目を凝らすと、白くぼんやりと何かが輝いているように見える。やがて彼は、その真相に気付いた。
 その次の瞬間には、もう彼の視覚と記憶が連結して暗闇の中に人の姿を映し出す。(――レディー!)
 やっと闇に慣れた目に、白銀に輝く長いメッシュと仄白い肌が見えた。少し遅れてスカートのひだと、上から垂らされた鉄色の鎖が映る。その瞬間には、彼は室内へと向かって駆け出していた。同時に肩から担いだ幾種類もの銃の中から手探りでショットガンを選ぶ。
 レディー・ベルは、壁に磔になっていた。その彼女の小さな顔のすぐ脇に片手を突き、もう片方の腕で支えたショットガンを縛めの鎖に押し当てる。
 鈍い激しい音を立て、壁が陥没した。鎖は粉々に砕けてぱらぱらと落ちる。不意に彼女はびくりと腕を痙攣させたかと思うと、糸が切れた人形のようにがくんと体勢を崩した。慌てて彼は片手でその細い身体を支える。――記憶よりも、幾らか痩せて湿っていて、力がなかった。
 もう片方の縛めも手早く壊すと、彼は小柄なベルの身体を抱え上げた。そして迷わず踵を反す。少し躊躇ったが、部屋の戸口の脇にある机の上の拳銃を乱暴に拾い上げると、ズボンのベルトに捻じ込んだ――ベルがずっと愛用している、旧式のマカロフだった。
 と、不意に奇妙な衝撃があった。
 同時に小さな掠れた声が聞こえる。「……デイビー」
 よく知っているものとは少しも似ていなかったが、それが彼女の声だとはすぐにわかった。ふと彼は首を傾げてみる。
 「……トナジマダ」
 全く覚えのない声が闇の中から響いた。
 そちらに目を向けると、座り込んだ人の影がうすぼんやりと見える。その腕がぬっと伸ばされて、何かを握っているのも見える。何を言っているのだろう、と怪訝に思いながらデイビーは男の腕の先を睨んだ。そして、彼がベルの長い髪を握っているのを見付ける。無理にベルを連れて行こうとすると、彼女が痛そうに顔をしかめた。
 無表情にデイビーは、握ったままのショットガンをもたげた。そしてそれを真っ直ぐに構える。
 それに気付いたベルが、驚いたような怯えたような声を上げた。「……だ……」
 対峙する男は、張り付いた無表情で目を瞠った。それから薄く微笑む。デイビーも微笑んで、それからトリガーを引いた。
 耳をつんざく音が響き、ぱっと鮮血が散って。
 スーツの袖を絡めたままの男の腕が、床に落ちた。闇の中で、闇色の髪が自由に舞った。
 何か言おうとするベルを抱えたまま、デイビーは足早に部屋から抜け出した。扉を潜った瞬間、不意にもう一度だけ叫び声を聞いた。
 デイビーの肩に顔を押し付けた、ベルの耳にもその言葉は突き刺さった。使わなくなって久しい母語の響きだった。
 「……行くな!」


 ふと暗闇の中に、光を見た気がした。
 始めに天を仰いだのは誰だったのだろう、あっという間にそれは収容所の周囲を取り囲んだ民衆の間に伝播した。
 「……太陽が、戻って来た」誰とはなしに呟いた。
 天空の暗く翳った太陽が、重なり合った新月の隙間から細く光を覗かせ始めていた。この半島中を覆い尽くした闇が、ようやく去ろうとしていた。それと同時に、忘れていた風が少しずつ吹き始める。まだ空は暗く、雲にどのくらい覆われているのかはわからないが、少なくとも雨が降り始めるまでは多少の時間がありそうだった。
 それから、鉄格子と有刺鉄線で被われた収容所の扉が重い音を立てて内側から開くのを知り、中空を仰いでいた人々は惹き付けられるようにしてそちらを向いた。ゆっくりと薄れて行く闇の中で、その細い銀色が妙に冴えていた。
 ――始めは単なる野次馬だった。あれだけマスコミと政府に騒がれるだけ騒がれて逮捕されたテロリストの少女、それは確かに一見に値するインパクトがあった。一目見て、その愚かさを嘲るつもりだった。けれどそれが別の色合いを帯びたのは、一体どの時点でだったのか。
 何も変わりはしないと思っていた。例え過激派のテロリストがどれほど反発しようとも、常に政府はそれを圧殺して突き進んできた。息を潜めて暮らすことが前提ならばさほどの問題はない、そんな多くの民衆は、何者にも期待せず日々をやり過ごして来ていた。どうせ何を起こしても変わらない。ならば何もしなければよいと思っていた。
 しかし――あのテレビジャックを起こした少年は、その姿で言葉で仕草で、ひどく艶かしく乱暴に彼等の目を覚まさせた。あの美貌の主は、国家の上層部の囲われ者であると自らを称し、それが示す本当の意味までも開陳したのだ。
 その彼は、この国が既に「適当にやり過ごす」ことの出来ない状態まで頽廃し尽していることを知らしめたのだ。国家を代表する要職が、挙ってあの少年に現を抜かして何もかもをおろそかにするような、そんな国が一体いつまで保つというのだろう。そんな国に甘んじ、自らを委ねると言うことがどれほど恐ろしいことだろう。
 けれど、それでは誰に全てを委ねればよいのか。政府と対立しようとする誰か――今、こんなときにこそ頼りたい誰かは、尽く狩り尽されている。そこまで思い至った人々は、ふとまだたった一人生きているかもしれない人物の存在を思い出したのだった。
 ほんの十八歳の少女。あの悪夢のような電波ジャック犯をして、無罪と言わしめる犯罪者。政府に反発して戦おうとし、捕まった人物。それはもしかしたら、現在の政府に頼ろうとする以上に愚かしいことなのかもしれない。
 けれども願わずにはいられなかった。すがらずにはいられなかった。彼女こそが、救世主となってくれるのではないかと。
 生き返った太陽が、静かに地上に光を落とした。やや高台の上にある収容所の扉の前で、大柄な人物に抱えられた少女の姿が浮かび上がる。
 小さくて頼りなく、ぐったりとして――だからこそ、彼女に与えられた弾圧の凄まじさが窺い知れた。
 何を行おうとしたのか。どうやって脱出したのか。何もかもわからなかったが、それでもその場に押し寄せた人々がただ一つ確信したことと言えば、彼女の生還は喜ばしいことだということだった。
 ある者は拍手をした。ある者は歓声を上げた。またある者は、知らずの内に万歳三唱を叫んでいた。興奮は波となり、収容所の周りを埋め尽くした。数千人か、或いは数万人か。誰もが強く感じる。一体この国のどこに、こんなにも自分と同じ願いを抱く人間がいたのだろう、と。
 彼女は、暗闇を裂く一筋の光だった。
 陰の裏から甦ったばかりの太陽だった。


 銃撃の騒動を聞き付けて、幾人もの兵士や事務官がやってきた。彼等の足音が、弓には耳障りだった。
 「弓書記官!」誰かの上擦った叫び声が響く。同時に、何度か点滅して天井の蛍光灯が点った。
 弓は眉をしかめて目を細める。「……うるさい。こっちは重傷なんだ」
 一瞬横目で彼は自分の右腕――のあった場所を見た。スーツの袖は肘の少し先で焼け焦げてなくなっており、そこからずたずたになった肉片が血液とともにだらだらと垂れているのがわかる。下には、ほとんど手首から先しか残っていない腕の断片が落ちている。指は律儀にもまだあの銀髪の混ざった黒髪を何本か絡めていた。あまり見ていても気分がいいものではないので、彼は目を反らす。
 「……何人やられた」
 「は?」うろたえている事務員は、まるで訳がわからないらしい。麻痺しているのかさほど痛みはないが、出血から来る眩暈で苛々していた弓は別の兵士の方を向き直る。「あの男は何人殺って行った」
 慌てて若い兵士が答えた。彼も肩口に血染めの布を巻いている。「え、えっと……まだよくわかっていません。駆け付けた兵士はほぼ全員撃たれました。どれだけが助かるかはまだわかりません」
 「そうか」弓はふうと溜息を吐いた。あの少女一人の為に一個小隊を使うなど、と考えていたが、彼女の連れをそんなにも甘く見ていた自分の判断が悔やまれた。一般から徴兵したほとんど役に立たない兵士ではなく、こんなことになるとわかっていれば特殊部隊をも動員したものを、などと詮無いことに奥歯を噛む。
 それから、おろおろと傍観する人々に言う。「それで、わたしはいつ処置をしてもらえるのかな?」
 慌てて駆け付けた衛生員に止血されながら、弓は眉をしかめた。(……何故、殺さなかった)
 あの男――アングロサクソンらしい大男は、圧倒的に強かった。邪魔する者は容赦なく銃弾で排除して突き進んでいたのだろう。ならば、真っ先に殺されるべきは自分のはずだと弓は考える。
 不意に、あの少女の声が耳の奥で響いた。『……だ……』
 あんな施氏らしからぬ気弱な声で、彼女は何と言うつもりだったのだろう。何を伝えるつもりだったのだろう。
 (制止――のはずがない)弓は目を瞑る。(彼女は、俺を最も憎んでいるはずだ)
 彼女を排するが為に、策を弄してきた。自分こそが、彼女にとって最大の敵であるはずだと踏んでいた。彼女に最も愛されるのがあの死んだ天子であるように、彼女に最も憎まれるのは自分であるはずだった。――そうであろうと、どこかで願っていた。
 彼女を打ち負かし、足元に平伏せさせたかった。屈服させてやりたかった。彼女の矜持をずたずたに切り裂いてやりたかった――それが叶うなら、自分を憎む彼女に返り討ちにされても構わないくらいだった。
 ふと彼は唇を噛む。(……俺は、殺すにも値しないのか?)
 彼女にとって自分は、同情を掛けても構わないその辺りの兵士や、爆発テロに巻き込まれる予定だった五千人の市民と同じような存在なのだろうか。そう思うと、悔しかった。
 「も、申し訳ありません。もうじきすみますので」弓のしかめ面を見た衛生員がおろおろと声を上げる。だが、弓は何も言わなかった。
 麻痺して感覚がどこかへ行ってしまった、気持ちの悪い右腕などどうでもいい。彼女に傷付けられた誇りの方が痛んだ。
 と、その瞬間どこか遠くで歓声のようなものが聞こえた気がした。
 じっと耳を凝らしていると、いつの間にやって来たのかすぐ隣に立っていた金総務官が言う。「施氏が脱出したのでしょう。表は凄い人込でしたから」
 弓はじっと俯く。
 淡々と金は言った。「どうしましょうか。追い掛けますか? 表の民衆ごと制圧しますか?」
 「……いや、放っておけ。今の兵力で、戦闘になるはずがない」苦い物を噛み締めたような顔で、弓は言った。そして、布をぐるぐるに巻かれた自分の腕を見遣る。意外なほどに取り乱さないのは、まだ実感が湧いていない為だろう。思い出した頃にこの傷は疼くのだろうか、と彼は考える。
 不機嫌な表情を改めようともせず、むっつりと弓は言った。
 「……施氏、もう一度来い。そのときには、絶対に殺してやる」


 ふと暗闇の中に、光を見た気がした。
 のろのろと身を起こしながら、彼女は目を擦る。
 いつの間に眠っていたのだろう、とぼんやりと考えながら、彼女は身の回りに目をやった。そこは小さな書斎のようで、昔彼女の生家にあったのによく似た欧風の家具が立ち並んでいた。飾りのついた本棚にはびっしりと本が並んでおり、僅かに埃と蝋燭の匂いがした。自分が横たわっていたのが年代物の柔らかいソファだと気付き、彼女はその上に座り込んだ。
 どこがと言うのではなく、身体中が鈍く痛んだ。もう忘れそうなほど昔に、同じような痛みを感じながら目覚めたことを彼女は思い出す。――生きる為にはじめて見知らぬ男に身体を売った日と、どこか似た痛みだった。
 不意に彼女は、自分の身体に毛布が掛けられていたことに気付く。そしてその下にある自分の身体が、何も纏っていないことにも。けれど何故か、それがひどく自然なことに思えた。何があったのか全くわからないのに、それが正当な状態なのだと何の根拠もなく考える。そしてその理由を求めて、記憶を辿った。
 ふと、かさかさに渇いた声を思い出した。『忘れ物預かり所、があるんだ』
 砂漠の中で、半信半疑のまま、それでも縋るような思いで聞いた言葉。『どんな忘れ物でも手に入る――』
 ここがそうなのだろうか、と彼女は考える。だとしたら、彼に逢えるのだろうか。知らずに胸が高鳴った。
 その瞬間、不意に誰もいないはずの部屋の中で声がした。「ご気分はいかがですか?」
 「え……」彼女は首を巡らせる。直接脳裏に響くように聞こえてくるそれは、柔らかい女性の声で――ひどく久しく聞く、彼女の国の言葉のようだった。
 しかし声の主の姿は、どこにも見当たらなかった。小さな部屋の中にはどこにも隠れる場所がない。それにも関わらず、声は彼女のすぐ傍で語られているように近かった。「苦しかったでしょう。もう大丈夫」
 ふと背中に何かが触れた感触がした。驚いて背後を見遣るが、何も見当たらない。その辺りに遣った手は、空しく宙を掻いた。けれど、背中を優しく擦るような感触はまだ消えない。「あ、あの……」
 「わたしはミレアと言います。この忘れ物預かり所の番人を勤めている者です」女性の声は冷静にそう言った。けれど、依然として姿は見当たらない。
 驚いた彼女は、忙しなく周囲に視線を回しながら尋ねる。「どこにおられるのですか?」
 「ここに。さっきからずっとあなたの傍にいます」感触は背中から肩を伝い、静かに消えた。その代わり、すぐ近くの本棚から一冊の本が引き抜かれるように宙に浮く。立ち上がり掛けていた彼女は、驚いてソファに尻餅を突いた。そして、慌てて毛布を身体に巻き付ける。その姿を見て、僅かに声は笑ったようだった。
 おずおずと本に目を注いだ全裸の女性は、意を決したように尋ねる。「……み、見えないのですが」
 「ええ。ずっとここの番人をしている内に、身体だけが朽ちて今は心だけになってしまったのです」至って当然のことのように冷静に、ミレアと名乗る声は言った。
 そう言われると、何となくそれが正しいことに思えてきた彼女は、ふと切実な問題を思い出して尋ねた。「こ、ここではどんな忘れ物でも手に入るって、本当ですか?」
 僅かな間があった。ごくりと唾を飲む女性に向かって、ミレアの声は穏やかに答える。「はい。それを見付けるのがわたしの仕事なのですから」
 それから、少し驚いたような声で付け加えた。「大抵の人は、わたしと会うと非常に驚くものです――もっとも、もうずっと長い間誰とも会ってはいないのですが」
 「驚いています」小さな声で女性は言った。それから、もっと小さな声で囁くように言う。「……でも、彼に逢わせてくれるなら、そんなことはどうでもいいんです……」
 ふと目の前の空中に浮かんだ本が、ぱらぱらとページを捲った。風もないのにそんなことが起こるのを目の当たりにするとさすがに少し不気味だったが、この目に見えない人物が本当に彼と逢わせてくれるのだとしたら、その不気味さは非常にささやかなことだった。
 あるページでぴたりと止まった本は、しばらくじっと動かない。ミレアという人が読んでいるのだろうか、とぼんやりと彼女は考える。
 長い長い時間の後、ようやくミレアの声が空気を震わせた。
 「それでは、何を探して欲しいのかよく考えてから言って下さい。でも、探し出せるのは一回の人生で一つだけです。一番見付けたいものの名前を一つだけ――」
 言葉が咽喉まで飛び出しかかっていた女は、不意に途切れた言葉に表情を曇らせる。
 何となく視線を感じた。目に見えないミレアの瞳が、自分をじっと見詰めているのだという感覚がした。彼女は手持ち無沙汰な所作で毛布の前を掻き合わせる。
 「――いえ、後からにしましょう」事務的にミレアは言った。それからぱたんと閉じられた本が、どうやらミレアの小脇に抱えられたらしく、空中のその辺りの位置で固定された。「大丈夫ですか、動けますか?」
 きょとんとする女性の視線の先で、書斎の重厚な木製の扉がぎいと奥へと押し開かれる。その中には沢山の棚と陳列物がちらりと見えた。そこが保管庫なのだろうか、と目星を付けた彼女は、鈍く軋む身体を持ち上げて立ち上がった。「はい」
 本当は立つのにも痛みを覚えるほどだったが、それでも彼女は足を運ぶ。「大丈夫、歩けます。逢いに行けます」
 僅かな間の後、ミレアの声は静かに語った。
 「……それでは、付いて来て下さい。ご案内致します」


 ――行かなくちゃ。
 そう、思った。
 ふらふらとした足取りで、それでもベルは足を踏み出した。不意に大きくよろけて、傍から大きな手に支えられる。それでも彼女は首を振ってもう一歩を踏み出した。
 彼女の周りで熱く滾る歓声も、無数の人々の突き上げるような喚声も、何も耳には届かなかった。
 隣に立っているはずの大きな人の姿も、人で埋め尽くされた広場も、何も目に入らなかった。
 全身の関節が外れたような鈍い痛みも、咽喉を引き裂かれるような鋭い痛みも、全て意識の外に追い出していた。
 (会いに、行かなくちゃ。あいつに会いに行かなくちゃ)
 ずるずると足を身体を引き摺るように、彼女は歩みを進めた。本当は駆け出したかったのだけれど、這うような速さでしか動くことが出来なかった。それでも、僅かでもいいから進まなければならなかった。辛いからとその場に留まっていては、永久に彼には辿り着けないのだから。
 不意に、ベルは自分の身体が掬い上げられる不安定な感触を覚えた。身を竦ませる間に、彼女は大きな腕に抱えられて、熱い身体に抱き寄せられる。汗と血の臭いが酷かったが、抱き寄せられて身体を預けると、そのまま目を瞑ってしまいたくなった。このままこの腕に甘えて、何もかも忘れて休んでしまいたいという抗い難い誘惑に駆られた。
 「……デイビー」絞るように声を出すと、咽喉の奥が焼け付くように痛かった。それでもベルは、大きな腕を振り解くように掌で押さえた。「駄目、下ろして……駄目、まだ駄目」
 のろのろと顔を上げると、逆光の中で心配そうに覗き込むライトブラウンの目が見えた。黒いカラーコンタクトレンズはどこかに落としてしまったのだろう、ひどく馴染みのある、淡い優しい色合いだった。拷問に心も身体も疲れ切ったベルには、それがひどくしみた。思わず縋り付いて、何もかも投げ出してしまいたいような気分になった。
 「……駄目、まだ駄目なの……お願い、下ろして……」
 今にも泣き出しそうな声で、彼女は切れ切れに言った。無理矢理にでもこの優しい腕を振り解かないと、このままではもう二度と動けなくなってしまいそうな気がした。甘えて取り縋って、自分の足で歩き出すことを捨て去ってしまいそうな気がした。――そんなことは出来なかった。今はまだ、その時期ではない。自分自身を甘やかしていいときではない。
 その瞬間、ふと彼のシャツに鮮やかな血痕を見付けた。自分のでも、彼のものでもないその血が、ずきずきと目にしみた。
 (これは、あたしの罪だ――)突き刺すように、抉るように、彼女は心の中で念じる。(――こんなに優しいのに、彼はもう、人殺しだ。あたしが殺させた、あたしの罪だ)
 身体中を強張らせ、目を固く閉じると、どこかまだ気付いていない傷が疼いた。このまま声を上げて泣けたら、と思ったが、それが自分自身に許せなかった。
 ふと、柔らかいライトブラウンの眼差しが少し悲しげに細められる。そしてその次の瞬間、ベルの足の裏に土の感触が戻って来た。膝と足首と腰の鈍い痛みに思わず彼女は小さくうめいたが、涙ぐんだ目でデイビーのぼろぼろに汚れた長身を見上げると、それでも微かに笑って見せた。そうすることでしか、彼への感謝を伝える方法が見付からなかった。
 (会いに行こう。官邸まで――あいつのところへ行って、あいつを助け出さないと)
 感情の奔流に突き動かされるように、再び彼女はのろのろと歩き出した。そして不意に、肩に大きな熱い手の感触を覚えて再び振り向く。これ以上甘やかさないで欲しい、と睨むように縋るようにデイビーを見上げる彼女の細い肩に、デイビーは両手を添える。
 あ、とベルは思わず頬に朱を散らした。デイビーは、あの書記官の拷問で千切られたワンピースのストラップを結び直してくれていたのだ。その優しさが、手の熱さが、堪らなく身体中にしみた。それに応えない自分自身が、ひどく申し訳なく感じられた。
 それでも。
 (――あいつを助ける為に、あたしはここにいるのよ)
 そっとデイビーの大きな掌が肩から離れたのを確かめると、ベルはくるりと民衆に向かった。そしてその遥か彼方にある官邸と、その中に今もいると信じて疑わない大切な人へと、のろのろと歩みを進め始めた。
 ――だから、会いに行かなくちゃ、と呟きながら。


 ドアの向こうには、無限に棚が続いていた。そしてその一段一段には丁寧に物が置かれていて、それ等はここから離れるにつれて次第に小さくなり、最終的には棚ごと小さな点になって暗闇に消えてしまっていた。きょろきょろと忙しなく周囲を見渡しながら、女は思わず立ち尽くした。何となく、ずっと通って来た草原を思い出して無気味な気分になる。そう言えば、あの草原からどうやってここまでやって来たのかがわからない。
 宙に浮いた本は少し先まで歩いて、くるりと振り返った。「どうしたのですか?」
 「ええと……」少し視線を彷徨わせたが、そんな質問をする時間が惜しかった。そわそわとドアのノブを振り返りながら、彼女はミレアを追い掛けた。「構いません。早く逢いたいので。逢わせて下さい」
 「わかりました」事務的な声が、がらんと広がる倉庫に響いた。そして、足取りにあわせるように上下に揺れる本が奥へと動き始める。
 女は毛布をどうしようか躊躇ったが、重いのでその場に置いてゆくことにした。他に人は見当たらないし、さほど寒い訳でもない。今はあらゆることがどうでもよかった。とにかく早く彼に逢いたかった。
 ぎしぎしと身体が軋んで、棚に掴まりながら彼女はふと尋ねた。「……あの、どのくらいで逢えるのですか?」
 本は振り向きもせず答えた。「もうすぐですよ。すぐそこです」
 女はぱっと笑顔を浮かべた。そして、覚束ない足取りで懸命に付いて行った。「もうすぐですか」
 口の中で半ば独り言のように彼女は繰り返した。「もうすぐ」
 ミレアは、何も言わなかった。


 食料供給戦線を離れた小魚を、咎める者は誰もいなかった。手ぶらで基地へ戻るのはさすがに申し訳ないので、食料の在庫や各地での蜂起状況を記した帳面の類を預かって本部で一旦集計を取る事務を請け負ってはいたが、その足取りは重かった。
 ふと空を見上げる。さっきまであれだけ漆黒の闇に閉ざされていたはずの空が、今はもう嘘のように明るくなっている。日蝕が起こると言うことを知らなかった訳ではなかったが、あの瞬間は本当に天が死んだのかと思うほどに驚いた――そう思わずにはいられないほど、それは痛切な事実と同時に起こっていた。
 闇に閉ざされた空に光が戻るのを眺めながら、何故か憤りを覚えた。太陽がなくなれば自分達も生きていくことは出来ないとはわかっていたが、それでも余りに当然のように余りに易々と甦ってゆく光を眺めていると無性に悔しくて堪らなくなった。
 (……『――迎えに、行くから』)ラジオのスピーカーから聞いた、ノイズ混じりの声が耳から離れない。その後聞こえた物音と、顛末を告げるアナウンサーの声が耳にこびり付いて離れない。
 本部からの報告で、彼等現場の人間は放送局ジャックの発生を知った。慌ててラジオを合わせた瞬間、流れ出したあの声音に耳を疑ったのは多分現場では小魚一人だっただろう。最後に聞いたのが半年以上も前だと言うのに、その声を驚くほど鮮明に覚えていたことが自分でも信じられなかった。
 (親しかった訳じゃない。それほど話をした訳でもない)
 一緒にいたのは僅か半日に過ぎない。交わした言葉と言えば、生き延びる為の幾らかの方法ばかり。それなのに、声を聞いただけでその姿や表情までもありありと思い浮かべることが出来た。小魚自身が変わってしまったように、きっと彼にも何らかの変化があるだろうに、あの別れたときそのままの姿で放送局に乗り込んでいるのが、くっきりと目前に見えるようだった。
 あの長い髪を掻き揚げて、足を組んで無造作に腰を下ろし、自嘲するように唇を歪め――小魚がラジオに聞き入るまさにその瞬間、彼は遠い平壤の放送局の中で次々に謀略を巡らせているということを、痛いほど強く感じていた。
 (どうして――)足元の水溜りに映り込んだ白い雲に目を落とし、小魚は片手で頭を掻き毟った。(どうしてこんなところで死を選ぶ。こんな中途半端な、何一つ片が付いていないところで)
 感情の起伏の少ない話し方をする奴だった。だからきっと、面と向かって話したことがなければわからなかっただろう。表情の見えないラジオだったら尚のこと、勘付いた人間は少なかったはずだ。
 ――その声は、最期の言葉を紡いだ声は、ひどく優しかったのだ。
 (わかったのに――俺は、あいつが死のうとしてることに気付いたのに)
 ここは羅州、彼は平壤。例えそれが現実になる一瞬前に気付いたところでどうすることもできなかっただろう。そうわかっていても、わかっているからこそ、無力な自分がやるせなかった。
 焼けるほど熱い目を慌てて腕で押さえたが、涙は溢れて頬を伝った。
 (――止められなかった。死ぬとわかってて、止められなかった)
 ノイズ、ざわめき、収拾がつくまでの間流された単調なメロディー。
 ――『プログラム』のときと同じだった。死ぬとわかっているのに止めることが出来なくて、友人達の名前が次々に死者として放送で読み上げられていった。その無力感が辛くて、強くなりたいと思ったはずなのに。
 「……俺、少しも変わってない」掠れた声でぽつりと呟く。
 ざわざわと吹き渡る風が路傍の雑草を揺らし、その声をさらった。


 ――靂心、という名前が、弓は昔から嫌いだった。
 ――いかにも中華系だと匂わせるその響きが、彼は昔から大嫌いだった。
 「弓書記官、どう致しましょう」
 サジョン収容所から程近い病院で輸血されながら、弓はきりと唇を噛む。努めて押し殺した声で、彼は鋭く尋ねた。「……デモ行進の状況は?」
 「時速三キロ程度の速度で平壌に向かっています。台風の真っ只中にも関わらず、参加者は増える一方です」
 平壌から中途半端に近いと言う立地が災いして、この周辺には大きな病院がなかった。普通の状況であれば弓もまた恐ろしいほどの重傷を負っているはずだったが、兵士達の間で瀕死の重傷者が多数出てしまった為に人手が足らず、彼はどちらかと言えば放置に近い状態に置かれていた。為された治療と言えば痛み止めの投与と消毒、それから出血が多かった為の輸血程度のものだろうか。
 もっともそれは、弓にとっては都合のよいことであった。例え片腕を落とすようなこんな重傷を負っていても、今の彼にはそれに感けている余裕はなかったのだ。全ては施氏を――ようやく腕の中に捕らえたのに、逃げ出して行ったあの罪深い女を再び捕まえる為。
 いつの間に怪我をしていたのか、淡々と報告する金総務官もまた松葉杖を突いていた。弓が借り出した小隊は既に半数が逃亡しており、残りは死傷者ばかりであった――軍部にどんな皮肉を言われるかと思うと、一層傷が疼いた。
 くらくらと眩暈がして重い頭を押さえながら、彼は顔をしかめる。「施氏め」
 本当ならば、怪我を押してでも彼はすぐに平壌に引き返すつもりだったのだが、路上を埋め尽くす人々で既に身動きが取れなくなっていたのだ。飛行機もヘリコプターも飛ばないので、文字通り八方塞の状況だった。出来るならばいっそデモに参加する人々を皆殺しにしてやりたかったが、そんなことをしても道路に死体が降り伏すだけで、活路が拓ける訳ではない。取り敢えず、多少遠回りでも大きく迂回して車で平壌に入るのが、最も早いと思われた。
 弓は小さく舌を打つ。「取り急ぎ平壌に連絡を取れ。デモ行進を市内の入り口で迎撃するよう命じろ」
 平壌にデモが到着する時点でどのくらいの規模になっているかは想像するだに恐ろしかったが、とにかく十把一絡げにでも潰していくしかない、と彼は判断した。
 そしてそうでもしなければどうしようもない、手段を選んでいる暇はないとわかっているにも関わらず、彼は敢えてもう一言付け加える。「……首謀者セ・カンメイは極力生け捕りにしろ。最悪死体でも構わない、とにかくあれをわたしの前に引き摺り出せ」
 「――一体、何の必要性があるのですか」
 意外な言葉に、思わず弓は顔を上げる。総務部所属の見るからに凡庸そうな男は、相変わらずのぼんやりとした無表情でこちらを見ていた。「デモは、彼女一人の求心性でほとんど成り立っているようなものです。彼女諸共ふっ飛ばしてしまえば、後は散り散りになるだけで、もはや脅威でも何でもなくなるはずです。どうして彼女に固執する必要があるのですか」
 しばし呆気に取られたような表情を浮かべていた弓は、やがてじわりと表情を取り戻す。
 「……貴様、初めて逆らったな」苦虫を噛み潰したような顔で彼は呟く。だが、まんじりともせずに男は、ベッドに座り込んでいる弓を見下ろす。「幾らカリスマがあろうとも、未成年の少女です」
 弓は再び唇を噛んだ。犬歯で唇の端がちりと切れて、舌先が苦味で痺れる。
 吹っ飛んでしまった腕よりも唇に痛みを覚えながら、彼は言う。「それでも、あれは施氏だ」
 ――かつて憎らしいほど、狂おしいほど、焦がれた女がいた。
 初めて見たのは生家の隅にこっそりと祖父が隠した禁書の中、内表紙に描かれた肖像画だった。『海東青夫人』と呼ばれたその名を知ったのが先か、或いはその秀麗な姿に魅せられたのが先か、今となっては判然としない。
 祖父の祖国を乱し、荒廃の極みに陥れた張本人だと言われていた。彼女さえいなければ、あの凄まじい残党狩りが行われる必要はなく――しいては祖父や父や自分自身や兄弟達が追われることもないはずだった。幼心に嫌悪を抱いた。憎悪を抱いた。
 しかしそれでも、その本を焼こうとは思えなかった。それはきっと、彼女を口汚く罵りつつも、禁書にされたはずのその本を後生大事に仕舞い込んでいた祖父もまた同じことであった。
 (中華の黄色い土を踏んで育った人間は、どれだけ彼女を憎もうとも、魅せられずにはいられないのだ――)
 その才知を学校に認められ、貧しい実家から官吏の家に売られるように養子に迎えられて、過去は全て捨て去ったつもりだった。身も心も半島の人間になり、この国の人間として生きているつもりだった。
 しかしこの国では改名が許されていないように、彼もまた中華の血を引く人間だということを捨て去ることは出来なかった。あの巨大な檻から、抜け出すことは出来なかった。
 ――そしてどこまでも自分を中華の人間だと思い知らせる、彼女が憎かった。
 「あの女は、徹底的に叩き潰さなければならない。磔にして、火攻めに架けて、銃弾を撃ち込んでもまだ足りない。その骨の一欠けらまで、踏み躙って砂に変えてやる」
 (愛せないのなら、憎んでやる。愛されないのなら、憎ませてやる)
 一国を背負うにはまだ若い男の、その目に浮かぶ狂気の色に金は身を竦ませた。――しかし有無を言わせない表情に、その声音に、思わず彼は頷いた。
 そのまま何も言わず踵を返し部屋を出て行った金総務官には目もくれず、弓は自分の失われた利き腕の辺りを見遣った。痛みではなく、焼け付きそうな憎悪が傷口を焦がした。
 (――受け入れられないのなら、どこまでも破壊し尽くすまでだ)
 ふと、扉のところに人影が立った。金はそちらに足を向け、報告だけ受け取ると、あの無機的な声音でゆっくりと弓に告げた。
 「お車の用意が出来ました。それでは、施氏を殺しに行きましょうか」


 外では、ざあざあと降り頻る雨音が響いていた。
 雨を遮ることの出来る区切られたこの空間には、息の詰まるような臭いが充満していた。
 水を含んでじっとりと重く垂れ下がる髭を床に付け、老人は主君の亡骸に突っ伏していた。半年ぶりに再会した秀麗な面にこびり付いた血痕を節立った指で拭い、所々で血に固まった長い亜麻色の髪を解きほぐし、その痩せた首筋に顔を伏し――ただそればかりを繰り返す姿は、ひどく歪で矮小に見えた。
 「伝染りますよ」そう言う劉の声も、彼の耳には届いてはいなかった。声もなく、壊れた機械のように同じことばかりを続ける老人をじっと眺めていた劉は、小さな溜息を吐いた。
 不意に劉は、自分の上着の裾を捕まれて振り向いた。埃を被った木箱にもたれるように座り込んだ金が、鋭い眼差しで彼をねめつけていた。「……劉公主、お前わかってるのか?」
 ――どうやってここまでやって来たのかほとんど金は、記憶がない。ただ、ラジオの放送を聞いたときにはもう事態は訳がわからない状況になっていて、テレビ局に到着する僅か前になって劉から電話が掛かって来て事情を説明され、しかしそれはほとんど納得できなくて、なぜか当事者がもう一人自分のすぐ隣にいるにも拘らずひどく他人事のような気がして、当事者であるはずなのに自分よりも遥かに冷静な老人に案内されて、ようやくここに辿り着いたという次第である。
 半ば担がれているのではないかと言う思いで倉庫を覗き込み、そこにあの劉の姿を見付けたとき、金は訳のわからない衝撃を覚え、そうしてようやく彼は我に返ったのだった。
 もう使われていない街外れの倉庫の、壊れた扉から時折鋭い閃光が射し込む。束の間の明るさを取り戻したはずの空は既にどす黒く濁り、雷鳴と雨音に掻き消されそうな声音は、それでも低く劉の耳に響いた。「――これはお前の責任だ」
 劉は静かに微笑んだ。青白い稲光に照らし出されたその笑顔は奇妙に清らかで、それがかえって異様だった。
 「僕は、有罪なのですか?」
 彼はじっと眼鏡越しの金の瞳を見詰めていた。
 一瞬たじろいだが、金はすぐに首を振る。「馬鹿言うな! あんな重病人引き摺り出して、あんなことやらせて――それが医者のすることか!? それが人間のすることか!?」
 「僕が殺した訳ではありません。僕が望んだことでもありません。感染も自死も全て彼の意思ですよ」
 劉は軽く首を傾げた。肩口の髪の毛からぽたりと音を立てて水が垂れた。「僕を連れて出掛けて行ってあんな風に死んで――だったらそれは、人間のすることなのですか?」
 揶揄でもなく皮肉でもなく、純粋に疑問を口に上らせたような彼の声音に金は逆上した。「だけどお前が連れ出さなければ、あんな真似はこいつにも出来なかったはずだ! そもそもお前があんなウイルスなんか作らなければ――」
 そこまで言い掛けて、はっと金は口を塞いだ。慌てて俯くと、ずれた眼鏡の鼻当てを押さえる。「……」
 ふと劉は表情から笑みを消した。冷やかであって然るべきはずの端正な面には、しかし子供が浮かべるような純粋な疑問の色しか見えなかった。もっとおどろおどろしいものを予測していた金は、不意を突かれたような気分になる。
 「作れと言われて作ったんです。連れて行けと言われて連れて行ったんです。そこに僕の自発的な意思は存在しません。ただ、どうせ同じことをするなら完璧に近い方が好ましいでしょう?」謂れのない叱咤を受けた子供のような口振りで、劉は首を傾げる。
 それは、と金はたじろいだ。確かに成し遂げる技術を持つ者がそれを命令されたなら、完璧を求めるのは自然の成り行きかもしれない。意思を介入させることが出来ないのならば、むしろそれは至って当然のこと――讃えられるべきことであろう。
 しかし、と首を振って金は言う。「……お前に良心はないのか? ウイルスもこいつの――も、止めようと思えば出来たはずだ。お前はその位置にいた。止められる位置にいたのはお前だけだったはずだ」
 死、という言葉を使いたくなくて、言葉がどうしても濁った。
 例え達成することが出来るとしても、使ってはいけない力がある。足元に伏す老人の姿を見て、どうしてそれがわからない。どうして自分の過ちに気付かない。そのことが金には苛立たしかった。
 「本能のままに達成だけを求めるのは、獣と同じだ。人間のすることじゃない。自分で善悪の区別も付けられないなんて、それでも人間か!」
 投げ付けるような金の言葉に、劉は咄嗟に目を細めた。それからふわりと笑みを浮かべる。心を繕うものでも心底愉快そうなものでもなく、無表情にすら疲れたような力のない笑顔だった。
 水滴の浮かんだままの眼鏡越しに金は睨む。「何がおかしい」
 「……いつから、わかっていたのですか?」ぽつぽつと髪や服の裾から垂れる水の音すら聞こえそうなほど、静かな声で劉は首を傾げた。不意に奇妙さの理由に気付いた金はぎょっと身を竦める。
 彼等の周りには、古びた倉庫の黴臭い臭いに加え、生臭いような奇妙な臭いが漂っていたのだ。汗の臭いでも濡れたシャツの臭いでも、ましてや命をなくしたばかりの若い亡骸の死臭でもないそれが、水から上がったばかりの獣の臭いだと、何故かその瞬間に彼は気付いてしまったのだった。
 ――人間のものとは明らかに異なる、水に濡れて初めて空気中に発散される、それは水棲の肉食獣の臭いだ。
 「……何を、わかってたって?」咽喉の奥がからからと乾いて、声が掠れた。
 しっとりと静かな劉の声がそれに答える。「――僕はね、バケモノですから。金さんの言うように、人間ではないのですよ」
 「ふざけるな!」知らずに声を荒げていた。ほとんど逆上して金は立ち上がる。「ああ? 馬鹿言ってんじゃねえ! 言い逃れか? そんなんで責任を逃れようってのか!?」
 「いいですねそれ。人間でなければ人間の責任は問われませんね」
 無邪気に微笑む笑顔が憎たらしかった。心底同意するようなその声音が憎かった。その場にじっと佇んで長い睫毛を翻す劉の顔を覗き込むように、金は詰め寄る。「お前……っ!」
 そして、眼鏡の曇りで分離した七色の光の中で、ふと冷たく細められる蒼い瞳を見た。こんなにも暑い暗い世界の中で、冷たく凍り付いた真冬の空の色をしていた。
 これが狂気の色だろうか、と金は思わず身を竦ませる。だとしたら、それは何と蠱惑的なものだろう。
 「……その代わり、バケモノには人権もないのですよ――僕はそんな風に生きてきたんです」
 気付いたときには遅かった。金は音もなく首筋に手刀を入れられて、その場に倒れ込んだ。息が出来なくなり、目の前が濁る。
 優しげな声が高いところから耳元まで落ちた。水滴の音と、一際鼻につく獣臭が彼のすぐ脇まで迫る。「金さんは、仲間として見てくれると思ったんですけど」
 ひどい耳鳴りがしたが、それでもやっとの思いで金は重い口を開く。「……劉公主、お前は仲間だよ。倫理的に問題はあるが、優秀な同僚だ」
 「それも、人間だとしたら、の話でしょう?」拗ねた子供の呟きのように、ぽつりとその声は響いた。それからふと、かつりと靴音が響いた。
 慌てて辛うじて顔だけ起こすと、劉が魚のような身のこなしで踵を反すのが見えた。解れて血に汚れたはずの銀の髪が、水気をたっぷりと含んだまま、ゆらりと背中で尾のように揺れる。おっとりとした足取りなのに、身体が動かなくて追い付けなくて、それがひどく腹立たしかった。
 追い縋る代わりに、彼は言葉を投げ付けた。「劉公主! 俺は、そんなものは信じない」
 劉は白い面をこちらに向けた。金は早口に怒鳴る。「俺は理系だ、バケモノだとか、そういう非科学的なものは信じないからな!」
 劉は笑ったのかもしれないが、暗くてよく見えなかった。彼はのんびりとしたいつものような足取りで、古びた戸口の向こうの薄闇へと消えて行った。
 途中で煙のように消えてしまわないか、雨に打たれて解けてしまわないかと金は見張ったが、彼の白い後ろ姿はしばらく風の中でたゆたって徐々に見えなくなって行った。
 (……馬鹿野郎)
 ぼんやりと金は思う。(俺はな、お前のこと、気に入ってたんだからな)
 多分もう二度と会うことはないのだろう、と思いながら金は、真横の老人のことを思い出した。身体を指先から少しずつ動かすと、何とか身を起こすことが出来た。
 彼はやっとの思いで座り込むと、無骨な仕草で老人の肩に手を載せる。
 「……爺さん、戻ろうや。いつまでもそうしてる訳には行かないだろ?」
 甫民老人は、何も答えなかった。しばらく金も、そこにしゃがみ込んでいた。
 もう、どうしようもなかった。どこにも戻る場所はなかった。
 ただ、外では無数の水の粒が跳ねる激しい音だけが響いていた。


 ようやく明るくなり始めた広場の人々は、そのまま押し流されるように一方向へと進み始めた。池の水が破れた堤から溢れ出すように、彼等はのろのろと、しかし淀みなく流れて行った。
 「あの子、どこに行くんだ?」
 「何でも官邸まで行くつもりらしい」
 「歩いて? 平壌市まで十キロはあるだろう」
 それが安全な道程でないだろうことは、誰しもわかっているはずだった。しかし、彼女の後をついて行かずにはいられなかった。
 もしも軍部が出動して道を塞がれたら一溜まりもない。この国が、国家の基盤を揺るがそうとする行動を許すはずがない。捕らえられるか、もしくはその場で征圧されるか――いずれにしても、官邸へと辿り着くのは容易なことではない。しかし、それがわかっていても引き返す者はいなかった。
 例えここであの少女を無視して黙り込んでいたところで、彼女を見殺しにしたところで、この国はもう長く持つはずがない。そのとき彼等を待っているのは、あの美貌の主が見せた頽廃しきった悪夢に違いない。いずれにしても逃げ道はない。ならば、体当たりで活路を拓くしかなかった。
 そして何より彼女なら――あのまだあどけなさの残る少女なら、それでも官兵にも屈することなく新たな道を切り拓けるような気がした。あの収容所から抜け出すことの出来た彼女なら、今尚この国へ牙を剥き出しに出来る彼女なら、もはや何も不可能がない気がした。あの傾国の佳人が何よりも恃みとした彼女なら、何か人智を越える宿命を背負っているような気がした。
 眩いほど明るくなった空から、不意にぽつりと雨が落ちた。遠く雷が響き、南の空が黒く濁った暗雲に覆われる。台風の目も間もなく越え、日の光と共に帰って来た嵐がきっとこの首都を激しく揺らす。
 彼女について行こう、と誰もが思った。何もかもを打ち壊して行こう。この国を壊しに行こう。救世主の行軍ならば、何も恐れることはない。
 雨雲の間を、刹那蒼白い細い龍神が走り抜けたように見えた。身体の芯に轟く、魂を揺さ振るような雷が少し遅れて低く響く。途端に桶を引っ繰り返したような雨が天上から落ちて来た。熱気で乾き掛けた人々の服が髪が、その瞬間にずぶ濡れになる。しかし、引き返す者はいなかった。吹き煽る風に抗うように、人々は平壌への街道を突き進み始めた。
 そして、この盛大なデモ行進はスタートした。
 サジョンから平壌へと続くおよそ十キロメートルの道程を、革命の足音が踏み出した。




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