モドル | ススム | モクジ

第十二夜・下


 迎えに行くから
 必ず、迎えに行くから。

 どんな場所にいても
 どんな姿になっていても

 この身体が朽ち果てても
 例え心だけになっていても

 ――必ず、迎えに行くから。



  第十二夜・下



 『……ねえ、そこにいるんでしょ、セ・カンメイは。苛めちゃ駄目だよ、彼女は僕の友達だからね……』
 朝のニュースの時間、党営現代テレビのキャスターが普段就いているカーブを描いた大きなデスクの上には、夢か幻のように美しい人物が座り込んでいた。長い亜麻色の髪を滝のように梳き下ろし、血染めのシーツを肩に引っ掛けたその人物は、口元から血を滴らせながら艶然と微笑む。まるで幽霊が画面を占拠しているように現実離れした様相であったが、白い細い手に握られた刃物が時折もたげられて、怯えた女性看板キャスターの首筋を突付くのが妙にリアルだった。
 ふとその人物は、画面の外側に首を廻らせる。『……台風? ああ、そうだね。台風がどうなってるのかは陛下にも知らせてあげなくちゃ。いいよ、天気予報流して』
 少し抑えた会話の声も、デスクの上に無造作に転がったままのマイクに全て入る。
 やがて画面が一瞬暗くなり、次に画面が明るくなったときには、巨大な天気図を背景に背負った気象予報士が震える声で台風情報を述べ始めた。
 モニターに目をやって、美貌の持ち主は額に手を当てた。
 「反応はどうだ?」それから片腕で口元を拭いながらナイフを下ろし、小柄な女性キャスターに会釈する。彼女はようやくにこりと微笑んだ。
 「物凄いっすよ! 電話鳴りっ放しっす!」若いADがメモを抱えて走り回りながら叫ぶ。どこからともなく別の叫び声も聞こえる。「視聴率もうなぎ上りなんですよ! もうじき六割です!」
 ふとのんびりと劉医師が歩み寄り、デスクの上に分厚い紙束を載せた。手を離した瞬間に、その紙の山が雪崩を起こす。
 「直接官邸からの連絡はまだありませんよ。泣きながら『殺さないで』と電話して来た警備兵は結構いたようですがね。――結局のところ、あなたは何を企んでいるんですか?」
 亜麻色の髪の毛を掻き揚げて、美貌の持ち主――竜血樹は小さな掠れた声で言った。「セ・カンメイを解放する。……彼女は囮だ。彼女の所在が明らかになれば、そこに反政府の思想家は決戦を仕掛ける。それを見越して政府が兵力を集中させていれば、恐らく大戦乱は免れ得ない。……あいつは囮に使われるに十分な意味を持っているし、政府もそれを読んでいる。――つまり、あいつさえ野に放たれれば、後は俺達だってどうにでもなるんだ」
 劉は呆れたように肩をすくめた。「随分買い被っているのですね。たかが十七、八のお嬢さんにどれほどの力があると言うのですか」
 「あいつは賢い。王朝派を束ねるに十分なカリスマを持っている」それだけ言うと、竜血樹は大きく息を吐いて呼吸を整えた。
 既に彼女は官邸に侵入した前科を持っている。甫民とも接触をしていた。そして、『爆発物を仕掛けていた』ところを逮捕され、実名での報道もくどいほどに為されていた。正しい顔写真こそまだほとんど流されていないが、――誤報の写真の中で、実物の彼女との唯一の共通項である――あの銀色のメッシュを持つ、ずば抜けた知能の持ち主であることは、既に多くの人の知るところともなっている。甫民から何らかの情報の流出があったならば、いよいよ彼女に対する王朝派の期待は高まるに違いない。
 (あいつは、柱だ)
 今から百有余年前、彼女の祖は、類稀な摂政として時の皇帝に代わり政務を執り、終末期にあった王朝を善く支えた。彼女の存在は、それだけで人々の心を今も支えるに違いない。――死に損ないの皇帝なんかよりも、確かな柱として。
 彼が思索を巡らせていた瞬間、コードまみれのカメラの向こう側に隣接する情報センターで、機材に埋もれながら電話応答に駆り出されていた初老のライターが叫んだ。
 「セ・カンメイの連行された収容所の職員から連絡です! 『助けてくれ、殺さないでくれ』と泣き喚いています!」
 「場所は!?」竜血樹と、劉医師と、それから李ディレクターと、他のスタッフが一斉に叫んだ。電話を受けたライターは耳を凝らし、それから電話機の番号通知に目を落とす。手元のメモと照らし合わせた彼は、張りのある声を響かせた。「…………二十六号収容所です! 平壌市から東へ十キロ、平壌の衛星都市サジョン近郊にあります! 九十二年に都市開発で閉鎖されている施設です!」
 続け様に帽子を被ったタイム・キーパーの女性が怒鳴る。
 「スタジオ、スタンバイして下さい! 後十秒でニュース終わります! 六、五、四……」彼女は指で残りのカウントを行う。
 気象予報士がちらりと目配せをした。女性キャスターが身を強張らせ、竜血樹は再び姿勢をしどけなく崩す。
 『……ねえ、僕の大事な友達を苛めちゃ嫌だよ。聞こえてる? そう、サジョン収容所の、きみだよ』


 ずぶ濡れの瀬戸甫民に替えの服を差し出すと、金は用務員室のテレビを睨んだ。さぼりの常習に使う人の気配のない部屋は、部外者を連れ込むにも非常に都合がよかった。
 その部屋の中で金は甫民に尋ねる。「こいつか?」
 甫民は、文字通り食い入るようにしてテレビ画面に見入っていた。
 「……陛下、どうして……」上げた声は、ほとんど絶望に歪んでいた。
 くしゃくしゃと頭を掻き混ぜ、眼鏡を押し上げながら金は言った。「……無茶をする。何が目的なんだこいつは」
 それでも老人が答えようとしなかったので、ずぶ濡れになった白衣を脱ぎ捨てて、金は考え込むように腕を組んだ。「……劉公主の考案した悪戯じゃないな。あいつは政治的問題には全く興味がない」
 そして、返答を求めるように老人の方にちらりと目を向けた。
 「……セ・カンメイを助けるつもりなのか……」呆然と甫民は言った。
 金は訝しげに首を傾げ、それからすぐに思い出したように一人で頷いた。「ああ、逮捕されたテロリストか。何だ、あいつ等仲間なのか?」
 じっと画面に食い入っていた甫民は、ようやく顔を剥がしながら呟いた。「……高校で、同じクラスに所属していたそうです。特に親しい交際はなかったようですが……ただ」
 「まさかリュー・フェイロンがセ・カンメイに惚れてたなんて、出来すぎの話じゃないだろうな」
 金の言葉に甫民は首をゆっくりと振った。「逆です。施氏が陛下に心奪われていた。陛下が彼女に恋をするなどと言うことは、天地天明に誓ってあり得ません」
 金はあからさまに表情を歪めた。そして彼らしい率直さで言う。「訳わかんねえ」
 大きく首を振った彼は、もう一度テレビに目を向けた。「このガキどもの考えることも、劉公主の考えることも全然わかんねえ。ついでに爺さん、あんたも大概わかんねえ。どうしてあんたは、こいつのことをそんな大袈裟な呼び方するんだ。孫じゃないってのはわかる、でもそれならお前達は何なんだ」
 甫民はじっと俯いて、ぼそぼそと小さな声で言った。「……陛下は、陛下です。我々にとって掛け替えのないお方です。わたしは光栄にも、陛下をお守りする立場に置かれていた――それだけの話です」
 「あのなあ」金は声を荒げた。「何だかわかんねえけど、とにかく大仰なんだよ。そもそも陛下って言えばあれだろ、総統だとか皇帝だとかを呼ぶときの――」
 そして、金は思わず口を閉ざした。
 目の前で老人の目が鋭く光った気がした。その目が青いことに初めて気付いた彼は、ぎくり、と身を強張らせる。
 くぐもった声で老人は言う。「……わたしは、陛下をお守りする為だけにあるのです。ずっと雌伏のときを耐え忍んで来ていたのに――」
 「……マジかよ」ぼさぼさの頭を引っ掻きながら、金は困ったような引き攣った表情を浮かべた。
 (……あいつ、何か訳ありだとは思ってたが……まさかここまでの爆弾だとは思わなかった)
 そして、患者の素姓をきちんと知らされないまま治療を施そうとしていた自分達の滑稽さと、あまりの偶然に思わず苦笑する。(――偶然にしても、とんでもない真相にぶち当たっちまったもんだな)
 一瞬、同僚の劉があの患者の素姓を知っているのかと疑問になったが、取り敢えず金は頭を切り替えることにした。どうせここにいても、あの倒錯趣味の老年中年どもの面倒を看なければならない。そして自分の担当の患者は失踪している。更に性質の悪い同僚までが失踪して、担当患者の家族はここにいる。その上――行方不明のはずの患者は、テレビの中で発見されてしまった。
 為すべきことは一つしかなかった。
 「爺さん、行くか」
 老人は、真っ赤に充血した目をおずおずと上げた。「……?」
 「来い、テレビ局まで連れて行ってやる」金は部屋の扉を開いた。
 僅かに風が吹き込んで、脱ぎ捨てられた白衣の裾を煽った。


 薄暗い一室で、弓はテレビの画面に食い入るように見入っていた。黴臭いソファに腰を沈めたまま、奥歯をぎりと噛み締めて呟く。「……腰抜けめ、こんな子供だましの脅しに引っ掛かって」
 十年以上も前に閉鎖されたこの収容所は、しかし首都中心部に程近いのもあって、捕らえた危険分子を一時的に収容して尋問・拷問等を行うのに非常に都合がよかった。そこで通常も数名の兵士を警備に当たらせておき、危険人物を捕縛したときのみ調査官と小隊が送り込まれるという特殊な人事編制になっていた。
 今回弓は施寛美を捕縛したに当たり、非力な少女の護送にしては異例とも言える陸軍の一個小隊をもってしていた。彼女に限って言えば、どこまで警戒しても警戒し過ぎることはないと思っていたのである。――その読みはある意味で、見事に的を射ていた。
 このテレビジャックに、兵士達は既にすっかり浮き足立ってしまっていた。最後まで隠しておくつもりだった彼女の監獄の場所をばらしてしまったのも彼等の内の誰かだろう。彼女を奪還しようとする人々を迎え撃つ準備が整ってから、この場所を公開して敵を誘き出そうと思っていた、その目論見は見事に崩れてしまった。忌々しげに弓は舌を打つ。
 画面の中であの少年は、艶然と勝ち誇ったように微笑む。『陛下、ごめんねこんなことやっちゃって。だって、陛下に会いたいってお願いしたのに、誰も聞き入れてくれないんだよ。ひどいと思わない?』
 それから少し咳き込んで、口元を血で濡らす。『それにね、みぃんな僕の友達を苛めるんだよ。ひどいよね? 凄くいい子なのに、収容所に入れられて、苛められてるんだ。ねえ、助けてあげてよ。あの子苛める奴、咎めてもいいよね?』
 弓は額に手を当てる。一瞬この男は気が触れているのかと思ったが、そんな可愛らしいものではない。
 彼の台詞は完全な独り言だった。それにも関わらず、視聴者は彼の向こうに総統の姿を見てしまう。それはある種一人芝居に似ているかもしれない。彼の仕草は、言葉は、立ち回りは、そこにいないはずの総統を画面の中に浮かび上がらせる。
 どんなに無能であっても現在実際に最高権力を掌握している独裁者――総統の愛人という立場を、この男は決して崩さない。そして彼の姿に惹き付けられて思わず見入ってしまった人は、やがて画面の中で彼が総統と睦言を語っているような錯覚に陥ってしまう。――この美しい人に魅入られた総統が、今にも刑罰を与えにやって来るような、そんな恐ろしい錯覚に。
 「……これでは我々の方が、総統の意思に背く謀反人じゃないか」ソファの肘に載せた掌に、知らずに力が篭った。ぎりりと立てた爪が白くなる。
 どれほど睨み付けても、とろりと細められた黒目がちの瞳はその禍々しい光を隠そうともしない。迷信を信じない弓ですら不安を掻き立てられるほど、ブラウン管に映った姿は艶かしく美しかった。まるで、世界の最期に遣わされた天からの予兆のような――そんな下らない想像をしてしまうほどに、その美貌は人間から外れていた。
 ――巧みな演技だった。その容貌と所作と科白と演出、全ての緻密なバランスの上に成立する大芝居だった。
 「……休憩所の兵士五人が逃亡しようとしました」ふと背後から、金総務官の抑揚のない声がした。「ラジオでも中継が為されている様子です。恐らく、逃亡兵はこれからも増えます」
 顔を歪めながら、弓は吐き捨てるように言った。「臆病者は殺せ」
 「そのように致しました」淡々と金は答える。
 どこか怯えたような目で振り向きながら、弓は声を荒げる。「それより、全秀漢はどうなった。鎮圧命令は出したのか」
 「はい、全軍に既に指令は下しています。懸賞方式ですので、後は軍部の方に任せてもよいかと」金の声は、どこまでも無機的で素気無かった。
 嫌な予感を振り切るように首を振って、弓はテレビの方に視線を戻した。少し荒れた画像の中で、幻のような白く美しい顔が、睨むように挑むように彼に微笑み掛けていた。
 ぞくりと肌を粟立てながら、苛立ちを隠しもせずに弓は小さく怒鳴った。「寄りによってあの男が離反するとは。あの愚直な犬が、手を噛みやがって」
 じっと戸口のところから弓の姿を見詰めていた金は、不意に言った。「現代テレビの本社ビルに、軍隊を送りましょうか。鎮圧した方が賢明ですかね」
 今までそんなことにも気付いていなかったのだろう、驚いたように弓は顔を上げた。一瞬何の話題だかすらわからなかったような、完全に虚を突かれた顔だった。
 「……あ、ああ。そうしてくれ。任せる」
 「ジャックと言うことですが、単独犯ではないでしょうね。病院に収容されていたはずの彼が、あんなところにのこのこと出て行けるはずはありませんから」弓よりも冷静に、総務官は言った。弓は返答をしなかった。
 金は画面に目をやる。彼の脳裏は、弓と百八十度異なる方向へと分析票を伸ばしていた。
 (総統は、多分これを見ているはず――)
 このジャックが始まって数分後に、病院に連絡を入れておいた。総統以下重役の病室では、彼の命令で一斉にこれを放映しているはずである。
 彼等はどれほど恐れ慄いているだろう。自分達を悪夢の奥底にまで突き落とした本人が、やがて自分達にも訪れるであろう末期的な姿で目前に現れたのだ、平然としていられる訳がない。まして、凡庸な彼等ならば特に。
 そしてその美しい化け物が、画面の向こうで惨殺されたなら。自分達が寵愛をくれた傾国が血を流しながら事切れたなら。恐らく、彼等の精神はまともでいられるはずがない。逃げも隠れも出来ない現実の前に、崩壊してしまうのではないだろうか。
 ――崩壊してくれるのではないだろうか。
 金総務官は、無表情のまま踵を反した。そして冷たい廊下を下る。
 首都は、嵐の只中にある。


 「ほ、本当にあんなことしてしまってよかったんですか……?」
 麗玉は、給湯室から首を伸ばして訝しげな眼差しをその若い男に向けた。
 ――田の遠縁だと言う彼は、昨日の昼頃に彼等の家の扉を叩いて、飛び込んで来たのだった。「とんでもないことをしてしまった」と言った彼を、それでも田は何も聞かず招き入れた。何をしたのか麗玉には見当が付かなかったが、田のところにはそんな人がよく来るから、彼女もあまり気には留めなかった。第一自分もよく似たようなものだ。
 彼は田のように幾らかコンピューターへの知識があるらしく、ずっとメインコンピューターの前から動かない田の代わりに走り回って、アシスタントをしていた。そんな二人の為に簡単な食事を用意して持って行きながら、取り敢えず麗玉は何か只ならぬ事態が起こっていることを感じて、何故かわくわくしていた。丁度お祭の前日のような、不思議な昂揚感。
 「これじゃ、本当に戦争になってしまいますよ……」「仕方ないだろう、これを官邸に回す訳にはもういかないんだ」随分と早口な二人の会話の意味はさっぱりわからなかったが、それでも麗玉は何かを掻き立てられるような気分になる。思わず、意味もなく足をぱたぱたと早く捌いてみたくなった。
 (あの人は、お砂糖何杯なんだろう)
 給湯室でコーヒーを入れながら、麗玉はちょっと作業場の方を覗き込んだ。シュガーポットを一々持って行くのが面倒なので、麗玉はいつもコーヒーを頼まれたときは予めカップの中に砂糖とミルクを入れて持って行くようにしていた。田はいつも砂糖を五杯も入れるが、大抵のお客さんは一杯か二杯で事足りる。迷っていてもせっかくのコーヒーが冷めるだけなので、取り敢えず麗玉は聞きに行くことにした。
 短い廊下に足を踏み出した瞬間、大きな声が響いた。「何だって! 電波ジャックだと!?」
 田の声だとすぐにわかったが、あの優しい人が声を荒げているところを麗玉は見たことがなかったので、思わず面食らって立ち尽くす。
 「デアン、ちょっとテレビ付けてくれ!」
 オフィスの中を慌しげに駆け回る若い男の姿が、細長い扉のない戸口越しに見えた。それからぶぉんとテレビのスイッチが入る鈍い音が響き、すぐにスピーカー越しの小さな声が聞こえ始めた。
 (……まさか)
 麗玉は瞬いた。その涼しげな声には覚えがある。でも、どうしてテレビの中から聞こえてくるのだろう。
 ばたばたと駆け出した彼女は、戸口のところでつんのめりそうになりながらオフィスに駆け込む。そして部屋の端にあるテレビ画面に目を向けて、思わず声を上げた。
 ――あの人だった。平壌の官邸の窓辺にいたあの奇麗な男の人が、この開城にある田のオフィスに据えられたテレビの中で微笑んでいた。その水に晒したような白い肌も、淡い金色の髪の毛も、あのときに見た人形のような姿と寸分の狂いはない。麗玉のカメラを占拠した、あの笑顔に間違いない。
 田は、この人を助ける為に活動しているのだと言った。だから、麗玉は田のことを信用した。
 『……セ・カンメイを解放して。ねえ、彼女偉いよね。「プログラム」で殺されかかったのにさ、逃げずにこの国を変えようって頑張ってるんだよ。陛下いつも言ってるよね、民衆の幸福が第一だって。彼女はそれを実現しようとしてるのに、どうして苛めるの?』
 不意に麗玉は、自分の隣に佇むあの若い男ががたがた震えているのに気付いた。この人は怖い人じゃない、と言おうとしたら、彼は震えながら首を振って何かに縋るような小さく掠れた声を出した。「い、今、セ・カンメイって……」
 「指名手配されていたね」そう答える田は、人の良さそうな丸い頬を強張らせて、険しい表情に歪んでいた。「彼女だよ」
 「ああ……」男は頭を抱えて蹲った。「施さんは……それじゃ……」
 施寛美という人物が、『ベル・グロリアス』と名乗ったあの女の人のことだ、と直感的に麗玉は感じた。いけ好かない、けれど何故か妙に惹き付けられる、何となく子供っぽい人だった。あの奇麗な人とはただのクラスメイトだと言っていた。でもそれだけだったら、どうしてたった一枚の写真を見たというだけで、アメリカからこんなところまでやって来るのだろう。
 ――麗玉自身は、彼の為に行動したと言う自負がある。けれど、あの人の方がもっともっと彼の為に働こうとしている気がして、それが彼女には面白くなかった。まだまだ子供でろくすっぽ自由に行動できない自分自身が憎たらしかった。
 この若い男の人は、施寛美のことを知っているのだろうか。
 「『プログラム』ってのは……」うめくように呟く彼に、田ははっきりとした早口を返す。「昨年末、彼女はそれに巻き込まれた。皇帝陛下を始めとする高等学校に在籍していた難民移民の子女を消し去る目的で開催され、彼女はその対象者だった。――恐らく、政府にとっては陛下の次に抹殺しておきたい人物だったのだろう」
 男は、子供が駄々を捏ねるときのように首を振った。「……知らなかった。俺……施さんに会ったのに……」
 ふとテレビに目を戻すと、奇麗な皇帝は奇麗な笑みを浮かべていた。けれどその笑顔は、多分麗玉に向けてくれたのとは全く異質の、何か妖しい毒を含んだもの。
 『彼女なら出来るよ。この国を変えてくれる。民衆を守ってくれる。間違いないよ、僕が保障します』
 今、麗玉の目の前にいる三人の男は、皆あのベル・グロリアス――もとい施寛美を知っている。
 けれどその中で、多分あの奇麗な人が一番良く彼女を知っている。不意に麗玉はそう感じた。
 何だか無性に、あの勝気そうで脆そうな目をした女の人が、妬ましくなった。


 「伯父さんが?」
 信じられない、といった風に尋ね返す全に、権は険しい顔で頷いた。その耳には古いインカムのようなものが押し当てられ、空いている方の手はトラックの運転席にある通信器財を弄っている。
 次々と繰り出される錯綜した情報を何とか自分の中で整理しながら、彼女は自分の周りを取り囲んだ若者達を見渡した。「政府に楯突いて、追い掛けられとるらしい」
 「……何で……」そう言い掛けた全は、異口同音に自分と同じ台詞を呟いた相手の方を思わず見遣る。彼の隣で、荷物を抱えたままの楊がぽかんとした顔をしていた。「何で大佐がそんなことするんですか! どんな不利になったって、そんなことする人じゃないでしょう!」
 権は軽く首を振る。「わからん。取り敢えず、一番この国から離反しそうにない人間が政府を離れたっちゅうことは確かじゃあ」
 ふと彼女の脇に立っていた小魚は、通信機越しの姉の声を断片的に思い出す。
 ――武器を使わずソウルを陥落
 ――敵方に援軍は来ない
 ――ソウルの南に防衛線を張った
 ――そこから南には軍隊の指揮が届かない
 (そんな権限を持ってる人なんて、限られてる……)まさか、と自分の中で打ち消そうとするものの、それはほとんど確信だった。(軍隊の中に潜り込んだんじゃないかとは思ってたけど、まさか――)
 無茶苦茶だ、と思った。無鉄砲にも程がある。余りにも向こう見ずで危険極まりない行動だ。そんなことをしたなんて、と考えるだけでぞっとする。
 けれどそう考えない限り、辻褄が合わなかった。そして何より、あの双子の片割れの行動としてそれは、何よりも似つかわしい気がした。(――タイホアは、その大佐を味方に付けたんだ)
 ふと目を上げると、権は耳の周りが白くなるまでインカムを押し当てて、片目を薄く細める。「……政府の方も、いい加減浮き足だっとる。一番信頼できるはずのが離れてしもうたんじゃけなあ――公開処刑の許可まで出してしもうた。おえんわ、もう話にならん」
 ぎくりと全が身を強張らせるのが見えた。思わず小魚も歯を食い縛る。
 きっと大花は、ベルを助けに行くつもりなのだ。そしてその為に、本来なら敵であるはずの人までも巻き添えにしているのだろう。
 目の前で不安げに顔を歪める全に対し、無性に申し訳ないような気がした。そして同時に、小魚自身もまたひどい不安に駆られる。
 助けに行きたくないはずがない。駆けつけたくないはずがない。せめて傍にいて、何か力になりたい。
 歯噛みしながら、全が足元の土を爪先で掻く音がした。例え水浸しの道を走ってでも、決壊した川を乗り越えてでも、助けられるものなら助けたい。手を拱いているまま、悲報を聞くのだけはもう絶対にしたくない――多分、そんな心は痛いほどよくわかる。
 しかし。
 「――だからって、あんた等どうするつもりなん」
 はっと小魚は顔を上げる。その瞬間、同時に顔を上げていた全と楊の二人と視線がぶつかった。
 冷酷に聞こえるほど淡々とした声で、権は彼等を見回した。「一人二人で助けに行くゆうて、何が出来るんな。相手は軍隊、それがどんなもんなんか、まさか知らんはずはないじゃろ――あんた等、自分とおんなじ力の人間が十人も二十人もおって、武器もあんた等の手の届かんようなのぎょうさん持っとって、そんな奴等と戦えるつもりなん」
 第一、と彼女はインカムをはずしながら声を抑える。「……犯人の身内は、三族まで同罪じゃ。多分あんたの名前も、もうリストに載っとるわ」
 ――だったら、と小魚はぼんやりと考えた。多分、大花と同じ顔をしている自分もまた既に。
 一瞬ぽかんとした表情を浮かべた全は、それから見る見る内に表情を不安に崩した。きっと、平壌に残した家族に思い至ったのだろう。その顔を心配そうに見上げながら、口を開き掛ける楊の言葉を遮るように、きっぱりと権は言った。
 「――もう、北へは戻れん」

 ――旧国境、板門店駅。
 大きくはあるが無骨で、華麗さから程遠い威圧感のある駅舎に電車は止まった。
 「……」
 窓の外をじっと眺めていた大花は、思わず隣に座る全秀漢の腕を掴んだ。彼もまた険しい面持ちで窓を睨む。
 灰色のプラットホームに整列していた軍服姿の兵士達が、銃剣を手に電車の中へと入り込んで来たのだった。
 元々半島内は長い分裂の間に、大きな南北の経済格差が発生していた。その為、国家が統一されてからは、より豊かな北部へと人々が集中して流れ込んで来たのである。
 そこで現在、南部の人間が北部へと行くには役所の許可を得なければならないという規則が出来ていた。許可が下りなければ国境の検問から先に通してもらえない。そして許可は生半可なことでは下りなかったから、事実上南北分裂は継続していると言っても過言ではない状態だった。
 ――厳密に言えば「北部の人間が南部に下る」場合は何の許可も必要ない。どころか、北部で問題を起こした人間は南部へと左遷されると言うのが定例化しつつある。南部はもはや、流刑地と同義語になりつつあった。
 (……開城のテロで、国境警備が手薄になっていることを願ったが)
 秀漢は唇を引き結んだ。或いは、彼自身の反逆に対する検問が敷かれているのかもしれない。いずれにしても、ここで逃げ出せばかえって怪しまれるのが必定だった。
 ソウル以南の交通は、彼自身が封鎖した警戒網と台風の余波とで麻痺している。どこかで車を手に入れて北上しようにも、現在の混乱状況では思うように動けない。唯一まともに機能しているのは鉄道だが、まだ南北統一から日が浅いので整備が遅れており、西沿岸のソウルから東沿岸の元山を目指すにしても、一旦は国境沿いで最大の都市である開城で乗り換えなければならない。
 服を買い換える余裕がなかったので、大花は咄嗟にソウルへとやってきたときのやや地味な格好に着替えていた。全秀漢はいよいよ着替えも何もなかったので、軍服の上着と帽子を脱いでシャツ一枚になっていた。短めの髪を掻き混ぜて荒し、髭を無造作に剃り落としたら、何となく元の風貌からは離れたので、そのまま適当なところで着替えを手に入れる算段にしていた。だが、いずれにしても完全に人目を欺けるような変装であるとは言えない。指名手配を掛けられている秀漢にとっては、この検問は致命的だった。
 ふと秀漢は小さな声で大花に言った。「……お前は他人のふりをしろ」
 驚いたように顔を上げる若い女に、彼は静かに続ける。「許可証がなければ列車から下ろされるだろうが、隙を見て貨物に紛れ込むなりすればいい。とにかく元山に行き、わたしの名前を出せば何とかなる」
 「おじさんはどうするつもりよ」拗ねたように彼女は口を尖らせた。地味な格好の上に、化粧も直していないので唇の色が既に褪せ切っていた。「……兵隊さんがおじさんの顔わかんないなんてことないでしょ。あなたが囮になってあたしだけ逃げるなんて、まっぴらごめんだからね」
 そしてわざと肩をくっ付けてみせる。「だったらまだ女連れの方が誤魔化しやすいわよ。おじさん知ってる人なら、誰もおじさんが若い女連れでうろついてるなんて思わないでしょ」
 と、不意に二人の真横で固い軍靴の音がした。リノリウムの床から顔を上げると、そこに銃剣を担いだ若い兵士が佇んでいる。自分の肩にしがみ付く大花を後ろ様に隠しながら、全秀漢は兵士の顔をじっと見上げた。
 兵士はひどく事務的な声で言う。「許可証を」
 生唾を飲み込む大花の目の前で、秀漢は黙ったまま何もない両掌を広げて見せた。兵士はじっと黙ったままそれを見下ろしていた。
 それから不意に、先程と寸分違わない事務的な口調で答えた。「了解」
 瞠目する二人の目の前で、兵士はくるりと踵を返し、隣のボックスシートに首を突っ込んだ。先程と同じ声が聞こえてくる。「許可証を」
 そしてがさがさと言う紙の音と、「了解」という声が響く。
 若い兵士は次々と許可証を確認しては、持たない者を発見すると高らかに「違反」と言う。それを合図に、ドアの辺りで待機していた数名の兵士がやってきて、身形の卑しい違反者を引っ立てていく。それ以上の咎は架せられないのだろうが、追われていく人々の顔はどれも悄然としていた。それを呆然と眺めながら、秀漢と大花は兵士の姿を目で追った。
 この車両の検問が終了したのだろう、銃剣を腕の前で垂直に掲げ、兵士は通路をかつかつと下っていく。丁度自分の脇を通り過ぎる瞬間に、ふと秀漢は口を開く。
 「……これは」
 「――我々黄海南道の兵士は、あなたの味方です、全大佐」
 一瞬だけ足を止め、誰にも聞きとがめられないように一息にそう囁くと、彼はすぐさま去って行った。
 ふと振り向くと、ドアのところで待機している兵士達は、皆敬礼をしていた。そして検問の兵士を出迎えると、全員で再び敬礼を行ってから車両から出て行った。
 全秀漢が窓に向かって小さく少し申し訳なさそうに敬礼して見せるのを、大花は黙って見ていた。


 ようやく痛みの波が引いて行った。噛み締めすぎて血の滲んだ唇で、彼女は呟く。
 「……行かなくちゃ」
 あなたに、会いに行かなくちゃ。
 そして不意に、弾かれたように面を上げる。目を上げても、その先にはただ明るい茫漠たる草原しか見えなかった。
 その先に一体何があると言うのか。ふと彼女は絶望的な感覚に襲われた。(……誰に、会いに行くと言うの?)
 「……それでも、行かなくちゃ」
 彼女は両手を突いて、やっとの思いで身体を起こした。片膝を突き、脚を引き摺るようにして立ち上がりながら、彼女は再び呟く。「迎えに、来るんだもの」
 (誰が?)
 問い続ける感覚を無視して、彼女は足を踏み込んだ。彼女の足元に血の混ざった水滴が滴り落ちる。それでも這うようにして進んだ彼女を、再びあの痛みが襲った。すぐに立っていられなくなって、彼女はその場に倒れるようにしゃがみ込む。
 「う……」
 出来るだけ深く息を吐きながら、彼女は少し首をもたげた。そして背後を振り返る。前に広がるのと全く変わらない、寂しい草原が広がっていた。その瞬間に一層強い痛みが突き上げてくる。
 「あぅ……」目許に涙を滲ませながら、彼女は蹲った。
 ふと足下の草を、黄ばんだ血痕が汚しているのが見えた。それを直視出来なくて、彼女は腕を掻いて前へと進む。
 「……行かなくちゃ」
 もう何が何だかわからなかった。けれどたった一つだけ明確にわかっているのは――進まなければいけないと言うこと。
 ずるずると重い身体を引き摺っていた彼女は、不意に指先にぬるりとした嫌な感触を覚えた。額から伝う汗がしみてきつく締めていた目を、そろそろと開く。そして彼女は痛みを忘れて瞠目した。
 確かに前進したつもりなのに、指先を汚すのは足元に広がっていたはずの赤い液体だった。
 「……どうして……っ!」
 痛みに耐え切れなくなった彼女は、身体を丸めて膝頭に爪を立てた。汗で草が顔に張り付いて気持ち悪く、青草の臭いと血の臭いが混ざり合って鼻につく。もう何もわからなかった。何もわからなくなった。
 (ここはどこ?)
 (わたしは誰?)
 (この痛みは何?)
 (どうしてこんなことに?)
 何も答えが出ないまま、激痛のあまり急激に理性が奪われていくのを感じた。
 その中で、彼女は思った。(『あなた』は……誰――?)


 『間もなく平壌市内は台風の目に差し掛かります。一時風雨が収まり、晴れ間の見える地域もありますが、台風が去った訳ではありません。外出などは控えるようにして下さい』
 天気図をレーザーポインタで示しながら、気象予報士がカメラの前で繰り返していた。もう何回繰り返したか知れないフレーズに、時折彼は舌を噛む。
 「……ン、ロン」遠くから穏やかな声が聞こえた。
 竜血樹は激しい頭痛と倦怠感を感じながら、ようやく薄目を開けた。そして、やっとの思いで辛うじて唇を開く。「……ンファン、だいじょ……」
 その瞬間、思いの外に力のある腕が彼の身体を支えた。「何を寝惚けているのですか、ロン。もう限界ですか? リタイアですか?」
 そして頬をぺちぺちと軽く叩く感触で、ようやく竜血樹の意識は深い淵から引き戻された。一瞬全ての記憶がリセットされたように真っ白だったが、遠くで引っ切り無しに響く電話の呼び出し音で彼は我に帰る。
 慌てて身を起こそうとしたら凄まじい頭痛と眩暈で、目の前が真っ暗になる。額を腕で押さえながら、ようやく彼は言った。「……今、馬鹿なこと言った。忘れてくれ」
 不意に吐き気に襲われた彼は、シーツの絡まる掌で口元を押さえた。その下から鮮血の塊が溢れ出す。シーツに染み込まなかった分が床にこぼれて、湿った嫌な音を立てた。
 彼の背中を静かに擦りながら、腕の主――劉医師は言った。「覚えていますか? さっき画面が切り替わった直後に、あなたは倒れたんです」
 少し考え込んだ後、ようやく竜血樹は頷いた。多少曖昧だが、記憶は辛うじて残っている。
 先程の公開脅迫生中継の最中に竜血樹は激しい頭痛と吐き気を感じ、意識が薄れていくのを感じた。それを察した編集が気象情報に画面を移し、それを確認した瞬間に辛うじて保っていた我慢の糸が解けて、彼は気を失ってしまったのだ。
 咽喉に絡まる血痰を咳で払いながら、竜血樹は掠れた声で言った。「今は、どうなってる」
 「気象情報で場を繋いでいます。あなたが倒れてから、まだ二十分弱ですよ」劉は穏やかにそう告げる。「医者ならば、ここで押し留めるべきなのでしょうが」
 竜血樹は、のろのろと身を起こした。どうやらスタジオのニュースデスクの上にそのまま寝かされていたらしい。一瞬口も利けなくなるほどの頭痛が襲ったが、それが引くのを待って彼は言った。「……カメラをこちらに戻してくれ。戦線に戻ろう」
 「……だ、大丈夫なんですか?」
 顔を上げると、竜血樹のデスクを幾人ものスタッフが不安げに囲んでいた。若いスタッフの一人が、心配そうに続ける。「あの……」
 腕を突いて身体を支えながら、竜血樹は僅かに笑う。「……怖いか? 何なら隠れていても構わない。そろそろ官邸から、処分勧告も来てるだろう。外へは逃げない方が無難だ」
 そして軽く息を整えた。少し咳き込んだだけで、全身が軋んで激しく痛む。
 ふと、傍で腕を組んでいた李ディレクターが、揶揄するような調子で言った。「今更逃げ出す馬鹿がどこにいる。もうここまで来たらなるようにしかならん」
 それから、少しだけ優しげな声音に改める。「……お前のことも止めやしないさ。ただ、もう少し休んだ方がいいんじゃないかと思ってな」
 くらくらと視界がぶれるのに耐えながら、竜血樹は早口に言う。「軍部が来る前に、片を付けたい」
 「公安も軍隊も来れやしないさ」李は唇の端で笑う。「見せてやりたいよ、表は凄い混雑だ。横殴りの嵐にも関わらず、正面の駐車場どころか、道路にまで人が溢れてる。この傾国の美貌を一目見たさなのか、真相を知りたさか――あるいは野次馬根性かな。正直、平壌の人間がこんな嵐の中で出歩けるほど元気だったなんて、俺ははじめて知ったよ」
 それに関しては全く想定していなかった竜血樹は、驚いたように目を見開いた。
 その背中を軽く叩きながら、劉がのんびりと言う。「僕もさっき見てきましたよ。ヘリでも使わない限り、誰も近寄れない状態です」
 そして、ヘリなんて到底飛ばせないような嵐ですけど、と笑いながら、そっと耳打ちした。「――ただ、時間がないのは事実です。それはあなた自身が一番よくわかっているでしょう」
 静かに頷いた竜血樹は大きく息を吐くと、デスクの上に視線を這わせた。さっきまで脅迫に使っていたナイフを見付けて手に取り、デスクから足を投げ出していつもの姿勢に戻る。
 「……構わない、戻ろう。迷惑を掛けた」
 少し渋ったが、結局ディレクターは頷いた。片耳に付けたインカムで専門用語ばかりの指示を出し、それを受けてスタッフは一斉に持ち場に散る。何度かゆっくり瞬きをしながら、このジャック事件の主人公も心身の準備を整えた。
 それから彼は、ふと背後を振り仰ぎ、奇妙に晴れやかな笑顔を見せた。画面に入り込まない場所へ下がろうとしていた劉は、それに気付いて不思議そうに立ち止まる。
 その彼に向かって、竜血樹は言った。「俺は、お前のウイルスなんかには殺されてやらないから」
 それからすっとナイフを劉に向け、小首を傾げてみせる。
 少し虚を突かれた表情をした後、劉もまた微笑んだ。
 「それはよい心掛けです」
 モニター画面の中で、気象予報士が繰り返していた。『間もなく平壌市内は台風の目に差し掛かります。一時風雨が収まり、晴れ間の見える地域もありますが、台風が去った訳ではありません。外出などは控えるようにして下さい』
 見ると、巨大な天気図に描かれた渦巻きの中央に、黒々としたくっきりとした穴が空いているのがよくわかった。この下に、もうじき平壌市――半島最大の都市は差し掛かる。
 この時点で、党営現代テレビの視聴率は史上最高の八十九パーセントを叩き出していた。


 車のハンドルを握ったまま、金は舌打ちをした。「ちっ、動けねぇ。誰か交通整理しろよ」
 助手席の甫民は、不安げに身を乗り出して、フロントガラス越しに見える人垣を眺めていた。ガラスの表面を滝のように水が流れ、ワイパーで拭っても拭っても風景はかすむ。それにも関わらず、ほとんど用を成さない傘や合羽で装備した人々はまるでデモでも起こしているかのような勢いで党営現代テレビ局へと向かっていた。雨に煙るビル群の中で一際目立つ鉄塔を備えた建物は、風雨と人垣に揺らいでいるように見える。断続的に聞こえる激しい雨つぶての音と人の怒鳴り声が、シュプレヒコールのようだった。
 その脇を走る高架の上も下の国道も、びっしりと車で埋め尽くされていた。恐らく半分以上は件の野次馬だろう。それに巻き込まれた関係のない人々が何となく哀れだった。
 「……随分な人ですな……」
 窓越しに人波を見遣り呟く甫民に、金は言った。「あんたの『陛下』の影響だろ。この辺は住宅地も多いしな、台風とテロの危険で家に篭って暇を持て余した連中が、これ幸いと野次馬根性で押しかけたんだろうよ。何せ、政権確立以来の大スキャンダルだ。誰だって真相を知りたいさ」
 そして鼻を鳴らし、きつすぎるリアクーラーを少し弱めた。「俺だって気になるんだ」
 甫民はじっと押し黙った。その横顔を見ながら、不意に金は尋ねる。「……ところで、どうも俺はまだ頭の中で整理が付いていないんだが――あんたの言うあの『陛下』は、やっぱ王朝の血縁なのか?」
 警戒しているのか、少し躊躇ったものの甫民は静かに頷いた。「――中華を治める素乾王朝の直系に当たる、高貴なお血筋です」
 んーと金は唸り声を上げて腕を伸ばした。「あのさ、俺、歴史あんまり得意じゃなかったんだけど……確か中華王朝は1903年に崩壊したんだよな? で、そのとき殺された皇帝が円宗。その後1926年に政権を奪取したものの三日で殺された皇帝が円宗の息子の紂宗。それから残党を率いて蜂起したのがその弟の炎宗。1948年に戦犯として炎宗が処刑されて、一滴残らず王朝の血筋は粛清されたんだって俺は習ったんだけど」
 甫民は少し意外そうな顔をした。「……随分とお詳しい」
 金は少し荒んだ笑顔を向けた。「俺の中学んときの先生が教えてくれた。どうもやっぱあんた等みたいなのだったらしくてな、ばれて強制労働キャンプに引きずり出されて行ったらしいんだ」割と好きな先生だったんだけど、と彼は再び正面に向き直り、無精髭の浮いた顎を掻いた。
 「で、俺はその先生がキャンプ送りで学校を辞める直前に訊いたんだ。『何で王朝は滅亡してるのに、先生はそっちに肩入れしたんだ』って。ばれたらとんでもない目に合うのはわかってたんだろうに。そしたら先生が言うには、『確証がある訳じゃないけど、政府がこんなにぴりぴりしてるってことは、我々の思想がどこか図星を突いてるんじゃないかと思う』んだと。『完全に王家が滅んでるなら、過激派がどれだけ足掻いても王政復古は出来ない。どこかに王家の生き残りがいるから、それを支持する人間をこんな風に弾圧してるんじゃないか』って言ってた」
 それからにんまりと笑いながら金は言う。「こんなこと考えてる人間は、多分一人や二人じゃない。ともすれば都市会談として局地的に出回ってても不思議じゃない。そんな前提を耳にした人間が、今の政局不安を目の当たりにして、ちょっと王朝に希望を持っちまっても不思議はないんじゃないのか?」
 彼の笑顔をまじまじと眺めていた甫民は、ようやくぽつぽつと言った。「……わたしは、先程の呼び名で呼ぶなら、紂宗陛下の公主に当たる鸞鈴樹殿下の乳兄弟でした」
 そして彼は悲しげに首を振る。「鸞鈴樹様が幼い御子を遺して亡くなられてからは、その子正楼樹様を――そして正楼樹様が殺害された後は、遺児竜血樹様をお育て致しました。その御方があの電波ジャック犯で――たった一人の、王家の生き残りです」
 「だったらそれをネタにしたら、あんた等の側に一気に国民が寝返るんじゃ……」喜色を浮かべる金に、甫民は首を振った。
 一瞬怪訝そうな顔をした金は、すぐに気付いてあ、と声を上げる。「……最後の一人か……」
 甫民は言う。「本当に、遠戚も外戚も誰もいないんです。あの御方の身に何かあれば、我々の希望は完全に潰えるんです」そして、窓の外を静かに見遣った。
 ふと口を開き掛けて、少し逡巡した後口を噤む。(あの哀しい輪廻の、最後の一人でなければならないのです――)
 二人はそのまま押し黙った。リアクーラーの立てる僅かな音は、激しい雨足に押し流された。


 遠くで足音が聞こえた気がしたが、ベルはじっと俯いていた。ぐったりと全身の力を抜くと、ようやく爪先が床に届くようになっていた。もしかしたら腕の関節が外れてしまったのかもしれない。
 (……どうせ、幻聴よ)
 ずっと耳鳴りがして、視野がぐらぐら揺れている。このまま意識をなくせたら楽だろうに、じわじわと苛む苦痛はそれを許してはくれなかった。半ばうんざりとしながら、彼女は汗にしみる目を僅かに開いて床を睨んだ。目の前に、黒い簾のように自分の乱れた髪がまばらに落ちていた。
 ふと、そのかすんだ視野の端に黒いローファーが入った。(幻覚なんて、初めて……)
 ぼんやりと彼女が目を上げると、そこにあの男が立っていた。心なしか息を切らし、顔を紅潮させている。
 「……」
 何か喋ろうと唇を揺らしたが、声を出すのが億劫だったので結局ベルは口を利かなかった。全身の筋肉が疲れ過ぎて嚥下すら出来ず、口の端から涎が落ちて、それが肌蹴たままの胸元に落ちた。何となくみっともなかった。
 弓という名らしい、まだ若い男は早口に言った。「お前は、我々に付け。そうしたら全て許してやる」
 (……何を言ってるの)やはり幻聴か、とベルは僅かに頬を引き攣らせて笑った。(随分ムシのいい幻聴もあるのね)
 だが、男はベルの顔を睨みつけながら繰り返す。「政府側に加担しろ! そうすれば何もかも不問に付す、連れのあの男も助けよう。だから我々と共に行動するんだ!」
 (鬱陶しい)
 ベルは首を振ろうとしたが、少し首をもたげた瞬間に激痛が全身を貫いた。もはやどこが痛むのかすらわからず、しかし顔をしかめることもままならず、仕方なく彼女は掠れた声で言った。「……ばか?」
 今の状態の自分に返事を求めるなんて、生粋の馬鹿だ。ベルは内心で目一杯嘲笑した。
 「いいから頷け。罵倒語なら後で幾らでも聞いてやる。だからこちらに付け。言うことを聴くんだ!」男は苛々と捲くし立てる。しかし意外なことに、彼はすぐ脇のテーブルの上に鞭が置かれているにも関わらずに、ベルに手を出そうとしなかった。
 もっとも、彼の口から散る唾にすら痛みを覚える彼女は、もはや僅かな暴力すら命取りになり兼ねない状態なのかもしれないが。
 息を深く吸うと腹筋が千切れそうに痛むので、浅くゆっくりと呼吸しながらベルは言った。「……ばかだ」
 (幻聴にしても、いい加減にして頂戴)考えることすら億劫だった彼女は、黙って目を伏せた。
 業を煮やした弓は、ようやく意を決したように言った。「……何が望みだ! 何でも叶えてやる、だからこちらに付くんだ! あの連れの男か? それともあの皇帝か? わかった、何でも叶えてやる、だから我々に……」
 「……この国を」
 唇から涎の糸を引きながら、ベルは小さな声で言った。弓は傲慢に、しかし今にも跪きそうな仕草で彼女ににじり寄る。咽喉に焼け付くような痛みを感じながら、ベルは続けた。「……くれる、の、なら……」
 考えてあげてもいい、と言いたかったが、それ以上口を利くのが億劫だったのでベルは押し黙った。
 弓は怪訝そうな、不快そうな表情をする。ベルは黙って目を閉じた。
 ――『何が欲しいんだ? プレゼントするよ』
 屈託のない声が耳の奥に聞こえた。明るい、少し早口のアメリカ英語。泣き出したいほど懐かしい声だった。(……あたしは、何て答えたんだろう)
 世界で一番耳に馴染んだ声が耳に響いた。『とっても無意味なものよ。汚くて、生臭くて、危険なの』
 (そう――あたしは、この国が、欲しいのよ)
 「ふざけるな! いいか、何でも望みを叶えて、しかも自由にしてやると言っているんだ!」弓の怒鳴り声が響いて、全身がぎしぎしと痛んだ。黙って欲しい、と彼女は眉間に微かに皺を寄せて、僅かに薄目を開いた。
 (……皆、殺された)
 大切な父も母も祖母も、弟も妹も殺された。親友を無惨に殺された。あの禁色のクラスメイトも殺され――るよりもっとひどい目に合わされていた。彼女の帰るところも何もかもを、一つ残らず奪われた。守りたかったものを、全て滅茶苦茶に踏み躙られた。
 温かい、優しい、柔らかい、抱き締めたい――大切にしたいものを全て壊された。欲しいものは何も手の中に残らなかった。だからそれらを奪ったこの国が欲しかった。この国を自分の意思の下に置いて、滅茶苦茶にしてやりたかった。
 どう罵られても、それが許されざる大罪だとわかっていても、それでも憎まずにはいられなかった。例え他の無関係の人々を巻き込んでも、大きく振り被った拳を振り下ろさなければならなかった。どれほど自分の小さな手が痛んでも、心が身体が止まらなかった。――止められなかった。
 (……あたしが、この国を)自分をここまで追い詰めた、許されざるべきこの国を。罪深いこの国を。(ぶっ潰してやる)
 ベルは顔を上げた。そして再び弓に向かって言う。「……この国を、ちょうだい。あたしが、この手で、ぶち壊す為に」
 少し喋るだけで全身に痛みが走ったが、いっそ気絶しても構わないと彼女は思った。弓が血を上らせるのがよく見える。彼が拳を固めるのを見て、殴られるのかと思ったが、彼は結局握り締めたままのそれを下ろした。(……別に殴っても構わないのに)
 ふと、鷹揚に弓はベルを見据えた。それが虚勢にしても、今のこの国の持ち主は彼なのだと言うことをベルはぼんやりと感じた。
 「……まあいい、どうすることが最善なのか、その賢い頭でしばらく考えるがいい」
 そして彼は踵を反す。どうしてこんなことを言い出したのか、とベルはぼんやりと考えるが、考えることが億劫だったのでそのまま気にしないことにした。
 そのまま俯いてしまった彼女には見えなかったが、足音は戸口の方へと遠ざかっていくようだった。途中で幾つもの靴音が重なったのが聞こえたので、どうやら戸口のところで兵士達を待機させていたらしい。
 きつく目を閉じるのは辛かったので、軽く目を伏せると汗がしみた。このままこうしていたら目が潰れそうだと思いながら、ベルは軽く嘲笑した。
 (……頭、ふらふらする。こんな状態で、考えられると思ってるの?)


 『……って、そう言ってたよね?』
 竜血樹は、艶然を通り越して壮絶なほどの笑顔を見せた。簡素な照明なので画面の色彩が悪いが、そうでなくても彼の顔色が蒼白を通り越してほとんど色を為していないのはよくわかる。
 『それじゃあ、ここまで会いに来てよ。僕も、もうずっと会えなくて寂しかったんだ……よ』一瞬彼は表情を歪めて咳き込む。息が乱れて声が掠れた。
 モニター越しに彼の姿を凝視していた編集が、慌てて指揮を送ろうとする。だが、そちらに僅かに視線をやると竜血樹はそれを押し留めた。それからすぐにカメラに視線を戻す。『……ねえ、どうして会いに来てくれないの?』
 ADの一人が、気圧されたような顔付きで言った。「何でさっきまで気を失ってたのに、あんなに出来るんですか……? 凄いというより、何かもう……」
 「怖いな」指示用のインカムを首に引っ掛けたディレクターが言った。スタッフ達の縋るような視線を浴びながら、彼は眉間に皺を寄せて竜血樹の姿を見ていた。「あそこまで出来る、気力が怖い。多分ここに乗り込んだ時点で限界はとっくに超えてただろうに、それでもずっと俺達より遥かにハードな役回りをこなしてるんだ。幾ら気合でカバーとか言っても、風邪なんかとは訳が違う。何があそこまであいつを支えてるのか――それが恨みだとしたら、そんな怖いことはない」
 ふと彼は、隣に立つ黒ずくめの男に目をやった。白皙の美貌の医師は、軽く指を噛みながら険しい表情を浮かべていた。それまで穏やかな笑顔しか人に見せていなかった彼の表情に、ディレクターの李は僅かにたじろぐ。「……あんた」
 「――人が死ぬ瞬間を、全国へ生中継しても構わないですね?」冴え冴えとした碧眼を細めながら、淡々と劉は言った。「その後の映像の処理を考えておいて下さい。本当に、もう時間がない」
 誰かが唾を飲んだ。この事件の終焉のときは、確実に迫っていた。


 夏火、と言う名前の少女は。
 (ああ、そうか――)彼女はぼんやりと痛みの波の狭間で思い出す。(あのとき、死んだんだ)
 故郷を焼かれ、両親が殺され、故郷の人々が殺された。飛竜と言う名の男に連れられた彼女はそのとき全てを捨てて、裸足で逃げ出したのだった。だがやがて追手に追い付かれ、飛竜は彼女をかばって捕まった。
 そして彼女は一人になったのだ。
 そのとき、彼女は誓った。(わたしは、死んだの。劉夏火は、お父様お母様と一緒に、飛竜お兄様と一緒に、死んでしまったの)
 だからわたしは夏火ではない。もう誰でもない、ただの抜け殻。名前なんかいらない。どんなに粗末に扱われても構わない。死んではいない、けれど生きてもいない存在になったのだ。そう誓ったことを、彼女はぼんやりと思い出した。
 その瞬間、遠くで声が聞こえた気がした。
 次第に間隔の狭くなる激痛の波に翻弄されながら、彼女は耳を凝らす。(……誰?)
   ――ほんふぁ――
 ぼんやりと聞こえたそれは、人の名前のようだった。
 その瞬間、迫り上げて来る痛みに彼女は息を呑む。痛みは確実に強くなっていた。これ以上激しくなったら、身体中がばらばらになってしまう。悲鳴のように彼女は何度もそう考える。そして無意識の内に地を覆う柔らかい青草を握り締めて引き千切った。草の根に指先が引っ掛かって、何枚もの爪がぼろぼろになり剥がれ落ちる。その痛みすらも今の彼女には感じられなかった。
 「……ど……して……」
 自分の身体の中から、『何か』が出て来ようとしているのはわかっている。けれどその『何か』の正体がわからない。
 何もわからなかった。何も思い出せなかった。
 理由のわからない痛みに涙を滲ませ、歯を食い縛り、彼女は身体を丸めた。腹部からだけではなく、頭もがんがんと痛んで耳鳴りがした。耳障りな幻聴の間に、再びさっきの声が聞こえた。低く柔らかく穏やかな、優しい声。
   ほんふぁん
 (……誰……?)彼女の知らない人を呼ぶ声は、どこかひどく懐かしかった。その声にも呼ばわれる名にも覚えがないはずなのに、その響きはしっくりと耳に馴染む。凄まじい激痛に震える身体が、その声音の主を求めている。
 その声は、誰かを捜しているようだった。決して悲痛ではないはずなのに、聴いた者に居た堪れなさを感じさせるような、優しく切ない声。彼女の耳が、この声の居場所は自分だと主張しているように彼女は感じた。
   ホンファン
 身体中を脈打つように、痛みが走った。噛み締めた唇から、金臭い血が落ちる。(……捜しているの?)
 自分のことではない、と彼女は微かに首を振る。(わたしは、違う。そんな名前じゃ……)
 そう考えた瞬間、それまでとはまるで異質の、焼け付くような痛みを覚えた。どこが痛むのかももはやわからず、蹲ってただ彼女は首を振る。(……わたしじゃない、わたしじゃないの……)
   紅凰
 呆然と彼女は目を開けた。そして全身を締め上げられるような激痛の中、虚空を振り仰ぐ。茫漠とした空っぽの青空が見えた。
 (……誰を、捜しているの?)
 顔中を涙で濡らしながら、彼女は嗚咽を上げた。
 その声の主もわからないはずなのに。激しい痛みと共に込み上げるこの感情は。
 ただひたすらな、愛しさだった。
 (……わたし、は、誰……?)
 その痛みと感情の奔流に耐え兼ねて、彼女は僅かに後退った。そしてその瞬間。
 どこか暗い奈落へと落ちるように、彼女は完全に意識を失った。


 (――ホンファン)
 頭痛の隙間を埋めるように、ひどい耳鳴りがした。ライトで煌々と照らされているはずなのに、目の前は真っ暗でもう何も見えない。肌の表面を汗が伝う感触がするのに、とても寒かった。真っ暗な夜の真ん中に、一人で取り残されてしまったようだった。
 「……そっか、一人ぼっちなんだ……」一瞬、記憶が飛ぶ。
 (何を言ってるんだ、俺は)
 けれど、糸で操られた人形のように、重い手足は演技を続けていた。ひどく窮屈な檻の中に閉じ込められているようだった。「……寂しいな」
 (寂しい)冷え切った頬を、温かいものが伝う感触がした。何も見えない。何も聞こえない。こんな沈黙は、これまで味わったことなどなかった。(寂しいよ、ホンファン)
 真っ暗な中で、ふと自分が目を開けたままだったことに気付く。少し迷ったが、目を閉じてみた。変わらない闇が広がっていたが、頬を伝うぬくもりの糸は一瞬だけ太くなる。
 「……嫌だよ、こんな、ところで、別れたまま……死ぬなんて」声を出すたびに身体が悲鳴を上げそうだった。全て投げだしてしまいたかった。
 不意に瞼の裏側に、彼女の姿が見えた。誰よりも愛しい彼女は、たった一人で、暗闇の中で泣いていた。(……あれは)
 別れのときの彼女だとすぐにわかった。小さな港で、一人で行くのは嫌だと泣いていた。一緒に行こうと泣いていた。
 (ホンファン……)大切な女性の名前を、自分が与えたその名前を、壊さないように心の中でそっと呼ぶ。(俺も、同じだよ――)
 その瞬間、ふと脳裏に一筋の光明が閃いた。
 「――ああ、そうか」彼は目を開いた。薄い明りが見えた気がした。
 彼は仄かに微笑む。肩を流れる髪の毛が、零れ落ちてさらさらと揺れた。
 「迎えに、行けばいいんだ……」
  静かに彼は、デスクの上から足を下ろした。爪先はどこまでも落ちては行かず、足はきちんと床に付いた。身体が大きく傾いだが、何とか腕でデスクを掴んで体勢を立て直し、彼は前を向く。そこに、彼女の泣き顔があるように思えた。
 「……迎えに、行く、から」
 その瞬間彼は咳き込む。口中に金臭い味が広がって、胸を裂かれるような、頭を割られるような凄まじい痛みが走ったが、それでも彼は続けた。(……これだけは、伝えなきゃ)真っ赤に血塗れた唇で、掠れた声を上げる。
 「かな、らず……迎えに、行く、から」
 その瞬間、彼は前のめりに倒れ込んだ。膝を突き、腕で支え切れず、一旦は完全に床に額づく。慌てたスタッフの怒鳴り声がスタジオ中に響いた。医務室辺りから借りて来たらしい白衣を引っ掛けた劉医師が駆け寄ろうとする。だが彼は、辛うじて頭をもたげると、ゆっくりと俯いたまま首を振った。
 辛うじてそれを見分けた劉が、咄嗟に立ち止まる。スタジオのあちこちでどよめきが洩れたが、その中で彼は身を起こした。立ち上がろうとしたが、平衡感覚が失われて足が思うように動かなかったので、半身を起こしたままで彼は振り仰ぐ。顔の周りの髪から、ぽたぽたと鮮血が落ちた。
 こんな場所にはもういたくない、と彼は思った。早く会いたい。彼女に会いたい。
 瞼の内側で、あの大切な女性はじっとこちらを見ていた。それから不意に、彼女はふわりと微笑んだ。
 彼も微笑んでみせる。よかった、と思った。心底よかったと思った。
 それから彼は、ナイフを握り締めたままの右腕を静かに正面にもたげた。真っ直ぐに持ち上げたそれに左手を添えると、彼は一瞬で反対向きに持ち替える。ようやく事態を把握した人々は、声もなく息を呑んだ。
 (――俺、幸せだから)
 もう解け掛けた思考が静かに彼女との記憶を辿る。自分の身の上を嘆いたこともあったけれど、何故生まれて来たのかと、自分などいなければと思い悩んだこともあったけれど、それでも今は自分がとても幸せな人間なのだと思うことが出来た。彼女と出会い、心底幸せだと思えたから――今もこの瞬間も、彼女と出会えた幸運を何より幸せだと思えるからこそ――生まれてきてよかった、と思えた。
 だからこの瞬間、何も悔いることはなかった。それは何よりの救いだった。
 涙の滴る深い色の瞳をうっすらと開いた彼は、静かに深紅の唇から血を滴らせて言った。
 「迎えに、行くから」
 そして、もたげたナイフを一息に自分の咽喉に突き立てた。


 その瞬間を、大花は駅の待合所の大型スクリーンで見た。
 板門店を抜け、その先の開城駅で乗り換えの電車を待っている最中に、暇を持て余した大花は待合室に置かれたテレビの前に無数の人が押しかけていることに気付いたのだった。怪訝に思って覗き込み、あの生中継ジャック事件が発生していることを知った。
 ――後になって思えば、二人が気付いたときにはもうそれはクライマックスを迎えていた。凄艶なくせにどこか清々しい美貌の主は、時折くすんだ砂嵐を起こすブラウン管の中でもそれとわかるほど赤い血で、口元を胸元を濡らしていた。
 大花は一瞬、眩暈を感じるほどに驚いた。何が起こっているのかさっぱり理解出来ず、何度も何度も瞬いた。「放送局ジャックか」と呟いた秀漢の言葉が、どこか遠くで響いているノイズのように聞こえた。
 周囲のどよめきやざわめきでテレビの音声は掻き消えていたが、乱れた画面に歪む赤い口元が何か呟いているのは見えた。必死に耳を凝らしながら、大花は自分の前に割り込もうとした人影を押し退けて画面に喰い入った。(――あいつに)
 そして人込みを掻き分けて、少しでも画面に近付こうともがいた瞬間に、不意に飛び込むようにそのシーンが目に入った。全ての音がそのとき掻き消えた。一切の沈黙が、鼓膜に痛いほど響き渡った。
 (――ベルに)
 画面を占拠していた彼女の旧知は、音もなく微笑んだ。その唇が静かに何かを呟くのが、まるでコマ送りのように見えた。それからゆっくりと――どうして誰も止めようとしないのか信じられないほどゆっくりと――彼はその手の得物をもたげ、あらゆる動物の急所である咽喉笛にぴたりと一瞬押し当てた。そしてその次の一瞬で、切先はその白い咽喉に食い込み、そのまま音もなく白い肌に刀身が飲み込まれて行った。僅かにナイフの柄が下にずれ、少しだけ開いた傷口から鮮血があっと言う間に溢れ出していく。
 (――何て)
 うっすらと目を開けたまま、微笑を浮かべたまま、かつて彼女がよく知っていたはずの美しい人は、身体を少し傾がせた。画面の下端に見えていた膝が折れ、ナイフに手を添えたまま彼は吸い込まれるようにくず折れて、上から下へスクロールするような形で次第に見えなくなってゆく。深紅の雫が宙に散り、淡い色の長い髪の毛だけがしばらく取り残されるように空中を舞い、それから彼の身に吸い取られるようにゆったりと揺らぎながら落ちて、遂には見えなくなった。
 (――酷いこと)
 最後まで空中に留まっているように見えた赤い雫が、カメラのレンズにまで飛び散った鮮血だと気付いたのは、画面が色調パネルに入れ替わった後だった。そしてそのときにはもう、大花は秀漢に支えられるようにしなければ、立っていることも出来なかった。
 悲しみはまだ、湧いてこなかった。そんな感情を認識することすら出来ないほど、衝撃で全ての感覚が麻痺していた。
 (ベルが泣く。どうしたらいいのよ)
 今は取り敢えず、怒りにも似た困惑を持て余すしかなかった。秀漢に支えられたまま、泥酔したときによく似た音も聞こえなくなるほどの眩暈を覚えてきつくきつく目を閉じる。
 そしてやっと瞼を開いたときに、ふと気付いた。
 世界が、一瞬前よりも確実に薄暗くなっていたのだ。
 ――気のせいではなかった。空を振り仰いで、すぐに気付いた。
 駅のホームの軒から覗く真昼の太陽が、黒く欠けていたのだった。


 その瞬間、テレビの画面が深紅に染まったように弓は思った。思わず椅子から立ち上がり、椅子の倒れるがたんという音に驚いて背後を振り返った。それを直しながらテレビ画面に顔を戻すと、ブラウン管の中は既に色調テストの画面に切り替わっていた。
 完全に気を呑まれた弓はそのまま画面を睨む。
 「……何て奴だ」そしてようやく画面から視線を引き剥がした。
 と、そのときに扉をノックする音が響いた。返事をする前に扉は開き、向こう側からあの金総務官が入って来る。
 「公安からの報告です。テレビ局に近付こうにも、民衆が押し寄せていて交通網が完全にストップした模様で……」
 「いい」短く弓は言った。金は怪訝そうな顔で何か言おうと口を開く。それを弓は鋭く遮った。「もういい、奴は死んだ」
 「は?」金が意外そうな声を出した。その気持ちはよくわかる、と考えながら弓は事務的に補足した。「カメラの前で、首を突いて死んだ――どっちにしてもあの身体だ、長くは持たなかっただろうが」
 そして額に手を当てて前髪を掻き毟り、吐き捨てるように言う。「……何て奴だ」
 多分、あの犯人を荒唐無稽な大法螺吹きだとしか思っていなかった人間も相当数いただろう。確かに彼の言うことは、俄かには信じがたいことの連続だった――これまで隠し通して来た事実を、尽く明るみに引っ張り出すようなことだった。その不穏な内容ゆえに、敢えて信じまいとしている人間もいたはずだ。また彼の一切の理性を取り去った、精神に異常を来たしているような弁舌に、信憑性を疑う者も多かっただろう。
 だが、あんな瞬間を――自ら命を投げ出す凄絶な瞬間を目の当たりにして、一体どれほどの人間が冷静な判断力を持ち続けることが出来るだろう。例え彼の言葉を信じていなくても、もしやと思うかもしれない。或いは、彼のあの姿がもはや国家の荒廃そのもののように思えるかもしれない。
 彼はこの国の国民全員に、今彼等が暮らす国家の恐ろしさを叩き付けたのだ。――この国の頽廃した政府が、もしもパニックを起こした国民による大規模な暴動が発生した場合にそれを押さえきる力を持たない、と言うことを十二分に承知した上で。
 呪いだ、と思った。自分の命を代償に掛けた、これは亡国の呪いだ。そんなものを信じたことは一度たりとも無かったが、馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばせない自分を確かに感じて、それがひどく忌々しかった。
 弓が振り向くと、金は複雑そうな色を顔に浮かべていた。自嘲するような笑みを浮かべながら、弓は言う。「……ホラー映画さながらのラストだった。だらだら血を流しながら、『迎えに行く』だとよ。身に覚えのある奴だったら、卒倒もんの恐怖だろうな」
 「……病院の総統陛下他の方々に、これを見せるよう指示を出していたのですが」金は淡々と言った。
 笑顔のまま一瞬硬直して、その後弓は静かに言った。「――念の為に、病院に指示を出せ。もし連中が死んでも、絶対に外に洩らすなと。仮にそんなことになれば、半島は混沌の坩堝になる」
 黙って金総務官は頷き、くるりと踵を返して去って行った。溜息を吐きながら弓が画面に向き直ると、今度は現代テレビのロゴマークと共に『放送自粛中』の文字が連ねられていた。


 薄暗い中でじめじめと嫌な感触を覚えて、彼は目を開けた。
 ずっと気を失っていたらしく、口の中がからからに渇いている。随分汗もかいたようで、コンクリートの床が自分の周りだけじっとりと濡れているのが見えた。起き上がろうとして、自分の腕が後ろ手に縛られていることにも気付いた。
 (……ここは)
 ぼんやりとかすむ記憶を辿る。確か、意識が朦朧としている状態でこの部屋――と言うより、鉄格子のはまった監獄に運び込まれたはずだ。その前はワゴン車の荷台に載せられていて、揺れるたびに後頭部がずきずき痛んだ記憶がある。そう考えた瞬間、頭の後ろの方が閃くように痛んだ。二日酔いにも少し似た、ひどく打ち付けたような感じの痛み。
 その痛みの原因まで記憶が遡った瞬間、彼は我に帰った。(……レディー!)
 あの会議場で背後から頭を殴られて動けなくなった後、断続的に聞こえる物音で、彼女――レディー・ベルまでが囚われたことがわかった。何とかしようと思いながら、身体が動かなくてそのまま『敵』の為すがままにされていた。
 (助けなきゃ)動こうとして、鈍い痛みが全身を襲った。どうやら拘束を受けているのは手首だけのようだが、うつ伏せに寝かされているので首が変な形で固まってしまっている。ずっと固い床に寝かされていたので、肋骨が当たってそれもまた痛い。それでも何とか彼は寝返りを打つ。どうやら眼鏡は取られてしまったようだが、元来遠視矯正用だったので視力にはあまり関係がない。ただ、いつも付けていたものだけにないと違和感が強かっただけの話であった。
 と、顔のすぐ脇に固い足音が響いた。横目で睨むと、あまり若くない兵士が嫌な表情を浮かべて彼を見下している。兵士は何か訳のわからないことを口走ると、軍靴の先で乱暴に囚人を蹴り上げた。咄嗟に彼は奥歯を噛み締める。脇腹に鋭い痛みを感じながら、ふと彼はあることに気付いた。(……大丈夫だ)
 兵士は大柄な彼に唾と一緒に何か口汚いことを吐き捨てて、早足に去って行った。何か問題事が起こっているのだろうか、何となく空気が忙しない。見張りの兵士も手薄だった。
 顔をしかめながら、彼は自分の後ろ手に回された腕をもぞもぞと動かした。無意識の内に、縛り上げられるときに手首に力を込めていたらしい。腕の力を抜くと、盛り上がった筋肉の分だけ隙間が出来る。一巻き分の隙間は小さいが、拘束の際に念を入れて何度も縄を巻き付けたのだろう、その分だけ縄のたわみは大きくなっていた。これならいける、と彼は指先で荒縄を探る。
 監視の兵士から見えないように仰向けになり、背中の下で作業をする。出来るだけ落ち着いて、と自分に言い聞かせながら不自由な姿勢で粘っていると、やがて縄のたわみが手先を通り抜けられるほどの大きさになった。苦戦しながらでも、縄を一巻きでも外してしまえば後はこちらのものである。
 湿気と熱気で噴き出した汗が全身を伝う。顔に張り付く前髪を床に擦り付けて払いながら、彼は監獄の中を見渡した。そして、視野の端に格好の武器を見付けて思わず笑みを浮かべる。
 (――大丈夫だ、レディー)
 外の雨音が、不意に止んだ。




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