モドル | ススム | モクジ

第十二夜・上


  月に日が喰われるのか

  日が月とまぐわるのか

  天が嘆きで日を殺すのか


  いずれにしても、日蝕は



  第十二夜・上



 「おい、シャオユウ!」
 慌てた声で呼び止められたものの、大きな米袋を運び出していた小魚は顔すらも上げることが出来なかった。危なっかしくふら付く足取りで、彼は苛立った声を上げる。「……何? まだ奥にあるから運び出してきてよ」
 半ば恐喝のようにして居住区の倉庫を開けさせた小魚達は、早速食料の分配を行い始めた。あちこちに分散した避難所に食料を届ける為に、船とトラックを駆使して順次袋詰の食料と燃料を運び出す。騒ぎを聞き付けた居住区の人々はおずおずと遠巻きに義勇軍の姿を見に来たが、手を貸すでもなく石を投げるでもなく、ただ怯えたように佇んでいるだけだった。
 倉庫の中には莫大な量の米と非常食が蓄えられていた。少し申し訳なさそうにする兵士もいたが、容赦なく小魚は運び出すよう指示を出した。同情などしている場合ではない。今は、一人でも多く生き延びさせることだけを考えるべきだった。
 少しずつではあるが水も退き始めているので、被災者の救助救援に向かっている兵士も多い。とにかく手が足りなかった。半ばむきになって、彼は本来二人掛かりで運ぶべき重さの米袋を運搬していた。だからと言う訳でもないが、手ぶらの人間を見るとやけに腹が立つ。
 「まだまだあるんだから。被災者を飢えさせる訳にはいかないんだ」
 掛声を上げて荷物を抱え直そうとする小魚に手を貸すと、呼び止めた若い兵士は早口に言った。「お前、ラジオ聞いたか?」
 「そんな暇がどこにあるよ」疲れたように苦笑すると、小魚は古びたリアカーの荷台に米袋を積み、足早に倉庫の中へと戻って行った。スレートで出来た、港の辺りに立ち並んでいそうな巨大な業務用倉庫の中には、まだまだ無数の食料が詰まっている。米はそろそろ足りるか、と見当を付けた小魚は、手近な缶詰の箱を積み上げた。
 「ほら、そっち持って」
 小魚の隣でおろおろとしていた兵士は、それでも大きめの箱を抱え上げると、足早に運ぶ小魚の隣に並びながら大声で尋ねた。「んじゃさお前、セ・カンメイって知ってるか?」
 「――知り合いだけど……」
 それが何か、と言い掛けて不意に小魚は顔を上げた。虚勢が緩んで妙に子供じみた顔になる。「……何であいつのこと、知ってるの?」
 ああやっぱり、と小さく呟いた兵士は、小魚の腕の箱を自分の箱の上に重ねさせながら顎をしゃくった。「さっきラジオでさ、逮捕されたって言ってたんだ。お前と同じで亡命先から帰国してたとか言ってたし、もしかしてと思ったんだ。――取り敢えず権さんとこラジオあるから、詳しいこと聞いて来い」
 思わず呆然とした小魚だったが、すぐに我に帰ると首を振り切って、それから何度も頷いた。
 「ご、ごめん。後任せてもいいか?」
 「いいから取り敢えず急いで来いって」心底心配そうな口振りで、兵士は眉間に皺を寄せる。申し訳なさそうに何度も何度も頷きながら、小魚は坂道を駆け下りた。
 所々崩れ落ちた居住区と下界を区切る壁の辺りに、権の姿が見えた。その周りを、不安げな表情で覗き込む作業着や軍服姿の男達が取り囲んでいる。権が手にしているのは大振りの――古いラジオだろうか。
 ふと気配に気付いた全元警備兵が顔を上げ、小魚を手招いた。
 「さっきからずっとこればっかだ。平壌中央会議場を爆破しようとしてたとか言ってるんだが……」全は、人垣の中で自分が陣取っていた権の隣の場所を譲りながら眉をひそめる。「……ほら、あの官邸のすぐ近くにあるだろ」
 心持ち青褪めた顔で、小魚は首を揺らしながらラジオを覗き込んだ。「俺、平壌は余り詳しくないから――」
 どうして、と思った。
 どうして平壌なんかで逮捕されるんだろう、彼女とは開城で別れたはずなのに。そんな感覚が消えない。
 確かに別れるとき彼女はそこから北上するようなことを言っていたし、第一彼女の目的そのものがいるのは平壌なのだから、不思議でも何でもないはずなのに何故だか違和感が消えなかった。(――違う、そんなことよりも)
 「……ラジオじゃけ、顔も何もわからんけど……」そんな風に言いながら、男勝りの中年女性は音量を上げる。不安を煽るようなひどいノイズが一瞬混ざったが、それに混ざって機械越しの甲高い女の声が彼女の名前を発音した。
 『――で現行犯逮捕されたセ・カンメイ容疑者は、現在収容所に送検され取り調べを受けている模様で――……』
 「……の名前……のに」唇を噛み締めてうめくように呟いた声に、周囲を囲んだ面々が顔を上げた。あの冷静だったはずの少年が、頬に赤い色を上らせて細い眉を吊り上げていることに、彼等は多分、初めてことの重大さを知った。
 一度固く目を瞑り、薄目を開けて小魚は再び小さく言った。「……その名前で呼ぶと、嫌がるのに」
 不機嫌そうなだけならまだいい。怒鳴り散らすのなら肩を竦めてやり過ごせる。
 目の前を不意に、彼女のあの居た堪れなくなるような、悲しげな怒りの表情が過ぎった気がした。
 (あいつは、もう『ベル・グロリアス』なんだ――)


 風が、ざわりと激しさを増していた。
 甫民は、官邸の周辺をずっと探っていた。正午を三分過ぎても何事も起こらなかったことから、あの少女が爆発物解除に成功したのはわかっていた。少し驚いたが、別に不思議ではなかった――頭のどこかで、それを期待する自分が確かにいた。
 けれど、と老人は頭を掻く。そうなると、この官邸内に監禁されているはずの竜血樹を奪還する為に、別の策を練らねばならなかった。混乱に乗じて奪還するつもりだった以上、何事も起こらなければどうしようもない。
 門の近くに仕掛けた盗聴器で門番の状態を窺いつつ、甫民は官邸内の地図を片手に様々な策を考えていた。
 と、そのとき片耳に当てたヘッドホンから思いもよらなかった会話文が聞こえて来る。「――でもさ、いつまで厳戒体制が続くんだろうな。犯人捕まったんだろ?」「あー……でも捕まったのジャリだって言うぜ、大方捨て駒の実行犯だろ」
 甫民は白い眉を寄せた。会話は二人――いや、三人程度で行われているらしい。官邸通用門の警備に当たるのは通常二人のはずだから、警戒と言うのもまんざら思い込みではないのだろう。
 「でもさ、『セ・カンメイ』って言ったらアレだろ、弓書記官が血眼になって手配掛けてた女じゃなかったっけ?」
 「あ、そう言えば。何か犯人の名前に聞き覚えがあると思ったんだ」
 甫民は思わず息を飲み込んだ。(あの施氏が捕まった? 一体どうして?)
 ここは会議場から程近い。ほとんど何の騒ぎも聞こえなかったので、甫民はてっきり、彼女は誰にも気付かれず何事もなかったかのように爆弾を解除し、どこかへと去って行ったものだと思っていた。一体いつの間に、どうして、捕まったと言うのだろう。
 ヘッドホンに手を当ててもっと確かな話を聞こうとした甫民は、更に自分の耳を疑う羽目になった。
 兵士の一人が、場に不似合いな能天気な声で言い出した。「そういや、お前等検査はもう受けたっけ? 病院ちょっと遠いし、俺まだ受けに行ってないんだけど」
 「俺はさっき受けてきたよ。大丈夫大丈夫、シロに決まってるから。お前の方こそやばいんじゃない?」
 「馬鹿言え。俺達みたいな下っ端が、陛下のお気に入りに手を出せるかっての」
 (……陛下?)甫民は表情を曇らせた。その目がどうしても鋭くなる。
 全く気付かない様子で、兵士達は私語に花を咲かせる。「っつかさー、怖いよな。見た目に騙されてやっちゃってたらもれなく致死ウイルス感染なんだっけ? くわばらくわばら」
 「案外さ、あいつ過激派から送られて来た人間兵器だったりして」「誘惑に負けてハメちゃったらドカンってか」
 けらけらと言う彼等の笑い声が、まるで猿の声のようだと甫民は思った。
 彼は取り敢えず今耳に入った情報を頭の中で再構築する。
 (陛下は――この内部で囲われている。総統の男妾だと思っていたが……どうやら官邸専属の娼夫だったと言うことらしい――)
 思うだけで吐き気がしそうな考えだった。この手で赤子の頃から手塩にかけて育ててきた、命に代えても守りたい大切な主君が、何の手立ても出来ないまま蹂躙されていたとは――。
 その次の段階に思索を進める前に、兵士達は話題を展開して行った。「それにしてもさー、やっぱ実感湧かないもんだよな。あのウイルスって今んとこどうしようもないんだろ? それじゃもうじき総統陛下とかお大臣様とかみーんなまとめてあの世行きって訳じゃん。あいつ等殺しても死にそうにないのにさ、マジで死ぬのかな?」
 「んー、でもあれだけ血ぃ吹いたらやっぱ駄目なんじゃない? すげぇびびったもん俺あのとき」「そういやお前、あのお妾様がぶっ倒れるところに出くわしてたんだっけ。何かすげー耽美っちかったって訊いたんだけど、そこんとこどうよ」
 (……は?)甫民は思わず耳を疑った。(倒れた? 陛下が?)
 信じたくない事実に、思考回路が軋む。しかし、導き出される事実は一つしかなかった。その余りにも絶望的な事実。
 それを確かめる為に、甫民はすぐさま踵を返した。そしてふと突風に煽られながら、とにかく中央病院を目指す。
 (陛下!)
 甫民は大通りで、すぐにタクシーを捕まえて乗り込んだ。


 夕方のラジオニュースをカーラジオで聞いた飛竜は、まず自分の耳を疑った。
 アナウンサーの男性は、聞いていて苛々するほど興奮した様子で捲くし立てていた。『今日正午過ぎ、公安当局は連続テロ最有力容疑者のセ・カンメイを破壊活動法違反の容疑で拘束しました。容疑者は、平壌中央会議場で爆発物を仕掛けていたところを機動隊に逮捕された模様です。現在黙秘を続けている様子ですが、公安当局は引き続き取り調べを行う模様です。尚、逮捕されたセ・カンメイ容疑者は未成年ですが、我が放送局では事態を重く見て実名報道に踏み切っております』
 「な……」彼女がそんなことをしたと言うことが信じられないのではない、彼女が捕まったことが信じられなかった。彼女が――彼の師と同じ印を髪に閃かせた彼女が、そんな抜かりを行ったと言うことが悪い夢のようだった。
 不意にひどい眩暈を感じた。真っ直ぐに座っていることが出来なくなり、思わずシートに腕を突いてもう片方の掌で顔を押さえる。涼しい車内にいるのに、冷たい汗が背中を伝った。(もし、本当にあいつが捕まったとしたら――)
 ずきんと胸元の傷が疼いた気がした。彼自身が捕まったとき、行われた拷問の数々――あのときのことを思い出すだけで、焼け付くような傷の痛みが皮膚に骨に甦る。死ぬかと思った。死んだ方がましだと思った。いっそ死なせて欲しいと思った。けれど、自殺する気力すら奪われるほど、それは酷かった。
 もしも彼女が、自分と同じような拷問を受けることになったら。そう考えるだけで飛竜は息が詰まりそうだった。彼等が――多分、彼のときと同じ『旧過激派対策室』の連中が捜査を担当するのだろう――、あの残忍な連中が、せっかくの暴力を振るう機会に手加減をするはずがない。男の自分であってもひどく苦しかったのに、あの華奢な少女にはどれほどの苦難であろう。
 「……あいつは、女なのに」掠れた声で呟き、何度か飛竜は小さく咳き込んだ。
 いや、と彼は首を振る。もしかしたら情報錯乱の罠かもしれない。もしかしたら彼女は既に彼等の――王朝派の上層部に食い込んでいて、それゆえに彼等の混乱を狙った政府側が偽の情報を流したのかもしれない。何度かそう考えながら、彼は首を振る。
 それでもそれには無理があった。同じネタに使うなら、もっと適当な人物は沢山いる。似非の情報を流したところで、あの行動力の塊のような彼女がそれを知ったら、政府を嘲笑うような仕掛けを大量に放って自分の無事を知らしめるに違いない。
 飛竜はじっと目を閉じた。何度か苦しそうに咳き込んでいると、信号で車を止めた劉が振り向いた。「大丈夫ですか? 一度病院に戻って薬でも取って来ましょうか」
 「いや、いい」濁る呼吸で短く彼は言った。拍子に口の中に金臭い味が広がった。
 血の塊をシーツの端に吐き出すと、少し汗ばんだ額に張り付いた前髪もそのままに、飛竜は――竜血樹は首を振った。「Mr.リュー、このままどこかの放送局へ向かってくれ。出来るだけ煽るところがいい」
 ――本当は、彼女に自分の現在の姿を伝える為に考えていた。彼女に見せ、彼女に諦めさせる為に考えている作戦だった。
 それがそのまま応用出来ると言う皮肉。笑みすら出なかった。
 まじまじと竜血樹の紫紺の目を眺めた劉は、青信号に気付いて自分の淡い碧眼を翻した。「――はじめて名前を呼んでくれましたね」
 「……」
 無意識だったが、口に残る違和感でそれには何となく気付いていた。竜血樹は自分の口許に何となく手をやる。
 「でも、ちょっとその呼び名はどうかと思いますよ。――まあ、別に構いませんが」劉は仄かに笑って、アクセルを踏んだ。
 同時にフロントガラスをワイパーが滑る。突如、大粒の大雨が降り始めた。


 明り取りのはずの天窓から、風の唸り声と冷たい雨粒が落ちて来た。
 (……風はありがたいけど、雨は湿度が上がるわ……)僅かに首をもたげ、ぼんやりとベルは考えた。少し動こうとすると、両手首に激痛が走る。彼女は再びぐったりと下を向いた。
 目隠しをされて搬送されたここは、監獄のような場所だった。見えなかったので確証は持てないが、人気がほとんど感じられなかったことを考えると、恐らく閉鎖された収容所か何かの施設だろう。かつて半島中に造られた強制収容所であるが、近年民衆の生活区域が拡大されつつあることに伴い、閉鎖されることが多くなった。表向きは教育的・精神衛生的配慮とされているが、恐らくは収容された反体制派による情報漏洩を防ぐことが目的だろう。或いは、暴動の発生を憂慮したこともあるかもしれない。
 ベルは少し首を廻らせたが、高いところに天窓が一つ、正面に鉄格子のはまった厳重に鍵の掛けられたドアが一つあるだけで、他に外界と繋がるものは何もない。打ちっ放しの染みだらけのコンクリートに六面を囲まれた牢獄は意外と広かったが、湿度が高くて蒸し暑く、ひどく篭った臭いがした。
 部屋の隅の黒い汚れは、多分かつてここに閉じ込められた幾人もの排泄物の痕跡だろう。風呂もトイレも寝床すらもないここでは、不文律で定められた箇所がそれぞれの用途を果たしているらしい。部屋のほぼ中央には一組の机と椅子があったが、どうやらこれは囚人の為の物ではないようだ。恐らく、看守が使う為に設置されているのだろう。その証拠に、机の上には無造作に彼女の得物が広げられたままになっていた。その中には、無防備なことに彼女の愛用のマカロフまで混ざっている。
 もっともそれは、今やベルには全く関係がないことであった。
 ――今、彼女は一歩も動けないのだ。
 ドアの正面の壁の半ばには、杭が二メートルほどの間隔を置いて打ち込まれ、そこから二本の鎖が下がっていた。そしてその先にある手錠をベルは両手首にはめられていた。しかも、彼女の小さな手が擦り抜けないように、手錠の上から針金でぐるぐる巻きにして固定されていた。鬱血した指先は時折鎖を弄るが、既に感覚をなくしている。
 しかしそれ以上に辛いのが、手錠から吊るされた彼女の爪先がほとんど下に着いていないことだった。恐らくもっと大柄な人間を想定して設計されたのだろう、小柄なベルは床面まで足が届かなかったのだ。彼女をそこに繋いだ看守も兵士もそれには気付いていたが、にやにやと笑うばかりでそのまま彼女をぶら下げておいたのだった。
 幾ら小柄な体躯をしていても、自分の全体重が細い針金で繋がれた手首に掛かっていては、もはやそれだけで拷問だった。湿度の高さに汗が吹き出して、顎や腕や背中を伝う。それもまた、着実に彼女の体力を奪っていた。
 ふと重い音が正面から聞こえて、ベルは顔を上げた。三、四人の人間が一塊になって入って来ているのが見えた。汗と疲労でぼやける目を瞬かせていると、その中央に見知った顔がいるのが見て取れた。
 彼の顔を見るのは、これで三度目である。仕立てのよい細身のスーツと冷たい雰囲気を着込んだ、若い男だった。両脇を軍服の男達に囲まれたいかにも文官風の男は、薄い唇を歪めて微笑んでいた。
 「待たせたな」
 「誰も待ってなんかいないわ」掠れた声で鋭くベルは言い放った。その瞬間、乾いた音と同時に鋭い痛みが腕に走る。
 いつの間にか隣にもう一人、鞭のような物を構えた兵士が待機していたのだとベルが気付くのと、文官が口を開くのはほぼ同時だった。「お前に多くを尋ねるつもりはない。訊かれたことだけ答えていればそれでいい」
 何か言い返したかったが、それで鞭打たれるのも癪だったので、彼女は唇を結んだまま男を目一杯睨んだ。すっかり解れた髪の毛が顔に掛かって汗で貼り付いて、凄まじい表情だった。兵士達はたじろぎ、文官もまた感嘆したような声を上げた。「ほう、随分と威勢がいい。こんなことなら手心を加えることはなかったかな」
 「何が手心よ……」苦痛に顔を歪めつつ言い掛けたベルは、ふと思い出したように声を荒げた。「……、Mr.リューは!」
 再び鞭のしなる音と、肌が弾かれる音が響いた。言葉を途切らせて押し殺した声を上げるベルに、愉快そうに男は答える。「あれでもあいつは一応男だったからな。お前みたいなちびは、ともすればすぐにころころ死んでしまう。それではせっかく生け捕った意味がないだろう」
 そして彼は、机の上にことんと何か小さな物を置いた。それが自作の通信機だと気付いたベルは目を瞠る。
 「それ」
 「これの仕掛けを分析するのに苦労してね。よく出来た代物じゃないか。我が軍隊にも導入させたいものだ」男は笑いながら、小さな携帯電話のようなそれのキーを打ち始めた。
 思わず口を開けて操作に見入っていたベルは、悲鳴のような声を上げた。「……駄目っ!」
 「軍のGPSを使用するとは、思い切ったことをする。あれは我々官邸サイドですら解析出来ないからな。つくづく、呆れるほど出来のいい脳味噌だ。……ほう、仲間の一人はソウルなのか」
 「止めて!」叫ぶベルに横目をやりつつ、通信機を拾い上げた男はキーを押した。最大音量にまで上げられた呼び出し音が、コンクリートの牢獄に響く。「駄目、止めて!」
 不意に呼び出し音が止まった。一瞬遅れて、明朗な声が響く。『はい、こちらタイホア』
 文官風の男は、はっきりと見て取れるほどに笑った。ベルは掠れた声で叫ぶ。「駄目! 出ないで!」
 『……もしもし、ベル? あんたひとっつも連絡寄越さないで、何やってたの。捕まったなんてニュースでやってたから心配したじゃない』安堵の調子を滲ませながら、ソウルにいる大花は言った。
 ベルは離れた受話器に向かって懸命に叫ぶ。「駄目! 早く切って! お願いだから切って!」
 しかし、受話器の送話口を男の指で塞がれて、ベルの声は届かない。気付かないまま大花の声は続ける。『こっちは心配いらないわよ。あのね、いい味方を付けたのよ。だから南部への軍事進出は全部塞いだわ』
 「もう言わないで! 止めて!」半狂乱になってベルは叫ぶ。身体を乗り出そうとして、手錠の鎖がじゃらんと重い音を立てた。その反動で、冷たい壁に背中を強か打ち付ける。
 文官風の男はにやりと笑うと、通信機を自分の耳に当てた。そして電話で世間話をするようにのんびりと言う。「誰を味方に付けたんだい? ああ、もしかして軍部の誰かかな」
 ようやく大花は黙った。一瞬の沈黙を置いて、彼女の声は怪訝そうに言う。『……あんた、誰』
 「弓靂心(ユン・リーシン)、官邸の臨時筆頭書記官だ。以後お見知り置きを」
 次の瞬間、ぷつんと通信の絶える音がした。つー、つー、という無機質な音を呆然と聞きながら、ベルは唖然とした表情を浮かべていた。だが、すぐに涙混じりの声で叫ぶ。「人でなし!」
 「何とでも言えばいい」感情の篭らない声でそう言うと、弓はすぐさま指示を出した。「……ソウルに駐屯する軍の総司令権を官邸に移せ。緊急事態だ、書類は後で纏めよう」
 弓のすぐ背後にいた兵士が、敬礼をしながら言った。「お言葉ですが、現在ソウルには全秀漢大佐がお出でです。全権は大佐が握っておられます」
 「ならば奴を辞めさせろ。従わないなら処分しても構わない」露ほども躊躇う様子を見せず、彼は言い放った。さすがに顔色を変える兵士に、弓は冷たい目を注ぐ。「テロリストとの全面戦争だ。少しでも足並みを乱す者は、単なる邪魔者だ」
 単に暑いだけか、はたまた冷汗なのか、額に汗を伝わせながら敬礼した兵士は踵を反すとどこかへと走り去って行った。
 弓はそれを確かめもせず、ゆっくりとベルの方へと歩みを進めた。そして彼女の小さな顎を摘んで自分の方を向かせる。
 「施氏、お前はあの淫乱皇帝並に有効な囮になる。お前がここにいることを発表すれば、この拘置所の前が我々と反体制派の最後の決戦場になるだろう。それまで精々ゆっくりとくつろいでおけ」
 身を捩ることも適わないベルは、代わりに鋭く唾を吹いた。弓の頬にそれは見事に命中する。
 見るからに優秀な参謀の型の彼は、腕で頬を拭いながら無表情でベルを見下ろした。それから黙ってベルの隣に待機する兵士に向かって手を伸ばす。
 細い鞭を受け取った弓は大きく振り被ると、十文字にそれを振り下ろした。鋭く空気を裂く音を立て、縦に振り下ろされた鞭はベルの顔を、横に振り上げられたそれは彼女のキャミソールワンピースのストラップを引き裂く。髪を乱して顔を背けたベルの右眉の上に、深紅の血液が滲んだ。俯きつつ尚も睨もうとする上目遣いの瞳の上を鮮血が流れ落ちて行った。
 片方のストラップが千切れてしまったワンピースは、大きくはだけて彼女の胸元を露にした。その姿を見て、居合わせた兵士達は揶揄の口笛を吹く。それに気付いたベルは、少しだけ頬に朱を散らしたが、全く為す術がなかった。
 奥歯を噛み締めて痛みをやり過ごそうとするベルをちらりと見遣りつつ、弓は踵を反した。そして思い出したように呟く。「ああ、髪を切ればよかったな。あの稀代の悪女、海東青夫人とまるで同じ顔になる。テロリストもさぞや喜ぶだろう」
 「下衆野郎!」
 ベルの精一杯の叫び声は、重い金属音と共に閉ざされた扉に遮られて、多分届かなかった。
 吹き込む冷たい雨は、少しずつ勢いを増して行く。


 「……っ!」
 大花が力任せに床に投げ付けた通信機を拾い上げると、全大佐は黙ってそれを彼女に差し出した。だが、大花はそれを無下に振り払うと、椅子の上に足を屈めて腕を抱く。
 何度も首を振りながら、ようやく彼女は呟いた。「……何か、知らない男が出た」
 大佐は一瞬だけ目の奥を揺らしたが、すぐに何かに気付いたような表情を浮かべると、何も言わなかった。
 怒ったように大花は大佐の顔を振り仰ぐ。「ユン・リーシンだって。あいつの――ベルの通信機から掛けてきたの」
 唇を引き結んで、大佐は眉間の傷を引き攣らせた。
 ――テロリスト対策委員会の軍事総本部司令官であるはずの彼の元に、主犯と見られる少女の逮捕が伝えられたのは、それが昼のニュースで全国に伝えられた後だった。そして何一つ続報はもたらされず、彼自身少女がどの収容所で取調を受けているのかすらわからない状態であった。全ての情報を掌握し、左右している人物が誰なのかは考えるまでもない。
 ――最後まで黙っているつもりだった。彼等にも考えがあるのだろう、ならば自分も自分の為すべきことを見付けて行動するつもりだった。結果的にそれが国の為に民衆の為になるのなら、多少の屈辱くらい大した問題ではないと思っていた。しかし。
 彼は目の前で顔を歪める少女を見遣る。――彼女と、約束をしてしまったのだ。今はそれを破る訳にはいかない。
 そして多分、彼は――あの歳若い文官は、さっきの通信で全秀漢陸軍大佐その人にまで疑いを持っただろう。いや、元々邪魔に思っていたのだから、追放する絶好の好機と考えるに違いない。もはや彼の暴走は、留まるところを知らないのだ。
 時間がない。間もなく自分の胸を飾る勲章共々、全ての権限が剥奪される。守る為の――この国を、人々を、そして約束を守る為の全ての権限を。
 大佐は深く息を吐くと、疲れたように目を閉じた。目頭を何度か指先で押さえ、それから軽く首を振ると、ようやく重苦しい口を押し開けた。「――行くか」
 虚を突かれたような顔で、きょとんと少女は彼の顔を見上げた。軽く化粧をしているはずなのに、その表情は驚くほど幼い。
 こんな少女が、見るからに無力そうな小娘が、望んでいることとはそんなに大それたことなのだろうか。誰も口に出さないだけで、誰しもが望んでいることではないのだろうか。望むことすら忘れてしまうほど、根本的なことではないのだろうか。
 「……どこに……」
 「平壌へ戻る。その前に東海沿岸の海軍に知り合いがいるからそこに寄ろう。中途にはわたしの管轄の地域もある――わたしの一存でも、まだ兵力を動かせるはずだ」いつにない早口で語りながら、全大佐は机の上の書類を取るととんとんと取り纏める。それから手早く机の上を片付けると、その上に掌を置いた。
 訳がわからない、と言った顔でぼんやりと自分を見詰める大花の方に向き直り、彼は言った。
 「幾ら何でもこれは横行の度が過ぎる。国家存続の為に、官邸の一部官僚による独裁への武力鎮圧を試みる――もっとも、失敗する率の方が遥かに高いがな」
 「それって、謀叛って奴じゃないの? おじさんそんなことして大丈夫なの?」
 大花は椅子の上からゆっくりと下りると、何度も大きく瞬いた。「そ、そりゃそうしてくれたらあたしだってありがたいけど、でも……」
 「誤解するな」ぴしりと大佐は言い放つ。「国家に国民に対し誠実であろうとすれば、これしか方法がないのだ」
 軍人が存在する意味を忘れるな。
 軍人が銃を握る理由を忘れるな。
 ――殺す為ではない、生かす為に守る為に自分達は存在している。
 不意に大花が、苦笑するように表情を歪めて見せた。「おじさん、そんな風に笑うんだ。初めて見た」
 ふと、自分が笑った顔を思い出せないことに、大佐は苦笑して見せた。


 党営現代テレビの局の駐車場に入り、車寄せに黒い乗用車を劉が横付けにしたときには、既に日は完全に落ちていた。車の扉を開いた途端に強い風の塊が全身にぶつかって、風の中に混ざっていた雨粒が身体を濡らした。竜血樹の熱った身体には、それが心地よかった。
 車に少し酔ったのか眩暈がして立ち上がれなかった彼は、運転席から降りて来た劉に支えられて何とか地面に降り立つ。ひどく情けないと思った。血染めのシーツをどうしようか迷ったが、いつまた血を吐くかわからないので、一応肩から掛けたままにしておく。
 なかなか目を開けられずにいる竜血樹は、劉の肩に捕まったまま、自動ドアを潜った。そして何度も瞬きながら薄目を開ける。ひどく明るいロビーの奥に、受付のようなものが見えた。その手前には鮮やかなテレビ番組のポスターが大量に張り巡らされた掲示板と、待合室のようなソファが置かれている。案外すっきりとした、殺風景な場所だった。
 薄いブルーに塗られたロビーの壁の辺りにいた若い女が、彼等の姿を見付けて訝しげに近寄って来た。自動ドアが反応しなくなるところまで歩みを進めた劉は、そこでふと立ち止まる。
 「……何をするつもりなんですか?」
 「もうわかってるくせに」唇を曲げて竜血樹は笑った。
 それから前方に向き直ると、声を掛けようとした女の声を遮って言った。整わない呼吸の下の、小さな掠れた声のはずなのに、朗々とその声はよく響いた。「責任者を呼んでくれ」
 一瞬たじろぎながら、綺麗なベージュピンクのスーツを着た女は言った。「な、何なのあなた達」
 劉の手を払って竜血樹は女の前に対峙した。片方のシーツの端が下に落ちて、まだ乾ききっていない血痕が下に敷き詰められた絨毯を汚す。
 挑発するように目を細めた竜血樹は、微かに笑った。
 「総統陛下の愛人、劉飛竜。――そして、素乾国第三十三代天子、素乾竜血樹……と言えば通じるか?」
 騒ぎを聞き付けた何人かのラフな格好をした職員が、駆け付けて来た。彼等の姿を眺め渡し、満足げに彼は宣言する。「これから、お前達は俺の手に落ちる。いいな」
 思わず劉はサングラスを外して上着のポケットに仕舞う。それから、少し驚いたように竜血樹の横顔を見遣った。ほとんど不敵とも取れるほど動じない表情だった。余りにも整い過ぎて、どうにも作り物めいていると劉は何となく考えた。
 その瞬間、稲光と同時に凄まじい炸裂音が響き渡った。
 近くに落雷したのかもしれない。


 扉を出たところで全大佐と大花は、丁度鉢合わせするような形で繊月と遭遇した。
 びくりとする大花を背後にやりながら、大佐はこの少尉に怪訝そうな眼差しを向ける。「どうした」
 「全大佐、お逃げ下さい」
 彼女はあの淡々とした声音で言う。だが、その全身に妙な緊張感が漲っているのは対峙する二人にも感じられた。
 眉間に皺を深く刻みながら、大佐は詰問するような調子で尋ねる。「どうした。何があったのだ」
 「先程官邸からの指示が入りました。大佐がお持ちの総指令権を官邸に移せとの命令です。抵抗する場合は、処分も視野に入れているとのことです」
 余りにも早過ぎる官邸の対応に、思わず大佐は目を剥いた。それとも予め決めていたのか、いずれにしても最悪の状況には違いない。
 それ以上に激した大花は、彼の軍服の背中を握ったまま声を荒げる。「馬鹿なこと言わないでよ! 何、それであんたはその指示に従おうっての!?」
 「従うつもりならここには参りません」ちらりと背後に目をやった繊月の仕草が、時間のないことを示していた。「簡潔に申し上げます。全大佐直属の部下に、官邸の指示を聞き入れる者はおりません。若い兵士に至っては、官邸との武力衝突すら厭わない者も少なくありません――それはつまり、官邸から大佐ご自身の造反と判断される可能性を含んでいます」
 やけに静かな廊下が、嵐の前の静けさを思わせた。ぞくりと肩を震わせて、大花は大きな軍服を掴んだ掌に力を込める。
 「――その上、ここは平壌ではありません。大佐直属でない者の中には、官邸の指示を聞き入れた兵士もおります。ここは危険です、お逃げ下さい」天から糸で吊るされたように姿勢のよいこの女性兵は、隙のない身ごなしで左右を見渡した。
 不意に大佐が苦しそうに呟く。「……お前達は」
 ここで自分だけが逃げ出しては、自分に付こうと言う部下を見捨てることになる。迷い躊躇う彼に、不意に繊月は淡々とした涼しげな早口で応えた。「構いません。既に釜山の尹真一海軍中将、仁川の黄世宗空軍少将、平壌の潤思豊陸軍大将、それから元山の李永山海軍中将他の三軍諸閣下に連絡済です」
 大佐は思わずぎょっとした顔をした。その顔を何の感慨も持たないような表情で見詰めながら、繊月は静かに言う。「まさかお忘れではないでしょう――官僚はどうやら、我々軍人ほど人間関係にも恩義の関係にも敏感ではないご様子で」
 「誰?」おずおずと尋ねる大花に、簡潔に大佐は答える。「かつての部下や同僚だ――途中でわたしが降格されているので、全員今ではわたしの上官に当たるはずだが」
 「全員大佐に命を救われたことがあります。例え降格処分をされたところで、個人的な恩義は消えるものではありません。事実全員が協力を約束してくれました――それは信頼に足るものと、大佐が一番よくご存じでしょう」
 ――確かに彼は、行動を起こしたときには彼等にも協力を求めるつもりでいた。だが、それとこれとは話が違う。
 仮に失敗したとき、彼は自分が全て責任を負うつもりでいた。自分が昔上官だった頃の恩義を持ち出し、かつての部下を勝手に濫用したと言うつもりだった。そうすれば最悪でも、彼等の身は守られるはずだった。
 だがこれでは――彼等は、自主的に造反工作を動いたことになる。もはや軍事的叛乱行為は自分一人の責任では済まない。
 「それでは、連中までが全員逆賊の扱いに――」咎めるように口調を荒げた大佐を、繊月は大きな漆黒の片目で睨み据えた。
 「今更この国に忠義を捧げて何になります。そんな寝惚けたことを言うのは失礼ですが大佐、もはやこの国にはあなたしかおりません」
 ふと遠くから足音が聞こえた。はっと繊月が、腰に構えていた拳銃の安全装置を外した。
 彼の最後の迷いを振り切るように、背後の少女が彼の背中をばんと叩いた。「……また責任とか何だとかをぐちゃぐちゃ考えてるんでしょ! 大丈夫よ、案ずるより産むが安しって言うじゃない!」
 そして大花は、力尽くで大佐の首に齧り付くと無理矢理振り向かせて、その顔に噛み付くようにして怒鳴った。「失敗しなきゃ問題ないのよ!」
 不意に床を銃弾が弾ける音が響いた。背後の繊月が威嚇射撃に出たのだろう。同時にどよめきと足音と、「いたぞ」と叫ぶ声が廊下にこだまする。恐らく、程なくしてこの基地の中は官邸派と全秀漢派に別れた軍人達の戦場になる。
 ――それでも、もはや迷っている時間はなかった。彼は振り切るように背後の退路を確かめた。
 「お逃げ下さい、全大佐!」
 繊月の叫び声と同じ瞬間、大佐と大花二人の足音が駆け出した。


 しばらくして劉と竜血樹の二人は、会議室のようなところに通された。怯えたように逃げ去る案内役の若い男を見遣りつつ、待たされるのか、と思いながら扉を開くと、正面の席に人が座っているのが見て取れた。
 随分とラフな格好をした中年の細身の男性は、二人の姿を認めるなり、いきなり話題を切り出した。「あんたがあの総統を骨抜きにした娼夫か。噂には聞いていたが……」そして竜血樹の姿を上から下まで眺める。
 竜血樹はほんの僅かに眉をひそめた。「写真は回っていなかったのか?」
 「いや――さすがにあんたの写真くらいこの界隈に出回ってたさ。けれど全部水面下で揉み消されてたんでね。よもや本物を拝めるとは思っても見なかった」男は立ち上がると、二人の前に歩を運んだ。どうやら靴はスニーカーのようだ。
 小さく咳払いをすると、竜血樹は男性の行動を遮るように言った。「向こうでも伝えたが、これから俺に協力してもらいたい。言うことさえ聞き入れてもらえるなら、悪いようにはしない」
 「ふうん、確かに本物だな。とんだ高飛車なあばずれだ」男は僅かに笑った。口許に残した短い髭を擦りながら、彼は竜血樹の目の前に立つ。「だがね、こっちもお妾様のわがままに逐一付き合うほど暇じゃないんだよ。そこいら辺の事情はわかるかな?」
 劉はちらりと男に目をやり、それから竜血樹の方を見た。相変わらずひどい顔色だったが、その表情には余裕があった。「――もうじき革命が起こる。そんなこともわかっていないなら、報道の仕事は止めた方がいい」
 そして鼻白む男に向かってゆっくりと言った。「何も犯罪の片棒を担げと言う訳じゃない。やばい部分はこちらが全面的に請け負う。お前達はただ、何も知らないふりをして放送を続けていれば構わな……」
 ふと言葉を詰まらせて、彼は軽く咳き込んだ。胸の辺りが痛むらしく、ひどく表情を歪める。
 それを見た男が手を伸ばそうとしたが、竜血樹はその手を擦り抜けた。「……触るな」
 「怪我した猫みたいな奴だな。別に取って喰いやしないよ」
 持て余した腕を組みながら、男は眉間に皺を寄せる。「詳しい話を言ってみろ。事と次第によったら、全面的にバックアップしてやろうじゃないか。これでも、この局の中で俺の意見が通らないことなんてないんだ」
 竜血樹は睨んだが、男は軽く肩を竦めただけだった。どうやらどこかでほだされる部分があったらしい。
 「それでは駄目だ」竜血樹は素気無く言う。軽く肩をすくめる男の顔を上目遣いに見上げながら、彼は不意に鋭い眼差しを閃かせた。「――これから、この放送局は俺にジャックされるんだ」
 幾らか予想していたこととは言え、思わず劉は目を瞠って竜血樹の姿を見た。髭とスニーカーがやたらと似合う中年男は、劉以上に唖然とした表情で竜血樹の綺麗な顔に見入っている。
 どこまで自分の美貌を自覚しているものか、艶然とした紫紺の目を周囲に巡らせながら竜血樹は言った。「明日の朝から、この国の八割のテレビがこの局を映すだろう。官邸付きの売男で、しかも要職各位に悪性ウイルスをばら撒いた諸悪の根源が、実はテロリストの旗印で、テレビ局に局員全員を人質に立て篭もった。――どうだ、これ以上のスキャンダルが世界のどこにある」
 呆然と彼の顔に見入っていた男は、何度か瞬くと、ようやく言った。
 「……馬鹿言え。そんな面白そうなこと、お前だけに任せられるか。一枚噛ませろ」


 ――全秀漢謀叛。
 その報せに、開城派遣の宗二等兵は呆然と佇んだ。
 (……だって、さっきまで――)
 つい先程まで、自分達はテロリスト鎮圧の為に彼の命令系統に置かれていたはずである。彼から直接繰り出される指示に従って道路を塞ぎ、警備網を布いていた。結局平壌で主犯の少女を捕らえたのは官邸の人間だったという話だが、そこまで犯人を追い込んだのも、ここまでに死傷者をほとんど出さずに済んだのも、全大佐ないし彼の指示に従った自分達の手柄だと思っている。ただ大佐が自分の手柄をひけらかす人柄ではなく、それを脇から持って行かれたと言うのが真相だと宗は信じて疑っていない。
 ふと彼は、目の前の掲示板に大きく貼り出された辞令を見て首を振った。(――違う、あの人はもう『大佐』じゃない)
 反旗を翻さん為に逃走した全秀漢は、すぐさま大佐位を剥奪され、軍籍を抜かれた。ほんの半日前まで国家の為に尽力し続け、数々の武勲を立てた宗の尊敬してやまない英雄は、今や国家に追われる犯罪者に成り果てているのだ。その余りの転変の経緯が、宗には全く理解出来なかった。
 ――宗だけではない。取り敢えず彼の見る限り、この開城での兵士の動揺は激しかった。何しろテロの主犯施寛美の出身地であり、今回の動乱の発生源でもあったここは、テロ対策のエキスパートである全秀漢の指示がどこよりも活発に飛び交っていた。従って彼への忠誠心をどこよりも強く求められていたし、事実彼への信頼がどこよりも厚い地域であった。
 基地内放送で全秀漢の謀叛と彼の大佐位剥奪が伝えられたものの、その真偽を確かめん為に命令・辞令が貼り出される掲示板の前にこんなにも大勢の兵士が集まったことが、何よりその関心の高さを裏付けていた。普段は誰も足を止めない廊下脇の掲示板に、今はびっしりと人が群がって通行を妨げている。
 「『全秀漢に加担する者は、その理由如何に問わず、国家への反逆者として同様の罪状を与えるものとする』……」ふと誰かが辞令に書かれた文面を音読した。掲示板の前をぎっしりと埋め尽くした兵士達が、口々に困惑の呟きを洩らす。
 不意に尉官の帽子に押されて目の前を塞がれた宗二等兵は、ぎりと唇を噛んだ。そして悔し紛れに声高に不平を洩らす。「……全大佐に加担するのが反逆なんだったら、俺達全員罪人じゃないか」
 数人の若い研修兵が彼の方を振り向いた。それを無視して、更に宗は声を張り上げる。「だって俺達、今も全大佐の命令で検問掛けたり厳戒態勢布いてるじゃないか。それも全部駄目ってことじゃないのか?」
 一瞬沈黙が周囲を支配したが、やがて小さな声がどこからともなく上がり始める。
 「……言われてみれば、そうだよな」
 「時期が時期だし、確かにちょっとやばいかも」
 「官邸も混乱してるし、何言い掛かりつけられるかわかんねえもんな」あちこちでぼそぼそと声が上がる。
 若い下級の兵士の間からその声は大きくなり、初めは困惑していた将校達の間にも似た色合いの表情が強くなる。
 そして彼等はじわじわと、二派に別れ始めた。
 「だったら、全大佐から今まで出た命令は全部無視しなきゃいけないってことだよな」
 「それじゃ仕事なくなっちまうぜ。テロリストが来たらどうするんだ」
 「知るか。自分の首の方が大事だ」――つまり、片方はボイコットをする者。
 ふと、大きな声が場の空気を切り裂く。「俺は全大佐につく」
 「俺もだ。お前達、大佐が来ても動くんじゃねえぞ!」
 「警戒網張ったら、謀叛なんだからな! テロリストに何されても、黙ってるんだぜ!」
 ――もう片方はつまり、全秀漢につく者である。


 薄ら明るくなり始めた街並みの、車のライトやネオンサインを見下ろしながら、バーグナーは受話器を置いた。
 「編集長?」
 振り向くと、巻き毛で童顔の女性記者が訝しげに小首を傾げて彼を見上げていた。もう連日ろくに寝ていない彼女は、腫れぼったい目でバーグナーの表情をまじまじと眺めていたが、不意に表情を曇らせた。「……まさか……」
 「Ms.パーマン、それはまだ記者の本分ではない」珍しく突っ撥ねるような調子で言い放つと、彼はオフィスの中にまだ残っている記者達に向かって呼び掛けた。「どうやら増刊号は思ったより早く発行することになりそうだ。全員、通常号の編集を後回しにしてでも、至急特集用の記事の用意をしなさい。――もしかしたら、どこよりも早くスクープを素っ破抜けるかもしれない」
 どこか沈鬱そうな面持ちの編集長に対し、不眠不休で原稿を纏めて行く記者や編集者達は、俄然士気が高かった。恐らく世界のどこよりも先に、この取って置きの特ダネを嗅ぎ付けているという自信を誰もが持っているのだ。その根拠は、多くの部分を編集長バーグナーの憶測と勘に頼っているが、それが非常に信頼出来るものであると言うことはここにいる連中が一番良く知っている。
 突如、編集長席の電話のベルが鳴り響いた。一瞬肩を震わせた後、バーグナーはそれを取る。がりがりと記事を切り貼りしてゆく記者達の間に混ざって、クレアは不安そうにその姿を盗み見た。
 何人かの記者が寄って集って一台のコンピューターに齧り付き、新しく入れたばかりのシミュレーションソフトを弄くっていた。
 「――って訳だから、まあ民衆の暴動は避けられないだろう。そこに大佐クラスの軍人が謀叛を起こせば、体制の崩壊は確実だ。問題は戦争が先かクーデターが先か、だな」その輪の中にちょっとだけ顔を突っ込んだものの、クレアはやはりバーグナーの方に顔を向ける。
 何か低い声で呟いたバーグナーは、軽く頷き受話器を置いた。そして深く息を吐くと、背筋を張ってオフィス全体に向かって再び声を張り上げた。何かを振り切るような、毅然とした声音だった。「――月刊ソフィアグラフィー増刊号の発行は三日後だ、それ以上遅くなると出遅れる。いいな!」
 「印刷所への確認取れました! 大丈夫です!」別の受話器を握っていた編集者が、負けじと声を張り上げた。
 それに触発されるように、一気にオフィスの中が活気付く。「画像も確保しました! 地図と市街写真手配完了です!」
 「亡命者への取材依頼も手配出来ました! 今からインタビューに行って来ます!」
 「歴史事項の裏付けも取りました。下準備は揃いました!」
 クレアはふと、自分の机の上に置きっぱなしの『東洋異聞』に目を落とした。自分用に文庫で出ているのを購入したので、バーグナーに返そうと思ったものの、取り込んでいて後回しにしてしまっていた物だった。
 少し逡巡したが、彼女はそれを取ると編集長席に足を向けた。そして眉間を寄せて目頭に指先を当てる編集長に、おずおずと声を掛ける。「あの……」
 「真珠湾に駐留していた空母が、出港した」
 不意にぽつりとバーグナーは呟いた。びくりとクレアは身を強張らせる。
 外務省に電子メールで送信されてきた全韓共和国からの『宣戦布告』に対し、事態を重く見た省庁は、真意を尋ねる旨の返信を行った。しかしそれに対する返答は、一度目と全く同じ文面であった。そこで秘密裏に大統領府で閣議を行った後、今度は「もしもそちらが本気ならば、我々もまた武力を持ってあなた達に相対する」との強気な旨の返答を送ることにした。しかしそれに対しても、「来るなら来い」と言った喧嘩腰の返答がもたらされるだけであった。
 他の通信手段が一切遮断されている国である。顔すら見えず、声も聞くことの適わないメールでの連絡には慎重に慎重が重ねられた。こんな不確かで不安なものに国家の命運を掛けてもよいものか、との意見も出たらしいが、そもそも出方の全く読めない国が相手なのだ。『宣戦布告』を黙殺することの方が不安だと言う声が高く、即急な対応も求められると言うことで、両国の命運を掛けた電子メールはやり取りされることになった。
 そして、最後通牒が突きつけられることが決定した。「『宣戦布告』を撤退しなければ、こちらからも軍事的対応を取らせてもらう」との余りに不穏な内容の電子メールは送信され――それは受信されたにも関わらず、黙殺された。
 あの国からの言葉を本気だと思っていなかった官僚が大半を占めるはずだった。しかし、ここまで来たら引き返せなかった。
 ――そして、それまで誰も歯牙にも掛けようとしなかったはずの小国に対し、このアメリカの銃口は向けられることになった。誰も実態が掴めない状態のまま、国際法上アメリカはあの国と戦争を始めたことになってしまったのだ。しかも、多くの国民には秘密裏の内に。
 バーグナーは軽く首を振り、重苦しい声を落とす。「やがて、このニュースは正式に発表される」
 そして誰も気に留めなかったはずの国が、突然敵国と呼ばれるものになる。人々の興味はそこに向けられ――バーグナー達の編集する特集雑誌が読まれるようになるはずだ。
 「どうして、突然こんなことになったんでしょう」事の重大さを、多分オフィスの誰よりも先に知ったクレアは、唇を曲げて呟いた。
 そっと苦笑するように表情を歪め、バーグナーは妙に明るい声を上げた。「わたしにもわからないよ。多分、誰もわかってないさ」
 だから雑誌が売れるんだ、と自嘲するように彼は声を落とした。


 平壌から狼林山脈を挟んで丁度東側の東海沿岸に、国内最大の軍港を抱える元山という都市がある。
 むしろ、基地と港以外に何もないと言った風情のこの街では、現在海軍所属の軍人達が走り回っていた。
 元々ここは首都平壌から東海側では最も近い港でもあり、かつての世界大戦時に対日戦線を築く上で非常に重要な軍事上の要所だった。今でもしばしば大和の動向を探るのに巡視船を繰り出すが、その主な拠点もここ元山である。更に剣呑なところでは、対外ミサイルの基地も実はこの地に設置されている――もっともこれは、威嚇としての意味の方が濃厚なのではあるが。
 この巨大な軍事都市の頂点に立っているのが、海軍中将李永山であった。どちらかと言えば一見叩き上げ風の巨躯と丸めた頭の持ち主の彼を、人は親しみと畏怖を込めて影で「海坊主」と呼んでいる。確かに容貌はいかにもそれらしかったが、過去の彼の戦果もまたその通り名に相応しい化け物じみたものであった――問題は、普段の彼がその体躯と経歴に似合わず、威厳といった類のものをさっぱり感じさせない人柄だというところだけだろうか。
 ともあれ、無線担当の主任技師と情報部の青年将校とがそんな彼の居室に飛び込んで来たのはほぼ同時だった。
 「李閣下、失礼致します! 大変なことが……」
 「何だい君達、仲がいいね。今綺麗にハモってたよ」珍しくデスクに着いている李中将は、いかにも何も考えていないといった笑顔を二人に向けた。その手に摘まれている小さな潜水艇と輸送船の模型は、どうやら戦略を考える為に用いられている訳ではなさそうだ。無線技師と情報兵は、それを見るや否や揃って脱力する。
 恨めしげに自分に向けられる視線を交わしながら、元山の総司令官は手の中の船舶模型をこつんとぶつけて見せた。「緊急事態だとかで無理矢理司令官室に押し込められたはいいけど、何もすることがないんだからね。あああつまらないー……」
 「閣下……」李中将の二人の部下は、怒りすら滲んだ表情で彼等の上司をねめつけた。
 何も窮屈な思いをしているのは彼だけではない。連続するテロの首謀者と目される人物が突然逮捕された為に、半島中にネットワークを持つテロ集団の報復を警戒し、現在は中央から全国の基地に対し厳戒命令が下されていた。もっとも、実際はこの数日の平壌と開城を中心とした各地の連続テロへの対策として、軍部の人間はずっと所属基地内に詰めっぱなしの状態だったのであるが。
 従って、将校の中では際立って不真面目ということで有名な李中将はともかくとしても、多くの兵士達もまた言い知れぬ疲労を感じているのは事実だった。テロ対策委員会の全秀漢司令官の謀叛によって指揮権が官邸の文官に移った為、情報が錯綜し意味のない右往左往を強いられていることが、何より現場の人間にとってはきついところだった。現場を理解していない官邸の指示など、はじめから無視している兵士も実際のところは少なくはない。
 「……閣下、それではお喜び下さい、することが出来ました」
 李中将との付き合いが比較的長い無線技師は、無責任な上官への憤りと疲労から皮肉に捻れた口調で切り出した。ようやく李中将はこちらの方に面倒臭そうに目を向ける。まるで不当な仕事を押し付けられて拗ねた子供のような顔だった。
 「何だい、平壌が云々と言うのはもう聞かないからね。第一、今のところ揉めてるのは全部西沿岸じゃないか。ちょっとくらいこっちにも見せ場を用意してくれたらいいのに」
 「閣下!」不穏極まりない台詞をさり気なく吐き捨てた中将に、技師と将校は再び同時に声を荒げた。
 軽く肩を竦め、李中将は渋々と言った仕草で船舶模型を机の上に置く。その際、両艦を今にも撃ち合いが再開できそうな臨戦態勢に配置することを忘れる彼ではない。
 「……まあいいや、年功序列で年上から報告どうぞー。楽しい報告を期待してるよ」
 椅子にどっかと腰掛け直す中将を前に、既に気を取り直していた無線技師は、手元の書類を広げながら言った。「……楽しくはありません。アメリカ海軍の戦艦が、東海沖二百キロのところまで接近して来ているのです。何でも、我が国からの宣戦布告への対抗手段だと向こうは言っているのですが……」
 ぬっと李中将は身を乗り出した。「何、宣戦布告う? 弓の字ってばそんな面白そうなこと、俺に黙ってやってたの?」
 「そんなはずないでしょう」どちらかと言えば技術者肌の、取り繕うことを苦手とする男は、頭をがりがりと引っ掻きながら続ける。「もっとも、現在平壌では施寛美逮捕及び予想される大規模な暴動の抑止で、真偽の確認どころではないのですが。肝心なのは、彼等がこれから向かって来るのがこの元山だと言うことです」
 「へええ、ここに来るんだ。黒船かあ」ことの重大さを全く弁えていないような笑顔で、彼は手を叩いた。「いいねいいね、しっかりおもてなししてあげないと」
 それがいわゆる軍事的な「おもてなし」なのか、はたまた単純に言葉通りなのか、部下二人は意味を捉えかねて困惑する。
 そんな彼等を尻目に、不意に大袈裟な仕草で立ち上がった李中将は頭を抱えた。「あああっ、駄目だ! 俺、英語話せない英語話せない英語話せないーっ!」
 ふと技師と情報兵も顔を見合わせた。そもそも鎖国しているこの国には、面目上も実質的にも外国語を流暢に話せる人間がほとんどいない。ましてや防衛専門の基地に専属の通訳など駐在している訳がない。無線通信については万国共通のものを用いているので不自由はないが、まさか無線記号の筆談で会談を行う訳には行かないだろう。
 「……ちゅ、中央に至急通訳の派遣を要請しましょうか」青年将校は今にも扉に手を掛けそうな状態だったが、それを技師が引き止める。「いや、今は平壌には繋がりません。弓書記官が施寛美逮捕に出向いてしまっているので、官邸がほとんど麻痺しています」
 「ああもう弓の字ってば、責任感が強いんだか皆無なんだか。若気の至りって嫌だねえ」
 刈り上げた頭を無造作に掻き毟りながら、李中将は思い出したように情報部将校に声を掛けた。「そう言えば、君は何の用事だったんだい?」
 一瞬きょとんとした顔をした若い兵士は、意味もなく大きな声を上げた。「い、いえ、これに比べたら全然大したことないんですけど!」
 李中将は、肩の辺りまで袖を捲り上げた太い腕を組む。「面白かったら俺的に問題なし」
 「閣下! アメリカは戦争を仕掛けるつもりなんですよ! 今更エンターテイメントを追求しないで下さい!」
 技師の空しい叫び声を無視して、李は青年将校に掌を振って話を促した。年上の技師に遠慮するような眼差しを一瞬ちらりと向けた将校は、おずおずと重い口を開く。
 「……は、反逆の罪に問われている、全秀漢が……どうやらこちら元山に向かっているとの報告が……」
 「何ぃ、スハンくんが遊びに来るの!?」がたんと立ち上がった拍子に、重そうな革張りの司令官席が低い音を立ててずれた。しかしそれを気にも留めず、李中将は嬉々としながら手を打った。「処刑命令が出ちゃって心配してたんだよ。何だいスハンくんってば水臭いなあ。やっぱり最後に頼られてこその親友だよね」
 『遊びに』と言う不穏な一言を聞かなかったことにして、若い将校は作業服姿の技師にぼそぼそと尋ねる。「……い、一体?」「閣下と、全大佐――じゃないな、左官を剥奪されたんだっけ――は古いお知り合いだと伺っているが……」
 朗らかな大声が二人の頭上から降り注いだ。「学生時代からの大の親友なんだよ! ううわあぁ久々だなあ、何して遊ぼうかなあ」
 噂ではあるが全秀漢の厳格さを聞き知っていた若い将校は、目の前の司令官とその噂の人物との付き合いが想像出来ずしばし呆然とする。そんな彼を尻目に、李中将はその巨躯で司令官席のデスクを飛び越えた。
 先に気を取り直した技師が、慌ててその背後に喰らいつく。「な、何をなさるおつもりですか!?」
 「決まってるじゃないか、迎えに行くんだよ。無二の親友が尋ねて来るんだからね」いっそ爽快なほど無心な笑顔で、李中将は言い放った。「一個中隊こっちに回してよ。久々なんだから華々しく出迎えてあげなくちゃ」
 くどいようだが、既にアメリカの戦艦は東海沖二百キロメートルの地点にある。


 金医師は、足早に廊下を下って行った。途中で擦れ違った看護婦が「表の風は凄いですよ」と言ったが、それにはほとんど耳を貸さず、白衣のポケットに手を突っ込んだまま彼は足を運んだ。
 サンダルを突っ掛けて全力疾走をする若い医師等を横目で眺めつつ、エレベーターに乗って一階まで降りた彼は、外の様子をちらりと眺める。玄関の自動ドアや非常口のガラス戸に叩き付ける大粒の雫が滝のように流れ落ち、その向こうを大きなベニヤを抱えて右往左往する事務員が何人も見えた。
 外へと繋がる自動ドアのスイッチは既に切られていたので、手動で押し開けながら金は外へ出た。次の瞬間には見事にずぶ濡れになって、眼鏡も用をなさなくなったので、胸ポケットにそれを仕舞いこみながら彼はその辺の用務員に声を掛ける。「手伝うよ」
 怪訝そうに目を向けた用務員は、慌てたように言う。「あ、いや、いいです。先生はそれどころじゃないでしょう。総統陛下とかので大変なんだと聞きましたよ」
 もうこの辺りまではあのウイルスの情報が洩れているのか、と考えながら、金は取り敢えず笑ってみせる。「いやー、俺の受け持ちの患者どっか行っちゃったみたいで、手持ち無沙汰なんだよ」
 それから、と一応念の為に彼は尋ねる。「劉公主見なかった? 何か一緒に失踪しちゃったみたいでさあ。騒ぎが一段落したときにバレたら、俺が殺されそうだし」
 老いた用務員に思い当たる節はないようだった。彼の驚いたように瞠目する表情を眺めながら、金は別の思索の筋を辿る。
 ――国家要職内で悪性の致死ウイルス大流行。
 この国始まって以来の異例の事態に病院内は完全に浮き足立っていた。まだ死者は出ていないが、それも時間の問題である。ワクチン開発や特効薬の研究も開始されたらしいが、少なくとも金の目算では到底間に合うはずがなかった。元より兵器として開発されたウイルスである、そう簡単に克服されては意味がないのだ。
 そしてその騒ぎのどさくさに紛れて、二人の男が姿を消した。一人は今回の大流行の直接感染源であった男妾の少年、そしてもう一人はそのウイルスの開発者――何事も起こらない方があり得ない。
 (劉公主は医者じゃない。科学者だ)金は嫌な予感に狩られる。
 劉は、金のように医師としての考え方、使命が骨の髄まで染み込んではいない。技術はともかく、ほんの半年前に病院に転属になった劉は、まだ感情面において医師にはなり切っていない――あくまで、自分の研究が優先されるべきだと主張する一研究者なのだ。
 そして学者の暴走は、しばしば恐ろしいハザードを引き起こす。特に、自信作を否定された――例えば、自らの開発した生体兵器を使用不可と判定された劉のような――科学者は、ときに倫理的には到底信じられないことに手を染める。
 幸い、まだ二人の失踪は周囲の大きな騒ぎに掻き消されて目立ってはいない。今の内に何とかしなければならない、と金は考えた。あの二人の共通項であるウイルスの恐ろしさと――大半の人間はあの美貌に目が眩んで気付かない、刃物のような氷点下の情熱に、偶然にしても気付いてしまった者の使命のようなものだと彼は思う。
 二枚重ねのベニヤ板に釘を打ち付けながら、金は考えた。(――劉公主が主導権を握っているなら、どこかで絶対に足跡を残す。そして、それに気付かなかった人を嘲笑うんだろう)
 瀕死の病人がまさかあの劉をさらったなんてことは考えられないので、恐らくはこうだろうと金は考えていた。さもなければ、どこかで利害の一致した二人が手を組んだかである。いずれにしても、劉の優位は揺るがない。ならばまだ金にもどうにかする術があるかもしれない。
 「……の」
 ふと風の間に人の声を聞いた気がして、金は顔を上げた。振り向くと、そこに濡れそぼって息を切らせた老爺が立っていた。白い長い髭が重く下がって、雫を垂らしている。
 「あの、お尋ねしたいことが……」そこまで言って、彼は咽る。よほど急いでいたのだろう。
 老人の背中に手を回しながら、金は幾らか風雨を遮るピロティーの内側に入った。「大丈夫か? ああ、もしかして入院者の確認だろう」濡れそぼった小さな老人は頷く。「じゅ、十七歳の少年なんですが……亜麻色の長い髪の。お心当たりはありませんか?」
 思わず金は手を止めた。何てタイムリーなんだろうと内心で呆れる。「……あいつが、どうしたって?」
 「やはりここに入院しておられましたか――」
 意外なことに、老人は少し落胆したように見えた。それから切羽詰った様子で彼は、金の白衣を掴む。「申し訳ありません、ごく内密に、あの方とお引き合わせ願えませんでしょうか。一目でよいのです」
 老人の表情を確かめようと金は眼鏡を取り出して掛けた。だが、水滴に像が滲んで、やはりよく見えないことに変わりはなかった。「……あんた、あいつの何なんだ?」
 一瞬躊躇ったが、ふと表情を引き締めた老人はよどみなく言った。「あの方を十七年間お育て申し上げた者です」
 風の勢いは、益々増して行くばかりだった。


 心とは裏腹に、ひどく足が軽かった。
 あの砂漠を歩ききったのだ、疲れていないはずはないのだが、それでも何故だか歩くことは苦痛ではなかった。むしろどこまでもいつまでも歩いていたいような、そんな気分に駆られていた。
 ふと瞬きをした拍子に、懐かしい面影が過ぎった。あの愛しい彼よりもずっと古い記憶、もうほとんど忘れかかっていたはずの、遠い遠い面影。
 (――おとうさま、おかあさま)
 一人娘をこの上なく大切にしてくれていた、両親の面影だった。その霞む姿に少しでも近寄ろうと、彼女は歩みを進める。
 古い記憶の中にしか残っていないはずの情景が、鮮やかに目の前に浮かぶようだった。
 中華との国境の北の土地、新義州。山と海とに挟まれた細い小さな平地は、決して恵まれた環境ではないが、それでも相応の恵みを自然は与えてくれていた。細く形のよい針葉樹がそこかしこで林を作り、小鳥や動物が群れ集って寒さを凌ぎ、時折人里に姿を見せる。ヤールー川の流れ込む穏やかな入海は、波を荒げることもなく穏やかに幸を恵んでくれる。そして一年の三分の一を雪で覆われる小高い丘の上に、彼女の生家はあった。
 かつて地主であった生家は、彼女が生まれた頃には既に土地も家屋も国に取り上げられてはいたが、経済的に困窮するほどの迫害までは受けていなかった。優しい両親と、温かい土地の人達に包まれて、彼女は幸せな女性に育つはずだった。
 彼女は軽く首を振る。(そんなもの、もう関係がないわ)
 失ったものを嘆くより、未来を向いて生きるしかない。そう信じて彼女は、裸足で逃げ延びた。そしてあの少年と出会った。
 (――あなたの言ったことは、全て正しいと、そう思ってたの)
 あなたの――あのとき、あの少年に咄嗟に与えてしまった名前の持ち主であった男の、その声が耳の奥に甦る。
 (ハファ、その歌は――)
 夏火、それは遥か昔に失われた彼女の名前。
 永遠に失われたはずの、彼女の名前。

  夏が来たら 河の水は流れ始める
  だから私はこの夏も 険しい峠を見上げながら
  小さな船を一艘繰って 河を下って行きましょう
  そして夏のように強いあなたに 逢いに行きましょう

 ぼんやりと過去を見詰めながら、彼女は静かに草の間に足を踏み込んでゆく。


 それは、前代未聞のジャック事件だった。
 犯人は銃も刃物も持たずに、文字通り身一つでやって来た。そして高らかにこのテレビ・ラジオ情報局を占拠することを宣言したのである。
 もっともそれだけならばただの気狂いが闖入したと言うだけの話であろう。過去に例がないことではない。事実、年間に何人かはそんな丸腰の馬鹿がやって来るものである。局員も慣れたもので、あっさりと摘み出してしまう。
 しかし今回の犯人は、考えようによっては最も恐ろしい武器を携えていた。その兵器の存在は既に多くの報道関係者の知るところであったにも関わらず、緘口令がきつく布かれ、口さがない彼等ですら皆沈黙を保っていた。――武器の名は、官邸内部を恐慌状態に陥れた恐怖の致死ウイルスJ-815。そのキャリアが、自ら犯行に挑んだのであった。
 既に局内は完全に浮き足立っていた。新任ADの朴もまた、先輩やプロデューサーの命令で調整に走り回っていた。何しろこれは未曾有の出来事なのだ。誰も正しい手順を知っている訳ではない。訳がわからないなりに、彼女もまた最善を尽くしているつもりだった。
 ふと大量の照明機材をメインスタジオから運び出していた彼女は、ロビーに目を向けた。さっきからずっと、主犯の少年はロビーの隅のソファに座り込んでいるのである。共犯の男の方は、ずっと局のあちこちに出没してはスタッフを驚かせているので、それと比べると非常に対照的だった。
 ずっと包まっている白いシーツに点々と赤黒い染みが散っていることから、恐らく少年の方がウイルスのキャリアなのだろうと誰もが見当を付けていた。無論わざわざ近付こうとする命知らずはいなかったし、彼もまたじっと距離を保っていた。
 と、すぐに自分の仕事の本分を思い出した朴は、急いで機材庫の前まで荷物を運んだ。両手が塞がっているので一先ず下に荷物を置いて、と考えていたら唐突に目の前の扉が開く。どうやら中にいた誰かが出て来るところだったらしい。
 「あ、すみませ……」言い掛けて思わず朴は目を瞠った。銀髪白皙の美貌とすらりとした長身の持ち主が、扉を押さえていたのである。唖然と口を開ける朴に、彼は碧眼を細めて微笑んだ。「重そうですね、お手伝いしましょうか?」
 「あ……い、いいいえけけ結構です……」かちかちになりながら返事をする彼女からひょいと機材を受け取ると、黒い服を纏った彼は身を翻して中に向かって言った。「あの、これはどこへ運べばよいのでしょうか?」
 「ああ、そりゃあ……お、ケナリ何やってんだ?」
 内輪でしか呼ばれないあだ名を耳にして何度も瞬くと、朴は倉庫の中を覗き込んだ。そこにはひどく見慣れた人物が暢気に手を振っている。年甲斐もなくラフな格好をした壮年の男は、総合ディレクターの李だった。
 「李さんこそ何やってんですか!? しかもこんなところで二人っきりで……」犯人と、と言いかけてさすがに朴は言葉を飲み込んだ。幾ら事実にしても、本人を前にして犯人呼ばわりするのはさすがに抵抗がある。
 銀髪の男に機材の位置を指定しながら、ディレクターは笑った。「あーいや別にやましいこと考えてた訳じゃないからな。幾ら綺麗でも、劉さんはれっきとした妻子持ちの殿方だ」「危機的状況の中で芽生えた恋愛は長続きしませんしね」劉とか呼ばれた男もまたのんびりと茶々を入れる。この人達に危機感なんてものはないのか、と朴は密かに眩暈を覚えた。
 どうやら二人は照明の相談をしていたらしい。朴が来たことで中断された会話を再開する。
 「それでは、照明はホリとシーリングを使わないんですか?」
 「おう、その方が切羽詰ってるっぽいだろ。あー、電波ジャックの演出なんて初めてだよ、何かわくわくするな」
 劉も身を乗り出しているし、李に至っては武者震いまでしているようだ。
 (この人達楽しんでる。絶対面白がってる)仄かに怒りすら覚えつつ、朴は倉庫を出ることにした。いつまでもこの緊張感のない人達に付き合って、時間を潰す訳には行かない。
 彼女が倉庫を出ようと扉に手を掛けたとき、不意に劉が口を開いた。「ところで、ロンは――僕の相方は何をしていますか?」「さあ、ずっとロビーの隅っこにいるみたいですけど?」つんけんとしながら朴は答える。
 振り向くと、少しだけ苦笑しながら劉は付け加えた。「彼、発症しているものですから、多分伝染さないように気を使ってるつもりなんだと思います。ウイルス自体は空気に非常に弱いので、普通にしていたら周囲に感染することはまずないのですが。ああ、もしも傍を通り掛かることがあったら、今は無理しないで休んでおくようにと伝えて頂けますか?」責任感は人一倍強いので、きっとどんなに気分が悪くても休もうとしないはずですから、と劉は結んだ。何となく頷きながら、朴は倉庫部屋を出た。
 気が付くと、朴はロビーの方へと向かっていた。我に帰った彼女は慌てて踵を反したが、何となく再びロビーの方へと向き直る。そして惹き付けられるように、ソファに身体を預けている人物へと近寄って行った。
 (……)
 淡い亜麻色の髪を広げた肩越しに、犯人である少年の横顔が仄見えた。
 表情自体は翳りを帯びているが、耳から首筋にかけての線は光を受けてあくまでも白い。離れてみてもはっきりと見て取れるほどに睫毛は長く、伏目がちの目許に影を落としていた。確か情報によると彼は十七歳のはずであるが、その頃の少年特有の生臭いまでの生命感をまるで感じさせない。今にも消え入りそうな儚さと、圧倒的な存在感、その矛盾する二つを同時に湛えて彼はそこにいた。
 不意に音もなく少年はこちらを向いた。射竦められたように朴は足を止める。思わず彼女は息を呑んだ。
 仕事柄美男美女には見慣れているはずの朴ですら寒気を覚えるほどに、彼は美しかった。これまでに彼女が遭遇したあらゆる美人とも異質の、独特の美貌を彼はその身一つに抱えていた。その美しさには一点の曇りもないはずなのに、どこかに静かな陰が落ちていて、それがまた眩かった。何よりも、その目が彼女を惹きつけた――色素が抜けたように色の薄い身体の中で、その目だけが深い淵のように暗かった。星のない夜空のような、穏やかな黒い瞳。
 「……何か?」
 はっと弾かれたように朴は我に帰る。自分が完全に彼に見惚れていたのだと気付いた彼女は、慌てて顔中に朱を散らせた。「す、すみません!」
 まさか見惚れましたとも言えず、朴は慌てて逃げ出そうとしたが、丁度いい口実を思い出して彼女は立ち止まった。「あ、あの……お連れの方が、今は無理しないで休んでおくようにと仰ってました」
 少年は少し怪訝そうな顔をして、身体に巻き付けたシーツで口元を隠した。確かにその顔色がひどく青褪めて見えたので、朴はおどおどと付け加える。「……もしよろしかったら、医務室でお休みになられますか? ちょっと横になった方が……」
 「……いや、ここでいい」彼は小さな声でそう言うと、軽く頭を下げた。そして苦しそうに掠れた小さな咳をする。
 その瞬間、シーツの内側に真新しい赤い小さな染みが浮かんだのが見えた。役者が演技でするような、血糊を撒き散らす激しい咳とはまるで違っていて、それが何だかリアルだと朴は思った。
 反射的に手を伸ばしつつ彼女は言う。「やっぱり休んだ方がいいです」
 その瞬間、その手がばさりとシーツの端で払われた。思わず手を引いた朴は、呆気に取られたような表情で少年を見詰める。
 彼女の顔をじっと見上げながら、亜麻色の長い髪を肩に流した少年は息を切らせた。「……あんた、そんなに死にたいか? 俺からウイルスを伝染されたら、半年後にはこんな風になるんだ」
 ようやく朴は、この少年の真意に気付いた。つまり、自分の身体を蝕む兵器をこれ以上撒き散らさないように、自分の行動を最小限に抑えているのである。これ以上の犠牲を出さない為に。自分と同じ苦しみを味わう人をこれ以上出さない為に。
 「……わからないのか? 俺には近寄らない方がいい。感染力が幾ら弱いと言っても、このウイルスはまだデータが少ないんだ」にこりともせず、彼は抑えた動きで視線をどこかに彷徨わせた。
 目が反らせない朴は、腕に鳥肌を立てながら彼の表情に魅入った。知らずに声が震えた。「……あの、あ、あなたは、何をするつもりなんですか? テレビ局なんかジャックして、何になるんですか?」
 少年は僅かに怪訝そうな顔をしたが、案外親切そうな調子で教えてくれた。「取引をするんだ。政府を相手に、出来る限りの談判を持ち掛ける。こちらからの要望はテレビ越しに伝えて、電話なりメールなりで返答を求めるつもりだ。直接会いに行ったら、きっとすぐに殺されるだろうから。そうなると助けたい人間も助けられなくなるし、結局無駄死にになってしまう」
 あまりに淡々とそう言われて、朴はさすがに青褪めた。その顔を見て、少し不憫に思ったのか少年は嗜めるような笑みを見せた。冷え冷えとした美貌にはあまり似つかわしくない、温もりのある微笑だった。
 「……何で」不意に朴の心中に疑問が浮かんだ。迷う間もなくその質問は彼女の口を突く。「何で、そんなに自分のこと、他人事みたいに言えるんですか?」
 「――他人事だからだよ」
 軽く首を振って、彼はようやく顔を上げた。
 え、と綿シャツの裾を握りながら瞬く彼女に、少年は静かな微笑を見せながら言う。「この身体はとっくに官邸の要職にくれてやったんだ。俺のものじゃない。全く未練がない訳じゃないけど、でもそこは折り合いをつけなければならないだろう」
 自分よりも遥かに年下のはずの彼は、それなのに何故かひどく達観した目をしていて、それが無性に悲しかった。叶わぬ望みなど何一つないように思えるほどの曇りのない美貌は、一体彼に何を与え続けたのだろう。
 朴は思わず唾を飲み込みながら、掠れた声で尋ねた。「心残りとか、ないんですか?」
 笑うように目を細め、彼は曖昧に首を振った。否定とも肯定とも取れる仕草だったが、これ以上追求してはいけない気がした。
 それで代わりに朴は、唇を噛み締めながら絞るように尋ねた。「……どうしても、死んじゃうんですか?」
 少年は朴を見上げた。ラフな男勝りの格好をした彼女は、目に一杯涙を溜めて言った。「本当に本当に本当に、どうしても死んじゃうんですか? まだ生きてるのに、もうどうしようもないんですか? そんなの怖くないんですか?」
 少年はふと手を伸ばし掛け、それを慌てて引き戻した。それから少し躊躇うように、ぽつりと言った。「……うん、怖いよ。当たり前じゃないか」
 思わず朴は身を竦めた。
 それにつと目を向けると、少年は打ち消すように微笑んで見せた。ぎょっと立ち竦むほど痛ましい、力のない笑顔だった。「いいよ。置いていかれるよりは、置いていく方がずっとましなんだ。きっと」
 言葉が見付からず、朴はただシャツの裾を握り潰して立ち尽くした。
 自分のことではないはずなのに、自分は全くの部外者であるはずなのに、何故だかひどく悲しかった。今確かにここにいる、目の前で話をしている、手を伸ばせば触れることの出来る、そんなこの少年を留めておくことが出来ないことがひどく悲しかった。こんな風に永遠に話をし続けていられたらいいのに――別に何をするでもなく、ただ一緒に差し向かって会話をしているだけでいいのに、そんなことすら間もなく失われてしまうと言う彼の運命がひどく哀れだった。
 そんな表情が滲んでいたのだろうか、少年は困惑したように曖昧に首を傾げた。それから何か逡巡するように首を巡らせた後、不意に彼女の背後に目を向ける。「……ところで、大丈夫なのか?」
 何を、と言い掛けた朴は、背後から大声で彼女を呼ぶ先輩の声を聞いた。「ケナリーっ! 何油売ってるー!」
 慌てて彼女は振り向きながら叫んだ。「あ、はいー、すぐ戻りますー!」
 何だか邪魔をされた気がして妙に口惜しかったが、職務を忘れていた自分が悪い。朴は顔をごしごしと擦ると、くしゃくしゃに握り潰していたシャツの裾を引っ張って伸ばした。
 その様子をじっと見ていた少年は、少し申し訳なさそうに言った。「……長いことつき合わせて、悪かった。まだまだ後で付き合ってもらうから、よろしく頼むよ」
 「はいっ!」目一杯威勢のよい返事をして踵を反した朴は、その瞬間にちょっとした違和感を覚えた気がしたのだが、気にしないことにした。
 (あたし、すっかりその気になっちゃってるや。ま、いっか)
 もう日没からよりも日昇までの方が近い時間だった。けれど、嵐は一向に止む気配がない――。


 (――大丈夫だ)
 ソファの感触を背中に感じながら、自分自身に言い聞かせるように竜血樹は念じた。
 (彼女なら勝てる。――必ずこの国を救うことが出来る。彼女さえ解き放てば、何もかもが上手く行く)
 それはほとんど確信だった。殉教者が死を前にして尚も神を信じるように、竜血樹は寛美を信じていた。彼女ならばきっと、今まで誰にも為し得なかったことを叶えることが出来ると信じていた。
 そしてその為には何より、彼女を解放することが必要だった。収容所の中から引き摺り出すと同時に、一人でも多くの人々に彼女の存在を知らしめし、彼女を信奉するように仕向けなければならなかった。彼女の信徒は、そのまま彼女の兵力になるのだから。
 この国を変えるには、彼女はただ単に収容所に送られた一介のテロリストであってはならなかった。
 (汚いところは全部俺が持っていく。セニャンがこれ以上手を汚す必要はない)
 張り巡らせた罠は完成した。後は手の中に握った糸を引くだけだった。これで救国の女神は完成し――そして、彼の役割は終わる。
 ――見届けられないのは悔しいけれど、それでも構わないと思った。こんなにもくっきりと脳裏に思い描けるのなら、それを抱いてゆけばよいだけのこと。
 彼女は夢だった。彼の、叶えたくて叶えられない夢だった。
 (誰も飢えなくてすむ、いつどんな理由で殺されるかと怯えなくてすむ国――)
 皇帝として生まれた自分には、それを為し遂げる義務があった。例えどれほど自分が幼くても、どれほど自分が無力でも、それを為し得ないのは皇帝である自分自身の罪だった。
 あまねく全ての民草に親の如き仁愛を注いで国家を統治するのが皇帝であり、いついかなる場合においても国家を疲弊させ民を嘆かせるのは、皇帝たる自分の不徳に他ならない。幼い頃から、そう教えられて育ってきた。
 不当だと思ったことは何度もあった。『親の如き仁愛』と言われても、実際に親を知らない彼にとってはずっと理解出来なかった。それでも、全ての人の幸福が自分の幸福なのだという考えは自分の奥深いところに染み付いていたし、あらゆる人が平等に平穏に暮らせない世界を変えたいとは思うようになった。
 皮肉なことに、今更になって――自分が父親になるという局面に立たされて、はじめて『親の』心を知った。自分の命を犠牲にしても守りたいと願う愛しさと、自分がいなくなった後も永遠に続く幸福を希わずにいられない心を知った。自分と同じ苦しみを抱えながら、それでも自分へと血を繋げて行った父祖の心を知った。そして、それを叶えられない自分の無力さに歯噛みした。
 施寛美がそれを望んでいるのかどうかはわからない。けれど、彼女にはそれを叶える力があった。彼の望みを叶え得る、彼の持ち得ない大きな力を持っていた。そしてそれを携えて、再び彼の前へと戻って来たのだ。
 ――何としてもこの夢だけは叶えなければいけなかった。踏み躙られればこそ、甚振られればこそ、その願いは固く澄んだ結晶になって、ともすれば挫けそうになる獄中でのたった一つの希望になった。
 結果的に、彼女を利用することになる。彼女に対して済まない気もしたが、それでもこの夢を捨てる訳にはいかなかった。残された時間が僅かだからこそ、この夢だけは叶えておかなければならなかった。もうこんなことしか、自分に出来ることは残されてはいないのだから。
 (俺は駄目な奴だけど。自分の子供一人、守ることも出来ないけれど)
 だからこそ守る者がいなくても――自分がいなくても、十分に安心して生きていける場所を用意してやらなければならなかった。
 ――ようやくこの国から逃げ出させることしか出来なかった、自分が守らなければならなかったはずの愛しい女と。
 きっと抱くことも永遠に適わない、まだ見ぬ我が子の為にも。
 (だって、お前達の為なら、きっと俺は笑って死ねる)
 ふと振り仰いで目を開けた。白く濁った天井と、緩く瞬く細長い蛍光灯が眩しかった。
 (ごめんな――)
 謝りたかったけれど、もう誰に謝ればいいのか彼にもわからなかった。


 『現在超大型台風十四号は急速に速度を落とし、平壌周辺でほぼ停滞しています。各種警報は画面を参照下さい。海沿いの地域の方は、高波に注意して下さい。また、雨の影響で地盤が緩んでいる可能性が高いので、土石流には注意して下さい。避難勧告が出ている地域の方は、速やかに避難して下さい』
 どの局にチャンネルを合わせても、現在はそのニュースばかりであった。時折思い出したようにテロの情報が流れ、エンターテイメント性の高い番組の多くはニュースに変更されていた。
 折りしも前代未聞の大型台風で、多くの学校や企業は臨時休暇になっており、また多くの交通手段も止まっていた為、この平壌周辺の人々は家に篭ってテレビやラジオで情報を集めていた。郊外になると停電になっている箇所も多かったが、中心部では近年進められていた電線や電話線の地下への埋め込み作業が功を奏し、ほとんどの家屋でテレビが付いていた。
 ――その家の子供も、臨時休校で手持ち無沙汰になり、テレビの前に座り込んでいた。ニュースなんて彼にとっては少しも面白くないのに、どこを見ても台風情報ばかりで、退屈した彼はかちゃかちゃとチャンネルを変えていた。
 「あんまりかちゃかちゃしないの!」台所に立っていた母親が声を張り上げた。うるさいなぁと子供はリモコンを弄る。
 そしてふと、一つのチャンネルで手を止めた。思わず彼はじっと見入る。
 台風で電車が止まり、突然の休暇と言うことで二度寝を決め込んでいた父親が、パジャマ姿のままぼーっと部屋に入って来た。そして子供を眺めながら言う。「……何見てんだ?」
 「何か、面白そうだったから」
 台所から再び怒声が響く。「お父さんも、起きたらいつまでもパジャマでうろうろしないで頂戴!」
 「あ、ああ……」上の空で返事をした父親は、眠そうな目を何度か瞬かせながら画面に見入る。それからようやく状況を認識して、のろのろと口を開いた。
 「お父さん!」「……おい、ちょっと来い!」二人の叫び声はほとんど同時だった。台所の母親は鼻白んだが、小言を言おうとエプロンで手を拭いながらリビングの方へとやって来た。
 そして、ふと画面に目をやって怪訝そうな声で言う。「……洋画? 何でこんなときに……」
 「いや、どうも違う……」話に置いてけぼりを食らって不服そうな子供の手からリモコンを引っ手繰り、父親はテレビの音量を上げた。朗々とした声が周囲の嵐の物音を掻き消す。
 『……そう、だから俺の言うことを訊いて。ねえ陛下、見てる?』
 ブラウン管の中で、艶やかな亜麻色の長い髪と玲瓏たる美貌を湛えた人物は、片手に鋭利な刃物をもたげながらにっこりと微笑んでいた。一瞬女性かと思ったが、若い男特有の低く爽やかな声音で、その美しい人物はゆっくりと話し掛けた。深い色の瞳が、じっとこちらを見詰めている。
 『忘れたなんて言わないよね? あれだけ毎晩慈しんでくれたんだから。ねえ?』
 ふと、おどおどとした妻の声が聞こえた。「……何なの、これ。ちょっと趣味悪くない?」
 口ではそう言いながら、目は惹き付けられるように画面に注がれていた。当然だ、と彼女の夫は考える。こんなものを見せ付けられて、目を反らせるはずがない。明らかに狼狽している妻が、妙に哀れっぽく思えた。
 「……テレビジャックだ。多分、放送局が乗っ取られたんだ……」
 この、悪夢と見まごう程美しい人物に。
 ――このとき、党営現代テレビの視聴率は既に四割に達していた。


 両親に挟まれて、その人は彼女の前にやって来た。
 とても頭がよいその人は、彼女の母や街の多くの人々と同じように『川の向こう』からやって来た。父親は、「今日から兄だと思いなさい」と彼女に紹介した。
 優しく微笑むその人に、彼女はこくりと頷いて見せた。それが出会いだった。
 白銀の髪を持つ美しいその人は、「フェイロン」と言う名なのだと言った。てっきりロシア辺りから来たのだろうと思っていた彼女は、中国系の響きに少なからず驚いた。けれど、それはさほど関係のないことであった。
 彼女はひたひたと足を運ぶ。記憶は常に、辛く悲しいことにばかり繋がっている。それでも、辿らずにはいられなかった。
 その人は、色々なことを知っていた。そして色々なことを教えてくれた。実の兄のように彼女は慕っていた。
 あるとき彼女は、その人に――飛竜と言う名のその人に、歌を唄って聴かせた。飛竜は少し驚いて言った。「ハファ、その歌はどこで覚えたのですか?」
 「おかあさまが教えてくれたのよ」
 口の中で、あのときの言葉を彼女は繰り返した。まるで目の前で起こっているかのように鮮明に、全てが思い出せてしまう。感覚すらあの頃に戻ってしまったようだった。あのときの彼の細い指の感触すら、そのまま髪の上に残っているようだった。
 彼女の――幼い夏火の髪の毛を指先で弄びながら、綺麗な銀髪を肩で揃えた飛竜は言った。「あなたは歌が上手ですね、ハファ。この歌の続きを、あなたはご存じですか?」
 それは全くの初耳だった。だから夏火は首を横に振った。
 飛竜は真っ青な目を細めて、ゆっくりと歌い出した。綺麗な声をしていた。うっとりと夏火は聞き惚れていた。

  夏が来たら 河の水は流れ始める
  だから私はこの夏も 険しい峠を見上げながら
  小さな船を一艘繰って 河を下って行きましょう
  そして夏のように強いあなたに 逢いに行きましょう

  秋が来たら 白い渡鳥がやって来る
  だから私はこの秋も 神様が住むこの峰を
  北風が吹き始める前に 羽根のように飛び越えましょう
  そして秋のように澄んだあなたに 逢いに行きましょう

 ここまで歌って、不意に飛竜は唄い止めてしまった。当然冬の段が続くものだと思っていた夏火は、その先を促した。
 少しだけ複雑そうな表情を見せた飛竜は、何故だか彼女に念を押したのだ。「いいんですね?」
 何も知らなかった。だから、何度も頷いた。何度も、何度も――。

  冬が来たら

 (あのとき、飛竜おにいさまは、何ておっしゃったのだっけ――?)
 記憶の細い糸を手繰り寄せていたつもりの彼女は、不意にその先が途切れているのに気が付いた。一瞬前まではあれだけ鮮明に覚えていたはずなのに、と彼女は不思議に思う。
 けれど、歩いているとそんな違和感もどうでもよくなった。とにかく気持ちがよくて、ただこうして歩き続けていたかった。
 ぼうっと生気の抜けた目で宙を見詰めながら、彼女は僅かに微笑んだ。
 そして歌もまた、彼女の唇を突いた。風もない静かな広々とした草原に、ただ一筋の風のようにその声は流れていた。

  冬が来たら 柔らかい雪が降り始める
  だから――――


 ――その瞬間。
 彼女は、何かが弾けたような感覚を覚えた。水の塊がぱちんと弾けたような、不思議な感覚。同時に足の付け根が濡れた感触がする。少し気持ち悪かった。
 ようやく意識を引き戻された彼女は、思わず足元を見下ろした。そして思わず目を見開く。
 幼い頃の記憶の中に引き摺り込まれていた彼女は、何が起こっているのか咄嗟に理解出来なかった。自分の腹部は大きく膨れていて、足元を見下ろすこともままならなくなっていた。
 (……どうして? これじゃわたし、まるで妊婦さんみたい――)
 妊婦、と言う言葉を思い付いた瞬間に、何か引っ掛かる感じがした。けれど、肝心な部分が思い出せない。(ちょっと待って、わたしはどうして――)
 どうしてこんな姿なのだろう、と混乱した頭で考える。まだ自分は幼くて、まだ劉夏火という名前を持っていて、まだ『彼』と出会っていな――。
 「……どう言うこと?」
 彼女の記憶には、続きがある。そこまではわかるのだ。けれどその記憶が何だったかが思い出せない。まるで、自分の中にもう一人全く異なる自分が存在しているかのように。
 (……もう一人の、わたし?)
 脚をぬるぬるとした感触が伝う。足元の草がその液体で濡れた。腹部に腕を回しながら、彼女は頭の中を必死に整理しようとした。けれど少しも結論が纏まらない。わかるのは――何かとても不可解な状態に自分が置かれていると言うことだけ。
 そしてその次の瞬間に、全身を引き裂かれるような激痛が足元からせり上がって来た。
 「……つっ……」
 立っていることが出来なくなった彼女はその場に蹲ったが、それでも耐え切れずに横様に倒れ込んだ。身体を丸めて痛みをやり過ごそうとするが、痛みは一層ひどくなっていく。全身が千切れてしまいそうな痛みに、彼女は歯を食い縛って押し殺した呻き声を上げる。額に脂汗が浮き、目許に涙が滲むが、介抱してくれる人間などどこにもいない。一人で――一人ぼっちで、彼女は激痛と戦った。
 訳がわからない痛みの中、彼女はぼんやりと考えた。
 (……わたしは、誰――?)
 蹲る彼女を取り残して、一陣の風が吹き渡って行った。見渡す限り茫漠と広がる無限の草原を吹く風は、無数の草を吹き散らし緑の波をうねらせる。煌く緑の波は、どこまでも果てしなく流れ去って行った。
 明るい、けれど光のない青空は、ただ草原を吹く風を眺めているばかり――。




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