モドル | ススム | モクジ

第十一夜


  俺のゴッド・ファザーは、祖父アーサーだった。
  俺はアーサーの百歳の誕生日に生まれた。多分顔を見ることが出来る最後の孫だと思ったんだろう、何としても自分が名前を付けると、アーサーは譲らなかったらしい。
  旧約聖書に登場する、美と知恵を兼ね備えたシェヴァの女王を言い負かした賢者ソロモン。「デイビットソン」――即ちダビデの息子という意味の俺の名は、彼にちなんだのだとアーサーは言った。アーサーが勝てなかった黒髪の女王をもモノに出来るほどの知性を身に付けられるように、そして再び彼女のような女王と巡り合えるように、との男としての最大の野望を込めて。
  だけど、アーサー。俺が出会ったのは、シェヴァじゃなくて――東洋に住まう『シヴァの破壊』カーリー女神だったらしい。
  どうしよう、やっぱ俺、勝ち目ないかも。



   第十一夜



 ぴぴぴ、と、不意に車内に機械音が響いた。
 飛竜が怪訝な表情を浮かべていると、劉が慌てて胸ポケットを探って、携帯電話を取り出して見せた。旧式のそれを眺めて、彼は少し申し訳なさそうに言う。「奥さんからみたいです。ちょっとすみません」
 別に断る理由もないので、小さく飛竜は頷く。すぐに通話ボタンを押した劉は、片手でハンドルを握りながら電話に出た。「もしもし――はい、そうだと思いましたよ」
 バックミラーに、微笑んだ劉の顔が映っていた。いつもの、どこか柔らかな毒のある笑顔ではない、屈託のない表情だった。多分、本当に細君からの電話なのだろう。
 窓の外の風景を眺めているのにも疲れて来た飛竜は、シートに背中を預けることにした。くらくらと眩暈を感じるので、軽く瞼を瞳の上に載せる。ただそれだけなのに、もう堰を切ったように彼女との記憶が脳裏を巡って、感情の奔流が理性を流してしまいそうになる。思わず彼は眉間に皺を寄せた。
 「……はい、こちらは元気ですよ。あなたこそ何かありませんか?」やはり劉は、さすがに今犯罪の片棒を担がされていることは伏せていた。何となく飛竜は申し訳ないような気がした。
 ――自分が、誰かを愛してはいけないのだと知ったのはいつ頃だっただろう。ふとそんなことを思い出した。
 愛する女性と共に生き、結ばれる、ただそれだけのことが許され難い罪なのだと気付いたのはいつ頃だっただろう。
 甫民は――彼を育ててくれたあの老人はずっとひた隠しに黙っていたが、それでも成長するにつれて広がった視野の端は、やがてその事実を捉えてしまった。(俺は、俺の血族を残してはいけない――)
 滅んだ王朝の最後の生き残り、それが自分だった。自分と同じ立場であったはずの父は、生まれたばかりの自分を遺して殺された。多分、その理由に気付いたときと、自分が彼と同じ立場なのだと知ったのはほぼ同じだった。
 劉が微かに笑う声が聞こえた。「――大丈夫ですよ、ちゃんとご飯の用意くらい一人で出来ますから」
 皇帝の血筋は、ただそれだけで王朝を懐かしむ者にとって崇拝の対象になる。それは現政府にとってひどく目障りなはずなのだが、『最後の一人』と明確にわかっている場合、それは上手く使えばよい抑止剤になる。
 皇帝の血筋が仮に断絶した場合、その瞬間に崇拝する者が一斉に蜂起するのは免れ得ない。危ない均衡の上に成立している現在の政権は、何よりそれを恐れているに違いない。皇帝が滅んだ以上帝政の復帰はあり得ないが、共倒れになる可能性も大いにあり得る。
 ――しかし、もしも『最後の一人』が生きているなら。
 不思議なもので、拠所があって初めて人は「期を待つ」ことが出来る。今よりももっとよい好機を見付けて、「いつか」「やがて」体制を引っ繰り返してやろうと考えることが出来るようになるのだ。旗印は一人しかいない、だから慎重にならざるを得ない。水面下で画策はするものの、実行にはなかなか及ばない。逆に言えば、政府にすれば基盤を整える猶予期間が与えられると言うことである。
 「――あなたはどうですか? すぐにあなたは無理するから、心配ですよ本当に」
 但しその条件は厳しい。皇帝の血筋は『一人』でなければならない。二人以上に増えると、王朝派は慎重すぎるほどの慎重さを失い、野望を肥大化させる。「皇帝の世継もいる、一刻も早く帝国の復興を」という意見が出始める。つまり『最後の一人』はあくまでも『一人』でいなければならないのである。
 父は『一人』で居続けることに耐えられなかった。母を愛してしまった。息子を残してしまった。――そして滅ぼされた。
 飛竜は深く息を吐く。(そのことに、気付くのが遅過ぎた)
 「――ああはいはい大丈夫ですって。あなたも大概心配屋さんですねえ」
 自分は既に、彼女と出逢ってしまっていた。もう二度と彼女を離すことは出来なかった。自分自身を止めることは出来なかった。
 泣き出したいような思いで、何度考えたことだろう。(――出逢う前に戻れたら。彼女と出逢いさえしなかったら)
 彼女と出逢ったことを憎みさえした。そんな自分が悲しくて、泣きたくなったこともあった。
 愛する人と結婚して、幸せな家庭を築く。そんなごくありふれたことが許されない自分の身の上が憎かった。
 ――そして何より、誰よりも愛しい彼女をその運命に引き摺り込んでしまったことが辛かった。
 「ところで、大丈夫なんですか? そろそろ時間じゃないのですか?」
 (何を感傷的になってるんだ)心の中でだけ苦笑する。病気になって、死を目前に突き付けられて、やたらと女々しい気分になっているだけだ、と軽く首を振る。(馬鹿馬鹿しい、とっくにわかってたことじゃないか)
 もう彼女は逃がした。二度と逢わない、二度と逢えない。だから彼女はもう大丈夫だ。そんな風に彼は自分自身に言い聞かせる。
 そしてふと、そんなことを言いたい訳ではない、と言うことに気付いた。(……ああ、そうか)
 「――構いませんよ、そんなに謝らないで下さい」
 本当は、彼女に対して謝りたいのだ、と言うことに気付いた。そしてそれが叶わないことが、少し哀しかったのだ。
 「それじゃあ、またね」
 ぴ、という音を立てて、ようやく電話は切れた。
 (もう、謝れないんだ)

 
 「でも、どうやってスパイだって言う証拠を掴めばいいの?」早口に大花は言った。
 だが、大佐の答えは余りに素気無かった。「直接言えば構わない」
 細い首を少し傾げると、大花は怪訝そうに言う。「直接って……まさか『あんたスパイ?』って言う訳にもいかないでしょ?」
 「仮にあれが旧王朝派のスパイなら、それで事足りる」大佐は僅かに、眉間の傷に皺を寄せた。
 切れ長の目を丸くする大花に、彼は短く説明した。「……旧王朝派なら、スパイの嫌疑が掛けられた瞬間に自決する命令が下されている。以前もあった」
 彼は腕を組み、何もない単調な壁に目をやった。「――嫌疑があることを告げた瞬間に、毒を呷るか舌を噛むのだ」
 真丸に見開いた目をゆっくりと何度か瞬かせ、大花は信じられないと言った風に叫んだ。「何よそれ!」
 「旧王朝派の頂点は、瀬戸甫民だ。奴は厳しい、失敗を絶対に許さない」覚悟がない人間は初めから仲間に入れないのだ、と言う呟きは、ほとんど独り言のようだった。
 大花はふと、半年以上前に聞いた飛竜――竜血樹の言葉を思い出す。
 (――『瀬戸氏のホーミンという男』)同時に、好々爺然とした笑顔をした白髭の老人の姿が脳裏に甦った。ベルのすぐ隣に立っていた、いかにも人の良さそうな老爺。しかし、一方で竜血樹以外の人間の命を命とも思わない思想の主――。
 と、不意に大佐は足を止めた。考え事をしていた為に、つんのめるようにして立ち止まる大花を残して、彼は軍靴の踵を返す。慌てて大花はその影を踏んだ。「な、何?」
 周囲の敬礼や好奇心混じりの視線を諸共せずに廊下を突き進んだ大佐は、不意に人気の少ない角で立ち止まった。つんのめって思わず彼の袖に掴まりながら、大花は彼の横顔を見上げる。「どうしたのよ」
 大佐は黙れ、というジェスチャーを見せる。きょとんとしながら視線を巡らせた大花は、廊下の先に公衆電話コーナーがあることに気付いた。無機質な壁にスチールの机が据え付けられて、仕切りで区切られた空間に五つほどの公衆電話が一つずつ並べられている。どうやら休み時間らしく、電話は全て埋まっており、数人の兵士が少し離れたところで並んでいた。携帯電話の普及した最近ではあまり見掛けない風景だけに、大花は思わずぎょっとする。
 「基地内では、携帯電話は使えないようになっている」大花の困惑を見て、大佐が小声で言った。「外部への連絡手段は原則としてあの公衆電話だけだが、それも全て通話記録が残される仕組みになっている」
 「スパイ対策って奴ね」何となく相棒のような相槌を大花は打つ。そしてふと、廊下の別の角から見慣れた人影がやってくるのに気付いた。慌てて彼女は首を引っ込める。
 大佐と目配せすると、今度は二人でそろそろと首だけで覗き込んだ。すらりとした長身、深めに被った帽子、間違いなく朴繊月だった。大柄な兵士達の間で一際目を引く彼女は、大きな猫のような立ち姿で順番を待っていた。
 恐らく実家への連絡を取っているのだろう、時間を気にしながら兵士達は短い会話に花を咲かせていた。そんな中であの繊月がどんな会話をするのか、なかなか想像し難かった。
 想像力が及ばず変な表情を浮かべながら、大花は大佐の顔を見上げる。「……でも、よくわかったわね。ここに来るって」
 「今日の休憩は今だけだからな。家族と連絡を取るとしたら、ここしかない」
 そう言われてようやく大花は、彼女の履歴を思い出した。「あ、そう言えば新婚さんだっけ」
 そうこうする内に、繊月の順番が回ってきたらしい。彼女は空いたばかりの一番手前の公衆電話に向かい、受話器を取ってカードを差し込む。それから細い指でダイヤルを押した。思わず身を乗り出しながら、大花は遠目に手元を覗こうとする。
 「……あの桁数だと、相手はケータイかしら?」
 そしてつんのめりそうになって、首根っこを大佐に掴まれた。
 右手で受話器のアームを持ち、左手を通話口に添えて、彼女はしばらく無表情のままで待っていた。と、不意に彼女の表情が笑顔に崩れる。声は聞こえなかったが、口の動きで何となく内容は察することが出来た。
 (――もしもし、あなた? ええわたし。どう、そちらは代わりない?)
 多分、女言葉なのだろう。口元が丁寧に言葉を発音しているのが見えた。
 普段の貼り付いたような無表情を崩すと、意外なほどに繊月は女らしく見えた。少し首を傾げた仕草も、はにかんだような笑顔も、初々しい女性の表情にひどく似つかわしかった。
 幽霊のフラメンコでも見たような顔で、大花は呆然と目を瞠った。
 「……うっわ、マジで新婚さんしてる」思わず揶揄するような調子で声を上げた大花に、大佐が指先だけで黙るように指示する。慌てて彼女は口を押さえた。
 やがて繊月は短い会話を終えたらしく、受話器を重そうにホルダーに戻した。そしてくるりと踵を返したときには既にいつもの無表情に戻っていた。次の兵士に電話を譲ると、彼女は静かに滑るような足取りで遠ざかって行った。
 その後ろ姿をずっと眺め続けていた大花は、ようやく大佐の方を振り向いた。「……って、追い掛けなくっていいの?」
 「……」少し考え込むような表情をした後、大佐は低く呟いた。「……いや、いい」
 「でも……」ちらりと大花は繊月の背中に目をやった。
 ことは簡単だ、ただ一言「スパイか」と問えばいい。もし間違いならそれで構わないし、仮にスパイだとしてもその場で片が付く。大花にも、いい加減この基地が馬鹿みたいに広いのはわかっていた。今見失ったら、次にどこで捕まえられるかわからないし、それまでに重要な情報を引き出されかねないとも限らない。
 だが、ふと彼女は口元に手を当てた。「……あ、そっか」
 仮にスパイだったとしたら、繊月は二度と生きて戻れない。そして恐らく、彼女の結婚はスパイ活動の有無とは無関係だと大佐は踏んだのだろう。
 (もしもスパイだったとき、本人も旦那さんも可哀想だもんね)
 同時に、少々情報を持ち出されたところで揺らがない自信があるのだろう。――或いは、本格的に大花の側に肩入れしてくれる意志があるのか。いずれにしても、それは大花にとって好ましいことだった。
 思わず彼女は大佐の腕にしがみ付いて見せた。驚いたように彼女を見下ろす仮の父親の顔を上目遣いに見上げながら、大花は小さく弾んだ声で言った。「おじさん、実はすっごいいい人じゃない」
 「……やめなさい」ようやく無表情を取り繕った大佐は少し振り解こうとしたが、大花はそれに振り回されるようにして付いて行った。
 「そう言うとこ大好き」「だからやめなさい」


 風の渡る草原は、とても気持ちがよかった。
 時折少しだけ強くなる風が、彼女のスカートの裾や長い髪の先を玩んでから草原の表面を撫でるように去って行く。そしてその後には、水面に浮かぶような風紋がざわざわと流れて行った。その涼しげな音や、果てしなく渡ってゆく草の海原が、耳に目に心地よかった。暑過ぎず寒過ぎない優しい空気に肌の表面を弄られるのは、少しくすぐったく快かった。
 いつしか彼女は疲れを忘れて歩いていた。まだ打ったところは時折痛むが、さほど気にはならない。今はただひたすら、こんな風に歩き続けていたかった。歩き続けていればその先に、あれほどまでに望んだ彼がいるような気がした。

  春が来たら また花が咲き始める
  だから私はこの春も 花一面のこの丘で
  白い小さな花を摘んで 髪にたくさん挿しましょう
  そして春のように優しいあなたに 逢いに行きましょう

 彼女は、ふと思い出した歌を口ずさみ始めた。大好きな歌だった。彼と初めて出会ったとき、歌ったのがこの歌だった。彼と出会ってからは、本当に、ずっと幸せな毎日だった。ときには他愛のない口喧嘩をしたり、擦れ違ったりすることもあったが、それでも彼の傍にいるとほっとした。彼のいるところが自分のいるところだった。彼は、自分の存在理由そのものだった。
 目を閉じると、あの日の幼い少年の姿が浮かんだ。どれほど時間が流れても、ずっと変わらず無邪気に自分を慈しんでくれた。
 ――どうして、別れなければならなくなったのだろう。
 (それは、彼が――あの子が、天の子だから)
 傷が痛むように、心が痛んだ。自分よりも随分と年下の男の子だった。周りの大人がどんなに彼に対して期待を掛けていたにしても、彼を人ならぬ存在として崇拝していたにしても――精一杯の背伸びをしたり、それにくたびれて年相応の表情を見せたりする、彼は彼女にとってはただひたすらに愛おしい一人の人間だった。
 ――もし彼が、天子でなかったなら。
 (あの子は、苦しまなくてすんだのに)
 きっと彼は親を亡くすこともなかった。逃げるように生きることもなかった。あんな風に水面下で息を潜めて暮らす必要もなかった。人並みの幸せを手に入れることが出来た。そして――彼女と出会うことも、きっと、なかった。
 ――もしも、わたし達出会わなかったら。
 彼女は首を振る。不意に、忘れていた痛みが耳の奥に甦って来た。
 そんなことは考えられなかった。彼と出会わなかったら、きっと自分は生きてはいない。彼がいたから生きてきた。彼と出会ってからは、その為だけに生きてきた。彼の為に生きてきた。
 ――けれどもしも。
 (もしも彼と出会わなかったら)
 こんなに、苦しい思いを知らずにすんだのかもしれない。
 彼もまた、犠牲となって国に残ることはなかったのかもしれない。
 彼女は突かれたように空を仰ぐ。ひたすらに青い空だった。時間も何も感じられない空だった。
 (もしかしたらわたし達)
 わたし達は、出会わなければよかったの――? 


 飛竜はじっと目を閉じていた。
 眠ったのか、と劉が考えていたら、ふと飛竜がぽつりと呟いた。「……お前なんだろ」
 「何がですか?」おっとりと劉は答えた。
 やや俯き加減で、飛竜は静かに言う。「このウイルスを開発したのは」
 「どうして?」少し意地悪っぽく劉は言った。ぼそぼそとした掠れた声で、飛竜はゆっくりと答える。「……ウイルスが盗まれたから、お前は病院勤務に移ったんだろ。もしも、あのウイルスJ-815の感染者が現れたときに、誰よりも早く対処する為に」
 「根拠はどこにあるのですか?」
 畳み掛けるように劉は尋ねる。薄い赤い唇が、微笑みよりも少し意地悪く歪んだ。
 ようやく飛竜は薄目を開けた。「……お前ほどの人間嫌いが医者をやってるなんて、よほどのことだろうと思ったから」
 劉はバックミラーに向けて、わざとらしく細い眉を上げて見せた。
 飛竜はほんのりと色を浮かべるように笑う。「そうだろ? お前は人間が嫌いなはずだ」
 「ご想像にお任せします」劉はにこりと微笑むと、少し考え込むような表情をした後に言った。「――それでは、逆に質問しても構いませんか?」
 飛竜が首を傾げて見せたので、ゆっくりと噛んで含めるように劉は言った。「どうして、逃げなかったのですか?」
 道路がやけに混雑していた。信号待ちの車の群れの前で、劉は静かに車を減速させる。遮光シート越しに見える黒ずんだ風景に目をやりながら、飛竜は言った。「……それは、どの時点での話だ?」
 「J-815を盗難するときに、どうして逃げなかったのですか? 外部へと脱出することが出来たのに、どうしてわざわざ自分から致死ウイルスに感染して、しかも囲われ者に戻って行ったのですか?」
 劉は柔らかな声音で、ゆったりと尋ねた。遠目に見える赤信号を、サングラス越しに睨んでいるように見えた。
 何度か深く息を吐いて、飛竜は滲んだように赤い唇を開いた。「……逃げられなかったからだよ」
 もう一度彼は目を閉じた。目元が長い睫毛で翳った。
 「仮に逃げ出しても、必ず追手が繰り出される。どこへ逃げても追い掛けて来る。――それでも、万に一つでも逃げ切れるならそうしたかもしれない。でも、そんなことをしたら俺が世話になった『先生』や他の人が巻き添えになる」
 なかなか信号が変わらないので、劉は飛竜を振り向いた。肩の辺りで髪の毛をもつらせたまま、彼はじりとも動かない。ただ口元だけで自嘲するように笑った。「……電車で逃げようとしたら、電車ごと吹っ飛ばすだろう。車を乗っ取ったら、道路を崩してしまうだろう。そんな連中に目を付けられて逃げられるはずがない」
 「逃げられないのなら、共に滅びるまで、と?」劉はカラーグラスのまま、小首を傾げて見せた。
 飛竜は少し憮然とした顔をする。「そんなんじゃないさ、ただ目一杯怖がらせてやりたかっただけで。――何か、予定外の人間まで伝染りに来たけど」
 口振りは平然を装っていたが、その手元はきつく組み合わされて僅かに震えていた。細身の劉の服ですら持て余すまでに飛竜の身体を蝕んだのは、ウイルスだけではないのだと何となく劉は感じた。
 前に向き直り、少し考え込んだ後、劉はおっとりと言った。「J-815は、優秀な相方でしたか?」
 「……お前の方がよく知っているんじゃないのか?」目を閉じたまま飛竜は笑った。「ちゃんとお偉いさんを乗っ取ってくれたんだろう?」
 小さく頷いて、劉も微笑んだ。
 いつの間にか、信号は青に変わっていた。


 再び訪れた平壌市街は、至るところで検問が仕掛けられていた。無理もないことだとベルは思う。あれだけやってのけたのだ、これくらいの騒ぎにでもならないとむしろ割に合わない。
 ただ、この状況下で車に乗り続けるのはさすがに難しかった。肝心の運転手は言葉を使えず、しかも後部座席に乗り込んでいる小柄な少女とはどう考えても普通の関係には見えない。一々後部座席のベルが窓を開けて「年の離れた夫婦なの。ついでに、この人は老けててあたしは童顔なの」と説明するのはいい加減に億劫だった。それに、いつ報道の手配写真が差し替えられるかわからない以上、あまり公安関係者に顔を見られるのは望ましいことではなかった。地図を見て、現在位置が中央会議場までさほど遠くないのを確認すると、二人は車を人目に付かないところに乗り捨てて歩くことにした。
 午前中とは言え真夏の陽射は既に鋭く、ベルの荷物まで抱えて黙々と歩くデイビーは既に額から頬に汗を滴らせていたし、さほど汗をかかない体質のベルですらも髪の生え際辺りがじっとりと濡れるのを感じていた。日に炙られた黒髪が熱かったので、無造作に束ねながらベルは周囲を見渡した。
 あれだけテロの騒ぎがあったにも関わらず、人通りはひどく多い。もしかしたら普段と比べると少ないのかもしれないが、比較的地方都市にあたる開城で育ったベルには十分多過ぎる気がした。
 同時にふと思い至る。(……ちょっと待って、ちゃんと予告状届いたのよね?)
 検問を見て、てっきり政府の方も会議場爆破対策をしているものとベルは思っていた。しかしこの道を行く人々はどうやらあの犯行予告を知らないようだ。暢気に談笑している家族連れもいるようだが、後数時間でここが瓦礫の山の一部になるかもしれないとわかっていたら、とてもそんなことは出来ないだろう。ベルは髪の生え際をがりがりと掻いた。せっかく束ねたばかりの髪からばさばさと後れ毛が落ちる。
 もしかしたら、犯行予告を受け取った政府側は何の手立ても講じないまま、犠牲が出るのを待っているのかもしれない。そうなれば、このテロに民衆が参加してクーデターへと発展することがなくなるだろう、それを期待しているのかもしれない。そこまで考え至り、ベルはぞっと二の腕を押さえた。
 そして同時に、違和感を覚える。ならばむしろ検問など布かない方が有効なのではないだろうか。ベルなら、もしも彼女が、このテロを予防する気のない政治家なら、今はきっと検問など行わせない。テロリストを平壌市内に誘き寄せておいて、事件が起これば即脱出口を閉鎖する。追い詰められたテロリストが暴れれば暴れるほど被害を被った市民は反政府派から離反し、政府が的確な対策を行えばそちらを支持するようになるだろう。
 しかし、現在行われている検問はどう考えても予防策だった。被害を最小限に食い止める為の、テロを未然に防ぐ為のものだった。情報を非公開に納めている政府の姿勢とは、真っ向から反発している気がする。
 (……政府内部も、分裂してるってこと?)ベルは状況を考え直す。
 例えば執政する文官側――竜血樹に骨抜きにされている高官どもはさておいて、その代わりに執政している、例えば秘書団のような存在――はテロを誘発させることを企てて、逆に直接検問を行わせる武官側はテロ予防の策を講じようとしているのではないか、彼女はそのように思った。
 いずれにしても、とベルは首を振る。これだけは阻止しなければならない。会議場から青屋根御殿――総統官邸は程近い。きっとあの屋敷の中にいる竜血樹にも知れてしまう。そしてその騒ぎに乗じて彼の奪還が成功したら、それはそれで望むべき事態かもしれないが、彼がどれほど傷付くだろう。そのことに、あの強過ぎる老人は気付いているのだろうか。
 平壌は広い。人も多い。見付かるかどうか到底わからない。
 けれど、それではいけない。何があっても止めなければならない。そう念じながらベルが俯いた瞬間だった。突然デイビーに腕を強く引っ張られた。驚いて目を瞠るベルを引き摺るように、大股にデイビーは六車線の道路を突っ切って行った。急ブレーキの音を立てて道路を走る車が止まり、クラクションと罵声が飛ぶ。
 肘が外れそうなほど強く引っ張られ、ベルが声を上げると、急に身体が浮いた。そして毎度のようにデイビーの肩に担がれる。いつものことではあるのだが、さすがに今回のように人通りも車通りも多い大通りのど真ん中でやられると、注目の視線が痛かった。
 そしてベルはほんの一瞬であるが、その注目の視線の陰に隠れるように、白鬚の老人の姿を見た。余りのタイミングに思わずベルは目を疑ったが、垣間見えるその老人の服装は紛れもなく甫民のものだった。偶然性に驚く余り、実体を取り逃がすのは愚か過ぎる。
 恥も何もかも忘れ果てて、ベルは叫ぶ。「セト・ホーミン! 待って!」
 するりとその場を去ろうとする甫民の姿に慌て、走り出すデイビーの肩でベルはもう一度叫んだ。「お願い誰か、そのお爺さん捕まえて!」
 雑踏のほとんどは呆然と、思いの外に身軽な老人に脇を擦り抜けられるがままになっていたが、やがて数人連れの男性が気付いてその老人の枯れた身体を絡め取った。少しもがいたが、やがてすぐに甫民は大人しくなる。
 荷物とベルを抱えたまま車道の端を走ったデイビーは人垣を掻き分けて、引き渡された老人の胸倉を引っ掴む。慌ててベルは腕を伸ばし、デイビーの顔面を掌で抑えた。「駄目、ストップ!」
 そして引き摺り上げられた甫民の顔を見る。この国ではかなり大柄なデイビーと並ぶと、本当に惨めなほどに小さく見えるこの老人は、何の表情も浮かべてはいなかった。
 小柄なベルは似非朝鮮人の大男の肩から飛び降りて、甫民を捕獲してくれた男達に頭を下げ、礼を言った。学生風の男達は一様に驚いた表情をしていたが、「ちょっとお爺さんと喧嘩しちゃって」と言うベルの言葉に笑顔を見せると、手を振りながら去って行った。
 「――一体天は、どこまであなたを贔屓するのやら」
 不意に甫民の声が聞こえ、ベルは振り向いた。
 「……話をしましょう」緊張しながら彼女は言った。妙に丁寧な口調になっているのが、自分でもおかしかった。「場所を変えない? ここは人目が多過ぎるわ」
 確かに、あれだけの立ち回りを演じて見せた三人の周りには、歩行者のみならず車までが止まってギャラリーを作っていた。


 興味本位に見物する人々を振り切り、ベルはふと見付けた公園の片隅のベンチに腰を下ろした。真下に官邸が望めるその大きな公園が、あのときの侵入作戦の本拠地だとはすぐに気付いた。振り向けば、中央会議場の近代的なオブジェのようなガラス屋根も見える。活動拠点にするには、嫌になるほど打って付けの場所だった。
 甫民もデイビーも、腰を下ろさなかった。デイビーは少し甫民を警戒しているようだったが、やはりベルの態度に従うつもりらしい。徹底的な受動主義も、ここまでくれば賞賛出来ると素直に甫民は感心する。
 そして、先に口を開いたのは彼の方だった。「……何をしに来たのだね」
 どちらかと言えば、詰問に近い調子だった。彼に背中を向けて会議場の屋根を見詰めていたベルは、少し息を呑んだが、臆さずに答える。「破壊は、意味がないって言いに来たの」
 夏の陽射を受けぎらぎらと光る屋根は悲しくなるほど脆そうだった。鏡面加工を施しているらしいガラスが、青い空の色と町の影の色を映して、深い紫色に見えた。きっと正午の眩い光の中で砕ける様は、この世の物とも思われないほど美しいだろう。
 「……あれを壊すのは、彼の為にはならない」
 吐き捨てるように彼女は呟き、甫民を振り返ろうとする。その瞬間、ぴしりと老人は遮った。「これ以上言うな」
 それでもベルは続ける。「こんなこと続けて、一番傷付くのはあいつなのよ。死ぬほど傷付くのはあいつなのよ。あたし馬鹿だわ、そんなことにも気付いてなかった。――だから、止めに来たの。あの建物を壊すのは止めて。もうこれ以上、人を殺すのは止めて」
 深い沈黙が流れた。ふと甫民は溜息を吐いて、ゆっくりと言った。「……邪魔、するつもりなのだね」
 「ええ」間髪入れずにベルは答えた。
 おもむろに甫民は、自分の持っていた鞄を開いた。そしてその中から、一束の書類を取り出す。ベルは立ち上がったが、何が書かれているのかは見えなかった。
 「邪魔するものは、排除しなければならない。例えあなたでもね、セ・カンメイ」ぞっとするほど静かな口調に、思わずベルは唾を飲み込んだ。
 穏やかな表情で書類に目を注ぎながら、甫民は言う。「これは、あなたに死を賜るものだ」
 そして節くれ立った指で、紙をぺらりと捲った。ベルは目を細めるが、近眼なのもあってよく見えない。「これを見ればきっと、どんなに危険だとわかっていても、どんなに勝算がないとわかっていても、あなたは滅びの道を突き進むしかなくなってしまう。あなたはそんな人だとお見受けした。そしてこれは、それに十分な物だ」
 回りくどいことが好きでないベルは、苛々と口調を荒げた。「あたしを殺すの? それは何?」
 じっと甫民はベルを見詰める。その細い目は、静かな青みを帯びていた。「……欲しいのかね?」
 「死んでなんかはやらないけど、そんな言い方されると気になる」素直にベルは言った。すると甫民は、ひどく無造作にその書類をベルの足元に投げた。
 「……蛾は、昼間には出歩かないものだがね」
 訝しげな表情を浮かべながら、ベルは屈み込んで書類を拾った。デイビーが肩の上から覗き込む。
 表紙を捲ろうとするベルに、不意に甫民は付け加えた。「けれどわたしはあなたが気に入っている、だから武器をあげよう。――わたしは、爆弾を三つ用意しておいた。その内一つだけ、正午より三分遅れて起動するようにセットしてある」
 「武器って何」書類から顔を上げて尋ねるベルに、甫民は髭を揺らして言った。笑ったのかもしれない。「その情報だよ」
 ごくりと唾を飲んで、ベルは書類に目を注ぎ、表紙を捲った。一瞬怪訝そうな表情を浮かべたものの、すぐにその真意に気付いて顔をしかめる。
 それは、中央会議所の詳細な地図だった。
 ふとデイビーが顔を上げたときには、既に甫民の姿はどこにも見えなかった。


 「解除しろってこと」
 囁くような声で、早口にベルは言った。
 それが英語だったのでデイビーには何とか聞き取れる。それでも不思議そうにする彼に、小さなこの少女は素気無く説明した。「地図を見て、爆弾の位置を推測して、それを解除しろってこと。止めたければそうするしかないみたいよ……確かに、ちょっと自滅覚悟でないと挑めないわよね」最後の方はほとんど自嘲だった。
 地図には、建築物内の詳しい配管等に至るまでが書き込まれていた。恐らく、爆弾の設計者たる甫民やそれを直接仕掛けた人物が使用したもののコピーだろう。よく自分の性格を理解している、とベルは笑う。こんなものを見せられて、見す見す黙っているような大人しい性格は持ち合わせていない。どんなに難しかろうと、きっとぎりぎりまで解除しようと努めてしまうに違いない。
 レンガが敷き詰められた会議場前の広場を足早に突っ切りながら、ベルは不意にデイビーを見上げた。「付いて来なくていいわよ、危な過ぎるもの。あんた、今までずっとよくやってくれたもの、こんなものにまで巻き込むのはさすがに申し訳ないわ」
 柄にもなく謙虚になって、ベルは笑った。ずっと死に対する覚悟はして来たつもりだが、それでもこれには異種の覚悟が必要だった。自滅するかもしれない、その可能性が極めて高いにも関わらず、飛び込んで行く覚悟。それでも、もうここまで来たら引き返せなかった。
 デイビーはじっとベルの顔を見詰めた。やはりストレートの黒髪も黒い瞳も彼には似合わない、とベルは思う。あのくしゃくしゃのハニーブロンドと、眩いほど明るいライトブラウンの瞳でなければいけない。この妙ちくりんな姿がデイビーの見納めなのかと思うと、何だか残念だった。
 と、不意にデイビーはぱっと笑った。そして大人が子供を構うように、小さなベルに覆い被さるように抱き付く。
 「な、何よ!」驚くベルを身体の前で持ち上げると、不意に彼は後ろから彼女の頬に軽くキスをした。
 「な……っ!」見る見る内に真っ赤になったベルは、地面に下ろされるや否やデイビーの頬に張り手を入れた。そして目一杯大きな声で怒鳴る。「いいわよ、付いて来なさいよ自由になんてしてやらないから!」
 それはもうデイビーのわからない言葉だったが、それでも意味は通じた。掌の形に赤くなった頬を撫でながら、デイビーは素早く足を捌くベルの後を小走りに追い掛けた。
 その広場の隅にある時計台は、正午まで後二時間を指し示していた。


 会議場の入り口を潜ると、そこは広いロビーになっていた。開いているソファを見付けたベルはそこに腰を下ろし、無造作に眼鏡を引っ掛ける。後ろを付いて歩くデイビーも、その隣に腰掛けた。そしてベルがばさばさと捲る書類を一緒になって眺める。だが、デイビーには幾ら見てもそれがただの地図にしか見えなかった。首を傾げてベルを見るが、彼女は例によって銀色のメッシュの生え際をがりがりと引っ掻きながら没頭している。デイビーの存在すらほとんど忘れているようだった。
 ふと忙しなく紙を捲っていたベルの指が止まった。そして彼女の目は食い入るようにその書面に注がれる。髪を掻く手すら止めて、彼女は見入っていた。
 「……?」デイビーが無言で覗き込もうとした瞬間、大振りな仕草でベルは立ち上がった。その拍子に、書類を握ったまま振り上げられた彼女の腕がデイビーの顔に見事にはまる。あ、とベルが小さく声を挙げるが、デイビーは鼻と眼鏡を押さえつつも笑顔で手を振って見せる。すぐにベルは緊張感を滲ませた笑顔を浮かべた。一番彼女らしい表情だとデイビーは思う。
 数歩足を運んで、不意に彼女は言った。「……地下に潜るわよ」
 ばさりと髪の毛を掻き揚げる仕草は、多分に無意識の内だろう。首を傾げるデイビーに、にやりとベルは笑顔を見せた。「一個見付けた」
 問題は解除出来るかよね、と一人ごちるベルの傍らでわからないなりに着いて行くデイビーは、ふと足元に軽い衝撃を覚えた。見ると、小さな男の子が尻餅を突いている。その子のすぐ後ろで、もう一人の同じくらいの男の子が呆然と立っていた。二人とも驚きの余り固まってしまったようだった。
 ふとデイビーは少し笑って屈み込むと、転んでいる子供を抱き起こした。そして二人の頭をぽんぽんと軽く撫でる。どぎまぎとして、二人の子供はまるで逃げ出すように踵を返すと駆け去って行ってしまった。彼等の向かう先に、子供を叱る母親らしき女性の姿が見える。デイビーに気付いた彼女は軽く会釈をすると、子供達の手を引いて奥の方へと向かった。
 デイビーがようやく振り向くと、ベルは既に少し離れたところを歩いていた。慌てて彼は駆け寄るが、顛末に彼女は全く気付いていない様子だった。不意にデイビーは、表情を強張らせる。
 (……頼むよ、レディー)


 文字通りベルは地下へと潜って行った。エレベーターで地下二階まで降りると、『関係者以外立入禁止』の扉の間を擦り抜け、鉄筋の螺旋階段を、足音を忍ばせて降りて行く。僅かな衣擦れの音すら厭うようにスカートの裾を掴んで、そろりそろりとベルは足を運んだ。身軽なベルですらこの状態なのだから、デイビーに至ってはほとんど息すら止めていた。
 二人は静かに、薄暗い地下三階へと降り立った。荷物の運搬路になっているらしく、幅の広い廊下が縦横に整然と伸びており、その上でちかちかと揺らぐ蛍光灯が光を落としている。そしてその両脇の壁面には、ガス管が複雑怪奇な形に配管されていた。デイビーは少し首を傾げ、ベルの真意に気付いて目を瞠る。
 ベルは前だけを見据え、束ね髪を後ろに颯爽と流しながら早足に突き進んだ。
 「……どんなに威力がある爆弾でも、三つやそこらでこの建物は全壊出来ないわ。多分、ガス爆発も誘発するつもりよ。この地下が崩れたら、地上部は陥没するしかないからね」僅かに息を切らして、ベルは早口に言った。そして不意にぴたりと足を止める。
 彼女はふと壁面に目をやり、じっと目を凝らした。そしてその視線を上に向ける。しばらくふらふらと視線を彷徨わせていたベルは、ある一点に視点が触れた瞬間表情を険しくする。デイビーもその点を凝視するが、複雑に絡まった配管の接続部があるようにしか見えない。眼鏡を鼻の頭に押し上げてまじまじと眺めていると、ようやく管の陰に両拳を組み合わせたくらいの大きさをした円筒が見えた。色といい形といい、ガス管の中に綺麗にはまり込んで全く違和感を与えない。
 おもむろにベルはデイビーから鞄を引っ手繰ると、ペンチとドライバーを取り出して握った。そして配管の一部に足を掛けて、思い切り背伸びをし始めた。それでも彼女の手はなかなか目標物に届かない。
 見兼ねたデイビーは、おもむろにベルの身体に腕を回すと抱え上げた。一瞬だけベルの表情から虚勢が消えたが、すぐに彼女はデイビーの肩を更なる足掛かりにして体勢を整える。
 そしてデイビーの顔に向かって吐き捨てるように言った。「上見ないでよ。見たら殺す」
 やれやれとデイビーは壁に手を突いて、下を向くことにした。幾ら何でもこんな状況下で欲求不満を解決しようとするほど自分は馬鹿でないと信じたい。
 ベルはごくりと息を飲んで、目当ての物を見詰めた。ガス管の後ろに半分潜んだそれは、一見ガス管のジョイントに見えなくもない。けれど、それと恐らく同じ構造をしている爆弾をベルは目の前で見て知っていた。あの車の中で甫民が器用に作っていたものとカバーが違うだけで、恐らく同型のものだろう。大きさと僅かに外にはみ出した配線から見当を付ける。
 彼女は眼鏡を指の腹で押し上げると、慎重に指先でカバーの表面をなぞった。そして感触を確めると、おもむろに細いドライバーの先端をプラスチックカバーの上に突き立てる。一瞬だけちりり、と音がしてびくりとしたが、すぐに爆弾は大人しくなった。
 ベルは少し目を細めて記憶を手繰った。確か、途中の街に置いて来た爆弾がこれによく似ていたはずだった。時間がなかったので日中通過しただけの街なのだが、そこの通信局は今後の為にも破壊しておきたかった。だが街の中心部にあるその建物を白昼堂々と破壊するのはさすがに抵抗があったので、深夜に起動するよう甫民が時限爆弾を仕掛けていたのだった。
 あのときは、円柱状の灰皿の中に仕掛けたはずだ。そのときの配線の様子と、彼の手付きを懸命にベルは思い出す。既に目の前で彼は三十種を超える爆弾を作って見せてくれていた。それを全て記憶して、思い出すのはさすがの彼女にも至難の業であった。
 ベルは眉をひそめると、ようやくドライバーで開けたカバーの穴にペンチの刃を刺し込んだ。それから、それを複雑な形に切り開く。少しでもずれると、爆弾は目を覚ます。起こさないようにするには一定の配線に触れないようにすればよい。規則に沿って並ぶ配線はいつも同じ物ではないが、無限に自由に広がっている訳でもない。必ず配線に触れない場所が、僅か一ミリの幅だとしても必ず連続して存在している。
 注意深く彼女はカバーを外した。そして幾つかの銅線を見比べると、その内の一本を選んで目一杯引っ張る。何の反応もないので力を込めてぐいと引くと、突然線の先端が引っこ抜けた。体勢を崩してベルはデイビーの肩から片足を踏み外す。
 慌てて細いコードを片手に握ったまま、ベルは管の一部に手を掛けた。腕に力を込めて、前のめりに彼女は身体を安定させる。ふうと息を吐いた瞬間、ひどく嫌な予感がした。
 下を見ると、こともあろうにデイビーの頭が真っ黒なロングスカートの裾の中に突っ込まれていた。デイビーの片手があたふたと宙を彷徨うのだが、焦っているらしく上手く裾を払えないらしい。
 瞬時に顔を真っ赤にしたベルは、そのままデイビーの脳天に踵を落とした。彼女がもう一瞬理性を取り戻すのが遅かったら、きっと彼女の握るコードの先端に付いた雷管はデイビーの顔面で炸裂したであろう。
 もう爆発する可能性を持たなくなった甫民の創作物を残して、ベルはデイビーの肩から飛び降りた。まだ気の収まらない彼女は、もう一つおまけにデイビーの横っ面に張り手を入れる。情けない表情で、デイビーは甘んじて不条理な運命を受け入れた。
 ふとベルは、もう一度爆弾を見上げた。雷管をなくして爆発する術を失ったそれは、為す術もなくぼんやりとそこに佇んでいる。ようやく、あの予告が脅しではなく実体を伴ったものだったのだと言う実感が沸いて来た。遅れ馳せながら、ぞわりと背筋が寒くなる。
 目に力を入れて、用のなくなった爆弾を睨み付けると、ベルはデイビーの腕の時計を見た。午前十一時まで後丁度十二分。思いの外に時間が掛かってしまった、と歯噛みしつつ、ベルは次の目的地を探すべく足を運んだ。
 制限時間は七十二分――三つ目のタイムラグを考えると、七十五分。その間に二つの爆弾を探し出し、解除しなければならない。途方もないとはわかっている、だが、何とかしなければならなかった。


 細かい指示書を書き込んでいた弓は、執政室の直通電話が鳴ったので顔をしかめつつ取った。番号表示は、あの総務役人の金の携帯電話を示している。彼が下らない用事で電話をしてくることはない、まず間違いなく緊急の連絡だった。
 「何だ」仕事を中断せざるを得なくなった不機嫌さで、弓は訊ねた。
 あのいつも凡庸としているように見える総務官が、僅かに起伏のある口調で言った。彼は前置きを付けない。『黒髪のセ・カンメイを発見しました。間違いありません、中華政府による工作員予備軍認識票が前髪に入っています。瀬戸甫民は見当たりませんが、代わりに若い大柄な男を連れています――アングロサクソンのようですが』
 思わず弓は目を剥いた。なぜ、と叫びそうになる言葉を咽喉の奥に飲み込む。(……裏を掛かれた?)
 深読みし過ぎだったとは思わない。あの成り行きならば、彼女が甫民と組むのは至って自然なことだった。別行動を取ることにしただけなのか、あるいは初めから何の関係も持とうとしなかったのか――いずれにしても、推測が外れたことを認めるのは癪だった。
 そしてそれ以上に、金からの報告に不自然なほどの嫌悪感を覚える。
 (若い、男――)
 施氏が愛するのは、皇帝だけのはずなのに。そのことに最初に気付いたのは、他ならぬ自分なのに。自分の知らない彼女の姿を自分でない誰かが知っているのが不快で――恐らく彼自身気付いていないその感情は、嫉妬だった。
 上擦りそうになる声を必死に鎮めつつ、彼は尋ねる。「……どこだ?」
 意外な返事が返って来た。『平壌中央会議場です。現在二階部分で、地図のような物を広げて何か探しています』
 「……は? その前に、お前は何をやってたんだ」
 弓は時計を盗み見る。爆発予定時刻まで、後四十分を切っていた。もはや会議場に人が集まったのなら、用はないはずである。
 だが、のんびりとしているようにも取れる調子で金は答えた。『ぎりぎりまで見届けておこうと思ってました。どうしましょう?』
 一瞬何を、と問い返しそうになった弓は、すぐに言い直した。「何をしているのか確かめろ。公安をすぐにそちらに向かわせる。爆発に巻き込まれないように彼女も正午前には会議場から出るだろうから、人目に付かないところで拘束する」
 『……はあ。あ、何やらベンチの下から鞄なんか引っ張り出しています。……あの、どうも爆発物処理をしているように見えるのですが』困惑を滲ませつつ金は言った。普段は冷静な弓も、思わず頓狂な声を出す。「はぁ?」
 さすがは施氏、やることが意味不明、等と馬鹿馬鹿しいことで感心しつつ弓は指示を出した。「……わかった、ならばわたしもそちらへ向かおう。何が何だか訳がわからんが、相手は施氏だ。侮らずに監視を続けろ」
 金は気もそぞろな様子で答えた。『あ、はあ。わかりました。あ、何やら走ってます。小会議室の準備室みたいなところへ飛び込んで行きました……あ、何か持って出て来ました。ガムテープでしょうか』
 「いちいち中継するな!」そう言い捨てると、弓は電話を切った。そして立て続けに公安に連絡を入れ、指示を出す。「施氏を発見したとの報告が入った。平壌中央会議場だ、気付かれないように装備して向かえ。……ああ、わたしも同行しよう。爆破? そんなもの臨機応変に対応すればいいだろう」
 そしてようやく受話器を置き、腕を組んだ。
 やっとあの施氏を捕まえられる、そう思うと、知らずに気が逸った。


 このロビーはどこかで見たような気がする、と不意にベルは思った。いわゆる既視感だろうか、とも少し考えたがすぐに、かつてこのロビーと同型のものを持つ劇場で演劇をしたことがあったのだと言うことを思い出した。恐らくあの劇場と同じ図面を用いたのだろう。
 その劇場は、もうどこにもない。かつて『プログラム』に巻き込まれたとき、その会場に選ばれたのが思い出の劇場の周辺地域だった。そしてその悪質なゲームの最中にその劇場は、無残にも吹き飛ばされて消えてしまった。
 あの劇場で自分が上演したのは何だったっけ、とベルは少し考えた。そしてすぐに思い出す。
 「体格や実力を考えたらあなたの他に演じられる人間がいない」と、プライドの高い演劇部員が頭を下げたので、やむなく客演したのだ。そんな面倒なことを引き受けた最大の理由は、脚本が気に入ったからだった。
 ――演劇部が選んだ脚本は、政府推薦の新劇や芸術連盟の指定した課題劇ではなかった。国内に存在する中では最も過激で眉をひそめられる、けれども芸術的価値は最も高い――戦前に国内にもたらされた、西欧の古典劇だったのだ。
 中世英国最大の脚本家、ウィリアム・シェークスピアによる『真夏の夜の夢』だった。
 (……『もしもお気にさわったら 夏の一夜のまどろみに見た 夢まぼろしとお考えください』)悪戯好きの妖精の、台詞もまだ完璧に覚えている。あの人を喰ったような態度の演技も、爪先だけで滑るように飛び回る身のこなしも、揺れる衣裳もドーランの臭いも全て生々しく覚えている。はっきりと思い出せる――はっきりと、思い出さされた。
 ベルはぐいと首を振る。(ここを、あの劇場と同じにする訳にはいかない)
 そして、どこかの団体から借りてきたガムテープをびっと引いた。それを切って腕に仮止めすると、慎重に鞄の中を覗き込んだ。その拍子に束ねた髪の一部がガムテープにくっ付いて、無理に引っ張ると痛かった。
 二つ目の爆弾は、劇場のほぼ中心部に位置するロビーのベンチの下に隠されていた。会議場全体を覆うガラスの壁を均等に破壊するには、この位置から周囲へ向けて衝撃を与えるのが一番効率がよい。地図を見ながらベルが計算したのとほぼ同じ位置に、鞄の形にカモフラージュされた爆弾は仕掛けられていた。
 嫌な予感がして、ベルは慎重にそれを開いた。そして黒い目を瞬かせた後、頭をがりがりと掻いて息を潜めた。
 この爆弾には、複雑な仕掛けは一切つけられていない。時限装置すらついていない『時限爆弾』の構造は極めて単純だった。恐らく強力な火薬を詰めているらしい小箱の上に、ハンドボールくらいの大きさの鉛玉が載せられているだけなのだ。後は一切の配線もない。
 丁度地雷と同じ構造なのだ、とベルは思う。この爆弾は、既に鉛のボールによって踏まれた地雷と同じ状態になっていた。踏まれている間は構わないが、問題なのはスイッチを踏み付けた足――ではなくボールが離れた瞬間だった。スイッチに加えられた力がなくなった瞬間に爆弾は炸裂し、建物を破壊する。
 鉛の玉は僅かな振動では動きそうになかった。きっと――一つ目の爆弾が起動したショックで建物全体が大きく振動した際に、連鎖的にボールが落ち、爆弾が作動する仕掛けになっていたのだろう。
 単純な構造の爆発物ほど性質が悪い。さすがのベルにも、これを解除する方法はわからなかった。仕方なく彼女は、ボールが爆弾のスイッチを押した状態のまま動かなくなるよう、ガムテープで固定することを思い付いたのだった。念の為にデイビーを見張りにつけておき、何とかガムテープを調達して彼女は戻って来た。
 汗ばんだ手でボールを仮止めし、その後ガムテープをあらん限りに巻き付けると、さすがの爆弾もびくともしなくなった。ほとんど新品同様だったテープのほぼ四分の一を使ってしまったベルは、何とか愛想を窺いつつ元の持ち主に返却した。そして爆弾を鞄に詰め直し再びベンチの下に隠す。最後に撤収する際に、一緒に持って行けばよいだけだ。
 ベルはちらりと時計を見た。後三十分を切っている。
 地図も広げず彼女は踵を返した。ベンチに座ろうとしていたデイビーは慌てて立ち上がり、長い足を持て余し気味に捌きながら追い掛けて行く。何度か爆弾を残したベンチを振り返っていたが、やはりベルの意思に逆らうつもりはないようだった。
 残るところ、後一つ。ベルは小走りにエレベーターへと向かって行った。


 弓は車から降りると、腕を組んで機動隊の前に立った。二十人体制の盾を構えた一団は、会議場の裏手の人工林で一部の乱れもなく佇んでいる。高々小娘一人を捕まえるのに仰々しいか、と少しだけ弓は思ったが、相手はあの施氏だと考え僅かに眉をひそめた。相手に不足はない、むしろ少な過ぎたかもしれない。
 ふと弓は空を仰いだ。木々のざわめきが耳に付く。まだ空は青いが、幾らか雲行きが怪しくなり始めていた。現在の進路では台風はこの平壌に直撃するものとなっているらしい。変速台風なのでいつ頃上陸するかよくわからないが、恐らく幾ら遅くとも夕方にはここも暴風域に入るだろう。
 弓は軽く舌を打つ。一瞬あの少女が、この台風すら呼び寄せたように思えたのだ。――だとしたら、これが自分達にとって有利な要因になるはずがない。(何を馬鹿な)
 会議場から出て来たあの密偵の金が隣に立ったのを確かめて、弓は機動隊の連中に言った。「第一級テロリストの存在が確認された。身体的特徴は――金総務官、お前の見たままを言え」
 「年齢は十八とのことですが、もう少し幼く見えるかもしれません。小柄で、袖のない黒のワンピースを着用していました。髪はロングヘアーの束ね髪、前髪に銀色のメッシュが入っているので目立つと思います。大柄な若い男が同行しています」本当に見たままを淡々と金は述べた。
 ほとんど感情の混じらない意見を並べた後、一言だけ彼は付け加えた。「これはあくまでわたしの主観ですが――いわゆる女傑の形ではありません。比較的可愛らしい身形と言えるかもしれません。だからこそ、油断のないように」
 珍しいな、と思いながら弓はスーツの袖を引いて腕時計を見た。(お手並み拝見、というところか)
 弓は建物を見上げた。爆破予告の正午丁度に何も起こらなければ、あのあどけなさの残る少女は誰もが無理だと踏んでいる爆発物の処理を成し遂げてしまったことになる。もし仮に失敗したなら――彼等が手を下すまでもなく、彼女は自滅するまでだった。
 巻き添えを食うつもりはなかった。正午まで待ち、結果が出てから突入しても遅くはない。あらゆる出入り口は既に塞いでいる。彼女が生きてこの会議場から出る術はたった一つ――無事爆弾を解除し、弓達に生け捕りにされることだけだ。
 まんじりともしない機動隊員に弓は命じる。「突入は、十分後の正午丁度。先導は金総務官に担当させる。迅速に、決して気取られないように、拘束せよ」
 盾を構えた物々しい一団は、声もなく素早い敬礼をした。
 不意に激しい風の塊が、ごうと言う音を立てた。


 巨大なロフトのような建物の最上階は、まるで小さな広場のようになっていた。至るところに巨大な観葉植物の鉢が置かれ、ガラス張りの天井から眩い光が滝のように降り注いでいた。中央には巨大な円形の手摺りが巡らされ、その奥は吹き抜けになっている。覗き込むと、下のロビーが丸ごと見渡せるようになっていた。近代建築ここに極まれり、とこの会議場が評される所以である。
 さすがに人気の少ないここを、足早にベルは突き進んでいた。ぶつぶつと何やら計算式を唱えていた彼女は、不意に一つの鉢の前で立ち止まる。ランダムに置かれた鉢の一つだけ、少し位置がずれていたのだ。
 目算でその位置を数値に直して、ベルは再び計算を唱え直した。そして目を瞬かせると、その鉢の隣に膝を突いた。
 デイビーは背の高いその鉢を見上げる。白いふの入った濃い緑の葉が、真っ直ぐに伸びる幹から突き出して垂れている。いかにも生命力に溢れたその樹は、ドラセナ・マッサンゲアナ――ドラゴン・ブラッド・ツリーだった。
 不意に彼女は怪訝な表情を見せると、鉢の土を少し掻いた。爪の間が泥だらけになるのにも構わずベルは土を掻き、突然手を止めた。デイビーも脇から覗き込むと、半分土を被った小さな箱が見えた。多分ベルの掌にも納まってしまう程小さなその箱は、ライトグレイの強化プラスチックで出来ている。
 それを注意深く掘り出したベルは、しばらく確かめるように覗き込んだ後、何度か首を傾げた。「……何で、わざわざこの木を……」
 その鉢の位置は、爆発が起こったときに最も安全な場所であった――丁度、建物が崩壊したときに瓦礫の山の頂上にくるはずだ。僅か数センチ単位の計算であるが、多分ほとんど誤差は出ないだろう。敢えて爆弾を仕掛けた人間が鉢の位置をずらしたということになるが、それは納得の行くことであった。
 (『竜血樹』を瓦礫に埋めるのは、旧王朝派の人間にとって抵抗があるはず)
 だとしたら、わざわざその鉢の中に爆弾を仕掛けていたと言うことはどう言う意味だろう。もはや最後の天子を見限ったという意味であろうか――だとしたら、何故鉢を移動させる必要がある。
 ふとベルは前髪のメッシュをがりがりと掻いた。
 「あ……」
 もしかして、と思うと同時に、まさか、と言う感情も走る。
 まさかあの甫民が、そんなことを。そんなことを――。
 ベルは眼鏡を鼻の上に押し上げると、注意深くその箱の『蓋』を探した。そして僅かな隙間を見付け出すと、そこにマイナスドライバーの先端を差し込む。少し力を込めると、案外呆気なく蓋は空いた。
 その中を覗いたベルは、一瞬表情を強張らせた後、小さく溜息を吐いた。「……馬鹿だ」
 そして彼女は特に解体作業も行わず、そのまま蓋を閉め直してしまった。思わずデイビーは何度も目を瞬かせる。そんな彼に僅かにベルは疲れた笑みを見せた。「今何時?」
 ハングルで言われた為に言葉の意味がわからず、デイビーはきょとんとする。初めから回答を期待していなかったらしく、ベルは吹き抜けの中央に立つ時計台の方にのろのろと顔を向けた。いつの間にか、時計の長針は正午よりも六度右にずれた位置を指していた――午後零時一分である。
 「――よかったぁ」心底から湧き出してきたようにそう呟くと、ベルは膝を崩した。スカートの裾からはみ出した脚に構いもせず、彼女は床に手を突いて息を吐く。まだ自分が成し遂げたことの意味がよく理解しきれていなかったし、実感もまるでわかなかった。ただ、やるべきことをやったという充実感が背中にずしりと圧し掛かっているかのように、どっと疲れを覚えた。
 しばらくぎゅっと目を閉じた後、眼鏡を外しながらベルは言う。「……ごめんデイビー、もう大丈夫。次行こ……」
 その瞬間、彼女のすぐ傍で何の前触れもなく鈍い湿った音が響いた。
 「え……」眼鏡を外した直後で、焦点の合わない目をベルは必死に凝らす。そして彼女はしばらく自分の目を疑うだけ疑った後、状況を納得せざるを得なくなった――周囲を、盾で武装した警官に囲まれていたのだ。足元に目を注ぐと、デイビーの眼鏡だけが落ちている。
 デイビー本人は、と首を巡らせると、すぐ隣にいたはずの彼はぐったりとしたまま数人の警官に引き摺られていた。その項からシャツの襟元に、赤い染みがじわりと滲んでいる。後ろから不意打ちで頭を殴られたのだ、と気付いたときにはベルの理性は吹き飛んでいた。
 思わず兵士に掴み掛かろうとしたベルは、その瞬間に背後から両手首を強く掴まれて動けなくなった。がくんと前のめりになりながらベルは叫ぶ。「放して!」
 「それはちょっと無理な注文だ」闇雲にもがくが、一層強く腕を締め上げられて彼女はじりとも動けなくなった。
 「名立たる施氏が、呆気ないもんだな」
 皮肉そうな笑みを含んだ声で、ベルを掴んだ男は言った。しばらく放せと喚いていたベルは、ふとその声に聞き覚えがあることに気付く。何とか辛うじて動く首を巡らせて、彼女はその男を見上げた。
 そして彼が誰なのか認め、ベルは呆然と呟いた。「……あんた」
 「久し振りだな、蝉の嫌いなお嬢さん」男は、薄情そうな薄い唇を歪めて微笑んだ。「全くあんたは、何をやらかすのか見当が付かない。官邸の中に入り込んでたかと思えば、こんなところでうろちょろと」
 噛み付くようにベルは叫んだ。「デイビーを放して! 彼は関係ない!」
 「おや、尻軽女が。皇帝からアメリカ人に乗り換えたのか」愉快そうに男は鼻で笑い、唇を歪める。「気絶してて動けないよ、彼は。――大丈夫、大切な証人だ。あんた共々殺しはしない」
 ベルは首が動く限りの周囲を見渡した。二十数人の機動隊が盾を構えて彼女の周りを取り囲んでいる。そして彼女を掴んでいる男と、もう一人少し離れたところにいる凡庸そうな男の二人だけが、文官風のスーツを纏っていた。いつの間に、とベルは歯噛みする。いつの間にこちらの行動が洩れたのだろう。
 と、その瞬間にベルの足元でかちりと音がした。零時三分が来たのだ。武装した警官達が一斉に顔色を変え、そちらに盾を向けた。ベルをほとんどぶら下げるように掴んでいる男も、驚いたようにそちらを向く。「……解除してなかったのか?」
 本来なら、きらきらと輝く瓦礫の山の頂点で炸裂する予定だったそれは、華やかな音を立ててベルの――男の足元で弾けた。
 軽やかなぱあんと言う破裂音と共に、その箱は男の足元から色取り取りの花吹雪を勢いよく吹き上げた。天井に届かんばかりの勢いで舞い上がった無数の鮮やかな紙切れは、まるで吹雪くように彼等の周囲に降り注ぐ。花だけでなく、蝶の形に切り取られた紙切れもあった。それが次から次へとまるで噴水のように小さな箱の中から吹き出した。天窓から注ぐ光が、その色吹雪を一層鮮やかに照らし出していた。空の青さに、それはひどくよく映えた。
 幾枚かの白い紙がその中に混じっているのが見えた。そこに小さな墨文字で書かれた文字は、読むまでもなくわかる。あの老人の手書きの文字が綴るのは、彼等のスローガン――『皇帝奪還』。
 誰もがその光景に面食らい、呆然と立ち尽くした。それは余りにも美しい光景だった。
 思わずベルは笑い出した。目一杯身体を反らして、あらん限りの声を張り上げて笑った。周囲の誰もがぎょっとしたような視線を向けるが、まるで気にならなかった。
 愉快だった。とにかくとてつもなく愉快だった。
 ――かくして稀代のテロリスト、ベル・グロリアスは拘束された。




モドル | ススム | モクジ