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第十夜


  優しい娘さん あなたの髪に赤い花を挿してもよいですか

  可愛い娘さん あなたの髪に黄色い花を挿してもよいですか

  清しい娘さん あなたの髪に白い花を挿してもよいですか

  綺麗な娘さん あなたの髪に青い花を挿してもよいですか


  愛しい娘さん 僕のお嫁さんになってもらってもよいですか

(中国雲南省長沙シャニ族民謡)



   第十夜



 降りしきる雨の中、羅州の軍人率いる義兵団は高級住宅街の周辺に張り巡らされた塀へと押し掛けた。
 小さな監視塔にいた兵士等は初め、自分達の同僚である軍部の人間がやって来ているのを見て、台風通過後のこの地域に異常がないか確認に訪れたのだと誤解していた。この時点で勝負は決していたと言っても過言ではない。
 普段は塀の周りの警備は厳しく、「下界」で暮らす人間は排除され近付くことすら出来ないようになっていたのだが、あの暴風雨によって住宅地内の用水等が一部決壊したり塀に損傷が出来たりして、かなりの人手がその復旧の為に割かれていた。その隙に幾つかの分隊に分かれた義兵団は、巨大な塀の比較的脆い部分に容易に近付けた。
 更に少人数のゲリラ隊が、義兵団の反対側で騒ぎを起こす手筈になっていた。そのゲリラ隊の隊長として、あの荒れくれどもを率いる女傑の権が選ばれた。実は小魚はこの部隊に参入して、乾朝残党を呼び集める為に使われるというあの蒼い炎の火薬を使いたかったのだが、嵐のときに荷物諸共流されてしまっていたことを思い出して諦めた。第一、軍部がその火薬を知らないはずがない。乾朝残党と同時にそれを知った軍隊をも強く引き付けてしまうであろうその火薬を使用するのは、有効かもしれないが、この場では余りにも無謀だった。
 小魚が加わったのは、叛旗を翻した兵士達が結成する先鋒部隊だった。正面から近付き、向こうが油断したところに切り込んで突破口を作る。夜明け前に何度も皆で確認した手順を、再び小魚は口の中で暗誦した。
 ふとそんな小魚の背中をばんばんと叩きながら全が言った。「お前さ、何か物凄い似合うよなその格好」「うん、軍人には見えないけど似合ってる」楊も明るく相槌を打つ。
 小魚は思わず、軍服の上に支給品の安っぽい雨合羽を被った自分の姿を眺め直した。決して彼は大柄な方ではないが、この南部の人々は北部に比べてかなり体格が小さいので、余り見劣りする程でもない。武道も長くやって来たので、姿勢はよいという自覚もある。顔立ち自体も元来年の割には大人びていたし、唯一彼を年齢以上に幼く見せていた切下げの短い前髪も、雨で濡れて額に貼り付き元の髪型をわかり難くしていた。恐らく今の彼を見て、即座に実年齢を当てられる者はなかなかいないだろう。
 自分でもそれなりに見られる形だと思っていた小魚は首を傾げた。「軍人には見えない?」
 目深に被った帽子のつばを正す彼に、笑いながら全は言った。「あのさ、そんなにしっかりしてる軍人ってそうはいないって」
 「そうそう、大抵能無しの指示待ち人間ばっかなんだしさ」苦笑交じりに楊も言う。つられて小魚も苦笑いのような笑みを洩らした。
 ふと、同じ部隊に割り振られた現地警護主任が近寄って来た。北部出身の彼にとって、小魚達の話す標準語は安心出来る言葉なのだろう。丁寧な口調ではあるが、案外気安げに彼は言った。「ところで、あなたは大丈夫ですか?」
 きょとんとした表情を見せる小魚に、少しだけ躊躇うと主任は続けた。「……どっちにしても戦闘回避は難しいです。そうなると一番の激戦区は恐らくここになるでしょうから」
 ああ、と小魚は微笑んだ。「銃火器はよくわからないのですが、白兵戦だとそこそこ自信あります」
 それに、と少しだけ抑えた声で彼は付け加える。「これでも殺し合いは経験してますから」
 蔡は一目で見て取れるほどに表情を暗くした。楊と全もばつが悪そうに目配せをしあう。気にしないで、と言い掛ける小魚の言葉を遮るように彼は言った。「……わたし達大人が不甲斐ないばかりに、辛い目に遭わせてしまいましたね」
 再び、気にしないで、と口を開き掛けた小魚は、ふと言葉をつかえて黙り込んだ。その言葉は、あのとき命を落とした余りにも沢山の友や仲間に対して余りにも無慈悲で無責任な気がしたのだ。それでも何か言おうとした彼の言葉は、あやふやなまま彷徨った。「……いえ、俺は……」
 と、そのとき不意に小さな電子音が響いた。しばらくその音源をうろうろと探した結果、小魚は自分の胸ポケットに入れていた通信機が呼び出し音を鳴らしているらしいと言うことに気付いた。まだ壊れていなかったのかと驚きながら、彼は遠慮がちに片手で口許を隠すようにして通信機を取る。
 「はい、こちらシャオユウ」
 『あ、やっと出た。こら何やってんのよあんた』ひどく聞き慣れた声が小さな機械越しに聞こえて来た。それがひどく懐かしく、思わず小魚は声を弾ませた。「タイホア」
 昨夜、ではなくて一昨夜のことを思い出すと少し気恥ずかしい気がしたが、それを指摘するともっと照れ臭かったので、敢えて小魚は触れないようにした。「何だかお久し振りだね」
 『なーんか変な感じだわ』機械越しに苦笑するような音が聞こえた。
 それでも、向こうもどうやら安堵しているらしい。少し早口に、彼と同じ声音の姉は言った。『もう、全っ然連絡が付かないし、心配したのよこれでも。どうしたの、どこにいるのよ今。そっちは上手く行ってる?』
 「いっぺんに訊かれても答えられないよ」苦笑交じりに言いつつ、彼は説明した。「台風で電車が止まっちゃったんで、羅州で降りたんだよ。色々あったけど、何とかこっちは大丈夫だよ」
 そして上目遣いに軍服姿の仲間を見上げた。小さな声で揶揄するように笑う者もいれば、わざわざ背中を向けている者もいる。紛れもなく彼等は仲間だった――少なくとも、今は。彼等とて、中央からの至上命令が下されればすぐさまテロリストの敵に回らざるを得ないのだろうが、それでも今は同志だった。大丈夫だ、十分信頼出来る。
 通信機越しに、大花は得意げに言った。『こっちも上手くやってるわよ。何の武器も使わずにソウルを陥落出来そうな勢いよ』そして思い出したように付け加える。『あ、そう言えばシャオユウ、あんたあの火薬どうしたの? まだ使ってないでしょ』
 「ああ……うん。使わないまま暴動を始めちゃったんで」少し声の調子を落として、小魚は言った。
 すると大花は意外なことを言った。『あ、やっぱ暴れてるのね。大丈夫、敵方に援軍は来ないから、安心して思う存分やりなさい』
 しばらく意味のわからなかった小魚は、思わず大花の台詞を反芻した。「敵方に援軍は来ない?」
 聞き耳を立てていた全辺りが目を瞬かせる。少し小魚の周りがどよめいた。
 恐らく大花は得意満面の笑みを浮かべているのだろう、声だけでそれは想像出来た。『ソウルの南に防衛線を張ったからね。そこから南には軍隊の指揮が届かないから、精々頑張りなさい』
 「ちょ、ちょっと待ってどう言うこと?」小魚は慌てて尋ね返した。
 と、その瞬間、彼等の周囲を轟音が襲った。はっと思わず顔を上げると、塀が囲う広大な敷地の反対側、丁度ゲリラ部隊が控えている辺りから吹き上がる炎と立ち上る煙が見えた。そしてその瞬間に彼は目を疑う。
 「……おい、どう言うことだよ」目を疑ったのは小魚だけではなかった。誰とはなしに呟いた言葉から、動揺が広がる。
 『そっちも取り込み始めたみたいね。大丈夫シャオユウ? ねえ、大丈夫?』
 大花に何度か呼ばれて、ようやく我に帰った小魚は早口に言った。「ごめん、ちょっと大変なことになった。またこっちから連絡するから」
 いいわよ、と明るい大花の返事を彼女の代わりに喋る機械のスイッチを切ると、小魚はすぐさま駆け出した。
 ――朝の空めがけて吹き上がる炎は、蒼かったのだ。


 「用件は済んだのか?」無表情に大佐は言った。
 頭を掻きながら大花は通信機を眺める。「……っつか、切られちゃった。取り込んでた最中だったみたい」
 そして彼女はアーロンチェアの上で足を組んだ。昨夜のスリップドレスでその仕草をすればソウル中の男が悩殺されるほど色っぽかったのだろうが、借物の軍服では余り効果はなかった。もっとも、現在ソウル陸軍基地の特別個室の中にいるのは彼女の他に全大佐のみなので、元より意図しての行為ではないのであるが。
 折畳型携帯電話に極めてよく似た通信機を弄びながら、大花は言った。「何かね、羅州で暴動起こしたらしいのよ。ちょっと遠くで爆音がしてたから、割と仲間はいるんじゃないかしら」
 「羅州?」机に向かっていた大佐は怪訝そうに顔を上げた。「あそこは台風で甚大な被害が出たそうだが、そんな余力はあったのか」
 「連絡あったの?」膝の上に頬杖を突く大花に、大佐は答える。「救援物資を送らせておいたのだが」
 ふうん、と言った大花は僅かに笑った。「上層部にピンはねされて、下まで行き渡らなかったのかもね」
 「……奴等がそんな真似をすることはないと思うのだが」大佐が眉間を寄せると、古傷が引き攣って一層険しい様相に見えた。
 意外そうな顔をして見せる大花に視線を向けると、大佐は簡潔に説明した。「部下に直接命じて送らせたのだ。元は官邸警備をしていた連中なのだが、先日不審者の侵入を許したので、その罰として羅州まで走らせたのだよ。――もっとも、侵入者の娘の演技を間に受けて情にほだされるような奴等だから、さほどひどい真似はしないと思っていたのだが」
 大花は少し居心地が悪そうに視線を彷徨わせたが、敢えて自分がその侵入者の一味だとは触れないことにした。代わりにがぼがぼの帽子を脱いで、顔を仰ぎながら言う。「もしかして、叛乱軍に加わっちゃったかもね、その人達」
 ふと彼女は、昨夜のホテルからこの基地へ来る間の、大佐の隣で軍用車に揺られていた道中を思い出した。外は激しい吹き降りで本当に車が前進出来るのか疑わしくなるほどだった。報告によると、このソウルでも漢江の一部が決壊し、被害を出していたと言う。羅州がどんなところだか大花にはわからないが(と言うよりも、そもそも羅州がどこにあるのかすら彼女はわかっていない)、少なくともこのソウルよりは田舎に違いない。どのくらいの被害が出たのか、安易に想像が付き過ぎてかえって想像したくなかった。
 もしも大佐が物資と共に送り込んだ兵士が彼の言葉通り情に厚い人柄なら、まんざら叛乱軍に寝返ったと言う考えも当てずっぽうではない気もした。(……あぁ、あの警備兵なら何か結構あり得るっぽい)
 と、その瞬間、ドアがこんこんと鳴った。慌てて大花は膝を直し、その上に両手を載せる。一応今の設定は大佐の娘で、特別にわがままを言って仕事場を見学させてもらっていると言うことになっているのだ。
 大佐は書類を片手に、ドアを一瞥もしない。「何だ」
 かちゃりとドアが開き、入って来たのは背の高い細身の兵士だった。見本のような敬礼に大佐は見覚えがあった。平壌から同行していた、口数は少ないが忠実な直属の部下である。
 兵士は、きつい訛の言葉で報告をした。「申し上げます。ソウル南方二十キロメートルの地点、京畿道との道境線上に防衛線が完成しました。以後警備を固めさせる方向ですが、万一南部で暴動が勃発した場合も進軍の必要はないと言うことでよろしいですか」
 「ああ。せっかくの防衛線も、手薄になっては意味がない。取り敢えずソウルの守りを固めておけば、叛乱軍に屈することはない」兵士からまた新しい書類を受け取りながら、大佐は淡々と指示を出す。
 ふと大花は怪訝な顔をした。その兵士のきつい訛には聞き覚えがあった。(――『すっごい訛だったわよね』)
 まさか、と思いつつ彼女は顔を向ける。そしてその兵士を見上げていった。
 細くすらりとした身体付きで、手足が長い。くびれた腰や無粋な上着の上からもわかる胸の膨らみは、確かに女性のものだった。それに大花はどきりとする。
 (……女性兵なんて、珍しくもない)
 第一自分自身が同じ服装をしているではないか、と不安を打ち消そうとするが、それでも動悸がした。顔を見るのが躊躇われたが、思い切って更に視線を上にずらす。細い首の上に、兵士にしてはやたらと色の白い小さな細面が載っている。帽子で半ば隠れた顔立ちはよく見えないが、それでもその印象的な特徴は十分見て取れた。
 右の頬に走る大きな傷と、灰白のオッド・アイ。
 「……何で」思わず大花は口走った。
 訝しげに大佐は視線を向ける。その兵士もまた、無機質な目を彼女に向けた。
 その眼差しも、その唇も、全てに覚えがある。知っている。よく知っている。とてもよく知っている。
 たった一度しか会ったことはないが、二度と忘れられる相手ではない。
 戦慄く声で、大花は叫んだ。「何で生きてるのよ、朴 繊月!」
 ――朴は、ほんの僅かも表情を変えなかった。


 権率いる羅州叛乱軍ゲリラ部隊は、硝煙の下で静かに武器を用意した。数は多くはないが、その分機動力には自信がある。囮には打って付けだと自負していた。
 高い壁は崩れ、まだ土煙がもうもうと立ち上っている。内側に住む人間の安全を保障していたこの壁は、呆気ないほど簡単に崩れてしまった。それに目を落とした権は、ふと皮肉に口元を歪めた。(……ホンマ呆気ない)
 だが、彼女には感慨に耽っている暇はなかった。間もなくここは混戦の坩堝になる。とにかく、ここに一人でも多くの『敵』を誘き寄せて始末することが目下の目的だった。
 「覚悟はええな」女だてらに叛乱軍の采配を振るう権は、彼女より一回り以上も若い仲間を振り返った。皆一様に、煤で真っ黒な顔に白い歯を見せて笑った。
 あてにならない軍部の代わりに自警団のようなものを組織して、もう随分になる。その間に多少は顔触れが変わったが、彼女にとっては慣れ親しんだ仲間達に違いなかった。むざむざ殺すのは忍びない、とも思ったが、気心の知れた仲間だからこそこんな役回りを共に演じようとも思える。
 その辺りの軟弱な男より遥かに逞しい権は、颯爽と笑って言った。「目一杯暴れるんで。憂さ晴らしじゃ」
 おうっ、と短いが勇ましい掛声が上がった。
 それとほとんど同時に、物々しい武器の音の響きが聞こえて来る。エンジンの音も聞こえるので、恐らく大慌てで敵がやって来た音だろうと見当を付ける。まだ激しく吹き上がる蒼い炎を見上げながら、権は真夏の夜に燃える炎だと思った。焼け死ぬのは文字通り火を見るよりも明らかなのに、それでも無数の虫が惹き付けられて命を落とす。(――なら、うちらも虫かぁ)
 と、その瞬間すぐ傍で銃声が弾けた。ゲリラは一斉に身を交わし、予ねて瓦礫を積み上げて用意したバリケードの影に潜む。それからすぐに、トタン製の長い長いスロープを塀の向こう側に渡し、手榴弾と大量のガラス瓶を一度にその上に転がす。予定していた通りの軌道に沿って一気に下って行った手榴弾は、ガラスの破片とトタンの残骸を吹き飛ばしながら弾け飛んだ。
 その間に、ゲリラ部隊はマシンガンとショットガンを構える。正面突入部隊に優先的に武器を回したので、こちら側に行き渡らなかった分は狩猟用のライフルを代用する。権を含む数人の手馴れたゲリラ兵は、口にマガジンを咥え、敵の火薬や燃料のありそうな部分を狙って撃ち込んで行く。
 ゲリラとして戦うとき、味方が分散していないのは気が楽だった。巻き添えで死ぬ者は今のところいない。
 こちらには装備も限られていたし、弾の備えも多い訳ではない。事実あっと言う間に権の装弾は僅かになった。敵の数は減らせるだけ減らしたが、それでも内側から続々と援軍が出て来ていた。弾切れを起こした者から死をもって戦線を離脱することになるのは誰もが悟っていた。それでもいい、と最後の弾を込めながら権は思う。
 (最後の一人が死ぬ頃には、先鋒は食糧倉庫には入れるな)
 がちゃんと音を立てて装弾し、構えたライフルの引き金を権が引こうとしたそのときだった。
 背後から銃声が響き、彼女が狙っていた警備兵が後ろ様に倒れ込んで行った。驚いて権が振り向くと、そこに軍の制服姿の男達が陣形を取って立っていた。
 制帽のつばを押し上げながら、その内の一人がにやっと笑う。「美味しいとこだけ持ってくんじゃねえよ」
 そして彼等は、バリケードの影から身を乗り出すゲリラを押さえて一気に塀の内側へ雪崩れ込んだ。同じ制服姿に虚を突かれた警備兵達は、思いの外に易々と侵入を許してしまう。彼等が我に帰り、慌てて阻止しようとしたときには既に形勢は逆転していた。
 成り行きを呆然と眺めていた権は、不意に腕を引っ張られた。「一旦退却して。向こうに後衛があります。銃弾はそっちで補充して」
 見上げると、それはあの嵐の中から現れた少年だった。信じられないと言った風に目を瞠り、権は叫んだ。「チバケんな!」
 方言の意味が通じるか否かと言うことも失念して、彼女は捲くし立てる。「何考えとんのあんた等! 何でそんなチバケたことすんの。ちゃんと役を振ったのに勝手なことして、むざむざ皆で心中する気かい!?」
 敵を引き付けるだけ引き付けていた。正面部隊の負担が少しでも軽くなるようにと、精一杯敵をここに集めていた。そんなところに味方までが集まってしまったら、混戦は免れ得ない。権は思わず口調を荒げていた。
 そんな彼女に少年は少し困ったような表情をした後、眉根を寄せたまま笑って見せた。「だって、仲間ですから」
 「仲間って……」絶句する権を尻目に、少年は何やら指示を出し始めた。そして数人の兵士の指示の元、統制の取れた動きで一気に突破口周辺を征圧して行く。やがて柵の内側の兵士達は一旦退却して行った。
 追い掛けようとする権を、あの少年が押し留める。「目的は、殺すことではないでしょう」
 「殺されることでもないで」
 言い返す彼女を後ろに押しやりながら、彼は瓦礫に足を掛けた。それに数人の兵士が続く。
 振り向きながら少年は笑った。「犠牲者は、少なければ少ないほどいいんでしょう――だったら、こっち側の真意を向こうに理解してもらうのが一番手っ取り早いんじゃありませんか?」
 そして、身軽に彼等は塀の向こうへと姿を消して行った。
 呆然と見送った権は、はたと我に返るとすぐ傍にいた軍服の男の胸倉を引っ掴んで言った。「……何で助けたん。お陰で作戦はわやくちゃじゃ」
 「助けて怒られたら、何か腑に落ちないなあ」妙に安穏と、中央から派遣されたと思しき兵士は肩を竦めた。
 そんな彼に、険しい口調で彼女は続ける。「せっかくあの爆弾使ったのに、うちらが敵ゆうことわからなんだん!?」
 「……つか、俺そこまで深く考えてこっちに参加した訳じゃないし」その若い男は権の腕を掴むと、もう片方の手で自分の頭を掻き混ぜた。「でもさ、一応あんた達が敵じゃないってことは把握してるつもりだぜ。――だって、今んとこ俺達の敵は台風で、目標は食料不足を何とかすることなんだろ? だったらあんたも同志じゃん」
 権は目を瞠った。そして、ようやくのろのろと腕を下ろした。


 「二人とも、知り合いか?」大佐はそう尋ねたが、大花は答えられなかった。
 彼の言葉すら耳には入っていなかった。ただ呆然と、死んだはずの女性の唇が動くのを見ていた。
 「……いえ、お嬢様の人違いではないかと」ぶっきらぼうに思えるほど愛想のない無表情で、繊月は答えていた。
 (……お嬢様って誰よ)大花は何度も目を瞬かせた。それからようやく我に返り、叫ぶように言った。「何言ってんのよ!? あんたあの朴の姉でしょ!? 姉妹揃って死んだはずなのに、何でこんなとこにいるのよ!」
 傍から見ればひどく見当外れな質問ではあったが、至極真面目に彼女は尋ねていた。
 年を刻んだ顔の上に困惑の色を滲ませると、大佐は繊月に訊ねた。「……と娘は言っているが」
 「確かにわたしは朴ですが」ひどく淡々と繊月は言った。そして、大花には一瞥もくれずに敬礼をする。「失礼してもよろしいでしょうか」
 「はぐらかさないで!」立ち上がり、大股に大花は繊月に歩み寄った。そして彼女の顔を間近で見上げる――女性にしては長身の大花ですら見上げねばならないほど背の高い女なんて、滅多にいない。第一その顔は、あのとき力なく倒れていた迷惑なクラスメイトの姉以外の何者でもなかった。接客業が骨の髄にまで染み込んでいる大花には、自分が人間の顔を見間違えるなどと考えられなかった。
 「何であんた生きてるのよ!? 妹はどうしたの――何で!? どういうことよ!」
 食い掛かる大花に、繊月は無感動な眼差しを向けるだけだった。ようやく大佐が大花を止めに入る。彼女の腕を後ろから掴み、彼は言った。「すまない、色々あって取り乱しているのだ。お前は持ち場に戻ればよい」
 繊月は大花の手が引き剥がされると、模範のような敬礼をして部屋の扉を閉めた。その始終を呆然と大花は眺める。
 落とした帽子や乱した髪にも気付かず、大花は呟いた。「……何でよ。どういうことよ……」
 「余りこれ以上目立つ真似はするな」彼女の腕をようやく放しながら、大佐は言う。「何か納得が行かないことがあるようだな」
 大花は鋭い動作で振り返る。「納得するもしないも、全然何が何だかわかんない!」
 大佐は向こう傷のある眉間の皺を深くする。「……こちらの方が、状況を把握出来ない。死んだ云々と言っていたようだが?」
 一気に不条理を捲くし立てようとした大花だったが、大佐の静かな口調に少しだけ冷静さを喚起され、取り敢えず一度大きく深呼吸した。そして自分の理性を何とか呼び覚ますと、混乱しているなりに自分の中で筋道を立てて説明をする。
 「……あたしが、『プログラム』の生き残りってことは知ってるでしょ? その、あたしが参加した『プログラム』の会場に、彼女はいたのよ」
 「それは高等学校の学級で行われたはずだ。あの兵士とお前は、どう見ても同学年には見えないが」大佐の質問に頷き、大花は続けた。アーロンチェアを引き寄せて彼女は腰を下ろす。
 「クラスメイトにね、朴江葉って奴がいたの。あの女はそいつの姉。何か、妹を助ける為だか何だかで会場に乱入してきたらしいの。それで、姉妹で結構盛大に人を殺し捲くってたみたいなんだけど――まぁ結局生き残ったのがその妹とあたしの仲間達だけになっちゃって、ぶっちゃけた話そいつを殺した為にあたしは今でも生きてるんだけど」苦々しげにそう言うと、彼女は大佐に目を向ける。
 黙って耳を貸す大佐に、懸命に言葉を選びながら彼女はようやく切り出した。「……その妹を殺すちょっと前に、あたし達はあいつの死体に出くわしてたの。間違いないわ、確かに死んでた。どてっぱらに風穴開けられてね、どんなに早く名医に見せても絶対助からないってくらい完璧な死体だった。――本当はあたし達、一度あの女に助けられてたんだけど、だから見間違うはずもない。生きてるときの顔だって知ってる、覚えてる。なのに……」
 彼女は膝の間で手指を組み合わせると、俯いた。
 しばらく大佐は黙っていたが、やがて低い声で言った。「あれは、つい数ヶ月前に異動になったはずだ。詳しいことは人事に調べさせる」
 大花は顔を上げた。そして信じられないといった様子で彼を見詰める。「……ありがと」
 「ただ、一つだけ確かに言えるのは」大佐は広い背中を向けると、部屋の電話の受話器を取りながら呟く。「……人は、一度死ねば二度と生き返らないと言うことだ」
 目を瞠り、それからぎゅっと唇を噛んで、大花は言った。「……わかってるわよそんなこと」


 武器庫らしきものは大方大破していたが、その瓦礫の山を越えるとそこには、見たこともないような景色が広がっていた。道幅は広く、その両脇に生垣で囲まれた巨大な庭と邸宅が見える。よく見るとその庭の中には折れて倒れた樹も少なくはなかったが、致命的な打撃を受けた建築物はほとんど見られない。白亜の壁を誇る数々の邸宅は、むしろ風雨に洗われて一層の威容を誇っていた。
 ふと小魚は足元を見下ろした。舗装された道の上に水の流れが溜まっていて、その上に白や紅の花弁が散っていた。
 (……ここも、羅州か)彼は、不意に花弁をむしりたいような衝動を感じた。あの決壊した河の氾濫に、全てを押し流されたのも羅州。そして、この花が養分を吸い上げている土も羅州。この小さな花に与えられている恵みすら得られず喘ぐ人々がいる。
 「――この道の突き当たりが、代表者んちみたいだな」
 顔を上げると、小魚の隣で楊と言う名前の兵士が、宅地図を広げて睨んでいた。「見たところ警備もそれほど厳しくない。まあお偉いさんは戦いに慣れてないだろうから、俺達が武器を持ってないってわかったらすぐに交渉できるだろうな」
 案内役を買って出た、公孫とか言う変わった名前の男がふと呟くように言った。「――まあ、交渉に持ち込むの自体は、難しゅうはねえじゃろ。平壌から来た、しかも全秀漢の部下っつったら、そりゃあの男は平身低頭で迎えてくれるわな」
 確か、彼は自警団の中では比較的古参だと言う話だったが、その割には案外若く見える。だが、その顔は言葉とは裏腹に険しかった。
 怪訝そうにその横顔を見上げながら、小魚は言う。「代表者を、ご存じなんですか?」
 つられたように楊が目を向ける。は、と短く公孫は笑った。「まあな。自警団おったら誰でも多少の面識はあるけぇ」
 不思議そうな顔をする二人の鼻先で、彼は人差指を突き出した。見ると、そこに一際大きな門扉が見える。背の高い塀にはタイルが所々にあしらわれて、一見すれば趣のある邸宅だった。ただ、目を瞠るような物凄い大豪邸を想像していた小魚は、多少の肩透かしを食わされた気分になる。
 (……うっかりデイビーの実家みたいなの想像してたよ)国土自体が狭いのだから、考えてみれば物理的に不可能なのだ、と思いついて何となく小魚は苦笑した。何だかんだ言っても、この居住区の外の世界とは比べるよしもない規模の屋敷なのだ。
 「ヤンゆうたな、兄ちゃん。身分証明書あるか?」言われて、慌てて楊は自分の胸ポケットを探る。くたびれたカードケースの中から写真付きのIDカードを抜き出すと、彼は少し眉をひそめたが、正面に向き直った。
 門扉は固く閉ざされていたが、その隣にはインターホンとカメラの付いた呼び鈴がある。公孫は少し笑うと、呼び鈴の隣の壁に背中を預けた。
 「こっから先はあんた等で行き。わしゃ入れんじゃろから」そしてひらひらと掌を振る。
 小魚と楊は顔を見合わせたが、小さく頭を下げると小魚が呼び鈴を押した。りー、と言う微かな音がホン越しに聞こえる。
 指を離してからもなかなか反応がなかったので、もう一度押そうかと指を当てた瞬間、機械越しの声が聞こえた。『はい、どちら様でしょうか』視野の端で、公孫が軽く肩を竦めるのが見えた。
 一瞬躊躇ったが、ホンに向かって話し掛けたのは楊だった。カメラに向かって、自分の顔とIDカードと並べて見せるのを忘れない。「あの、羅州基地に派遣された軍部の者ですが――」
 『失礼ですが、どのようなご用件でしょうか』少しイントネーションのおかしい女の声は、あくまでも慇懃に対応する。緊張に身を強張らせたまま、楊はおずおずと言った。「え、えと……ちょ、ちょっとご主人と、お話したいことがありまして……」
 間髪入れず、声は答えた。『少々お待ち下さい』
 まさかこのままインターホン越しに交渉する羽目になるのだろうか、と小魚は僅かに不安に駆られたが、程なく再びホンから声が流れて来た。『――失礼致しました。それではお通し致しますので、少々お待ち下さい』
 ぷつっと音が切れたと思ったら、次の瞬間には頑強そうな門扉が内側から開かれた。そこに立っていた初老の男が、小魚と楊を奥に招き入れる。恐らく公孫も視野には入っているだろうに、彼に対しては何も言わなかった。
 自分の着ている借り物の軍服に目を落とし、それから作業着姿の公孫に小さく会釈すると、小魚は楊と共に敷地の内側に足を踏み込んだ。


 表から見えていたよりも、屋敷自体は随分豪奢な造りになっているようだった。玄関の扉も巨大で、内側も余り広さがない代わりに近代的な凝った内装をしていた。ただ、どこかそれは空気とそぐわず、ちぐはぐな印象を与える。もっと質素な雰囲気に纏めた方が、インテリア全体が上品に見えるだろう。
 ともあれ小魚と楊の二人は、案内役の男に連れられて玄関から比較的近い広間に通された。恐らく客間なのだろうが、高級そうな西洋古典風の家具がこれ見よがしに配置された様子はやはり余り趣味がよいとは言えない。促されるままソファに腰を下ろした小魚は、隣でがちがちになっている楊の肩を軽く叩いた。多分、交渉そのもの以上に、この空気に緊張してしまっているのだろう。
 「……大丈夫、見た目ほど高い家具はここにはありません」そんな風に囁いてやると驚いたように楊はこちらを向いたが、頷いて見せる小魚につられたように首を縦に振った。少し落ち着いたようだ。
 かちゃりと扉が開いたので、主が来たのかと首を巡らせたが、やって来たのは若い小間使いと思しき女だった。盆の上に乗せた紅茶を二人の前に並べ、主が就くらしい席の前にも置くと、彼女はそそくさと出て行った。
 (演出だな)すぐに小魚はそう考えた。自分の出番を少しでも遅らせて、自分自身の価値を釣り上げようと目論んでいるのだろう。中央から派遣されたとは言え、大抵の軍人は普通に徴兵で引っ張って来られた庶民の子弟である。高級感、と言ったものに不慣れな無骨な若者相手ならば、このハッタリは有効に作用する。そのまま雰囲気で圧倒して、交渉を自分のペースに乗せるつもりだろうか。
 (……その割には、舞台装置もお粗末だけどね)生憎真贋の見極めは慣れている。ついでに言えば、自分の店の内装や道具を手掛けた関係で、ティーカップや家具の原価もおよそ見当が付く。高級感の演出も、多分自分の方が上手のはずだ。――伊達に夜の街で紳士相手に水を売っている訳ではない。
 「お待たせして悪かったね」ドアの音と共に、鷹揚な声が響いた。
 楊はびくりとそちらを振り向くが、その肘を小魚は軽く突付く。そして自分はすっと立ち上がると、慇懃な立居振舞でお辞儀をする。「こちらこそ、お忙しいところをお時間頂戴致しまして、大変失礼致しました」
 背後で慌てて楊が腰を折る気配がした。
 この地域全体の代表者だろう、背は余り高くないが恰幅のよい男は、艶のよい笑顔で手を差し伸べた。清潔な白いカッターシャツとプレスの入ったスラックスは余り変哲のないものだが、雨上がりの中でさっきまで泥塗れになりながら戦ってきた小魚達の目にはひどく忌々しく映る。だが、それを爽やかな笑顔の下に押し隠して、小魚もまた手を差し出した。爪の間に泥や錆が入っており、ひどく汚れた手ではあるが、臆する必要がどこにある。
 ほんの一瞬だけ握手を躊躇った男の様子を窺いながら、小魚はにこやかに自己紹介をする。
 「始めまして、義勇軍の代表として参りました。チャン・シャオユウと申します――ほら、楊さんも挨拶して」
 ――戦いだ、と思った。
 銃も剣も、拳や蹴りすらも使わない、これは矜持の戦いだ。


 若い兵士の持って来た報告書を受け取ると、大佐は扉を閉めて大花に向き直った。そして書類を捲りながら言う。「あの兵士の公式のデータだ。名はパク・サンウォル――繊細な月、の字だな。現在の役職は少尉。本貫地は不明、父祖が中国からの亡命者らしい。年齢は二十四歳――さほど不自然な点はないようだが」
 大花は盛大に顔をしかめた。そして彼の手の中を覗き込む。「……って言うか、既に父祖が亡命者って時点でおかしいでしょ」
 口を尖らせる大花に大佐は淡々と、こともなげに言った。「軍隊には案外多い。よほどの上官にまで出世しないのならば、我々もかなりのところまでは黙認している」そして思い出したように付け加える。「――十四年前に、完全に中華政府とは断絶したのだ。それ以前は中華の指示に従って厳しい残党狩りも行っていたが、現在は随分と緩和されている」
 その表情に、僅かに曇りが浮かんだのを大花は見逃さなかったが、敢えて言及するのは止めておいた。彼ほどの軍人ともなれば、流したくもない血を流した記憶もあるのだろう。
 代わりに彼女は、背伸びして書類を捲る。意外と細かいデータが書き込まれているようだった。
 「……ともあれ、あいつは半年以上も前に死んだはずなのよ。そこいら辺どうなってるの?」
 促されてざっと書面を眺めた大佐は、顔も上げずに言った。「いや、戸籍上は少なくとも死んではいない。その時期は……ああ、丁度入籍した頃だそうだ。結婚していたのか」
 「は?」大花は大佐の顔を見上げた。「入籍って……結婚?」
 「婚姻に関しては、規制を設けてはいないからな」そう言いながら大佐は別のページをざっと流し見る。「相手の男性は三十二歳。平壌国立病院の医師らしい――本庁勤務の時期らしいな、不自然なことではない」
 大花は思わず扉に目を向ける。「……ってことは、あいつ今新婚さんなんじゃない。って言うか新妻? 蜜月?」
 俄かには信じがたい事実に、思わず大花は奇妙なことを口走る。あの彼女と、余りにも結び付かない単語だった。
 もっとも、と大佐は静かに言った。「中華系の亡命者は、カモフラージュの為に偽装結婚をすることもあるらしいが。偽造の国籍も、国内の人間と結婚すれば大抵誤魔化せるからな。――だが、どうもその線ではないようだな」
 「相手って医者なんでしょ? お金貰って偽装結婚とかして戸籍汚さなくても、十分裕福な訳じゃない。つか大学出な訳だから家柄もいいんだろうし……もしかして、周囲の猛反対を押し切った大恋愛?」茶化すように頬杖を突きながら、大花は顔をしかめた。「それを言ったら、何であの女も軍人なんか続けてて、単身赴任してるんだって話なんだけど」
 そして不意にあ、と彼女は声を上げた。思わず反射的に大佐の顔を覗き見ると、彼もほぼ同時にそのことに気付いたらしい。眉間に皺を寄せ、口髭を扱いている。
 恐る恐る大花は呟いた。「……あいつの、役職は?」
 「わたしの直属だ。文書処理が専門となっているが……」知らずに彼の声が抑えられる。「……機密書類を、自由に扱える」
 思わず大花は大佐の腕を掴んだ。大佐もまた、静かに彼女に目を向けて頷く。
 「もう一度彼女の動きを洗い直そう――スパイかもしれない」


 夜が来たら歩き、日が昇れば穴を掘って休む。そうやって何度目かの夜に、女はようやく砂漠の果てに村のようなものを見付けた。初めはよく話に聞く蜃気楼かと思ったが、ありったけの服を纏わなければならない夜の砂漠の寒さの中で、そんなものが見えるはずがない。のろのろとそのことに気付いた女は、足を速めようとした。しかし、砂に足を取られて転びそうになったので、慌てて歩みを慎重にする。
 逸る気持ちを抑えつつ、大きな腹を抱えた妊婦はその村のようなものを見た。月がない代わりに眩いばかりの星明りに照らされたそれは、何度目を擦っても消えなかった。ふと周囲を見れば、確かに転がる岩石も少なくなって来ている。地図を確かめたかったが、さすがに星明りでは読むことも出来そうもなかったので諦めた。
 それでも幻ではないかと危ぶんでいた女は、その村のようなものが案外大きく、町と言えるほどの体裁を取っているのを見て安堵する。そしてようやく口を開いた。
 「……よかったね、町だよ」彼女の祖国の言葉で、今一番彼女の近くにいる人物に話し掛ける。十月十日彼女の中にいる予定のその人物は、言葉の代わりに母親の腹部を内側から蹴ることで返事をした。
 「誰かいるかしら」少し不安げにそう言ったのは、あのとき出会った砂の女の言葉が引っ掛かっていたからだった。
 『町がある――いや、あったって言うべきだな』
 固有名詞は余り得意ではないのでよく覚えていないが、確かその町の名前には『アール(道)』と言う単語が含まれていたように思う。町への道などどこにもなかったはずなのに、と女は地図や自分が歩いた道程を思い出しながら考えた。
 町は通過路に過ぎないにしても、さすがに荒涼とした世界を、子供を胎内に抱えて歩き切った身には嬉しいものだった。歩けば歩くほど近付く町に高鳴る胸を押さえながら、町の正面の門に立ったときは、喜びと疲労で倒れそうだった。
 堪らず門の柱に背中を預けて座り込むと、ほっと彼女は息を吐いた。しばらくじっと目を閉じた後、のろのろと顔を上げて町を見る。人影らしいものは何一つ見当たらないが、深夜なので仕方がないと彼女は自分に言い聞かせる。それでも、人の手の入った場所は安心出来た。
 しばらくじっと目を閉じて、それからおもむろに水筒を取り出すと、底の方に少し残っていた水を飲み干そうと仰いだ。そしてそこでふと彼女は固まる。水が零れる寸前で水筒を下ろしながら、彼女は門を見上げた。
 遠目の星明りではほとんど見えなかったが、これだけ近付いて見ると、丁度彼女の真上にある門の梁が壊れかかっているのがわかった。砂埃を被り、まるで今にも崩れそうな砂の楼閣のように見えた。
 疲れを忘れて彼女は立ち上がった。そして恐る恐る町に足を踏み入れる。中央の目抜き通りはさほど広くないが、ずらりと小さな商店や民家のようなものが並んでいた。しかし、その全てにまるで人の気配が感じられない。いや、人の気配がない訳ではなかった。ただそれはひどく寒く、生気と言ったものと全く無縁のものであったのだ。
 よく見ると、通り沿いに立つ建物全ての扉が開いているのがわかった。きいきいと軋む音を立て、それは微かに揺れていた。
 不意に一陣の風が女の脇を通り過ぎた。舞い上がる砂埃に思わず彼女が目を閉じると、一斉にばたんばたんばたんと扉のぶつかるけたたましい音が鳴り響いた。そして次の瞬間に、からからと軽い金属音が背後から迫って来るのを聞く。びくりと彼女が振り向いた瞬間、足に軽い衝撃を覚えた。見ると、ブリキか何かで出来たバケツが転がっている。何度も風に吹かれてあちらこちらにぶつかったのだろう、よくこれで転がるものだと思うほどにそれは形を歪めていた。ほっとして彼女は、顔に掛かる髪を掻き揚げた。
 ふと視線を感じて彼女はびくりと横を見る。夜闇に紛れてよく見えないので恐る恐る目を凝らすと、幾人もの人の首が見えた。思わず妊婦は尻餅を突きそうなほど驚いて小さな悲鳴を上げたが、すぐにそれが床屋の店先に並べられたかつらのマネキンだと気付いてほっと胸を撫で下ろす。ふと彼女は、あれだけ人恋しかった自分が、今は人間の存在に怯えていることに気付いた。
 そしてようやく、砂の女の言葉の真意を理解した。(――ここは、廃墟なの)
 余り左右を見たくなくて正面を見据えた彼女は、闇と砂埃の向こうに何かを発見する。それが道の中央に掘られた井戸だと気付くや否や、彼女は足早にそれに近付いた。石組みの、案外立派な井戸がそこにあった。
 比較的綺麗そうな小石を拾い中に投げ込むと、遠く水の音がする。思わず彼女はぱっと表情を明るくしたが、すぐに眉間に皺を寄せた。そして背後を振り返る。何者かの気配を感じたが、当然誰もいなかった。
 (……ここの水は、飲んではいけないかもしれない)すぐにそう考えたのは、伝染病の可能性を疑った為だった。もしかしたらこの町は、何かとても悪質な伝染病によって死滅してしまったのかもしれない。だとしたら、その町の水を飲むのは余りにも危険だと彼女は思った。
 まだ水筒の底には僅かに水が残っている。幸い今は真夜中で暑くはなく、喉の渇きも日中に比べれば幾らかましだった。それで彼女は、少し我慢することにした。明日、日が昇ってもどうしようもなければ、そのときにはこの井戸の世話になろうと決める。
 彼女は再び前を向いた。この町を抜けたら、そこに現れるはずの世界に希望を託して。
 ――そして彼女は、程なく足を止めることになる。この小さな町の終焉に現れたのは、あの砂の女が言っていた草原でもなく、無論『忘れ物預かり所』らしきものでもなかった。
 それは、この小さな町には不似合いに立派な教会だったのだ。


 風に吹き煽られて家々の扉が立てる忙しない音を背後に聞きながら、女はこの町で初めて見る閉まった扉に手を掛けた。鍵は掛かっておらず、ひどくあっさりと観音開きのドアは内側に開いた。その瞬間、中からむっとするような熱気を帯びた風が吹き出して来たように思った。思わず彼女は固く目を閉じる。
 しばらくして、彼女はおずおずと目を開ける。そして目を瞠った。暗いかと思っていた建物の中は、思いの外に明るかったのだ。
 明るいだけではなく、それは鮮やかだった。死んだ闇と砂ばかり見ていた彼女の目が痛みすら覚えるほどだった。
 教会の中には、がらんとした礼拝堂が広がっていた。その床に天窓から取り込まれた光の四角い塊が落ちていて、周囲にも薄い光を投げ掛けていた。そしてそれを、緑色の草原が囲んでいた――いや、四方の壁面には鮮やかな緑色の絵具で、広い広い草原の絵が描かれていたのだ。
 呆然と彼女は周囲を見渡した。そして天上を見上げる。天窓は正面の扉の上だけではなく、至るところにあった。それ等は決して星の光を取りこぼすことなく礼拝堂の中に注ぎ込んでいる。この町中の光が、この教会に集められているようだと彼女は思った。
 そしてふと正面で視線を止めた。後の三方を囲むのはただ茫漠たる草原だったのだが、奥の壁の一部を光の輪が取り囲んでいて、その中に人の姿が見えたのだ。
 何故か今度は恐怖を感じなかった。むしろ彼女はその人物に向かってゆっくりと足を進めた。
 光に照らされた人物は、神父の身形をしていた。そして彼はまんじりともせず、表情一つ動かさずその場に佇んでいた。――彼もまた、絵具によって描かれていたのだ。女は知らずの内に自分の腹部に手を当てながら、その神父を見詰めた。そしてぐるりと首を廻らせる。
 神父の絵は、どこか遠く高いところをじっと凝視していた。その視線の先を女は探したのだが、そこにあるのはただの暗い闇だった。きっと日中に見れば、天井があるはずのところだろう。その少し下には、神父に光を注いでいる天窓があったのだが、彼の目が見詰めるのはそこではなかった。
 じっと見ていれば彼の見るものが自分にも見えるだろうか、と彼女は目を凝らしたが、何も見えては来なかった。諦めて首を戻す拍子に、女は自分の左手の壁にもう一つのドアがあることに初めて気付いた。ドアの上にも緑色の絵が描かれていたので、遠目ではわかりにくいようになっていたのだった。何度か目を瞬かせて、彼女はそのドアの前に立つ。
 (……この町を抜けると、草原があって――)
 知らずの内に彼女の手はノブに掛けられていた。ごくりと彼女が唾を飲むと、細い喉が僅かに動いた。
 (――その先の『忘れ物預かり所』で、あなたに逢える)
 彼女は手首を捻り、ドアを開いた。そして再び目を閉じる。余りにも眩しくて、目が眩みそうだった。
 ――ドアの向こうには、果ての見えない草原が広がっていた。
 そして信じがたいことに、深夜にも関わらず、その草原は真昼のように明るかった。
 一瞬女は躊躇したが、小さく首を振るとゆっくりと一歩を踏み出した。
 (あなたに、逢える――)


 太陽がぎらぎらと照りつける平壌の街を歩きながら、甫民は顔をしかめた。そして懐中時計を取り出して時間を確かめる。時計は午前九時を幾らか過ぎたところだった。正午まで三時間を切っている。それなのに。
 (……声明文は、確かに送信したはず)正午に起こる爆発の予告は、確かに行った。それにも関わらず、その現場となる予定の平壌中央会議場の周囲は、少なくとも甫民が見る限り何の警戒もされていなかった。公安の姿も見えないし、私服の工作員すら見当たらない。どころかどうやら規模の大きな会議でも行われるらしく、続々と人々が集まって来ていた。
 もう爆弾は仕掛けている。元来威嚇のつもりだったので、ならばと盛大に三つの仕掛けを用意しておいた。仕掛けたのはベテランの同志で、作ったのは甫民自身だった。どちらも最低限の労力で最大限の効果を上げる術を知っている。事前に発見され解体される等と言うことはあり得ない。必ずこの建物は、正午には瓦礫の山へと姿を変える予定だった。
 そしてそちらに軍関係者が気を取られている間に、青屋根御殿へと侵入して竜血樹の奪還を図ろうと、そう計画していた。だからこそ予め爆破を通告し、そちらに目を向けさせるようにしていたのだ。同志達も既にその計画に従うように、持ち位置にスタンバイしている。
 甫民はふと口許に手をやった。そして眉間に深い皺を寄せる。
 ――もしも自分だったら。もしもかつての自分が党政府側の人間で、あのような予告状を送り付けられたらどうするか。しかもそれが絶対に阻止出来ないことだとしたらどうするか。
 恐らく、何の手段も講じないだろう。そして敵の破壊するままに任せ、世論を自分の味方に付けただろう。
 忌々しげに甫民は、背後にそびえる会議場を見上げた。それでも、と彼は思う。今更中断など出来る訳がなかった。
 幼い子供が親に連れられ会議場に入って行くのを見ると、さすがに何の感慨も沸かない訳ではなかったが、だからと言ってそれを阻止する気にはなれなかった――全ては、その誕生時に忠誠を誓った美しい竜の為だと自分に言い聞かせる。
 そして、そこから程近い青屋根御殿の方を振り仰いだ後、街の方へと踵を返した。
 よたよたと歩くその後ろ姿は、哀愁を帯びたただの老爺にしか見えなかった。


 羅州の義勇軍と、居住区の警備兵との戦力の差は歴然としていた。そもそも数からして比較にならない上に、義勇軍の多くが中央から派遣されたり徴兵で取られたりした官軍所属の兵士だったので、警備兵達に走った動揺は激しかった。
 第一根本的な戦闘の目的が違うのだ、必然的に士気の差は大きかった。義勇軍への不利を見て取るや否や、あっさりと警備兵達の多くは投降してしまった。中にはすぐさま義勇軍に混ざって、居住区に銃口を向ける者すらいた。
 「呆気ないもんだなあ」誰かが呆れたようにそう呟いた。声に出す者も出さない者も、きっと同じことを考えている。
 僅か一時間足らずで戦闘は終了し、特権階級の人々の居住区を守っていた兵士達は全員降りた。戦死者は出なかった。誰も、命を張ってまでこの居住区を守ろうとはしなかったのである。そんなことをして、得られるものは何もないと多分一番よくわかっていたのが彼等自身だったのだろう。
 義勇軍の事実的な指揮を執ることになったのは、あの女傑の権であった。あの蒼い炎を吹き上げた旧王朝派であるはずの彼女に、軍部出身の兵士達は次々と指示を仰ぎに行った。互いに多少の抵抗を初めは感じていたようだが、今はそんなことに構っている場合ではない。それは彼等自身が誰よりもよく知っていた。
 一応居住区の周囲を包囲する指示を出すと、ふうと権は溜息を吐いた。武器の輸送の為に誰かが乗ってきたトラックに背中を預け、ライフルを杖のように突いて目を閉じる。取り敢えず一旦戦闘は一段落がついたようだ。交渉に行った連中が戻って来るまで引き揚げる訳には行かないが、どうせ失敗するのは目に見えている。そうなったら力尽くで倉庫を抉じ開けるまでだった。
 「お疲れさん」
 のろのろと目を開けると、小型の水筒が顔の前に突き出されていた。目のピントを合わせ直すと、その向こうに中央から派遣されてきたばかりの兵士の笑顔が見える。確か楊と言う名前の方は交渉に出向いたはずだから、それではこちらは全とか言う方か。あの全秀漢大佐と同じ姓だな、とぼんやりと考えながら権は水筒を受け取った。ひどく咽喉が渇いていた。
 全は権の隣に立つと、同じようにトラックにもたれ掛かりながら言った。「馬鹿だよな、あいつ等。無理矢理でも倉庫を開けちまえばよかったのに」
 口の周りに零れた水を腕で拭いながら見遣ると、この若い兵士は心配そうに眉を寄せていた。「返り討ちにでも遭ったらどうするつもりなんだよ。そもそも相手なんかしてもらえる訳ないだろうに」
 「――その軍服着とったら、話は聞いてもらえら」権はぼやくように呟いた。「ほんで、適当に煙に巻かれてお仕舞いじゃ」
 きょとん、とした顔をする全兵士に、彼女は少し笑って見せた。「うちな、あの男はよう知っとんよ。通り掛ったらいつも挨拶してくれるんじゃ。――大変だね、ゆうてな」
 一瞬、彼女の目が冷ややかになった。「居住区の人間にとって、こっち側は外国みたいなもんじゃ。食料不足で飢える人がおる、可哀想じゃなあ。迫害されとる人がおる、何でそんなことするんじゃろ――それだけじゃ。口先だけじゃあどんな聖人にも善人にもなれる。でもそれだけ。他には何もねえ」
 全は不意に、ひどく居た堪れないような表情をした。けれどそれを振り切るように首を振ると、唾を吐き捨てながら言った。「……いけ好かねえ。偽善者ってのが、俺は一番嫌いなんだ」
 「表立って泥をぶつけてこんだけマシじゃゆうのもおるけどな」自嘲するように権は笑った。
 その瞬間、凄むように全は彼女を睨むと、早口に言った。「馬鹿言え。悪人ってのはな、文句言われてもそれを自分で納得してるもんなんだよ。偽善者はそれすらない。自分が恨まれるってことが、途轍もなく不当なことだと信じてる馬鹿野郎のことなんだよ。怨み言をぶつけたら『自分が何をした』ってきやがる――そりゃそうだ、何の手助けもしようとしないんだからな。何もしてないわ、そりゃ真理だ」
 そして腕を振り上げると、後ろ様にぶつけた。トラックの荷台ががん、と大きな音を響かせた。
 その様をまじまじと眺めていた権は、ふっと優しげな笑みを浮かべた。そして水筒を返しながら、やんわりとした声で言う。
 「……まあ、そんなことゆうてもしゃあないわな。あの子等戻って来たら、すぐ動けるようにしとき」
 ――不意に全はぼんやりと、訛のない自分の言葉が妙に味気ないと思った。けれど中途半端な方言を使ってもみっともないだけなので、少し逡巡して頷くだけにしておいた。


 「――と言う訳で、食料が圧倒的に不足しています」
 たどたどしく、それでも羅州市民の窮状を細かく調べ上げた楊は、報告をそのように締めた。
 ソファに腰を沈めて冷め掛けた紅茶に口を付けながら、男はそれに頷いて見せる。「つまり、ここの貯蔵食料を分けて欲しい、と言うことだね」
 「……です、はい」おずおずと楊は同意の意を示した。
 男は気の毒そうに表情を歪めると、カップをソーサーの上に戻しながら言った。「――構わないとも。そんな大変なことになっているとは、お気の毒なことだ。我々に出来ることならば喜んで協力をさせてもらうよ。……まあ収穫期前の時期だから、貯蔵庫の食料もたかが知れてるとは思うがね」
 そして、いかにも寛大そうな笑顔を浮かべると、自分の台詞に何度も頷いた。「あの暴動は、そんなことだったのか。あんな乱暴な真似をする前に、もっと早く申し出てくれればよかったんだよ」
 一瞬喜色を浮かべた楊は、だが最後の言葉で多少心象を害していた。(食料が不足しそうなことくらい、わかってなかったのか?)
 そもそもこの辺りはここ数年、慢性的な食料飢饉だったはずだ。彼等が飢えていないと言うことは、足元の人々の食料を独占していると言うことになる。そんなことすら今まで考えなかったのだろうか、と思うと何だか腹立たしくなる。
 だが、ここで食って掛かって気分を害されては台無しになってしまう、と彼は何とか言葉を飲み込んだ。そして笑顔を繕いながら、隣の小魚に話し掛ける。「……よかったな、援助がもらえるって……」
 ふと楊は、思わず言葉を途切れさせた。隣に座っている少年が浮かべる涼しげな笑みは、先程と寸分の違いもなかった。だがそれは多分、心底からの笑顔ではない。交渉自体は上手く行っているのに、と訝しむ楊の目前で、不意に丁寧な口振りで少年は尋ねた。
 「具体的には、どの程度の量を援助願えますでしょうか」
 紅茶に手を伸ばし掛けていた男は、ちらりと正面の少年の顔に目をやると、にっこりと笑って見せた。「我々の出来る限りを援助しよう。もっとも、余り今の時期は備蓄がないからね。途轍もない量を要求されても、ないものは出せないよ」
 ――一体この少年は何を求めているのか。援助を認められた以上、大人しく引き下がるのが筋と言うものではないのか。これ以上突付いて状況が悪化したらどうなる。
 慌てた楊は、取り繕うような早口で言う。「はい、こちらも最低限度で何とかなると思いますんで。どうぞよろしくお願いします」
 頷こうとする男を遮るように、小魚はくっきりとした声音で言う。「現在、羅州市の総人口は二十万人です。一人当たり一日米を三百グラム消費するとして、六十トンが必要になります。その場合、一体どのくらいの期間の援助を期待してもよろしいのでしょうか」
 男のこめかみがぴりりと引き攣った。それでも笑顔を浮かべながら、ゆっくりと彼は言う。「……くどいね、君も。悪いが、我々はこの居住区二百戸分の食料しか貯蔵していないんだ。来年分の穀物の収穫は期待出来ないだろうから、援助をしたらこちらだって食べていけるかわからないぎりぎりのところなんだよ。それでも分けてあげようと言っているんだ、そのことを弁えたらどうだい」
 「つまり、来年一年分の自分達の食料を確保した上で、『余剰分』を分配しようということですか?」切れ長の目が冷ややかに男を捕らえる。
 ソファに背中を預けながら、男は目を反らした。「人聞きが悪い。援助を行ったが為にこちらまで困窮するようだったら、それこそ本末転倒になってしまう」
 これには楊もむっとしたが、何とか曖昧な笑顔で頷いて見せた。例えどんなに少なくとも、ないよりは遥かにましである。これ以上心象を害されては、食糧援助の話自体を撤退されかねない。
 「――馬鹿言うなよ……こんなときに欲張ってどうする」嗜めようと小声で囁く楊の目の前で、小魚は不意に目を細めて微笑んだ。
 そして一際低い声で呟く。「ふざけるな」
 驚いたように何度も瞬く男の目前にすっと立ち上がると、小魚は男の血色のよい顔を見下ろした。「有り余ってゴミにするしかない分は分配するが、自分達の食い扶持が危なくなるようだったらその場で見捨てると言うことか。予め期限も提示しないで、目分量で適当にばら撒くと言うことか」
 男はさすがにむっとしたような顔をする。テーブルの端に膝をぶつけながら立ち上がると、睨むように小魚を見上げた。「――嫌なら、この話を断らせてもらっても構わないんだがね」
 「望むところです。でしたら我々も心置きなく襲撃を再開し、力尽くで倉庫を開けさせて頂きます」小魚はほとんど冷淡に聞こえるほど静かに言い放った。驚いた楊が思わず見上げたその横顔からは、いつの間にか笑顔の名残すら完全に消え失せている。
 わなわなと震えながら、半ば叫ぶようにひっくり返った声で男は言った。「そ、そんなことをして、ただで済むと思っているのかね! いいか、中央に連絡を入れればすぐに軍がやって来て、君達なんかすぐに制圧されてしまうんだ」
 「はい。けれど今は台風の余波で飛行機もヘリコプターも飛びませんから、例えソウルや釜山から出兵しても軍が到着するまでには半日近く掛かります。平壌はこれから台風が直撃する上に、連日のテロ騒動で、地方の米騒動の鎮圧どころではありません。付け加えれば、羅州に駐屯する兵士は全員我々義勇軍に組み込まれています――この居住区警備の兵士も含めて。先程の戦闘で反発する者は征圧され、残っているのは降伏してこちら側に付いた者ばかりです。残念でしたね」
 にこりともせずに小魚はそう言い放った。思わず、味方であるはずの楊までが肌を粟立てる。
 小魚は、妙に洗練された足捌きでテーブルの脇を回り込むと、男の側に立った。腰を抜かしながらソファの上で足掻く男に向かって、小魚は僅かに激情の色を滲ませる。「最後まで面倒を見られないのなら、途中で見捨てることがわかっているのなら、初めから手を差し伸べる真似事なんかしてはいけない」
 そしてくすりと小魚は笑った。「犬を拾った子供には、そんな風に諭すんじゃありませんか? あなたはどうやらそんな風に言われたことはなかったようだけれど。――俺達は犬でも猫でもない。その場しのぎの餌だけ貰って尻尾を振っているほど馬鹿じゃない。きちんとした保障を与えてもらえなければ、撫でるつもりの手にも噛み付きます」
 じり、と彼は軍靴の爪先を詰める。見苦しくもがく男に手を伸ばすでもなく、武器を見せるでもなく、ただそうして立っているだけなのに、異様な威圧感があった。ぞわりとこの少年の肌の表面から立ち上るのが言い知れない程の憎悪だと気付いたのは、恐らくその感情が楊自身の中にも存在するものであるからだろう。
 「僅かな損失で――いや、むしろ廃棄するしか用途のない余剰の食料で、信頼と尊敬と感謝が買えるのだったら随分と割のいい商売だ。自分の懐も痛めないで、自分達だけ安全なところにいて、不十分な援助を遠くから投げ込んで自己満足に浸ろうとするなんて随分と虫のいい話だ。どうやらあんたにとって、俺達は犬以下の存在と言う訳なんだな」
 ソファの端に引っ掛かって動けなくなった男を、小魚は静かに見下ろした。
 いっそ哀れに見えるほど震えながら、男は戦慄く声で叫ぶ。「そ、それならどうしたらいいと言うんだ。下の人間と一緒になって、我々にまで飢え死にしろと言うのか! 冗談じゃない! わ、我々がどれほど国家の形成と維持の為に尽力したと思っている。わ、わわ我々は、お前達とは違うのだ!」
 「こんな腐り果てた国をね」小魚は馬鹿にしたように目を細める。そして不憫そうな笑顔に表情を歪めた。「――もうこれは対岸の火事じゃない。この国が滅ぶのは時間の問題だ。それから目を逸らして、気付かないふりをして、自分達だけが助かろうとしてももう守ってくれるものはどこにもない。いつまでも馬鹿な幻想にしがみ付くのはいい加減にしたらどうだ」
 そして不意に、楊の方にも振り向いた。その表情は、少年が浮かべるには痛々しいほどに険しくて、何だか楊は自分の方が悪いことをしているような気分にさせられる。
 「俺達だって、卑屈になる必要はどこにもない。人として当然の権利ならば、正当に要求しなければならないんだ。国家の為の功績がある? それとこれと何の関係がある! 身分が高くても低くても、人間は誰だって飢えたら死んでしまう。一度死んだらそれっきりなんだ!」
 ふと、小魚が握り締めた拳から赤黒い血が滴った。煩雑な模様の入った絨毯の上にそれはぽつりと落ちたが、模様の中に紛れ込んで消えてしまう。それでも鮮血は彼の指の間を伝い、小さく絨毯を染める。
 それにすらソファの上の男は気付いていないようだった。こんなにも怯えるくらいなら人でも呼べばよいものを、等と考えて楊は眉間を寄せた。何でこんなに自分は馬鹿なことしか考えられないのだろう。――それ以上に、何てこの男は馬鹿なのだろう。
 白くなるほど噛み締めた唇を押し開けて、うめくように少年は低く言った。「――人間は生きなきゃいけない。何があっても、絶対に生きなきゃいけない。誰であってもそれを妨げてはいけないし、ましてや自分でそれを放棄するなんてもっての外だ」
 それから小魚は小さく首を振った。空調がよく効いているはずの部屋なのに、その首筋にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 「どこにも活路がないように見えても、明日になったらそれが見付かるかもしれない。だったら一人でも多くの人が一日でも長く生き延びる方法を探すべきだ。見捨てていい人間なんていない。死んでいい人間なんていない。犠牲にしても構わない人間なんて、本当はどこにもいないんだ――例えそれが、あんたであってもね」最後の辺りは、ほとんど吐き捨てるようだった。
 そして彼は、腰を抜かしたままの男に覆い被さるように身を乗り出すと、にこりともせずにその顔を凝視した。酸欠の金魚のように口をぱくぱくさせる男と目を合わせると、不意にやんわりとした口振りで言った。
 「だから俺は、あんたを殺したくない。――倉庫を、開けてもらえるね?」
 俺達は悪いことをしているはずなのに。ふと楊はぼんやり少年の横顔を見上げていた。
 どうしてこのことが、こんなに正しく思えるのだろう――。




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