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第九夜


かつて、鬼神と呼ばれた少年がいた。
無数の武器を操り、数多の人間を殺し、その世界の頂点に君臨した。

――しかし、誰も信じないだろう。
彼が殺すのは、たった一人の少女を
彼に託された亡国の王女を、守る為ただそれだけだったということを。
そして彼は今も尚、
その王女の末裔を守り続けているだけなのだということを。



  第九夜



 こうなることは、ずっと前からわかっていた。
 王朝が崩壊し、再興したそれも欧米との戦争で敗戦して何もかも強奪され、もはや素乾王家の復興は絶望的な状態に置かれていた。それでも政府に反発を抱く者は依然として消えず、甫民が守り続けていた公主、そして彼女が遺した幼帝は常に崇拝の対象とされていた。それを知った政府は政府で、素乾の血を徹底的に弾圧し続けていた。そしてそのことが、両者の溝を一層深めて行った。
 東亜諸国の体制は、ひどく脆い均衡の元に成立している。それ以上に衰弱した王朝派にそれを覆す力はなかったが、今にもバランスを崩してしまいそうな政府の方も彼等を敵に回すことを望んではいなかった。両者が全力で衝突し合えば、ともすれば共倒れになる可能性も否定出来なかった。
 それを知っていた甫民は、内密に政府当局と契約を取り交わした。皇帝の末裔を見逃してくれ、息を潜めて暮らす幼い彼を狙うのはやめてくれ――その代わり、王朝復興を望む者達の動きは最小限に封じよう、と。たった一人でも皇帝が生きているなら、我々はそれで構わない。政府には逆らわない。表立って行動しない。だから、代わりに彼だけは見逃して欲しい、と。
 中華との交渉は完全に決裂した。幼帝の両親を殺した国は、全く甫民の言に耳を貸さず、最後の皇帝諸共殺そうとした。
 次に甫民は、かつて自分を工作員として雇っていた半島へと渡った。――当時まだ中華から独立出来ていなかったこの国が、従順を装いつつも内部で反発を抱いていたのを利用したのである。
 そして自分の全ての能力を掛けて、交渉に移った。――自分の能力をこの国の為に尽くそう。やがて中華からも独立させてやろう。王朝派の動きも抑えてやる。だから、皇帝だけは見逃してやってくれ、と。
 ひどく渋ったが、担当者はそれに幾つかの項目を加えることを条件に、契約を飲むと言った。
 一つは、決して皇帝の存在を目立たせないこと。鎖国の布かれた東亜諸国で、彼の容貌は余りにも特異過ぎた。彼は、ただ生きているだけで、周囲の人間に怪訝の念を抱かせるに十分である。そんな人物を表立って保護することは出来ない、そう言われた。
 もう一つは、彼の血筋を残さないこと。もはや王朝の血を引く者は彼たった一人しかいない。彼が死ねば王家は滅びる。その事実が揺らがないのならば、わざわざ敢えて彼を害することもないのだと――つまり、彼以外に王家の血を引く人物が存在するようになれば、そのときはどんなに王朝派の反発を買おうとも、彼を抹殺しなければならないのだと、ひどく遠回しに言われた。
 余りに惨たらしい条件に懊悩する甫民の肩を叩き、諦めたように皇帝は首を振った。まだ幼さの残る面差しに似合わない疲れ切った表情で、それを飲むと言った。事実、生まれたときからずっと人目を避けて逃げ続け命を狙われ続ける生活に置かれていた彼は、きっと何もかも麻痺するほどに疲れていたのだろう。戦うことに慣れ過ぎた甫民ですら、あの日々は苦痛だったのだから。どこまでもささくれて行く自分の心を持て余し、大切な皇帝にすら当り散らしそうになることがあったのだから。
 そして甫民はこの国の為に働くことになった。ときには同志の血でこの手を汚しもしたが、それでも構わなかった。もはや甫民にとって大切なのは帝国の復興ではなく、皇帝の安全だった。何を犠牲にすることも厭わなかった。
 けれど――当然といってしかるべきだろう、あの幼く大人しく愚かで優しい皇帝は、遂にそれに耐えられなかった。自分で飲んだはずの条件を自分自身で破り、美しい金色の髪を持つ娘を愛してしまった。身を犠牲にして彼を守っていたにも関わらず、その庇護の許を離れ自ら破滅へと飛び込んでいった皇帝を、それでも甫民は憎み通すことが出来なかった。どうしてあの絶望的な孤独の中、何の支えもなく生きていくことが出来よう。自分にはそれでも皇帝と言う名の大儀を振りかざすことが出来たが、それすら叶わない皇帝自身はどうやって一人ぼっちで生きていけよう。
 そして甫民は彼を永遠に失った。彼の腕には、親を亡くした小さな赤子が――甫民の尽力と政府の最低限の温情で辛うじて生き延びることを許された、新しい天子だけが残された。この子こそは守りきらなければ、と思った。
 この子の為に、再び無数の血を流した。余りにも大き過ぎる犠牲を幾つも払い、この国を――庇護の檻を独立に導いた。もはや迷いはなかった。
 この子こそが、甫民の守るべきものであり、生きる意味そのものだった。彼さえ守ることが出来たら後はどうでも構わなかった。
 ――その彼が。まだまだ幼いと信じていた彼が、自らの鳳凰に選んだ女性を連れて来たときから、予感はあった。
 甫民とて、それがどんな感情であるかを知っている。それを殺す辛さを知っている。
 だからこそ甫民には止められなかった。そのときが来るのを、手をこまねいて待っているしかなかった。あのときと全く同じ悲劇が繰り返されるのを、ただ黙って見ているしかなかった。
 鳳凰の胎内にもう一人の天子が宿ったときに、もはや選択肢はなかった。政府に知れるのは時間の問題で、そのときに父子ともに殺されることは既に明言されている通りであり、一度目に与えられた温情はもはやあり得ない。かと言って、子供を堕ろすのは皇帝が許さなかった。
 ――本当は、身篭った女を子と共に逃がすことも、何の解決にもならない。政府の監視の目はそんなに生易しいものではない、やがて真相が知れるのはわかり切っていた。母子への追手が繰り出され、契約を破った皇帝への刃が向けられることも。全てわかっていた。こうなることはわかっていた。それでも、どうしようもなかった。本当にどうしようもなかった。
 (陛下が、あの悪質な処刑ゲームに巻き込まれたとき)
 生きていて欲しいと願った気持ちに嘘はない。けれど。
 彼が人質として生かされていると密かに知らされて、いっそ崩御してくれていれば、と考える自分がいた。彼さえいなければ、と思う自分がいた。
 甫民達の大儀の根源である皇帝が政府の手に落ちた以上、彼等は動けない。もしも彼が弑されていたなら、王朝を戴く過激派は弔い合戦として容赦なく猛攻を掛けることが出来る。共倒れでも構わない、とにかく政府を完膚なきまで叩きのめせばよかった。しかし、その皇帝を人質に取られた以上、彼等は全く手が出せない。
 (……誰よりも辛いのは、陛下だったはずなのに)
 天子としての矜持だけは忘れるなと、幼い頃から教えてきた。どんなときでも誇り高くあれと、そんな風に育ててきた。そんな彼なのに――無理矢理生かされて自分の同胞達への枷にされるなんて、どんな思いだっただろう。
 あの写真は――囚われた彼自らが撮らせ、外へと流した写真は、国家の水面下を大きく揺らした。時期を見て国家の表面へと流せば、きっとそれはこの戦いの切り札になる。同志の誰もがそんな風に喜色を浮かべた。さすがは陛下だと。我々の主君だ、戦う為の素晴らしい武器をもたらしてくれたと。けれど。
 (陛下が、本当に望んでおられるのは――)
 ずっと甫民は考えていた。ここであの写真を表に出せば、政府がずっと人質として飼って来たあの彼は、体制を崩しかねない重石になる。そのときこそ、現政府と旧王朝の決戦のときで――人質は、不要になる。
 あの聡明な彼は、それを望んでいたのではないのだろうか。あの生まれながらに国を失った皇帝が、全てを奪われた今、真実望むものは。
 ――自らの、死だけではないのだろうか、と。
 ふと甫民は、隣で寝息を立てている少女の横顔を見た。彼女は、知らない。きっと何も知らない。それでも彼を助けようと、ただそれだけを思い続けて、それを実行に移そうと奔走している――その感情には、圧倒される。
 彼女のその行動力と一途な熱意は、かつて自分も強く抱いていたものだった。それはどこへ行ってしまったのだろう、もはや時間の中に置き忘れてしまったのだろうか、と甫民はぼんやりと思う。
 (だとしたら)
 今ほど、自分の重ねてきた年月を憎らしく思うことはない。
 今ほど、彼女の若さを妬ましく思うことはない。


 「犯行予告?」弓は頭を巡らせた。
 時計に目をやると、早朝と言うよりもまだ深夜と言える時間帯である。どれだけ贔屓目に考えても常識的な時間帯とは言い難かったが、元より非常識な連続テロの犯人の行動なのだからまあ何があってもあり得ないことはない。第一、今回の犯人の破壊行動はほとんど夜間に限定されている。そんな彼等からの予告であれば、この時間帯がひどく相応しい気がした。
 現在、官邸は二十四時間の厳戒態勢で機能している。総統を筆頭に首脳陣はごっそりと抜け落ちているが、秘書官を筆頭に編制されたテロ対策委員会が実質的な政務までも執り行っていた。元よりお飾りだった首脳陣が抜けたところで実質的な支障はない。混乱に乗じて弓は臨時主席書記官の座に納まり、名実共に事実上の最高指導権を握って采配を振るっていた。
 深夜に活動するテロリストの行動に迅速に対応する為、弓に今やほとんど睡眠時間はない。だが、そんなものも気にならないほどに彼は昂ぶっていた。恐らく動乱の中心になって走り回っているであろう少女――その正体を掴んだという自信と、彼女と同じ時間に活動しているという不思議な充実感が、彼を突き動かしていた。
 総務の役人――多分、金とか言う平凡な名前だった――が横から腕を伸ばし、弓の前に据えられたパソコンのキーを叩く。「つい先程届きました。連続爆破事件の首謀者からのものと見られています」
 彼が言い終わるとほぼ同時に、画面の中央にウィンドウが開いた。メール文書のそれは、確かに声明文らしい文面をしている。
 「お前が受信したのか」「はい、今はわたしが宿直なので」寝惚けているような声で金は答えたが、別に眠いのではなくて元々そのような喋り方をするのだろう。
 弓は一瞬でそれを読んだ。「平壌に戻ってくるつもりなのか、連中は」
 その内容は、これまで彼等が行って来た全ての活動を認めると同時に、今日正午に平壌市中央部にある会議場を爆破するというものだった。それから、軽い脅し文句と彼等の信条が書かれている。それによると、彼等はあくまで現在の腐敗した政治状況を憂慮するが為に警告を行っているに過ぎず、現在の党が政権を明け渡すならば現在の活動は休止する、となっていた。無論、弓にそれを聞き入れる気は毛頭ない。
 「義侠を気取っているつもりか」弓は鼻でせせら笑った。「それではまるで、わたし達が悪役だ」
 第一、と口に出さずに彼は考える。予告された犯行が行われる頃には恐らく、マスコミによって彼等の仲間の一人の姿が大々的に報じられている頃だろう。自分の姿が知れ渡っているとも知らずに、わざわざ敵地の真ん中に飛び込んで来る連中の――あの少女の姿を想像すると笑いが漏れた。
 総務の金は、どこか気の抜けたような眼差しをディスプレイ画面に注いでいた。「ところで、議会の方はどうしますか。総統陛下以下大臣十余名は、先程の連絡では全員新種のウイルスに感染なさっておられるとのことでした。治癒は絶望的だそうですから、じきに議席には大幅な空席が出来ると思うのですが」
 「お前が総務庁長官の席に座るか?」笑顔のままで弓は言う。
 冗談とも本気ともつかぬ調子で金は律儀に答えた。「あの椅子は座り心地が悪いので、遠慮致します」
 くっくと弓は頬杖を突いたまま声を上げて笑った。どうにも、思うように事態が進み過ぎる。
 実質この国の権限の全てを掌握していた彼は、やがて名実共にこの国を自分のものにするつもりだった。別に、歴史がかった王朝簒奪を試みたかった訳ではない。ただ、ほとんど名目しかない議会を解散し、全ての業務を直通で彼が行ってみたかった。究極の合理化国家を建て、厄介な議会も税金の搾取目的に設置されているとしか思えない行政機関も全てを削り、彼が国家の運営を一人で行い、専制君主制の頂点に立ってみたかった。今でも充分その業務をこなしている、自分にならば出来ると言う自負があった。
 まずは、邪魔な議会に居座る寄生虫を一掃しようと思っていた。その画期的な方法が思い浮かばず今に至っていたのだが、予定外にそれは解決されてしまった。ろくに顔も見たことはなかったし、生きる為に男に身体を売る男は弓にとって最もおぞましく蔑まれるべき存在ではあったが、この件に関してだけはあの少年に感謝してもいいと思った。
 ならば、次は別の寄生虫を駆除すればいい。これは自分の手で成し遂げなければならない。
 あの、無言の圧力によって政府の暴走を牽制していた過激派集団、旧王朝派勢力を纏めて一掃しなければならない。彼等は半島全土――そして中華本土――に散らばって、パルチザン的反政府活動を繰り返していた。その勢力は、政府が無視ないし鎮圧出来る許容量を遥かに超えていた。今まででも辛うじて彼等を押さえ込むのに精一杯だったくらいなのだから、無能とは言え国家要職の席ががら空きになり情勢の不安が政府内部に広がっている今では、どう転ぶかわからない。そしてそれは言い換えれば、旧王朝派にとっては絶好の好機ということになる。彼等が動かないはずがない、そして現にこうして動き出したではないか。
 (正義を気取るつもりなら)弓は頬杖に頭を預けた。微かに体が傾ぐ。(自分達がやっていることの意味を悟らせてやらなくては)
 一応包囲網は用意した。だが、保険と言うものは必要である。油断は禁物だ、と彼は薄く笑った。
 金は下がれと言われていない為か、そこにぼんやりと突っ立っていた。だが、これで案外頼んだ仕事は完璧にこなす奴なのだから侮れない、そう思いつつ弓は指を差し出した。「正午時点までに、平壌中央会議場一杯に市民を収容しろ。どんな企画でもいい、最低五千人は集めろ。いいな」
 生贄を。あの少女と、その背後に無数に広がる亡国の残党どもを血祭りに上げる為の生贄を。
 「――はあ」別に真意を問い質そうともせず、凡庸な総務の役人は頭を下げた。


 劉が部屋に入ると、飛竜は薄い夏蒲団を頭から被って寝入っているようだった。珍しいな、と思いつつ劉は彼に近寄る。長い髪や蒲団の間から覗く横顔は、いつものように少しだけ辛そうに見えた。
 窒息するといけないと思い、劉は蒲団を少し下げようと飛竜の枕元に近付き、顔を寄せた。その瞬間。
 劉の目の前を淡い亜麻色の髪の毛が過ぎった。そして深い紫紺の瞳が閃く。
 「動くな」
 鋭い声音に劉は瞬いた。その喉元には飛竜の白い爪が、その腕には飛竜の紅い口がぴたりと押し当てられている。一瞬で飛竜は劉を羽交い絞めにしていたのだ。
 「随分元気そうですね」のんびりと言う劉の喉に掛かった指に力が篭る。
 上目遣いに劉を睨みながら、飛竜は微かに笑った。「お陰様でな。礼をしたいと思うんだ」
 「僕は医者ですからねえ、お礼は受け取らない主義なんですけど」劉は困ったように眉根を寄せて微笑む。
 飛竜は乱れた髪の下で唇を歪める。「遠慮するな、ちょっと平壌市ペア旅行に御招待したいだけだ。気兼ねするほどでもないだろう」
 「……出来るなら、あなたとではなくて奥さんと回りたかったです」落ちた前髪の下で劉は苦笑した。飛竜が熱っぽい息で囁くように言う。「贅沢言うな」
 しばらく緊迫した空気が流れたが、やがて諦めたように劉が溜息を吐いた。「どちらへご招待下さるのですか?」
 「……」黙る飛竜に、劉は不思議そうに言った。「もしかして、まだツアーの予定を組んでいなかったのですか?」
 それでも飛竜が何も答えないので、劉は彼の顔を覗き込もうとした。その瞬間、喉に爪が食い込む。
 「伝染すぞ」「それは困ります」劉は即答した。飛竜は細い声で言う。「だったら動くな。俺の指示に従え」
 「もしかして、ドクターストップも無効ですか?」のんびりと劉は言い、更に爪を立てられて付け加えた。「すみません、愚問でしたね」
 「連絡を取りたい人物がいる」早口に飛竜は言った。「俺がもうじき死ぬとだけ伝えられたらいい。相手はもうじき平壌に入る」
 やれやれといった調子で劉は言う。「どうして死ぬと決め付けるんですか。まだ決まった訳では……」「いいから」
 今度は腕に固い感触が当たった。歯を立てたのだろう、少しくぐもった声で飛竜は続ける。「そんなことは構わない。ただ、諦めさせなければいけないんだ。それにはこれが一番効く。手伝え」
 二人は黙って睨み合ったが、やがて劉は諦めたように頷いた。ようやく飛竜は腕に込めた力を抜く。
 劉は不意にくすっと笑った。再び構え直そうとする飛竜に彼は言う。「いえ、あなたって実は見掛けによらず大胆な性格なさってたのですね」
 「大胆だったら今頃、派手に政府要人大虐殺を企ててるさ」むっつりと飛竜は答えた。そして少しだけ咳き込む。
 心配そうに覗き込む劉に、飛竜はばつが悪そうに言った。「……すまない、外へ出る前に俺の服を用意してもらえたら嬉しいんだが。さすがに寝間着で出歩くのは……」
 「それも脅迫して用意させたらよかったんじゃありませんか? 一応あなた脅迫犯になったんでしょう」劉は他人事のように呆れた顔で言った。
 何となく飛竜は苦笑して見せる。「いや、何か目的が違う気がしたから」
 劉は肩をすくめた。「余り体格は違わないようなので、僕の着替えで構いませんか? 泊り込みのときの為に用意していた物ですが、一応クリーニングはしていますよ。別に返すこととかは考えなくて構いませんので」
 「悪い」飛竜は髪の毛を手ぐしで押さえながら苦笑した。「面倒ばかり掛けるが、まあよろしく頼む」
 「患者さんの面倒を見るのは、僕達の仕事ですからね」ようやく飛竜の腕から開放された劉は、息を大きく吐いた。そして微かに悪戯っぽく笑う。「それでは、少々お待ち下さいませ」
 病室から出て行く劉の背中を眺めていた飛竜は、この脅迫が一応成功したものの、何だか変な形に収まったように思う。
 (……まあ、正しい脅迫ってのもないよな)彼はベッドの上で一人奇妙な納得をした。
 時計を見ると、まだ夜明けには時間があった。


 ふと窓の外の雨足が弱まっているのに気付いて、全秀漢陸軍大佐は顔を上げた。
 時計を見ると、もう明け方近い。結局、一晩中書類と睨み合っていたと言うことになる。士官用の宿泊施設に空きがなかったと言うことで半ば強引にホテルに押し込まれたのだが、こんなことなら基地に詰めておいた方が能率が良かったかもしれない、等とぼんやりとした頭で考えた。
 そして不意にベッドルームの方で物音の気配を感じて顔を向け、彼は眉間に皺を寄せた。そう言えば、昨夜あの奇妙な娘が乱入して来ていたのだと言うことを、今更ながら思い出した。
 大花と名乗るプログラムの生き残りの少女は勝手に彼を味方に引き込むと、一通りじゃれ付き纏わり付いて作業の邪魔をした後、ようやく邪険に扱われていると気付いたらしく、勝手にシャワーを浴び勝手にベッドに潜り込んで寝てしまった。不審に思って一応プログラムの記録を確かめたのだが、どうやら間違いなく本人だったらしい。見事に寝扱けている姿を見ると、余りの大胆さと単純さにいっそ馬鹿馬鹿しさすら覚えて来るほどだった。
 と、何かが落ちるような音がベッドルームから響いてくた。不審そうな顔をしながら大佐は部屋の中を覗き込む。見ると、ベッドの足元に大きな枕と薄手の夏蒲団が纏まって落ちていた。ベッドの上の少女は、寝相の悪い猫のような姿で高いびきを掻いている。溜息を吐きながら大佐はそれを拾い上げ、少女の上に掛け直してやった。
 データによると、彼女は現在十八歳のはずである。初めに見たときは化粧のせいもあったのだろう、二十代の半ばくらいに見えたのだが、素顔のままで無防備な寝顔を晒しているとさすがにあどけない。
 (――あのとき)不意に古傷が疼くように、嫌な記憶が甦る。眉間に皺を寄せると、そこの傷が引き攣った。
 ――無邪気で底抜けに明るい、よく喋りよく働く女だった。周囲の猛反対を押し切って、半ば駆け落ちのようにして一緒になった妻は、何が楽しいのかいつも笑っていた。それにも関わらずいつも真っ先に思い出すのは、ファインダー越しに覗いた、処刑台に縛り付けられて目隠しをされた彼女の姿だった。
 彼女が密入国者として処刑されることが決定してからも、見苦しいとわかりながら、無理だと知りながら、それでも助けようと手を尽くした。けれどどうしようもなく、ならばせめてと彼自身が引き金を引いた。
 (――あのとき、もしも)結婚して十年も子供が出来ず、二人とも諦めていた。それなのに、奇しくもあの処刑勧告に等しい報告を受け取ったその日、彼女が身篭っていることが発覚した。この子も処刑対象に当たるだろう、ならば顔を見る前でよかった、と彼女はそんなことを言って泣きながら笑った。
 (――もしも、違う道を選んでいたら)あれから二十年。もしもあのときの子供が無事生まれていたら、丁度このくらいの年頃だろうか。ふとそんなことを考えた彼は、ぐいと首を振った。そんなことを考えても仕方がない。死んだ子の歳を数えても、何になると言う訳でもない。
 少女の寝顔を見遣っていた大佐は、ふとドアを叩く音を聞いてようやく踵を返した。扉を開けると、そこには見本のような敬礼をした細身の女性士官が立っていた。平壌からずっと一緒だった直属の部下だと気付いた大佐は、僅かに安堵の色を浮かべる。不慣れな兵士との応答はこちらまで疲れてくる。徹夜明けには避けて欲しい事態だったのだ。
 「……何だ」
 「申し上げます。只今官邸サイドの指令により、連続テロの首謀者とされる少女の指名手配がつい先ほど始まりました。全ての放送局、新聞社に命じて、徹底的に炙りだす計画のようです」きつい北部訛で淡々と報告すると、彼女は手の中の書類を手渡した。
 銀のメッシュが入った少女の顔写真に目を落とした大佐は、ふと顔を曇らせる。「こちらには、打診がなかったが」
 テロリスト対策総本部は、彼を中心に編成されている――少なくとも建前はそうなっていた。だが、実際は司令官であるはずの彼は南方の飢饉対策に送られ、ほとんど官邸側の独断で主犯を断定して指名手配を始めている。戦略的に問題がないならばまだ許せるが、効を逸った文官の勇み足は、恐らく旧王朝派の面々を刺激して逆効果にしかならない。
 つまり自分はあの総統や大臣と同じ傀儡でしかないのだ、と気付いた大佐は、知らずに溜息を落とした。自分がどれだけ動こうと、もはやそれが徒労にしかならないと思うと、嫌気が射した。
 そんなことを考えていると、おもむろに女性士官は意外なことを尋ねた。「ところで、お嬢様がお見えになられたと言う専らの噂なのですが」
 「噂ではない」娯楽の少ない軍部では、上官のスキャンダルは格好の娯楽の対象になり兼ねない。それは承知していたが、見るからに真面目そうな彼女までがそれを聞き知っているのはさすがに意外だった。
 「訳あってソウルでずっと暮らしていたのだが、ニュースでわたしがここに来たと知って、会いに来たらしい」嘘を吐くのは苦手だったが、何とか辛うじて取り繕った。何故あの娘をこんな風に庇っているのだろう、と疑問に感じながら、彼は無表情のままで兵士の顔色を窺う。
 女性兵は、大佐に負けず劣らずの無表情でじっと彼の顔を見ていたが、ふと僅かに声の調子を落とした。「……亡くなられた奥様との間にお生まれになられていて、ずっと匿っていたのでは、と口さがない連中が噂しております」
 どうやら彼女は自分の身を心配してくれているのだ、と気付き、大佐は僅かに髭を揺らして笑顔のようなものを繕った。「若い愛人と思われるよりは、ましではないか」
 「ならばよろしいのですが。差出口を挟みました」女性兵は、きちんと軍靴の踵を揃えた見本のような気を付けの姿勢を崩さない。手早く敬礼をすると、よく通る声で言った。「失礼致します」
 そして、物音一つ立てずにゆっくりと部屋のドアは閉まった。
 ふと彼は、ドアのすぐ隣の壁に背中を預けた。――未だに、妻が本当に密入国者だったのかはわからない。あの後彼自身にも大幅な降格処分が下されたことを考えると、あれは誰かの陰謀だったのではないか、と思えてくる。
 妻は身寄りがなかった。それゆえに――彼を貶める為だけに、彼女は密入国者の血族だとでっち上げられてしまったのではないか。
 恐らく今回の噂話を立てた連中に他意はなかっただろう。だが、もしもそれが表に知れると厄介なことになる。密入国者として処刑された妻との間に子供がいて、それをずっと隠していたとしたら、それは国家への反逆に当たる。
 今も昔も、敵を作りやすい自分の性分は全く変わっていないらしい。疲労感を覚えて額に腕を押し当てると、彼はふうと溜息を吐いた。
 その瞬間、間延びしたような能天気な声が響く。「あれ、おじさん朝早いのね」
 振り向くと、寝惚け眼を擦りながらあの少女が佇んでいた。寝癖を指先で撫で付けながら、ばつが悪そうな笑顔を浮かべる。「寝惚け顔見られる前に、顔作っとこうと思ったのに」
 「…………」彼女の顔をじっと眺めると、不意に彼は冷静な調子で言った。「日が昇る前に、わたしは基地へ入る。お前はどうする」
 「は?」眠そうに腫れぼったい瞼を何度か瞬かせた後、慌てて彼女は首を振った。「あ、行く行く着いてくわよ勿論! やばいやばい、早起きするもんだわね」
 そして洗面所のドアを開けると、ばたばたと飛び込んで行った。
 と、それからひょこりと彼女は顔を見せる。「……って、ホントにいいのね? あたし遠慮しないわよ?」
 それは昨夜からわかっている、と言う言葉を飲み込んで、大佐は腕を組んだ。「化粧はやめておきなさい。軍服を持って来させるから、それを着ればいい。民間人は本来、一切立ち入り禁止なのだ」
 「えー……はぁい」不承不承頷くと、彼女は再び洗面所に入り込んだ。ざあざあと水音に混ざって、やや低いが明るい彼女の声が響いた。「やっぱりおじさんいい人ねー。あたしの見込み間違ってなかったわ」
 ふと彼は、今渡されたばかりの書類に目を落とした。あの『プログラム』の記録の中で同じ写真を見た記憶があるから、この写真の少女とここにいる女は同い年と言うことになる。だがその割には、写真の少女は幾らか幼く見えた。
 不意に唇を引き結ぶと、彼はその書類を二つに引き裂いた。そして捻って丸めると、それをダストボックスの中に投げ込む。ぼすんとくぐもった音が響いた。
 「あれ、おじさんどうしたの?」振り向くと、タオルで顔を拭いながらあの少女が洗面所から出てきたところだった。思いの外に早かったので、一瞬大佐は虚を突かれたような表情になる。
 あまり回答を期待していなかったらしく、少女は窓の外に視線を移すと呆れたように声を挙げた。「……また雨が激しくなったのかしら」
 振り向くと、窓を叩く雨の勢いは再び盛り返しているようだった。


 目を覚ましたベルの目に真っ先に飛び込んで来たのは、よりにもよってデイビーの顎だった。
 状況が飲み込めなかった彼女は、取り敢えず今自分が置かれている状況を観察することにした。頭の上にはデイビーの顎、左の頬に当たるのはデイビーの汗臭い胸、自分の膝はほとんど目の高さと平行に掲げられており、項から肩に掛けてにも大きな腕が回されている感触がする。
 要するに、デイビーに知らない内に抱えられていたのだということをやっと理解したベルは、反射的に拳を固め彼の顎目掛けて振り上げた。ごっ、と鈍い音がして、次の瞬間デイビーの腕が緩む。それでも彼女を取り落とさなかったのはさすがと言うべきか。ともあれ、その隙にベルは自分の足で地面に降り立った。
 ふと笑い声を聞いてベルが左右を見渡すと、隣には既に見慣れた老人の姿が、正面には見知らぬカウンターがあった。その向こうに腰を下ろしている白髪交じりの老婆は、唖然とした顔をしている。と言うことは、笑ったのは多分隣の老人だろう。
 「よく寝てたので起こさなかったのだけど、ちょっと彼が可哀想だったかな」甫民老人はふっさりとした眉を寄せて笑顔を見せた。
 ベルは顎を擦るデイビーを少しだけ見上げたが、すぐに無視してさばさばと言った。「ここどこ?」
 「ソンニムだよ。今日はもう遅いんで、ここに泊まろうと思ってね」
 ふうん、と欠伸混じりに返事をして、彼女は再び周囲を見た。古びたホテルのようなもので、多分ちらほらと夏休みの観光客がいるのだろうが、それでも満室には程遠そうな雰囲気だった。
 番台の老婆が何やら書類とボールペンを引っ張り出したので、甫民が腰を屈めてそれに記入した。肩越しにベルが覗くと、全く見ず知らずの人間の名が三つ書き連ねられて行っていた。多分デイビーに相当すると思われる、ひどく朝鮮人らしい男の名前が綴られるのを見て何となく愉快な気分になる。
 老婆は年の割に張りのある声で書面を確認した。「それじゃ、お爺さんとお孫さん夫婦の三人ですね。仲がおよろしくて羨ましいですね」
 「な……」ベルは思わず声を上げ掛けたが、すんでのところで飲み込んで代わりに笑顔を繕った。背後のデイビーに引き攣った笑いを向けると、何が何だかわかっていない彼は、まだ顎を痛そうに擦りながらそれでも明るく笑う。
 じゃり、と言う音と共に老婆はオレンジ色のバーが付いた鍵を取り出した。「それじゃ、二階の一番奥の部屋です。まだ早いんで、他のお客様のご迷惑にならないように、出来るだけお静かにお願いしますね」
 甫民の代わりにベルはそれを受け取り、視線を彷徨わせて階段を見付けると足早に二階へと駆け上がって行った。
 与えられた部屋は古くはあったが、決して薄汚れている訳ではなく、しかもそこそこに広かった。どうやら四人部屋だったらしく、小さなテーブルの置かれたリビングを挟んで二つあるベッドルームには、二台ずつの寝台が据えられている。随分久しく寝床らしい寝床にあり付いたベルは、思わずその一つの上にぼすんと身体を投げ出す。さっきまで忘れていた眠気が再び瞼に圧し掛かって来る。
 ふと、ドアの閉じる音と共に老人の声が聞こえた。「先に少し寝るかい? シャワーもあるようだが」
 「シャワー?」のろのろとベルは顔を上げる。知らずに声音が弾んだ。
 考えて見れば、もう何日もまともに身体を洗っていない。一応二日に一度は服を着替えていたものの、いい加減に気持ち悪くなっていた。
 「浴びてきてもいい?」
 「ついでに髪も洗って構わないよ。後から下のコインランドリーで洗濯もすればいい」甫民は目を細めた。喜色を浮かべ、ベルは部屋の隅にあったタオルと簡素なローブを抱えた。「ありがとう」
 「ゆっくり入ってくれば構わないからね」のんびりと言う甫民老人に笑顔を返して、ベルはばたばたとシャワールームに滑り込んで行った。その後姿を眺めて、デイビーは呆気に取られたような表情を浮かべる。
 くっくと笑い声を上げながら、ソファに腰を下ろした甫民は流暢な英語で言った。「あの子も、やっぱり女の子だったと言うことだね」


 術衣姿の劉はまだ朝早い病院の廊下を、白いシーツを被せたストレッチャーと共に滑るような足取りで進んで行った。途中、巡回の看護婦や衛生士とも何度か擦れ違ったが、よくあることなので誰もさほど気に留めず、ただ会釈を返していくだけだった。
 ストレッチャーと劉は専用のエレベーターに乗り込む。彼の細い指は『B1』のボタンを軽く叩き、すぐに扉が閉まった。やがて微かな振動の後、目的のフロアに辿り付いたエレベーターの扉は緩慢に開く。薄暗い地下の廊下に、劉はストレッチャーを押し出す。
 霊安室や解剖室の脇を通り過ぎ、廊下の果てまで来てようやく彼は左右を見渡した。
 そして、自分の口許を覆うマスクを外すと、囁くように言った。「もう大丈夫ですよ」
 その瞬間、ストレッチャーに被せられた布がもぞ、と動く。少し遅れて、それは不器用に跳ね除けられた。
 「……よく誰も怪しまなかったな」シーツを髪の毛に絡めたまま、ストレッチャーの上に起き上がった飛竜は呆れたように言う。
 見上げると、劉はにっこりと微笑んだ。「よく僕は朝練やってますからね」
 「朝練?」怪訝そうな飛竜に、こともなげに劉は言う。「ええ、解剖の練習。まだ僕は研究所から移って来て日が浅いんで、外科には弱いんです。だからよく練習しているんですよ」
 精神的な眩暈を覚える飛竜に、術衣を脱ぎながら劉は朗らかな声を掛けた。「取り敢えず、僕の車に行きましょう。すぐ傍まで着けているのですが、歩けますか?」
 「ああ……」憮然と相槌を打ちながらストレッチャーから足を下ろした飛竜は、だが自分の体重を支え切れずに大きくよろめく。手を掛けたはずみで、固定されていなかった車輪がぐらりと転がる。
 あわやと言うところで、術衣を脱いだ劉の腕が飛竜とストレッチャーを諸共に支えた。「やっぱり危ないみたいですね」
 劉に支えられたままの飛竜は顔をしかめた。そして情けないような何とも言えない表情をする。それを見た劉は、突然飛竜の身体をひょいと抱え上げた。慌てて飛竜が声を上げる。「おい、待て」
 「大丈夫、ロンは軽いので」のんびりと言う彼の言葉を、飛竜は遮る。「……いや、そうじゃなくて。これ何か間違ってる。つかその前に伝染る、伝染るってば!」
 「騒ぐと誰かに見付かりますよ」
 既に地下駐車場への扉を押し開けていた劉は、にっこりと微笑んで言った。彼が腕を伸ばした拍子に、ふと何か甘苦い香りが僅かに漂う。普段は全くわからないほど微かなそれが香水の匂いだと気付き、飛竜は眉根を寄せた。医者がそんなものを身に付けているということも意外だったが、自分が今それだけ彼に接触しているということの方が問題だった。この男は一切そういう態度を見せないが、本来ならば飛竜は忌避されるべき伝染病患者なのだ。「いや、だが……」
 「あなたが気にすることではありません。嫌なら主治医の権限であなたを病室に戻しますよ」さらりと劉は言い放つ。これでは、どちらがどちらを脅迫しているのかまるでわからなかった。
 妙なところで諦めのよい飛竜は、これ以上何を言っても無駄だと判断して抵抗するのを止めた。この医師にあのウイルスが伝染ったところで、もはや知ったことではない。と言うより、それ以前に彼が病気に感染する様子など到底想像出来なかった。
 ぼんやりとそんなことを考えながら、彼はもう長らく見たことのない景色を眺めた。見るからに地下駐車場らしい打ちっぱなしのコンクリート壁の間に、疎らに汚れた車が止められている。大抵は無難な白いワゴンのようだが、所々に医師等の自家用車と思しき軽自動車や普通車が見えた。
 (この医者の車は……黒かな)そんなことを考えたのは、彼が黒ずくめの服を着ていたからに他ならない。始めて見るこの医者の私服は、上から下まで全て黒で統一されていた。
 よく思い出してみれば、普段の白衣の下に来ていたものも大抵黒っぽい色合いだったような気がする。更に彼から借りた、飛竜が今纏っている服も黒の長袖の上下だった。黒が好きなのか、と一瞬考えたが、すぐに真相に気付く。
 (……そう言えば劉医師はアルビノだったっけ)紫外線に極端に弱い体質のアルビノは、その対策をした上でないと外を出歩くことが出来ない。出来ることなら、屋外に出る機会も極力減らしたいはずだろう。もしかしたら彼がウイルスの専門なのも、隔離病棟が日光のほとんど入らない奥まったところにあるからかもしれない。急に飛竜は、何だか申し訳ないことをしたような気分になる。
 と、前方に黒塗りのやや高級そうな乗用車が見えた。窓と言う窓全てにUVカットのミラー加工が為されている。
 (あれかな)飛竜の予想通り、劉はその車の前で立ち止まり、キーに付いたリモコンでロックを解除した。
 ばたんと音を立てて後部座席のドアを開けた劉は、担いだ飛竜をその中へ入れる。ようやく彼はそのときになって、自分がシーツを被ったままだったことに気付いたが、少し寒気がするのでそのまま包まっていることにした。動悸と眩暈がしたが、気分はあまりひどくない。
 車内には、芳香剤の代わりにさっきの香水の匂いが微かに立ち込めていた。仄甘いのに、少し擦れたような独特の苦みが混ざる香りは、多分麝香がベースなのだろう。男が身に付けて不自然なものではなかったし、吐き気や頭痛を催すほど強いものでもなかったのだが、やはり何か違和感があった。そしてようやく飛竜は、自分が借りた服にも微かにその香りが移っているのに気付く。
 程なく運転席に劉が乗り込んで来た。ボードからこれもやはり紫外線除けだろう、フレームのない度入りのカラーグラスを取り出して掛ける。更に黒くつばの深い帽子と手袋も着けたので、普段真っ白な彼はほとんど別人に姿を変えた。
 黒い劉はキーを捻ってエンジンをふかす。「それで、どちらへ伺えばよろしいでしょうか?」
 一瞬香りの方に気を取られていた飛竜は、それを振り払うように首を軽く振ると、少し考えて答えた。
 「……まずは、戦況を知りたい。悪いが平壌周辺をあちこち回ってもらえるか? それから、速報も聞きたいんでカーラジオを」
 「目的地までお休み下さい、と言いたかったんですけどねえ」微かに振動して、車体は滑らかに動き出した。劉の手袋の手がハンドルを切り、バックのままカーブを切った車は駐車場を地上に向けて走り出した。
 ここでもまた、戦いが始まろうとしていた。


 水を滴らせる髪にタオルを被せたベルは、ここ数日分の着替えを抱えて宿の一階にあるランドリーに向かった。コイン挿入式の洗濯機に硬貨を入れ、色彩に乏しい服を投げ込む。夏物なので量がある割にはかさばらず、一回の洗濯で下着まで全て洗えそうだった。
 乾燥まで全てやってくれる全自動式だったのを確認したベルは、一旦部屋に戻って休むことにした。さすがにこの国へ来て以来まともに休んでいなかったので、身体の関節が悲鳴を上げている。このまま部屋に戻ったら洗濯物を忘れて寝こけてしまいそうだ、と彼女は少し不安に思ったが、まあ甫民に頼んでおけば適当なときに起こしてくれるだろうと考え直す。それでも駄目だったら、彼に洗濯物を取りに行ってもらえばいい。デイビーに下着を触られでもしたら言語道断、八つ裂きの刑に架すしかないが、老人甫民にならばあまり抵抗は感じなかった。
 時々ふら付きながら部屋に辿り付いたベルは、あらかじめ持ち出していたキーで扉を開けて中に入った。甫民がテーブルに着いて何か書き物をしているのがすぐ見えたが、デイビーが見当たらない。水音が聞こえているので、恐らく今は彼がシャワーを浴びているようだ。さすがにベルと同じくらい風呂に入らずじまいだったデイビーは、彼女以上に汗臭くなっていた。寝るより先にシャワーを浴びる辺り、彼も我慢の限界に近かったのだろう。
 「それじゃ、ちょっと寝て来るね。洗濯物は小一時間で終わるはずだから、適当なときに起こしてくれたら嬉しいわ」少し呂律が怪しいながら、いつもながらの早口でベルは言った。
 甫民は顔を上げ、のんびりと頷く。「では、男衆の服を洗濯に行くついでに起こしてあげよう。それまでゆっくり休んでおいで」
 ベルは肯定の代わりに掌を振って、リビングの右手側にある寝室に入った。
 ベッドに倒れ込んだベルは、メイキングされたシーツを苦戦の末に引き剥がし、その中に潜り込んだ。これだけ疲れているのだからすぐ眠れるだろう、と思い目を閉じたのだが、意外なことになかなか睡魔が訪れない。疲れ過ぎてかえって神経が昂ぶってしまったらしい。
 仕方なくベルは、足元のテレビ台に載ったテレビに手を伸ばしてスイッチを入れた。つまらないニュースを聞いていたら、どんなに目が冴えていても必ず眠くなってしまうものだ。案の定、チャンネルを回さずともテレビからは退屈な早朝のニュースが流れて来た。その内容の大半が、既に彼女が誰よりも細かい顛末を知っている事象だったりするので、ますます退屈であった。
 ところが、ようやく睡魔に唆されベルが欠伸を始めた頃、そのニュースは飛び込んで来た。
 テレビの向こうが俄かに騒がしくなったので彼女が薄目を開けると、ブラウン管の中でずっとニュースを読み上げていたキャスターの脇に、機材を付けたスタッフらしい人物が駆け寄って来ていた。また誰かが何か施設を壊したのかしら、等と考えていると、その中堅のキャスターは冷静沈着な声で飛び込んで来たばかりの報告書を読み上げる。
 『只今入りました情報によりますと、国家公安当局は今日未明に連続爆発火災テロの容疑者を断定した模様です。同時に全国に手配写真を公開することになりました……手配写真出して下さい』
 画面がぱっと変わったが、元々近眼気味な上に寝惚けていたベルは目の前が霞んでよく見えない。目を擦る彼女の前で、キャスターは僅かに昂揚した声で読み上げた。『容疑者の氏名はセ・カンメイ。性別は女性、年齢は十八歳で、出身は開城市となっています』
 「は?」思わずベルは耳を疑った。慌てて目を擦り何度も瞬いて、更にベッドから這い出してテレビに近寄る。そして彼女は更に信じられないものを見た。
 画面下のテロップに入っているのは、紛れもなく彼女が半年前まで付き合って来た名前だった。そしてそれに付随される内容も、間違いなく彼女自身に一致する項目ばかり。ただ、画面いっぱいに映し出された顔写真だけが、ベル――寛美本人とは異なっていた。
 砂色の短い髪。その左側サイドに入った一房の銀髪。どこか無機質な淡い碧眼と、色のない白い顔。それは彼女と似ても似つかぬ人物だった。だが、見覚えはあった。いつも敢えて思い出すまいと心掛けてはいるが、完全に忘れられるはずがない。寛美が初めて手に掛けた人物の顔なのだから。その眉間に銃口を押し当て、引き金を引いたその相手なのだから。
 ――それは、朴 江葉だった。江葉の目が真っ直ぐに寛美を見詰めていた。
 『繰り返します。連続爆破火災テロの容疑者の氏名はセ・カンメイ――』
 キャスターの声など、耳に入るはずがなかった。その場にへたり込んだ寛美は惹き付けられたように食い入るように画面を見詰め、そして。
 悲鳴を上げた。


 デイビーは、シャワーの音に紛れるようにして女の悲鳴を聞いたように思った。一瞬ベルの身を案じたが、すぐに大方空耳だろうと高を括る。もしも何かあったとしたら、あの百戦錬磨の甫民が黙っているはずがない。
 だが、シャワーの水流を緩めた拍子にもう一度悲鳴を聞いた。今度はどちらかと言えばけたたましい叫び声ではなく、うろたえ取り乱したときに発するようなものだった。そしてその声が紛れもなくベルのものだったので、反射的にデイビーは蛇口を捻って湯を止める。咄嗟にタオルで乱雑に身体を拭うと、それを腰に巻き付けただけの姿でシャワールームから飛び出した。
 リビングを見ると、さっきまでいたはずの甫民もいない。慌ててデイビーはベッドルームを覗き込んだ。自分と甫民が休む予定のベッドはいずれも空で人の気配がなかったので、もう一方のベッドルームへ飛び込むと、そこにベルと甫民の姿があった。それ以外の人間がいないようなので、ひとまず彼は胸を撫で下ろす。
 だが、甫民に肩を抱えられたベルがひどく取り乱している様子なので、不安になったデイビーは彼女の脇に膝を突いた。そして、目に見えるほど震えている彼女の背中を擦る。彼女は、いつかのように狂気じみた色合いを表情に滲ませていた。
 その怯えた眼差しを、それでも彼女はブラウン管に向ける。つられてデイビーもテレビに目をやると、そこにはインド系コーカソイドの少女の顔写真が大写しになっていた。その瞳が余りに冷たいので、思わずデイビーもぞくりと背筋を凍らせる。
 「……あたしが殺したの。殺したのに……」ベルはうわ言のように呟く。
 意味がわからないデイビーは甫民を覗き込むが、彼も今はベルに掛かり切りで答えられる状態ではなかった。「落ち着きなさい、大丈夫だから」
 しばらくテレビに目を向けた甫民はそれで状況を全て察したらしい。老人特有の落ち着いた抑揚の声で語った。「思いの外に身元が知れるのは早かったが、多分誰かの妨害工作が成功したのだろう。あなたの手配写真の代わりに、あの子の写真が使われた、ただそれだけだ。他意はない。だから安心しなさい」
 「……何であんなところにいるの……何で……」ベルは自分の震える掌を顔の前に掲げると、それに顔を押し当てる。
 泣いているのかとデイビーは思ったが、どうやらひたすら震えているだけのようだった。普段が冷静な彼女だけに、そんな姿を見せられるとこのまま壊れてしまうのではないかと不安に駆られる。
 心配そうに覗き込むデイビーに顔を向けると、甫民は流暢な英語で言った。「着替えておいで。それから彼女をなだめてあげなさい」
 自分がまだ裸であることに気付いたデイビーは慌てて頷き、備え付けの韓風のローブを取りにもう片方のベッドルームへと走った。そして畳まれていたそれを引っ掴み羽織ると、サッシュを結びながら駆け戻る。
 ベルは口許を押さえてはいたが、幾らか気を取り直しているようだった。辛うじてデイビーの方を向き直る。支えようと手を伸ばすと、信じられないことに彼女は縋り付くようにその手を取った。そして額を押し当てる。「……ごめん……取り乱した」
 デイビーは優しくその背中に手を回して擦った。まだ興奮が残っているのか、ベルは全身を震わせて息をしていた。
 「あの子を殺したのか」不意に背後で甫民の声がした。
 びくりとベルが身を強張らせるので、思わずデイビーは甫民を見上げて睨み付ける。だが、ブラウン管から視線を動かそうとしない老人は、白い髭の下表情の読めない唇で言った。「悔いているのかい」
 震えながらベルは首を振った。そして震える声を何とか言葉に繋ぐ。「……でも、あたし……」
 「……自分に人を殺す権利などない、なんてことを言いたいのかね?」依然として静かに甫民は言う。
 驚いたように目を瞠った後、おずおずとベルは頷いた。
 「……それで、だから、あたしは……あたし、怖くて……」デイビーの腕を揉み扱きながら、彼女は切れ切れにそう言った。
 ふと甫民は、妙に穏やかな調子で言った。「……わたしが、これまで何人殺して来たと思う?」
 ひきつけを起こしたようにベルは身を震わせる。
 僅かに目を細めると、淡々と老人は言った。「直接手に掛けたのは、百三十七人だ。わたしが起こしたテロで犠牲になたのは七百十五人、行方不明のままなのが千二十三人。間接的に死なせた人物は、もはや把握し切れない」
 ベルの様子から、その言葉が只ならぬ状況を指し示していると言うことを察したデイビーは、老人を睨む目に知らずの内に畏怖の色を混ぜる。
 「――それだけの人間の命と引き換えに、陛下をお守りして来た。そのことを恥じるつもりはない」傲然とすら取れるほど穏やかに、甫民は言い放った。
 ほとんど泣き出しそうな顔でベルは答えようとする。「……でも……」
 不意に閃くように鋭く甫民は言った。「あなたは、何の犠牲もなく目的を成し遂げられるなどと甘いことを考えていたのか。あれだけの行為を起こしておきながら、まだ自分の手は汚れていないなどと信じていたのか。我々が生き抜く為に、どれほどの血が流されてきたと思っているのだ」
 そしてふと、ひどく悲しげに呟くように言った。「……陛下が、一滴の血も流れずにすむほど綺麗なところにおられると、本当にそんなことを思っていたのか?」
 ベルはびくりと身を強張らせ、首を振った。その脳裏を、あのときの飛竜の姿が過ぎる。梳き下ろされた透き通る金の髪、白い剥き出しの傷だらけの肌、痛々しいほどに痩せた長身、どこか狂気を帯びたような色合いの深い深い紫紺の瞳、滴りそうなほどに紅く妖艶な唇――そして、彼を覆う白いシーツとむせ返るほどの甘い香り。
 一瞬だって、もうほんの一瞬だって、あんな場所においておきたくなかった。あの恋い慕わずにはいられない美しい人を、あんなところで踏み躙られるがままにはしておきたくなかった、絶対に。
 しかし――。
 ふと、甫民はブラウン管に目を注いだ。そして立ち上がる。
 「……悪かったね、言い過ぎた。少し身体を休めた方がいい」
 静かにそれだけ言うと、彼は部屋から出て行った。一瞬だけテレビのスイッチに手を伸ばし掛けたが、途中で止めてしまった。
 ベルは呆然とその小さな背中を見送った。そして僅かにテレビに視線を向け、すぐにデイビーの肩口に顔を押し当てた。


 甫民はかつてたった一度だけ、マダム・イーグル――海東青夫人に出会ったことがある。
 まだ当時の甫民はひどく幼かったが、その印象は強烈だった。
 既に王朝は滅び、僅かに生き残った皇族やその周辺人物が国土を取り戻そうと叛旗を翻す頃だった。甫民は、かつて後宮内で教養を教授していた父と、元宮女だった母に連れられて、彼女の元へと会いに出掛けて行ったのだ。旧王朝派への参加協力を願う為に。彼女さえいれば負けはしないと言う呼び声も、味方の中では高かった。
 もしかしたら、敵の国政派が最も恐れていたのも、彼女の参戦だったかもしれない。そんな女だと聞かされていた。
 激しい残党狩りを逃れた夫人は、山間部の僻地で治水の指導を行っていた。初めて見たとき、強い落胆を覚えたのも甫民はまだ生々しく覚えている。両親や味方の語る夫人は美しく賢く雄々しく、まさに見目容のよい鷹のような英雄のはずだった。しかし実際に逢って見ると、ぼろを纏い黄土に塗れた彼女はひどくみすぼらしかった。
 後から知ったことではあるが、当時の――晩年の彼女は酒と阿片に侵されており、まともに人と会話することすら危ぶまれるほどの、廃人同様の状態だったらしい。かつては常に短くしていた髪も、伸ばしては切って売って酒代に充てるような、そんな状態にまで彼女は落ち込んでいたと言う。
 『あんたが、瀬戸先生の息子か』甫民を見るなり彼女は言った。呂律の怪しい、ひどい南方訛の言葉だった。『ええ子やね。おとんよりも賢いわ』
 そして酒臭い、蒼白な顔で笑った。なまじ綺麗な顔立ちだっただけに荒廃した様は凄絶で、子供の目には恐ろしく映った。
 彼女が両親とどんな会話をしたのかはよく知らない。それでも、完全に交渉が決裂したらしいと言うことはわかった。肩を落として帰路に着く両親の傍らで、甫民は確か夫人を睨み付けたのだと思う。そんな幼い彼の目の前に腰を落とし、彼女は静かにその目を見詰めた。それがぎょっとするほど強い目だった。
 『……あんたは、おとんやおかんと一緒に戦うつもりなんや?』
 参戦を拒む彼女に誇示するように、甫民は大きく頷いた。すると彼女は複雑そうな目の色を浮かべ、まんざら優しくなくもない声音で言った。『戦うゆうんは、どないなことか知っとうな?』
 何度も甫民は頷いた。
 すると、まだ歳若い――王朝が滅亡した時点ではまだ十代だったと、これもまた後になって知った――未亡人は彼の肩に手を載せて、声に力を込めた。『なら、覚えとき。あんたはこれからきっと何度も人を殺す。人殺しゆうんは、誰かのこれからの人生をぶん取ってしまうちゅうことや。その人をおらんかったことにしてしまうちゅうことや』
 そして微かに首を振った。ざんばらな髪の毛が顔に掛かって、痛々しいと思ったことを、甫民は今も覚えている。
 『でもな、うちは「人殺しはあかん」なんてそゆことゆうつもりやあらへん。人間かて所詮はケダモノやさかい、獅子やら魚みたいに殺し合うこともあるんやと思っとう。――ただな、その殺した相手のこと忘れたらあかん。死んでしもたら、皆から忘れられてしまう。おらんかったことにされてしまう。だから、その原因作った奴だけはその人を忘れたらあかんのや。どんなに憎い相手殺した場合でも、それだけは守らな。それが最低限の礼儀ってもんや』
 そして、帰り支度を整える両親の背中にちらりと目を向けて、彼女は困ったように微笑んだ。『……遠いとこ来てくれたのにすまなんだなあ。うちはこないにラリってぱあになってしもうたから、人殺しても相手のこと覚えられそにないんや』
 伝説の海東青夫人は、ふら付く足で彼等を見送った。甫民が彼女と会ったのは、それが最初で最後だった。
 程なくして彼女は亡くなった。真冬に路肩で酔い潰れていた為、そのまま凍え死んだのだと言う。
 (――紛れもなく、あなたの末裔です)目を閉じて甫民は念じた。あの海東青夫人と施寛美はひどくよく似ていた。悲しくなるくらいに似ていた。(だから、やはり――)
 ふとおもむろに甫民は、自分の僅かな荷物から携帯電話を取り出した。そしてボタンを押し、耳に当てる。
 「……ああ、わたしだよ。作戦の変更を伝えよう」
 少し目を閉じて、再び目を開くと、彼は穏やかな声で言い渡した。「施氏は戦線から外す。以後彼女を戦力と考えるな」


 飛竜は呆然と、車の窓越しにビルの横腹に据えられたビジョンを眺めていた。
 情報収集は主にカーラジオで行い、劉の車は常に破壊現場の跡地へと向かわせていたのだが、どうしてもそれで集められる情報には限界があった。そこで、朝のニュースに合わせて街頭ビジョンへと車を走らせるよう劉に命じたのだ。主に地理的な情報や、遠方の破壊状況等について調べるつもりであった。
 しかし、ニュースは彼が欲しがっていた情報を一切流していなかった。ただ繰り返し、二人の少女の情報を一つに混同して放送し続けていたのだ。――視覚が捕らえるのは、あのかつて自分が突き落とし、死に至らしめた少女の無表情。そして聴覚が捕らえるのは、つい二日前に再会したばかりの、あの印象的な少女の名。それが一致しないので、しばらく状況を理解するのに時間が掛かった。
 「日蝕は、見られるでしょうかねえ」
 不意に飛竜は無理矢理意識を引き戻された。劉はそれを知ってか知らずかのんびりと言う。「大分前から楽しみにしていたのですが」
 「は?」言ってから、我ながら頓狂な声だったと呆れる。しかし劉の言っていることの方がよほど頓狂だった。「何……」
 「明日の正午頃に、皆既日食があるはずなんです。東アジア全域で観測出来る大規模なものだそうで、今世紀最大級の天体ショーと専らの評判でしたし、僕も楽しみにしていたのですが」暗誦でもするようにさらさらと黒ずくめの医師は言った。そして残念そうに付け加える。「台風接近でどうなるか気になっているのですが、ニュースではどうも教えてくれませんね」
 少し首を捻った後、飛竜は劉に言う。「お前、もしかしたら自分も吹っ飛ばされるかもしれないってのに、よくそんなこと言っていられるな」
 「もしかしてあなた、ご存じなかったですか?」劉は、とても脅迫されて犯罪の片棒を担がされているとは思えないような口振りで答えた。
 ずっと外界と切り離されて、それでも辛うじて要人達から国政の情報を引き出していた飛竜は、当然そんなことを知るはずもない。
 ただ、ぽつりと彼は呟いた。「……真昼の光が食われるのか。何だか不吉だな」
 そして再び巨大な画面に視線を戻す。あの瞬間に――古いアパートから突き落とされた瞬間に自分のことを最後まで凝視し続けていた、あの碧眼がじっとこちらを見詰めていると思うとどうしても落ち着かなかった。何故寄りによって彼女の写真なのだろう、と忌々しげに彼は考える。
 その表情をバックミラーで眺めながら、劉はのんびりと言う。「……僕の郷だと、日蝕は瑞兆と言われてましたよ。太陽と月がまぐわって、新しい光を生み出すんだそうです」
 鬱陶しそうに顔をしかめた飛竜は、しかし次の瞬間に怪訝そうに瞬き、眉をひそめた。「――お前、どこの出身だ?」
 「さあ、どこだと思いますか? 本貫地はあなたと同じ新義州ですが」他意などない、と言う笑顔を見せる劉に、飛竜は詰め寄るように言った。「違う。蝕を吉祥視する地域は、今の半島にはほとんどないはずだ……ない訳でもないが、そんな僻地の出自にしてはお前、訛がなさ過ぎる」
 くすくすと、いかにもおかしそうに劉は笑った。「祖母が鬱陵(ウルルン)の出身だったんですよ。詳しいですねロン」
 「そ……」何か言い掛けたが、途中で飛竜は口を噤んだ。
 鬱陵は東海上に浮かぶ小さな離島で、人口も非常に少なく独特の文化を持っていた。その例として真っ先に常に挙げられるのがこの日蝕再生譚であり、ある程度民族学に興味のある人間は大抵知っている事柄だった。つまり、劉医師の回答は余りにも模範的過ぎたのだ。これではかえって胡散臭い。
 しかしこれ以上詰問したところで、恐らくこの年上の医師の方が遥かに上手である。はぐらかされるのが関の山だと考え、飛竜は軽く舌を打った。――隠したいのなら隠せばいい。どうせこの世のことなど、もう僅かで一切関係がなくなるのだ――あまり気分の良い考えではなかったが、それは事実だった。
 それに気付いたのか、劉はサングラスのままおっとりと背後を振り返った。「どうかしましたか? 気分が悪いのですか?」
 「いや」飛竜は顔の前で両手を組み合わせると、険しい表情で命じた。「もういい。次の建物へ行ってくれ」
 劉はにっこりと微笑むと、再び前方へと向き直った。そしてサングラスを掛け直し、ハンドルを握る。
 その一瞬、彼の冷たい色彩の裸眼は確かに画面の少女に向け、細められていた。


 ベルは、ベッドの中で目を覚ました。狂騒を起こして、訳がわからなくなる内にいつの間にか眠ってしまっていたらしい。のろのろと身を起こすと、隣のベッドでは大の字になってデイビーが寝扱けていた。ぼうっとした目でベルはそれを見る。
 少しずつ頭が回り始めて、彼女はテレビ画面に目をやった。スイッチの切れたダークグレイの画面がぼんやりとたたずんでいる。浴衣の裾から肌蹴た足でベッドから降りスイッチを押すと、炎上する建物のVTRの隅に小さな枠が切り取られ、その中に砂色の髪の少女が見える。別のチャンネルに変えると、反対側の隅で少し大きく彼女の顔が映っていた。きっとどこの放送局でも今は、常時彼女の写真を画面の隅で放送し続けているのだろう。
 (……夢じゃない)
 改めてまざまざと見せ付けられた気はしたが、それでももう取り乱しはしなかった。ただ、何だか残念な思いだった。面白い本を読もうとした夢を見ていたような気分だった。もっと夢の中にいて、その本を最後まで読めばよかったと思う。
 (違うの)ベルは首を振った。もつれたまま生乾きに乾いた黒髪が重く揺れる。(……何度も、夢で見て、知っていたのよ)
 アメリカへ逃げてからも、幾度となくうなされた。彼女を――江葉を殺して、鈴華を殺されて、飛竜を残して逃げ出して、夜中に何度も飛び起きた。自分が許されるはずなんてないと、誰よりも強く知っていた。自分の罪がわからないほど子供ではないと思っていた。それを承知で、『こんなこと』をやっているつもりだった。
 例えどんなに口汚く罵られようとも、殺されるほどに憎まれようとも、それを甘んじて受け入れる覚悟をして、ここまで来た。許されることではない、それを理解した上でこの道を選んだ。あらゆる覚悟は全て決めていた。つもりだった。
 しかし。
 (あたしの覚悟一つで殺される方は、堪ったもんじゃないわよね)
 不当に命を奪われて怒り悲しみ嘆くべき本人は、殺された時点で何も言えなくなる。どんなに不満を遺して死んでも、それを殺戮者に伝える術がない。ならばその思いは一体どこへ行くのだろう。
 遺された者へ受け継がれるのだろうか。戦禍の中で燃え尽きるのだろうか。年月の風雨に流され消えてしまうのだろうか。
 ――幽霊だとか怨霊だとか、そんなものは信じない。けれど、その砂色の髪を持ったクラスメイトの死んだ思いの残像を突き付けられたのだ、とベルは思った。思いは消えるのではない。罪を犯した人間の、その魂に刻印として刻まれるのだ。時折不意に疼き出す呪いのような傷として。生涯忘れてはならない罪の証として。
 その傷が気にならなくなったとき、身体を遺したまま魂は死んでしまう――否、殺したはずの人に殺されるのだ。
 ぼんやりとベルは全身の力が抜けるのを感じた。あれだけ怖かったものを、必死に足掻いて逃げ出そうとしていたものを、肩肘張って償おうと躍起になっていたものを、ようやく見付けたのだ。
 (何もかも、それはあたしの中に「いた」……)
 ふとがさがさと言う音がした。多分背中でデイビーが目を覚ましたのだろう。テレビのニュースを見ると、さっきの騒ぎから精々一時間半しか経っていない。自分は車内でも仮眠を取っていたけれど、彼はそんな睡眠時間で足りるのか、と不思議になる。
 そして同時に、甫民老人を思い出した。さっきは騒がせて申し訳ないことをした、と考え、ベルはのそのそとベッドルームを出る。
 ベッドルームに挟まれたリビングには、人の姿がなかった。代わりに黒い衣服の山が、備え付けの籠にうずたかく積み上げられている。隣の山は、多分デイビーの洗濯物だろう。
 (……寝ちゃってたから、取って来てくれたんだ)申し訳ないと思い、ベルは少し足を速めて向かいのベッドルームの戸口に入る。
 「あれ」彼女は何度か瞬いた。そこにも甫民老人の姿はない。どころか、ベッドを使用した形跡もなかった。
 慌ててベルはリビングに戻った。そして左右を見渡し、やはり姿がないのを確めてシャワールームをノックもせずに開ける。トイレと一続きになったそこにも、老人の姿はなかった。
 (……自分の服の洗濯に行ったのかも)
 デイビーの目も気にせず景気よくローブを脱ぎ捨て、一番着易いロング丈のキャミソールワンピースに手早く着替えると、彼女は部屋を出ようとした。そしてそこに置かれたままのキーに気付き、嫌な予感に駆られる。それを打ち消すように首を激しく振り、彼女は考える。
 (……きっと鍵忘れて外出ちゃったから、部屋に入れないんだ)そして鍵を拾い上げて部屋を出た。
 踵を踏み潰したローのパンプスを突っ掛けて、ベルは一階への階段を駆け下りた。途中で段を踏み外し、五段ほど勢いよく転がり落ちたが、すぐに起き上がってランドリーコーナーへ向かう。まろびつつランドリーを覗き込むと数人の人の姿があったが、いずれも見知らぬ人間ばかりだった。息を切らせて立ち尽くすベルを、彼等は一様に怪訝そうな眼差しで眺める。
 すぐに彼女は身を翻し、今度は小さな売店へと向かう。そこも外れ。次は喫煙コーナー。それから給湯室。罷り間違ってリネン室に、と思い付く限りを探したが、どこにも老人の姿はなく、先々で他の客達の奇妙な視線に晒されるだけだった。
 最後にふらふらと二階への階段をよじ登り、がくがくとくたびれた手で鍵を挿し込み、四苦八苦の末に何とか部屋の扉を開いた。ゆったりと重い音を立てて鉄の扉が閉まり、ベルが前を向くと、ローブも肌蹴てほとんど半裸のデイビーが、慌てふためいた動作でよくわからないジェスチャーをしていた。
 「……どうしたの」
 デイビーは、ベルの小さな鞄を指し、次に彼が抱えていた幾つかの荷物を指した。そしてその隣の何もない空間を抱えるような仕草をして、最後に両手をひらひらと振る。二、三回それを繰り返され、ようやくベルは理解した。
 「……瀬戸先生の荷物、ないの?」思わずハングルで叫んでしまったが、デイビーには何となく通じたようだった。彼は何度も頷く。
 「どこに行ったのよ!?」ベルはデイビーの胸倉を掴んだが、彼は困ったように首を振る。
 すぐに我に帰り、彼女は額を引っ掻いた。考えるまでもないことだが、考えたくない。しかし、恐らく間違いない事実に彼女は表情を歪める。
 のろのろと彼女は言った。「……あたし達、見限られちゃった」
 そしてすぐに首を振る。「ううん、いらなくなったのはあたしだけだ。役立たずで、馬鹿で、向こう見ずなあたしだけだ……」
 今にも泣き出しそうなベルの表情を見て、しばらくおろおろとしていたデイビーは、突然意を決したように洗濯物の山から自分のシャツと綿パンを引っ張り出すと大慌てで着替える。そして洗濯物を鞄の中に乱暴に押し込むと、荷物を纏めた。ベルと自分のそれを片腕に引っ掛けると、もう片方の腕でベルを担ぎ上げる。
 ベルに何か言わせる間もなく、彼は部屋を出た。そして彼女を肩に担いだまま大股に廊下を下って行く。
 「……デ……」デイビーの横顔に目を向けた彼女は、思わず言葉を詰まらせた。今までに見たことがないほど、彼の表情は険しかったのだ。あのいつでも陽気なデイビーがここまで怒りの表情を上らせているのを、ベルは多分初めて見た。
 長い脚で階段を二段飛ばしに駆け下りると、デイビーは一階に降りてから番台までほんの十秒足らずで辿り着いてしまった。そして、呆然と目を瞠る台の老婆の前で、壊れ物でも扱うように静かにベルを下ろした。
 ベルは思わずデイビーを見上げる。その手に握られっ放しだったバーの付いたキーを抜き取り、彼は台の上にごとりと置いた。
 「あ……チェックアウトですか?」ようやく我に帰った老婆は言った。半ばぼんやりと頷くベルに、彼女は節くれ立った指で手元のメモを捲った。「お祖父さんは、あなた達二人はもう少し滞在なさるようなこと仰ってたんですが」
 「よ、予定が変わったんです。ね、急がなきゃ」柄にもなく慌てふためきながら、何とか取り繕った笑顔で彼女はデイビーに同意を求める。けれど、彼の表情はほとんど軟化しなかった。
 ようやく、老婆は表情を窺うような目付きで二人を見上げて言った。「お祖父さんから、お二人の三泊分の宿泊費を先払いして頂いてるんですけど」
 「……」少し迷ったが、すぐにベルは言った。「それじゃ、精算して下さい」


 「どう言うことだ!?」書類を叩き付けながら、弓は叫んだ。向かい合う官吏達が一斉に震え上がる。
 見て取れるほどに動揺しながら、呼び出された制服姿の公安局員は言った。「は、て……手配犯の写真は開城基地で収集させたのですが、途中で何か手違いがあったようで……」
 「誰がそんなことを訊いた」弓は鋭い一瞥を投げる。
 椅子からがたんと立ち上がった弓は、苛々と室内を回った。「犯人は間違いない、施氏だ。そこまで絞り込んだのに、どうして小娘一人捕まえられない。どころかこの失態はどう言うことだ。わたしが提示した写真の人物と照合して確認しなかったのか」
 「……も、申し訳ありません。しかしその娘の写真を収集しようにも、全てのネットワーク上のデータが書き換えられていて……ベースになるデータの書類は一枚しかないので、行き違いがあった模様で……」技術担当の役人がおろおろと弁解する。
 忌々しげに弓は舌打ちをした。「アナログのソースはどうした。母校にでも行けば写真くらい残っているだろう」
 「それが……高等学校二年生の段階で『プログラム』に参加したと言うことで、元来残っている写真は少なかったんです。しかも元来所属していたのが色々と問題のあるクラスだったと言うことで、彼等との関与を否定する為にも『プログラム』の直後に学校側は関連書類等を処分してしまっていましたし……。また実家の方にも当たってみたのですが、既に家諸共灰燼に帰しておりまして……」総務部の若手の男が、震える声で、しかしそれなりに筋道の立った説明をして見せた。
 要するに、あの少女のデータは現在ほとんど全て抹消されていた、と言うことに気付いた弓は腕を組んで表情を歪めた。そう、彼女をこの国から完全に消したつもりだった。理論的には、彼女は既に死人なのだ。
 (ならばこれは祟りか。施氏の怨霊か)苦々しい笑みを弓は浮かべる。
 皮肉だった。何度歴史から消しても、何度殺しても、施氏は息を吹き返しては世を乱す。――四百年に渡って、施氏は甦り、生き続けて来た。その血脈をようやく断ち切ったはずが。
 鋭く顔を上げると、弓は顔を巡らせた。そして後ろの方で特に慌てる様子もなく佇んでいる総務の金とか言う役人を見付ける。
 弓は皮肉げに顔を歪めてみせた。「その様子だと、用意は整っているんだな」
 「はあ。中央会議場に五千人以上とのことで、確かに集めました。何種類かのシンポジウムが数ヶ所の議場で行われる予定でしたんで、全部それを移動させたところ、恐らく七千人弱は固いかと」どこか気の抜けた声で彼は報告する。
 少し驚いたような表情を弓は浮かべた。「たかがシンポジウムで集まるもんだな」
 「市民団体や児童会の会合なども入ってるんで」しれっとした顔で金は言う。
 弓はにやりと笑った。今回のテロで一番頭が痛いのは、一般民衆の加担だった。革命志士達のみならば、幾ら手強いとは言えたかがテロリスト、粛清を行ったところで周辺国からの口出しは認めさせない。数とて限られている。
 しかしそれに市民が参入すると話は厄介になる。烏合の衆とは言えこちらの数の不利は免れ得ないし、粛清を虐殺と取られたら欧米諸国からの風当たりも強くなる。機を見て開国するつもりの弓には、甚だ避けておきたい事態であった。
 ならば、民衆に加担させなければよい。その為には、テロリスト達が民衆からの反感を買う事態を招けばよい。
 五千人の命ならば、十分その起爆剤にはなるだろう。
 犯行予告の文章を握り潰した弓は、腕を組んで早足に歩き出した。彼を囲んでいた官僚達は皆、びくりとしたきり動きもしない。
 一人で部屋を出た弓は、ふと腕に嵌めた時計を見た。針は午前八時の少し前を指していた。
 (――後、四時間)四時間で、全ては決まる。


 一度車に乗り込むと、デイビーは決してベルの方を振り返ることなくアクセルを踏み込んだ。そして終始強張った表情のまま、ひたすら前だけを見据えていた。そんな彼の姿を見るのは初めてだったので、少しだけベルは面食らった。
 しかし、『平壌市境』の看板を見る頃になると、彼女もまた再び前だけを見据えるようになっていた。
 (……何が何でも、止めなきゃ)
 もうこれ以上、殺すのは嫌だった。彼の為と銘打って、あたかもそれが正義であるかのように人を殺すのは嫌だった。常に冷静を装ってはいたが、それを喜ぶ人間でないと気付いていたからこそ、彼に惹かれた。そんな単純なことすら見えなくなるほど、理性を欠いていた自分を情けなく思う。
 甫民は強い人間だった。強過ぎた、ベルには理解出来ないほどに。きっと、そんな風にしなければ飛竜を――竜血樹を守れなかったのだとベルは思う。そしてそれは、確かに甫民にとっても竜血樹にとっても不幸なことだ。
 (あたしはあの人ほど強くない)
 ベルは痛いほどそれを感じた。しかしだからこそ、竜血樹もまた、自分と同じだと言うことがわかる。彼もまた、自分の為に容赦なく人が死ぬのを見ていて平気な人間ではない。だからこそ、あのとき狂ったふりをしてベルを追い払ったのだ。――だからこそ、あのときベル達の為に自分が犠牲になることを選んだのだ。
 ベルは強く願う。(あいつを助けることと、誰かを殺さないことは、決して両立出来ないことじゃない――両立しなきゃいけない)
 今なら間に合う、とベルは思った。早く甫民を見付けて、これ以上無闇に政府を刺激する行動を止めさせなければならない。さもなければ、また新たな犠牲が増える。流れた血は、誰かを呪う。呪い呪われ、そしてベル自身や甫民のような、憎悪と愛欲の為だけに見知らぬ誰かを殺せる人間を生み出す。それは、きっと竜血樹の望むことではない。あの美しい天の子を引き摺り下ろし、泥水に塗れさせる行為に他ならない。そのことは彼を傷付けしかしない。
 ――見知らぬ誰かに憐れみを向けることが出来るほど、自分が幸せな人間でないのはわかっている。けれど、彼を自分の手で傷付けるのだけは嫌だった。単なるエゴかもしれない、けれど、それは彼女にとっての真実だった。
 (だから、どうかお願い)ベルは知らずに両手を顔の前で組み合わせた。(間に合って――)
 彼女達の目前に広がる平壌の街は、湿気を帯びた空気の中でぼんやりと霞んで見えた。




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