モドル | ススム | モクジ

第八夜・下


  知らなかったんです。
  本当に知らなかったんです、信じてくれますか? 
  はい、勿論わかってます。
  やっぱり駄目ですよね。
  大丈夫、知ってます。
  あなたはそういう人ですから。
  そんな秀漢くんが、大好きだったんですから。

  ごめんなさい。
  ――ありがとう、ございます。



   第八夜・下



 後悔は性に合わない。そんなものを恐れて、軍人として生きていくことは出来ない。常に前だけを向いて生きていけば、道は拓かれているものだ。彼はずっと、そう信じて歩いて来ていた。
 だが、最近ふとした瞬間に心が揺らぐことがある。例えば仕事の隙間が出来たとき、訪れていた訪問者が帰ったとき、ふっと何かから醒めたとき、ひどい後悔に襲われる。自分で選んだ道なのに、あのときに引き返したいと思う。もしもあのとき別の道を選んでいたら、もしもあのときに引き返せたら、と強く願うことがある。この道を選ばなければよかった、あの道を選んでおけばよかった。例えそれがどんな結果になろうとも、今ほど後悔することは断じてないだろう。
 決して引き返せないことはわかっている。自分自身の手で、その道に通じる曲がり角を潰してしまったのだから。
 それでも、もしかしたら、振り返ったところにはまだあの曲がり角があるのではないだろうか、と思うときがある。切にそう願って首を巡らせ――醜く埋められた辻を目の当たりにして絶望する。
 最近、そんな風に振り返ることが増えた。そして絶望することにもようやく慣れ始めた。それでも、慣れるが故に振り返ることが増えて、その度に傷付いているのだから、多分傷の深さは昔とさほど変わらない。そう考えて、彼は嘲笑する。
 歳のせいだ、そう考えることにした。もう五十も半ばを過ぎた。後数年で定年を迎え、更にもう数年で平均的な寿命が訪れる。人並みならば、残りの人生はもう十年。後悔に苛まれ続けた年月がじきに十九年、そう思えば短いものだ。
 不意にノックの音が響き、彼は顔を上げた。そしてドアを引く。
 その向こうに、どこか垢抜けない兵士が敬礼を行っていた。
 「全大佐、お食事の方はどういたしましょうか」耳慣れないイントネーションの、緊張し切った言葉だった。
 少し逡巡して、彼は口を開く。「今はいい」「しかし……」おろおろと兵士は目を泳がせる。
 無表情を動かさずに、彼は言った。「今は休ませて欲しい、と伝えてくれ。君は持ち場に戻りなさい。これは命令だ」最後の一言で、ようやく兵士はほっとしたような表情を見せた。そして再びびしっと敬礼を整える。
 大方誰かに命じられて来たのだろう。命令がなければ動けないのは北部でも南部でも変わらないようだが、それにしても情けない。そう考えながら、彼は部屋のドアを閉めた。だが、あまり彼等を責める気にもならない。命令に従わないと怒鳴り体罰を加えていたのは、他ならぬ自分達高官なのだ。
 今の一瞬あの後悔を忘れていた自分に気付いて、彼は苦笑した。忘れていたことに気付いたと言うことは、再び後悔に襲われることと同義なのだと今更になって知りながら。


 「連絡付かないわね」通信機を手にベルはぼやいた。「あれだけ熱心に連絡して来たくせに、こっちからのには出ないつもりかしら。いい根性してるわね」そして親指だけで通信機のキーを叩く。
 苦笑交じりに甫民が言った。「きっと何か忙しいんだろう。南の方は今、大変なようだから」
 ベルはちっと舌を打つ。「せっかくアドバイスをくれてやろうと思ったのに。死んでも知らないわよ」
 甫民は顔を上げる。そして、ベルが打ち込んでいる小さなブラウザに目をやった。そこには何やら地図と小さな点、そして座標を示すような細かい数字が書かれていた。「……?」
 彼女は鋭い目を上げた。「あいつ等の現在位置。寄りによってタイホア、ソウルにいるの。全大佐の遠征先にわざわざ突っ込んで行ったのよあの馬鹿。シャオユウはシャオユウで、水浸しの羅州から動く気配がないし、やっぱり音信不通。二人揃って真性の馬鹿だわ」
 苛々と毒づきながら、ベルは再びキーを激しく叩く。そしてやはり連絡が付かないことを確かめると、投げ捨てるように通信機を鞄の中に戻した。その鞄をデイビーに向かって叩き付けると、彼は自分の身体にぶつかって跳ねたそれをぱっと受け取った。
 「国のトップもどうっしようもない馬鹿。何でこの期に及んであの大佐を外すのよ。あたし達これだけドンパチやってんじゃない。それとも何? そんなにあたし達なめられてるの?」デイビーに当たっても気が済まなかったらしく、ベルは頭をがりがりと引っ掻きながら、尚も毒づいた。大花と同じノリだな、とデイビーは僅かに苦笑した。
 確かに、不自然な状況ではあった。ベル達一向は開城から北上しながら官営機関を破壊している。ニュースを聞く限りそれに便乗した同志もいるようで、数ヶ所の都市で同時に小規模なテロが頻発していた。そんなときこそ、テロ鎮圧で名を馳せる全秀漢の桧舞台であるはずだが、肝心の彼は南部へと送られていたのだった。名目は『羅州を中心に発生した暴動の北上を食い止める為』と発表されているが、北部とて既に抜き差しならない状態のはずである。どちらの警備を優先すべきかといえば、当然政府中枢である北部だろう。
 ベルは腕を組んで、苛々と早口で呟いた。「ホント何考えてるのよ。全秀漢も全秀漢よ、命令下されて、はいそうですかなんて。止めなきゃどこまでもぶち壊してやるわよ」デイビーは軽く肩を竦めた。
 目を細めながら不意に甫民老人は言った。「――何故全秀漢が、対王朝派では一番だと言われているか知っているかい?」
 虚を突かれて、ベルはきょとんとした表情をした。
 白い髭の下で甫民は笑う。「奴は、我々の行動を未然に押さえてしまうんだよ。手出し出来ないようにしてしまう。だから、我々は傷付けられもしないし、逮捕者さえ出ないことも多い。代わりに誇りをずたずたに切り刻まれる。――開城での手段を見ただろう。あなた達以外に行動を起こす同士が出なかったのは、紛れもなくあの威嚇検問のせいだ。そのせいでどれほどの同志が煮え湯を飲まされたと思う? ――だから、彼は一番の敵なんだ」
 ベルは怪訝そうに眉をひそめた。「人道主義者のくせに軍人?」
 「いや、徹底的な現実主義者だ」甫民は素気無く言った。
 そして、思い出したようにもう一言だけ付け加えた。「現実主義の度が過ぎて、少々ロマンチストの気はあるようだがね」


 大花は、ホテルの入り口まで来て考え込んでいた。
 (どうやって中に入ろうかしら)自慢にもならないが、手持ちの金はほとんどない。財布の管理は常に小魚に任せていたのでどうも感覚がわからないままでいたところ、残るは小銭ばかりになってしまった。
 それでも未練がましく財布の中を睨み付けていると、不意に鼻先をきつい香水の匂いが霞めた。顔を起こすと、派手な格好の女が大花の前を通り過ぎて行った。このくそ暑いのに、ファーのハンドバッグなんかを肩に引っ掛けている。大柄の花柄の傘を畳む仕草もどことなく洗練されていなかった。(ふん、三流コールガールが)
 と、その彼女は不意に立ち止まり、携帯電話を取り出す。そして耳に付く声で喋り始めた。「……ええ、ご指名のウンスクや。何言うてんねん、ソウル一のコールガール言うたらうち以外に誰がおるん。で、うちはどこ行きゃあええねん」
 ちゃんちゃらおかしい、と大花は鼻で笑った。それに気付かずに、女は続ける。「……十二階の角? ああ、一番眺めのええ部屋な。……だから何言うてんの、あの大佐の相方務められるのなんて、半島でもうちぐらいのもんやて。ほな、今から行くで。ええな」
 大花は目を瞬かせた。そしてくすっと笑う。
 女が電話を切るタイミングを見計らって、大花は声を掛けた。「あの、ちょっとお尋ねしたいことがあるんですけど」
 女は不機嫌そうに顔を向ける。そしてそのまま無視をして中に入り込もうとしたが、その腕を大花は引いた。もがく彼女をドアマンの目に付かないところまで引っ張って行く。多少雨が吹き込むが、まあ仕方がない。
 「ちょ、ちょっと何やねん!? 放せって。放せやっちゅーの!」
 「はいはい」大花はぱっと手を離すと、倒れ込む女の項に思いっきり肘を入れた。女は一瞬呻き声のようなものを上げると、そのまま倒れ込んでしまった。素早く大花は左右を見渡すと、彼女をピロティーの壁沿いに目立たないように座らせておく。
 そして女のハンドバッグと傘を拝借すると、そのまま踵を返して素早く外へ出て行った。


 「瀬戸甫民宅前には工作員を数名張り込ませております」公安局員は、彼に一瞥だにくれようともしない弓に向かって背筋を伸ばした。
 パソコンのキーを打ちながら同時に何かの書類を捲っている弓は、ひどく素気無い調子で言った。「まあ無駄だろうな。あの瀬戸が今更のこのこ帰ってくる訳がない」
 そして彼は席を立った。部屋の壁際にある巨大な書架から分厚いファイルを選び出し、それを手早く捲る。表情自体はいつもとさほど変化していないようだが、歩幅が普段よりも若干広かった。
 「どうせ今頃は、民衆に紛れ込んで新しい計画を企てているに決まっている」
 弓はファイルから数枚の書類を取り出して、机の上のバインダーに綴じた。
 拍子に、彼の目に無造作に広げていた書類の一枚が飛び込んで来た。書類の左上端に貼られた三センチ掛ける四センチの枠の中で、銀色のメッシュを流した少女がこちらを睨み付けている。国外に逃げたはずの少女――彼女が帰国したなんて、自分の目で確かめていなければきっと嘘だと思ったに違いない。彼女について何も調べようとは思わなかったに違いない。自分と出くわしてしまったことが彼女にとっては最大の失敗だろう、彼はそう思った。
 ふと弓は、施寛美の斜めにずれた書類の下から覗く写真に目をやった。淡い金髪と深い瞳、禁色の美貌が半分だけ見える。彼の育ての親が、あの瀬戸甫民――。
 不意に思い付いた弓は、公安局員の方を振り返った。
 「指名手配しろ。マスコミに大々的に報じさせる」そう言いながら彼は、机の上の書類を手に取って公安局員へと突き出す。
 慌ててその若い男は書類を受け取った。写真の中の黒髪を持った少女に目を落としながら、彼は怪訝そうに尋ねる。「……彼女は?」
 「恐らく、瀬戸と共に行動しているはずだ。瀬戸はあれでなかなか見付け辛いが、彼女なら目立つだろう」それから、少し考えるような仕草をした後に思い出したように言った。「開城で、他のアングルの写真も集めさせた方がいいな。とにかくどこから見ても彼女だとわかる状態にしろ。絶対に取り零させるな」
 緊張したように敬礼をしてみせる公安に向かって、鋭く弓は言った。「いいか、民衆の中にこいつは紛れ込んでいる。何が何でも炙り出せ」


 呼んだはずのコールガールがいつまでもやって来ないので、業を煮やした林はロビーまで降りて来た。せっかく遥か平壌からやって来た、テロリスト対策委員会軍事総本部司令官の全大佐なのだ、とにもかくにも精一杯にもてなさなければならない。過去にも同じ手段で昇進を遂げて来た彼は、だからこそいつまでも現れない女に苛立ちを覚えていた。
 (やはりあれを呼んでおけばよかったか)林は舌を打った。今まで『ソウル一の女』と指定して呼べば、必ずやって来た女がいた。だが彼女も、幾ら若作りとはいえそろそろ無理が来る頃になったのだろう。今回いつものように指定したところ、応答に出たのは別の若い女だった。ある程度の実績はあるのだろうが、自分で確かめたこともない女が相手では林も不安だった。その上この遅刻である。彼は再びロビーの電話を取って、いつもの女を呼び出そうとした。その瞬間だった。
 まずロビーにいたボーイが気付いた。そしてその視線に引き寄せられるように、フロントが気付いた。それからロビーにいた一般客がようやく気付いた。クリスタルガラスの回転ドアを抜けて、目を見張るような女が一人入って来たのだ。
 白いピンヒールに、深紅の薔薇の模様が入った透き通るような薄手の布地のロングドレス。その深いスリットから、ガーターベルトで吊ったストッキングの脚が覗く。この嵐の中やって来たにも関わらず、傘も余計な小道具も一切持っていなかった。すらりとしなやかな腕で肩に掛かる髪の毛をばさりと掻き揚げる仕草も、さり気なく腰に当てられた手も、全てが洗練されていた。
 形のよい細い眉や切れ長の瞳は大人びているが、艶やかな唇にはどこか幼さが残っている。化粧もさほど濃い訳ではないのだが、彼女自身を一番引き立てる程度で施されている。このソウルでは見たことがないほどの、文句なしの美女だった。
 彼女はまるで猫のような身のこなしでロビーを進むと、荷物持ちにやって来たボーイに意味深そうな一瞥を寄越す。そして小さなハンドバッグを預けると、奥のエレベーターに向かって歩き出した。しばらく気を呑まれていた林は、慌てて立ち上がり彼女に駆け寄る。「あの……」
 小柄なボーイや林よりも背が高いほどの美女は、無関心そうな眼差しを彼に向けた。そして微かに目を細める。
 その色っぽい表情にどぎまぎしながら林は言った。緊張のあまり、言葉遣いが変になる。「あの、お呼び立て致した林だが……」
 「ああ」女はルージュの唇を綻ばせた。「わざわざエスコートに? ……ありがと」
 林はボーイにチップを握らせた。未練がましそうに、ボーイは振り返りながら去って行く。女は彼に向かって、ピンクに染まった指先でキスを投げた。「それじゃ、行きましょうか。十二階の角だったわね」
 林は彼女の前に回り込み、エレベーターのボタンを押した。開いたドアの向こうから入れ違いに降りて来る二人連れの女が、目を見開くのがわかった。コールガールは余裕の笑みを見せる。せこせことエレベーター内に入り込んだ林は、慌てて『12』のボタンを押して扉を閉めた。
 栗色の髪の毛を耳に掛ける女の仕草を見ながら、年甲斐もなくどきどきしながら林は尋ねた。「あの……訛がないんですね」
 「駄目?」ちらりと女は流し目を寄越した。慌てて林は顔を伏せる。「い、いえ」
 何となくおかしな印象があったという言葉は、飲み込むことにした。美人は必ず気難しいものだと、林は誰よりもよく心得ている。
 ぽーん、と音が響いて、ドアがゆったりと開いた。その向こうに赤い絨毯が敷き詰められたフロアが広がる。ここが目当ての十二階だと確かめて、女はふら付きそうなほど細いヒールを下ろした。そして、すらりとした綺麗な脚を颯爽と捌く。息を飲むほどその場に似つかわしい姿だった。
 林の先導に従って女は歩みを進め、一つの扉の前で立ち止まった。こんこんとノックする林の隣で彼女はすらりと立っていた。やがて少しの間を置いて、扉が少しだけ開く。その隙間から彼女は猫のように滑り込んで行った。そして掌だけを扉の間から覗かせるとひらひらと振り、すぐに中に引っ込めてしまった。一瞬で扉は閉ざされる。
 そこにしばらく林は立ち尽くしていたが、中から何の音沙汰もなくなってしまったので渋々自室に戻った。今度はどんなに高くても彼女を指名しようと、真剣に考えた。


 (あら、案外質素な部屋)女は一瞬で部屋の中を眺め渡した。確かに広くはあるが、ごてごてしたファニチャーなどはほとんどなく、全体的にシンプルな感じに纏められている。よく見ると、この手の部屋にありがちな備え付けの秘書部屋もない。確かに窓は壁一面に大きく取ってあるのだが、本来夜景でも見えるはずのそこは、吹き付ける雨粒と激しい風をそのまま映し出していて落ち着かなかった。少々彼女は肩透かしを食らったような気分になる。
 部屋の主は扉を開けた後、さっさとリビングのソファに戻ってしまっていた。ローテーブルの上に広げられた資料をぱらぱらとめくりながら、彼女に一瞥だにくれようとはしない。これ幸いと彼女はその横顔をまじまじと観察した。
 (ふうん、これがあの全大佐。……ちょっと意外かも)確かに軍人特有の険しい雰囲気は漂わせているし、額の大きな向こう傷や灰色の口髭がなかったとしても温厚とは程遠い顔立ちをしているのだが、あまり恐ろしい感じがしなかった。
 何故だろうとその理由を考えていると、不意に彼は言った。「いつまでそこに立っているつもりだ」
 笑顔を浮かべながら、年若いコールガールは大佐に近付こうとした。その瞬間、素気無く彼は言う。「用はない。帰れ」
 そして手元からばさりと何かを投げた。それは開いた口から紙幣の覗く茶封筒で、随分な厚みがある。
 それに目をやった彼女は、むっとして顔を上げた。「何言ってんの。あたしだってお金貰ってるんだから、おいそれと帰れないわ」
 そして腰に手を当てたまま、大佐ににじり寄った。彼はようやく顔を上げる。その顔に浴びせ掛けるように彼女は言う。「第一台風だって来てるのよ、その中にあたしを追い出すつもり?」そして巨大な窓を、ラインストーンで飾ったマニキュアの指で示した。
 「なら、勝手にしろ」大佐は再び書類に目を落とした。
 それなりに自信のあった自分のいでたちを一切無視されて、益々彼女は腹を立てる。「あたしにもプライドってもんがあるのよ、仕事をさせなさい」
 無表情のまま大佐は立ち上がった。意外なほど向こう背のある彼に、女は簡単に見下ろされてしまい、少しだけ後退った。
 「別にわたしが君を呼んだ訳ではない。はっきり言おう、迷惑だ。行き場がないのならここで自由に過ごしてくれれば構わないが、それ以上の干渉は控えたまえ。第一、わたしは仕事でここに来ているのだ」ろくに息継ぎもせずにそう言うと、大佐はソファの上に腰を下ろして再び何事もなかったかのように書類を手に取った。
 ずっと身構えていた彼女は、何だか馬鹿らしくなってきてしまった。剥き出しの肩を軽く竦めると、彼の顔をまじまじと観察する。
 (あら)彼女はふと、意外なことに気付いた。(この人、結構かっこいいじゃない)
 昔から男を見る目には多少の自信があった。自分がかっこいいと思う男はまず間違いなく、仕事が出来て人格的にもよい人間だった。好き嫌いが激しくて気に入った人間でないと寄せ付けないので、従って見る目は相当肥えているのではないかと自負している。
 (ちょっとお堅いけど、真面目な人は嫌いじゃないわ)書類に手早くペンを入れていく作業を見ていても、彼の普段の仕事振りは垣間見えた。(出来る男はポイント高いわよね)
 ふと彼女は、ルージュの口元にピンクの指先をやって考え込むような仕草をした。(……なのにこの歳で大佐ってのは、ちょっと不当だわね)
 見たところ五十代の半ばといったところか。叩き上げだとしたらこんな役職に就けるはずもないが、エリートコースを進んでいるとしたら今頃は将軍辺りが適当ではないかと、素人ながら彼女は考えてみる。
 (干されてるってことかしら……要領悪い人も嫌いじゃないわよあたし)そこまで考えて、何故彼にさほどの恐怖心を感じなかったのかようやく彼女は理解した。
 要するに、好みの男だったのである。(……残念、後三十歳若かったらね)
 それが余りにも状況に似つかわしくない考えだったので、さすがに彼女は苦笑した。だが、余りにも易々と潜入に成功してしまったのもあって、妙に気が抜けてしまっているのも事実であった。
 緊張感が緩んでくると、次第に忘れていた悪戯心も頭の中でもたげてきた。彼女は部屋の中をうろうろと歩き回り、顔を上げない大佐に向かって舌を出したり頬を引っ張ってふざけた表情を作って見せたりする。それでも何の反応もないので、彼女はテーブルの上に広げられた大切そうな書類をぺらぺらと捲って読むふりをして、更に破く真似までしてみる。
 そこまでしても何の反応も返って来ないコールガールは少し考え込み、にやっと笑うと大佐の背後に音もなく忍び寄り、耳元に口を近付けた。そしてふっと息を吹き掛ける。
 さすがの大佐も、それには気分を害したらしかった。眉根を寄せて振り返る。「邪魔をするな」
 「あたしは『自由に過ごしてた』だけだもーん」女は肩をすくめた。「お堅いわねぇオジサマ。ちょーっとだけ遊んで、あたしのこと寝かし付けてからもう一度仕事すればいいのに」
 大佐は何か言い掛けたが、結局黙って書類に目を落とした。
 彼女は拍子抜けする感じがした。――要するに、彼はこの絶世の美女に対して全くもって無関心なのだ。それがプライドの高い彼女の気に食わなかった。女はわざわざ揶揄するような調子で言う。「随分な愛妻家ですこと。それとも何、あなたも金髪の方が好みってこと」
 その瞬間、大佐は立ち上がった。そして恐ろしい形相で女を睨む。思わずぎょっとした彼女はハイヒールの踵を踏み外し、その場にへたり込んだ。
 「何故知っている」詰問する調子だったが、女は無理に笑って見せる。「愛妻家ってとこ?」
 そしてようやく彼女は気付き、はっと口を押さえた。大佐は腰を抜かしたコールガールとの間を詰める。「何故あの金髪の少年のことを、お前なんかが知っている。あれは最高機密のはずだ」
 少し足掻いてようやく立ち上がった彼女は、慌てて踵を返した。「それじゃ、ご希望通りに帰りますんで」
 「待て!」彼女がドアノブに手を掛けるより、大佐の手が彼女の髪の毛を掴む方が早かった。その瞬間、背中に掛かる栗色の髪の毛がばさりと落ちる。
 思わず振り返ってしまった女の腕を、空いている方の掌で大佐は引き寄せた。そして彼女の鼻面に、髪の毛を突き付ける。
 女は引き攣った笑みで大佐を見上げた。その顔に掛かる髪の毛は少年のように短く、さすがに娼婦には似つかわしくない。
 険しい口調で大佐は言った。「全て、説明してもらおうか」
 不意に突風が吹いたらしい。部屋が僅かに揺れた気がした。


 空の低いところに、色を失った細い月が見えた。
 彼女は穴の外を少しだけ覗いてから、再び蹲る。(もう少し眠ろう。まだ日は高いわ)
 昨日、日が沈むのを待ち切れずに彼女は外を歩こうとした。だが、ただでさえ日差の強い砂漠に加え、今は一年で一番暑い季節なのだ。あまりにも暑過ぎて、危うく母子共々干物になってしまいかけたので、やむなく諦めた。この砂漠は日差しこそ強いが、大きな奇妙な形の岩がところどころにあり、大抵その影には風が砂を吹き飛ばして出来た窪みがある。地盤の比較的固い辺りだと、窪みはそれなりの強度と深さを持った穴になっているので、それを見付けた彼女は何とかそこに潜り込んでいた。
 彼女は荷物を解き、中から水の入った袋を取り出した。もう残りは少ない。日が沈んだら、今夜こそオアシスを見付けなければならない。少し不安になったが、それを打ち消すようにして眠ろうとした。
 (――少しでも早く逢いたいのに)彼女は頭を押さえた。あれだけ獰猛な太陽は何の物音も立てないのだと、痛いほどの沈黙の中で彼女は思う。今外を歩けば、きっとあの静かに照り付ける太陽に焼き殺される。
 一刻も早く逢いに行きたい、だが死ぬ訳にはいかない。悔しかった。
 不意に、空耳を聞いたような気がした。ここのところ空耳が多い。あまりの沈黙に耳がおかしくなってしまったのかと思う。だが、試しに耳を押さえてみると今回の音は消える。怪訝に思って彼女は顔を上げた。
 「ありゃ、先客がいたんかい」人間の顔が目の前にあった。驚いた彼女は息を飲み、もがくようにして後退る。と、相手はぱっと両手を広げて見せた。「ごめんごめん驚かせて。ちょっとここに一緒に入れてもらえんかな」
 彼女はぱちぱちと目を瞬かせた。そして少し遅れてから、何度も頷く。にっと笑ってその人物は入って来た。「ほー、綺麗なお姉ちゃんだ。どうしてこんなところで砂塗れになっていいもんか」
 彼女が脇に詰めると、口振りとは裏腹に遠慮がちな態度でその人物は入って来た。逆光で見えなかった表情がようやく覗く。口調やしわがれた声の割にはあまり歳でもないし、意外なことだったがその人物は女性だった。それに気付いて、彼女はほっと緊張を解いた。
 後から入って来た女は、一つに束ねたばさばさの髪の毛を軽く叩きながら首を傾げた。「ありゃー、もしかしてここ、産屋にするつもりだった?」
 先にいた女は、きょとんとした表情を見せた。そして自分の大きな腹部に手をやる。あまり意にも介さない様子で、もう一人の女は荷物を解いた。
 「まだ大丈夫か? 悪いけど俺、産婆さんの真似事は出来ねぇんだ」そしてごろりと寝そべると、顔の上に被せるように地図を広げた。
 しばらく妊婦は口篭るように逡巡していたが、やがて意を決したように口を開いた。「あ、あの……」
 女は顔の上の地図をずらす。感情のわからない表情にうろたえながら、妊婦は何とか言った。「……ど、どこから、こられたのですか?」
 「んー、お姉ちゃんは?」彼女は悪戯っぽく微笑んで、ささくれた指をひょいと相手に向けた。
 指差された女はしばらく困ったように首を傾げたり指を口許に当てたりしていたが、やがて言った。「は……ハンパンミングック」そして、地面に指で『韓半民国』と書いて見せ、おずおずと上目遣いに客人の女の表情を窺った。
 ふうん、と無造作に髪の毛を掻き混ぜ、老人のような声で女は言った。「知ってるよ、そこ。最近よくそこから人が来るね」
 信じられないと言った調子の妊婦に向かって彼女は晴れやかに笑った。「俺ぁ、ここの人間だ。どこから来たかって言われても、どっちかって言えば帰って来たって方が正しいかなあ。家はここ、ブダズババ砂漠」
 先にここにいた女は再び目を瞬かせた。ようやく、自分はここでは客なのだったと気付いた。


 不意に、砂漠の女は妊婦の髪の房を手に取った。「長いなー、いつから伸ばしてる?」
 「えっと……」彼女は慌てて指を折る。その仕草を見て、女は笑った。
 「わかったわかった、わかんないくらい前からなんだ」そして自分の言葉で更に笑う。
 そして彼女は脚を揃えて持ち上げ勢いを付けると、半身を起こした。「邪魔にはなんない? 切ろうとか思ったことないの?」
 その意味はわかったのだろう、自分の黒髪を引き寄せながら若い妊婦は首を横に振り、どこか不安げな表情を浮かべる。それを察して、砂漠の女は掠れた声で言った。「だいじょーぶだいじょーぶ、切ったりしないって。そんな綺麗な髪の毛、切ったらもったいないな」
 それからやや遠慮がちに手を伸ばす。「結んでいい?」少し躊躇って、若い女は頷いた。
 砂漠の女は膝でにじるように妊婦の後ろに回り込んだ。間近で見ると、仕草や口振りほど若くはない感じがする。無造作に束ねた髪の毛には幾筋もの白髪が混ざっているし、日に焼けた肌も若者のそれではない。なかなか正体が掴めない感じだった。
 妊婦の黒髪を指で梳きながら、女は言った。「砂漠を歩くなら、もうちょっと気を付けた方がいいよ。こんなとこにいる連中なんて、ならず者ばっかりだ。綺麗なお姉ちゃんがふらふらする場所じゃない」
 「あの……」少し俯いて、妊婦は言う。「……ひとを、さがしているんです」
 黒い髪を白く汚す埃を払いながら、砂漠の女は静かに言う。「ここの奴?」
 若い女は首を振ろうとして止め、呟いた。「……わたしのいたくにに、いました。そこではなれたんです。むかえに、くるんです」
 「そう」無造作に砂漠の女は言った。それが妙に心地よかった。指を器用に動かしながら、彼女は続ける。「どんな奴?」
 「やさしいひとです。うそつかないひと。それから――すごく、きれいなの」妊婦はそっと自分の腹に手をやった。そして目を伏せる。
 「はなれたくなんかなかった。ずっとそばにいたかった。……まもってもらえなくてもよかったの。そばにいられるだけでよかったの。あのひとのためだったら、しんでも、かまわなかったの……」彼女は、色の抜けたような手を組み合わせた。
 ふと思い付いたようにさり気なく、砂漠の女は言った。「駄目だよ死んだら」
 その声がとてもよく知っている人物に酷く似ていて、妊婦ははっとした。「死んだらそこでお仕舞いだ。せっかく生きてるんだから、お姉ちゃんはまだ死んだら駄目だ。あんたが探してる人も、そう思ったんだろ。そんなに大事な奴が願ったことを、どうしてむざむざ潰していいもんか」
 そして、節くれ立った片手を伸ばして丸く膨らんだ腹部に当てた。「お姉ちゃん、あんたが辛いことはみーんなこの子にとっても辛いことなんだよ。どうしてそんなに自分を追い詰める必要がある」
 胎児が蹴る感触がして、妊婦は女の手に自分の手を重ねた。それから自分の唇を噛み締める。
 (今まで、泣いたりなんかしなかったのに)筋ばった女の手が静かに抜かれ、再び髪の毛を結い出す感触がした。
 (せっかく、我慢してたのに)彼女の頬を、砂漠の陽光よりも熱いものが伝った。静かな砂漠に、押し殺した嗚咽だけががらんと響いた。
 しばらくして、あの懐かしい老人の声で砂漠の女は言った。「……それで、探してる奴はどこにいるの?」
 「ネーヴェン・バーブ」嗚咽で切れ切れになりながら、妊婦は即座に答えた。砂漠の女は苦笑して、乾いた声で言う。「そりゃ大変だ」
 「どこにいけば、いいのですか?」ひっくひっくとしゃくり上げながら若い妊婦は呟いた。白いひび割れた頬に涙が染み込んでいて、見ているだけで痛々しい。女は困ったような曖昧な笑顔を浮かべていたが、不意に何かを思い付いたように目を見開いた。
 「……ネーヴェン・バーブ、だろ?」
 若い女は子供のように頷く。
 砂漠の女は、妊婦の綺麗な長い黒髪を編み込みながら言った。「――本当に、会いたいんだね?」
 振り向き掛けて、前に向き直り、女は潤んだ声で言った。「……はい」
 「……他の何を捨てても構わないかい?」声の調子を落として尋ねる女に、妊婦は間髪入れずに答える。「はい」
 「なら、教えてあげようか」溜息混じりに砂漠の女は言った。老人のような声でそう言うと、本当にあの老爺によく似ている、と妊婦は不意に思った。そんな彼女の髪の毛を時折指で滑らかに梳きつつ、女は子守唄を唄うように語り始めた。
 「……忘れ物預かり所、があるんだ。そこではあらゆる忘れ物達が、持ち主が取りに来てくれることを待ち望んでいる。忘れ物預かり所と言うけれど、そこに預けられているのは忘れ物だけじゃない。心ならずも持ち主の手を離れてしまったのなら、あらゆるものがそこへ届けられる。そしてそこで、永遠に持ち主を待ち続けるんだ。持ち主が死のうが、使うべき用途がわからなくなるほど古くなろうが、元いた場所さえ失われようが、本当に――永遠に」
 その声音が急に知らない人のもののように聞こえて、妊婦はぞっとして振り返った。髪の毛に目を落としたまま砂漠の女は、動かないでと言う。
 そして淡々と続けた。「人も届くんだよ、そこには。もっと正しく言うと、その人の所在を明らかにしてくれるんだ。人は物と違って、一つ所にじっとしてないからね。期限はないよ。行きさえすればいつだって、それこそ永遠に教えてくれる」
 ふと彼女は、自分の服に着いていた飾り紐を一本引っこ抜いた。そしてそれを束ね終えた女の髪にくるくると巻き付ける。「迷子にはならない。そこには管理人がいるからね。誰よりもそこをよく知っている人が、忘れ物達を預かっているんだ。少し怖いけど、優しい人だ。持ち主のことを忘れてしまったもの達には、持ち主のことを教えてくれる。そして必ずこう言うんだ、『必ず迎えに来てくれる』とね」
 彼女の声音は、いつの間にか硬化していた。音のない世界でただ響く彼女の声が、砂のようだと妊婦は思った。よく乾いてさらさらとしたひどく耳に優しい声なのに、実際はとても固い。気付いたときには鼓膜の表面に無数の細かい傷を付けているような、そんな声だった。
 「どんな忘れ物でも手に入る――その代わり、たった一つだけね。二つ目はない、代わりはないんだ」
 「……どうして」囁くような妊婦のか細い声に、笑い混じりの掠れた声音で女は答えた。「俺ぁ、そこにいたんだよ。生まれてすぐにそこに預けられて、持ち主が来るのを待ってた。俺を忘れて行った母親が、それに気付いて取りに来るのをずーっと待ってたんだ」
 ようやく妊婦は気付いた。この砂漠の女の声は、喉を完全に潰してしまったものだと。声が枯れるまで、ただひたすらに泣いて泣いて泣き尽くした後に、ただぽつんと残るものなのだと。
 「それでは……」
 砂漠の女は、微かに荒んだ笑みを浮かべて首を横に振った。そして手の中で結び終えた髪の毛を、持ち主に渡す。「俺はまだ待ってる。多分ずっと、待ち続けるんだろう。――ああ大丈夫、ここからならそんなには遠くないから。お姉ちゃんならすぐ行けるよ」
 困惑と憐憫の入り混じった淡い瞳で、妊婦は砂漠の女を見詰めた。彼女は少し皺の目立つ目元を綻ばせると、脇に手を伸ばして置きっぱなしにしていた地図を取った。そしてその上に節の立った指を乗せる。
 脇から覗き込みながら、若い妊婦は言った。「そこが、このさばく……?」
 「そう、ブダズババ砂漠の中でもここ」と砂漠の女は、地図の左側を大きく占める砂漠の中でもやや左寄りの中央を指差した。その地図には無数に細かい文字や記号のようなものが刻まれていて、若い女が持っているそれよりもずっと詳しいようだった。もっとも、彼女にはその文字も記号もさっぱり訳がわからないので意味を為さないに等しかったが。
 ふと砂漠の女は、ところどころが欠けた爪をそのまま更に左に滑らせた。
 「ここからまっすぐ西へ行くと……」彼女は指をぴたりと止めた。そこにある記号の意味は何となくわかる。町だ。
 「アール・スタットって町がある。――いや、あったって言うべきだな。この町を抜けると、草原があるんだ。『無限の草原』って人は呼ぶ」
 困ったように妊婦は首を傾げた。よく意味がわからなかったらしい。砂漠の女は肩をすくめながら笑った。「ごめんごめん、『無限』なんて滅多に使う言葉じゃないし、知らなかったか」
 そして少し考えてから付け加える。「『永遠』や『ずっと』と同じような意味だ。終わりがないんだよ、この草原には」
 少し想像してから、妊婦はぞくっと肩を震わせた。その顔を覗き込むように見上げながら、砂漠の女は言う。「いいかい、そこからが肝心だ。この草原に入ったら、時間の感覚がなくなってしまうんだって。どんどん訳がわからなくなって、忘れ物預かり所に行く資格のない奴は途中で野垂れ死ぬようになってる。そう管理人が話してくれた。だから――」
 砂漠の女は身を乗り出し、女の右耳に口を近付けた。不安げな表情を浮かべる女に、彼女は囁き掛けた。
 それから彼女は、急に飽きてしまったように地面に寝そべった。そして横目で妊婦を見上げると、いいね、と言う。驚いたような戸惑っているような表情を浮かべる彼女に、砂漠の女は言った。「ホントだよ、信じな。絶対に辿り着けるよ、あんたならね」
 そのまま目を閉じてしまった女に、妊婦は一番尋ねたかったことを結局尋ねられなかった。起こそうかとも一瞬思ったのだが、彼女の性分でそれが出来るはずもなかった。それで彼女は仕方なく、自分の大きな腹部を抱えた。
 彼女は不意にぽつりと呟いた。「……聞こえなかったの」
 そして、既に寝息を立てている砂漠の女の顔を見やった。信じられないと言った様子で、自分の右の耳を押さえる。「何を教えてくれたの……? 聞こえなかった……」


 「全部話してもらおう」大佐は腕に力を込めて、女を引き寄せた。
 心ならずもつんのめるように足を運びながら彼女は言う。「……何を話せって言うのよ」
 「まずは、身元を。氏名年齢本貫と所属を述べろ」慣れた調子で淡々と大佐は言った。
 むっとして、胸を反らしながら彼女は応える。「言われなくたって、あんたさえ名乗ったら自己紹介するつもりだったわよ」
 それから息を吸い込むと、一息に捲くし立てた。「チャン・タイホア十八歳、半年前まで鴻亭高校に通ってたけど、今は無所属。これで何か文句ある!?」
 どうせ埒があかない状況に変わりはない。後は野となれ山となれ、と自棄を起こしたい気分だった。いや、実際彼女は既に自棄を起こしていたのかもしれない。
 口髭を揺らしもせず、大佐は大花をまじまじと見た。「本貫地は?」
 少しだけ詰まったが、大花はそれにも答えた。「母親が流れ者だったの。彼女が来た場所すらろくにわからないのに、ご先祖の出身地なんて知る訳ないじゃない」
 「名前が、特殊な読み方をするようだが?」噛み付くように彼女は言う。「悪かったわね、変な名前で。大陸風なのよ」
 不意に大佐は、腕に込めた力を緩めた。それに気付いた大花は乱暴にそれを振り払う。そして自分の腕を擦りながら大佐の顔を見上げた。
 (あれ……?)相も変わらない無表情なのだが、心なしかそれが曇った感じがする。何か声を掛けようかと思っていたら、先に大佐の方が口を開いた。「高校では、C組だったのではないか?」「ええ」
 大花は再び挑むような表情で覗き込んだ。「あ、もしかして『プログラム』の後で指名手配されてた? まさか手配写真に生徒手帳用の写真使ったんじゃないでしょうね? あれ丸っきりの別人よ、あたし写真写り滅茶苦茶悪いし、あのときメイクも落とされてたんだから。ね、おじさんだってぱっと見あたしだってわかんなかったでしょ」
 あまりに真剣にそう言うので、思わず大佐は微かに眉間に皺を寄せた。一瞬、自分が置かれている状況がわからなくなったのだ――むしろ状況を理解していない行動を取っているのがこの少女だと思い出すのに、思いの外に時間が掛かってしまった。
 と、彼女はばしっと大佐の肩を叩く。「何でこんなこと話させるのよ、本筋と関係ないでしょ!」
 「ならば筋を戻そう」今度は大佐も動じなかった。すぐに話を好き勝手に進めようとする、そんな女性をかつてよく知っていた。扱い方も未だに忘れてはいない。「何故ここにいる」
 憮然としながら彼女は言った。「……言わなきゃ駄目?」
 無言で大佐はコールガールに扮した少女を睨んだ。大花は微かに肩をすくめ、ぼそりと尋ねた。「……言わなきゃ、殺す?」
 それでも大佐は無言だった。渋々、と言った調子で彼女は言った。「ちょっと寂しかったのよ。ソウルなんて初めてだし、そんなとこに一人で置かれたら誰だって寂しいわよ。で、どうせならちょっと騒ぎを起こしてみようと思ったの。それだけ」
 嘘ではない。一応全て真実だ、と大花は考える。
 あからさまな怪訝の色を大佐は浮かべた。「……首謀者は?」
 「いないわよ、少なくともこれに関したら、あたしの単独行動」嘘は言ってないからね、と大花は頭の中で念じた。まさかこんなへまをやったとベルにばれたら、見捨てられるのは火を見るよりも明らかだ。
 彼女の顔をまじまじと眺めた後、大佐はゆっくりと言う。「目的は何だ。確かアメリカに逃れたと……」
 と、その次の瞬間、部屋にノック音が響いた。
 二人とも同時に部屋のドアに顔を向け、その後顔を見合わせた。その向こう側から微かに声が聞こえて来る。「大佐、書類の方が届きましたので」そして忙しなくドアが叩かれる。
 大佐はやむなくドアに歩みを寄せ掛けて、大花の方を振り返った。そして、ずっと握ったままだった彼女のウィッグを投げて寄越す。大花はそれを受け取ると、仕方なくソファの端に腰を下ろした。
 喧嘩には自信があるが、さすがに本職の軍人と戦って勝つほどではない。幾ら楽観主義者の大花とは言え、ドアが開いた拍子に上手い具合に敵を薙ぎ倒し逃げ出すことが出来ると考えるほど、甘い人生を歩んでいる訳ではない。
 大佐がドアを開くと、そこには若い軍人が敬礼をして待っていた。その手には分厚い紙束が握られている。「釜山方面からの報告が只今届きましたので、お届けに上がりました……」
 そこまで言い掛けて彼は部屋の奥に視線をずらした。咄嗟に大佐は腕を伸ばして隠そうとしたが、その前にこの若い軍人は押し殺した声を上げた。「……どうしたんですか、あの女。確か、入って行ったときはロングヘアじゃなかったですか?」
 黙って大花は俯いた。ようやく正体を見表されたということが実感として沸いて来た。このままうかうかしていたら軍部に連行されて、到底帰してもらえない。いつ逃げよう、どうやって逃げよう、と考えていたそのときだった。
 不意に大佐は言った。「わたしの娘だ。寂しくなったらしい、扮装までをして会いに来た」
 予想だにしなかった台詞に大花も若い兵士も驚いて、思わず大佐を見上げた。おずおずと若い兵士は尋ねる。「お、お嬢さん、でか? ……だったら正面から面会に来て下されば……」
 と、不意に彼は何かを思い出したような表情をした。慌てて彼は早口に謝る。「も、申し訳ありません!」
 何が何だか大花にはまるで理解出来なかったが、若い兵士は強張った表情で敬礼をすると、廊下側に一歩だけ下がった。大佐はそのままばたんと扉を閉める。
 書類を手に、何事もなかったかのような表情で大佐は振り返った。驚いて目を瞬かせた後、大花はぎくしゃくと口を開いた。「どうして……」
 ソファの脇で足を止めると、大佐はばさりと手の中の書類をテーブルの上に置いた。何枚かの紙が束の上から滑り落ちて、天板の上に広がる。「目的は何だ。復讐か」
 何かを言い掛けて大花は唇を噛み、代わりの言葉を探し出した。「……だとしたら、どうするの?」
 「わたしは、今は死ぬ訳には行かない」淡々と、いっそ冷たいほどに冷静に大佐は言った。「――もう少し待て。この動乱さえ片付いたら、いつでもわたしの首を刈ればいい。……それでは駄目か?」
 「……あっきれた」大花は心底呆れたようにそう言うと、大きな仕草で脚を組んだ。スリットのせいでスカートの布がずり落ち、ストッキングの脚が露わになる。
 「あなた全っ然『復讐』って意味わかってないでしょ。って言うか、あたし別にあなたのこと憎む理由がないし。何、そんなに復讐されそうなことばっかりやってたの?」彼女は口振りよりも柔らかい眼差しで大佐を見上げた。
 彼は低く呟くように言った。「家族や友人や、親しい人間を殺されたりはしていないのか」
 一瞬大花の瞳に激情の色が浮かぶ。大佐はそれを見逃さなかったが、だからこそ彼女の瞳からそれがゆっくりと失せるのもよく見えていた。
 「――だって、殺したのはおじさんじゃないわ」
 そして、痛ましいほどの笑顔を敵である彼に向ける。「それに、もしかしたら命令を出したのはあなたかもしれないけど、あなたの立場にいたなら誰だって同じことをやらされたはずだもの。大事な人の死に関わった全員を憎んでたら、限がないわ。復讐の為にわざわざ名簿を暗記するほどあたし暇じゃないし、賢くもないの」
 「わたしは……」不意に大佐は大花の顔を覗き込むように俯いた。
 驚いた大花は彼の表情を覗き込む。だが、やはり例の固められたような無表情だった。
 「わたしには、許せなかった――今も、憎み続けている」
 思わず大花は目を瞬かせ、手を突きながらゆっくりと立ち上がった。


 「彼は、自分の妻を殺したんだよ」不意に甫民はそう言った。
 手元のメモに何やら作戦やら計画やらを書き込んでいたベルは、一瞬手を止めた。「彼って、全秀漢大佐のこと?」
 甫民は頷く。ベルは弄ぶようにペンをメモの上に走らせながら言った。「何でまた。別に快楽殺人者の気はないでしょ」
 髭を指で梳きながら甫民は言う。「あの男は、北部の名門の出身だったんだ。父祖は独立運動のときに相当な武勲を上げた。ところがその名家の跡取息子は何をとち狂ったか、住み込みで働いていた天涯孤独の使用人を娶ると言い出した。まあ、その後は少々省略しても構わないかね」
 「前置き全部省いちゃって結構よ。敵を同情したくはないもの」額をがりがりと引っ掻きながら、目も合わさずにベルは言う。
 微かに笑って甫民は続けた。「さて、では一気に十年分話を進めよう。彼は順調に出世して、中佐くらいまでになっていた。ところがあるとき、今までずっと詳らかでなかった糟糠の妻の出自をひょんなことから知ることになる」
 「自分の妻は何と天女でした。隠してた羽衣を取り返して、天に帰ってしまいました」無関心そうにベルは言う。「興味ないわ。あの大佐がいずれにしても政府の要人ということに変わりがないもの」
 「彼の妻は、こともあろうに王氏だった」さらりと甫民は言ってのける。
 苛々と顔を起こしたベルは、だがその台詞の意味に気付いてぽかんと唇を開いた。
 甫民は目を細める。「そう、中華政府から抹殺要請の出ていた氏姓だったんだよ。とは言っても、当時は韓半民国として中華からは独立していたから、しらを切り通そうと思えば出来たはずだ。第一、妻自身も隠していた訳ではない。知らなかったんだ」
 『知らなかった』と言う言葉がやけに響いた。その言葉は、免罪符としては余りにも頼りなく、無責任だった。だが、あくまで単なる事実だと呼ぶには余りにも痛ましい真実だと、ベルは誰よりもよく知っている。世界は、一人の人間の知識に収めてしまうには余りにも広過ぎるのだ――。
 「それでも、殺したの」ベルが言うと、甫民は頷いて付け加えた。「当時身重だった妻は、銃殺刑に処せられた。あおりを食らって降格処分になった彼が国境の新義州を攻略して、領有問題が解決した為にこの国が中華と完全に国交を断ったのは、その五年後。――今から、十四年前のことだよ」
 思わず俯くベルに、甫民は穏やかに付け加えた。「彼はそういう男だ。だから、あるいは政府にとっても邪魔なのかもしれない」


 窓の外側を、滝のように雨水が流れて行った。外の灯火が揺らめきながらその中に映り込むのが、何とはなしに綺麗だと思った。
 「――あたしの知ってる奴なんだけどね」不意に大花は言った。
 大佐は依然として表情一つ動かそうとしない。それでも、思いの外に淡々と大花は続けた。「親友を殺された子がいるの。半年とちょっと前に、あの『プログラム』で」
 そして彼女は自分の足元に目を落とした。「それ以来、黒い服しか着なくなったの。あたしと同い年の女の子なのに。ちょっと洒落た格好だってしたい年頃よ。目一杯おめかしして遊びたい年頃よ。少なくともあたしはそうだもの、あいつにだってそんな気持ちが全くないなんてはずがないわ」
 大花はどこか荒んだ笑顔を見せる。「……まあ、黒も似合う奴なんだけど。あたしの見立てだとパステルカラーだって行けるはずなの。もっと華やかな格好の方がぐっと映える奴なの」
 大佐は無言でテーブルの上に視線を這わせた。つられて大花もそれを見ると、照明の関係で重なり合った書類が半透明に見える。
 少し間を置いて、大花は言った。「あなたは、復讐、したいの?」
 何も答えず大佐はテーブルの上から書類を拾い上げた。
 防音ガラスのはずなのに、何故か雨音が聞こえるような気がした。風の勢いでほんの僅か、窓がたわんだようだった。
 しばらく待って、大花は再び尋ねる。「――協力しようか?」
 やはり大佐は何も言わない。仕方がないので、一人ごちるように彼女は言った。「あたしね、何か派手に一発ぶちかますつもりなの。だけど、肝心の何をやったらいいかわかんない訳よ。ねえ、おじさんと一緒に行動しちゃ、駄目?」
 「何の為に」あたかも興味などないと言わんばかりの調子で大佐は尋ねた。だが、尋ねたと言うことはそれなりに気になったのだろう。「例の、黒服の友人の為か?」
 大花はにっこりと微笑んだ。「人を助けたいの。囚われの身のお姫様を奪還しようと思っててね、その為には軍部を撹乱しなきゃいけないらしいのよ。よくわかんないんだけど」
 そして、懸命に子供じみた口調で付け加える。「だから、おじさんの復讐戦も兼ねてどかんとやったら一石二鳥なの。ねえ、協力してくれない? 一緒にやろうよ。人助けよ」
 不意に大佐は言う。「その為に、軍を裏切れと言うのか」
 彼は、その目を合わせようともしない。「人助けだったら、復讐だったら、何をやっても許されるのか。人が幾ら死んでも構わないのか」
 「軍人さんの台詞とは思えないわね」大花は口笛を吹くような声を上げて、肩をすくめた。「どうせ今までに数え切れないくらい殺して来てるんでしょ。死体の数で出世するなんて、因果なお仕事よね」
 その言葉に、ようやく大佐は横目を向ける。
 「何が言いたい」険しい口調で大佐は言った。大花は指先を伸ばして彼の顎を摘み、その顔を自分の方に向かせた。「別にそれを咎める訳じゃないわ、誤解しないでね。それにあたしだって人殺しだもの――ただ、あたしとあなたは平等なの。立ってる場所だって、一フィートと離れてないわ。それなのに、今更軍人だとか何だとかってな立場なんかに囚われるのは邪道だと思わない?」
 大佐は微かに目を見開いた。ようやく、その顔に人間らしい表情が浮かんだ、と大花は考える。「ねえ、あなたはどうしたい?」
 長い間逡巡して、ようやく大佐は言った。「わたしは、お前が人を殺すつもりなら、阻止しなければならない」
 「だったらいいわよ」
 思わず拍子抜けするほどにあっさりと大花は言った。「人を殺さず、騒ぎを起こすにはどうすればいいのか、教えて。一緒にやってくれたらなお嬉しいわ」
 そして軽く小首を傾げると、唇を軽く突き出すようにして囁いた。「あたしも、あなたが平気で殺せる人なら、命懸けであなたを止めたと思うんだけど」
 ふと大佐の顔を見上げると、微かに表情が動いているのが見て取れた。大花には、それが笑っているように見えた。
 思わず大花も満面の笑みを浮かべる。急に彼女は子供じみた顔になった。「いい? ねえ、交渉成立? 同盟締結?」
 「一時休戦だ」さっきまでよりも少し柔らかい調子で大佐は言った。それから、思い出したように付け加える。「――ところで、ソウル一の女と言うのはどうやら伊達ではなかったようだな」
 「ごじょーだんを」腰に手を当てながら大花は高飛車に言い放った。
 「あなた、世界中であたしほどのいい女と会ったことある? ――少なくとも、あたしはないわね」


 「デアン、お前今暇か?」
 韓大安は、先輩の宗に呼ばれて顔を上げた。「え、いえ、まだこっちのが終わってないんですけど……」
 「そっちのはいいから、こっち来い。何だかよくわからんが、偉い人からの命令だ」宗はそう言いながら、手の中の書類でぱたぱたと自分の顔を扇いだ。
 何も自分に押し付けなくても、と思いつつ韓は席を立つ。どうやら今日も見事に残業らしい。労働時間の規定とかは一体どこへ行ってしまったんだろう、と取り止めもなく彼は考えた。
 「何だかよくわかんないんですか? それじゃ、俺じゃない方が……」「デスクワークはお前が一番向いている」剃ってもすぐに無精髭の浮く宗は、そう言って彼に書類を押し付けた。「どうもな、指名手配要請らしい。犯人が開城出身らしいんで、写真を集めろとか書いてた……ような気がする」
 要するに自分で読んで自分でやれと言う意味らしい。やれやれと思いつつ、溜息を噛み殺しながら韓は頷いた。「犯人がわかってるくらいなら、中央にもデータがあるんじゃないですか?」
 宗は素気無く言う。「俺が知るか。大方、変装やら何やら得意な犯人なんじゃないのか? でなきゃ、よっぽど取り零したくない人間なんだろ。それこそ今の連続テロ犯とかな」
 「笑い事にならないこと言わないで下さいよ」韓はむっとして声を荒げた。
 宗はもうどこかへ行こうと踵を返しながら笑う。「そうだな、何つったってここは真っ先に集中攻撃喰らった訳だしよ」そしてそのまま彼は部屋を出て行ってしまった。
 仕方なく、大袈裟な溜息を吐きながら韓は作業中の帳面を脇に押しやった。そして押し付けられた書類をぱらりと捲る。
 予想通りの内容だった。ここ連日続いているテロの最有力容疑者が特定出来たので、それを全国に大々的に報じて犯人を炙り出したい、必ずや犯人を逮捕しなければならないので、取り零しがないようあらゆる角度からの写真を集めて欲しい、と言うようなことが難解な文体で書かれていた。内心韓は舌を巻く。幾らこの国の捜査機構が優秀だったとしても、まさかもう犯人が特定出来ているとは思わなかった。同時に冤罪の可能性を危惧しながら、書類を一枚捲る。
 そして彼は思わず硬直した。そこには、ひどく見覚えのある顔の写真があった。少し子供っぽい顔立ち、鋭い目付き、そして長い黒髪とその中に一握りだけ紛れ込んだような銀色のメッシュ――中学校のとき、ほぼ毎日見た顔だった。どころか、つい先日久し振りに再会した相手の顔だった。視野の端に入った瞬間、思わず目で追ってしまう彼女の顔だった。
 「……施さん……」韓は呆然と呟いた。
 添えられた書類には、簡略な彼女――施寛美の略歴が書かれていた。昨年末に『プログラム』に参加を強いられ、試合中にクラスメイト二人と共に国外への亡命を図り、事実アメリカまで逃げ切ったものとされている、だとか、先日総統官邸に無断で侵入した、だとか、テロ行為の首謀者瀬戸甫民と現在行動を共にしている可能性が高い、というような内容のことが箇条書きで紙面に連なっていた。
 呆然と韓は呟いた。「……嘘だ、施さんがそんな……」
 あの晩見掛けた彼女は、あの中学生の頃とほとんど変わっていなかった。変わったと言えば、背中の中程までだった髪の毛が大分長くまで伸びていて、少し大人びた顔付きになっていた、その程度だった。その彼女が、指名手配を受けている――。
 不意に不穏な予想が彼の脳裏を過ぎった。(そう言えば……)
 そう言えば彼女は、あの爆発現場の傍にいた。彼女の家はあそこから近くはなかったはずだ――そうだ、一度だけだが彼女の家の前まで行ったことがあるのだから、間違いない。現場まではバスに乗ってようやく辿り着ける距離だ。
 (でも、まさか)必死にその考えを打ち消そうとしながら、彼は書類を捲った。信じられない。信じたくない。信じる訳にはいかない。
 一瞬この書類を破ってしまおうかと思った。自分の目に触れなかったことにすれば、手配なんかなかったことにしてしまえば。
 (――そう、もしかしたら冤罪かもしれないんだし)
 きっとそうだ、偶々彼女があの現場の近くにいたのを他の人が見て、それで怪しまれたんだ。彼女は敵を作りやすい性格だったし、頭も切れたから、それできっと。そうだ、そうに違いない。韓はそう念じた。
 だが、だからと言ってこの書類を握り潰す訳にはいかない、すぐにそう彼は思い出す。もしもそのことが上部に知れたら、彼だけではなく先輩達にも累が及ぶ。重大な要請なのだ、隠してもすぐに知れてしまうだろう。
 かと言って、あの施寛美の写真を提出しては、彼女の身が危険に晒される。何を差し置いても、それだけは避けたかった。少なくとも自分だけは、他の誰が疑おうと自分だけは最後まで彼女の無実を信じていたかった。だが――。
 「……どうしよう……」途方に暮れて、思わず彼は呟いた。


 「テレビかラジオはいりませんか?」不意に劉医師は言った。
 思わず飛竜は尋ね返す。「え?」
 「テレビかラジオ。ずーっとこうしているのも退屈でしょう」
 まだはっきりしない頭を必死に働かせながら、飛竜は言った。「……いいのか? 俺は囚人だろう。外部の情報を知らせるのは、まずくないのか?」
 「医師的見解から言えば、大丈夫です」劉はくすくすと笑いながら言った。「そうですね、テレビはちょっと疲れるから、ラジオ辺りを持って来ましょうか。どうせここは個室ですから、イヤホンなしで視聴しても平気ですよ」
 そう言いながら、飛竜の腕に刺さった点滴のパックだけを取り替える。
 少し考えて、飛竜は頷いた。「このままだと、時間の感覚がなくなりそうだ」
 本当はそんなものとっくになくしているつもりだったが、それでも官邸の部屋には一応窓があった。窓もない箱のようなこの部屋は、昼でも暗く出来るし、夜になっても薄明るい。
 劉はそれじゃ、と言うと、すぐに部屋を出て行った。ドアが閉まったな、と思いながらそちらの方向を見ていると、次の瞬間には扉が開く。再び入って来た劉の手には、小型のラジオが抱えられていた。「外は色々と面白いことになってますよ。あなたが監禁されている間に、この国も結構大きな変化を来しましたしね」
 「南北の統一くらいなら、知っている」ぽつんと飛竜は言った。これでも、彼の部屋に通って来たのは皆国家の要職ばかりなのだ。上手くあしらえば、寝物語に国の中で一番詳しく新しい情報を聞き出すことも出来た。それを誰かに――それこそ甫民あたりに伝えたいとは心底思ったものの、為す術もなく、それは歯噛みするほど悔しかった。
 劉医師はベッドサイドにラジオをためつすがめつしながら据え付けた。「今日は台風情報とテロ情報くらいしかどこも放送していませんが」
 ふうん、と聞き流し掛けて、飛竜は思わず固まった。「テロ?」
 「この間、開城市で連続テロがあったんです。深夜なので被害は大したことなかったらしいのですが、何しろ十一日未明だけで五箇所も爆撃されたそうで。昨日もどこだったかがテロに遭っていますよ」
 彼は、何がおかしいのかいつもと同じ笑顔のままだ。そして思い出したように、どこか取って付けたように付け加えた。「そう言えば、ロンの元々のお家も開城でしたね」
 一瞬甫民を思い浮かべた。次の瞬間、脳裏に鮮やかな銀色のメッシュが翻る。もう一瞬後には、その予感はしっかりと心の中に根付いていた。
 「明日の晩か明後日の朝には、台風もここに来るみたいです。僕よりもラジオの方が詳しいですから、聞いてやって下さいね」心なしか楽しそうに劉医師は言って、部屋を出て行った。


 医師がドアを閉じるのとほぼ同時に、引っ手繰るようにして飛竜はラジオを抱え込んだ。
 震える指先でつまみ式のダイヤルを回してラジオ局の波長に合わせる。雑音の中から、少し形のある音が聞き取れた。もう少しダイヤルを捻ると、雑音は飛んで澄んだ音になる。
 若い女が淡々と語る。『台風の現在の位置は』――違う知りたいのはこれではない。
 権威を着た訳知り顔の男の顔が浮かぶような声。『訳ですから、今回のテロに関しては』――お前の御託を聴いている暇はない。
 早口に捲くし立てる声が耳につく。『い体制が続いております。続きまして台風じょ』――少し遅かったか。
  手当たり次第にダイヤルを捻っていると、ふと不思議なニュースがラジオから流れ出して来た。知りたい内容ではないはずなのに思わず手を止めてしまったのは、読み上げる声がどこか知っている人間に似ていた為かもしれない。
 『――繰り返します。台風の影響でイムジン川の生簀が壊れ、シュリが逃げ出しました。現時点での数は推定で二百匹ですが、その数は時間と共に増え、最大で千五百匹にまで及ぶものと思われます。また、逃げ出したシュリの一部は平壌方面へ向かっているのが確認されました。現在確認されているのは、体長およそ三十センチの大型種と帰化型の小型変異種の一群です。養殖関係者は注意していて下さい』
 ふとラジオの周波数を見ると、ひどくマイナーな局に合わせられていた。
 飛竜ははたと顔を上げてラジオを顔に引き寄せた。ニュースの声は淡々と同じ台詞を繰り返していた。(……暗号か?)
 シュリは、本来は半島に生息する魚の名称だった。かつて半島を南北に分断していた臨津江に多く生息することから、南北統一の象徴として扱われていた。だが、南北を自由に行き来出来るシュリは同時に、あらゆる地域の水面下で活動する旧王朝派の活動家達の隠喩でもあった。それがイムジン川から――旧国境に程近い場所から解き放たれ、比い稀な大物が外国帰りの若者と連れ立って平壌へ向かっている。そしてその情報は、半島全土に流されている。
 (――間違いない)予感は確信に変わった。
 『続きまして、今後の台風の進路をお伝えします』ラジオの声は、やはり淡々と変哲のないニュースを淡々と読み上げ始めた。だが、飛竜はラジオを抱えたまま食い入るようにそれを見詰める。
 (……ここに、向かってるのか?)
  何の為に、と思い掛けて、次の瞬間にそれが愚問だと気付いた。もっと早く気付けばよかった。あの施寛美がそう簡単に諦めるだろうか、あの甫民が今更単なるテロの為だけに動くだろうか。
 飛竜は自分の額を押さえた。知らずに息が荒くなる。――そう、多分自分の為だ。旧王朝派の旗印だった自分の身を奪還する為、彼等は北上しているのだ。
 その後を考えると、鳥肌が立った。
 元々王朝派は自分達の大義名分だった皇帝の末裔を人質に取られた故に、諦めて息を潜めていたのだ。飛竜が死ねば一時の暴動は起こるかもしれないが、やがて王朝派という勢力そのものが済し崩し的に自然消滅し、この国を支配する対立構造も崩壊するはずだった。過激派勢力が消滅すれば、国家を乱される不安のなくなった政府は現在のような弾圧を停止し、ゆっくりとではあるが平和な世界が実現されるものと信じていた。
 しかし皇帝の奪還を王朝派筆頭の甫民が決断したということは、現政府に対する宣戦布告に他ならない。あの老人の時折見せる手段を選ばぬ非道さは、他ならぬ飛竜が誰よりもよく知っている。こぢんまりとした小競り合いで済むはずがない。そこに現政府への不満を抱える者が便乗すれば、これまでの拮抗が崩れて内乱が勃発するのは避けられない。そして国土のないこの国では、市街地が主な戦場になる。
 (止めなければ)飛竜はのろのろと身を起こした。(もう奪還は無駄だと、俺にこだわる必要はないと、伝えなければ)
 今このまま死ねば、彼の全てを揉み消される。それを知らずに動いたら甫民達の払う犠牲も遥かに増える。第一、ウイルスに冒されて余命幾らもない彼を奪還することで生じるメリットは何もない。――ならば、それを伝えなければならない。そして止めなければならない。
 だが、どうやって? 
 飛竜は息を詰めてラジオを抱き寄せた。そして熱る額をその冷たい機体に押し当てる。電波が悪くなったらしく、ノイズが混ざる。
 (……)
 それは、一度は諦めた願いだった。自分の為だとしたら、どんなに歯を食い縛ってでも我慢しなければならない思いだった。だが、このままでは甫民や寛美や、それから数多くの人々が必要のない戦渦に巻き込まれる。それを黙って見過ごすことは、彼には出来なかった。
 ――要因は揃うだけ揃っていた。その上で、迫り来る死神の足音が最後にそれを決断させたのだとしたら、それはどれほどに皮肉なことだろう。
 静かに飛竜は念じた。(……外へ)


 指示された通りに車を止めると、ベルと甫民はドアを開けて外に出てしまった。デイビーは後を追い掛けようとしたのだが、甫民に制されたので諦めた。
 「すぐ戻る」と言う二人の言葉を信じて、彼はぼんやりと運転席のシートを倒して待つことにした。
 ふと彼は後部座席に目をやった。さっきまでベルがいたところには、彼女と同じ色の闇が腰を下ろしている。彼女から、仄白い肌の色と銀色に光る髪の一房を抜き取ると、きっと夜の中では見えなくなってしまうのだろうなと思った。それも、本当に深い深い漆黒ではない、真夏の夜のようにどこか儚い闇の色。
 ベルの黒い服を見る度に、デイビーは彼女が喪ったものを思わずにはおれなかった。彼には離れて暮らしているものの両親がいる。親戚とも仲が良いし、実家に戻れば祖母も健在である。友人もいる、生活に苦労したこともない、そして何より自分の確たる居場所を持っている。――その全てを、彼女は既に喪っていた。
 双子もベルと時を同じくして逃げ延びたとは言え、彼等の手に残っていたものは彼女よりも遥かに多かった。互いの片割れがいた。自分の居場所を持っていた。泣ける場所を、泣ける相手を持っていた。
 この国に来ることで、ベルが吹っ切れたらと思っていた。好きな男がいるのはずっと前から気付いていたから、そいつとの再会を彼女が望むならデイビーも協力を惜しまないつもりだった。それで彼女が自分の居場所を取り戻せるのなら、それが彼女の幸せなら、自分は幾らでも身を引こうとさえ思っていた。誰よりも彼女の幸せを願っている自信はあるから、少しだけ辛いけれど、惨めではなかった。
 けれど、と彼は思う。この国にやって来たことは、あの男と再会したことは、彼女の為になったのだろうか。元々誰にも捻じ曲げることの出来ない性格をしていたとは思うが、あそこまで依怙地だったろうか。あんな荒んだ表情ばかりする女だったろうか。今にも弾けてしまいそうなほどに心を張り詰めていただろうか。――それは、自分が望んだ彼女の幸せの状態だろうか。
 『YES』と言う回答が一つも出せなかった。そう、彼女はどんどん自分で抜き差しならぬ状態に突っ込んで行っているように見える。そしてそのまま、真夏の浅い夜が明けると共に消えてしまうように見えた。
 止めたい、とは思う。それだけは何があっても止めなくてはならない。彼女を消してしまう訳には行かない。他の何を捨ててでも、彼女だけは守りたい。――けれど、自分はどうしたら彼女を助けられる。
 半ば押し切るようにベルについてこの国に来た。けれど、言葉も通じず地理もわからないこの国では、自分はただの足手纏いなのではないかと不安だった。車の運転や荷物持ちは、彼でなくても構わない。デイビーの代わりは幾らでもいる、何度打ち消そうとしてもその気持ちは消えなかった。
 (もしかしてこれは、ただのエゴなのかも知れない)
 おもむろにデイビーは考えた。彼女の為、と言いつつ、実際は自分が彼女の傍にいたいが為の口実なのかも知れない。それはベルにとって、この上ない迷惑なのかもしれない。いやむしろ、幾度となく彼女にはそう言われて来ていたではないか――。
 と、空中を眺めていたら不意に窓がこんこんと鳴った。見ると、暗闇に半ば溶け込むようにベル・グロリアスの小さな姿が立っていた。慌ててデイビーは鍵を開ける。がたん、と音がしてロックが解除された次の瞬間、勢いよくドアを開いたベルは猫のような身ごなしで車内に滑り込んだ。
 「只今」後部座席に座り込んだ彼女は、助手席の背もたれに抱き付くようにして身体を預ける。少し遅れて、甫民が車内に入り込んだ。
 これからどうしたらいい、と言いたくて彼が後ろを見やったときには既に、助手席の背もたれを抱え込んだベルは寝息を立てていた。何だか身体の節々が痛くなりそうな姿勢だ、とデイビーは苦笑しながら彼女の髪の毛に手をやる。艶やかな黒髪は汗と埃でべた付いていた。きっとそれが気になったからきっちりとしたお下げ髪に結い込んだのだろう。その髪の毛もところどころ解れて飛び出して、顔に掛かっている。
 目元には、夜目にも明らかなほどに疲れの色合いが滲んでいた。ひどく無防備な顔をして、彼女は眠り込んでいた。
 (俺でもちょっとばかりきついんだもんな)デイビーは彼女の顔に掛かる髪の毛を丁寧に払った。(ちっちゃいレディーが平気な訳ないよな)
 彼女は疲れているんだろう、と思うことにした。疲れているから、精神的にもゆとりがなくなっているのだ。だから判断を誤る部分も出て来てしまうのだろう。
 今は、彼女の心に任せればいい。ふとデイビーはそう考えた。無理に引き止めてもきっと悔いが残る。ならば、今の彼女の出来る限りのことをやらせておくのが一番ではないか、と思った。ベルの自由に任せればいい。ただ、彼女が自分を見失わないように、疲れたときに休めるように、常に傍に控えていることが出来たら、それが一番彼女の為になるのではないか。そう考えた。
 隣を通り過ぎて行った車のライトで、ベルの顔が薄く照らし出された。いつも痛々しいほどに虚勢を張ってはいるが、こうして見ると等身大の十八歳の少女なのだと改めて気付かされる。不意にデイビーは、彼女をいつになく愛おしく感じた。
 ふと甫民が、ベルを起こさないように静かな掠れた声で言った。「どこか適当な、静かなところに車を止めてくれるかい」
 デイビーはベルの頬を指で撫でながら振り向く。甫民は微かに目を細めた。
 「今夜はせめて、ゆっくり休もうじゃないか」
 デイビーもまた、少しだけ眼鏡の奥の目を細めた。
 そう、真夏の夜は短いのだ――。


 遅くになってようやく鴻亭高等学校から借りて来た、昨年度の二年C組の生徒記録ディスクを画面に表示させると、韓は為す術もなくポインタを動かし回っていた。
 (どうしよう、どうしよう……)何とかしたいとは思うのだが、その為の方法が見付からない。知らずにマウスに掛けた親指に力が篭った。
 そしてふと彼は手を止める。プレビュー画面の中で、あの施寛美のサムネールからそう遠くないところに、ひどく目を引く人物の顔写真を見付けたのだ。
 慌ててそのサムネールにポインタを合わせてクリックすると、すぐにその人物のデータが拡大写真と共に現れた。記録を見ると、身長は151cm。施寛美とほとんど変わらないその小柄な人物は、まるで水にさらしたような砂色の髪の毛を持っていた。サイドだけ少し長く残して全体を短く切り揃えたショートカットはあの彼女に似ても似付かないのだが、どこか雰囲気の中に相通じるものを持っていた。
 それが何だろうと考えて、写真の人物の髪に一握りだけ銀色のメッシュが入っているのに気付いて納得した。このような銀色のメッシュなんて、滅多に見掛けるものではない。よく見れば写真の彼女の碧眼も、あの施寛美に何となく似通ったような眼差しをしていた。どこか鳥類や爬虫類に近いような、独特のむらのある無関心な瞳――。
 不意に、彼の頭の中で突き抜けたように冴えた部分が囁いた。『よく考えろ、韓大安。写真は直接放送局へ送るんだ。照合の為の書類に顔写真はないんだから、ばれたりなんかするはずがない』
 思わず彼はその写真に見入った。そう言えば、と彼は考える。犯罪者はすぐに自分の顔を整形して変えてしまう。容貌が現在の本人のそれと異なっていたとしても、きっと誰だって彼女が亡命中に変化させてしまったのだと納得するに違いない。
 彼は一瞬躊躇ったが、マウスポインタをその人物のサムネールの上に合わせて、データの送信の手順を踏んだ。数枚の写真に添えられた名前は全て書き換え、一応文面に目を通し、照合書類と矛盾する点がないかどうか確認した。
 もしもばれたら、と彼は思った。いや、きっと知れてしまうのは時間の問題だ。それでも、それでもそうせずにはいられなかった。自分だけではなくどれだけの人物に累が及ぶのか、考えなくてはならないと思いつつ考えたくなかった。最後に、纏めたデータを放送局宛に送信すると、不意にがくんと全身の力が抜けてしまった。
 (施さん……)彼はぼんやりと送信済みのメールボックスを眺めながら思う。(どうして)
 彼女がやったと言うことが信じられなかった。
 自分の名前が手配されたなら、きっと彼女も気付くだろう。そして政府の人々が差し替えられた写真を訂正する間に、彼女ならきっと逃げ切れるだろう。そう願わずにはいられなかった。そうでなければ、こんなことする意味がない。
 (お願いだから――)韓は念じた。(逃げて)




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