モドル | ススム | モクジ

第八夜・上


 ――そう、この河を下るとやがて海に着く。その海を渡ると、爺ちゃんの生まれた島があるんだ。その島を越えると、爺ちゃんの爺ちゃん達が暮らしてた国のある大陸に辿り着く。
 でも、まだまだ目的地までは遠いぞ。大陸を東へ、そう、朝日を追っ掛けてどんどん東へ進むんだ。大陸の南側には海があるから、爺ちゃんは船を使った。船は早いけど、それでもまだ遠い。何日も何日も掛けて、ようやく大陸の東の最果てにある港に着いた。そうしたら今度は北へ上がる。今度は内陸だから、船は使えないぞ。馬車を使うんだ。大丈夫だ、その国には立派な路がある。それに沿って行けば、絶対に迷子にならない。
 その内、黄色い壁が見えて来る。その壁の中をどんどん真ん中へ進んで行けば、一際豪華な門と高い城壁がある。その内側がお城だ。
 きらきらした飾りのいっぱい付いた門を潜ると、中にはきっちりと青い石が敷き詰められた小路が用意されてるから、それを真っ直ぐに進んで行くんだ。幾つも幾つも門を潜って、沢山の黄色い屋根の建物の脇を掠めて行くと、ようやくお城の一番奥にある、もう一つのお城に着く。御伽噺に出て来るような、王様と王妃様が住んでいるお城とはちょっと違うぞ。綺麗なお姫様だけが暮らせるお城だ。
 その中でも、いっちばん綺麗で凛々しくて誇り高いのがこの人だ。マダム・イーグルだ。世界の最果てまで探しに行くに相応しい、最高の女だ。
 ――ははは、デイビー。いい女は、なかなか落ちないからいい女なんだ。爺ちゃんは結局、マダムを最後まで落とせなかった。でも構わないよ、だってマダムは最高の女なんだから。惚れた女が最高の女だったって確かめられただけで、爺ちゃんは満足なんだ。負け惜しみじゃないぞ。
 よし、それじゃ爺ちゃんはこれをデイビーにやろう。頑張って最高の女を探し出せるように、この絵を見て研究しろ。そしていつか、爺ちゃんにも落とせなかった最高の女をモノにしろ。――そうだ、いい返事だデイビー。


    第八夜・上


 夜遅くにオフィスに顔を出したクレア・パーマンは、まだバーグナーが残っていることに驚いた。「編集長、何やってるんですか!?」
 バーグナーは、手元から充血した目を上げた。「ああ、取材はどうだった?」
 「えっと……」幼い頃のデイビットソン・A・ステュワートや在りし日のアーサー・ジョセフの思い出話ばかりを聞いてきたとはさすがに言えず、クレアは言葉を濁した。「編集長こそ、どうしたんですかこんな時間まで」
 バーグナー編集長はじっと手元の書類に目を注ぎつつ、パソコンのディスプレイにも目を配っていた。だが、はっと思い当たったように顔を上げると、早口に捲し立てた。「トマニ・ミュージアムに取材して来たんだね!? あそこのMs.ジェリーは、何かデイビーについて言ってなかったかね!?」
 「ええっと……」クレアは口許に手を当てた。ひどくばつが悪そうな表情になる。「ああ、アーサー・ジョセフ氏の孫でとても仲がよかったとか、そう言うことは仰ってましたが……」
 「彼の近況に付いては、言及してはいなかったか!?」
 切羽詰った様子のバーグナーに、さすがにクレアは不信感を抱いた。「最近では『W.D.』のMiss.グロリアスに入れ揚げているとか仰ってましたが……どうしたんですか?」
 「そのMs.グロリアスの祖国で、何か大変なことが起こっているらしい。彼女やその同郷の友人等と共に、デイビーも失踪した」かりかりと原稿用紙に万年筆を走らせながら、バーグナーは叫ぶように言った。
 クレアは目を見開く。「大変なって、何が起こってるんですか!?」
 「わからん」バーグナーは万年筆の尻を自分の顎に当てた。そして呻くように言う。「だが、大変なことだけは確かなんだ。下手をしたら、このアメリカにまで飛び火しそうな厄介事だ。とにかく何とかしなくてはならない」
 ひどく抽象的で、クレアにはほとんど訳がわからなかった。だが、ここまで取り乱しているバーグナーを見るのは初めてである。事態の重さがクレアにも何となく理解できた。「他の人は……」
 「皆取材に出した」簡潔にそう言うと、バーグナーは着信メールの確認を始めた。
 何かしなくては、とクレアは考え、他の部内の連中と同じ行動だと思いつつ取材に出ようと荷物を抱えた。その瞬間、バーグナーが乱暴に受話器を引っ掴む音がした。見ると、彼は血相を変えて短縮ダイヤルを打ち込んでいる。「……ジャクソン、クーデターの可能性ありとはどういうことだ!?」
 ふと、クレアの脳裏に先程別れたばかりのようなジェリーの声が蘇って来た。
 『――デイビーに好きな子が出来たら、森羅万象薙ぎ倒してでも突き進んで行くと思うわよ。皇帝の寵姫に横恋慕したアーサーと同じで、国境もモラルも法律も関係ないわ。好きな子の前では、世界なんて何の意味も持たないのよ――』
 怖いな、とクレアは思った。何を怖いと思ったのかはよくわからない。
 ただ、不安はなかった。ただ怖いと思っただけだった。


 「――と言うこと。よろしく」ベルは素気無く言った。
 勿論双子にそれが納得出来る訳がない。「もうちょっと説明しなさいよ! どういうことよ!」「さすがに今回は黙って聞き過ごす訳にはいかないよ」ほとんど同時に双子は食って掛かった。
 ベルは掌で軽く二人をあしらう。「だから、三人ばらばらになって半島各地で活動を起こすのよ。これ以上どうやって説明しろって言うの」
 一息置いて、小魚が口を開いた。「分散して、単独で活動しろっていう訳だろ。でも個人で行動するのはあまりにも危険だって、わかってるのベル!?」
 「三人と一人と、戦力的にどれくらいの差があると思ってるの。百人千人単位の兵隊相手だと大差ないわよ。そもそも、誰が単独活動を起こせって言った?」髪の毛をがりがりと引っ掻きながらベルは言った。
 と、甫民が横から口を挟む。「三人?」そして彼の隣に立つデイビーの長身を見上げた。
 ベルが彼の腕をぐいと引っ張って屈ませる。「こいつを一人で行動させる訳には行かないでしょ。言葉が通じないんだから、他人に指示も出せやしない」
 「指示?」大花が反芻した。「まさか、あたし達にもそんな仕事をしろなんて言うんじゃないでしょうね!?」
 「大丈夫よ、各地に助っ人いるんだから」ベルは、年下の子供に買い物を頼むような調子で言った。「適当な場所決めたら、この火薬使ってどこかふっ飛ばして。適当にその辺の仲間が嗅ぎ付けて、やって来る手筈になってるから」そして、双子の一人ずつに小さな金属製の筒を手渡した。
 それを受け取ってしげしげと眺めた後、ふと小魚は尋ねた。「……まさか、行き先を決めてないんじゃ……」
 「あら何、あんた達に決めておけって言ったじゃない」ベルは首をすくめた。「ちなみにあたしは、この辺から平壌一帯までを二、三日掛けて巡業してくるわ。出来れば、人手不足の南の方をお願いしたいんだけど。あ、二人で行動なんて能のない真似はしないでよね」
 ふと思い出したように彼女は、デイビーに持たせていた荷物を開いた。その中から携帯電話のような物を取り出すと、双子に向かってぽんぽんと投げる。慌てて二人は受け取った。
 「何これ」大花の問いに、簡潔にベルは答える。「改造通信機。軍部に嗅ぎ当てられ難いようにはしてるけど、万一ってこともあるから気を付けてね」
 「取扱説明書みたいな物はないのかな……」そう言う小魚に、軽蔑したような眼差しをベルは向ける。
 その眼差しに肩をすくめて逆の方を向くと、寄りによって大花までが同種の目線を向けていた。「何馬鹿言ってんの。そんなのなくても、要は使えたらいい訳よ」
 彼の鼻先に自分の機械を突き付けながら、大花が高飛車に言う。
 と、ベルがデイビーと甫民の肩をぽんぽんと叩きながら言った。「よし、二人ともやる気みたいよ。それじゃ後は任せて、あたし達も頑張りましょ」
 「ちょ、ちょっと待ちなさいよ……」叫ぶ大花を残して、三人は駅の外へと行ってしまった。それを追い掛けようとしたが、やがてそれが不毛なことに気付いて双子は立ち止まった。どうせ、あのベルがこれ以上二人の相手をする訳がない。大人しく指示に従わない限り、けんもほろろに扱われるのが関の山だ。
 しばらく二人は茫然と並んで突っ立っていたが、やがて小魚がちらりと切符売り場の方を振り向いた。そして小声で呟く。「ねえタイホア、俺ちょっと感覚が狂って来たみたい。今、夜行の切符買おうか急行にしようかって迷ってるんだ」
 腕を組みながら大花が答えた。「別に普通よ。あたしも同じこと考えてるもん」


 双子は、一応南行きの電車に乗り込むことにした。小魚は取り敢えず行き先を決めないまま、一番安い鈍行列車で行けるところまで行ってみることにした。大花に尋ねて見ると、彼女は旧南鮮共和国首都のソウル特別行政区に行きたいと言い出したので、途中まで同行することにした。
 開城を出ると、すぐに電車は旧国境へと差し掛かった。窓の外を見ると、今尚沢山の人々がぞろぞろと歩いて国境を渡っていた。
 「……ねぇ、検問じゃないあれ」大花が小魚の肩を突付く。
 見ると、電車の進行方向側からやって来る人々は、道の途中に作られた柵のところで一旦兵士に止められ、何か証明書のような物を差し出すよう促されている。それを持たないらしい人は、兵士と少し押し問答をした後やむなく引き返す。およそ半数ほどもの人々が、そうやって追い返されていた。
 眉間に皺を寄せながら大花が言った。「何、あれ」
 「……もしかして、国境を越えるには許可書がいるんじゃない?」大花は目を瞬かせた。「どうして? 一つの国になったんでしょ。もう国境はないはずよ」
 小魚は少し考えて、口許に指を当てながら言った。「北側に人口が集中し過ぎたんで、南の人間にこれ以上来させないようにする為、とか」
 「何それ。手前等が何も考えずに統一したんでしょ、責任取りなさいよ!」
 大花が声を荒げたので、慌てて小魚は彼女の口を押さえた。何か言おうともがく大花の耳元で、小声で彼は諭す。「駄目だよそんなこと言っちゃ。どこに政府の目があるかわからないんだから」
 上目遣いに小魚の顔を睨んだ後、小さく大花は頷いた。恐る恐る小魚が手を放すと、彼女は大袈裟に息を吐いた。
 遠ざかる国境線を見ていたら、ぽつりと大花が言った。「……本当みたいね、さっきの。あたし達には検問がなかったわ――北から南へ行く分には問題がないみたい」
 小魚は目を合わさずに頷いた。「うん」


 劉は研究所の前で足を止めた。やや広めのポーチを取った玄関口の自動ドアの脇に、暗証番号を打ち込む真新しいボードとIDカードの差込口がある。劉は黙ってそれをじっと眺めていた。
 と、それに気付いた制服姿の警備員が一人駆け寄って来る。劉はそちらに顔を向けると、にっこりと笑って言った。「こんばんは、ちょっとお邪魔しても構いませんか?」
 「ああ、またカードなくしちゃったんですか。ちょっと待って下さい、今開けますから」そして上着の内ポケットを調べ、顔色を変えた。「あれ、カードが……」
 不意にピーという電子音と共に、自動ドアが開いた。劉が微笑みながら警備員の顔の前に顔写真入りのカードをかざす。「お借りしましたよ」
 そしてそれを放ると、そのまま彼は研究所の中に入ってしまった。慌ててカードを受け取った警備員は、ようやく劉にいつの間にかカードを掏られていたのだということに気付いた。しばらくそこに立ち尽くしていた彼は、用心深くカードを仕舞い込み、会釈する劉にお辞儀を返しながら持ち場に戻った。
 劉は研究所の天井を見上げた。つい最近設置されたばかりの監視カメラがのんびりと首を振っている。そのレンズと目が合った劉は、思わず笑顔で手を振って見せた。どうせ異常がなければ、数時間で記録は抹消される。
 かつかつとリノリウムの床を歩いていると、突然手前のドアが開いた。そしてそこから、病院の医療助手の韓がくたびれた姿でよろよろと出て来た。
 「韓さん、こんばんは」劉が声を掛けると、ようやく彼は顔を上げて弱々しい笑顔を向ける。「あ……劉さん。どうかしましたか?」
 「ちょっと調べたいことがあったんです。韓さんは?」碧眼を細めて劉は言った。
 韓はぐったりとしながら答える。「検査結果貰いに来たんです。……凄いもんですよ、壊滅状態です。ことごとくやられてました」
 そして腕を伸ばした。その先に握られた紙束を受け取り、ざっと劉は目を通す。ずらりと国家要職の名が並び、その隣の欄に軒並み『陽性』の判子文字が押されていた。ぱらぱらと紙を捲ると、『陽性』の診断を下された者の中には要職者の夫人の名前もあった。当然と言えば当然なのだが、と劉は思いつつ苦笑いを噛み殺す。さて、実際に夫から伝染されたのはどれくらいいることだろう。
 ふと韓の向こうから、もう一つ見覚えのある顔が覗いた。陽気を装った毒舌が響く。
 「来年の国家予算には、国葬費用を大幅に組み入れなきゃな。遅くても半年後にはお偉いさんが全滅だ」
 「金さん、こんなところで何やってるんですか?」
 劉の言葉に、鼻に眼鏡を引っ掛けながら金は頭を掻いた。いつ見てもくたびれた姿をしているので、彼はあまり普段と変わりなく見える。「えへへー、サボり。劉公主もさぼったら?」
 「僕はちょっと調べ物があるんです」おっとりと劉は言った。金はうんざりとしたように舌を出した。「真面目だねえお姫様」
 「かく言う金さんこそ、何だかんだ言って検査のお手伝いをなさってるんですね」
 金は少し驚いたような表情を浮かべた。笑いながら劉は言う。「試薬が白衣に着いてます」
 慌てて自分の服装を検める金を見て、更に劉は笑い声を上げた。「冗談です。図星だったみたいですね」
 「カマ掛けたのか劉公主、上等だ」遅れ馳せに金は笑う。ようやくいつもの彼らしい表情に戻った。
 「それじゃ」劉はぺこりと頭を下げた。「僕は部屋にいるんで、用があったらいつでもそこに繋いで下さいね。仮眠室の代わりにはなりませんが、コーヒーくらいならお出し出来ます」
 二人とも、疲れた顔に嬉しそうな表情を浮かべた。そして金は再び部屋の中に戻り、韓は廊下に出て来て劉と反対方向へと向かって行った。
 金は昨夜も検査で走り回っていたし、韓は今日一日で病院と研究所の間の百メートルを何往復したことかわからない。廊下を擦れ違う人々も、一様に疲れ切った顔をしていた。恐らくこの病院及び研究所に勤める全ての人々は、未だかつて体験したことがない事件に忙殺されている。
 階段を上り、廊下を何度も曲がり、研究所の中でも最も奥まった部屋の前で劉は立ち止まった。ドアには『立入禁止』の札が掛かっているが、構わず劉はドアノブを捻る。部屋の中には整然と並んだファイルと大量の実験サンプルが並んでいた。――この部屋で、劉はずっとウイルス兵器の開発を行って来ていた。
 彼は顕微鏡を手早くパソコンのディスプレイに繋ぐと、部屋の中に雑然と置かれたファイルの中から一枚の紙を取り出した。そして自分の手帳も白衣のポケットから取り出し、その中に挟んであった薄いフィルムのような物を顕微鏡に載せた。ディスプレイに大写しに人間の指紋が映る。それのピントを合わせると、劉はファイルから取り出した紙からやはり一枚のフィルムを剥がし、顕微鏡に載せる。画面に二つの指紋が並んだ。
 劉は、マウスを使って二つの指紋を重ね合わせて見た。――見事に二つは一致した。
 片方は、あのJ―815を盗まれた日にこの部屋の中に残されていた不審者の指紋、そしてもう片方はついさっき採取して来たばかりの、あの亜麻色の髪を持った飛竜の指紋。既に予測していたこととはいえ、このようにして確かめてみると少しだけ驚いた。
 しばらくディスプレイを睨んでいた劉は、不意に深紅の唇を綻ばせた。「あなただったんですね」
 そして劉は、ガラス張りの冷凍庫の中にずらりと並んだ試験管に目をやって、優しい声で言った。「あなた達をきちんと理解してくれた人、ようやく見付けましたよ。よかったですね、凄く綺麗な人です」
 パソコンのディスプレイ画面は、じりじりと何か不思議な音を立てていた。


 窓の外に夜景が広がった。平壌ほどの華やかさも、生臭い活気もない灯かりではあったが、国境地帯に比べると格段に賑やかな雰囲気を持っていた。
 程なくして、電車はソウル駅に入った。さすがに南側の最大都市なだけあって、駅はひどく広かった。電車はそこで五分間ほど停車する、と言うアナウンスを聞きながら、大花は荷物を網棚から下ろした。正しくは、小魚に下ろさせた。
 「あんたは、一人でも大丈夫?」色のない声で大花は言った。けろりと小魚は頷く。「……もしかしてタイホア、寂しいとか」
 「何馬鹿言ってんの」けらけらと大花は笑い声を上げた。「ベルからもあんたからも解放されて、目一杯羽根が伸ばせるわ。まあ、頑張って来るからラジオのニュースにでも注目してなさいって」
 明るい調子につられて、小魚もくすくすと笑った。「羽目を外し過ぎないようにね」
 大花は、席から立ち上がったままぞろぞろと電車から降りて行く人の流れを眺めていた。怪訝に思いながら、小魚は彼女を見上げる。「タイホア、早く降りなくてもいいの?」
 「平気よ、まだごちゃごちゃしてるもの。最後にゆっくり降りるつもりなの」そう言いながら彼女は、手摺りに身体を預けて腰に手を当てた。
 見上げた彼女の横顔は、彼と寸分の狂いもない。吊り上った形のよい眉、大人びた切れ長の瞳、細い鼻梁にやや薄めの唇、卵型の細面を覆う少年のように短く切った髪の毛。――それなのに、どきりとするほど色っぽかった。
 色っぽいなんて思ったのは、初めてだった。
 車内の客は降り尽して、今度は新しい乗客がぞろぞろと乗り込んで来た。やっとの思いで小魚は口を開く。「……行かなくって、いいの?」
 「落ち着いたら降りるわよ。あ、やっぱりあんた寂しいんだ」からかうように大花は言った。小魚は敢えてそれを無視する。視野の端で、大花が少しだけ俯くのが見えた。
 と、不意に大花は小魚の腕を引っ張った。「荷物持って降りるの、手伝いなさいよ」
 いつもの調子で言われて、慌てて小魚は立ち上がる。そして自分の手荷物を席に置くと、姉の荷物を抱え上げた。彼女の荷物は、着替えを大量に入れているせいか他の誰の物よりも重かった。
 リノリウムの床で滑らないように気を付けながら、小魚は先を行く大花を追い掛けた。そして両開きのドアからホームの隙間に落ちないように飛び降りる。荷物の重みが腕にどしっと圧し掛かった。
 ドアの脇に丁寧に荷物を置きながら彼は姉の方を振り向く。「ここでいい……?」
 次の瞬間、彼は目を見開いた。睫毛が当たりそうなほどの至近距離に鏡――ではなくて大花がいた。互いの鼻の頭と鼻の頭がぶつかり、思わず顎を上げた瞬間に唇が当たる。余りにも近過ぎて大花の表情は見えなかったが、自分自身の表情も皆目見当が付かなかった。
 慌てて彼は顔を引いた。そして顔が真っ赤に火照るのを感じながら、目を反らす。
 「た……タイホア!?」横目でちらりと彼女の表情を見ると、姉もまたひどく慌てている様子だった。そしてしばらく目を泳がせた後、ぴしりと言う。「シャオユウ、あんたが悪いんだからね!」
 「え?」
 大花が何か言おうと口を開いた瞬間、ホームにベルの音が鳴り響いた。発車の合図だと気付くや否や、小魚は電車のドアのところへ飛び乗る。
 大花がまだ口を動かしているのは見えたが、よく言葉が聞き取れなかった。「……な、何? よく聞こえな……」
 「――よ、シャオユウ」不意にベルの音が鳴り止んだ。もう一度訊き返そうと口を開き掛けた瞬間、空気の抜けるような音と共にドアが閉まって行った。思わず小魚は窓に手を突く。窓の向こうで黄色っぽい明かりに照らされた大花は何か言っていたが、全く声が聞き取れなかった。
 やがて、電車は緩やかに動き始めた。大花の姿が遠ざかるので、反射的に小魚は目で追う。彼女はその場から動きもせずに、ただいつものような笑顔を浮かべて手を振っていた。
 次第に小さくなる姿を、彼はぼんやりと眺め続けていた。


 電車が見えなくなってから、大花はようやく荷物を持ち上げた。普段抱え慣れていないだけに、腕に重さが堪える。大花は、ふんと鼻を鳴らしてから自分の足元に目をやった。いつもと同じ、細いピンヒールのミュールを履いている。それなのに――。
 本当は弟をからかうつもりだった。鼻の頭にでもキスしてやって、慌てて真っ赤になる様子を見るつもりだった。それなのに、鼻の頭に当たるはずだった唇は弟の唇にぶつかってしまった。本当なら、高いヒールの靴を履いている自分の方が背は高いはずなのに――予想外に、小魚の身長が高かった。きっと、靴を脱いで並んだら今の自分は弟に背を抜かれている。
 ずっと、同じ背の高さだったのに。幼い頃からずっと、同じ身長だったのに。
 「……あんたが勝手にあたしよりおっきくなってるから、悪いのよ」
 薄明るいホームの雑踏の中、一人で大花は小さく呟いた。
 誰も聞く人のない声は、喧騒の中で掻き消えた。


 「畜生、何で俺までこんな目に」ぼやくように、トラックのハンドルを握る全は言った。
 助手席の楊は決まり悪そうに肩をすぼめる。「……だからごめんって」
 スピーカーから、無線の声が聞こえて来た。全がそのボリュームを上げる。「急いだ方がよさそうだ。あんまりのろのろしてたら、途中で立ち往生する羽目になるぞ」
 「それにしても珍しいよな、こんな季節に台風上陸だなんて。八月に入ったら普通、大和列島に流れてるはずなのに」幸い、全は余り愚痴を長引かせる性分ではないらしいので、何となく楊は調子を合わせる。
 青屋根御殿に侵入者を許してしまった警備兵二人は、罰として中央警備を外されることになった。思いの他に優しい刑だったのでほっとしたのも束の間、彼等が命じられた赴任先は、台風が接近中の羅州だった。鎮圧するようなものは何一つない地域だが、毎年その周辺の町村のどこかは河川の氾濫で水浸しになる。要するに、その辺りの住民の世話をしろと言う意味らしい。場合によっては、土木工事まで請け負うことになりそうだ。
 そして今二人は、今回の台風で必ずや出るであろう被害に合わせて救援物資を積み込んだトラック共々南に下っている最中である。
 「……でも、まあ有意義な仕事ではあるよな」
 おもむろに全は口を開いた。楊は彼の横顔を盗み見る。
 ひとりごちるように全は続けた。「滅多やたらに亡命者を撃ち殺すよりは、一般市民の救援の方が幾らか気分的にはましだ」
 「さすがは全大佐、って感じだな。今時南の市民まで視野に入れてる軍人なんて、あの人程度しかいないよ」それは本心だった。
 ふと顔を上げると、横目で全は笑っていた。「当ったり前だろ、俺の伯父貴だぜ」
 つられて楊も笑うと、横から伸びて来た腕に思い切り頭を押さえ付けられた。「お前まで笑うなって」
 笑いながら楊がもがいていると、あ、と小さな声を上げて全は手を放した。そしてワイパーをフロントガラスに走らせる。窓にぽつぽつと潰れた水滴が当たり始めていた。


 いつしか、窓の外は雨になっていた。そう言えば台風が近付いていたんだっけ、と小魚はぼんやり考える。考えなければならないことは山ほどあるのに、今は何も考えたくなかった。
 そう言えば、どこで降りるかも決めていない。どんな風に叛乱を起こすか、どうやって戦うか、誰を巻き込んでしまうのか、どれほどの被害を出すのだろうか、頭は考えなければならないと言うのに、心がそれを保留にする。
 だが、まず始めに決めねばならなかったことは強制的に決定させられた。ただでさえ鈍行の列車は次第に速度を落として行き、乗客の大半が寝静まってしまった頃には完全に動かなくなってしまったのだ。
 寝付けずに窓の外を眺めていた小魚は、その放送に真っ先に気付いた。
 『当特急木浦(モクポ)行きは、台風十四号の影響により次の羅州(ナジュ)駅で臨時停車致します。しばらく運転を見合わせることとなりますので、乗客の皆様にはご迷惑をお掛け致しますがご協力下さい。繰り返します……』少し吃音のある声が、スピーカーから流れ出していた。
 丁度いいや、と小魚は思った。どちらにしても台風が過ぎ去るまで動けないのなら、そこに留まって行動をすればよい。考える手間が省けたというものである。
 窓の外にはほとんど明かりのない漆黒の闇が広がり、ただ窓ガラスには雨粒が激しく打ち付けられていた。未踏の羅州はひどく田舎のような予感がしたが、別に大花と違って田舎を厭う性格でもない小魚は荷物を網棚から下ろし始めた。
 (結構早かったな)
 何となく意外な気がした。街頭放送等の情報だと、確か台風は今頃まだ済州島の辺りにいるはずではなかったか、とぼんやりと思った。
 繰り返される放送に目を覚ました乗客が騒ぎ始めた頃には、小魚はもう荷物を纏め終えていた。
 窓の外を見ると、既に横殴りの豪雨がガラスを叩き付けていた。


 羅州駅はひどい騒ぎになっていた。足止めを食らった人々が駅員に殺到している。その脇を何とか潜り抜けながら、小魚は表へ出ようとした。
 だが、改札付近を抜けると駅構内には一陣の人々とは異なる性質の人々が何十人もいた。服はずぶ濡れで、大抵大きな荷物を枕に横たわっている。起きている人間もその場に坐したまま、放心したような眼差しを空中にさ迷わせていた。頭を廻らせると、まだそういう人々は続々と駅に入って来ている。
 よく注意してみると、彼等の大半は旧式の携帯ラジオをぶら下げており、そのどれもが台風情報を唾まで吐きそうな勢いで捲し立てていた。どうやら台風の一端は予定よりも早く、半島に上陸したところらしい。と言うよりも、台風の規模がここへ来て大幅に拡大してしまったらしかった。台風の中心部はまだ予定通り済州島にいると言う。
 ようやく小魚は気付いた。(この人達、ここを避難所にしているんだ)
 彼がこの国の北部で生活していた頃、南部すなわちこの地域の情報はほとんど入ってこなかったが、それでも噂で台風の被害が大きい地域だとは聞いていた。台風の上陸自体は東の大韓海峡に面した慶尚南道地方の方が多いが、そこには半島南部第二の大都市釜山がある。つまり、それだけ人の手も入りやすく、整備が加えられているのだろう。
 それに引き替え黄海周辺のこの地域は、頻繁に台風が接近する地域ではないのだが、皮肉なことにその結果河川の整備なども後回しにされるらしかった。またこの半島の地形の都合上、東側を掠めた台風は東海(日本海)へと逃げやすいのだが、一度西側に入ってしまった台風はなかなか東側に反れ難いようになっている。
 もう一度小魚はざっと人の姿を眺め渡した。老人もいるし子供もいる。家族連れもいれば、一人で肩を抱えている者もいる。皆身形はあまり裕福そうではなく、表情にも不安の色が濃い。小魚は荷物を担ぎ直した。(場合によったら、テロどころじゃなくなりそうだ)
 彼は、駅構内のコンビニで安い半透明の雨合羽を買うと、それを羽織って駅の外へ出た。外は既に、嵐の様相を呈していた。


 楊と全は、羅州市内の高台にある軍事基地にトラックを入れた。降車するや否や横殴りの雨水を叩き付けられ、慌てて合羽を着込んだときには既に軍服が絞れそうなほどずぶ濡れになっていた。
 そして、駆け出してきた担当官から荷物の積み下ろしを手伝われながら、彼から労いの言葉を受ける。
 「今は猫の手も借りたい状態なので、心底ありがたいです。今度改めて全大佐にはお礼の方をお送りしなくては」訛のない言葉から察するに、この担当官もまた大分前に中央から派遣されて来ていたようだった。何となく二人はほっとする。
 「いえ、我々も任務ですから」荷物を積み下ろしながら楊は言った。風で声が掻き消えそうになるので、自然怒鳴るような口調になってしまうのが申し訳なかった。
 と、全が『缶詰』と書かれたダンボールを滑車の上に置きながら尋ねる。「なあ、あれ何だ」
 基地の担当者は、吹き付ける雨で顔に張り付いた髪の毛を掻き揚げながら言った。「ああ、あれは砂袋です。堤防の一部が決壊しそうだと言うので、応急処置に」
 中央派遣の二人の兵士は顔を見合わせた。「堤防が決壊!?」
 こともなげに担当者は言った。「よくあることなんですよ、この辺だと。そろそろ住民も適当なところに避難させないと」
 「そろそろってあんた……」瞠目する二人の前で、きょとんとした顔をしながら担当の男は言う。「だって、まだ台風はこれからが本番ですよ。これは台風の爪先に引っ掛かった程度ですから」
 慌てて楊は尋ねた。「政府の方は、何らかの処置を行わないんですか? 堤防を強化するとか、避難所を整備するとか……」
 不意に、目の前の男は凍て付くような眼差しを向けた。「何もしてくれないから、わたし達がしているのではありませんか。軍人と違って、政府官僚は一般市民と無縁の境地にいるんです。だから何もしてくれない。今じゃ、新しい信号を一つ立てるのでも、市民とわたし達で資金集めから始めなければならないんですよ。――昔はここまでではなかったのですがね。北は、そうではないのですか?」
 二人は唖然とした。南の惨状はしばしば聞かされていたが(そして最後は必ず『南の同胞に比べて何と我々の恵まれていることか。これも全て偉大なる総統陛下のご威光なのだ』と締め括られていた)、まさかここまでとは考えても見なかった。そもそも、よく考えてみれば二人とも生まれてこの方首都平壌を離れたことがなかったのだ。幾ら何でも、そこではきちんと全てが整備されていた。
 不遇な少年時代を過ごした楊はそれでも何とか納得したが、名家出身の全はいよいよ信じられないと言った、茫然とした表情をしている。
 「ともあれ、物資の援助は何より助かります」皮肉ともつかない口調で担当者は言った。そのずぶ濡れの両肩を、二人は同時に掴む。
 「俺達は、何をすればいいんですか」異口同音に二人はがなった。嵐に掻き消えない声だった。


 小魚は、しばらく町を歩いてみることにした。だが、強風の中では思いの他に移動し辛い。我ながら後先鑑みない行動を取ったものだ、と嘲笑を噛み殺しながら、彼は周囲を見渡した。深夜にも関わらず、妙な熱気に包まれている。異様に賑やかな感じがするのは、避難する人々の喧騒ゆえなのだろう。だが、何故かわくわくする感じを止められなかった。
 (そう言えば)小魚は、人の波を逆流しながら思った。(偶に台風が来たら、タイホアも母さんも物凄く張り切ってたっけ)
 停電になったら、きゃあきゃあ言いながら蝋燭を引っ張り出してテーブルの上に飾っていた。その内大花が歌を歌い出して、それを聞き付けてアパート中の人々が集まって来て、皆で乾パンや缶詰を開けて大騒ぎをしていた。そして皆騒ぎ疲れて眠ってしまって、目が覚めたときには台風はどこかへ行ってしまっていた。それがいつものパターンだった。
 ――それが二度と叶わない幻想だと、小魚は自分に言い聞かせた。もうあのアパートはどこにもない。あの母はどこにもいない。あのアパートの隣人達さえ、今はもうどこにいるかわからない。どれが一つ欠けても叶わないのに、もうほとんど彼の手には残されていなかった。ただ残ったのは、自分自身とその半身。
 小魚は頭を振った。弾みにフードが脱げて、あっという間に髪の毛がずぶ濡れになった。(いい加減感傷に浸るのはよせって。自分で選んだ道じゃないか)
 そう、信じることも生きることも逃げることも、全て自分で選んだ道。そして今、助ける為に戻って来たことも自分で選んだ。いつも誰かにかこつけてはいたけれど、結局は自分自身で選ぶことを決めた道だった。――だからこそ今、あの姉とすら離れてこんなところにいるのだ。
 小魚は逆風の中で顔を起こした。ふと前方を見やると、軍部の合羽を着込んだ若い兵士が赤色灯を振って人々を誘導している。何となく小魚はほっとした。ここではどうやら、軍が災害救助をきちんと行ってくれているらしい。アメリカではごくごく普通のことだったはずなのに、ここではそんな些細なことで安堵を覚える自分がおかしかった。
 彼は、またフードを被り直しながら早足に歩き出した。今日はあまり大きな荷物を持ってうろついていても怪しまれないので、素知らぬ顔で素通りすればテロ犯だとは絶対に見表されない。かえって好都合だったな、と小魚は考えた。
 ふと、兵士の脇を通り過ぎるときに声を掛けられた。「避難所は向こうだよ」
 小魚は顔を上げて微笑む。「あ、家に忘れ物をして。すぐに戻ろうと……」
 目があった瞬間に、時間が凍り付いた。兵士の顔には見覚えがあった。
 向こうも覚えがあったらしく、一瞬で表情を強張らせる。「お前」
 次の瞬間、小魚は荷物を揺すり上げると全力で人波を逆らって駆け出した。兵士が何か叫ぶ声が聞こえたが、振り向いてやるゆとりなんかない。足元で飛沫が跳ねる感触はあったが、気にするどころではなかった。
 (何でこんなところにいるんだよ!?)雨と風で窒息しそうになりながら、小魚はそう考えた。


 「何でこんなところにいるんだよ!?」全は、駆け付けた楊に向かってそう叫んだ。「何であいつが、こんなところに」
 楊は赤色灯を受け取って振りながら言った。「いいから落ち付けって。誰がいたんだ、誰を見たんだ」
 ふと子連れの母親がすみません、と尋ねて来たので、楊はそちらに対応しようとしていた。
 全は、憮然としながら言った。「あいつだよ――官邸に侵入した、双子の女中の片割れだよ!」
 「ああそうなんですか……あ!?」楊は思わず振り向いて目を剥く。「何でこんなところにいるんだよ!?」「俺が知るかよ!」
 「あ、あの……」母親がおずおずと覗き込んで来たので、我に帰った二人は取り敢えず愛想笑いを繕いながら対応した。親子連れは頭を下げながら遠ざかって行った。
 楊は、首を振って雨粒を払いながら言った。「取り敢えず、探した方がいいだろう。もしかしたら、昨夜からのテロと何か関係があるかもしれない。だとしたら最悪だ」
 小さく舌を打って、全は腰から下げた無線機を取った。そして羅州基地に手短に報告を入れた。


 ほとんど人気のないところまで来ると、ようやく小魚は足を止めた。完全に息は上がっている。振り向くと、誰も追い掛けてきている様子はなさそうだった。
 彼はやれやれとコンクリート壁に手を突いた。どちらにしても、もうこれ以上荷物を抱えて走ることは出来ない。
 突風に煽られて壁にしがみ付きながら、小魚が朦朧とする頭で考えた。(どうしてあの兵士が……平壌にいたんじゃなかったのか?)
 寄りにもよって、最悪の相手と顔を合わせてしまったものだ。恐らくすぐにでも緊急配備を敷くだろうから、これで公共の交通機関を用いてこの町を脱出することは出来なくなった。どころか、台風が去った後は迂闊に動くことも出来なくなるかもしれない。
 (――動くなら、今ってことか)小魚は目に腕を押し当てて目を閉じた。そして大きく息を吐く。(いい加減荒れてると思うんだけど、ここ。これ以上どうしろって言うんだよ)思わず内心でベルにぼやく。
 そろそろ動けるか、と思い、小魚は壁沿いに手を突いて歩き出した。まだ膝ががくがくしていたが、何とか歩けそうだ。
 ふと、自分の手がコンクリートの隙間から伸び出した雑草を掴んでいることに気付いた。ようやくまじまじと彼は壁の正体を眺める。それは、恐ろしく背の高い堤防だった。どうやらその上は道になっているらしい。
 小魚は堤防に階段を見付けて、その上によじ登った。そして川面を見下ろす。どうやらその川は元々天井川だったらしく、すぐに真っ黒な濁流が目に入った。時々何か大きな物を押し流して行くのが見える。その水面は、堤防の縁ぎりぎりまで迫っていた。
 慌てて小魚は空を見上げ、腕にはめた時計を見た。まだ夜明けには時間があり、空は荒れ果てて真っ暗だった。だが、それ以上に冷たいものが彼の背中を走る。(まだ、台風が直撃するのはこれからだろ!?)
 再び彼は川を見下ろした。下流に近く川幅が随分あるにも関わらず、水嵩を増した濁流はごうごうと波を逆巻きながら流れている。これ以上雨が続けば、堤防が溢れるのは時間の問題に思われた。そして、一旦水が溢れ出すとこの堤防はとても耐え切れそうにない。そのまま切れてしまうだろう。
 ほとんど飛び降りるように小魚は堤防から降りた。そして首を廻らせる。ふと遠くで、民家の明かりが仄見えた気がした。ますます小魚は瞠目する。目を擦るが、明かりは消えない。大粒の雨の間で少し揺らめいているように見える明かりが、確かに一軒の家で輝いていたのだ。
 高台の方と民家の方を何度か見比べた後、彼は荷物を放り投げて民家の方へと走った。
 ――急がなければ、間に合わなくなる。


 楊と全の前でてきぱきと作業をしているのは、さっきまでの担当者ではなかった。もう少し年輩の、権という女である。制服を着ていないので、もしかしたら自警団のような組織の人間かもしれない。
 彼女は無線を取り、ノイズだらけの報告に「了解。気い付けえや」と返事を入れた。そして二人の方を向き直る。「ぼちぼち堤防が切れそうじゃって」
 「大丈夫なんですか?」不安そうに尋ねる楊の肩をばんばん叩きながら、権は言った。「あんたが不安そうな顔してどないすんの。別にここが水浸しになっても、平壌のあんた等の家は多分大丈夫じゃけ、安心せえ」ひどい方言混じりだが、何の皮肉も含まれていない調子だった。
 そして、油性ペンのキャップを口で外すと手元のボードに色々と書き込んだ。避難者数とその地区をチェックしているらしい。字は掠れてまともに読める代物ではなかったが、本人に解読できれば問題はないようだった。「よし、福洞地区はだいたい集まったな。後は勧告出した地域なんじゃけど、聞こえたかな」
 楊は言った。「もう一度放送要請を出して来ましょうか」「頼むわ。今度はエンドレスで流すように言うといて」そう言われて、さっと楊は駆け出す。
 全も何か仕事をと探していると、権は再び無線機を取った。「……え? 七畝集落が来とらん?」
 七畝集落には全も聞き覚えがあった。避難して来た人々から口々に同情の念が寄せられている地区だったのだ。いわゆる貧民部落に近いものらしく、国からの配給も他に比べて少ないらしい。その為町に出て来る経済力もないので、ほとんど自給自足に近い生活を送っていると聞いていた。しかし同情の声は多いのだが、だからと言って何か具体的な援助をしている人もほとんどいないようだった。恐らく、そこまでのゆとりが誰にもないのだろう。
 咄嗟に全は言った。「俺、その地域に行って避難命令出して来ます」
 踵を返した瞬間、彼は腕を掴まれた。思いの他に強い力で引っ張られて、彼は前につんのめる。「おえん。あんたは武道場の人達の炊き出しを手伝っといて」
 「どうしてですか」食い下がる全に、彼女は悲しそうな目の色を浮かべた。「多分な、堤防が切れたらあそこが真っ先に水没すんの。大事な戦力減らす訳にゃいかん」
 じれったそうに全は反論しようとする。「でも」
 「ラジオ局に避難命令を出させる。後は間に合うよう祈っといて」そう言うと、権は辛そうに目を閉じた。「ほとんど老人しかおらん地域なんじゃ。自分等が危ないって一番ようわかっとるはずなのに」
 しばらく全は逡巡していたが、結局軍事基地の武道場へ足を向けた。自分自身も何もかもが腹立たしく、知らずの内に水溜りに踏み込んでいた。


 集落に辿り着いた小魚は、その光景に思わずぞっとした。とても人が住んでいるとは思えないような萱葺きのあばら家が累々と立ち並んでいたのだ。その、今にも吹き飛びそうな家の一軒から、ぼんやりと揺れる明かりが漏れていた。それを小魚が思わず幽霊ではと疑ってしまったのにも、無理はなかった。
 庭先に背の高い作物を植えた廃墟のような家の脇を擦り抜け、小魚は明かりの灯った一軒の前に立った。そして扉を探し、叩こうかどうしようか躊躇う。
 と、扉の向こう側から微かな歌声が聞こえて来た。女の子の、明るい楽しそうな歌声。次第にそれに、何人もの老人の声が加わって行った。風の音に掻き消されそうな、それでも楽しそうな歌声。
 小魚はノックしようと固めた拳を、そのまま扉に押し当てる。そして額も押し当てた。俯くと、髪の毛からぽたぽた水が垂れた。
 「誰かおるん?」不意に扉の向こうから声がした。今更ながら慌てる小魚の目の前で、軋む音を立てて扉が開く。
 「ああ、こんな嵐の中お客様じゃ。早よ入り下せえや」中から、腰の曲がった老女の笑顔が出て来た。
 おずおずと小魚が足を踏み入れると、その中は大きな一間になっていた。中央の台の上では何本もの蝋燭が光り、それを囲んで十人を越える人々が腰を下ろしていた。ほとんどが老人だが、ある老爺の膝の上に一人だけ子供がいるのが見えた。多分、さっきの歌声の主だろう。
 小魚がおずおずと頭を下げると、やや若い老爺が声を上げた。「お若えの、そんなところにおらんとこっちに来いや。こんな台風で、難儀しなさったろ」
 一斉に労うような声が上がり、人々は皆小魚のことを手招いた。
 「ああ、びしょじゃなあ。わしの爺さんのでよかったら着替えぇや」出迎えてくれた老女が言った。しばらく俯いていたが、意を決したように小魚は言った。「あの、もうじきあの堤防が溢れます。早く避難して下さい」
 一瞬家の中を沈黙が包んだ。小魚は息を飲み、繰り返す。「ここは危ないです。早く……」
 「おにいちゃん、こっちきてえ」中央の女の子が、小魚のことを手招いていた。少し躊躇って視線を廻らせると、隣の老女が頷く。彼は雨合羽を腕から剥がし、苦労して靴を脱いで、遠慮がちに家に上がった。床には筵のような敷物が敷かれていた。
 女の子が尚も手招くので、小魚は会釈しつつ彼女に近付く。彼女を乗せた老人の周りの人々が席を空けてくれたので、小魚は爪先と膝を付いて座った。
 「おきゃくさんじゃなあ、めずらしいなあおじいちゃん」「ほんま珍しいなあ。よかったなあデファ」彼女をあやすように、老爺は膝を揺する。
 「あの……」小魚が再三口を開こうとすると、隣の老人がそれを遮った。「せっかく来てもろうたのに悪いんじゃけど、わし等ぁ逃げん」
 穏やかだが、きっぱりとした口調だった。周りの老人達も、同意するように首を曲げる。
 たじろぎながら小魚は説得する。「でも、このままここにいると皆流されてしまいます」
 「避難したって、わし等生きれんもん」ぼそりと一人の老婆が言った。え、と小魚は声を上げる。
 老婆は、健気なほどの明るさで言った。「わし等の米も、台風のせいで皆駄目になってしもうたん。それに、ここが流されてしもうたらわし等の蓄えとった食糧も皆のうなってしまう。そうなったら、どっちにしてもわし等生きれんもん。餓えて死ぬくらいじゃったら、流されて死んだ方がええ。あっという間じゃ」最後の方は、それでもぼそぼそと愚痴るような調子になった。
 人々を見回しながら、小魚は言う。「でも、避難所では救援物資も配給されてるし……」
 「それじゃって、すぐにのうなってしまうわ。そうなったらわし等、飢え死にするしかねえもんな」別の老人が言った。更に別の老女が口を開く。「じゃったら、わし等の食い扶持分を他の人に回してもろうた方がええ。わし等はもうええ、充分生きた」「そう、もうええんじゃ。生きんでええわ」
 女の子が再び歌を唄い始めた。誰とはなしに、その歌声に声を重ねる。やがて静かな大合唱になった。外では轟音を上げながら風が吹き荒れているのに、この家の中は穏やかで、どこか夢の中のようだった。
 思わず小魚も歌を口ずさみ掛けていた。ここにいれば、一人で死ぬことはない。何も怖くない、そんな気がした。――ここには、もう彼がなくしてしまったものが沢山あった。二度と手の中に戻らないと思っていたものがあった。このままここにいればいい、ここにいれば何もしなくてすむ。苦しまなくてすむ。何よりも、もうずっと一人になることはない、それはひどく魅力的な誘惑だった。
 ぼんやりと小魚は蝋燭に照らし出された人々を見た。皆、平穏そのもののような表情をしていた。何だか、台風自体が嘘のような気がしてきた。ここは本当に羅州なのだろうか、実は開城のアパートではないのだろうか。歌を一通り唄って、眠って、目が覚めたらまたいつもの日常に戻っているのではないだろうか。
 おもむろに彼は、蝋燭の下に目をやった。纏められた食料の脇に置かれた徳用の大きなマッチ箱――。
 小魚は突然、冷や水をぶっ掛けられたようにはっとした。違う、あれは自分達の家には絶対にない。
 彼の家にあるのは、母の店の名前が刷り込まれた小さな紙マッチだ。そもそも停電や災害の少ない開城で、あんな大きなマッチ箱には需要が無いのだ。
 ここは自分達の家ではない、ここは夢の中ではない。
 「――この子も、道連れにするんですか」
 不意に水を打つように小魚は言った。一斉に歌が止む。
 更に詰め寄るように小魚は続けた。「この子まで死なせるつもりなんですか」
 外で、何か倒れる音がした。何かが転がって行くような激しい音もした。だが、家の中はしんと静まり返っていた。
 口を開いたのは、あの女の子だった。「し・な・せ・る?」
 「のうのうさんになってしまうことじゃよ」彼女を抱えた老爺が言った。ようやく腑に落ちたらしい女の子は、小さな掌を顔の前でぱちんと合わせる。「おとうちゃんとおんなじじゃ。のうのうさん、あん」それは多分、亡くなった人に手を合わせる仕草なのだろう。
 ぽつりとその老爺は言った。「先の短い老いぼれは、心配で心配でならんのんじゃ。わし等がおらんようなったら、この子はどうなるんじゃ。おとうは死んで、おかあは出て行ってしもうた、この子は誰が面倒みるんじゃ」
 小魚は唇を噛んだ。自分が見る、と喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。無責任なことは言えない。幾ら自分が面倒を見たくても、これから自分は犯罪者にならなければならない。いや、もう既に犯罪者なのだ。彼は俯いた。
 「……それでも、この子は生きなきゃいけません」
 やっとの思いで小魚は言葉を絞り出した。
 「途中で放棄するのはもっての外だし、誰かに――例え台風にでも、お爺さんにでも、政府にでも、死なされちゃいけません。一旦生まれてしまったら、どんなに不毛だと思っても絶対に生きなきゃいけないんです。生きることは、権利じゃなくて義務なんです」そこまで言って、彼は言葉を詰まらせた。母親や、かつてのクラスメイトの顔が目の前をよぎった。彼等は死んだ。生きなければならなかったのに、死んだ。
 頬を伝う涙の熱さを感じていたら、目の前に女の子の顔があった。心配そうに覗き込んでいる。「おにいちゃん、どしたん。どっかいたいん?」
 小魚は首を横に振る。顔中が引き攣ったようで、表情を思うように動かせなかった。
 「なら、今からでも間に合うかいの」老婆の声がした。小魚がぱっと顔を上げると、老人達が彼と女の子のことを囲んでいた。誰かが水を切った雨合羽を小魚に被せる。別の誰かはありったけの食料を詰め込んだ袋を女の子に押し付ける。
 女の子をずっと抱えていた老人が言った。「デファを、この子を、生き延びさせてくれるかい?」
 「お爺さん達も……」嗚咽混じりに小魚が言うと、彼等は静かに首を振った。もうこれ以上、食い下がる気力は小魚には残っていなかった。黙って立ち上がり、女の子を抱え上げる。
 不安そうな顔をする彼女の髪の毛に掌を載せながら、老人は言った。「デファ、今度からお前は、爺ちゃん達にも『のうのうさん、あん』しておくれ」
 「おじいちゃん、のうのうさんになるん?」拙い口調に、老人は静かに頷いた。
 「急がんと危ないで」靴を突っ掛ける小魚を、老女が急かした。「わし等、鶏がらの代わりにはなっても砂袋の代わりにはなりそうにねえからの」明るい笑い声が響いた。
 小魚は戸口で一回振り返り、大きく頭を下げた。皆笑いながら手を振っていた。くるりと踵を返すと、彼は走り出して二度と振り返らなかった。
 外は真っ暗な闇だった。深い深い、飲み込まれそうな闇だった。
 多分後ろでは、いつまでもいつまでも老人達が手を振っているだろう。


 雨足は更にひどくなっていた。風も強い為、小魚でもしばしばよろける羽目になった。目の前も真っ暗で、街灯の明かりもろくにない。道なんてどこにあるかわからなかったが、それでも急がなければならなかった。
 「きょうてえ、きょうてえ」上りの坂道を、息を切らせながら上っていると、抱えていた女の子が遂に泣き出した。泣き喚くときまで方言なのは、少しおかしかった。
 女の子をぎゅっと抱き締めながら小魚は言った。「大丈夫、きょうてくないよ、きょうてくない」
 言葉の意味はよくわからなかったが、ずっとそう言っているとようやく彼女は落ち着いた。彼の服にしがみ付いて、ひっくひっくとしゃくりあげるだけになった。
 「デファ、って言ったよね。どういう字を書くかわかるかな」どうも字の読み方にも地方色が強い感じがしたので、小魚はなだめるように尋ねた。彼女は小さな声で答えたので、初めはよく聞き取れなかった。もう一度小魚は尋ねる。
 女の子はぼそりと言った。「おっきなおはな。きれいなこになれゆうて、おじいちゃんがつけてくれた」
 一瞬小魚は足を止めて、彼女の顔を覗き込んだ。「大きなお花?」「うん」真っ赤に腫れた大きな目で、女の子は小魚を見上げた。
 「いい名前だね」小魚がそういうと、小さな大花はにっこりと笑った。
 と、その瞬間背後で激しい水音がした。
 振り返りそうになる自分を鼓舞して、再び小魚は、よろめきながら走り出した。


 楊が気付いたとき、全は合羽の裾を風に弄られながら、町中が見渡せる基地の門扉のところに立っていた。その視線の先にあるのは、溢れて様々なものを押し流す氾濫した川。その水際は、見ている前でもじわじわと広がって行っていた。
 ふと、全が言った。「あの辺に、七畝集落があったらしいんだ」
 片手を伸ばして、溢れた水に真っ先に飲み込まれた辺りを指差した。楊は顔を拭ったが、あっという間にまたずぶ濡れになった。
 「結局、間に合わなかったんだな」隣に立った楊が言った。しばらく二人で黙り込んだまま、文字通り水浸しの光景を見下ろしていた。
 避難する人々は武道場に収容され尽くされ、不安な夜を過ごしている。下から避難してくる人々はもういない。さっきまで楊は武道場の中の人を一人一人確認して回っていた。もしかしたら、あの侵入者がいるかもしれないと思ったのである。だが、結局他にも駅や学校等に避難所はあるので、そっちに流れた可能性が高いなと結論付ける羽目になった。一応念の為にその辺の公安にも注意を払うよう呼び掛けたが、今のところ何の音沙汰もなしだった。もっとも、そちらの方はあまり期待していた訳でもなかったが。
 まだこれからが本番の風雨は激し過ぎて、救出作業の為に動くことさえままならなかった。二人ともじれったくて堪らず何度も飛び出そうとしたのだが、権に引き止められて諦めざるを得なかった。悔しかった。
 ふと全は、激しい風雨と闇の間に動く人影を見た気がした。思わず鉄の門に齧り付いて身を乗り出す。
 「……おい、あれ人間じゃないか?」恐る恐る全は尋ねた。楊もつられて身を乗り出す。
 「よく見えない……」「やっぱり人間だ!」やや興奮した調子で、全は言った。そして慌てて閉ざされていた門扉を押し開ける。
 「あ、見えた!」楊もようやく人の形を確かめた。「間違いない。生存者だ!」
 思わず駆け寄ろうとした二人は、基地の巨大な照明灯に照らされた人物の顔を見て再び立ち尽した。そして唖然とする。
 あの、見覚えのある顔。しかも同じ顔を同時に二つも見せられたのだから、忘れようがない。
 顔や髪に泥をこびり付かせ、ぼろぼろに裂けて用をなしていない雨合羽を肩から引っ掛けたその人物は、二人を睨み付けるようにゆっくりゆっくりと坂道を上って来ていた。今にも倒れそうなほどふらふらで、風が吹くたびに大きく身体を傾がせる。肩で息どころか、全身で息をしているような有様だった。
 咄嗟に銃を構えた楊も、思わず銃口を下ろしてしまった。そして一歩ずつ近寄って来るその人物を、茫然としながら見守る。二人の様子に気付いた数人の兵士や自警団員が駆け寄って来て、同様に色を失った。
 その人物はようやく門のところに辿り着くと、がくりと膝から崩れ落ちて地に手を突いた。そうなってから慌てて楊と全は再び銃を構え直す。
 「ちょっと待って……」ぜえぜえと荒い息の間に、その人物は言った。周囲に緊張が走る。と、あの犯人は身体中に貼り付いた雨合羽を剥がすように脱いだ。羽織っているだけだったので、案外あっさりとそれは脱げた。そしてそのずぶ濡れの背中から、小さな女の子を下ろす。「この子だけは……助けて」
 楊と全の間から、権が顔を覗かせる。「あんた……七畝のデファ」「おばちゃぁん……」女の子は泣きながら権にしがみ付いた。
 その子をなだめながら、権は尋ねる。「他のご老体は?」
 ぼろぼろの人物は、俯いたまま思い切り首を横に振った。その場の全員が痛ましそうな表情を浮かべる。
 と、楊と全の銃を収めさせながら権は言った。「ああ、でもデファだけでも助かって何よりじゃ。あんたも奥で休み」
 がくがくと頷くと、女の子を担いで来た人物は、今度は自分が他の兵士に担がれて医務棟へ運ばれて行った。
 後にはさっきと同じ、茫然とした楊と全が残された。だが、やむなく彼等は門扉を閉じると、それぞれに割り振られた持ち場に戻った。


 クレアが顔を上げると、バーグナーはどうやらパソコンのディスプレイと睨み合っているようだった。余りにも険しい表情をしているので、声を掛けるに掛けられない。
 仕方がないのでクレアは、自分のデスクのパソコンに彼の画面を無理矢理引き込んでみることにした。ロックを掛けている訳でもなかったので、簡単に映像は取り込めた。(……天気図?)
 余り目に馴染んでいないあの半島の地図の上に、渦巻状の白い図が被さっていた。日付を見る限り、どうやら現在の韓半島の天気図らしい。(タイフーンが来てるんだ……でもまさか)
 まさか、これがバーグナーをあれだけ動揺させた『大変なこと』の正体だとは思えなかった。もっときっと深刻で大変なことのはずだ。
 あのどこか部下と距離を置く編集長は、一体どこまでの情報を掴んでいるのかは教えてくれなかった。だが、それはいつものことなので慣れている。そこから先を推測するのが、実はクレア・パーマン達優秀な部下の最も重要な課題なのだ。
 (どうして編集長はあれだけ動揺したんだろう。何が編集長をあそこまで動揺させたんだろう)
 ふと彼女は、鼻を鳴らして空気の匂いを嗅いでみた。まだクレアが研修時代だった頃、バーグナーはとんでもないスクープを掘り当てて来たことがあった。どうしてわかったのか、と言うクレアの問いに彼は「匂いがしたんだよ」と笑って答えたのだ。それを思い出して、何となく鼻を澄ましてみたくなったのだ。――無論、何の匂いもしなかった。
 まだクレア・パーマンは、大きな特ダネを当てたことがない。匂いを嗅ぎ当てたことがない。そんな自分がじれったかった。もしかしたら今、バーグナーはあのときのような匂いを誰よりも早く嗅ぎ付けたのかもしれない。そう思うと、悔しかった。
 (……あれ?)不意に彼女は画面を覗き込んだ。そして天気図を拡大してみる。更に全国降水量のグラフも並べて映してみた。その上、半島の地形図も並べてみる。何か、引っ掛かるものがあった。調子の悪いパソコンのように、頭の中でかりかり引っ掻くような音がする。何度も全てを見直して、ようやく彼女は腑に落ちた。
 彼女は髪の毛を掻き揚げて立ち上がると、バーグナーのデスクの前に立った。そして、舌足らずの調子で言う。「編集長、韓半島はもしかして、今年食料飢饉になるんじゃありませんか?」
 バーグナーは顔を上げる。「どうしてそう思う?」
 クレアはバーグナーの机の上にあった半島の地図を広げる。「台風、上陸してるんですよね今。推定降水量も南西部は凄いことになってるみたいですし。その辺って確か、網の目みたいに河川が沢山あって、しかもあの半島の食料庫的地域でしたよね」
 「台風が上陸するのは、常のことだろう」不機嫌そうに万年筆を下唇に当てながらバーグナーは言った。
 諦めずにクレアは続ける。「確か半島南部の主食って、米と雑穀なんですよ。どちらも収穫を間近に控えて、大きな打撃を食らったことは間違いないんです。おまけに今の季節だと、もう在庫も底を突いて来ているはずです。今の季節に収穫が終わってる作物って言ったら麦くらいですが、これは地理的に見ても半島北部が主な収穫域です。総収穫量もあまり期待できる量ではないと思うんです。――だとしたら、韓半島は飢饉になりますよ」
 不意にバーグナーは顔を上げた。そしてクレア・パーマンの顔を見て微かに笑う。
 「いい推理だ。だが、もう少し補足することも出来るよ」クレアは目を瞬かせた。
 頷いて、バーグナーは手の中で万年筆をくるくる回す。「君は、全韓共和国を既に一つの国家と見なしているね。だが、分断されていた国家が統一されても、しばらくはそのしこりは強く残る。特に、双方の差が大きければ大きいほどね。――現在、あの国を牛耳っているのは完全に元北部の人間だ。南にそこまでの力は残っていなかったのだから当然だね。問題はその先だ。北側にはまだ辛うじて食い繋いで行ける状態だが、南側は完全に八方塞、かと言って南に愛情のこもった腕を差し出せば北も立ち行かなくなる恐れがある。そんな状態でどこまで政府の連中が援助を行うと思う?」
 クレアは音がするほど強く上下の瞼を叩かせた。言われてみれば至極もっともなのだが、何故だか自分が同じ情報を捏ね回しているときには微塵も出て来なかった意見だった。
 バーグナーはディスプレイに目をやって何かメモを取りながら、穏やかに言った。「かのマダム・イーグルが采配を振るっていた時期に中華全土が飢饉に見舞われたことがあったらしいのだが、彼女の勢力内では餓死者が出なかったと言われている。同年の国民政府圏内は、記録的な大飢饉になったと言うのにね。天災は避けようがないが、その被害を大きくするのも小さくするのも人の手腕だ。場合によっては人災にもなり得るのだよ。――君は、いいところに目を着けた。もう一息だよ」
 クレアはかあっと頬を真っ赤にした。褒められたのが嬉しかったのではない、まだまだ不十分な推理をバーグナーの前で堂々と披露してしまった自分自身が恥ずかしくてならなかった。
 彼女は上司に挨拶をすると、そのまま自分の机に置いてあったいつ淹れたかも知れないコーヒーに口を付けた。何だか、ひどく苦かった。


 目が覚めたとき、小魚は清潔なシーツが敷かれたベッドの上にいた。はっと上半身を起こすと、軍の紋章が入った大きめのシャツに着替えさせられている。
 慌てて彼が左右を素早く見渡すと、ベッドの右隣にさっきまで着ていた服が洗濯されて吊るされていた。そしてその下にプラスチックの籠があり、中にはポケットに入れっぱなしにしていた通信機が置かれていた。今まで一度も使った物ではなし、第一壊れているだろうとは思ったが、あるだけで何となくほっとした。
 「よお、女中。気分はどうだ」
 ふと声のした方に目をやると、町の中で見掛けたあの兵士がそこに立っていた。思わず小魚は及び腰になる。
 その兵士は笑い声を上げた。「別に取って食いやしないよ。処刑命令だって下っちゃいないんだし」そして大股にベッドサイドに寄って来る。
 はっとして小魚は尋ねた。「デファは!? あの子はどうしてる!?」
 途中からの記憶がほとんどないことに気付き、急に不安になって彼は身を乗り出した。
 笑顔のままで兵士は答えた。「こら、この通り。ぴんぴんしてる」
 そして自分の背後に手を回した。彼のズボンに掴まって、大花はちょこんと顔を見せた。小魚はほっと胸を撫で下ろす。
 「おにいちゃん、いとうない?」ベッドによじ登りながら、大花は心配そうな顔で見上げた。思わず小魚は微笑む。「大丈夫、もう平気だよ」
 口の悪い兵士は言った。「そりゃ、あれだけ寝腐ってりゃ大丈夫だろ。もう台風も北上して、じきに水も引き始めるさ」
 「え」慌てて小魚は身体を起こす。そう言えば、あの激しい風雨の音はもう聞こえない。窓を探して首を廻らせると、すぐ背後に小粒の雨を打ち付けられている窓ガラスを見付けた。もう空も大分明るくなって来ている。
 おずおずと小魚は尋ねた。「晴れたら、俺はやっぱり平壌送りですか?」「訊くな。俺達が悪役になるだろうが」兵士は首をすくめた。
 少しだけ小魚は肩を落とす。「そうですね、それが当然なんだから」
 兵士はきょとんと首を傾げた。「あのさ、念の為に訊いておくがお前、総統官邸に侵入したんだろ?」
 「はい。告白すると、開城市で放火行為を行ったのも俺です」隠しても仕方がないと思い、小魚は言った。兵士はますます怪訝そうな顔をした後、弾けたように笑い出した。訳がわからない小魚と膝の上の小さな大花はきょとんとするばかりである。
 ひとしきり笑った後、兵士は言った。「お前気に入った。滅茶苦茶気に入ったぞお前。ってえことは何だ、俺達は女装したお前に騙されてみすみす侵入を許しちまったって訳だ」
 そして不意に、真面目くさった声を出した。「ところで、一緒に入って来たもう一人の女中と舞姫は一体何なんだ。今どこにいる? まさかと思うが、あの二人も男だったなんてことはないだろうな」
 小魚はくすくす笑った。こんな状況で、こんな相手を前に笑える自分がかえって不思議だった。「二人ともれっきとした女の子ですよ。女中は俺の双子の姉で、舞姫は元クラスメイトです。あ、言っておきますがどこにいるかは言えませんよ。わからないんです、実質問題。俺なんかよりもよっぽど男らしくて行動力がありますから、多分少々のことじゃ止まりません。俺を人質に取ったくらいじゃどうにもならない相手です」ここまで饒舌になるのは我ながら珍しいなと思った。どうやら、自分の方もこの兵士のことは気に入ってしまったらしい。
 「まあ」兵士は踵を返しながら言った。「まだ中央にはお前のことを報告していない訳だし。その気になれば何とかなるさ。今は飯の心配でもしてりゃいいよ」
 そして、思い出し笑いのような声を上げながら部屋を出て行った。
 大花はその後姿を見送った後、小魚の顔を覗き込む。「おにいちゃん、もうええん?」この子の言葉にはやっぱり慣れないな、と苦笑しながら小魚は頷いた。「大丈夫だよ。ごめんね、心配掛けたね」
 「あのなおにいちゃん、ここおぶつだんがねえんよ。わい、どこで『のうのうさん、あん』したらええとおもう?」口を尖らせるように、彼女は言った。
 小魚は微かに表情を歪める。彼の表情に全く頓着せずに、少女は続けた。「んとな、おとうちゃんとおじいちゃんらぁみーんなはいれなおえんしな、そんなでぇれえぼっけぇおぶつだんあるとおもう?」
 小魚は曖昧に首を傾げた。所々通訳が欲しいが、何とか意味を察してみた。「お仏壇はなくても構わないと思うよ。デファがお祈りしたら、きっとお爺さん達には届くと思うよ」
 「それじゃおえんのんよ!」癇癪を起こしたような声を大花は上げた。「そしたら、おじいちゃんらぁはどこにおるん!?」
 小魚は彼女の短い髪の毛に掌を載せる。「多分ね、どこか遠い遠いところにいるんだよ。でもきっとデファのことは見ていてくれるから……」
 「どうして」膨れっ面で大花は懸命に主張した。「あのなおにいちゃん、おじいちゃんらぁはのうのうさんになったんよ。のうのうさんになったらなあ、わいらにみえんほどちいそうなってなあ、おぶつだんのなかでくらすんよ。おにいちゃんしらんのん」
 不意に小魚は虚を突かれたような表情になった。この子にとって死とは、まだそんなものでしかない。だからこそ、こんな風に平然としていられるのだろう。――それでは真実を知ったとき、彼女はどうするのだろう。
 大花は心配そうに小魚を覗き込んだ。ふと小魚は、上目遣いの表情がひどく姉の大花に似ていると思った。「どしたん、おにいちゃん。なかんといてや、どっかいたいん?」
 そして、背中に掛けていた袋を開けるとそれをごそごそ言わせ始めた。「はらへったん? これ、おそなえにしようおもっとったんじゃけど、たべる? わいこんなにたべれんし、おみずもようのまんのんよ」
 彼女は布団の上に五百ミリリットルのペットボトルと湿気たビスケットの箱を並べた。慌てて小魚はそれを仕舞わせる。「駄目だよ。今はいらなくても、しばらくしたらお腹が空いて来るだろ。新しいご飯は次いつ手に入るかわからないんだよ」
 大花は不思議そうな顔をしたが、取り敢えず言うことに従うことにしたらしい。「それじゃ、さきにおそなえする。どこにおぶつだんあるかのう」
 そしてしばらく部屋の中を見回した後、薬を置いてある棚を見付けて駆け寄った。「おにいちゃん、ここおぶつだんににとらん? ちょっとだけのうのうさんにはここでがまんしてもらお」そう言いながら、一番低いところにある自分の手が届く段に食料を広げた。
 実は北部ではずっと信教が禁止されていた為、小魚は仏壇を見たことがなかったのだが、取り敢えずベッドからのそのそと降りた。そして大花の隣に並ぶ。
 「どうやればいいの?」
 「んとな、ちーんをならして、てぇあわして、『のうのうさん、あん』するんじゃけど……ちーんないからこれでええわ」
 彼女は小さな薬鉢を出して、擂り棒でそれを打ち鳴らした。それから小さな掌をぱちんと打ち合わせる。「おにいちゃんもてぇあわせて、せーの、『のうのうさん、あん』。ほれ、おにいちゃんも」
 少し笑って、小魚も手を合わせた。「のうのうさん、あん」
 そして、思い付く限りの全ての人を祈った。


 全が炊き出し場に行くと、楊は四苦八苦しながら燃料に火を着けていた。「よっ、燃えてるな」
 「湿気てて火の着きが悪いんだよ」ぶすっと楊が言うので、全はけらけらと笑った。「お前が燃えてるってことだよ」
 「茶化しに来たのかよ。お前の持ち場はどうしたんだ」楊は無愛想にだが振り返った。全は言う。「飯寄越せ。あの侵入者目を覚ましたぞ」
 「罪人にくれてやる程、食料にゆとりはないんでね」
 不機嫌そうな表情を浮かべる楊の脇から、全は手を伸ばした。「粥あるじゃないか。さすがに幾ら犯罪者でも飯抜きはまずいだろ」
 「米はもうじき切れるんだよ」楊は全の手の甲を払った。全はきょとんとした顔をする。「……って、最初に俺達が持って来た奴は?」
 「この避難所がどれだけ人間抱えてると思ってるんだよ」苛立ちながら楊は言う。「元々ここにあった非常食はあまり期待出来る量じゃなかったし、個人が持って来たのも高が知れてる。俺達が持って来たのだってトラック一台分。全部合わせて五日、持って一週間しか賄えない。新しい援助は道路が繋がるまでは無理だし、復旧が進んだところで本当に援助がくるアテなんてどこにもない。って言うか多分期待出来ない。その上、食糧を買おうにもここには資金がまるでない。今年の農作物は南部一帯壊滅らしいし、経済的な復旧はもっとずっと先だ。こんな状態でどうしろって言うんだよ!」
 一息に言い切って、その後肩で息をする楊を全は茫然と眺めた。「お前、ずっとそう言うこと調べてた訳だ」
 楊はこめかみに指を当てると、抑えた声を出した。「最悪、餓死者が出るぞ。事態は深刻なんだ」
 「悪い、認識甘かった」思わず全は謝った。溜息を吐きながら楊は言った。「俺もちょっと余裕なくなってる」
 と、不意にそこに子供の声が響いた。「わい、ごはんでぇれぇあるとこ、しっとるよ」
 はっとして二人が振り向くと、そこには小さな女の子と、彼女の手をつないだ少年が立っていた。楊は色を為す。「お前……」
 「すみません、処罰は後回しにして下さい」落ち着いた声で少年は言った。全が何か言おうとしてふと迷い、後ろ頭に手をやりながら言う。「ごめん、お前何て名前だっけ」
 「シャオユウで構いません」小魚は言った。
 そして彼は少し屈むと、大花に向かって言った。「さあ、デファ。このお兄さん達にも教えてあげて」彼女はこくんと頷く。
 舌足らずの調子で、彼女は始めた。「あのな、おじいちゃんがいっとったんじゃけどな、まちのすみっこに『たちいりきんし』のとこあるじゃろ。あそこな、わいらがみーんなおなかいっぱいたべれるごはんあるんじゃって。んでな、えらいおっちゃんらぁがすんどってな、けちじゃけえな、ごはんひとりじめしとんよ」
 大花が顔を見上げたので、小魚は笑顔を向けながら彼女の頭に掌を載せた。そして彼は再び正面に向き直る。「確かこの辺りだと、有力者の住宅区は一般市民の立ち入りを禁止するようになっていましたよね。そこには食料があるんじゃないんですか?」
 「ど……」「それはどう言う返事を期待しているんだ、シャオユウ?」何か言い掛けた楊を遮って、全が口を開いた。
 「まさかとは思うんだけど……って言うか、それって持ち掛ける相手が間違ってる気がするんだけど」
 「いいえ、多分最善の方法を最善の相手に持ち掛けていますよ」小魚はにっこりと笑って見せた。ひどく自信に満ちている感じがする。「立入禁止区域の警備は、軍部が行っているんですよね」
 「お前さ、お前の仲間のこと言えないほど無茶苦茶な奴だぜ」溜息混じりに全は言った。
 ふと背後で声がした。「あら、先を越されてしもたなあ」
 見ると、何人かの男衆を引き連れた権が立っていた。
 「わし等だけでも動こ思っとったんじゃけど。人手は多い方が嬉しいわあ」彼女は歯を見せて豪快に笑う。「血の気が余っとる若いのがよぉけおるけん、そいつ等にも収集掛けたるわ。飢え死にするよか、ぱーっと暴れて死んだ方がましじゃもんなあ」
 全は楊の方を向いた。彼は不機嫌そうな顔で頭をくしゃくしゃ掻いている。
 諦めて全が口を開いた。「仕方ねえ、俺だけでも……」「食糧管理係、俺なんだけど」着火材をぽんと投げ捨てて、楊は立ち上がった。「あーあ、絶対大佐にばれたら殺される。これどう大目に見ても謀叛だよな」
 「俺の伯父貴だっつーの」全は破顔して、楊と小魚の頭を両手で掴んだ。ぐしゃぐしゃと二人は頭を掻き混ぜられる。
 かくして、ここに腹を減らした寄せ集めの義兵団が結成されてしまった。


 ――その前夜、まだ台風の余波が羅州に吹き荒れていた頃のことになる。
 「遠路遥々、ありがとうございます、全司令官」出迎えの兵士等は一斉に敬礼をした。軍用ヘリから降りながら、全秀漢大佐は空を見上げる。既に風は激しい唸りを上げていた。
 「済州島から黄海沿岸はどうなっている。甚大な被害が出たとの報告だが、救援活動の方はきちんと行えているのか」かつかつと硬質の音を立てながら、大佐はヘリポートを建物へ渡る。現地の責任者は少し目を泳がせながら言った。「はっ。ただ、何分物資が不足しておりまして……」
 「報告書を纏めろ。わたしから中央に報告を入れて、国庫を開けさせる」素気無く彼は言った。声が届いた兵士等は一斉に顔を見合わせる。軽い一瞥を流して、大佐は押し開けられた扉を潜った。
 階段を降りる大佐の脇にくっ付いた現地員が、怪訝そうに尋ねる。「あの、それは一体。今までになかったことで……」
 「事情が変わったのだ。人災を起こしたくなければ、わたしの言う通りにしろ」それきり大佐は口を噤んだ。
 平壌の総統官邸に何者かが侵入し、旧国境地域である開城を周辺にテロが頻発している。そんな状態であるにも関わらず、官邸――文官等が行動不能の今、事実上の権力の中枢に位置している弓秘書官達は、全大佐に南征せよとの辞令を下した。大佐自身、瀬戸甫民率いる王朝派テロリストの扱いに関しては随一だという自負がある。そこで彼は、逆に大人しく平壌警備から退くことにした。
 長く彼は、テロリストの鎮圧を請け負って来た。だからこそ彼等の実力も魂胆もよく知っていた。迂闊に力尽くで抑え付けようとすれば、彼等は必ず反発する。じわじわとプライドを削ぐようにして、地道に行動を封じるのが彼等には最も有効であり、大佐はそのセオリーに従った戦い方をいつも用いて来ていた。
 それが文官等の好みに合わないのだろう。殊更弓は、侵入者の一人と見られる施氏の少女を捕縛することに血道を上げていた。逆に言えば、それは大佐の趣味ではなかった。――しかし、むざむざとテロリストの横行を眺めるだけなのも、文官等の暴走に手をこまねいているのも楽しいことではないが、もはや命令を下された以上、大佐の任を負っているとは言え逆らう術はなかった。
 そこでやむなく彼は、すぐに別の仕事に着手したのだった。今回の台風は、まさにとんでもないタイミングでやって来た。収穫期の寸前、食料の蓄えが最も少ない時期に今年の実りを根こそぎ薙ぎ倒して行ったのだ。その上、現在北部の国家要職はことごとく倒れ、内政が混乱を来し人民の生活にまで目が行き届かない状態に陥っている。
 旧南鮮共和国の終末期は、中央機構が破綻を来してほぼ各地方の自治体制になっていた。その状態で飢饉が起これば、もはや国の援助も抑圧も忘れた民衆が組織化して暴動を起こすのは火を見るより明らかである。北部の王朝派テロリストに加え、南部の民衆までが暴動を起こせば、もはやこの国は崩壊する。
 それだけは食い止めなければならなかった――それが、彼の任務だった。
 大佐は、向こう傷のある眉間を寄せた。「施氏め……」
 あまりにも馬鹿げた考えだとは思いつつ、大佐にはこの台風さえあの少女が呼んだもののように思えた。或いはあの幽閉された若い皇帝だろうか。中央官僚をことごとく壊滅させた、禍根の少年が呼んだものだろうか。
 (――天が、奴等に味方したのか……?)
 ひどく不吉な予感がした。もしも彼等と対決することになったらひどく部が悪いような、そんな気がした。予感を振り切るように彼は首を大きく振った。


 大花はふと、街頭テレビの前で足を止めた。
 夕方のニュースの時間らしく、画面の中では大写しのアナウンサーが耳慣れないイントネーションでニュースを読み上げていた。真っ先に流されたのは台風情報で、どうやら羅州周辺で大きな被害を出した台風はそこから急速にペースを落とし、今夜頃にようやくソウルを襲撃するつもりだと言う。
 大花は表情を曇らせた。昨夜から何度も小魚に連絡を取ろうとしたのだが、見事に通じない。故障しているのではと思いベルにも連絡を入れてみたら、彼女にはあっさりと通じて、しかも『絶対に壊れてない』と太鼓判まで捺されてしまった。何度も八つ当たりコールをベルに入れている内に、向こうが鬱陶しくなったのだろう、通じなくされてしまった。
 結局のところ、自分は寂しくて心細いだけなのだと気付き掛けた彼女は、慌ててそれを打ち消そうと試みた。だが、意地でもベルにくっ付いていればよかっただの小魚と一緒に行けばよかっただの思い浮かべてしまう自分は、やはり単に寂しいだけなのだろう。
 大花は悄然としていた。更に、台風の影響でどんよりとした空の色や重苦しい突風のせいで、更に気が滅入る。
 次にベルに連絡が付いたら、いっそ拝み倒してでも彼女に同行しようか、等と考えていると、アナウンサーは次のニュースを読み出した。そして大花は、思わず顔を上げた。
 『本日昼過ぎに、偉大なる我が国のテロリスト対策総本部司令官全 秀漢大佐がソウルに到着されました。大佐は台風十四号の影響による南部諸地域の被害を憂慮なさって、その援助の為に平壌からご来訪下さったものです』そして画面には、何やら見覚えのあるホテルに入る軍人等の姿が映し出されていた。
 見覚えがあるはずだ、ここからそう遠くない、ついさっき前を通り掛ったホテルである。振り向けば幾つもの低い建物の影に、そびえる姿がここからもよく見える。
 何となく大花は踵を返し、そのホテルに足を向けた。何の指針もなかったから、試しに行ってみようと思ったのかもしれない。もしもそこを襲撃したら大騒ぎになると思ったのかもしれない。何を考えて自分はそこを目指すのだろうと考えて、やはり自分は寂しいのかもしれないと彼女は結論付けた。同じ北部から来た、敵対する人間に妙な共感を覚えているらしい、どうも。
 「何か文句ある?」風にあおられる髪の毛を押さえながら、大花はひとりごちた。
 そして不機嫌に続ける。「『別に』はどうしたのよ、シャオユウ」
 ここにもまた、嵐が近付いていた。




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