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第七夜


   アーサー・ジョセフ略歴
  1878年12月、イギリス・コーンウォール生まれ。オックスフォード大学経済学部卒業後、当時の英外相ドレッド・オスワルドの秘書として勤める。1902年、全世界へ向けて大規模な外交官派遣が行われた折、中華の乾朝へ派遣される。王朝の崩壊に伴い翌年帰国、その後乾朝での見聞を本著『東洋異聞』に纏め1910年に出版。その後、アメリカ富豪ステュワート家の養子に入る。外交官・実業家としてのみならず、優れた芸術作品も多数残し、1992年アメリカ・オハイオにて没。没後10年の今尚、彼の作品により中華への憧憬を募らせる者は多い。

(『東洋異聞』2002年改訂版著者紹介)

   第七夜



 その美術館は、思いの他に大きかった。
 白壁を持った独特の形の建物は、どうやら手奥にも何棟か続いているらしい。綺麗に低木が植え込まれている庭に、何故か一本だけ楠が立っているのが目を引いた。
 (――こんな北部なのに育つんだ)
 クレアは、こぢんまりとした駐車場に車を停めた。キーを捻ると、車内を満たしていた音楽がすっと消滅する。彼女はそのまま車から降りて、思い切り背伸びをした。休みなしで五時間運転して来たので、背骨や腰がばきばきと鳴った。
 そのまま仰け反りながら、クレアは周囲の風景を見渡した。上下が逆になった風景だが、さほど違和感がない。深緑の森に遮られた上下にあるのは、真っ青な湖水と真っ青な空。どちらも静かに凪いでいた。穏やかな風は、街とは打って変わった爽やかさを乗せて渡り、彼女の頬を撫でた。夏の間中、この場所でこうして仰け反ったまま避暑をしていたいような気分にさせられる。――少々頭に血が上るのを我慢できるなら。
 と、建物の影から人影が出て来たので、慌ててクレアは姿勢を正した。その拍子に解れた栗色の前髪が顔の前に落ちてきたので、慌ててそれを撫で付けると、出て来た人影はくすくすと笑った。
 相手は五十がらみの背の高い女性で、ふわふわしたブロンドを肩口で切り揃えていた。手には箒と塵取りを持っているので、恐らくこの美術館の関係者だろう。クレアは言葉を探しながら尋ねた。「あの、今日はここを観覧させて頂けますか?」
 「ええ、大丈夫ですよ」にっこりと笑いながら、彼女はクレアの車の隣にある看板を指差した。クレアが振り向くと、そこにはひどく質素な『トマニ・ミュージアム』の文字と会館時間が書かれていた。クレアはほっと胸を撫で下ろす。
 箒を持った女性が建物に入ろうとしたので、クレアは彼女に付いてポーチの階段を駆け上がった。あまり新しい建物ではなさそうだが、綺麗に管理が行き届いている感じがした。
 そのまま女性が中に入ろうとしたので、慌ててクレアは肩掛けバッグを漁りながら、舌っ足らずで尋ねる。「あの、入館料は……」
 訝しげに振り返った女性は、くすくすと笑いながら言った。「結構ですよ。お金は頂いていませんから」
 きょとんとして立ち尽くすクレアに、女性は奥へ行き掛けて呼び掛けた。「いらっしゃい、案内致しますよ」


 甫民は、ラジオの音量を更に上げた。デイビーが聞き耳を立てるので、老人は微かに笑って言う。綺麗な発音の英語だった。「大丈夫だよ、あなたの思い人がどうこうなっている訳じゃない」
 若い運転手は、見透かされたと言うように苦笑して頭を掻いた。
 『……台風情報をお知らせします。現在北上中の大型の台風十四号は、未明には済州島に上陸するものと見られています。沿岸部の方は、津波に御注意下さい。なお、今後の進路は……』
 不意に、デイビーは車を減速させながら路肩に寄せた。次の瞬間、まだ動いている車の後部座席の扉が開き、夜明け間近の一番深い闇と同じ色の人物が滑り込んで来た。
 「只今」そして闇の化身はばたんと扉を閉じる。デイビーは、ミラーで彼女の姿を確認すると再び車線に戻った。
 甫民は、ふと思い出したようにベルに尋ねた。「あなたは、市役所に火を掛けたかい?」
 振り仰いだ汗だくの少女は、鬱陶しそうに服の胸元を肌蹴させた。清純そうなお下げ髪と、あまりにも仕草や表情が似つかわしくない。「やってないわよ、そんな面倒臭いこと」
 彼女は脇にバッグを放り出した。中に火薬が入っているので、甫民が拾い上げてそれを確認する。
 「……放火?」車内を漁りながらベルは尋ねた。甫民は、バッグの中を検めながら頷く。「税務署とほとんど同時刻に、市役所が炎上したそうだ」
 「ふうん」ベルは、ようやく見付けたミネラルウォーターのボトルを捻る。頭から被りそうな勢いでそれを飲み干すと、腕で唇を拭いながら彼女は言った。「……よくやるわ、このくそ暑いときに」
 『……只今入りました情報によりますと、開城市内の黄道南道道庁でつい先程不審火が上がった模様です。昨夜から開城市内で起こっている一連のテロ事件と何らかの関係があるものと……』
 ラジオの女性の声は、人を苛立たせるような早口で捲し立てた。ベルが目を瞬かせる。「ああ、噂をすれば」


 「ところで、お客様はどちらから本館のことをお知りになられたのですか?」おもむろに案内の女性は、上品な物腰で尋ねた。
 バッグからバーグナーに借りた本を取り出しながら、クレアは言う。「えっと、この本でアーサー・ジョセフ氏に興味を持ったんです。それで、調べて見たらこちらが……」
 「まあ」女性はにっこりと微笑んだ。気品のある笑顔は、まさに美しく年を重ねたという雰囲気だった。「父の著作を。本当にありがとうございます」
 クレアは目を見開く。「父!?」
 「申し遅れました」女性は、箒を片付けながら言った。「わたくし、アーサー・ジョセフの娘の、ジェラルディン・ステュワートと申します。どうかジェリーとお呼び下さい」
 口をぱくぱくさせながら、クレアは彼女を見た。「え……だって、アーサーは前世紀初頭に……」
 非礼にも気付かず、彼女は口走った。確かアーサー・ジョセフは1878年生まれなのだから、その子供でもそろそろ天国のドアからのお迎えが来る頃である。だが、彼女はどう見ても五十前後にしか見えない。
 ジェリーは、口許を押さえて優雅に笑いながら言った。「父は、結婚が遅かったものですから。一番下の弟は、彼が八十近くになってから生まれたくらいですし」
 そしてしばらく愉快そうにくすくすと笑う。クレアはますます呆気に取られながらジェリーを眺めていた。
 どうやら、あの本の著者であり同時に主人公である彼は、やはり常識を持って掛かってはいけない人物らしい。


 弓は、険しい表情でステレオのヘッドホンを耳に押し当てていた。じっと耳を凝らしながら、計器の描く波線に視線を注ぐ。そして、手元のファイルを開いた。
 『――それがプログラムの本当の狙いではないかしら、Mr.リュー?』
 『よく出来ました。それでこそ教師泣かせのセニャンだ。その銀のメッシュも伊達ではないな』
 彼はもう一度巻き戻して、同じ箇所を聞く。『――それがプログラムの本当の狙いではないかしら、Mr.リュー?』『よく出来ました――』
 ふと、背後の扉がばたんと開いた。弓は小さく舌を打つが、何も言おうとはしなかった。
 「弓、何やってるんだ。そんなことしてる場合じゃ……」早口に捲し立てようとするスーツ姿の男を、弓は鋭利な目で睨み付ける。
 「そんなこと? わたしは、今最も優先すべき事項を行っているつもりだがね」
  ぐっとたじろいで、男は言った。「そんな……もしかしたら、国家の存亡さえ関わり兼ねない事態なんだ。君は曲がりなりにも、総統陛下の右腕としての任務を……」
 「わたしは、わたしに与えられた任務を忠実に遂行するのみだ。総統官邸に侵入した者の身元を割り出すのが、現在わたしに与えられた任務だよ」淡々と事務的に弓は言い、再びファイルを開いた。「邪魔しないで頂きたい」
 『要するに、あたし達は自分の素性を上手く隠したつもりでも、国にはずっと前にバレてたってことよ』
 弓は、軽く舌を打ってテープリールを巻き戻す。そして、まだドアノブに手を掛けたまま立ち尽くしている男に向かって背中で言った。「まだ何か?」
 男は、口惜しそうに乱暴な仕草で扉を閉めた。
 弓はすらりとした長身を折って、ファイルをぱらぱらと捲った。そして録音内容を再生する。『――それが、プログラムの……』
 彼は、分厚いファイルのページを繰る指を止めた。そこには、一人の女子高等学生の顔写真が貼り付けられた書類が挟まれていた。少しあどけなさが残る顔立ちと、余りにも鋭利な瞳、そして長い黒髪に一筋入った銀色のメッシュ。そのページをファイルから取り出して机の上に置くと、今度は別のページを開いた。
 そこに貼られた写真の学生は、書類によると男性となっている。だが、写真に写っているのは恐ろしく整った中性的な顔立ちと、亜麻色の長い髪の毛の美し過ぎる人物。そのページも、彼はファイルから取り外して机に載せた。
 「侵入者は、『遊び組』の舞姫に扮していた……」弓は、そのとき官邸正門を警備していた兵士から聴取した内容を反芻した。そして、机の上に広げた書類に目を落とし、胸ポケットから取り出したペンで書類に小さな文字を書き込んだ。「……間違いない、この声だ」
 ヘッドホンから、声が漏れる。『――ただ、一つだけ腑に落ちないの』
 弓は、小さく頷いて呟いた。「本当に蝉が好きなら、何故あんな顔をしていたんだ――セ・カンメイ」
 そして不意に目を細めると、ペンを高くかざしそれを勢いよく振り下ろした。
 ペン先は、少女の鋭い双眸の間に深々と突き刺さった。


 クレアは、きょろきょろと左右を見渡しながら奥へと歩いて行った。現代的なポップな絵画から、打って変わった清らかな水彩画まで、幅広い画風の絵が無数に並ぶ。
 ジェリーの話だと、その多くはアーサーが不遇な貧乏画家達から買い取ったものらしい。表立ってパトロンとなるのは自分も相手も嫌だと言うことで、気に入った作品を一点ずつ纏まった金額で買い取って売買の仲介をしていたと言う。とは言っても、画廊に並べてそれ等が売れることはまずないから、結局はほとんど持ち出しだった、とジェリーは苦笑した。
 「それでも、例えばこの方は陽の目を見ることが出来たのですよ。未だに父の命日には、トラック一台分の花を贈って下さります」
 そう言いながら笑って指差した絵には、可愛らしい子供が描かれていた。そのサインを見てクレアは瞠目する。「……フィリップ・アルバート!?」
 現代美術界で、おそらく一番の人気を博している画家の作品だった。複製リトグラフの展示会を見に行ったことはあるが、クレアも肉筆の作品を見たのは初めてだった。
 思わずクレアはホール一杯に張り巡らされた絵画を見渡した。そう言えば、どこかで見たようなタッチの絵が幾つもあった。そんな彼女の様子を眺めながら、ジェリーが穏やかな声で言う。「他にも何人か、脚光を浴びるようになった方はおられます。――それでも父は、皆変わらない実力の持ち主だと申しておりました。成功するかしないかはあくまで運次第だ、とね。無名のままだった方にも、成功した方にもそのように申しておりましたよ」
 クレアは、まじまじとジェリーを見詰めた。そして、彼女の背後にあのアーサーの幻影を見た気がした。彼女はしばらく茫然とした後、溜め息を吐く。
 「凄い方だったのね、アーサー・ジョセフ氏は」
 「ただのお爺ちゃんでしたよ」ジェリーは事も無げにそう言った。淡いブロンドがふわりと揺れて、綺麗だった。
 「さて、それでは父アーサーの作品も見て頂きましょうか」彼女は、端正な身のこなしで奥へと向かって行った。


 「ここは、アーサーの作品の展示室です」ジェリーが観音開きの戸を引いた。その瞬間、クレア・パーマンは、思わず茫然と立ち尽した。そしてその後、崩れるように膝を突く。
 そこにいたのは、一人のうら若い女性だった。うずたかく積み上げられた本と、複雑な構造の文字が描かれた中華風のタペストリーに埋もれた部屋の中に、その華奢な身体を置いていた。
 ほっそりとした身体に纏うのは、しっかりと模様が刺し込まれた金色の龍袍。その上に黒い袖のない上着を羽織り、白い玉座に腰を下ろしていた。首からは大粒の黒真珠の首飾りが三筋下がり、右手は玉座の肘に、左手は膝に置かれた分厚い本に置かれていた。耳に光るのは、金色の耳飾。そして細い首に支えられた頭部には、ルビーの頂戴を持つ男物の宝冠を載せている。
 それ以上に目を引くのが、彼女の容貌だった。鋭い眼光を放つ黒い瞳は、まさに「海東青夫人」の異名に相応しい。細く鼻梁の高い鼻、血のように紅い唇、そして卵型の顔を縁取る短く切った黒髪、どれを取ってもひどく特徴的な容貌だった。圧倒的な威圧感、絶対的な強さを誇りながら、彼女はそこにいた。
 ――彼女の肖像画は、ほとんど原寸ほどもある巨大な物だった。ホールの入り口に向かい合うように衝立状の壁が立てられて、そこに据えられている。
 クレアを現実に引き戻したのは、ジェリーの穏やかな声と肩に載せられた温かな手の感触だった。「あれが、マダム・イーグルの肖像です。父は、あの絵を最後に筆を置きました」
 ぎこちなくクレアがジェリーを見上げると、彼女は手を貸してクレアを立ち上がらせてくれた。
 「綺麗でしょう」
 ぎくしゃくとクレアは頷いた。言葉を発しようと思うのだが、絵の中の女性に見詰められていると思うだけで口が利けなくなる。それを察して、ジェリーは穏やかに微笑んだ。「わたくしも、昔は怖かったのですよ」
 彼女は、クレアの腕を支えながらゆっくりとマダム・イーグルに歩み寄った。そして巨大な額縁の隣に立つと、展覧品案内用の声で説明する。「『東洋異聞』に登場する女性摂政、マダム・イーグルです。アーサー・ジョセフが中華からイギリスに帰国した後、1930年頃に描いた物と伝えられています。従ってこの作品は、彼の記憶の中の女性を描いた物ということになります」
 「記憶の中……」鸚鵡返しにクレアは呟いた。それにしては、あまりにも生々しく、そしてあまりにも神々しい。アーサーは帰国後、三十年近くの間こんなにもリアルな女性の姿を記憶の中に留め続けていたのだろうか。それとも、三十年の月日が彼女をここまでの姿に再構築したのだろうか。額縁の中の若い淑女は、クレア・パーマンの思いに何の感慨も持たない無表情を湛え続けていた。
 微笑みながら、ジェリーが言った。「きっとアーサーは、彼女に恋をしていたのでしょう」
 はっとクレアはジェリーを見る。年を重ねたこの女性もまた、何を思っているのか表情が読み取れなかった。
 何を言おうかクレアが迷っていると、ジェリーは悪戯っぽく笑って見せた。「でもね、このミュージアムの命名をしたのもアーサーなんですよ――トマニって、わたくし達の母の名前なの」
 目を瞬かせた後、クレアはほっと肩の力を抜いた。気が抜けた途端に、思わず笑い声が口から漏れる。「……アーサー・ジョセフって、とっても素敵な人ね。わたし、ますますファンになっちゃった」
 そして再びマダム・イーグルを振り仰いだ。今度は、恐怖は感じなかった。感じたと言うのなら、やはり畏怖に近い感覚だろう。
 アーサー・ジョセフの手で描かれて以来ざっと八十年もの間、彼女はこの無表情で何かを見詰め続けていたのだろうか。――いや、アーサーが描く前から、マダム・イーグルはこの無表情で彼の心の中を傍観し続けていたのだろうか。そう考えると、鳥肌が立った。


 ふと、クレアは思い出したことをそのまま呟いた。「やっぱりこの人、ベル・グロリアスに似てる」
 言ってしまってから、余りにこの場にそぐわない話題だったと彼女は顔を赤らめた。だが、本の挿絵に入っていたデッサンよりも、この肖像画からはより顕著にそれが感じられた。口を押さえながら、クレアは上目遣いに肖像画の黒い瞳を見上げる。
 それを聞いて、ジェリーは笑い声を上げた。「確かにそうね。ついでに言うのなら、いっつも傍で彼女に苛められてるデイビーはアーサーに生き写しよ」
 クレアは思わずきょとんとしながら首を傾げた。ジェリーは愉快そうに付け加える。さっきまでの丁寧な言葉遣いが、一気にどこかへ飛んでしまっていた。「しょっちゅうジャッジをやってるじゃない、デイビットソン・A・ステュワート」
 ようやくクレアは手を打った。「あ、『W.D.』のデイビー!?」
 アーサー・ジョセフの顔は知らないのだが、深夜番組で見慣れたあの陽気そうなハニーブロンドのくせ毛とライトブラウンの瞳はすぐに思い出せた。ここのところ下手な俳優よりもよっぽど人気があり、クレア自身も、実は相当に入れ揚げている人物なのだ。
 「そうそう」ジェリーは相槌を打ちながら言った。「あの子もここのところ、すっかりアーサーに似て来ちゃって。血は争えないわね」
 頬に手を当てながら頷いているジェリーに、思わずクレアは叫んだ。「『あの子』ってもしかして身内か何か?」
 「身内も身内、甥っ子よ。未だにあの子はわたくしに頭が上がらないわ」そう言ってジェリーは思い出し笑いをする。「今はすっかりMiss.グロリアスにお熱なのよ。そんなとこまでアーサーにそっくり」
 驚きで口を半ばまで開きながら、クレアは言った。「そんなに似てるの?」
 途中で舌を噛んでしまったので、もう一度だけ言い直すと、ジェリーはにっこりと笑った。「瓜二つってのは、まさにこのことよ。若い頃の父の写真があるんだけど、見る?」そう言いながら、既に彼女の足はホールの奥へと向いていた。
 クレアは、何も言わずにひたすら首を上下に振った。


 「全大佐、失礼」
 大佐が顔を起こすと、戸口のところに黒っぽい正装の男が立っていた。少し目を細め、その後彼は尋ねる。「弓、何の用だ」
 「つれないことだね」弓はにこりともせずに近寄って来た。固い革靴が、かつかつと甲高い音を立てる。
 その手に、ファイルに挟まれた書類があるのを見て、大佐は直感的に周囲を見渡した。この休憩室にはしばしば不特定多数の兵士がやって来るので、あまり密談に相応しい場所とは言えなかった。重い、よく通る声で大佐は言う。「場所を変えるべきか」
 弓は微かに笑った。ほとんど親子ほど年が離れているはずなのに、この男はどうにも食えない相手で、大佐は実は余り得意としていなかった。取り立てて公式の特権身分を持っていると言う訳ではなく、あくまでも一介の秘書官に過ぎないのだが、腐敗し切った官僚勢は現在、この若い男に大きく依存し切っていた。従って、彼に与えられている文官としての権限はこの国随一――すなわち、総統さえも牛耳ることの出来る数少ない人物だった。「いや、すぐ終わる」
 彼は、ファイルから丁寧に書類を取り出すと、乱暴な仕草でそれを大佐に向かって放った。片手の指を口髭に当てながら、もう片方の手で大佐は受け取る。そしてぱらぱらとそれを捲りながら、向こう傷のある眉間に皺を寄せた。
 書類は、少年少女の顔写真入りの履歴書だった。
 「これは一体……」言い掛けて、大佐ははっと手を止めた。そして顔を書類に近付け、まじまじと眺める。「施氏の娘?」
 「そう」大佐の隣に腰を下ろし、足を組みながら弓は言った。「昨日の官邸の侵入者だ。わたしも目撃者の一人だ」
 全大佐は顔を起こして、弓の顔を眺めた。彼の表情からは、既に笑いの片鱗も残っていない。「……寄りによって、施氏とは」
 無表情に弓は続けた。「しかも、瀬戸と組んだぞ彼女は」
 「な……」さすがの大佐も言葉を失った。そちらに一瞥をくれてから、淡々と弓は言う。「あの皇帝と同じクラスに所属していた」
 「それでは、プログラムに巻き込まれたはずだ」語気を荒げる大佐を掌で制しながら、弓は頷いて見せた。「そう。そのプログラムで皇帝と組み、そして彼を残して逃げた。――それが、戻って来たんだ。転んだ施氏が起きるときに掴んで行ったものは、わたしよりも歴史の方が詳しい」
 そして彼は、俯いた大佐の手から書類を取り上げて天井にかざした。「愚かな話だ。この国は、危険分子を隔離したつもりで、彼等を強制的に引き合わせてしまったと言う訳か」
 「だが何故、施氏が皇帝勢力に組むと言い切れる。施氏は代々、一匹狼の血筋ではないのか」指を組み合わせながらそう言う全大佐に、冷たい口調で弓は返す。「大佐、あなたは歴史を勉強した方がいい。施氏は既に幾度も、皇帝と組んでいる。そしてその度、国は乱れている」
 刹那、弓は薄い唇を独特の形に歪めた。その声音に嘲りが混ざる。「もっと面白いことを教えてあげようか――皇帝と組む施氏は、まず間違いなく女性だよ。興味深いことだとは思わないか?」
 怪訝そうに大佐は眉をひそめる。「……?」
 書類をファイルに挟み、立ち上がりながら背中で弓は言った。「施氏の女は、乾朝皇帝が好みらしい」
 「……下らない」吐くように言った大佐を、弓は愉快そうな目で見下す。「賭けても構わない。セ・カンメイは、皇帝リュー・フェイロンに惚れているよ。だからこそ気を付けた方がいい。恋に狂った女をあしらえる程のプレイボーイは、この国にはいないだろうからね」
 そして、そう言い捨てて弓は休憩室から出て行った。全大佐は、重苦しい疲労感を感じながら溜め息を吐く。
 ふと、弓と入れ違いに若い兵士が一人入って来た。そして見本のような敬礼を行う。大佐は首だけをそちらに向けた。兵士は、向こう背がそこそこにあり、多少体付きは華奢なようだがよく訓練された身のこなしをしていた。帽子を深く被ったやや俯き加減の顔はよく見えなかったが、誰もが恐れる陸軍の虎・全大佐を前にして毛ほどにもたじろぐ様子がない。
 兵士は、抑えた声で言った。「申し上げます。開城市の税務署と市役所でのテロ行為について、発生時刻がほぼ特定出来ました。それによると、やはり同一犯の可能性は極めて低い模様です。また、黄道南道道庁放火に関しては、犯行手口から市役所と同一犯との見方が濃厚だそうです」
 ひどく聴き取りにくい、きつい訛の言葉だった。北部辺境の出身なのだろうか、と思いつつ、大佐は頷いて見せる。「ご苦労。それでは、詳しい結果を見に行こう」
 「自分がお持ち致します」そう言って敬礼を整える兵士を掌で制しながら、全大佐は立ち上がった。「構わない、休んでいなさい。日が昇ったら、骨が砕けるまで使ってやるから」
 彼が休憩室から出るまでの間、その若い兵士は礼を崩さなかった。その後兵士がどうしたのかは、大佐の知るところではない。


 ジェリーは、奥から重そうに何冊ものアルバムを抱えて現れた。慌ててクレアはその手から何冊か引っ手繰る。
 「ごめんなさいね、手伝わせちゃって」にっこりとジェリーが微笑んだ次の瞬間、クレアの腕の間からアルバムが滑り落ちた。
 「あっ!」拾おうとして腰を曲げた瞬間、更に腕の中に残っていたアルバムも落ちる。「ご、ごめんなさいっ!」
 彼女があたふたとする間に、ジェリーはギャラリーのソファに自分の持っていたアルバムを載せて戻って来た。「大丈夫大丈夫。あなたの方こそ平気?」
 優しくそう言いながら、手早く彼女はアルバムを積み重ねる。
 何とか手伝っていたクレアは、ふと一枚の写真がアルバムの表紙の下から覗いているのに気付いた。
 「これ、外れちゃってる……」膝の上にアルバムを載せて、慌ててクレアはページを捲りだした。横からひょいと覗き込んだジェリーは、くすっと若々しい笑みを浮かべる。
 「ああ、アーサーってばよっぽどあなたのことが気に入ったのね」そう言いながらジェリーは、クレアの鼻先にアルバムから外れた写真をくっ付けた。「こう見えてこの人、人見知りが激しいのよ。気に入らない人相手だと、幾ら探してもアルバムが出て来ないの」
 目を瞬かせながらクレアは写真を受け取り、焦点を合わせた。そして思わず息を飲む。「……ハンサム」
 セピア色の写真の中にいたのは、二十代半ばくらいの若い男だった。きっちりとした三つ揃えのスーツに身を包んでいるが、シャツを開襟にしてネクタイに指を引っ掻けている。そして、これ以上ないくらいの笑顔を顔中に浮かべていた。真面目なポートレートを写した後、残ったフィルムに彼らしい表情を残そうとしたような、そんな写真だった。
 セピア色に褪色した写真の中、人物の髪や目の色はわからない。だが、どちらもひどく明るい色合いをしているのは見て取れた。クレアは反射的に、とろけるようなハニーブロンドの髪と眩しいライトブラウンの瞳を思い浮かべた。――彼女の知る中で、最も彼によく似ている人物の色彩である。
 「笑えるくらいにそっくりでしょ。血は争えないわね」愉快そうにジェリーはくすくすと笑った。その口調に、思わずクレアもつられて笑う。
 「お陰で父ってば、孫達の中でもデイビーのことは可愛くて堪らなかったみたいよ。どこへでも連れて歩くものだから、中身までそっくりになっちゃって」そう言いながら、ジェリーは別のアルバムを開いた。そしてすぐに目当てのページを探し出すと、そこを開いて床に置く。
 それを見た瞬間、思わずクレアは吹き出してしまった。写真の中にいるのは、頭のすっかり薄くなってしまった老人と小さなブロンドの男の子。二人はテーブルの縁に並んで、中央に置かれた大きなパイのクリームを舐めているところだった。別の写真には、花の咲いた生垣からぬっと首を突き出している二人。また別の写真では、盛装を凝らして気取ったポーズを取る二人が並んで写っていた。
 懸命に笑いを堪えるクレアを嬉しそうに眺めながら、ジェリーはページを捲った。次のページも、そのまた次のページもアーサーとデイビーの愉快なツーショットが続いていた。「この二人のペアの写真が、実は家では一番多いのよ」
 「お爺ちゃんと孫って言うより、気の合う男友達って感じなのね」クレアがそう言うと、ジェリーは顎に指を当てながら言った。「そうなのよ。だから悪戯も凄かったわよ。わたくしの兄なんか、何度落とし穴にはまったことやら」
 ふと、ページを捲った瞬間クレアは手を止めた。今度は、あのペアが写っている訳ではなかった。全く別のペア――名門パブリックスクールの制服を来た幼いデイビーが、あのマダム・イーグルの隣に並んで写っていた。「……これは、アーサーが写したの?」
 ジェリーから返事がないので、クレアは彼女の方を覗き込んだ。彼女は、静かに首を横に振った。「――アーサーが亡くなった直後の写真なの」
 クレアは再び写真を凝視する。確かに、デイビーの表情はこれまでと打って変わって固く強張っていた。「百歳をとうに越えていたから、大往生だったんだけどね」
 しばらくタイミングを見た後、おずおずとクレアは尋ねた。「どうして、マダム・イーグルの肖像と一緒に?」
 クレアは、少し困ったような笑顔を浮かべた。「デイビーがアーサーから譲り受けた、唯一の形見なのよ」
 何度か瞬いた後、クレアは早口に言った。「……どうして、この絵一枚だけ?」
 「さあ。だって、あの父の考えることだもの」ジェリーは首を振った。白髪混じりの髪の毛が、ふわふわと頬に掛かった。「でもね、多分わたくしがアーサーの立場だったとしても、やっぱりデイビーには他の財産を譲渡しなかったのではないかと思うの」
 身を乗り出すクレアに、軽やかにジェリーは言った。「だってあの子、自分が欲しくない物を譲られたら、右から左に換金しちゃうもの」


 ベルとデイビーは同時にくしゃみをした。
 「仲がいいことだね」甫民がそう言った瞬間、ベルは彼を睨み付ける。だが老人は、目を細めながら辛そうにドライバーを捻っていた。とっさにベルは、引っ手繰るように甫民の手から器材を奪い取る。
 「……ここ、締めたらいいんでしょ」ぶっきらぼうにそう言いながら、器用に彼女はねじを締めた。その横顔を、老爺はじっと眺めていた。
 「……あなたは、お父さん似なのかい?」おもむろに甫民がそう尋ねた瞬間、ベルは手を止めた。一瞬、その面差しが凍る。
 強張らせた表情を必死に繕いながら、彼女は答えた。「さあ。父方の家系はよく知らないの。弟も妹も両親を程よくブレンドした感じの顔してたから、あたしもそうじゃないかしら」そしてそのまま、繕いきれなかった表情を曇らせた。
 しばらくの沈黙を置いた後、ベルはわざと明るい声で尋ねる。「ねえ、Mr.リュー……皇帝は、母親似でしょ。すっごい美人だったんじゃない?」
 「陛下もまた、両親を程よくブレンドした感じの顔だよ」きょとん、とするベルの前で、甫民はにんまりと笑顔を見せる。だが、すぐにその表情が翳ったのは、光の加減だけではないだろう。彼の肩越しに、窓の向こうに広がる殺伐とした建築中の建物ばかり目立つ風景が目に入った。
 甫民は、窓の外に目をやりながらのんびりと言った。「顔立ちは、どちらかと言えばむしろお父上に似ていらっしゃる。額から目許に掛けては、まさにそうだな。だが、口許はどちらかと言えばお母上かな。それから、手指の形もお母上譲りだ。あの方はあれで、案外しっかりとしたお手をなさっておられたからな」
 老人がひどく懐かしそうな表情をしていたので、ベルは思わず言葉を失った。その手からもぎ取られて久しい人々を、彼は今でもこれだけありありと思い出すことが出来るのだ。ベルもまたこの年老いた男の喪失感を多少なりとも知っているだけに、それを痛ましく感じた。
 「――ああ、それでも、あの瞳。お父上の深い深い漆黒の瞳と、お母上の澄み切った董色の瞳、まさにその折衷で……」
 そして、ふと思い出したように付け加えた。「……いや、あれはきっと素乾・乾朝の歴代皇帝の強さと誇りが凝集されたものなのだろうな。――もしも陛下が、天下が滅びる予兆として寄越された天帝の最後の愛息だったとしても、わたしは驚かない」
 「天下が滅びる……」ベルはぼんやりと復唱した。
 彼女の方を向き、老人は白い髭の下で微かに微笑んだようだった。彼はまんざら優しくなくもない声音で尋ねた。仄明るくなり始めた朝の空気の中で、静かな声の形に空気が揺れる。「あなたは、覇王になってみないかい?」
 ――瀬戸 甫民としてこの世に生を受けて以来、彼は歴代素乾皇家に最も近い場所に位置していた。世代にして四世代、五人の天子を知っている。だからこそ彼にはわかった。いや、それより先に竜血樹の方が気付いていた。
 歴史上には、ごく稀に二つの天命を持つ二人の天子が同時に現れることがある。一人は、天下を滅ぼす旧王朝の皇帝、そしてもう一人は、新しい天下に君臨する覇王。滅ぼす者と建て直す者、二人の天子の共同作業によって天下は滅び、再び萌芽するのである。天下の動乱は、一人の天子の手には余る大仕事なのだ。
 そして今、天は二人の子を――その息子と娘を共に地上に送り出していたのだ。
 だが、この銀色のメッシュを持った小さな臥龍は、一度は国外へと逃れて行き、そこで平穏に暮らすはずだった。――それなのに、彼女はここへと戻って来た。
 もしも女性の地位がないものとして扱われる時代だったなら。もしも彼女が別の国に生まれていたら。もしも二人の天子が出会わなかったら。もしも彼等のどちらかが『プログラム』で命を落としていたら。もしも――もしも彼女が竜血樹に恋をしていなかったら。もしも彼を助けに戻って来なかったら。
 この腐敗し切った天下は、次の天子の登場を待てずに自滅していたかもしれない。今、彼女がここにいると言うことは、類稀なる奇跡なのかもしれない。
 甫民は、知らずの内に身を乗り出していた。「覇王になって、天下を乗っ取るつもりはないかい?」
 目の前にちょんと腰掛けた少女は、不意に歯を見せて笑った。汗でぎらぎら光る顔色が、ひどくグロテスクな印象を与える。
 「天下なんていらないわ。欲しいものが手に入らない天下なんて、あたしいらない」予想範囲内の解答ではあったものの、やはり甫民は落胆を隠し切れなかった。
 不意に、彼女は運転席に身を乗り出すと、デイビーの耳元で何か囁いた。デイビーはずり落ちかかった眼鏡を指で押さえると、にっと不敵に笑う。
 急にデイビーは、一気に車を加速させ始めた。ベルは、車のメーターに横目を注ぎながら後部座席の窓を一気に開くと、そのまま身を乗り出す。そして大きく振り被ると、何かを外へ向かって思いっきり投げた。怪訝な顔をする甫民の目の前で、ベルはひらひらと空になった両手を振って見せた。
 「……あ」
 幼いほど若い顔を歪めて笑うと、開けっ放しの窓から吹き込む風にあおられながら、華奢な少女は呟くように言った。「天下なんてあたしには邪魔なだけなの。だから、ぶっ潰してやる」
 次の瞬間、窓の外で凄まじい轟音が響いた。かん、と車に何かぶつかる音がする。振り向くと、廃墟のような人気のない景色の中で、炎を上げながら鉄筋剥き出しの建物が砂の城のように崩れていくところだった。
 見ると、炎とは別の光――暁の光が、少女の姿を明るく照らし出していた。
 ――夜明けの瞬間だった。


 劉がカルテにボールペンを走らせていると、不意に聞き馴染んだ声がした。「劉公主、俺と夜明けのコーヒーでもいかが?」
 「金さん、ようやく休憩ですか」
 ドアのところで、金は両手にホルダーにセットされたカップを持って立っていた。「そっれにしても、がらんがらんだなここ。もしかして、また俺達二人っきり?」
 劉は笑って頷いた。
 何しろ国家の一大事なのだ。国家要職十数名に、新種のウイルスが感染した疑いがあるのである。取り敢えず中央にいた総統以下の感染濃厚嫌疑者は、緊急検査入院となった。丁度地方に視察(という名目)に行っていた数名も、火急の呼び出しを受けヘリコプターで平壌へ戻って来た。その後彼等を全員隔離病棟に収容し、血液検査に掛けた。同時に失礼のないように取調べを行い(とは言えども、内容が内容だけにどうしても失礼には当たるのだが)、他の感染の可能性がある者を聞き出した。総統府にも問い合わせ、特に感染した恐れがあると自覚している者に呼び掛けてもらった。それ等を、今日の半日で行ったのである。翌日は、検査対象を総統官邸関係者全員に拡大する予定だった。
 かく言う金も、ついさっきまで検査に駆り出されており、ようやく短い休憩を取れたところなのだろう。うっすらと白く曇った眼鏡と顎に浮いた無精髭が、くたびれた白衣にひどく似つかわしい。
 「それにしても、信じらんねえよな。あの新型ウイルスって空気感染はしないんだろ」金は呆れたような声を出しながら、コーヒーに口を付けた。劉がおっとりとなだめる。「でも、一応念の為ですよ」
 「そうじゃなくって、感染の可能性高い奴多過ぎ。アブラギッシュなおじ様達みーんな、奇麗なブロンドのお稚児さん相手にがぼがぼやっちゃってたって訳ね。おっと失礼劉公主、はしたないこと言いました」眼鏡を染みの付いた白衣の裾で拭いながら、口上でも上げるように金は言った。思わず劉はくすくすと笑う。
 不意に、金は真剣そうな面持ちになった。「ところで、本当のところはどうなんだ? ……場合によったら、国が傾くぞ」
 「もうとっくに傾いてる国ですよ」そう前置いて劉は言った。「平均的な性的接触があったら、まず百パーセント感染してますね。口腔内に傷がある場合は、唾液交換でも危ないでしょうから。ただし、空気感染は有り得ませんから、同じ空気を吸ってただけなら平気ですよ」
 金はくしゃっとぼさぼさの髪の毛に手を当てた。「厄介なウイルス作りやがって」
 新種のウイルスJ−815は、その潜伏期間の長さゆえに即効性を求められる兵器としては使用不可と判断された。だが、潜伏期間が長いということは同時に、菌保有者の見極めを困難にするということも意味する。そしてそれが招く最も恐ろしい結果、それが、今回のように自覚がない内に感染が拡大しているということである。
 「ぱっぱとキャリアを殺っちまうお馬鹿なウイルスだったらなあ、感染が拡大する前にキャリアが死んじまって勝手に自滅してくれるのに」そう言いながら金は劉の方をちらりと見た。「ペットは飼い主に似るって言うか、お前にそっくりで巧妙な奴だよ」
 「ありがとうございます」劉はにっこりと微笑んだ。その顔を見ながら金はがたんと立ち上がる。「笑うなよ。怒れなくなっちまう」
 金はコーヒーを一気に飲み干すと、スニーカーの足を運びながら扉を押し開けた。「じゃ、別の部屋で寝て来る。劉公主と同衾したってことで、リンチにあったら堪らないや」
 それが嘘なのは劉にもわかっている。彼はこれからも再び、一日中走り回るのだろう。ただ、ウイルスの直接の開発者である劉に――今回の元凶を生み出した張本人に――、気を遣わせない為の気配りから出た言葉だった。劉は少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。
 そして金の姿が消えると、少しだけ躊躇った後、手を伸ばし電話の受話器を取り、ボタンを押した。
 数回の呼び出し音の後、回線が繋がった。「もしもし? ――はい、僕です。もしかして僕のこと待ってましたか? ……ごめんね」
 受話器の向こうで、物静かな声が聞こえて来た。見えるはずもないのに劉はこくりと頷く。「はい。こちらは何の問題もありませんよ。あなたはどうですか? ――ああ、変わりないですね? それはよかった」
 窓に掛かったブラインドの向こうで、慌しげに走る保健婦の姿が見えた。劉はそちらに一瞥をくれた後、再び受話器に向かって頭を下げた。「ええ、はい。それじゃ、ちゃんと大人しくしていて下さいね」
 受話器を置くと劉は一つ息を吐いて、ぐいと顔を上げた。そして白衣の裾を翻しながら、部屋を出て行った。
 机の上に、まだ湯気の立つコーヒーが残されていた。


 彼女は、町外れの崩れ掛かった石組に腰を下ろしていた。耳鳴りのひどくなる右耳をきつく押さえ、胎児を庇うように身体を丸めている。もう日は完全に落ちて、気温は急激に下がって行った。
 (寒いけど……大丈夫。ちょっと待てばすぐに日が昇るんだから)彼女は、脳裏に刻み付けるようにそう思案した。と、その瞬間だった。
 「おばさん」すぐ近くで声がした。はっと彼女が顔を起こすと、そこに一人の少年が立っていた。右手に持ったランプを、彼女の前にかざす。「……じゃなくって、お姉さんか。何してんの?」
 彼女の目の前に立っていたのは、十三、四歳くらいの作業着姿の少年だった。半袖のシャツの上にポケットの沢山付いたベストを着ており、鉱夫と言うよりも機械工に近い雰囲気だが、まだまだ幼さが色濃く残っている。彼は、肩から下げた大きなずた袋を地面に置きながら言った。「見掛けない顔だけど、どうしたのさ? 妊婦さんだったら、この町で頼めば誰だって泊めてくれるよ」
 彼女は髪の毛を掻き寄せるようにして、自分の肩を押さえた。そして静かに首を横に振る。
 少年は怪訝そうに首を傾げた。「いや、妊婦さんを冷たくあしらったら、俺達の方が罰当っちまうからさ」
 「……いいの、わたしがすきでこうしているんです」たどたどしく彼女は言った。
 少年は、不揃いに伸びかかった自分の髪に手をやりながら、女の前に屈み込んだ。「……もしかして、何か訳あり、とか?」
 しばらく視線を足元にさ迷わせた後、若い女はぽつりと答えた。「――ひとを、さがしているんです」
 「人探し?」少年は、黒い油に塗れた顔を傾けた。「誰を探してるの? もしかして、恋人とか?」
 女は再び俯いた。「……とても、たいせつなひと。やさしいひとなの、ぜったいにうそをつかないひとなの」
 少年は、立てた膝の上に頬杖を突きながら尋ねた。「何で傍にいないの、そいつ。お姉さん、今お腹おっきくて大変なときなんだろ?」
 彼女は、耳を押さえて激しく首を左右に振った。「むかえにいくって、いったもの! ぜったいにむかえにいくって、そういったもの!」
 そして彼女は頭を押さえると、眩暈を起こしたように辛そうに顔をしかめた。慌てて少年がたしなめる。「わかった、わかったよ。ちょっと落ち付けって」
 女がようやくのろのろと顔を上げたので、少年は言葉を選びながら尋ねた。「それでさ、そいつはどこに迎えに来るって言ってたの? まさか、こーんな大陸の外れのど田舎じゃないよね」
 「……」女は、黙り込んでしまった。まずいことを訊いちゃったかな、と少年は頭を掻く。
 彼が何か話題を探していると、ようやく女が口を開いた。「……きれいな、むらさきのひとみをしています」
 少年が思わずぎょっとして目を剥くと、食らい付くように若い女は言った。「どうしてそれがいけないことなの!? わたしはずっと、きれいないろだとおもってました。なのにどうして……」
 「ちょっと待って」少年は、髪を乱した女の前に掌をかざした。彼女は一瞬呆気に取られたような表情をする。「その人と初めて会ったときって、どれくらい前のこと?」
 女はぱっと掌を広げて見せた。「あのひとのたんじょうびを、ごかいいっしょにおいわいしました。もうすぐ、あのひとのつぎのたんじょうび」女は広げた掌に、もう片方の手の指を一本だけ立てて添える。
 少年はちょっと首を傾げた後、ようやく腑に落ちたというような表情をした。
 険しい顔をする女に向かって、諭すような調子で少年は言った。「お姉さん、かっとならずによく聞いてよ。――お姉さんもしかして、誰かに向かって探してる人の特徴として紫の目のこと言ったら、冷たいこと言われたんじゃない?」
 彼女は、少し考え込むような仕草をした後、悲しそうに頷いた。
 少年もこくんと頷いて見せる。「――それは、しょうがないことなんだ。多分お姉さんは知らないと思うんだけど、昔この大陸で、変な病気みたいなのが大流行したことがあったんだよ。んっとね、それにかかると目の色がぎらぎらした紫色に変わっちゃってさ、狂暴化して誰彼構わず襲い掛かるようになるんだ。俺、まだちっちゃかったけど、そのことはよく覚えてる。俺も怖かったし……誰だって怖かっただろうな。だから、未だに『紫の目』って言ったら皆、怖いって印象しかない訳。――お姉さん、わかる?」
 彼女はしばらく躊躇った後、観念したように悲しげに頷いた。
 頬に出来た小さなにきびを引っ掻きながら、少年は言った。「……でも、ずっと前からそんな色の目をしていたなら、きっとその病気みたいなのとは関係ないと思う。普通そんな目の色の人なんてなかなかいないから、きっと誤解されたんだろ」
 女はおずおずと顔を上げた。照れ臭そうに少年が笑って見せると、ようやく彼女もはにかむように微笑んだ。
 少年は立ち上がって伸びをすると、腰を曲げて女に顔をくっ付けた。「それじゃ話は簡単だ。お姉さん、元来たところに戻んなよ。迎えに来るって言ってたんなら、そこを離れてうろうろしてちゃ駄目だよ。迷子になっちまうよ」
 女は、ふるふると首を振った。そして右側頭部を押さえながら言う。「だめなの。さがさなきゃ、いけないんです」
 少年は何か言い掛けたが、彼女の表情を見て言葉を飲み込んだ。その言葉を否定したら、きっと彼女はその場で壊れてしまう。そんな思い詰めた表情だった。「それじゃ、何か手掛かりはない? この大陸は、これでも広いんだ。そんな砂漠で砂金粒探すみたいな……」
 「ネーヴェン・バーブ」間髪入れずに彼女は言った。「ネーヴェン・バーブにいるんです」
 少年は少し呆気に取られた後、頬のにきびをかりかりと掻いた。「……まあ、確かに。そうには違いないんだろうけどさ」
 「どこだとおもいますか?」必死の眼差しで女は尋ねた。少年はちょっと困ったように言う。「そんなこと訊かれても」
 不意に、彼は何かを思い出したように手を打った。そして地面に置いたずた袋を開き、中から一枚の古びた紙切れを引っ張り出した。少年は、それを広げながら女の隣に腰を下ろす。「見て」
 それは、狐色に変色した地図だった。
 少年は、地図に描かれた大陸の、左下部にある点を指差した。「ここが、この町。南に鉱山があって、この線がクローシャ鉄道」
 「きしゃになら、のりました」
 女の言葉に頷いて、少年は更に地図を指でなぞる。「何か訳ありで、例の人と離れることにしたんだろ? だとしたら、人気のないところの方が手掛かりを掴みやすいな」
 少年は地図に顔をくっ付けて考え込んだ後、女の肩越しに背後を指で示した。見ると、星明かりの下で荒涼とした草原が広がっている。「そこを越えたら、ブダズババ砂漠がある。砂漠には時々新しい資源を探す人達が来るんだけど、その辺の人達って結構情報通が多いんだ。オアシスもあるから、そこで生活してる人もちらほらいるんだってさ。かなりきついけど、都会の方であてもなく探し回るよりは、ずっと効率がいいと思うよ」
 女の表情が、闇の中でぱっと明るく輝いた。
 少年は、地図を捲りながら言った。「だから、お姉さんはもうちょっとここで養生して、子供が生まれて落ち付いたら……」
 「ちず、みせてください」縋るように女は言った。一瞬たじろいだが、おずおずと少年はそれを手渡す。「ちょっと古いから、あまり砂漠の中は詳しくないけど」
 女は、ランプの明かりの許でじっと目を凝らしながら地図を指でなぞった。そして、しばらくじっと何か考え込むような仕草をした後、彼女は少年に向き合って言った。「ありがとう、ございます」
 おもむろに彼女は荷物を抱えて立ち上がる。慌てて少年は追い掛けるように立った。「お、お姉さん。これからどうするつもり……」
 「さがしにいきます」女は即答した。おたおたと少年は引き止める。「そんな……こんな夜中に? それにお腹おっきいんだよ、わかってるだろ?」
 少し俯き加減に女は言った。「それでも、いきたいの。はやくあいたい。いますぐあいたい」ようやく少年は、自分が見上げなければ彼女の表情を見ることも出来ないことに気付く。
 しばらく二人は押し問答を重ねたが、やがて少年の方が折れた。到底、敵う訳のない論争だった。「――わかった。それじゃ、せめて夜が明けるまで」
 すぐに彼女は首を横に振る。「まてない。それにさばくは、おひさまのしたですすむものではありません」
 微かに少年は苦笑した。「それはそうだ」
 女は、優雅な仕草で腰を折った。「ありがとう、ほんとうにありがとうございます」そして荷物を抱え上げると、危なっかしい足取りで町の出口へと進んで行った。
 思わず少年は声を掛けた。「ちょっと待って!」
 彼女は、きょとんと振り返る。少年は慌ててずた袋を広げ、中からごそごそと何かを取り出す。
 「お姉さん、これ持ってって」駆け寄る彼の手には、さっきの地図と小さなガラス玉が握られていた。首を傾げる彼女に、少年は説明する。「地図と、これがコンパス。赤い点の付いてる方が北。それからお姉さん、水筒は?」
 彼女は少し首を傾げ、自分の荷物の中から小さな筒を取り出して見せた。それを受け取って少年はちゃぽちゃぽと振る。
 「……やっぱり。こんなんじゃ、誰かに会う前に乾いて死んじまうよ。ほら、これも持ってって。ちょっと重いけど」少年は、更に女に水がたっぷりと入った大きな袋を押し付けた。
 慌てて女は首を横に振る。「いえ……そういうわけには……」「四の五の言わない、持っていく! でないと、俺もくっ付いて行くからな」
 彼女の鼻先に人差し指を突き出すと、ようやく彼女は申し訳なさそうにはにかんだ。「ありがとう……ございます……」
 少年は、その女の笑顔にじっと見入ってしまった後、慌てて後ろを向いた。
 「アンティアーロ・アンティラーゼ」そして、照れくさそうに頬を掻いた。「気を付けろよ、お姉さん、どっか危なっかしいからさ」
 「アンティアーロ・アンティラーゼ」女のふわりとした綺麗な声が聞こえた。そしてその後、小さな足が土を踏む音が響いたが、じきに遠ざかって聞こえなくなってしまった。
 しばらくして少年が振り向くと、遥か荒野に歩みを進める女の後姿だけがほんのりと見えた。あまりにも頼りない姿に、思わず駆け出したくなる衝動をやっとの思いで少年は抑えた。
 頬に指を立てながら、小さく少年は舌を打つ。「ちぇ……俺、家出しそびれちまった」
 ふと空を見上げると、満天の星空だった。
 「ま……いっか」一人で呟いたその声も、あっさりと飲み込まれそうな星空だった。


 ベルは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。再び繁華街に戻っては来たものの、夜が明けてしまっては思うように動けない。足早に通勤通学に急ぐ人々を眺めながら、忌々しげにベルは舌を打った。
 どうやら、昨夜から頻発するテロ行為に危機感を抱いているのか、人影は記憶にあるものよりも少なかったし、人々の足取りも急いている。だが、さすがに白昼の繁華街で宣戦布告は彼女の趣味ではない。
 ふと、デイビーが車を路肩に止めた。「どうしたの?」
 彼はベルに向かって窓の外を親指で指し示す。ベルは目を細めたが、よくわからないらしい。
 デイビーは、窓を全開にすると半身を乗り出して雑踏に向かって大きく手を振った。と、一瞥を投げ掛けながら去って行く人の波の向こうから、二人のよく似た背格好をした人物が近付いてくる。昨日別れたときと全く異なる服装をしていた為に、一瞬誰だかわからなかったのだが、片方の第一声を聞いてすぐにベルは笑顔を浮かべた。「あー、ずっるいわねあんた達。シャオユウ見てよ、車よ車」
 「タイホア」ベルが窓を開けた。「って言うか、二人とも。何でそんなに頭濡れてるの?」
 大花は、首から下げた真新しいタオルを自分の頭に被せながら言った。「あたし達、どこかの誰かみたいにエアコンの効いた車で楽してた訳じゃないからね。少々銭湯行って来たからって、文句ある?」
 「このくそ暑いときに放火する方が、脳味噌足りてないと思うんだけど」車から身を乗り出したベルは、大花と顔をくっ付けて不敵な笑顔で睨み合う。と、脇から小魚が仲裁に入った。「まあまあ。こっちは大盛況だったんだから……」
 「ってこと。これが件の模倣的放火犯の顔ね。二人とも同じ顔してるから大差ないけど、いい機会だから観察してやっといて」ベルは亀のように顔を引っ込めると、自分の隣の席にいる老人に向かって言った。老人は掠れた声で笑う。
 後部座席の窓から顔を突っ込みながら、大花は言った。「あらお爺さん、はじめまして。こんなじゃじゃ馬の相手、骨が折れるでしょう」
 「あ……」姉の脇から顔を覗かせていた小魚が、遠慮がちに尋ねる。「鴻亭高校の父兄の方ですよね。懇談のときにお見受けしたことがあります」
 「ほう」老人は目を細めた。
 小魚は、手奥の老人に遠慮しつつベルに言った。「……どういうこと?」
 「この人、誰の父兄だと思う?」ベルは不敵に笑って見せる。双子は同時に顔を見合わせた後、同時にまさかと言うような表情をした。そして異口同音を呟く。「もしかして……」
 「そ。リュー・フェイロンの保護者。あいつの言うところの、『元工作員で育ての親で先生』」ベルは窓枠に顔を預けながら上目遣いに双子を見上げた。
 双子はもう一度顔を見合わせた後、罪悪感にでも苛まれているように眉根を寄せる。
 ふと、おもむろに甫民が口を開いた。「わたしは大いに構わない。むしろ、一人で行動を起こすよりもずっとやり易くなったと感謝しているよ。二人とも、気を遣わなくてもよろしい」
 そう言いながら、細い目を更に細める。目尻に穏やかな皺が寄った。「第一、わたしは陛下の親ではない。あくまで一介の養育係にすぎないのだから、家族と見なしてはいけないよ」
 大花は、思わずきょとんとした表情を浮かべた。そして言う。「……でも、助けたいって思ってるんでしょ? お爺さんがフェイロンを大事に思う感情を一方的に利用するのは、フェアじゃないわ」
 甫民は少し笑った。「同盟だよ。わたしはあなた達に協力するし、あなた達もわたし達の行動に協力してくれれば構わない。これなら、フェアだろう」
 大花は小魚の方を少し向いて、肩をすくめて見せた。「同類なのね、ベルと。何で工作員とか工作員予備員って、こんなのばっかりなのかしら」「た、タイホア。ご本人が目の前におられるんだし……」苦笑混じりに小魚がたしなめた。
 ベルが、ひょいと窓枠に顔を載せた。「それじゃ、夕方まで適当に時間潰しといてね」「何よ、せっかく再会したのに」
 腰に手を当てる大花に、ベルが目を細めながら言う。「あ、二人とも待ち合わせまでに、半島内で行ってみたいところ決めておいて。二人別々のところにしておくのよ。何なら切符も買っておいたらいいから」
 「ちょ、ちょっと……!」ベルの髪の毛を掴もうとする大花の掌を払って、ベルは窓を閉めてしまった。
 ガラスを叩く双子を尻目に、ベルはデイビーに行け、と言うように手を振って見せる。ちらりと申し訳なさそうに双子に目をやったデイビーだったが、すぐにゆっくりとアクセルを踏み込んだ。少し双子は追い掛けようとしたらしいが、やがて諦めて道路端で彼等の車を睨み付けている姿がミラーに写り、その内雑踏の向こうに見えなくなってしまった。
 シートの背もたれに小柄な身体を預けながら、ベルは甫民に尋ねる。「ねえ、あなたの仲間でコンピューターに詳しい人、いない?」
 「そこの角を右に折れてもらったら、その先の新しいオフィスビルで止めておくれ」甫民は、デイビーに英語でさらりと言った。交叉点を越え掛けていたデイビーは、慌ててハンドルを切る。そしてちらりとベルの姿を覗き見た。
 ふて腐れた子供のような表情をした彼女は、お下げに結い込まれた銀色のメッシュの根元をがりがりと掻いていた。


 『メール1件、受信しました』バーグナーは顔を上げた。見ると、机の端にあるパソコンのディスプレイ画面の中央に、電子音声と同じ文面のメッセージが映し出されていた。バーグナーは隅の方に追いやられたキーボードをかちゃかちゃと叩く。
 未だに記事を万年筆の自筆で書くバーグナーにとって、パソコンはほとんどメール受信機でしかなかった。だからこそ、いつまでも扱いに慣れずブラインドタッチも出来ない。彼は顔を上げて画面に目をやった。そして目を見開いた。
 最重要のチェックが付けられたメールには、件名がなかった。差出人は、旧友でもある外務省官僚だった。どうやら、よほど慌てて送って来たのだろう。
 『バーグナー、困ったことになった。
   さっき、外務省宛てに一通のメールが届いたのだが、
   その内容の真偽で今、ここは天地が引っ繰り返ったほど揉めている。
   内容が内容だけに迂闊に外部に漏洩できないのだが、
   君の人柄を信じて、君にも真偽の判断を行ってもらいたい』
 そこまで画面をスクロールしてから、彼はこのメールが自分個人向けのメールアドレスから転送されて来ていることに気付いた。更に呆れるほど丁寧なことに、他の人に読まれることのないようロックまで掛けられていた。反射的にバーグナーは解除していたらしい。
 バーグナーは、万年筆を指で弄びながらキーを叩いた。
 『そのまま、文面を変えずに転送させてもらう。

   >差出人:"全韓共和国外務省"<○○○@korea-go.ne.kr>
   >宛先:"アメリカ合衆国外務省"<○○○@usa-go.ne.us>
   >件名:"宣戦布告"』
 「は?」バーグナーは思わず頓狂な声を上げてしまった。部内にいた人々から、一斉の視線攻撃を受け、慌てて彼は咳払いをする。
 『>拝啓 野蛮なる米蛮ども
   >今まで我々は、偉大なる総書記様の御指導の許
   >お前達がのさばる様を黙認して来ていたが
   >昨今の様子、余りにも目に余る。
   >我々の希望に満ちた未来の為、そして全世界の為、
   >ここに、お前達野蛮人に対し宣戦布告を行う』
 バーグナーは再び吹き出した。そして、部下達からの視線に肩をすぼめる。だが、さすがにこれは吹き出さざるを得ない。まさか、正気とは思えない。そう思いながらスクロールして、彼は硬直した。
 『私達もはじめは誰かがふざけたのだと思った。
 だが解析の結果、差出人は紛れもなくかの国の外務省のものであるし、
 あちらでは一般教育で教えられないはずの正確な英語で書かれていた。
 その上、信じられないものまでが添付されて来ていた。
 ――我が国の国防庁の、極秘資料だよ。
 それには、さすがに私達も顔色を変えた。
 単なる悪戯にしては悪質過ぎる。
 親愛なるバーグナー、君の考えを聞かせてもらいたい。
 返事を待っているよ』
 バーグナーは文面を何度も読み返した。その間、手の中の万年筆は動きを止めている。(……まさか、正気のはずがない。だが、何しろ相手はあの国だ……)
 一瞬、このメールの送り主の方がふざけたのかと思った。だが、彼がそんな人間でないことくらいバーグナー自身が一番よく知っている。
 迷った末、彼は電話の受話器を取った。そして短縮のダイヤルを押す。数回の呼び出し音の後、陽気な声が受話器の向こうから聞こえて来た。『あ、バーグナー? どうしたの?』
 「ジャクソン、お前ちょっと調べを入れてもらえないか?」切羽詰った彼の言葉への返事は、ふわふわと軽い。『あれ、いいの俺みたいなパパラッチに調べさせて』
 叱り付けるようにバーグナーは言う。「お前は馬鹿だが、嘘だけは売らない」
 一瞬の沈黙の後、ジャクソンは尋ねた。『何?』さっきまでと打って変わった、真剣みを帯びた口調だった。
 バーグナーは言う。「コリアの動向を探ってくれ。何か不穏な空気があれば、どんな些細なことでも報告を頼む」『……些細な、って言えば、それこそこの間の写真はどうなんだい? 向こうの最重要機密じゃないのかな、あれ。それが俺んとこ漏洩して来た時点で、おかしくない?』
 はっとバーグナーは目を見開く。先日『TWIN』でジャクソンと一緒に飲んだ日のことをようやく思い出した。あのときに見せられた、共和国総統とその愛人の――双子やベル・グロリアスの言葉を信じるなら、男であるはずだが――の写真のくすんだ色合いが脳裏に蘇る。
 そう言えば、不自然極まりない。あの国の噂ならば、これまでに何度も耳にしたことがあった。だが、トップシークレット中のシークレットである官邸内部の写真が盗撮されてここまで届くと言ったら、確かに前代未聞の異変である。
 「お前、あの写真はどう言うルートで流れて来たかわかるか? 確か情報屋のルートで入って来たと言っていたが」指先でバーグナーは万年筆をくるりと回す。
 『それがさ、俺も気になって調べて見たんだよ。あれだな、芋蔓式に。そしたら何か、先月の終わりぐらいからチェーンメールで出回ってたらしい。それで、気になった情報屋の一人が解析掛けてみたら、合成じゃないらしいとか言うし、コリアからの亡命者に確認を取らせたら、まず間違いなく総統も官邸も実物らしいって言うし。こりゃ本物かってことになったらしい』
 電話の向こうで、車の走る音が聞こえた。どうやらジャクソンも仕事の最中だったらしい。
 ジャクソンは、電話の向こうで誰かに『ちょっと待ってってば』と伝えていた。慌ててバーグナーは万年筆を止める。「すまん、忙しいところみたいだな」
 『いや、大丈夫大丈夫。それじゃ、この線で俺も探りを入れておくよ。何かわかったら、すぐ連絡入れるから』明るい声でジャクソンは言った。
 すまなそうにバーグナーは付け加える。「今夜にでも『TWIN』で奢るよ」意外そうにジャクソンの声が返した。『あれ、バーグナー知らないの? ここんとこずっと閉まってるんだけど、あそこ。この間二人で行った翌々日に行ってみたら、閉まってたんだ』
 バーグナーの中で何かがざわめいた。不穏な写真の流出。半島出身の双子の店が休業。かの国からの"宣戦布告"。――そして。
 「――ジャクソン、それじゃお前はベル・グロリアスの降板は知ってるか?」
 『えっ、マジ!?』ジャクソンの頓狂な声が聞こえた。
 バーグナーは万年筆のクリップを親指で弾き、自分の顎に当てる。「……一身上の都合だとか言う話だが、どうも臭うな。その辺りにも探りを入れてくれ」
 『あ、ああ。……デイビーに訊けば、何かわかるだろうし』ジャクソンの声は珍しく動揺していた。やむを得ないことだろう、バーグナー自身が興奮している。
 受話器を置きながら彼は、小さな溜め息を吐いた。とんでもないことが起こっている。彼の確かな勘はそう警鐘を鳴らしていた。だが、それがどのようなものなのかがわからない。それが尚更に不安だった。


 間もなくバーグナーは、ジャクソンからの電話を受けた。そして目を剥いた。
 『デイビーとも連絡が付かない。もう五日近く行方不明らしいんだ!』


 「これでよかったのかな」中年の恰幅のよい男は、そう尋ねながら振り向いた。腕組みをしていたお下げ髪のベルは笑う。「ありがとう」
 まだ真新しいオフィスの、彼等以外の人間がいないフロアに声が響く。
 胸に『田 大均(チョン・デッキュン)』と名札を付けた男は、人のよさそうな満面の笑みを浮かべる。「お役に立てたなら何よりだよ。瀬戸先生のご紹介なら、無下に扱うことも出来ないしね」そう言うと彼は、ベルの背後に立っている小柄な老人に向かって軽い会釈をした。
 彼女は興味深げに、田の前に据えられたディスプレイを覗き込んだ。「ふうん、アメリカにメール送るときは、こうすればよかったのね」
 つられてデイビーも覗き込むが、彼にはほとんど意味がわからなかった。第一、読めない文字が多過ぎる。
 と、背後のドアがこんこんと鳴り、一人の少女が顔を覗かせた。「お茶をお持ち致しました」
 「ああ、ありがとう。ヨオクもこちらにおいで」田は彼女を手招く。少女はおずおずと盆を持ったまま近寄って来た。子供のくせに、妙に洗練された足捌きだった。
 田はデスクに氷の浮いた茶を置く少女の頭をぽんぽんと叩いた。「ほら、ヨオクも自己紹介をなさい。この方々も、皇帝陛下の味方だよ」
 ふわふわのくせ毛を短く切った少女は、ぺこりと頭を下げた。「始めまして、丁 麗玉(チョン・ヨオク)と申します」
 「あら、もしかして姓が違うの?」ベルがそう言うと、麗玉は幼い上目遣いで睨み付けた。
 その頭をくしゃっと撫でながら、田がたしなめる。「こらこら。ちょっと人見知りをする子なんです」
 「自己紹介を聞いていません」ぴしりと幼い少女は言った。ベルの方が一瞬虚を突かれて、きょとんとした表情になる。「自己紹介。それから、皇帝陛下との関係も」
 「ヨオク」田が彼女に何か言おうとするのを遮り、ベルは言った。「私はベル・グロリアス。今はアメリカ人だけど、この国にいた頃、皇帝陛下とはクラスメイトだったわ。関係はそれだけ」
 「ふうん」ようやく麗玉は、納得したのかしていないのかわからないような相槌を打った。ベルはにやっと笑って早口に言う。「あなたと皇帝陛下との関係を聞いていないわ」
 麗玉はさっと顔色を変えた。そして逃げるように踵を返すが、襟首をベルに掴まれて逃げそびれてしまった。彼女は少しもがいたが、やがて諦めて縋るような眼差しを田に向けた。
 苦笑するように目を細め、田が助け舟を入れる。「陛下のご命令で、官邸からお使いに来てくれたのだよね、ヨオク」
 ベルが手を放すと、麗玉はぱっと田の後ろに隠れた。ベルは生え際をがりがりと掻く。「お使い?」
 「トーサツを頼まれました」舌足らずな調子で彼女は言った。ベルは身を乗り出す。「盗撮? 何を……」
 そして思い当たる節に気付いたらしい。はっと息を飲んだ。「……まさか、あの官邸の写真!?」
 麗玉は、どこか得意げにベルの表情を見上げていた。


 麗玉はその日、靴磨きで粗相をして罰掃除を受けさせられていた。夏のきつい日差しの下で、馬鹿みたいにだだっ広い中庭を一人で掃除しなければならず、気が遠くなりそうだった。しかも蝉が、腹が立つほど喧しくて、思わずそれに対抗して彼女まで喚きたくなりそうだった。
 それでも黙々と箒を動かしていると、ふと一階にある一つの窓に気付いた。いつもならカーテンも閉められているはずなのに、今日に限って窓までが押し開けられていた。彼女と同年代の女童達にはお化けが出るともっぱらの噂の窓だったので、彼女は思わず箒を取り落としてしまった。
 思わず窓に釘付けになっていると、その中から真っ白な人影がすっと現れた。思わず麗玉が腰を抜かしてへたり込んでいると、すぐにその人影は彼女に気付いたらしかった。真っ白な細い掌をひらひらと揺らして、麗玉のことを手招いたのだ。
 その人の顔を見た瞬間、麗玉はぞっとした。見たこともないような薄い金色の髪の毛を長く垂らしていて、それでいてぞくぞくするほど深い色の瞳をしていた。ほとんど色なんか着いていないような肌の色なのに、唇だけが塗れたように真っ赤だった。そしてその人は、にっこりと微笑んでいたのだ。それがあまりにも奇麗過ぎて、麗玉はきっとこの人は幽霊なのだろうと思った。
 だけど、麗玉にはその人の誘惑を拒めなかった。何故なら、あまりにも奇麗過ぎたから。彼女はおずおずと近寄って行った。その奇麗な人は、頷きながら更に手招いた。
 麗玉が窓の正面に立つと、その人は微かに首を傾げた。近付いて見ると、ますますその奇麗さが際立っていて、麗玉は思わずずっと見惚れていたいような気分になった。と、その人はおもむろに彼女に尋ねた。「掃除?」
 それが余りにも自然な質問過ぎて、麗玉には少しおかしかった。くすくす笑いながら彼女が頷くと、その人もつられて笑い出した。真っ白な牡丹の花みたいな笑顔だった。
 「お願いがあるんだけど、頼んでもいいかな?」その人の声は、優しかった。それでもそのときになってようやく、麗玉はその人の声が男の人のものだと気付いた。
 惹き込まれたように麗玉が頷くと、その人はちょっと伏目がちに言った。「写真を撮って、それを人に届けて欲しいんだ」
 「写真?」麗玉が尋ね返すと、その人は頷いた。そして申し訳なさそうに付け加える。「カメラ、持ってないかな」
 麗玉はぱっと表情を明るくした。この間、お小遣いを貯めて使い捨てカメラを買ったばかりなのだ。まだフィルムは何枚も残っている。
 「大丈夫よ、持ってる!」彼女が言うと、その奇麗な人は静かに頷いた。
 「君は、ここは好き?」唐突にその人は尋ねた。髪の毛が白い肩からさらさらこぼれる。麗玉はぎょっとして、慌てて頷いた。でも、その人の瞳にじっと見詰められると、嘘が言えなくなった。「……本当は……あんまり……」
 言葉を濁すと、その人はちょっと困ったように目を細めて見せた。「……君の、お父さんやお母さんは?」
 麗玉は俯いた。「いないよ。お姉ちゃんがいたけど、死んじゃった」
 その人は、金色の髪の毛を手の甲で押さえながら言った。「……写真を撮ったら、それを開城まで持って行って欲しいんだ。開城はわかるかな?」
 「うん、電車で行ったことあるよ。大丈夫」麗玉が顔を上げると、その人は軽く頷いた。「開城の駅から歩いて三十分くらいのところなんだけど……行ってもらっても構わないかな」麗
 玉は何度も頷いた。この奇麗な人の為になるのなら、何をやってあげても平気だった。
 突然その人は、自分の小指をかりっと噛んだ。真っ赤な血が滴り落ちる。ぎょっとする麗玉の前で、その人は自分が肩から掛けていた真っ白なシーツの端に小指を当てた。そしてそれで何本もの線を引く。血が乾いて線が掠れてきたら、まだ指を噛んで血を流す。しばらくして、真っ白なシーツの端に簡単な地図が現れた。
 爪と歯を使って器用に地図の部分を切り裂くとき、その人のシーツの下に隠れた素肌が見えた。何も着ていない真っ白な肌には、沢山の傷跡が見えた。麗玉はようやく、その人が幽霊ではないのだと思った。第一、幽霊に真っ赤な血が流れているなんて、おかしい。
 その人は、血で描かれた地図を乾かしてから麗玉に渡した。「……あまり、文字を触らないように気を付けてね」そう注意されたので、麗玉は気を付けて受け取った。
 ふと麗玉は、肝心なことを訊いていないことに気付いた。「何の写真を撮ればいいの?」「ああ」その人はようやく思い出したというように笑った。
 そして、麗玉の顔をじっと見詰めながら言った。「俺の、写真だよ」
 俺、と言う言葉にひどい違和感を覚えながら、麗玉はその人の顔を見上げた。「それじゃ、今カメラ持って来る」
 「ううん、今じゃなくていい」その人は静かに引き止めた。「もうじき総統陛下がここにお見えになるから、そのときに。俺と総統陛下が一緒に入るように撮ってもらえる?」
 麗玉はちょっと自信がなかったけど、頷いた。
 その人は、白い腕をすっと伸ばしてさっきまで麗玉が掃除していた植え込みを指差した。「あそこで撮ればいいよ。他の人に見付からないように気を付けて。撮れたら、俺に持って来なくてもいい。現像に出さなくてもいい。出来るだけ早く、その地図のところへ持って行って。そこにはチョンっていう優しいおじさんがいるから、その人に預ければ後のことは全部やってくれる」
 そして、麗玉の方に手を伸ばし掛けたものの、途中でそれを引っ込めてしまった。代わりに、物凄く優しい声で言う。「君のことも、きっといいようにしてくれるから」
 麗玉は黙って頷いた。「わかった、任せて」
 真剣にそう言うと、ちょっと哀しそうな笑顔をその人は浮かべた。そして、おもむろに尋ねた。「君、名前は何て言うの?」
 どきまぎしながら麗玉は答えた。「よ、ヨオク。チョン・ヨオク、麗しい玉って書くの」
 「いい名前だね」その人にそう言われた瞬間、麗玉は自分の名前が大好きになった。
 その人は、はっと部屋の中を振り返ると、早口に言った。「ヨオク、ありがとう。……ごめんね」
 そして、人差し指を立てると早く向こうへ行くように仕草した。慌てて麗玉は、地図を懐に仕舞いながら駆け出した。
 振り返ったときには、窓はもう閉まっていた。


 田が説明すると、黙って聞き込んでいたベルがおもむろに手を伸ばした。そしてびくっと身を縮める麗玉の頭にぽんぽんと乗せる。「ありがと。あんたのお陰だわ」
 麗玉はぱっとその手を振り払う。「な、何なんですかあなた」
 「あんたのお陰で、あたしここに来ることが出来たのよ。だからありがと」麗玉は怪訝な顔をしたが、振り払うのは止めた。
 田は、ふと席から立ち上がり窓辺に歩いた。そして窓の下の景色を眺めると、ふと甫民を手招いた。それに気付いた甫民が、のんびりとした足取りで歩み寄る。
 人好きのする顔立ちに険しい表情を浮かべ、田は囁くように尋ねた。「あの子は? 似過ぎていやしませんか?」
 「誰にだね」はぐらかすように甫民は窓の外の空を見上げた。夏らしい見事な晴天だった。
 田は、顎に手を当てた。「ああも似ていると、不気味な気さえするんです」「あなたが、そんな根拠のないものを気にするとは。珍しいことだね」
 甫民は朗らかに言った。「そこまで詮索する必要はないだろう」
 「しかし……」田はなおも食い下がった。「もしも彼女が施氏なら……あの『マダム・イーグル』の血を引くのなら、政府が黙ってはいない。それはあまりに危険です」
 不意に、ぎいと何かが軋む音がした。びくりと田は背後を振り返る。
 デイビーが、空いている椅子に腰掛けた音だった。ほっと胸を撫で下ろす田に向かって、デイビーはにっと笑顔を浮かべて見せた。
 悪戯っぽい、何か含むもののある笑顔だった。




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