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第六夜


 ――まだむは、ほとんど書物にうづもれるようにして何某かの書を読んでおられました。驚くべきことに、その書物はずつしりとして重厚な羊皮紙の独逸古書でござゐました。わたくしが声を上げると、彼女は燭台に照らされてゐた横顔をゆつくりとこちらに向けられました。華奢な御姿ではあられましたものの、その御目はきらきらと鋭く澄み通つており、どこか野の鷹を思はせるものでござゐました。この国ふうに言ふのならば海東青と言ふのでせうか、皇帝陛下の左腕でゆつたりと翼を繕ひ、勅命に従ひて勇ましくも蛇蝎を狩る鷹の化身のようでござゐました。
 歳若きまだむは、わたくしにちらりと一瞥を向け、仰ひました。
 「ジョセフ画伯、こんな時間に無礼ぢゃあござゐませんか」

(アーサー・ジョセフ著 竹中芳視訳 『東洋異聞』)



   第六夜



 大花はぺたんとへたり込んでいた。その隣で、小魚は膝に顔を埋めている。二人ともひどく憔悴しきっていた。
 二人は、まず母親が経営する店に行った。この時間帯だとまず確実に店に入って準備をしているはずだと考えたのだ。だが、その読みは大きく外れていた。店に母親はいなかった。正しくは、店その物がなくなっていたのだ。看板は外され、そこだけ日に焼けていない壁が剥き出しになっていた。ドアには当然のように鍵が掛けられて、その上ノブに南京錠を取り付けた鎖が廻らされていた。そしてその鎖に下げられた『売屋』の札。
 驚いた双子は、大急ぎで家族で住んでいたアパートへ向かった。だが、あるべき場所にアパートはなかった。ごみごみとした夜の街の外れに、そこだけぽっかりと木材の積まれた空間があった。思わず二人は目を疑ったが、何度目を擦ってもそこに彼等の自宅だった建物は現れなかった。
 それから、再び店の方へ戻った。何か手掛かりを求めて、南京錠を壊し合鍵を使って彼等は店に入った。鍵は幸い替えられてはいなかった。
 店の扉を開いた瞬間、ひどく嫌な臭いがした。どこかで嗅いだことがある、と大花は考え、小魚は思い当たる節を発見した。半年以上も前に、『プログラム』の会場内にあった劇場でよく似た臭いを嗅いだ覚えがあったのだ。もっともそのときの臭いはここよりも遥かに強烈だったのだが、そのときのことを思い出した瞬間に、彼等はぞくりと肩を震わせた。
 嫌な気配を追い払おうと大花が店の戸を目一杯開いたとき、よその店の明かりがこの店内に入り込んで来た。そして、次の瞬間に二人の目には信じられないものが飛び込んだ。
 それが、店の床一面にぶちまけられた古い血痕だった。
 ――それからのことはほとんど覚えていない。転がるように店を飛び出して、そのまま逃げてしまった。途中で酔っ払いにぶつかったような気もしたが、記憶がひどくあやふやだった。気が付くと、裏寂れたビルの間の袋小路に二人で小さく縮こまっていた。
 「……ねえ、シャオユウ」大花は、ぼんやりと弟の方を向いた。
 少しだけ小魚が顔を上げる。ふと彼は、大花の二の腕をぱしっと叩いた。大花は不機嫌そうに眉をひそめながら、目を瞬かせる。「何なのよ」
 小魚は黙って掌を大花に突き出した。その掌のほとんど中央に、潰れた蚊の残骸と小さな血痕が着いていた。「蚊。痒くなるよ」「やだ、痕になるじゃない……」言い掛けて大花は黙り込んだ。
 大花が考えていたことを、小魚が代わりに言った。「母さんも、よくそう言ってたよね」「うん」
 信じられなかった。信じたくなかった。だが、目の前に突き出された事実を拒絶する程、二人は子供ではなくなっていた。それが辛かった。
 大花は、おもむろに小魚の頬をぺしっと叩いた。
 「蚊。逃げられちゃった」
 小魚は少しだけくすっと笑い、再び黙り込んだ。今はもう何も考えたくなかった。
 (ベルは……あいつはどうしてるんだろう)


 立ち込め始めた夕闇の中を、ベルは一人で走っていた。この辺りは慣れた道だ、幾ら方向音痴でも間違えようがない。擦り過ぎて真っ赤になった頬に、まだなお涙の雫が迸っていた。
 彼女は、さっき走って来た道を逆に辿って行った。車の交通量はだいぶ増えていたが、ぶつかりそうになりながら、それでも危なく避けていた。もはや制止する者は誰もいない。ベルは一気にさっきの橋の上まで辿り付いた。
 橋の上から河川敷を見下ろすと、だいぶ人影は疎らになっていた。そろそろさすがに店仕舞いだろう。だが、それもほとんど意に介せずにベルは叫んだ。
 「セト・ホーミン! どこにいるの、出て来なさい!」
 道を行く人も、混雑した道路を徐行する車の運転手も、遠く離れた河川敷にちらほらと残った耳の悪そうな老人達でさえベルのことを振り向いた。だが、それらの視線の中に目当ての人物を発見出来ないベルは、再び叫ぶ。「セト・ホーミン! 皇帝の命が掛かってるのよ、早く出て来なさい!」
 彼女の周りを取り囲んだ人垣は、何やらざわめいていた。と、その人垣を破って数人の警官がやって来た。車さえ蹴散らしながら走ったベルの騒ぎを聞き付けたらしい。口惜しそうにベルは一回だけ舌を打ったが、彼等を無視して叫び続けた。「出て来なさい! あんたが協力してくれないと、Mr.リューを助けられないの! あんた、あいつの育ての親なんでしょ、見捨てるつもりなの!?」
 警官達は少し顔を見合わせたが、一斉にベルを取り押さえた。屈強な彼等の腕の中で、ベルは死に物狂いでもがく。
 「早くしてセト・ホーミン!」彼がこの辺りにいるという根拠はほとんどなかった。それでも、それを信じていないとどうしようもない。完全に八方塞だった。
 「いいから君、やめなさい。どれほどの人に迷惑が……」そう言い掛けた警官の腕に、ベルは思い切り噛み付いた。半袖で剥き出しになった腕から血がぽたぽたと垂れる。警官は悲鳴を上げて手を離した。
 「どこなの、セト・ホーミン!」警官達が少し怯んだので、その隙に彼女は振り切ろうとした。
 暴れるベルと、取り押さえる警官達と、それを取り囲む野次馬。彼等によって、橋の上の車道は完全に寸断されていた。
 突然、けたたましいクラクションとブレーキの軋む音が響いた。その次の瞬間にざっと人垣が割れる。大型のオ−トバイが、凄まじい勢いで突っ込んで来たのだ。野次馬も警官も、それに思わず釘付けになった。
 その一瞬をベルは見逃さなかった。彼女は身を捩って警官の手を振り払った後、掠るような至近距離を通り過ぎて行くバイクの横っ腹に飛び付いた。フルフェイスのヘルメットで顔を隠した運転手が、一瞬のタイミングのずれもなく彼女の身体を引っ抱え、懐に抱え込んだ。そして更にスピードを上げ、疾風のように走り去る。
 多くの野次馬は呆気に取られて彼等の姿を見送ったが、さすがに警官達はすぐに我に返った。そして何か大声で叫びながら、オートバイを追い掛けようとする。だが、あっという間に車体の影は見えなくなってしまっていた。
 後には、黒々としたブレーキ痕と、いつの間にか集まった野次馬と、完全に出し抜かれてしまった警官等と、玉突き衝突を起こして橋上に散乱した二車線分の自動車が残されただけだった。


 バイクは、そのまま猛烈な勢いで道を左右に曲がりくねり、細い路地に入って行った。完全に追手を撹乱すると、ようやくバイクはゆったりと止まった。
 「……無茶するんだから」ベルはぴょんと地面に飛び降りた。ヘルメットの下から出て来たデイビーは、悪戯を叱られたような表情をしている。ハンドルに足を乗せて靴紐を片足ずつ結び直すと、彼はその場に下りてバイクスタンドをロックした。
 ふと、ベルはオートバイのシリンダーに目をやる。そこには、何かの鉄屑の切れっ端と針金が差し込んであった。
 「本当に無茶苦茶」溜め息を吐きながらデイビーの顔を見上げると、彼は目の前にある借家を見詰めていた。つられてベルもそちらを向く。そしてやっと気が付いた。
 目の前の借家には明かりが点いていた。そして間もなくその玄関が軋んだ音を立てて開いた。ようやく気が付いた。ここに、来たことがある。ほんの数時間前、この町に帰って来た直後に、まず一番に立ち寄ったところだった。
 扉の向こうから、小柄な老人が姿を現した。額の秀でた、真っ白な見事な髭を持つ、仙人のような容貌を持った老爺に、ベルは釘付けになる。
 相手は少し目を細めた後、やはりその目に驚愕の色を浮かばせた。だが、それだけではない。微かな感嘆と諦めも滲んでいた。
 先に口を開いたのは、ベルだった。「あなた、セト・ホーミンね」
 「――セ・カンメイ。話には聞いていたよ」甫民はそう答えた。少し驚いたが、さほど意外な気がしなかった。そしてベルには、それがかえって意外だった。


 彼女は、きょろきょろと左右を見渡した。まだ日は高い。日が暮れるまでに寝場所を確保できればよい、と思いながら、彼女はぽつぽつと歩き始めた。
 初めての土地はやはり不安ではあったが、もう慣れたものだった。故郷を追われ、ひたすら追手から逃げ、やっと見付けた安息の地さえ離れ、たった一人の人間を捜し求め旅を続ける彼女には、感傷に浸る暇などなかった。ただ前だけを見詰め歩くしかなかった。そして何より、彼女はそれを不幸なことだとこれっぽっちも思っていなかった。捜し求めている人と再会するその瞬間だけを信じて歩く彼女は、確かにどこか幸せそうな表情を浮かべていた。
 町一番の大通りに沿って、彼女はゆっくりと歩いていた。小さな手荷物を揺すり上げながら親切そうな人を探す。あまり急いでいる人を引き止めてはいけない。そう思いながら左右をきょろきょろと見渡す。
 と、通りを行く人々に気を取られて、彼女は足元に置かれていた箱に気付かなかった。酒屋の戸口近くに積み上げられた酒瓶の入った箱に足を取られ、ぐらりと大きく身体が傾ぐ。
 腹部を打たないように咄嗟に身体を捻ったせいで、横っ面から肩に掛けてをしたたか打ち付けてしまった。思わず彼女は呻き声を上げて蹲る。
 通りを歩いていた数人が彼女に気付き、駆け寄って来た。店の中からも店主と思しき中年の夫婦が出て来る。耳鳴りと鈍痛に顔を歪めながら、彼女は地面を慌てて見渡した。酒の瓶の欠片が地面にぶちまけられており、アルコールの臭いのする赤っぽい液体が路上に染み込んでいた。愕然として彼女は顔を上げる。「す……すみません」
 若い労働者風の男等が、彼女のことを抱え起こした。「怪我はないか?」「どこか打ってないか?」
 きょとんとして彼女は人々の顔を見渡す。心配そうに覗き込む顔ばかりが、幾つも見えた。
 店の中年の女性も心配そうに彼女の身体を確かめた。「お腹の赤ちゃんは大丈夫だろうね? ああ、ごめんね。こんなところに荷物なんか重ねておくもんだから」そして夫と思しき男に水を向けた。「何やってんだよあんた。早く店に入れておけって言っただろうに」夫の方は、申し訳なさそうに前掛けを手で弄りながら言った。「悪い悪い。本当にすまないね」
 訳がわからない、と言った調子で彼女は周囲の人々を見詰めていた。独特の訛がある早口なのでうまく意味は掴めないが、どうやら怒っている風ではないらしい。むしろ心配してくれているような印象である。女は恐縮してしまった。「い、いえ。わたしが、よくまえをみていなかったから……」
 そのとき丁度誰かの手が肩に当たり、彼女は痛みに息を飲んだ。心配そうに人々は彼女を覗き込む。
 店の女将が、太い腕で彼女の身体を支えながら言った。「ちょっと休んで行くかい。こっちにも責任があるんだしさ」彼女は首を振ろうとしたが、打撲した部分が痛くて上手く動けなかった。黙り込んで、痛みを堪えながら歯を食い縛る。
 「あんた、氷!」女将がそう叫ぶと、男店主が慌てて店の奥へと引っ込んで行った。そして若い女は人々に手を貸されながら、酒屋の奥へと運ばれた。
 耳鳴りは、少しずつひどくなって行くようだった。


 飛竜はぼんやりと薄目を開けた。遠くでざわめきが聞こえたような気がしたのだ。顔を横に向けると、病室の戸口のところにあの劉医師が立っていた。ドアをのすぐ向こう側には、保健士らしい服装の人物が立っている。ドアが開いているせいで喧騒が聞こえて来たのか、とようやく彼は腑に落ちた。ただ、ベッドの周りに透明なカーテンが張られているので、視界が歪んで彼等の表情まではよく見えない。
 劉医師と保健士は何か話していたが、医師の方が先に飛竜に気付いて話を切り上げた。何か相槌を打つような仕草を見せながら、劉医師は内側から扉を閉める。
 「気分はどうですか?」こちらを向いて、近付いて来ながら彼は尋ねた。飛竜は苦笑して見せながら、はっとして早口に尋ねた。「俺、何か寝言は言わなかったか?」「いいえ。僕もさっき来たところですが、ぐっすりとお休みでしたよ」
 飛竜はほっとしたようだった。軽く目を閉じ、再び瞼を押し上げた。そして室内の壁に視線をさ迷わせると、目敏く劉医師がそれに気付いた。
 「時計は、枕元にありますよ」言われて目をやると、簡素なアラームの付いたアナログ時計が備え付けられていた。秒針が一定の速度でゆったりと回り続ける為、時を刻む音のしない時計だった。
 「ああ……もうこんな時間か」「窓がありませんからね」劉医師はおっとりと笑った。飛竜は時計から目を離し、劉医師をじっと見た。
 医師は子供のように首を傾げた。「どうかしましたか?」
 「何だか、考えてることが全部見通されてる気がする」何を考えているのかわからない口調で飛竜は答えた。それを見て劉医師はくすくすと声を上げる。「それは当たり前でしょう。僕とあなたはよく似ていますから」
 言いながら、彼はベッド脇のモニターを覗き込んだ。自分自身のデータにも関わらず、飛竜の場所からそれを見ることは出来ない。
 「確かに同性同名で同貫だが……」
 「僕の奥さんもね、お腹に赤ちゃんがいるんですよ」おもむろに劉医師はそう言った。飛竜は一瞬瞠目した後、一息置いて目を細めた。「……そうか」
 罪のない笑顔で医師は尋ねた。「ロンのところは、いつ頃が予定日なんですか?」
 ――ここでもまた、気を許してはいけない。そう飛竜は自分に念じる。この男が彼女のことを知っているということは、政府の側にも同じだけの情報が行き渡っているのだろう。自分自身のデータファイルに彼女の項目が添付されている以上、これ以上の情報をくれてやる訳にはいかない。うっかりと気を許して、それが彼女を追い詰めることになるのだけは何としても避けなければならなかった。
 飛竜は医師から目を反らした。「迂闊に教える訳には行かないんで」
 「そうですか」残念そうに、けれどもさほど意外そうでもない様子で劉医師は言い、思い出したように付け加えた。「僕のところは冬頃の予定です。女の子ですよ」
 少し沈黙を置いた後、飛竜は呟くようにぽつりと言った。「俺の子は、どっちだかわからない。会っても、自分の子だとわかるかどうか自信がない」
 「初めてお父さんになる人は、そう言うものですよ。大丈夫です」医師は優しげに目を細める。
 まだ若いこの男にはもう何人か子供がいるのか、と少し飛竜は気になったが、あまり切実に気になった訳でもないので敢えて尋ねなかった。それに、もっと別に気になったことがある。「……お前、家族がいるのにこんな仕事やってて、何か思ったりすることないのか?」
 彼の問いの意味がよくわからない、と言ったように劉医師は首を傾げた。
 少しだけじれったく感じながら、飛竜は一息置いて呼吸を落ち付かせた後、ゆっくりと小さな声で言った。「俺みたいなタチの悪い伝染病の奴もいるのに、医者なんかやってたら伝染る、とか思わないのか? それを家族に伝染してしまったら、とか考えたりしないのか?」全部言い終わったら、息が切れていた。
 劉医師はポケットから聴診器を取り出して、飛竜の胸に当てた。「僕には伝染りません、絶対に」そしてとんとんと肋骨の辺りを何度か叩いた後、聴診器を耳から外した。「そう信じていないと医者なんてやっていけませんよ。――少し無理が過ぎたようですね。後で別のお薬持って来ますから、休んでいて下さい」
 静かな掠れた声で飛竜は言った。「いっそこのまま死んでもいいかもな」
 「駄目ですよ。あなたを治すのが僕のお仕事なんですからね」至極真っ当なことを冗談めかしてそう言うと、劉医師は片目を閉じて見せた。「死んで哀しむ人がいる人間は、死んではいけないんです」
 自嘲的に飛竜は笑った。「……大丈夫、俺が死んでも、伝える術がないから」
 ふと、それを見て劉医師は不思議な微笑みを浮かべた。「僕もあなたも今まで死んだことはありませんよ。これから先、不死身になるという可能性だって、百パーセント有り得ない訳ではありません」
 飛竜は、一瞬背中に冷たいものを感じながら医師の顔を見詰めた。なぜか、どんな脅しよりもその言葉は寒気を伴って聞こえた。
 唖然とした飛竜の顔を眺めながら、劉医師は奇妙に穏やかな笑みを留めた唇をそっと解いた。「お疲れのようですね、もういい加減にお休みなさい」
 ひそめた声で飛竜は言った。ほんの僅かな間に、完全に息が切れていた。「――俺は、不死身にはなりたくない」
 「そうですか」
 劉医師は、同意も否認もしないような穏やかな口振りでそう言い、そして部屋のドアを開いた。再び外部の喧騒が流れ込み、外側から劉医師が扉を閉じたことで再び沈黙が降り立った。
 飛竜は、静かに瞼を瞳に被せた。聞く相手もいないのに一人ごちるほどの体力は残っていなかったので、ゆっくりと頭の中に刻み付けるように考えた。
 (――ごめん)瞼の裏の闇に浮かび上がるように、彼女の姿が仄見えた気がした。彼は眉間を寄せる。(ごめん)
 多分、お前のこと迎えに行けそうにない。


 「伯父さん、だからさっきから何度も言ってるだろう! 俺は止めたんだってば」
 全は傍で聞くだに情けない声を上げた。その隣で楊は黙って歯を食い縛っている。
 迂闊だった。あまりにも迂闊だった。侵入者がまだあどけない女だと思って、完全に油断してしまっていた。幸い今回は事無きを得たようだが、このことが今後国家に対し、どのような波紋を投げ掛けるかは計り知れない。
 楊と全は、所属軍団の上官である全秀漢(チョン・スハン)陸軍大佐の前に立たされていた。大佐直々に下っ端の前に出て来ることなどそうはない。よほどの手柄を立てたときか、そうでなければよほどの不祥事を出したときのみである。
 眉間に向こう傷のある、険しい顔をした大佐は静かに言った。「任務中だ。大佐と呼べ、全警備兵」「……申し訳ありません、全大佐」ばつが悪そうに、この軍人の弟の一人息子は俯いた。
 楊は、必死に言葉を捻った挙句やっとの思いで口を開いた。「あの、全大佐。全警備兵は悪くありません。今回のことは俺一人の一存で……」「それを止め切れなかったのは、全警備兵の怠惰だ、楊警備兵」鋭く大佐は言った。それ以上、楊は何も言うことが出来なかった。
 「もうこれ以上、申し開きはないか」大佐は革靴で固い足音を立てながら、二人の回りをぐるりと歩いた。二人とも、黙り込んだまま俯く。表情の読めない口髭に指を当て、大佐は二人をじっと観察した。身内の人間を見ているとは到底思えない、冷ややかな眼差しだった。
 おもむろに大佐は口を開いた。びくりと若い兵士二人は身を強張らせる。「二人共に……」
 次の瞬間、大佐の職務室の扉がこつこつと鳴った。鬱陶しそうに大佐はそちらを向く。「何だ」
 きい、と軋む音を立てて扉が開き、そこに若い機敏そうな軍服の男が立っていた。手はきっちりと敬礼の形を取っている。「申し上げます。先程、開城北警察署が何者かによって爆破された模様です」
 処罰を命じられるところだった二人の若い兵士は、同時に顔色を変えた。大佐でさえ微かに瞠目した。「爆破……過激派の攻撃か?」
 「詳細はわかっておりませんが……」伝令の軍人は多少言葉を濁した。大佐は目で先を促す。おずおずと伝令兵は言った。「爆弾は最低三つ以上。それも多少の時間差を置いて爆発するように仕掛けられていたそうです」
 「それは、蒼い炎を上げる爆弾ではなかったか?」鋭く固い口調で大佐は早口に尋ねた。戸口に立ち尽くしている軍人は残念そうに言う。「いえ、そこまではわかっておりません」
 と、大佐は伝令の軍人を押し退けるようにして扉に手を掛けた。問い掛けるような三人の若い兵士等の眼差しを、彼は完全に黙殺した。そして、靴音高く颯爽と大佐は廊下の向こうへと消えて行った。
 残された三人は茫然とその場に立ち尽くしていたが、やがて伝令に来た兵士だけがそそくさと去って行った。
 「なあ、俺達どうなるんだろう」ぼんやりと小さく、全が言った。更に小さな声で、楊は答えた。「さあ……」


 大花は、小魚の手を引いて歩いていた。取り敢えず、今日の寝床を探さなければならない。別に綺麗に整えられている必要はない、虫と排気ガスを避けられそうな場所ならどこでもよかった。
 小魚が突然、大きな荷物にもたれ掛かるようにして立ち止まってしまった。足を運び掛けて気付いた大花が振り向く。「駄目よ、どこかちゃんとした場所で休まなくっちゃ」
 小魚は、じっと地面を見詰めていた。その背中を大花がばんばんと叩く。「あたしだって辛いのは同じなのよ。ねえ、どうせ泣くなら蚊の来ないところで泣こうよ」
 小さな仕草で小魚は頷いた。弟を励ましながら、大花は再び足を運び始めた。
 その瞬間、おもむろに小魚は口を開いた。「母さんは……」「確か駅前に、オールナイトのお店あったわよね?」早口に遮った大花の言葉が切れるのを待って、小魚はゆっくりと言った。「……幸せだったかな」
 大花は思わず俯いた。何も言えず、黙って唇を噛んだ。
 ふと、母親について思い出そうとして、自分達が彼女について知っていることがあまりにも少ないということに気付かされた。愕然としながら立ち止まると、それを見透かしたように小魚が言った。「俺達、本当に子供だね。今までろくにこんなこと、考えても見なかった」
 自立したと思っていた。自分達はもう、親の手を離れても十分平気で生きて行けると思っていた。だが――。
 親にとって、子供が一生子供であるように、子供にとって親は一生親なのだと、改めて直面させられた。そんなごく当たり前のことに、今に至るまで気付かなかった。そんな自分を省みながら、大花は呟く。
 「……馬っ鹿だなあ、あたし達。本物の馬っ鹿だあ」そして、空を見上げた。
 ビルに切り取られた小さな夜空には、星が一つも見えなかった。月さえもまだ昇らない、寂しい夜空。それが一気に曇ってゆらりと揺れた。頬がかあっと熱くなった。隣で、啜り上げるような声が聞こえる。「馬っ鹿だあああああ……」
 双子は、迷子になった子供のように、夜の街の狭間で嗚咽を上げていた。


 その頃、駅前の電光掲示板に速報ニュースが流れた。
 『今日十九時頃、開城北警察署で不審物が爆発。死傷者並びに行方不明者は今のところ不明。過激派によるテロ行為との見方が濃厚』
 双子がこれを目にする為には、もう少し涙を流す時間が必要だった。


 ふとクレアは時計に目をやって、溜め息を吐いた。「今夜も完徹……」
 外がすっかり明るくなってしまっていることに今更のように気付いて、彼女は腰掛けていたベッドから立ち上がった。ずっと付けっぱなしにしていたコンボから、エンドレスでロックが流れ続けていたことに今更のように気付く。
 ローテーブルの上のカップに保温ポットから湯を注ぎ、インスタントコーヒーを淹れるとクレア・パーマンは息を吹き掛けながら口を付けた。後でシャワーを浴びてから、出勤しなければならない。
 彼女は、ベッドの上に置かれた本に目を注いだ。『東洋異聞』という金色の題字に、彼女は苦笑する。異聞、と言われても、彼女の手元に入る東洋諸国の史料なんてひどく限定されている。この時代の文献と言えば、もしかしたらこの本しかないかもしれない。
 ――確かに、一般的な歴史書や紀行文とは明らかに一線を画す書籍であった。乾朝終末期の中華に派遣され皇帝とその后妃に厚遇された一人の英国外交官が、自分自身、そして皇帝や后妃等の立場から各国の情勢を見詰め、それと同時に激動の中華自体の歴史を手記の形式で記録したものだった。筆者自身の言うように、王朝や王朝関係者に肩入れしているように思われる箇所は随所にあったが、それでもなお史料として十分使用にあたうるものだった。
 そして何より、単純な読み物として面白かった。筆者の奇妙に軽やかな文体や、至るところに挿入された筆者自身の手によるスケッチ等はクレアの趣味に合った。
 コンボから流れる歌声は、アルタイ系の言語で何か叫び訴えていた。
 クレア・パーマンは、小さな古びた本を拾い上げた。そしてコーヒーを啜りながら、ぱらぱらとページを捲って見る。「マダム・イーグルは、渤海沿岸を勢力域にしてたのよね。ってことは、旧韓半民国は王朝派と繋がりが深かったって訳だ」
 マダム・イーグルとは、文中に繰り返し登場する皇帝の后妃の愛称である。イーグルすなわち皇帝が鷹狩で使用した名鷹海東青の愛称通り、物静かで大人しい皇帝に代わり、少々荒っぽいが優れた政治を行った女傑だったらしい。
 著者によるマダム・イーグルの精緻なデッサンを見ながら、ふとクレアは声を上げた。「……この人、誰かに似てると思ったら『W.D.』のベル・グロリアスにそっくりなんだわ」
 同じ東洋人だから似ているように思えただけか、とも思ったが、どこか一点を見据える強い瞳や鋭利な顔立ちは確かに共通していた。これで肖像画をもう少し幼い感じにして、彼女の特徴である短く切った髪の毛を腰の下まで伸ばしたら、本当にあの天才少女と瓜二つになるだろう。
 この后妃は、国民政府軍の革命の波に飲み込まれた本国南部に早々に見切りを付け、勢力圏を北東部に移動した。南部では反対勢力が力を伸ばしていたとは言えども、首都部の民衆からは依然として王朝が強く支持されており、結果的に半島北部辺りまでは彼女の、如いては王朝派の色彩が濃厚だったと言う。
 第一、中華南部で国民政府と呼ばれる偽政府が組織されたのも、決して皇帝に対する不満からではなかったらしい。柯南州は昔から、列国に先駆けて共産政府を打ち建てたドイツと親睦が深く、それで当時の州の長官がドイツを真似た自治を行い出したのが、国民政府の起源であったと言う。
 「こんだけ善政敷いてたら、国民に恨まれるはずない……か」
 海東青夫人は、まず何より国家の近代化を図った。国が回転するようになれば、次第に国自体が豊かになる。その為政府は交易を推奨し、また盛んな国交も行った。同時に学校制度も整えた。首都北師周辺の当時の識字率は、世界的にも著しいものだったらしい。結局彼女は登極してからほんの五年で、信じられないほどの国家の建て直しを行った訳である。
 だが、王朝が勢力を拡大するのと同時に、国民政府もまた南部で勢いを伸ばして来ていた。双方が上手く共存する糸口も見付からない状態がしばらく続き、あるとき突然に王朝が崩壊した。あまりに突然のことで、手記の筆者自身状況が飲み込めなかったらしい。ただ、皇帝は弑されるような形で崩御し、筆者は混乱を逃れ国外に退去し、真実はあやふやなまま闇に葬られた。
 愛してる、とコンボの中で若い歌手は叫んでいた。少しうるさいな、と思い、クレアは手元のリモコンで音量を落とす。
 その後の歴史をクレアは思い出してみる。学生時代、世界史の時間では余りにも呆気なく流されて、大学で勉強しようにも不幸にもその辺りに詳しい教授に巡り合えなかった為、情けなくなるほど曖昧な知識しか持っていなかった。
 「……その後中華から半島に掛けて混乱期に入って、世界対戦が終わってみたら半島は南北に分裂していた、と」コーヒーに唇を当てながら彼女は眉間を寄せた。「皮肉な話よね。もしも王朝があんなに力を持ってなかったら、きっと南北分裂なんかしなかっただろうに」
 そこで、彼女は何か引っ掛かるものを感じた。そう、この半島は二つに分裂していたのだ、つい最近まで。つまり、二つに分かれている必要があったのだ。
 クレアは思わず『東洋異聞』の表紙を見詰めた。
 「……国民政府によって、王朝は滅亡したのよね。それで、皇帝の縁者は皆殺しにあったのよね?」
 今まで気付かなかった自分の迂闊さに、クレアは爪を噛んだ。そう、皇帝とその縁者は死に絶えたはずなのだ。マダム・イーグルも消息を断ち、皇帝と皇后の間に生まれたたった一人の皇子もまた殺されたとアーサー・ジョセフは記述しているのだ。つまり、王朝派勢力の担い手は存在するはずがないのだが――。
 現実はどうだろう。一つの半島の南北分裂、つまり二つの勢力のせめぎあい。南部は国民政府の流れを汲む赤い勢力である。では、北は――水面下でなびく雌黄の皇帝旗が垣間見えはしないだろうか。
 もしも、親皇派だったアーサー・ジョセフが意図的に嘘を記述していたら――つまり、皇帝の忘れ形見である皇子を庇う為に、敢えて「死んだ」と書いたのだとしたら――。無論、何の根拠もない想像である。単なる妄想とさえ呼べるかもしれない。だが、そうとでも考えない限り、辻褄が合わないではないか。
 恐らく、バーグナー編集長も同じような思索を経て、同じ結論に辿り着いたのだろう。だとしたら、彼もきっとクレアと同じことを考えているに違いない。
 「……皇帝の後継者は、分裂後どうなったの?」
 コンボの中の若い歌手が、「愛してる」というリフレインを叫んでいた。


 「綺麗な炎が上がるだろう」甫民は、火薬を調合しながら誇らしげに言った。
 「あの火薬の調合が出来るのは、我々だけなんだよ。同時にあの炎は、烽火の役割も果たしているんだ」「烽火?」ベルは、導線を繋ぐ手を止めて尋ねた。
 デイビーは、黙ってバックミラーで後部座席を眺めた。老人と少女が何かしきりに話しているようだが、元より言葉のわからない彼には関係がない。そんなことよりも、このハンドルが右側にある大東亜規格の車を運転するのに、神経を注ぎ込んでいた。
 甫民は、少し声を抑える。「あれだけ高く炎が上がれば、周辺の人間は必ず気付くだろう。同時に、映像で中継されればあの情報は半島全域に瞬く内に広がる。わたしの仲間達は、それを合図に準備を整えるはずだ」
 ベルは微かに息を飲んだ。「仲間って……」「そう、仲間。わたしと志を同じくする者が、半島全体におよそ一千五百人いる」
 唖然とした表情を浮かべて口をぽかんと開けた後、ベルは瞳を瞬かせた。そして、その言葉の意味を反芻するように息を飲んで、それを吐き出す口調を荒げた。「それじゃ、どうして今まで何もしなかったの!? 皇帝が捕まったのに、どうして助けなかったの!?」
 「助けたかったよ」静かな口調で老人は言った。余りにもさり気ない口調だったが、デイビーはふと、ミラーに写った彼の節くれ立った手が止まっているのに気付いた。「助けたかった。だが、どう動けばよかったんだ」
 ペンチをぐっと握り締めながら、ベルは老人の表情を見詰めた。
 その視線に気付いているのかいないのか、甫民は淡々と続ける。「肝心の陛下は、プログラムからの逃亡に失敗して政府に囚われている。助けるには動かなければならない、だが、人質がいる以上我々は動けない。政府の連中がどんなに傍若無人な行いをしても、それまでのように水面下で圧力を掛けることが出来ない。――いっそ、殺されてくれていれば、とさえ思ったよ」
 甫民は、微かに青みがかった瞳を見開いた。ぞくりと粟立つものを感じて、ベルは僅かに身を縮ませた。
 ぼそぼそと老人は、もう一言だけ付け加えた。「助けたくないはずがないじゃないか。わたしが、この手で、手塩にかけてお育て申し上げたんだから」
 「……どうして、あたしに反対しなかったの?」ベルは抑えた声で尋ねた。彼女は甫民と目を合わせようとしなかったし、甫民もまたベルの目を見ようとはしなかった。「ずっと我慢してたんでしょ。今までずっと、動いちゃいけないって我慢して来てたのに、どうして今更あたしの提案に乗ったの?」
 「一度掛金が飛んだら、もう二度と戻らないんだよ」奇妙に軽やかな声で、老人は言った。「我々の元に入って来る陛下の情報は極端に少ない。だからこそ迂闊な真似は出来ないと、ずっと堪え得ることが出来たんだ。だが、あなたは陛下と会った。そしてわたしの前に現れた」
 彼はふと歯のない口を歪め、凄みのある笑みを浮かべた。「あなたは言ったね? あなたの逃げようという呼び掛けに、陛下は乗らなかったと」
 老人の、行動と余りにもそぐわない老醜に、知らずにベルは気圧される。「それが意味するところは、二つ。決して逃げられない、と言う意味か――そうでなければ、逃げる必要がない、と言う意味だ。あなたがあの官邸から脱出して現実にここにいる以上、逃げられないというのは極めて稀薄だろう。だとすれば、意味するところは後者」
 信号で車を止めたデイビーが、ちらりと後ろを振り返った。ベルは、興味を惹かれたときにいつもするように、目を何度も瞬かせながら身を乗り出していた。
 老人は、火薬を調合する手を再び動かし始めた。不器用そうに震える節くれ立った指先は、驚くほど正確に薬剤の量を量り取ってゆく。「陛下は、聡明なお方だ。きちんとご自分が置かれている状況をご理解なさっておられる。その上で、逃げる必要がないと判断されたのならば、我々に逆らう権利はない」
 「そんな……」何か言い掛けたベルの言葉を、やんわりと老爺は遮った。「それがどんな結果になろうとも、陛下がお決めになったことだ」
 ベルは、更に身を乗り出した。そして甫民の腕を掴むと、鋭く言った。「それじゃ駄目。絶対に助けて」
 老人は奇怪に笑ったが、その目は笑っていなかった。
 「――助けられると思うかい?」
 一瞬、ベルの脳裏に左利き用のナイフが浮かんだ。同時に、あの夕暮れに浮かぶ焼け跡。彼女は、右寄りの前髪に入ったメッシュの根元をがりがりと掻く。
 そして、老人に向かって投げ付けるように言った。「助けるわよ、何があっても助け出すわ」
 その目許は、微かに紅潮していた。


 劉が病室の中に入ると、ビニールカーテンの向こうで患者は静かに眠っていた。起こさないように足音を忍ばせつつ彼はベッドに近寄り、カーテンを僅かに開く。
 飛竜は長い亜麻色の髪を打ち広げて、じっと唇を噛み締めたまま眠っていた。微かな薄明かりで、目許に睫毛の影が落ちているのがわかる。少し汗ばんだ額には前髪が絡み付いていた。劉は緩慢な仕草でベッド脇に腰掛け、じっと飛竜の寝顔を眺めていた。
 と、不意に飛竜の唇が震えた。劉は何の色もない無表情で、その口許に耳を近付ける。微かな、本当に微かな声で飛竜は呟いた。「……ホンファン」
 その瞬間、シーツの擦れる音がした。飛竜が僅かに苦悶するような表情を浮かべたので、劉は微かに身じろいで、すっと立ち上がる。だが、それ以上動く必要はなかった。シーツの音は、その端を飛竜が握り締めたことで立ったものだったらしい。
 飛竜の青褪めた唇は、また少し動いた。「……ごめん……俺……」
 劉は、じっと瞼を伏せた。「……俺、もうお前に逢えない……ごめんな。俺、お前に逢っちゃいけない……」
 ふと気付くと、飛竜は微かに、しかし確実に瞳を開いていた。薄明かりに照らされる双眸は深い深い紫。だが、その瞳は何の像も捉えていなかった。劉はその頬に触れ、じっと紫藍の瞳を覗き込む。
 飛竜は、目の前の劉に気付かないまま呟いた。「……ホンファン、俺の――」
 劉は、少しだけ微笑みを浮かべると頷いて見せた。そして、微笑みを湛えたままの唇を、意識のない飛竜のそれに重ねる。
 ようやく劉が唇を離したとき、飛竜は既に瞼を固く閉ざしていた。


 突然、デイビーは車を通りの路肩に着けた。ベルが怪訝そうな表情で覗き込む。「……どうしたのよ」
 デイビーは、少し顔をしかめながら前方を指差して見せた。その先で、軍服を着た兵士が車を一台ずつ止めながら検問を行っている。
 「さすがに、火薬を持って検問に挑むのは得策ではないね。しかもよりによって、あれは全秀漢の手下どもだ」他人事のように淡々と甫民老人は言った。
 ベルは首を傾げて、その後思い当たる節を見付けて手を打った。「ああ、聞き覚えがあると思った。対過激派では一番の陸軍大佐でしょ」
 「よく知っているね」孫を褒めるような老人の口振りに、ベルは事も無げに言った。「五年ほど前に、古本屋の雑誌で名前を見掛けたわ。何度も過激派のテロを未然に押さえてるんだって?」
 恐らくは好敵手といったところの相手なのだろう、甫民は苦笑するように眉根を寄せて頷いた。
 ベルは、様々な手製の装置や火薬をバッグに仕舞い込みながら言った。「もしかして、かなりまずい相手じゃない?」
 「もしかしなくても、最悪の相手だよ。本人がいないのが不幸中の幸いだな。本人は今頃平壌だ……が、こちらの行動がどの辺りまで読まれているか」白い髭を扱きながら、無関心そうに老人は言う。
 ベルは、少し考えて言った。「次は、税務署をふっ飛ばせばいいのよね」
 彼女はおもむろに自分の長い髪の毛を引っ掴むと、お下げ髪に編み始めた。甫民はのろのろと瞬いた後、手を伸ばして彼女の服の裾を掴む。軽く笑ってベルはそれを振り解いた。「大丈夫よ、開城の道なら衛星情報よりも網羅してるわ。半年のブランク程度じゃ負けないわよ」
 そして、デイビーの耳元に口を近付けると、凄まじい早口で英文を発音した。「あんたは唖でこの爺さんの孫よ。爺さんが腰痛なんで病院に運んでるところ、いいわね」デイビーは少しぽかんとした表情を見せたが、すぐに頷いた。
 老人は、彼女の意図するところを汲み取ったようだが、それでも呆れた表情を見せた。その言葉を塞ぐように、ベルは早口で唱える。「二時間で壊してくるわ。開城駅の五番バス停で拾って頂戴ね」
 彼女は荷物を肩に揺すり上げると、扉をばたんと開いて外へと滑り出た。そしてすぐに乱暴に扉を閉め、どこへ繋がるとも知れない裏路地へと入り込んで行った。デイビーは多少不安そうにベルの後姿を眺めていたが、ミラーに写った甫民に気付くと慌てて笑顔を繕った。
 甫民は、やれやれと溜め息を吐きながら言った。「女の子が夜歩きなんぞ……」


 ドラムの重低音が、部屋の中で響いていた。
 クレアは、パソコンで『アーサー・ジョセフ』の単語を検索に掛けてみた。ヒット件数は108件、その大半が『東洋異聞』の感想や考察だった。彼女はくしゃっと癖毛を撫で付け、更に絞り込み検索を行う。『東洋異聞』と『中華』の単語を追加すると、今度は数が一気に絞り込まれた。
 ヒット件数12件。その、上から三番目にあったホームページが気になった。
 「グースヴォイス市?」説明書きによると、合衆国とカナダの境目にある小さな町の振興ホームページらしい。クレアはマウスを滑らせて、下線の引かれたサイト名をクリックした。
 しばらくして、ディスプレイ画面にミントグリーンの小花模様が表れた。少し遅れて『ようこそ、グースヴォイスへ』のロゴと、長閑な水際の風景写真が並ぶ。
 クレアはマウスで画面をスクロールした。ひとまず、このサイトの説明ページへ飛んでみる。クリックした次の瞬間、壁紙がラヴェンダーに代わった。
 まず、グースヴォイス市のプロフィールが掲載されていた。グースヴォイスはオハイオ州の北、エリー湖畔にある人口二万人少々の本当に小さな町らしい。湖を隔てた対岸は、もうカナダなのだと言う。そんな辺鄙な田舎町とアーサー・ジョセフにどのような関係があるのだろうか、とクレアは怪訝に思う。
 と、彼女は流れて行く画面の中に、一瞬だけ気になる文字列を見た。慌てて彼女は指を止めて、画面を凝視する。――やがて、クレア・パーマンはゆっくりと息を吐いた。
 ベースの音色が、一秒間を更に細かく刻むような音を奏でる。キーボードの人工的な音色が、それを少しずつ盛り立てていく。
 『観光案内』のロゴの下に書かれた説明文に「アーサー・ステュワートゆかりの美術館等々、芸術的に優れたこの町の自慢名所案内」とあった。一瞬怪訝に感じはしたが、クレアはロゴをクリックする。
 明るいライトブルーの画面がディスプレイ上に広がった。そして、幾つもの観光箇所の名称とその簡単な説明文が現れる。名称をクリックすると、より詳しい説明が出て来るようになっているらしい。
 アーサーの名前を発見するのはほとんど苦にもならなかった。画面の一番上に現れた『観光案内』のロゴのすぐ真下に、彼の名前を発見することが出来たのだ。クレアは、カーソルを動かした。矢印の下にあるのは『トマニ・ミュージアム』の文字。「アーサー・ステュワート(旧姓ジョセフ)の女性画等、ハイクオリティな作品を多数擁する近代美術館」という説明文を、クレアは一瞬で読む。
 若い男のボーカルが、聴き取れないほどの早口で何かラップを叫んでいた。
 逸る気持ちを抑えながら画面を見ていると、ライトブルーの画面に太字で『トマニ・ミュージアム』という単語が出現した。その下に、ゆっくりと建物の写真が現れる。湖畔に立つ随分大きなペンション、と言った風情の建物だった。
 クレアは、画面に出て来た説明文を声に出して読んでみた。「……財閥ステュワート家による美術館で、近代のハイクオリティな作品を多く所有する。ここの目玉は何と言っても、『東洋異聞』の著者として有名な、元英国外交官にして当美術館創設者アーサー・ステュワート(旧姓ジョセフ)氏による東洋を描いた作品群の数々で、特にほぼ原寸と見られる女性像は芸術的評価も高い」
 ギターとドラムが、ひどい騒音を気が狂いそうな勢いで奏でていた。
 彼女は、マウスを滑らせるとそのページをプリントアウトした。
 ――今から車を飛ばせば、昼までにはグースヴォイスに到着できる。


 店の女将は、温かいミルクを差し出した。「本当に大丈夫かい?」
 古びた木の椅子の上に身を縮込めた彼女は、精一杯首を振った。「だ、だいじょうぶです。ほんとうにだいじょうぶですから……」
 そして、濡らして側頭部に当てていた布を外し、膝に置いた。「わたしこそ、たくさんこわしてしまって、すみません……」
 「ああ、瓶のことなら気にすることないよ。割れたのだっていいところ二、三本なんだしさ」女将はさばさばと言い、若い女の手から布を受け取った。女は申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。
 店の奥から、手を拭きながら主人も顔を見せた。どうやら今まで破片の片付けをやっていたらしく、前掛けに染みが付いていた。「そんなことよりも、妊婦さんがこの町に来てくれたのは随分久しいんだ。この町にとっては、本当にありがたいんだよ。命二つの身は、幸せを運ぶって言うからね」
 若い妊婦は、言葉の意味がよくわからなかった。ここに来て以来、一度も使ったことのない単語ばかりの言葉だったのだ。少し首を傾げながら、曖昧に微笑む。
 彼女を店に運び込んでくれた労働者風の男達は、もう既にどこへともなく去ってしまっていて、店の中には彼女と店主夫婦の三人だけになっていた。
 「ところで」テーブルの向かいに腰を下ろした女将は、おもむろに尋ねた。「あんた、駅前で人を探してたんだって?」
 ぱっと女は顔を起こした。そして勢い込んで頷こうとしたが、さっき打った箇所がずきんと痛んだので手を当てた。「は、はい」
 心配そうに隣から覗き込みながら主人が言った。「この町の人間かい?」
 「いいえ……たぶん、ちがいます」頭を動かすと頭痛がするので、彼女は俯いたまま静かに言った。「『ネーヴェン・バーブ』に、いるそうです」
 主人と女将は顔を見合わせて、先を促した。ぽつぽつと女は掻い摘んだ身の上を語る。「――むかえにいく、といってました、あのひと。だけど、はやくあいたいの。……だから、さがしています」彼女は、上目遣いに二人の顔を見た。明らかに、気の毒そうな色が浮かんでいる。
 少し言い渋った後、女将は言った。「それは、あまり期待しない方がいいんじゃないのかね。この大陸だって広いんだ。そのどこかにいるかもしれない――いないかもしれないたった一人の人間を探すなんて、どんなに難しいか。それに、もしかしたらその男は来ないかもしれない」
 一瞬打ちひしがれたような表情をした後、女はがたんと椅子から立ち上がった。「あのひとはうそをいわない! むかえにいくって……」
 そう言った瞬間、更に二人の目に同情の色が浮かんだ。それが何故だかひどく悲しく、彼女はよろめくように椅子に腰を落とした。「……だって、あのひとは、ぜったいに、うそいわない……」
 主人が、女の膝から下に落ちた布を拾い上げた。そして汲み置きの水ですすぎ、それを手に戻って来た。「そいつは、どんな男なんだい? 目立つ特徴とかがあるなら、教えて欲しいんだが」
 縋るように女は顔を上げた。ぱっと表情が明るくなる。
 彼女は嬉々としながら早口に何か言ったが、店主夫婦の聞き取れない言葉だった。そのことに気付いた女は、赤面しながら言う。「ご、ごめんなさい……」
 そして、耳元を押さえながら少し首を振って言った。「きれいなかみのけなんです。ながくて、ア……」言い掛けて彼女は口を噤んだ。丁度あの髪の色を表現する言葉がわからなかった。
 (亜麻色……)それに、もしかしたら髪を切ってしまったかもしれない。変装する為に、髪の毛を染めてしまったかもしれない。そのことに思い至って、彼女は次の言葉を繋いだ。「……それと、のっぽです。てあしがながくて、でもゆっくりあるくひとなんです。きれいな、やわらかいこえなんです。それから、それから……」
 困ったように顔を見合わせる夫婦の表情が辛くて、彼女は俯きながら次の言葉を探した。これでは、決定的な特徴にならない。長身の男なんて、既に彼女自身嫌と言うほど見て来た。――ふと、彼女はぱっと顔を上げた。
 「すごくきれいなめをしてるんです。すごくきれいないろなの……そう、こんな」彼女は、脇に積まれた綺麗な深紫の瓶を示した。その瞬間、夫婦の表情が豹変する。
 険しくなった表情を隠しもしないで、女将は言った。「……本当に、こんな色を?」
 何もわからず女は頷く。「もうすこしきれいだけど、こんないろです」
 夫婦は顔を見合わせ、その後怪訝そうな眼差しで女を見た。女は奇妙な居心地の悪さを感じる。「……?」
 「紫の、瞳……」呻くように主人が言った。「まだあの悪魔どもが出て来たって言うのか!?」女将は口許を押さえ、言葉を飲み込む。
 ただ、若い女だけは何も訳がわからず彼等の表情を伺っていた。


 検問でライトバーを振っていた宗は、片耳に入れたイヤホンから流れる情報に注意を払いつつ、一台の車も逃がさないように国道を見張っていた。彼がこの国一の軍人と信じて止まない全秀漢陸軍大佐が、直々に彼等に指示を出しているのだ。緊張しない訳には行かなかった。それは恐らく、他の兵士も同じだろう。
 宗は一台の自動車を止めた。窓を開けさせ、質問を行った後に車内を改める。仕事帰りらしい運転手は、物々しい軍隊の装備に怯えながら検問が終わるのを待っていた。
 と、その時彼の耳に入れたイヤホンから、無線機の情報が入る。彼はノイズに眉をひそめながらそれを聞き、そして瞠目した。
 『……二十二時三十分頃、開城市市役所から不審火が上がった。またほぼ同時刻、同市地方税務署が何者かによって爆破された。双方共に過激派による犯行の可能性が極めて高い。第六・七部隊は直ちに最寄の現場へ急行せよ』
 「……冗談だろ」誰かが囁くのが聞こえた。宗も内心でそう呟く。この街の要所は、過激派の犯行特徴を網羅している全大佐の指示の元で押さえているはずだ。抜かりは一点とてないはずだった。――それなのに。
 車内検査もそこそこに切り上げ、宗は乱暴にドアを閉めた。次の指示を待たなくてはならない。そして同時に浴びせられるであろう、無線機越しの叱責も覚悟すると、彼の気はずんと重くなった。


 甫民は、ふとカーラジオのボリュームを上げた。早口で捲し立てるラジオの早口に、少し首を傾げつつ耳を貸す。
 『……繰り返し続報です。今日十九時ごろ、開城北警察署で不審物が爆発した事件ですが、新しく入った情報によりますと、更に二十二時三十分頃、同市市役所に火が掛けられた模様です。重要文化財にも指定されていた築百年の木造建築部は既にほぼ全焼し、他の部分もまた消火は進められていますが、依然として鎮火には至っていません。他の二件の爆発事件との関連性は未だ不明ですが、何らかの因果関係はあるものと見られます。また、それと同時刻に同市地方税務局でも不審物が爆発したとの情報が入っていますが、こちらの詳細は明らかになっておりません。新しい情報が入り次第、お伝えします』
 熱演で無事検問を突破した運転手は、心配そうに鏡越しで甫民の表情を伺う。
 甫民はふとそちらに目を向けると、髭を扱きながら言った。「Don't worry.」
 突然話し掛けられて瞠目するミラーの中のデイビーに、甫民は流暢な英語で続けた。「心配いらない。君の思い人は無事任務を遂行したよ」
 デイビーは慌てて甫民を振り返り、その拍子にハンドルをあらぬ方向へ切ってしまう。そして慌てて前に向き直って思い切りブレーキを踏んだ。ガードレールにボンネットが激突する寸前で、車は急停車した。
 甫民は顔色一つ変えることもなく、灰色に褪せた袖を揉み扱きながら、ぼんやりと母語で呟いた。「しかし……放火は一体。模倣犯か?」
 デイビーは、後続車のクラクションに冷や汗をかきながら車を発進させた。


 「暑いわねえ、シャオユウ」大花は、襟元を緩めて服の中にぱたぱたと風を送った。その頬には、いつの間にか真っ黒な煤がこびり付いている。
 「当たり前だよ、タイホア」小魚は、肩に掛けた鞄を揺すり上げた。シャツの袖を捲り上げ、日焼けの線が付いた肩を剥き出しにしている。「木造なんだから、よく燃えなきゃ嘘だよ」
 示し合わせたように、二人は同時に背後を振り返った。群集の隙間から垣間見える市役所は、夜空に向かって黒煙を吹き上げながら炎上していた。消防車が水を掛けてはいるのだが、炎の勢いは一向に衰えを見せず、その為か市役所を取り囲む人々は少しずつ後退り、群集の輪は広がってきていた。
 少し紅潮した顔で、感心したように大花が言う。「さすがに、ガソリンぶっ掛けたら勢いが違うわねえ」
 同意を求めるように隣の弟に目をやると、彼は丁度コンビニの戸口をじっと見詰めているところだった。
 唇の先で笑いながら、大花は尋ねる。「どうしたの。お腹空いた?」小魚は、姉の言葉を無視しながら店の中へ入って行った。追い掛けて一緒に店に入ろうかと思ったが、自分の顔がみっともないくらいに煤塗れなので、大花は自動ドアの隣で待つことにした。
 程なくして、小魚は店から出て来た。その手から下がるコンビニの袋の中で、何かの瓶が二、三本透けて見える。どうやらそれは、地元でよく作られる安い蒸留酒のようだった。「……ソジュ? あんた、飲むの?」
 小魚はくすくすと笑った。「酔っ払うよりももっと面白いことだよ、タイホア」
 ふと、遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえて来た。すぐに小魚はソジュの詰まった栓を一本開けて少し口を付けると、唇を腕で拭いながらハンカチを取り出した。そしてそれをぐいぐいと瓶の中に押し込み、栓からはみ出した部分にマッチで火を着ける。
 丁度彼等の斜め後方からパトカーが駆け付けて来ていた。そちらに向き直ると、小魚は大きく振り被って瓶を投げ付けた。パトカーのフロントガラスに激突したそれは激しい音を上げながら弾け、青白い炎がガラスの表面を舐めるように広がっていく。運転手が慌ててハンドルを切った為か、車は勢いよくスピンして、廃ビルに頭を突っ込んだ状態でようやく止まった。
 呆気に取られた大花が口を半開きにして眺めていると、突然袖を引っ張られた。ようやく我に帰った彼女は、歯を見せて笑う。「サイッコー!」
 少し赤くなった顔でにっと笑って見せると、小魚は大花を引っ張りながら全力で走り出した。二人とも服の襟廻りや背中が汗でずぶ濡れだったが、そんなこと気にもならなかった。
 良心とか正義感とか、そんなもの関係ない。


 爆発現場に駆り出された第七部隊の中で最年少の韓は、先輩兵の指示に従って右往左往していた。まだ十代、徴兵を受けてから三ヶ月に過ぎない彼は、こんな派手な仕事も当然初めてで頭に血が上ってしまい、怒鳴られ通しだった。
 韓は、先輩に手渡されたロープを現場の廻りに張り巡らせていた。見るも無惨な鉄筋の残骸に成り果てた税務署を見ると、ぞっと背筋が凍る。所々でまだちらちらと炎が上がり、風向きで火花が落ちてくるのも恐ろしかった。騒ぎを聞き付けて税務署の周りを取り囲んだ野次馬達の気持ちがまるでわからない。
 ふと彼は、彼等兵士を遠巻きに見物する野次馬の中に一人の人影を見付けた。思わず韓は小さな声を上げる。「……あ」
 彼はロープの端を引っ張りながら、その人物に駆け寄った。その周辺の人々が一斉に後退ったので、慌てて韓は呼び掛けた。「施さん、セ・カンメイさんじゃない?」
 人込みの中で、最前列にいた一人が身じろいだ。
 真っ黒な服に、小さなバッグを抱えている。綺麗な長い黒髪をお下げに結ったその姿は、ひどく懐かしかった。結い込まれた前髪に一筋入った銀色のメッシュと少し険のある瞳は、未だに忘れることのない人物のものに違いない。
 「やっぱりそうだ。俺、覚えてない? 韓大安(ハン・デアン)なんだけど。ほら、中学で同じクラスだった」彼は息を切らせながら、少女の前に向き直って言った。
 彼女は、無愛想に彼を見上げる。「あら、お久し振り」まるで、休暇を挟んで学校で会ったクラスメイトに呼び掛けるような口振りだった。
 韓は、少し早口に捲し立てる。「三年振りだね。……そう言えば去年、施さんの学校で『プログラム』があったって噂聞いたから、心配してたんだよ」
 彼女は、少しだけ笑った。「――そう言えばあんた、引っ越したんだったね。徴兵逃れに失敗した上に僻地回り?」
 照れ臭そうに韓は答えた。「それもあるけど……開城に戻って来たかったから」
 背後から、先輩の怒鳴り声が聞こえた。韓は慌てて肩をすくめる。ふと顔を向けると、施はひらひらと掌を振っていた。「急いだら?」
 素気無い彼女の言葉に、韓は名残惜しそうに首を縦に振った。
 彼はロープを手繰り駆け出そうとして、一瞬だけ振り返った。「施さん、綺麗になったよ。――また、徴兵完了したら会える?」
 彼女は、独特の緊張感に満ちた笑顔で手を振った。「似合ってるわよ、軍服」


 気が付くと、彼女は店を出てとぼとぼと歩いていた。空はもう青紫に暮れ始めてしまっている。どこにも行くあてはない。泣きたいような気分だった。
 酒屋の店主夫婦は、一応彼女のことを引き止めてくれた。だが、彼女はそこにはいられなかった――いたくなかった。
 「……嘘じゃないわ」ぽつりと彼女は呟いた。不慣れなこの大陸の言葉ではなく、耳に馴染んだ、唇に馴染んだ故郷の言葉だった。「嘘じゃないもの。必ず、迎えに行くって……そう言ってたもの」
 『――不吉な』耳の奥で女将の声が、耳鳴りと共に甦って来た。『そいつは、本当に信用してもいいのかい? あんたのこと、騙してるのかもしれない』
 彼女は首を左右に振った。頭ががんがんと痛んだが、それでも首を振った。
 『そいつの言うことが嘘じゃないなんて、証拠があるのかい?』店主の声が頭の奥で響いた。『――諦めて、ここで暮らしたらどうだい』
 彼女は頭を押さえて蹲った。腕に抱えた小さな荷物に縋り付く。
 溢れそうになる涙を、精一杯目を瞑って堪えた。「……泣かない、大丈夫」


 ほとんど飛び出すようにして出て行った女の後姿の幻影を求めて、いつまでも二人は戸口を眺めていた。外が薄暗くなって来たので一応灯かりは入れたが、まだ客が入る時間ではないので、店の中はひどく閑散としていた。
 おもむろに、女将が口を開いた。「わたし達は、ひどいことを言ったんだね」「ああ……でも、事実じゃないか」主人は、頭を抱えるようにしてテーブルに突っ伏していた。「紫の瞳なんて、不吉の極みじゃないか……お前、まさか忘れたんじゃないだろうな」
 「忘れる訳ないじゃないか」意気消沈とした調子で、女将は受け答えた。「片時だって、忘れたことはないよ。あんな悪夢、忘れられるもんなら忘れたいさ」そして、テーブルの上で組み合わせた手に目を注いだ。
 静かに、彼女は付け加えた。「――それでも、もう十年になるんだね」


 ――あの頃、一家はこの大陸の北端にある都市アルテミファで暮らしていた。技術産業都市として有名な浮島の上の大都市に住まい、子供は男ばかり三人。決して豊かな方ではなかったが、その日の食事に事欠く訳でもない、つまりそこそこの水準の生活を営んでいた。子供は誰に似たのかやんちゃのきかん坊ばかりだったが、それでも今から思えば幸せだった。
 あの日――忘れもしない、あの日。始まりはほんの些細な綻びだった。
 あの日、何故か街で喧嘩をする人を多く見掛けたのだ。初めはさほど気にも留めなかったが、次第に目に付くようになり、更に喧嘩そのものも悪質な活気に満ちたものになっていっていた。
 空が曇っていたので皆苛々しているのか、とも思ったが、それにしても尋常ではない。何となく一家は不安に駆られていた。
 その不安は的中してしまった。殺気立った喧嘩をしていた人々は、やがて何の関係もない人々を襲い始めたのだ。ぎらぎらとした紫色に変色した瞳を持つ彼等は、次第に数を増やしながら街を壊して行った。
 折下地震が起こり、巨大な浮島の上に成るアルテミファの街はどんどん姿を変えて行った。地震のせいか、それとも誰かが火を着けたのか、大規模な火災も街を飲み込んで行った。水路は溢れ、紫色の瞳をした人々は端から誰かを襲って廻っていた。――地獄だった。
 とにかく街から逃げ出そうとして、愕然とした。大陸とアルテミファを繋ぐ橋がことごとく水没していたのだ。街は文字通り、完全な孤島になっていた。
 ――その先は、思い出すのもおぞましい。
 紫の瞳の人々は、容赦なく人々を襲った。目の前で何人も襲われて、倒れて動かなくなった。皆、文字通り死物狂いで逃げた。逃げる先に別の一群が待ち構えていて、襲撃された。一緒に逃げていた一団の中でも、瞳が紫に変色していく人が何人もいた。怖かった。次は誰がなるのか、もしかして自分もそうなるのではないか、そしてやがて人を襲うのではないか。それが何より怖かった。
 だが、現実は想像よりも残酷だった。次に紫の瞳に憑り依かれたのは、他ならぬ彼等の息子だったのだ。そして彼が襲う相手もまた、彼等の息子だった――。


 女将は、長い長い溜め息を吐いた。「……人を襲ってしまったのは、決して本人が悪かった訳じゃない。あの子が探してる男だって、きっと優しかったんだろうね」
 「それでも……」消え入りそうな声で、主人は言った。「どんなに優しくても、一旦憑り依かれたらお仕舞いだ。紫の瞳をしている間中、手当たり次第に人を襲う。……あの子だって、あんなお腹をしてるのに一人で取り残されてしまったんだろう」
 そして、苦しそうに付け加えた。「――もしかしたら、彼女を襲わない為に自分から去ったのかもしれないじゃないか、その男は」
 女将は、それを受けて深く俯いた。そして、少しだけ首を動かしてあの深紫色の瓶を見る。
 「ただいまー」次の瞬間、店の中にわいわいと何人もの男達が傾れ込んだ。皆一様に、煤と汗に塗れた汚い格好をしている。主人と女将は同時に顔を上げた。
 ぞろぞろと彼等は席に着いていった。「どしたの。何か湿気てない?」椅子をがたがた言わせながら、男等は口々に言う。「どーでもいいけど、喉乾いたよ。早くビール出して」「腹減ったー。何か食わせー」
 誰かが放った帽子が、主人の頭の上に見事に載った。一斉に拍手が湧き起こる。
 一瞬の間を置いた後、夫婦は破顔した。「お帰り。今日の炭坑は暑かっただろ、一杯だけなら奢ってやろう」主人は、頭の上に載った真っ黒な帽子の鍔を持ち上げながら笑った。更に大きな拍手が場を包む。
 女将は笑いながら、それでも少し寂しそうに、テーブルの上に所在なげに残ったミルクのカップを下げた。


 クレア・パーマンは、取るものも取り敢えず車を出した。まだ朝早いので、普段からさほど混んでいない道路はますますがらんとしていた。そんな状態でハイウェイに乗り、道路を独占しながら北へ向かって直走る。
 途中でふと思い出してバーグナーに連絡を入れると、彼は『わかった、取材と言うことにしておくよ』と言ってくれた。少し笑っていたようだが、BGMとして掛けているロックの音が喧しくてクレアにはよく聞き取れなかった。
 ペンシルバニアへ入った頃になって、ようやく自分がシャワーを浴びるどころか髪の毛さえ梳かしていないことを思い出した。だが、今は一刻も早く『トマニ・ミュージアム』へ行きたかった。一刻も早く、あのマダム・イーグルの尾羽を掴みたい。その欲求に押されて、クレアはアクセルを踏み込んだ。
 やがて、眼前に優美なエリー湖が広がった。見渡す限りの広い広い澄んだ湖水に、クレアは思わず目を奪われる。
 ふと気が付いて顔を上げると、そこには『グースヴォイスまで15マイル』の看板があった。ドラムのように高鳴る胸を押さえつつ、彼女は前方を見据えた。
 きっと、そこには何かがある。とても重大な、何かが。




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