モドル | ススム | モクジ

第五夜


 重要犯罪者リスト
 分類番号  11034A
 所属  党立鴻亭高等学校第二学年C組(除籍済)
 性別  男
 年齢  17歳
 生月日  8月15日
 本貫地  新義州
 現住所  開城北西部通称川北陋巷地(以下不詳)
 氏名  劉 飛竜

(本国戸籍謄本による)



   第五夜



 「編集長、やっぱり今回の特集記事がこれじゃあ、ちょっと弱くないですか」
 バーグナーは手元の原稿から顔を上げ、愛用の万年筆を脇に置いた。「何が弱いんだ」
 目の前に立っているクレア・パーマンは、ワープロ文字の原稿をばさばさと捲った。彼女らしい、やや舌足らずな口調で言う。「確かにアジア問題は経済の関心事に違いないとは思うんですけど、取材出来ないから資料が絶対的に不足しています。アジア全体を取ってもそんな状態なのに、特集を朝鮮半島問題に絞ってしまったら、とてもページ数が足りるとは思えないんですけど」
 そして、目の前に手の中の薄っぺらな紙束を置いた。恐らく、こんな時間になるまで彼女が残業していたのは、たったこれだけの資料を探し出す為だったのだろう。
 彼等の所属するハンチントン・レポジトリー社は、経済誌を中心に発行するどちらかといえば小規模な雑誌社だった。だが、宗教紛争や環境問題などの広い内容を国際的な視野で取り扱う本誌には定評があり、いわゆる「真面目で手堅い中立な情報」を常に提供し続けていた。自然、そこで記事を書く記者達にも相応の自負が生まれてくるし、幸いなことに現在バーグナーの部下にはそれに溺れて努力を怠る者もいなかった。
 記者の中で一番若いクレアは、確かに負けん気が強く鉄砲玉のような気性の持ち主だが、その分だけ残業や休日作業も厭わない。弾け過ぎた言動をするときにはさすがに注意をしてやらねばならないが、編集長としてはそれなりに期待して目をかけている人材だった。
 バーグナーは、片目を細めて穏やかに言った。「足りない? そんなはずはないだろう。朝鮮統一の原因、過程、そしてそれがアメリカ――ないし世界に及ぼす影響、それから予想される今後の展望。書かなければならないことは他にも幾らでもある。それだけネタがあれば、特集どころか一冊の本だって書けてしまうよ」
 クレアは緩くウエーブの掛かった栗色のショートヘアを掻き揚げた。「そんなに簡単に言わないで下さいよ。朝鮮の近況なんて、どうやって調べたらいいんですか? 街頭リサーチだって出来ないんですよ」子供っぽい口調に加え、昂ぶって上擦った彼女の声は、癇癪を起こした子供を思わせる。
 バーグナーは万年筆の尻からキャップを外し、きちんと被せた。そして、顔の前で手を組んでクレアを凝視する。「君は、朝鮮統一の理由をどういう風に考えているんだい?」
 彼女は、少し考えた後首を横に振った。「……わかりません」
 「君の考えでいいんだよ」微笑むバーグナーに促され、彼女は首を捻りながら言い出した。「食料問題、じゃないでしょうか。元の北側は、工業は発達していますしGAPも世界第十一位で先進国入り間近でしたけど、気候が寒冷だし国土も狭いし、その上鎖国政策で食糧自給が難しかったんですよね。で、元の南側はって言えば、近代化はだいぶ遅れているものの農業は盛んですよね。両国の長所を合わせて、国力の強化を図ろうとしているんじゃないでしょうか。事実、確か最新の世界調査では、統一後のGAPは世界第九位まで浮上していますし」
 「それじゃ、今まで分裂していた理由の説明にはならないよ」バーグナーは黒く太い万年筆を手の中で弄ぶ。少し顔を赤くしたクレアに、彼は静かに言った。「今まであの国は、六十年以上分裂して来ていた。その理由はわかるかい?」
 彼女は、真っ赤な顔を左右に振った。「だって……」
 言い掛けた彼女の言葉を、バーグナーはやんわりと掌で制する。
 柔らかい物腰の編集長は、顔の前で組んだ両手に顎を預けた。「アーサー・ジョセフの『東洋異聞』は、読んだことはあるかい?」
 若い女性は首を横に振った。「紀行文はあまり読まないんです」
 「国際ジャーナリストのつもりなら、読んでおいた方がいい」さらりとバーグナーは言った。「乾朝終末期の北師に駐在した英国外交官の見聞録だがね、近代世界の情勢が細かく記されているんだよ」
 クレア・パーマンだけでなく、残っている数人の記者全員がバーグナーの言葉に耳を寄せていた。その中で、穏やかにバーグナーは続ける。「それによると、旧北側が中華の皇帝勢力下に置かれていたのに対し、旧南側は王朝に反発する国民政府勢力圏にあったんだそうだ。その後、欧米諸国が双方に分かれて勢力を競い合い戦争に発展し、王朝は完全に滅亡し国民政府も敗戦した。諸国が朝鮮から撤退した後も、統一できる勢力が現れないまま両国は国境線が引かれたまま分裂し続けていたんだ」
 そして、万年筆をことんと机の上に置いた。「それを今更、統一――淘汰と言う方が正しいかな――したということは、何を意味するかわかるね?」
 「あの国が、ようやく過去の清算に乗り出したってことですね」身を乗り出すクレアに、バーグナーは少し首を横に振って見せる。「半分正しい、だが、半分違う」
 彼女は、再び顔を赤くする。バーグナーは、物は多いが整然とした机の上を調べながら言った。「こうは考えられないかい? ――つまり、あの国の分裂は、既に闘争する力を失ったはずの皇帝派と政府派の対立の具現であった、と。あまり突拍子もない意見ではないと思うがね」
 室内に、沈黙が走った。
 バーグナーは、机の上から古い本を取り出してぱらぱらとページを捲った。狐色に変色した紙から、インク独特の匂いが立ち上る。
 「ということは、その対立が鎮静化したということだ、今回の統一は。どうしてそうなったのか、今夜中に考えてご覧。資料だ」そして、手の中の本をクレアに手渡した。カバーのない本の表紙には、金色の『東洋異聞』という文字が彫り込まれていた。
 おもむろにバーグナーは万年筆をスーツの胸ポケットに挿し込むと、腕時計にちらりと目をやり、席から立った。「編集長、お帰りですか?」
 尋ねるクレアに、彼は苦笑いを浮かべながら答える。「内職だよ、外交局の友人にちょっと呼び出されててね。ちょっと遅いけど、仕方ないよ」
 「こんな時間からですか!?」バーグナーは一瞬だけ時計に目をやった後、小さく頷いた。そして、やや早足に編集室の扉に向かい、外へ出て行った。
 その場で借り本の表紙をまじまじと眺めた後、クレア・パーマンは自分の席へ戻った。ほとんど反射的に机の上の時計を見た後、一瞬躊躇って本を鞄に突っ込んだ。ここで迂闊に残ってしまったら、きっと今夜も徹夜になってしまう。


 ハンカチで思いっきり鼻を噛んだ後、ベルはそれをデイビーに叩き付けた。「悪かったわね、取り乱して」
 苦笑しながらデイビーはそれを畳んで、ポケットに仕舞う。そして左右をきょろきょろと見渡した。
 どうやら双子に先導されて塀を乗り越え逃げ込んだのは、古い王宮跡か何からしかった。現在は観光用に解放されているらしいが、入場料が割合に掛かるらしくほとんど人気がない。奥まった小さな建物の傍で彼等はほっと一息を入れることにした。日陰なので空気がひんやりと冷たくて気持ちいい。
 「あんたみたいな奴、あんたじゃなかったらとっくに見捨ててるわよ!」足を投げ出して息を切らせながら、大花は吐き捨てるように訳のわからないことを言った。上着の胸帯を解いて、ぱたぱたと服の中に風を送り込む。はしたない、と言う言葉をベルは飲み込んだ。彼女達には、実際に感謝しなければならない。助けられたのは一体何度目だろう、とぼんやりとベルは考えた。
 ふと隣を見上げると、さっきハンカチを叩き付けたところにデイビーの姿がない。少し慌てて建物伝いに表に出ると、デイビーは建物の入り口を階段で下りたところに飾ってある獅子によく似た獣の置物に見入っていた。ベルはほっと胸を撫で下ろす。
 「何やってるの」ベルの声に、デイビーは顔を向ける。話し掛けられたのが嬉しいのか、その表情がほっと緩んだ。
 彼の周辺をまじまじと眺めた後、呆れたようにベルは言った。「何だ、ヘテじゃない」
 きょとん、とした顔をするデイビーに、ベルはゆっくりとしたハングルで言う。「海駝。魔除けの置物よ。これがあるってことは、こっちが真南なのね」
 彼女は海駝の睨む方へすっと指を伸ばす。と、その指先を追い掛けるようにして、双子が隣にやって来た。
 「……で、どうするのよ。ここでおめおめ引き下がるあんたでもないでしょ。お姫様の奪還は?」裳の腰に手をやって、大花は相変わらず強気の顔色を装っている。小魚は裳だけを外して紺袴の姿になっているが、上着が短過ぎるのでかなり奇妙な印象になっている。それでも彼にとっては、女装よりはましなのだろう。
 言葉のわからないデイビーは、眼鏡を押し上げながら階段の両脇に据えられた海駝をしげしげと観察していた。大花が暑さで汗を浮かべ、苛々と地を足で叩く。
 おもむろに、ベルが口を開いた。「……ってことは、こっちが南東か」
 「何よ。さっきのショックで気でもふれた?」毒づく大花を無視して、ベルは小魚の方を見る。「ねえ、Mr.リューの家って学区内よね?」
 「え……? あ、ああ。あのクラスで学区外の奴は朴くらいのもんだったから」無視されて俄然いきり立つ大花をなだめながら小魚は答えた。
 ベルはがりがりと髪の生え際を掻く。「住所覚えてる?」
 「……いや、さすがに住所録までは暗記出来ないよ」おずおずと小魚は言いながら、大花を横目で見た。大花もまた肩を竦める。
 しばらく沈黙が座を支配したので、小魚は大花とベルの顔色を伺いながら言った。「あ、俺、置いて来た荷物を取って来るよ」
 「後からでいいわ」ベルは南東の方向に視線を固定したまま呟いた。大花が溜め息を吐く。「またなーにか悪どいこと考えついたんでしょ、どうせ」
 唐突に、ベルの瞳からぼろっと涙が零れ落ちた。ぎょっとした双子とデイビーが一斉に覗き込む。
 「タ、タイホアの言うことなら気にしちゃ駄目だってば」「悪かったわね、悪かったわよ! あんたが固まるとこっちが困るんだから」デイビーはあたふたと仕舞ったばかりのハンカチを取り出し、ベルの前に差し出す。まるで駄々をこねる厄介な子供の扱いと同じである。
 ベルは一瞬驚いたような表情をした後、ぐいと袖で顔を拭った。意外そうな顔を並べる三人の前で、彼女は一度だけ大きく首を振る。
 (待ってなさいよ、Mr.リュー)


 「お魚とお戯れですか、劉公主」劉が顔を起こすと、水槽のガラスに見慣れた顔が映っていた。隣に映り込んだ白い面差しがぱっと微笑む。「金さん」
 金が劉の隣に真面目くさった表情を並べる。「劉公主を釘付けにしてるお魚はどいつかしらん。煮魚にして食ってやる」
 水槽の反対側で数人の保健婦がこちらを見ていたが、金と目が合うとばつが悪そうにそそくさと去って行った。
 劉はくすくすと笑った。にっと金は歯を見せて、すぐに真面目な表情に戻る。「久々にホンモノのご指名だよ。お前、確か研究所時代細菌専門だっただろ。あっちで感染症のエキスパート急募中だ」
 「僕は、このアロワナの方が気になります」劉は冷たい水槽に白い頬を当てる。「この間入ったばかりなのに、元気がないんです」
 彼の目の前を、大人の二の腕ほどの大きさのアロワナが通り過ぎて行った。確かにそのえらの周辺が充血しているように見える。
 金は、こんっとガラスを叩いた。無表情のまま、銀色の大きな鱗を持った魚は彼等から遠ざかって行く。あ、と小さく劉は声を上げた。
 「……お手上げする訳にゃいかないんだ。どうもそのお客様、総統陛下の御寵児らしくてな」
 ぱち、と劉は冷たい瞳を見開く。水槽に映った彼の表情を見ながら、金は続けた。「伝染病持ちだと、どうにも厄介だ」
 突然劉は水槽に手を付いて、白衣の裾を翻した。黒い革靴の固い足音を立てて、救急病棟の方へ足を運ぶ。
 「症状と容態は?」劉の質問に金は頷く。「十七歳の少年だ。喀血してぶっ倒れて、さっき担ぎ込まれて来た。ちょっと結核に症状が似てるとかで、感染症の疑いを持たれたらしい。貧血を起こしてるらしいが、俺もよく診てないんでよくわからん。――まあ、喀血してるくらいだし、どこか出血してるんだろ」
 そして、早足に歩く劉の隣で自分の顎に手をやった。「……実はな、俺の元患者なんだよ、そいつ」
 劉は、横目で金の横顔を見た。金は険しい表情をしていた。「不気味なぐらいに奇麗な奴だったよ。『プログラム』の最後の生き残りとかで、傷だらけだった。絶対死ぬと思ったけど、どうしたことか生き延びた。その後軍部が迎えに来たんで、きっと拷問にでもあって死んだと思ってた。だけど――現に今、生きてる」
 そして、不意にじっと劉の顔を見詰めた。「お前が来る少し前の話でな。……劉公主が初めて病院に配属になって紹介されたとき、俺が顔色変えてたのは覚えてるか?」
 少し考え込むような仕草をした後、劉は頷く。「はい。髪の色に驚いたとか仰ってましたよね」
 金は、少し間を置いて首を振った。「本当は嘘なんだそれ。お前の、名前に驚いたんだ」
 劉は淡い碧眼を見開いた。銀色の睫毛が揺れた。
 「その患者が、お前と同性同名だったんだ。中華風の読み方まで同じだった」立ち止まった金につられて、劉も一瞬足を止めた。
 そして次の瞬間、金を残して病棟の廊下を全力で走り出した。


 たった一度、不敗の女神ベル・グロリアスが『W.D.』で敗戦したことがあった。対戦相手は、しばしばジャッジを務めるデイビットソン・A・ステュワート。二人は実は過去に二度対戦しており、二度ともベルが勝利を収めていた。その為、誰も今回ベルが負けるとは思ってもみなかったに違いない。他でもない、デイビーも彼女の敗北の姿は想像出来なかった。
 題目は、街頭討論会の常套でもある『共和制vs.民主制』についてであった。共和側がベルで、民主側にデイビーが付いた。前世紀中葉の世界戦争の例を取り上げ、デイビー自身もわきまえている、民主制に付き纏うある種の危険を指摘した時点まではベルに分があった。だが不思議なことに、中盤からじわじわと形勢は逆転されて行った。
 最も不思議そうな表情をしていたのは、他でもないデイビーだった。デイビーは対戦者の少女の声を聴きながら、彼女の弱点に気付いた。そして彼女の負けを確信した。自分が勝つのではなく、彼女が負けるという確信だった。
 それは見事に的中した。ジャッジの判定を待つまでもなく、誰の目にも明らかにベルは負けた。それでもデイビーは、自分が勝ったという実感を持つことが出来なかった。何故ならば、きっと誰と対戦してもこの勝負、ベル・グロリアスは勝てないと思ったからである。――ただし、対戦者がベルの弱点に気付けば、を前提としてではあったが。
 ふと唐突にデイビーは、ベルの弱点を思いやった。人間の弱点には二種類のものがある。気付いた瞬間に有利に働くものと、気付くことそのものが負けを意味するもの。ベルの場合はどちらだろう、と思った。
 (――支配者に厳し過ぎて、支配者に甘過ぎる)これは一体何を示唆しているのか、と何度も考えた。彼女が生まれて育った環境によるものだろう、そう結論付けてみたが腑に落ちなかった。第一、双子にはその傾向が見られない。(その代わり、双子はベルに甘いけど――)
 「何?」ベルはデイビーの顔を見上げた。
 言葉はわからないが、段々と意味を察することが出来るようになったデイビーは曖昧に微笑む。彼らしからぬ表情に、ベルは眉を曇らせた。
 と、不意に大花がベルの頭を押さえ付ける。「はいはい、喧嘩腰にならないの」
 むっとしてベルは大花の手を払い除けた。二人とも、もう衣装を着替えて元の彼女等らしい服装に戻っている。さっきまで赤かったベルの目も、今は涙の名残を含んでいなかった。
 (さっきのベル、あのときと同じ顔だった)デイビーが肩に担いで青屋根御殿を脱出するとき、ベルは小さな声で何かを呟いていた。ぼろぼろと零れる涙も拭わずに、黒い瞳を見開いて、自分自身に埋没していた。
 大花が言うところの文字通り「固まった」表情は、かつて彼に言い負かされたときのベル・グロリアスの表情と全く同じだった。(……あ、あのときは泣いてなかったか)
 小魚が、人込みを潜り抜けながら切符を持って駆け戻って来た。彼も既に普段通りの格好に戻っている。「普通しかなかったから、三時間ぐらい掛かると思うよ」
 「構わないわ。お疲れ様」ベルはぽんぽんと肩を叩いて小魚を労う。そして切符を二枚受け取って、片方をデイビーに渡した。
 デイビーは切符に書かれた文字に目を落としたが、ハングルなのでさっぱり読めなかった。眼鏡を押し上げて、三人の横顔を横から覗う。心なしか、三人とも少し強張った表情をしているように思えた。(……?)
 「それじゃ、ぼちぼち行きますか」大花が、自分の小さな荷物を揺すり上げた。小魚が大きな鞄を担いだので、慌ててデイビーも幾らかの紙袋を受け持つ。その顔を見上げながら小魚が言った言葉の意味は、もう理解出来るようになっていた。「ありがとう」
 そして、一行は人の溢れ出す平壌駅中央改札口へと足を運んで行った。


 窓に小さなテーブルが備え付けられたボックス席に、四人は座った。電車の発車時刻まで時間があったので、弁当を買いに小魚が席を立つ。ついでに彼は双子の姉も引っ張って行ったので、結局席に残されたのはベルとデイビーだけだった。
 ベルは、双子が席を立ったのもほとんど意に介していない様子で、窓辺に頬杖を突いて窓の外を見ていた。デイビーはその横顔を盗み見る。右寄りの前髪に一筋入った銀色のメッシュが、午後の光を吸って綺麗だと思った。
 (ちぇ……口説けない)デイビーは退屈そうに肩を回す。重い荷物を背負っていたので、ばきばきと関節が鳴った。ふと、ベルが顔を向ける。慌ててデイビーは関節を鳴らすのを止めた。すぐにベルは、窓の外に視線を戻した。
 おもむろに、小さな声でベルが呟いた。「これは、現実よね」
 デイビーは首を傾げて見せる。もうベルの口から何度も聞いたフレーズだったが、その意味はわからなかった。何となく疑問文のような気はしたが、もしかしたらこの国で独り言としてよく使われる常套句なのかもしれない。
 デイビーは、ベルの視線を追って見た。近代的な建物が表面的に存在しているのは見えるが、その内の半分近くが空っぽで、やや離れたところには組んだだけの鉄筋の足場や、張り巡らされたビニールシート、そして煤けた共同住宅の類、プレハブ小屋、奇妙な文字が書かれた仮設テントのようなものがひしめいているのがわかった。ごみ屑のように小さな人々の姿も、薄汚れて見える。ずっと中央の綺麗なところのみを通って来たデイビーは、今更ながら愕然とする。
 一国の首都のはずだが、中央をやや抜けたところに位置するこの駅周辺の景色は、どこか無気力で殺風景だった。マンハッタンの無機質な殺風景さではなく、かつて従軍していた伯父の話でしか知らない、サイゴンの殺風景さに似ているような気がした。あるいは、テレビのドキュメンタリー番組で観るような、砂埃に塗れた枯れ木が林立する紛争頻発地帯の殺伐とした雰囲気。
 (違う)無気力な訳ではない。とんでもないエネルギーを秘めながら、それを完全に抑圧された街。一度口火を切れば、爆発するのを誰にも止められないような街。それがこの半島の、中央の都市だった。
 はっとしてデイビーはベルの方に目を戻した。(まさかレディー……!)
 だが、彼女はぼんやりと窓の外を相変わらず見ているだけだった。そして、呟く。「これは、現実よね?」
 今度は、くっきりとした語尾上がりの疑問文だと聞き取れた。やがて、ベルは頬杖を突いたままゆっくりとデイビーの方を向く。
 ひどく、頼りなげな瞳だった。逆光で光を宿さない、暗い瞳だった。
 ――Please help her――
 聞こえなかったはずの、あの美しい人間の声が聞こえた気がした。助けてくれ。彼女を助けてくれ。ゆっくりと動く、あの真紅の唇。
 反射的に、デイビーは頷いていた。言葉は全くわからなかったが、それでも彼女に同意していた。彼女の危険性を空想した直後なのに、それでも――。
 不意に、ベルがくすっと微笑んだ。「……どうして、頷いてるのよ」
 つられてデイビーも微笑む。よかったのだ、と思う。肯定してよかった、と信じたい。
 「よっ、お似合いよご両人」突然大花の声が聞こえると同時に、ベルの視線がデイビーの背後に移った。つられて彼も振り向くと、そこに紙のランチボックスと缶ジュースを抱えた小魚と、手ぶらの大花が立っていた。デイビーが小魚の手からジュースの缶をぽんぽんと受け取っていると、その脇を擦り抜けて大花が席に付いた。
 「どう、何か進展あった?」興味津々と言った様子で大花がベルの顔を覗き込むが、その返事は素気無い。「何馬鹿言ってんのよ」
 小魚が適当にランチボックスとビニールに入った手拭きを配る。「一応海苔巻とサンドイッチにしておいたから、適当に交換するなりしろよ」
 「それと、ジュースもね」大花がデイビーの手の中から一つジュースの缶を取った。不思議な文字と下手な果物の絵が描かれた缶ジュースを、デイビーは不思議そうに眺める。こんな些細なところまで、アメリカとは違う。
 ベルが眉をひそめて言った。「ねえ、海苔巻と梨ソーダはさすがに合わないと思うけど」「いいじゃない、好きなのよ」大花は、少しマニキュアの剥げた爪を缶のプルトップに掛ける。
 ふと、何か放送の音が聞こえ、その次の瞬間電車のドアが空気の抜けるような音と共に閉ざされた。そしてがたん、と車体が一つ揺れる。窓の外の景色が、加速しながら動き始めた。
 ベルと小魚にもジュースを渡し、デイビーは自分のランチボックスを開けた。サンドイッチのようだが、挟まれている具はかなり異質のものだった。見慣れない食材にデイビーが目を瞬かせていると、突然ベルがデイビーの肩を引っ張った。顔を向けると、彼の手からジュースの缶を抜き取って、自分の手の缶を代わりに握らせた。交換しろ、ということだったらしい。思わずデイビーは笑ってしまう。(遠足みたいだ)
 電車は、がたんごとんと音を立てながら南へ向かって走り出した。



  春が来たら また花が咲き始める
  だから私はこの春も 花一面のこの丘で
  白い小さな花を摘んで 髪にたくさん挿しましょう
  そして春のように優しいあなたに 逢いに行きましょう

  夏が来たら 河の水は流れ始める
  だから私はこの夏も 険しい峠を見上げながら
  小さな船を一艘繰って 河を下って行きましょう
  そして夏のように強いあなたに 逢いに行きましょう

  秋が来たら 白い渡鳥がやって来る
  だから私はこの秋も 神様が住むこの峰を
  北風が吹き始める前に 羽根のように飛び越えましょう
  そして秋のように澄んだあなたに 逢いに行きましょう

  冬が来たら

 「この歌を最後まで聴いた恋人達は、近い内に必ず別れるんですよ」

  冬が来たら
  冬が来たら
  冬が来たら……

 「お願い、唄わせないで!」



 女は、肩を揺すられてようやく目を覚ました。
 「どうした?」心配そうに機関士が顔を覗き込む。ようやく彼女は、自分がいつの間にか眠っていてうなされていたことを悟った。
 「あ……」
 「悪い夢でも見たのか?」
 女は、額の汗を掌で拭う。ぐっしょりと濡れていた。機関士が、自分の荷物袋から洗濯したてのタオルを引っ張り出して来た。
 「汗拭いておけ。風邪をひいたら子供にもまずいだろ」一瞬躊躇ったが、彼女は一つ小さく頷いてタオルを受け取った。
 そして、泣きそうな顔をしながら自分の大きな腹を抱えた。炉に戻ろうとした機関士は、ぎょっとして振り返った。「どうした、産気付いたか?」
 言葉の意味はよくわからなかったが、恐らく具合が悪いのかどうか尋ねたのだと思い、取り敢えず女は軽く首を左右に振って否定した。髭面の機関士は少しほっとした表情を見せ、炉に黒い石を投げ込み、何かのレバーを操作する。
 女は、タオルを顔に押し当てた。何故だかよくわからないが、泣きたいという衝動に刈られていた。理由の見えない悲しみが突き上げて来た。
 (逢いたい……)
 次の瞬間、ぐるんと腹部を内側から蹴るような感触がした。子供が胎内で蹴ったのかと思い手をやると、再び軽い衝撃。女は微笑み、軽く目を伏せた。(大丈夫、お母さんは泣かないからね)
 と、顔を上げると機関士が少しばつが悪そうにこちらを見ていた。女がきょとんと首を傾げると、彼は軍手の指で前方を示した。いつの間にか周囲を炭坑の採掘場らしい切り立った崖に囲まれており、幾つもの掘建て小屋が遠目に並んでいた。
 「もうじき終点だ。そこから先は、汽車も俺も一緒に行ってやれない」しばらくその言葉を女は反芻していたが、すぐに頷いた。「ひとりでも、だいじょうぶです。ありがとうございます」
 そして、にっこりと微笑んだ。「このさきに、きっとあのひとはいるのね」
 機関士は、微かに照れ臭そうな表情を浮かべた後、再びレバーと器材を弄り出した。何度か見た動作である。もうじき停車するのであろう。
 「もしも何かあったら、戻って来いよ。出来ることなら何でもしてやるから」振り向きもせずに、機関士はぶっきらぼうにそう言った。女は何度も瞬いて首を傾げる。少しだけ機関士は振り返った。「早く見付かるといいな、探している人」
 そして、その髭面に不器用な笑顔を浮かべた。
 嬉しそうに、女は頷いた。「はい」
 悪夢は、忘れることにした。


 「……白い」
 掠れた声で、飛竜は言った。目を開けたが、眩暈と鈍い頭痛がして視線が定まらない。身体を動かすのがやはり億劫だった。何が起こったのかゆっくりと思い出そうとしたが、なかなか難しかった。ここのところいつもそうだ、と思った。
 と、なかなか焦点の合わなかった紫紺色の瞳がようやく一人の人影を認めた。再び彼は繰り返す。「真っ白だ」
 彼に背を向けていた人影は、確かに純白だった。白衣の背中も、髪の毛も、仄見える項も、嫌気がさすほど白かった。そのうち、白い壁紙に紛れて見えなくなってしまいそうに思えた。だが、やがてその人物は振り返った。
 ぼんやりとその顔を眺めていると、その人物は不意に飛竜の顔を覗き込んだ。そして自分の目を指差しながら、柔らかい声音で言った。「何色ですか?」
 少し考えて、飛竜は重そうに口を開く。「……青い……」
 一度頷いて見せるとその白い男は、今度は目の前にぶら下がっている輸血用血液のパックを示した。「これは?」
 「……黒」事実、飛竜の目にはそう映った。取り敢えず、自分が今貧血を起こして輸血を受けているらしい、ということは察した。
 次に、医師と思しき白衣の男は細い糸のようなものを目の前にかざして見せた。それが飛竜自身の髪の毛だと気付くのに、あまり時間は掛からなかった。
 「……亜麻色、と、言ってた」一瞬だけ、口を滑らせたと考えたが、彼は「誰が」とは尋ねなかった。黙って頷いただけだった。
 少しほっとしながら、飛竜は尋ねる。「……ここは、病院か?」
 目の前の人物は、何か飛竜の腕に針を刺しながら答えた。「はい。あなた、血を吐いて倒れたのは覚えていますか? それで、しばらく入院してもらいますよ」
 少し考えて、飛竜は頷いた。白い、線の細い医師は注射器に目をやりながら言った。「随分我慢してたんでしょう」
 「どのくらい進行してる?」医師が顔を向けたので、悪戯っぽく飛竜は微笑んだ。しばらく医師は飛竜の目をまじまじと眺めていたが、慌てて注射器の方に目を戻した。アルコールを含んだ脱脂綿で色のない腕を押さえると、静かに注射針を抜く。注射器から注射針を抜きながら、彼は答えた。「これから検査するところですよ」
 顔を起こそうとしたら眩暈がしたので、寝そべったまま飛竜は静かに言った。「気を付けろ、伝染るぞ」
 「大丈夫ですよ」医師はおっとりと言った。飛竜は怪訝な顔をする。緩く束ねた銀髪を揺らしながら、医師は飛竜の顔を覗き込んだ。「僕には伝染りませんよ、大丈夫」
 そして、彼は静かに立ち上がった。ようやく飛竜は、この部屋に窓がないことに気付いた。声を上げて軽く笑うと少し肺と肋骨がぎしぎしと痛んだが、さほど気にはならなかった。
 つられたように医師もくすくすと笑った。「仲良くなれそうで嬉しいです。これから、ずっとあなたの担当ですから。……何とお呼びすればいいですか?」
 飛竜はのろのろと言った。「官邸の方から知らされてないのか? リュー・フェイロンの名前で手続きが出てるだろう」
 医師は、首を傾けながら胸の名札を外した。そしてそれを飛竜の目の前にかざす。「読めますか?」
 飛竜は目を細める。
 『劉 飛竜』という文字が書かれていた。
 「……なるほど」呆れたように飛竜は言った。「これは困った。同性同名か」
 「その上、同貫なんです。僕も、新義州劉氏の出なんですよ」劉と言う医師は肩を竦めて見せた。飛竜は思わず目を見開いて、その後再び声を上げて笑った。「これで生き別れの兄弟とかだったら、笑うに笑えないな」
 そして少し咳き込んだ。仰向いたままで息苦しさを感じていたら、すぐに劉医師の腕が彼を抱え起こした。背中を擦ってもらっていたら、すぐに落ち付いた。「……悪い」
 「仕事ですから」いとも簡単に劉医師は言った。「まだもう少し休んだ方がよさそうですね。えっと……」
 「ロン、でいい。そう呼んでくれ」まだ呼吸が乱れていたので、飛竜はシーツを肩まで引いてベッドに寝そべった。劉医師は口の中で何か呟いた後、頷く。「ロン、ですね」
 「凄く親しい人に、そう呼ばれてたんだ」飛竜はふと、子供っぽい照れくさそうな笑顔を見せた。劉医師はにっこりと大人びた笑みを見せる。「それは光栄です。僕のことは、好きなように呼んでやって下さい。呼び付けで構いません」
 少し目をぼんやりと泳がせて、飛竜は頷いた。「それじゃ、思い付いたときに思い付いたように呼ぶ」
 劉医師は、くすくすと独特の笑いを見せた。
 そして彼は、ベッドの回りに張り巡らされたビニールのカーテンを開けた。滑るような身のこなしで外に出ると、再びきっちりとカーテンを引く。
 「しばらく、官邸の方々とも面会は控えさせて頂きますが、よろしいですか、ロン?」カーテンの向こう側で、相変わらず静かな声で言った。少しだけ首を傾けて、飛竜は答える。「喜んで」
 一つ頷くと、医師は「また来ます」という一言だけ残し、病室のドアを開けて出て行った。多分、そこには消毒室でもあるのだろう、低く機械の唸るような音が聞こえた。
 何だか不思議な気がした。もしかしてこれは夢かもしれない、と飛竜は思った。それにしては変な夢だ。ここのところ変な夢が続いている――。
 ふと、飛竜は自分が寝間着を着せられていることに気付いた。青い洗い晒しの木綿地を見ている内に、これは現実だという実感が湧いて来た。そして、ほとんど半年振りに人間らしい服を着た、と考えて苦笑した。
 少し胸が痛かった。後で劉医師が来たら痛み止めを貰おう、そう思った。


 韓は左右を見渡した。お目当ての、ひどく目を引く人影がない。仕方なく目に付いた机に突っ伏している人物に尋ねた。「あのう、金さん。劉さんはどこですか?」
 「今俺、一生分の修羅場を体験した気分の直後なの。寝かしておいて」思いの他にしっかりした返事が返って来たので、韓は遠慮なく言う。「金さん、サボってるみたいに見えますね」
 金はのろのろと顔を起こした。「あのね、今の俺の気分かなり最悪なの。例えて言うなら、嫁に出した娘が出戻って来て、しかも会いたくないとか言って引き篭もられちゃったって感じ。わかる?」
 「わかりませんよ」韓が腕を組むと、金は顎を掻いた。少し無精髭が浮いているように見える。「劉さんはどこですか? 早く例のリュー・フェイロンの検査結果を見せろって、総統陛下の秘書官の方々がうるさいんですよ」
 鬱陶しそうに片耳を塞いで聞き流していた金は、おもむろに内線電話を取って幾つかダイヤルボタンを押した。「……ほれ、お前が直に訊け」
 韓がきょとんと見ている受話器からは、小さな呼び出し音が数回聞こえた。その後、かちゃ、と音がした。
 『もしもし?』劉の声が聞こえた瞬間、韓は金の手から受話器を引っ手繰った。「もしもし劉さん! あの、さっきのリュー・フェイロン氏の検査結果なんですけど――」
 金は、机に肘を突いたまま自分の頬を掻いた。ざりざりと嫌な手触りがする。ぼんやりと彼は、劉 飛竜という患者を思い出して見た。
 第一印象は、「人形のような人間」だった。信じられないほど煌びやかで美しく、表情に乏しかったのだ。外科医として治療に当たった金は、何よりも彼の身体に傷跡を残してしまうことを惜しんだ。そして同時に治療に当たった精神科の医師等を、理由もなく羨んだ。
 その内、劉 飛竜が「心の壊れた人間」だとわかった。幾度となく点滴を外し、自傷行為を働くので、常に見張りが付けられていた。金も数回見張りに付いたことがあるが、そのときの劉 飛竜は大抵眠っていた。ほとんど身動ぎもせずに、ただ時折奥歯を噛み締める音以外は、寝息さえ殺すようにして眠っているのが印象深かった。
 ――そして、彼は「犠牲者」なのだと悟った。患者に対して思い入れることが滅多にない金が、知らずの内に彼に入れ込んでいた。肉体的損傷がほぼ完治して軍部に連れて行かれるとき、同情していた。可哀想に、と思っていた。せめて擦り切れた精神がもう少し健康を取り戻すまでは病院に置いておけばいいのに、と思った。
 「――え? それって本当ですか!?」
 金ははっと我に帰った。韓の切羽詰ったようでどこか間の抜けた叫び声は、耳に付く。「あ、ちょっと待って下さい! 今メモ取りますから」
 韓が慌てて机の上をまさぐるので、金は自分の机の上からブロックメモとボールペンを引っ張り出して彼の目の前に差し出してやった。韓は口でボールペンのキャップを咥えて外す。「……はい、大丈夫です。お願いします」喋った調子にボールペンのキャップがぽとんと机の上に落ちた。
 「……『新種のウイルスに感染している可能性あり。リュー・フェイロンと何らかの接触があった者は、全員採血検査を行うこと。二重感染の恐れもあるので、慎重に検査を行うこと。それと、感染の可能性のある者は、念の為に隔離病棟に収容すること』……はい。ところで、新種のウイルスって何か目星でも付いてるんですか?」
 韓は手早くメモ用紙にハングルを綴りながら尋ねた。途中で紙がずれて文字が歪むが、彼はじれったそうに書き続けた。手早く答える劉の声が微かに聞こえる。「……あ、もうじき簡易検査の結果出るんですか。それじゃ、わかり次第連絡下さいませんか? 金さんのところにいるんで、お願いします。……ありがとうございます。はい、すみません。……それじゃ」そして韓は受話器を置いた。
 韓はボールペンのキャップを袖で拭ってペンに被せ、金に返す。「すみません、ありがとうございました」
 横目で韓を眺めながら、金は受け取る。「いえいえ。そんなことより、もうちょっと居座るつもりなのねお兄ちゃん」
 韓はにんまりと笑う。「劉公主の席に座っちゃえ」
 「そういう魂胆ね」金はボールペンとブロックメモを机の上に放り出すと、再び突っ伏した。
 その五分後、二人は余りに衝撃的な結果を受け取ることになる。
 ――十七歳の少年、劉 飛竜に感染したウイルスの名はJ−815。生物兵器として開発中の驚異的な致死率を誇るウイルスに、彼は感染していたのだ。


 「爺さん、もう買い取らないって言っただろ」古本屋の主人は、その老爺の顔を見るなり眉をひそめた。小柄な老爺は、小さく頭を下げた。
 昼なお薄暗い店内には、茶色っぽく変色した大量の本が外に溢れ出さんばかりに並んでいる。本棚に入り切らない本は所狭しと通路に並べられており、見る者を圧倒した。その本の大半を売ったのが、この老爺なのだった。
 眼鏡を掛けた白髪の主人は、少し申し訳なさそうに付け加える。「いや、俺も学士の端くれのつもりで来たからね、爺さんの本は正直言って嬉しいんだよ。今までだって、爺さんの本は商売抜きで買って来たんだ。ただね、これ以上俺も禁本を店に並べておく度胸はないんだよ」
 店主の言葉などほとんど聞こえないように、老人は足を引き摺ってカウンターまでやって来た。その手には、くすんだ緑色の布包みが抱えられている。主人は、やれやれと言った具合に眼鏡を外した。
 長く白い髭を持つ老爺は、主人の前で包みを解き始めた。指先が震えるらしく、なかなか包みが解けなかったので、見兼ねた主人が受け取って包みの結び目を解く。そして、中から出て来た数冊の本の内、一番上に重ねられていた本を持ち上げて表紙を改め、瞠目した。「……じ、爺さん」
 老爺は、黙って目を閉じていた。主人の声が震える。「……何で爺さん、乾朝の歴史書を持ってるんだ。政府が血眼になって探してるって専らの噂だろ」
 「幾らで買い取る」掠れた無表情な声で老人は言った。主人は、震える指で頁を繰りながら確かめる。「やっぱりそうだ。ガキの頃に劫火帝の文庫で読ませてもらったのと同じだ。何でこれが……」
 「幾らになる。『乾史』最終期五巻で、疵は少ないぞ」老爺はやや不機嫌そうに言った。ぶつぶつと何か呟いていた店主は、はっと顔を起こす。「爺さん、いいのか? 今こんなの手放したら、二度と手に入らないだろ」
 「いらないのなら、他所で売る」老爺は、やはり震える手で包みを結ぼうとし始めた。店主は慌ててその手を止める。「いる! こんなのが手に入るなら、学士として命なんか惜しんでいられるか。俺が個人的に買い取る! でも……」
 突然、老爺は皺だらけの瞼に縁取られた目を見開いた。青みがかった灰色の、凄みのある目をしていた。「こんなもの、わしは全部暗記しておる。……幾らで買う、わしの蔵書はこれで最後だ」
 主人は一瞬圧倒されたが、慌てて眼鏡を鼻に引っ掛け、レジを開いた。そしてその中からあるだけの札を掴み、更に自分の財布をひっくり返す。十数枚の紙幣と、大量の小銭がカウンターに散らばった。老人は歯のない口で笑うと、それを掻き集め、自分の懐から小汚い巾着袋を取り出して、中に仕舞い込む。
 そして、本を包んでいた布を几帳面に畳むとやはり懐に押し込み、来たときと同じように足を引き摺るようにして店を出て行った。その後姿を茫然と見送った主人は、手元に残った本を調べた。いかにも古めかしい装丁の本の表紙と本文を捲っていると、その内の一冊の中から一枚の写真が出て来た。彼は眼鏡を額に押し上げて、よく見る。
 写っているのは、明るい窓際の机に向かって本を一心に読んでいる奇麗な人物だった。異民族的に鋭く整った美貌を誇るその人物は、黒いセーターの肩から背中に掛けて、光を含む淡い亜麻色の髪の毛を流している。
 ――この国にいてはならないはずの、外国人の姿だった。けれどもそれ以上に、何か理由はよくわからないが、もっと見てはならないものだったような気がした。罪というよりも、禁忌の意識を覚えて、だからこそ余計に目を背けることが出来なかった。
 その写真にじっと見入った後ではっと我に帰り、慌てて主人はカウンターを越えて駆け出した。本の山に肘がぶつかり、鈍い音と共に本が店内に散らばった。一瞬彼は立ち止まり振り返ったが、すぐに向き直り店を出た。
 店の戸口で左右を見渡すと、さほど遠くないところにあの老人の後姿が見えた。店主はサンダルをべたべた言わせながら駆け寄る。
 「爺さん、忘れ物。本に挟まってたよ」老爺は、主人にちょっと顔を向けてから、手を伸ばして写真を受け取った。「ああ、悪かったな」
 そして、しばらくじっとその写真を見詰めた後、大切そうに懐に仕舞い込んだ。
 「孫かい、その写真は」老爺の目が青っぽかったことを思い出した古本屋の主人は、何となく声を抑えながら尋ねた。だが、老爺はゆっくりと首を横に振る。
 そして呟くように小さな声で彼は答えた。「いいや、そんな畏れ多い」


 その駅の規模は、割と小さかった。街自体も平壌に比べると幾分小振りな印象を受ける。だが、街そのものは案外発展していてこざっぱりとしていた。線路は大型商店や集合住宅のように大きな建造物の間を縫うように走っており、南北に走る道路では車が絶え間なく列を為している。平壌でもよく見掛けた工事中の建物を、ここでも見ることが出来た。恐らく南北統一後にどっと北部に移住して来た人々の為の諸施設だろう。
 旧韓半民国と旧南鮮共和国の国境に程近かったこの街では、南北統一が盛大に祝賀されたらしく、未だに街道沿いには沢山の色鮮やかなバナーがはためいていた。身形のよい北部出身者と、どこか田舎臭く垢抜けない南部出身者が街に入り乱れてはいるが、それを除けば中進国の典型的な地方都市だった。
 駅の中央口から出て、煉瓦が敷き詰められたエプロンに立つと大花は大きく伸びをした。「ちょっとの間に随分変わっちゃったわね」朗らかな口調でそう言う。
 肩の荷物を揺すり上げながら、小魚は同意した。「本当に。いつの間にあんなビルが建ったんだろう」そして、大きく視線を廻らせる。
 駅前には広場ほどの大きさのエプロンが広がっていて、幾つかある花壇には向日葵が咲いていた。道路に面したところには、バスステーションらしき庇が並んでいる。更に隅の方に、小さな噴水が爽やかそうに水を噴き上げていた。小奇麗な公園のように整備されてはいるが、暑さの為かあまり人影はなかった。
 デイビーは、ちらりとベルを見た。彼女は掌を目の上にかざして、正面のバスステーションに建っている時計台を見上げていた。どこか、双子同様に懐かしそうな表情をしている。
 時計の針は四時十分前を示していた。
 「ねえ、この近くにネットカフェはない?」突然ベルは言った。
 双子は同時に彼女の方を向く。「何よ突然」「向こうの通りにあるよ。値段が変わってなかったら、三十分で二千元」小魚がバスステーションの更に向こうを指差した。大型ビジョンの掛かったビルの一階部分に、喫茶店のようなものが見えた。ベルは少し目を細めて目的物を確認すると、にっと笑う。
 そしてデイビーのポケットから財布を抜き取ると、それを指に挟んで言った。「ちょっと時間潰してて頂戴。すぐ戻るから」


 本当に、ベルはすぐに戻って来た。冷房の効いた駅構内に戻った彼等が見ている前で、彼女はエプロンを突っ切り、駅前の大通りの赤信号を無視して渡り、ビルの一階に消えたと思ったら間もなくその入り口から出て来た。そして来たときと全く同じコースで戻って来た。戻って来るときは幾らか駆け足気味だった。そしてその手には数枚の紙が握られている。
 「潰すほどの時間なかったじゃない」大花が腰に手を当てながら言った。ベルはくすくすと笑う。「いや、まさかここまでちょろいとは思わなかったのよ」
 そして、デイビーのポケットに財布を戻した。「五分しか使わなかったのに、ばっちり二千元取られちゃったわ」
 愉快そうに笑うベルの顔を見て、つられて思わずデイビーも微笑んでしまった。どちらにしても、吝嗇なベルが五分間に使う金額といえばたかが知れている。
 小魚は、荷物の位置を少しずらした。「それは何?」
 ベルは愉快そうに笑いながら、手に持った紙を手渡した。小魚が広げると、大花が顔をくっ付けて覗き込む。そして頓狂な声を上げた。「去年のクラス名簿じゃない! どうしたのよこれ!」ますますおかしそうにベルは笑った。
 少し考えて、小魚が顔色を変える。「まさか……」「学校のホストコンピューター、未だに変わってないのね。ばっちりデータも残ってたわ」ベルは髪を掻き揚げた。
 平然と笑っている彼女と対照的に、小魚は頭を抱えてしゃがみ込んだ。「ハッキングは犯罪だよ……」
 「あんなちょっとの時間で出来るのね、情報泥棒って」困惑する小魚を尻目に、大花は感心して言った。ベルが珍しく喜々として答える。「これは特別よ。しょっちゅう通って悪戯してたから」「悪戯?」ベルは歯を見せて笑ったが、質問には答えなかった。
 そして小魚の手から紙を奪い返した。「Mr.リューの家、川北地区らしいわ。この電話番号はニセモノだから、真偽のほどはわからないけど」
 大花が唖然とする。「もう調べたの?」
 「いんや、一年ほど前に用事があったんで電話掛けてみたんだけど、『コノデンワバンゴウハゲンザイツカワレテオリマセン』」ベルは少し舌を出して見せた。「この住所も嘘臭いけど。この番地だとスラムだもん」
 小魚は頭を掻きながら立ち上がる。「……そう言えばベルの家も川北地区だったっけ」
 ベルはじっと紙に目を注いだまま、顔を起こさずに言った。「んじゃ、あたしちょっと行ってくるから、あんた達は勝手に時間潰してて」
 大花が一瞬驚いたような顔をして、すぐに目を見開く。「はあ?」
 「今度は五分じゃ用が済まないから、何なら実家に戻ってみたら?」額に手をやりながらベルはにべもなく言った。
 眉を吊り上げて、大花が彼女の手を掴む。「いい加減にしなさいよ。あんたってばいつもいつもそうなんだから! あたし達仲間でしょ!? 何で肝心なところをぼかす必要があるのよ!」
 そしてベルの細い腕を強く引っ張った。少しつんのめり、ベルは大花を見上げる。大花は頬を紅潮させていた。
 「悪いとは思ってるわ」「だったら……」
 ベルはもう一方の手を伸ばし、大花の唇に指を当てた。急にゆったりとした口調で言う。「……誰かに聞かれたらどうするつもり?」
 そして、彼女の耳元に背伸びして口を近付け、何かを囁く。大花が顔色を変えた。
 「……そういうこと」ベルは、手首を握った大花の掌を振り払った。
 「わかったら、あたしの分の荷物頂戴」そう言いながら、大花の肩越しに小魚の方へ手を伸ばす。彼は一瞬躊躇ったが、その手をベルの小さめの鞄にさまよわせた。
 彼の手から半ば強引に鞄を奪い取ったベルは、そのままぼんやりと突っ立っているデイビーに押し付けた。状況が飲み込めず目を瞬かせているデイビーをぽんぽんと叩きながら、ベルは笑った。「荷物持ち兼ボディーガードを連れて行くから安心して。制限時間は一日、明日の十六時丁度にここに集合よ。それじゃあね」
 一方的にそれだけ言うと、ベルはデイビーに手招きをしてバス乗り場の方へと行ってしまった。デイビーは数回双子の方を振り向いていたが、やがてベルに遅れないように急ぎ足で雑踏の向こうへ消えて行ってしまった。
 敷き詰められた煉瓦の隙間にくっきりと浮かぶ黒い影を見詰めながら、大花は小さく歯軋りをした。
 「タイホア……ベルは」心配そうに顔を覗き込む弟の頭を、彼女は掌で掴んだ。「大丈夫よ。あいつは強いから」
 そして、小魚の頭を自分の顔に引き寄せて、額と額を当てた。
 「あたし達ってさ、ホント無力よね」呟くように言った。小魚は心配そうに上目遣いで姉の目を見る。「タイホアは、大丈夫?」
 突然大花は、ぱっと弟を手放した。小魚は一瞬転びそうになって、慌てて両腕を宙にさまよわせた後体勢を整える。次に見えた大花は、笑っていた。「んじゃ、あたし達も行くわよ。せっかくの半年振りの開城(ケソン)じゃない」
 小魚も、少し躊躇ったが笑顔で頷いた。


 その駅の規模は、割と小さかった。この鉄道の終着駅ではあるのだが、本来は人ではなくて発掘資源を積み込むのが目的の駅だったらしく、駅員よりも作業員の人数の方が多かった。そもそも鉄道そのものが単線なので、人が乗降するホームは一本しかなく、残りの線路には荷台一杯にあの炉に入れる黒い石が大量に乗せられて並んでいた。
 若い女は、きょろきょろと左右を見渡しながら運転席から降りた。そして、黒い煙を吐き出しながらそびえる汽車の煙突を見上げ、次に降りて来る機関士の黒い顔を見上げた。
 「ありがとうございます」彼女の発音は幾らか流暢になっていた。
 それを見ながら、機関士は言う。「本当に行くんだな?」「はい」晴れ晴れとした表情で女は頷いた。
 もう、止めようという気は機関士の中には残っていなかった。女の頭に大きな掌を載せながら、静かに言った。「アンティアーロ・アンティラーゼ」
 女が不思議そうな顔をしたので、付け加える。「『いい旅を』ってことだ」
 嬉しそうに女は笑顔を見せた。人を幸せにする笑顔だ、そう思った。機関士も嬉しそうに笑う。
 女はゆっくりと改札の方へと進んで行った。その姿に向かって、もう一度彼は言う。「アンティアーロ・アンティラーゼ」
 彼女は振り返って、大きく手を振った。綺麗な声で叫ぶ。「アンティアーロ・アンティラーゼ! あなたも、いいたびを。ありがとうございます!」
 ――そして、程なく駅舎の陰に見えなくなってしまった。
 機関士はしばらく手を振っていたが、ゆっくりとその手を下げた。
 どうか、あの子に加護を。俺達の娘の分まで、幸せを与えてやってくれ――大柄な髭面の機関士は、彼の娘が死んで以来ほとんど二十年振りに、神に祈った。
 「アンティアーロ・アンティラーゼ」もう一度だけ、その発音を確かめるように彼は呟いた。
 ――どうかあの子の旅が、苦しいものではないように。


 古本屋の主人は、手元の本から顔を上げた。
 「今日はもう仕舞いだよ。看板下げてるだろ」日が翳り始めた戸口の方へ向かって、そう声を投げる。
 だが、そこに立っていた人影はほとんど意に介さない様子で店内へ入って来た。「聞いてるのか?」
 「じーちゃん、相変わらずまともに商売してないのね」答えた声は、少し幼さの残る若い女のものだった。聞き覚えのある声と、逆光に浮かぶ小柄なシルエットに、主人は瞠目した。「……久し振りだな、お嬢」
 主人は、慌てて店内の電灯のスイッチを入れた。蛍光灯は点滅した後、薄暗い店内に明かりを灯す。
 「本当にお久し振りね。何かいい本入った?」目の前の少女は、口許に微笑みを浮かべながらカウンターを覗き込んだ。一筋の銀色のメッシュが入った長い黒髪が、肩からさらりと零れた。
 「どこに行ってたんだ。随分長い間来なかったから、てっきり『プログラム』にでも巻き込まれたのかと思ってたぞ」そう言いながら、店主は声を上げて笑った。漆黒の服を着た少女が微かに表情を曇らせたことには、気付かなかったらしい。
 「まあ、お嬢が死ぬとは思ってなかったけどな」主人の軽口に、ようやく少女は再び笑って見せた。「このメッシュだって、一応伊達じゃないからね」
 そしてそう言いながら、主人がカウンターの上に乗せていた本を下に隠すのを目敏く見ていた。この古本屋の主人は、自分の気に入った本は絶対に売らず、隠してしまうという悪癖を持っている。やれやれ、と言った調子に少女は肩を竦めた。
 その肩越しで、店の中を興味深げに眺め回している人物に目をやりながら主人は少女に尋ねる。「あれは、お嬢の連れか?」「荷物持ち」あっさりと少女は言う。
 そして、彼女はカウンターの上に上半身を預けながら言った。「ねえ、じーちゃん。この辺に『セト・ホーミン』って老人がいるらしいって聞いたんだけど、知らない?」
 主人は眼鏡の鼻当てに手をやって、すかした調子で答える。「さあね。俺は客の名前は訊かないことにしてるからな。第一、この店に来る人間なんて九割方年寄りだよ」
 「別に繁盛してる店じゃないんだから、来る人間の数だって知れたもんでしょ。ねえ、老人仲間で思い当たる節ないの?」吹くように少女は言った。
 少しむっとした様子で、店主は手をひらひらと振る。「それでも、知らないもんは知らないからな」
 そして、少し声を潜めて付け加えた。「ここに出入りする奴なんて、政府から見たらろくなもんじゃない。巻き添えは食わないようにしてるんだよ」
 少女はなるほど、と首を縦に振った。確かに、この店に並んでいる本を読む人間なんて政府の言う『危険思想家』程度である。
 ふと、少女の背後で何かが崩れる音がした。振り向くと、連れの大柄な男が茫然と立ち尽くす足元に大量の本が散らばっていた。慌てて主人がカウンターから出て来る。「馬っ鹿野郎! 貴重な本に疵でも付いたらどうしてくれるんだ!」
 おろおろと男は本を拾おうとして、自分の眼鏡を落としてしまった。それを手探りで探す内に、再び別の本の山を崩してしまう。更に主人は怒鳴る。
 少女は、数冊の本を払い除けて男の眼鏡を拾い上げた。そして彼にそれを手渡しながら、足元で開かれた本に目を注ぐ。
 「あれ、これ『東洋異聞』の訳本じゃない?」
 「ああ、多分そうだろうな」店主は一心に本を拾い集め、再び積み上げ始めていた。それを尻目に、少女は本をぱらぱらと捲った。「凄いじゃない。乾朝末期の本っていえば、禁書中の禁書でしょ」
 「最近、素乾・乾朝時代の文献ばっかり持ち込む爺さんがいたんだよ」神経質に本を払う主人は早口に言った。
 少女はふと顔を起こす。それに気付かない様子で主人は続けた。「お嬢が来なくなった頃からかな。その爺さんほとんど毎日、大量の本を持ち込むんだよ、それも半端じゃない貴重な本ばっかり。今この店にある本の大半も、その爺さんが売ったもんだよ」
 少女は、ばさっと手の中の本を取り落とした。傍にいた男が、慌ててそれを拾い埃を払う。
 店主が振り向いてもしばらくの間、少女は硬直していた。だが、その一瞬後に彼女は突然店主に齧り付いた。「ねえ、その爺さんどの辺にいるの!?」
 「だからわからないって言ってるだろ」不機嫌そうに主人は言ったが、少女は激しく首を振る。「どっちの方向へ帰ったかだけでもわからない!? 人の命が掛かってるのよ!」その迫力に気圧されて、店主は手を止めた。
 古本屋の主人は、少し首を傾げながら考えた後、少女に店の外を示して見せた。「……今日、忘れ物をしたんで渡してやったんだよ。確か店を右手に出て行ってて、その後中古ビルのところを左手に曲がってた。それ以上は幾ら振っても出て来ないぞ」
 「ありがと」少女はようやく主人から離れた。そして、散乱した本の山をぴょんと飛び越える。「それだけ訊きたかったの。どうもありがとうね」
 そして、本を積み上げる手伝いをしている男を手招いた。少し申し訳なさそうにした後、男も長い足で本を跨いで店の戸口へ向かった。主人は、不機嫌そうに本を積み上げ続ける。
 少女が店を出ようとする瞬間、主人の声が飛んで来た。「お嬢、また来いよ。売ってはやれんが、面白い本が沢山あるんだ。貸してやる」
 「じーちゃん、相変わらず商売下手ね」少女はくすくすと笑った。「生きてたら、また来てやるわ」
 少女と男が遠ざかって行く足音を聞きながら、主人は黙々と本を積み重ねた。だが、一冊を重ねようとしてバランスを崩し、また本の山は崩れてしまった。


 甫民は、橋を渡った後河川敷へ下りた。この一ヶ月ほど雨が全く降らない日が続いたので、水面はだいぶ下がっている。その分広くなった河川敷では、沢山のテントとビニールシートが並んで、闇市が為されていた。ビニールシートの上に商品を並べただけの店舗がずらりと並ぶ間を、所狭しと客が行き来している。
 闇市に出入りしているのは、全体的に身形の卑しい者ばかりだった。市で交わされる言葉の多くに南の訛がある。甫民は深い皺の寄った眉間を寄せた。
 南北統一後、南から多くの移民が新天地を求めて移住して来たが、現実は厳しかった。六十年以上に及ぶ分断により南北の経済格差は激しく、また決してゆとりがあるとは言えない状態の北側にも、南側からの移民を暖かく受け入れる余裕がなかった。とは言え、一度移住して来た人々は帰る為の経済力もなく、現状を伝えるだけの情報機関も発達していない南側からは次々と移民がやって来るので、旧国境に程近いこの地域は人口爆発を起こし掛けていた。
 行く宛てのない移民達はこの地に留まり、今やこのような形の生活を確立し始めている。北部主体の国家警察も、この地域はほとんど取り締まらなかった。
 甫民は、ふと向かいから歩いて来る若い夫婦に目を止めた。やはり彼等も南部の出自なのだろう、貧しい身形をしている。だが、二人で荷物を分け持ちながら生活雑貨を物色する夫婦は、幸せそうに見えた。妊娠中らしい大きな腹をした妻と、それを守るように人込みを分ける夫の姿を、甫民はやがて直視出来なくなってしまった。彼は俯くようにして目を反らす。
 若い夫婦が甫民の隣を擦れ違って行った後、この老人は一言だけ何かを呟いた。だが、その掠れた声は完全に雑踏に掻き消されてしまった。


 闇市を見下ろす橋の上を、ベルとデイビーは渡っていた。注意深くベルは橋の袂を覗き込んではいるが、周囲への警戒も怠らない。一方のデイビーは、ほとんど何も考えていないような笑顔で、彼女の半歩ほど後ろを歩いていた。
 彼等はまず、名簿にあった住所を尋ねてみた。ひどく奥まったスラムの一角にその住所は実在したが、留守だった。小さな借家だったので背伸びして中を覗き込んで見たが、中には人の気配どころか何も物がなかった。裏に回って電気代のメーターを調べたが、何の反応もない。飛竜が実際にこのような粗末な家で暮らしていたのかは甚だ疑わしかったし、少なくとも瀬戸甫民が今現在ここで生活している気配は薄かった。
 仕方なく、ベルは次の手掛かりを求めて移動した。そして彼女が入って行ったのが、あの古本屋だった。
 ふと、ベルが何かを見付けたらしく、足早に橋を引き返して土手を下りた。
 その瞬間、デイビーは表情を強張らせて険しい目付きで周囲を見渡した。不審者がいないのを確認すると、再び笑顔に戻ってベルに続いて芝の斜面を下った。
 

 甫民は、ふと何かが気になって後ろを振り返った。肌の内側をざらざらしたものが流れて行くような感覚がする。長年工作員として修羅場を潜り抜けて来た彼の勘が、警告を発していた。――警察のような、生易しい相手ではない。もっと脅威になるような何かが近付いて来ている――。
 老爺の視線の先に、一人の少女の姿があった。そしてその隣を行く大柄な男。二人とも小奇麗な身形をしているので、初めは北側の人間かと思った。だが、男の身のこなしには違和感があった。姿勢や足の運び方、ちょっとした仕草がアジア的でない。よく見ると、眼鏡と髪で隠している顔立ちにも違和感があるし、身長もやや高過ぎる。
 そして、少女が左側を向いた瞬間はっとした。彼女のやや右寄りの前髪に、一筋の銀髪が紛れ込んでいたのだ。
 甫民は、瞬時に彼女の正体に目星をつけた。
 (――あれは、陛下の仰っていた娘)
 クラスに、銀の目印が入った女がいる。竜血樹はそう言っていた。クラス名簿によると、家はそう遠方ではなかった。――もっとも、あの『プログラム』から生きたまま脱出したのだから、本来ならば彼女はこんなところにいるはずがないのだが。
 それでも彼女がそこにいることは、妙に納得がいった。どこか好ましげに彼女のことを語る竜血樹の面影が、老いた脳裏を過ぎった。
 『変わった奴だ。気が強くて、好奇心が旺盛で、俺のこともじろじろ眺める。そして――』
 甫民は、少女の姿を目で追った。男が人込みより頭一つ半程大きいので、隣にいる彼女は一際小さく見える。この暑苦しい季節に、何をまかり間違ったか漆黒の装束。長い、くせのない黒髪。遠目でもよくわかる、何かを探す鋭い眼差し。
 ああ、と甫民は内心で嘆息した。同じ目をしている。
 竜血樹の言葉が頭の中に響いた。『皇帝の目をしている』


 ベルは、きょろきょろと忙しなく周囲を見渡していた。ふとその視野に白髪の老爺が見えた気がして、駆け出そうとしたら雑踏に押し戻された。転びそうになり、デイビーに肩を支えられた彼女は悔しそうに舌を打つ。
 と、しばらくの間ベルをじっと覗き込んでいたデイビーは、軽々と彼女の身体を持ち上げ、高い位置で抱きかかえた。ベルは少し抵抗しようとしたが、存外見晴らしがよいので大人しくなった。卑しい身形の人々が密集するこの闇市は、活気ある熱気に包まれていた。汗がべたべたして少々気持ち悪かったが、この際気にしないことにした。
 ベルが指で示す方向へデイビーは移動していたが、唐突に彼は足を止めた。じれったそうにベルは彼を急かすが、全く動こうとしない。見ると、デイビーの視線の先で、何かの肉の串焼きが炭火に炙られていた。ベルはしばらくデイビーを突付いたり引っ張ったりしてみたが、彼は屋台に釘付けになったまま動かない。返事の代わりに、彼の盛大な腹の音が聞こえて来た。
 仕方なく、ベルは溜め息を吐いた。「いいわよ。腹が減っては戦は出来ぬ」そして、彼の肩を叩いて許可するような身振りをして見せた。デイビーはぱっと明るい表情になる。
 彼は、財布を取り出して屋台の少年に紙幣を渡し、三串入りの皿を受け取った。ベルにその皿を持たせると、デイビーは腕に小さめの鞄をぶら下げた方の手で串を一つ持ち、美味しそうに頬張った。ベルも一串を貰いながら、デイビーの姿を見て改めて感心した。左腕にベル、右腕に彼女の鞄を抱え、その上焼肉の串まで咥えている。つくづく器用な男である。
 ベルは、デイビーの頭を肘で小突いた。あまりにも嬉しそうな表情をしているので、やれやれとベルは見晴らしのよい彼の肩の上から周囲を見渡すことにした。デイビーに抱え上げられていると、人込みの中でも周囲の視線に嫌と言うほど晒される。注目を浴びるのがあまり苦痛でない彼女は、これ幸いと人々の顔を観察して見た。(老人は、あまりいないのね)
 ベルは、記憶の糸を手繰って見た。(工作員の瀬戸甫民、Mr.リューの育ての親。――この人なら、きっとMr.リューを簒奪する手伝いをしてくれる)
 手掛かりがあまりにも少ない。ここにいるかもわからない。もしかしたら、古本屋を出た後甫民老人は、どこか遠方へ移住して行ったかもしれない。それでも、今は万に一つの可能性に賭けるしかなかった。
 ふと周囲を見渡した瞬間、視野の端に秀でた老人の頭が見えた気がした。ベルが慌ててデイビーに指差して見せた瞬間。
 べしゃっ
 ベルは、驚いて白い発泡スチロールの皿を手から取り落とした。彼女の膝で皿は一回跳ねて、中の串が地面に落ちた。「デイ……」
 「この疫病神!」向こうで野菜を広げていた中年の女性が罵声を上げた。
 その方向を、デイビーが物凄い形相で睨み付ける。女性は一瞬たじろいだ。
 デイビーの足元には、三つの焼肉の串が土埃に塗れていた。そして彼の手の中には、食べ掛けの串の代わりに潰れて汁を垂らすトマトが握られている。――中年の女性が、ベルに向かって投げたものだった。
 デイビーは、トマトを払い落とし掌をぺろりと舐めると、のんびりとした足取りで野菜を並べたシート店舗に近寄って行った。雑踏が、さっと二手に分かれて彼の前に一本道を作る。デイビーは、鋭い目付きで女性をねめつける。
 不意に、ベルがデイビーの腕の中から跳び降りた。そして彼の腕を押さえながら野菜売りの女性の方を振り向く。「もしかして、閔おばさん!?」
 鶏がらのように痩せた中年の女性は、鼻を鳴らして立ち上がった。「もしかしなくてもそうだよ。あんたのせいで、家を焼かれた閔家だよ」
 ベルは、思わずデイビーの腕を放して目を見開いた。「焼かれた!?」
 デイビーは、既にベルの方に視線を注いでいた。途惑うような、驚いているような色をカラーコンタクトの中の瞳に浮かべている。
 閔は、腰に手を当ててベルを鋭く指差した。「あんたが高等学校なんかに進学して、『プログラム』なんかに巻き込まれるのが悪いんだ。そのせいであんたんちが焼かれるのは勝手だけど、周りの一帯まで焼かれるのはどういう了見だよ! 隣のあたしんちなんか、真っ先に焼かれたよ!」
 ベルは、ぽかんとしながらそれを聞いていた。「……ちょっと待って、話がよくわからな……」
 「そのくせ、あんただけのうのうと生き残っていやがって!」肩で息をしながら、一息に閔は言った。彼女の言葉を懸命に頭の中で整理していたベルは、叫ぶようにして尋ねた。「ちょっと待ってよ! 『あんただけ』ってどういうこと!?」
 閔はしばらく興奮のあまり肩で息をしていたが、少し間を置いて低い声で言った。「――そのまんまだよ。あんたんち、政府の役人が来て皆殺して行ったよ。その後家に火を着けたんだ。そのせいで……」
 ベルは、最後まで聞かずに踵を返して駆け出して行った。デイビーは一瞬迷ったが、閔をもう一度だけ鋭く睨んだ後、ベルの後姿を追い掛けて行った。


 雑踏の間を縫うように駆けて行くベルを、デイビーは人込みを掻き分けながら追い掛けて行った。雑踏の中でも小柄な彼女が一旦視野から抜けてしまったら、二度と見付からないような気がして、デイビーは必死になった。
 土手を一気に駆け上り、橋の上を行く自転車を横っ飛びに避けるベルと、それを片っ端から蹴散らして行くデイビー。車道に飛び出して、急ブレーキを掛けた運転手に罵声を浴びせられるベルと、その車の横っ腹に蹴りを入れて行くデイビー。息を切らしながら背の低いブロック塀の間を擦り抜けるベルと、勢い余ってブロック塀を飛び越えるデイビー。――やがて二人は、街の外れにある小高い丘の斜面を削った新興住宅街に出た。
 ベルは、足をもつらせ倒れ込みそうになりながら走った。丘の西麓にあるベルの家は、東の外れにある団地の入り口からは見えない。団地の周りを囲む四車線道路に沿って、ベルは東へ向かって走った。いつの間にかデイビーがその隣にくっ付いていたが、彼女は全く気付かない様子である。
 隣を大きなダンプカーが追い抜いて行った。真っ黒な排気ガスが浴びせられ、二人とも少しむせたが気にならなかった。
 道路沿いにある大型百貨店の角を曲がると、店舗の影に隠れていた西麓が見えるようになる。ベルは、俯き首を振りながら必死に足を動かした。そして百貨店の駐車場が途切れ、大きな建物の影に隠されていた沢山の家々と一緒に小さなベルの家が――。
 ――見えなかった。ベルは狼狽してその場に固まった。
 彼女の家があったはずの西斜面は、一面真っ黒に焦げていた。真夏というのに、雑草の緑さえ見えない。家の跡形さえない。真っ赤な夕焼け空を背景にして、本当に見事に一面が真っ黒だった。
 デイビーは息を整えながら、ベルの隣に並んで空っぽの光景を眺めた。状況が全く飲み込めず、ベルの横顔と焼け野原を交互に見比べる。焼き尽くされて何もない荒野と、驚きのあまり何の表情も持たないベルの顔は、奇妙に似ていた。
 やがてしばらく茫然と立ち尽くしていたベルは、再び走り出した。周囲を見渡して風景を確かめながら、アスファルトで舗装された団地への道を一気に駆け上って行く。道沿いに小振りな家が並んでいたが、どれも人気がないのが不気味だった。
 それも、程なくして途切れた。半焼のまま放置された家が道に並ぶようになり、鉄筋だけが残った家の隣を駆け抜けて行くと、目の前に空襲にでもあったような黒焦げの土地ががらんと広がった。道路のアスファルトは溶けてなくなっており、規則正しく地面からコンクリートの礎石が覗いていた。焼け残りは片付けられ、土地は既に何度も雨に洗われたようだったが、その為になおのこと剥き出しの焦土は醜く、寂しかった。
 ベルは、足を緩めて地面を見詰めた。そしてとぼとぼとした足取りで焼け野原を渡って行く。黙ってデイビーはその後ろをついて行った。『定礎』と彫り込まれたコンクリートブロックの欠片を踏み付けながら、ベルは黙々と歩く。そして、ある一区画の前の道路で立ち止まった。彼女は、じっと地面の一点を見詰めた。
 何か木切れのような物が、区画の端に建てられていた。柔らかい焦土を踏みながら、ベルはゆっくりとそれに近付く。焦げた木切れには何か文字が書いていたが、彼女はそれを読まずに引っこ抜いた。そして、その木切れで地面を掘る。
 ベルの背後でデイビーが声にならない悲鳴を上げた。ベルの顔には、淡々とした無表情しか存在しなかった。――深くない地面から、幾つかの人間の頭蓋骨が出て来たのだ。デイビーは怯えたような目でベルを見る。
 と、その目の前でベルは口を押さえた。そして顔色を真っ青にしながら、胃の内容物を吐き出した。慌ててデイビーは駆け寄り、彼女の背中を擦る。ベルはごほごほとむせながら、さっき食べたばかりのほとんど消化されていない肉を吐いた。水の入ったペットボトルを差し出されると、ベルは引っ手繰るようにしてそれを一気に飲み干し、そしてそれも全て吐いた。
 吐く物が何もなくなってからもベルはしばらく苦しそうにむせていたが、やがてデイビーの腕を痛いほどきつく握り締めて立ち上がった。心配そうに覗き込むデイビーの目の前で、彼女は額の汗を腕で拭った。そして息を切らせながら、小さな声で呟いた。「――ぜったいに、ゆるさない」
 彼女は、デイビーの腕の中で歯をきりっと噛み締めた。その真っ赤になった頬に、二筋だけ涙の線が伝っていた。


 翌日未明、開城市内の行政機関五ケ所は連続爆弾テロに見舞わることとなる。旧南北国境の板門店から程近い街だったので、警察は犯人を旧南鮮共和国ないし関連の深かった中華連邦の危険思想家ではないかと推定。開城市は、異様な緊張感に包まれた。
 が、多くの平壌市民は、それがいずれ自分の身にも深く関連してくることだと、この時点では露ほども思わなかったに違いない。




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