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第四夜


 昔、頌という国に彪氏という女がいた。美貌の持ち主だった彪氏は、頌が滅んだときに迪王の妃になった。だが、間もなく迪王は亡くなり迪も滅んだ。次に彼女は棍王の妃になった。しかしすぐに棍も滅亡し、斉胡の王に嫁いだ。斉胡の王が亡くなったとき、その息子は彪氏を捕え凌辱した後に焼き殺してしまった。彪氏は呪いの言葉を残して果てた。
 斉胡王の息子はその後、疫病で死んだ。

(『六国通鑑』列女伝より抜粋)



   第四夜



 その若い女は、どうやら金を持っていなかったらしい。機関車に乗り込もうとする彼女を、若い車掌が苦い笑いを浮かべながら止めていた。腰に下げた鞄から切符を取り出して見せて、車掌は何やら説明している。それを聞くにつれて、女の表情は悲しそうに歪んでいった。
 妊婦と思しき、大きな腹を抱えた女は立っているのも辛そうだった。それでもなお彼女は懸命に車掌に何か話し掛けている。だが、車掌は軽く肩をすくめて首を横に振るだけだった。
 構内で発車を待っている機関車をしきりに気にしながら、彼女はまだなお必死に食い下がる。そんな彼女を横目に、時計をちらりと見た若い車掌はそのまま列車に乗り込もうとする。
 女は、その車掌の袖を掴んで引き止めようとした。すると車掌は乱暴な仕草で彼女の腕を振り払った。そして、不意に胸が悪くなるような笑みを浮かべ、女の黒髪に手を伸ばすと小さな声で何か呟いて見せた。血が上ったように、かあっと女の顔が紅潮する。怯んだ彼女を突き退けて、若い車掌が列車に乗り込もうとしたその瞬間――。
 ごん
 鈍い音と共に、若い車掌の頭が沈んだ。その頭に載った黒い帽子の上に、固い大きな拳がめり込んでいる。女は驚いてその拳の持ち主を見上げた。黒い機械油に塗れた作業服姿の大きな男がそこに立っていた。彼は、その大きな掌で女のか細い手首を掴むと、そのまま機関車の先頭部の運転席に乗り込む。つられて汽車に乗り込みながら女が振り向くと、さっきの場所であの車掌はまだ頭を抱えてうずくまっていた。
 「あ……りがとう、ございます」たどたどしく女はそう言った。動き始めた列車の運転席で、手持ち無沙汰に彼女は立っていた。ぐらりと車体が揺れるので、慌てて近くの柱に縋り付く。
 髭面の機関士はちらりとそれを見ると、燃料とおぼしき積み上げられた黒い石の山の隣を示した。
 「座れ。転ぶぞ」ぶっきらぼうな物言いだったが、女は素直にその言葉に従った。「……ありがとうございます」
 伸びた髭で表情の読み辛い機関士は、軍手をはめた大きな掌でどんどん機関車の燃焼炉に黒い石を放り込んでいった。激しい火花を散らしながら紅い炎を出す石を、女は不思議そうな面持ちで眺めていた。そして、自分の隣から一つそれを拾い上げて、くるりと回しながらまじまじと見詰めている。
 機関士は、袖を捲り上げた腕で自分の額を拭った。あっという間に煤が付いて、色黒な顔が更に黒くなっていた。「お前、どこまで行くつもりだ?」
 女はきょとんと首を傾げた。自分のひどい訛にようやく思い至った機関士は、ゆっくりと丁寧に言い直す。「お前は、どこまで、行くつもりなんだ?」
 ようやく腑に落ちたという表情をして、女は頷いた。「『ネーヴェン・バーブ』にいるはずの、ひとを、さがしています」
 機関士は怪訝な顔をして、彼女の顔を眺め直した。彼女の表情には曇りがなく、嘘を言っているようには見えなかった。「ネーヴェン・バーブ……」
 「そこまで、どのくらい、かかるとおもいますか?」ぎこちなく彼女は尋ねた。軍手の掌を顎にやりながら、機関士は首を捻った。「さあ」
 不安げに顔を覗き込む女の目線を反らしながら、彼は付け加えた。「――そこに着いたら、降ろしてやるから」
 それでようやく彼女は安心したらしい。ほっと小さな溜め息を吐いて、その大きな腹部を優しく撫でた。そして微かな声で歌を唄い始めた。機関士の知らない不思議な言葉と旋律の歌だった。
 耳に優しく溶ける歌声を聞きながら、機関士は極力静かに黒い石を炉に投げ込んだ。しばらく様子を見ながら石を燃やしていたが、火が落ち付いて来たのでしばし手を休めることにする。軍手を外し、腰に下げたボロ布で顔の汗を拭いながら、操縦席のレバーを少し調整すると歌を唄っている女の方を振り返った。
 身形はぼろぼろでやつれた顔はしていたが、どこか澄み切った透明感のある美しい女だった。まるで、自分が世界一幸せだと言わんばかりの嬉しそうな表情をして、歌を唄っていた。その笑顔に、ふっと機関士の表情も緩む。
 と、彼の視線に気付いた女は、歌を止めてじっと機関士を見詰め返した。ばつが悪そうに彼は黒い石を抱えて炉に向かう。軍手をはめ直した手で再び、乱暴に石を放り込んで行った。
 「あの……」首だけで振り向くと、女は身を乗り出して何か言おうとしている瞬間だった。ばつが悪く、機関士は慌てて操縦盤に向き直る。「……何だ」
 しばらく沈黙があったが、背後で女は小さく言った。「ほんとうに、ありがとうございます。ありがとう、ございます」
 「わかったから」無愛想に機関士が言ったので、それきり女は黙り込んでしまった。ちらりと後ろを見ると、彼女は困ったような表情で縮こまっていた。機関士も言葉が見付からず、頭を掻く。
 しばらく悩んだ上で、彼はぼそりと言った。「さっきの歌、唄ってくれないか」
 振り向くと、驚いたように女は顔を上げた。
 照れたように機関士は口ごもり、小さく呟く。「駄目か?」
 彼女は首を横に振る。そして、じっと機関士の顔を見詰めると突然にっこりと微笑んだ。どこか幼い、子供のように無邪気な笑顔だった。
 彼等の前には、長い長い真っ直ぐな線路が続いている。


 「なっつかしいわねぇ」大花は左右を見渡しながら晴やかに言った。
 「見なさいよ、ほら。看板がハングルなのよ!」その声につられて、何人かの通行人が擦れ違い様に彼女達を振り返る。
 「そんな大きな声で言わなくても聞こえるよ」左肩に下げた二人分の荷物を揺すり上げ、彼はたしなめる。「あんまりそういうことは言わない方がいいんじゃない、タイホア」
 荷物を小魚に押し付けていて身軽な大花は、腰に手を当ててくるりと彼の方を振り返った。「大丈夫よ、今は誰も咎める奴なんていないってば」「そういう問題じゃないんだけど……」やれやれと小魚は溜め息を吐いた。そして左右を見渡すと、アスファルトの地面に荷物をどさっと置いた。その中から一枚の地図を取り出すと、それと周囲の景色を照らし合わせる。
 繁華街を一本裏に入ってはいるが、ここもまた人々の生活の臭いが染み付いていて、表通りとはまた違った意味で賑わしい。むっとするような人の熱気と、生ゴミか何かの腐臭とキムチの匂いが入り乱れて、それだけでも暑苦しい。物珍しげにきょろきょろとしていた大花は、危うく自転車にぶつかるところだった。罵声を浴びせ掛ける自転車の上の男に、大花も果敢に怒鳴り声を返した。「前見て走りなさいよっ!」
 そんな彼女の腕を、小魚はぐいと引く。「ここだよ」
 「ここ?」大花は弟の顔を見て、ついでその視線を追った。その先にある、換気扇から吹き出すスチームで霞む看板の文字もまた、ハングルだった。「『司馬衣料』……案外ちっちゃいのね。ちょろいちょろい」
 看板を見上げたまま、小魚は小声で言った。「気を付けてね、無謀だと思ったら深入りしないんだよ」
 聞いているのかいないのか、大花は早くもその勝手口を調べ始めた。「あたし、クーデターってもっと派手にドンパチやるもんだと思ってたわ」
 かち、と音を立てて扉を押し開けた大花は、その中を少し見回すと小魚を振り返ってにやっと笑った。そして小さく掌を振る。
 姉の侵入を確認した小魚は、地図で緊張を浮かべた顔を隠しながら、見張り役の務めを開始した。


 デイビーは、水の入ったコップを片手に、タレの掛かった細長い串を頬張っていた。
 ベルは怪訝そうな顔をして彼の顔を見上げる。「……幸せそうね」
 満面の笑みで、デイビーはそれに答えた。端からは、公園でデートでもしている仲のよいカップルに見えなくもない。
 平壌に到着直後、すぐに全員揃って青屋根御殿――もとい国家総統官邸付近に来たまではよかったのだが、さすがに警備が厳しく内部へは容易く忍び込めそうにはなかった。仕方なく彼等は、空港に残して来た荷物の回収を行った後、一日を費やして御殿の状況を探ることにした。逸る女二人をなだめるのは正直言って重労働だったが、それでもどこかわくわくするものがあって、デイビーは終始笑顔でいた。
 だが二日目に突入するや否や、そうも言っていられない事態に彼は直面する羽目になった。絶食慣れしているベルや、元より不規則な生活がちだった双子はともかく、デイビーは食事を抜くと動けなくなってしまう性質だったのだ。
 急遽、ベルが近くの安い屋台で適当に食料を調達して来た。代金は当然デイビーの財布から抜き取った、換金済みの元札である。並ぶ屋台の食品は全てアメリカでは見掛けなかった物ばかりで、彼女は随分懐かしそうに物色する一方でデイビーの口に合うかどうか多少の不安を感じたらしいのだが、案外彼は何も文句を言わずに食べ物を口に運んでいた。
 そして、今は二手に分かれて行動している。ベルが何やら思い付いたらしく、双子に指示を出してどこかへ向かわせたものの、言葉のわからないデイビーにはさっぱり訳がわからなかった。もっとも、さほど彼に不満はなく、むしろ図らずもベルと二人きりになれたことを喜んでいたのだが。
 腕時計を睨みながらベルは言った。「ちゃんと双子はやってるんでしょうね」
 ペットボトルの水を一気に飲み干しながら、デイビーは首を傾げて見せる。さすがに真っ赤な唐辛子味噌が塗りたくられた食べ物は、慣れない内は大変なようだ。
 「だから……」苛々としながら計画を説明し掛けて、ベルはふと今使っている言葉は彼に通じないことを思い出した。デイビーが、今まで不平を含むほんの一言も口を利かないので、危うく忘れ掛けるところであった。仕方なく、苛立ちと共に言葉を飲み込む。「……お人好し」
 また怒られたか、と微かに苦笑して、デイビーは御殿の方に向き直った。官邸から少し離れたところにあるこの公園は、官邸よりもやや標高が高いので高い塀に囲まれた邸内も多少覗き見ることが出来る。彼は、ざっと屋敷の一階部分を眺めた。
 (――あの窓のどこかに、あいつがいる)
 どこか複雑な心境だった。写真でしか見たことがない男。ベルを、あの冷静なベルの心をあそこまで乱す男。ベルの役に立てるなら、彼女が喜ぶのなら、それで本望だと思うことにしていた。だが――。
 (俺ってば、本っ当にお人好し)デイビーは、心の中で小さく呟いた。


 嫌なことは、忘れるに限る。
 彼は、広いベッドの上で寝返りを打った。全身にひどい倦怠感が纏わり付いている。目を明けるのも厭わしかった。昨夜は一体何人この部屋に通って来たか、それを思い出そうともしたが、考えるのが面倒になって止めた。
 だが、目を閉じているとどうしても瞼の裏に彼女の顔が浮かぶ。あの、港から送り出すときに見せた泣き顔――そして笑顔。何度でも何度でも、まるで悪夢のようにその表情が甦って来た。彼女を愛することが、今こうして自分を苦しめている――そんなこと、絶対に彼女は望まないはずなのに。そう思うと、居た堪れない気持ちだった。
 (落ち付け)
 そういうとき、大抵彼は考え事をすることにしていた。彼を育てた『先生』に教えられた様々な事柄を忘れないように反復したり、夜毎通って来るあいつらを手玉に転がす方法を考えたり、短かった学校生活を思い出したり――とにかく何か考えるようにしていた。幾ら身体がだるくて思考が面倒でも、ただ白昼夢にうなされるよりは遥かにましだった。
 ふと、唐突に彼はかつてのクラスメイトのことを思い出した。それも特定の唯一人。(施寛美――あいつは……)
 彼は、十五歳になるまでおよそ学校と名の付くものに通ったことがなかった。義務教育や、中等教育で習うべき内容は全て自宅で瀬戸先生に教わっていた。出会い、言葉を交わす人間はごく限られていて、その結果彼自身の社会性も著しく欠如していた。
 高等学校に通うことを決めたのは、多分その為だった。社会のことも世界のことも、彼は何も知らない。――何も知らなければ、何も守れない。それで、先生や彼女の反対を押し切って入学を決めた。
 当然だが、他人との付き合い方を知らない彼に友達は出来なかった。それでも、寂しいと思ったことはなかった。家に帰れば彼女と先生がいたから、学校はただ色々な事柄を学ぶ為だけの場所だと割り切ることにしていた。
 ただ一つだけ嫌悪を感じたことといえば、クラスメイトの好奇と畏怖の入り混じったような視線だった。彼自身がクラスメイトの興味関心の対象になっていることは、痛いほど感じていた。名前がしばしば囁かれていることも、様々な憶測に伴う噂が流れているのも知っていた。それは全て我慢出来た。
 だが、誰もが彼を横目で眺めるのだけは嫌だった。常に舐め回すような視線が付き纏っているにも関わらず、振り向いた瞬間誰とも目が合わない。誰も彼を無視しないくせに、直視しようともしない。それでいて、彼を警戒する余り背を向けることもしなかったのだ。
 ――唯一人、彼女を除く人々は。
 あの銀色の目印が入った長い黒髪の彼女、施寛美だけが、彼に剥き出しの好奇心と視線を送って来た。目が合った瞬間、慌てて目を伏せることをしなかった。ただ自分の気が済むまで彼を観察し、飽きたら颯爽と背を向ける。印象に残った。
 少し、彼女に興味を持った。
 一度だけ、もしも、と考えたことがある。もしも、彼が彼女と――家で彼を待っている、あの優しい愛しい女と――出会ってなかったなら、彼はあのクラスメイトに対して何らかの特別な感情を抱いただろうか。
 考えながら、施 寛美を遠目に眺めて見た。彼女はそのとき、教師に呼び出されて教室から走り去って行くところだった。
 (否、俺が彼女を愛することは絶対にありえない)
 意外なほど呆気なく答えは出た。だが、自分が何故そんなにも簡単に即答できるほど確信しているのか、その理由はそのときはわからなかった。
 彼は、ベッドの上に投げ出した掌で、白いシーツを握り締めた。思考を働かせることは多少の苦痛を伴ったが、それでも今は考えなければならなかった。何か考えていなければ、白い悪夢に潰されてしまいそうだった。気を抜くとすぐに彼を蝕む、あの女性の一つ一つの表情に――。
 突然、閃光のように一筋の銀髪が脳裏に浮かんだ。解れた長い黒髪に一筋混ざった銀色のメッシュ、それを無造作になびかせた後ろ姿。翻る紺色のスカート、血糊の付いた白いセーター、小さな掌に握り締めた黒い拳銃、彼から去る為に地を蹴る細い足、その軽い足音。それは、記憶にしてはあまりにも鮮明だった。
 ぼんやりと幻のようなその姿を眺めていたら、何となくわかった気がした。何故彼が彼女を愛さないのか、愛せないのか。
 彼を苦しめるあの女性は、いつも彼を見詰めていた。彼もまた、常に彼女を見詰めていた。向かい合い、瞳を交わし、心を交わし合っていた。
 ――だが、あの同い年の少女は、彼の中で常に後ろ姿なのだ。決して見詰め合うこともなく、追い付くことも出来ない永遠の後ろ姿。彼女の気持ちには気付いていたが、半ば無理矢理にあの『プログラム』の中で気付かされたが、答えられなかった。何故ならば彼には向かい合うべき別の女性がいて、彼女はあくまでも後ろ姿であり――彼とは異なる運命を歩むべき存在なのだから。
 (……俺はお前に応えない。だから、早く俺のことを忘れてくれ)
 その思いは、どこか祈りに似ていた。愛してはいないが、だからこそ気に掛かった。
 きっと、共に逃げた周の双子と上手くやっているだろう。あの双子なら大丈夫だ、そして彼等が付いているならば大丈夫だ。滑り、崩れそうになる意識の中で、必死にそう考えた。
 (そして、どうか――)ふと、彼の意識はそこで途切れた。
 彼は、亜麻色の髪の毛を打ち広げたまま眠りに落ちた。


 「へい、ご両人。任務完了っ!」公園の植え込みの中から現れた大花は、当然のように手ぶらだった。遅れて大きな紙袋を抱えた小魚が、汗で濡れた顔を出す。「これでいいか、確認してもらえる?」
 ベルは、さっとデイビーの隣から離れると双子に駆け寄った。「ご苦労ご苦労。ところで、ちゃんと追手は撒いたんでしょうね? つけられてたらただじゃおかないわよ」
 「そんなヘマしないわよ」髪の毛や服の裾を払いながら、ベルからついと視線を反らした大花は、デイビーに向かって呼び掛けた。「せっかく二人っきりにしてあげたんだから、何か進展はなかったの?」
 きょとんとした表情で振り向いたデイビーは、鼻の頭に真っ赤な唐辛子味噌を付けていた。色気も素気もない姿に、大花は肩をすくめる。
 小魚は、植え込みに半身を隠したまま持って来た荷物を広げた。「これとこれが御殿内の女中衣装、それからこれが舞姫の衣裳。サイズまでは選べなかったから、適当に着付けろよ」
 大花が、その報告に誇らしげに付け加える。「何と、沓と簪まで調達して来たんだからね。どう、感謝する?」
 「はいはいはい」ベルは、大花を無視しながら紙袋から紺色の装束を引っ張り出した。「ふうん、やっぱり化繊なのね。……ね、あんたちょっとこれ当ててみて」
 強引に小魚の腕を広げさせると、ベルは丈の短い上着を彼に当ててみた。少しだけ袖が短かったが、何とか誤魔化せる範囲だろうと高を括る。
 次に彼女は、底の方に入っている白っぽいふわふわした服も取り出した。随分と丈が長い。
 「あれ、『遊び組』の舞姫ってこんなの着てたんだ」意外そうな声を上げると、押し付けられた紺色の上着を折り畳みながら小魚が言った。「間違いないよ。ニュースで映ってたのも、新聞に載ってたのも、雑誌に出てたのもその衣裳だから。少なくとも、ニュースに関してだけはお前よりは記憶は確かだよ」
 「うわ、さっすが舞姫、絹よこれ」聞いているのかいないのか、ベルは感嘆の声を上げた。
 と、脇から大花が口を挟む。「そろそろ教えてくれてもいいんじゃない? あんた、一体何を企んでるの」
 だがベルは、相変わらずしげしげと白い衣裳を光にかざして見たりしている。苛々と大花は言葉を荒げた。「聞いてるの? あたし達は、ちゃーんと任務を果たして来たわ。もう共犯者なんだから、作戦教えてくれたっていいでしょう!」
 不意にベルが顔を上げた。「声がでかい。暑苦しいわよ、タイホア」憎たらしくも汗一つかいていない顔で、そんなことを言う。
 大花はむっとしたが、一応声を抑えた。「どうせあたしも実行犯なんでしょ。何するつもりなのあんた」頬を汗が伝ったので、手の甲でそれをぐいと拭った。
 ベルは、にっと唇を歪めて笑った。「まずは二人とも顔洗って来て。その後で衣装合わせよ」


 この国には、総統直属の奇妙な組織がある。『遊び組』と呼ばれ、十代後半から二十代に掛けての女性ばかりによって成立しているその組織からは、常に数人が官邸内に駐在している。彼女達の仕事は至って単純、総統を楽しませることである。例えば総統主催の私的な宴会では酌を務め、総統が希望するならいつでも卑猥な衣裳を纏って踊り、場合によっては共に風呂に入り床の世話までもする。
 意外な話だが、その組織を構成する美女達は、有志で国中から集まって来ているという。『遊び組』の組員になれば、本人はおろか一族までが生活に困らないように工面される為である。その上組織から引退した後は、多額の口止め料と共に新しい仕事先が手配されるという。まさに至れり尽せりだった。
 ベルは、その『遊び組』の女達が着る衣裳を広げていた。たっぷりと布を使ってひだを寄せた透けるような薄い裳は、ふわふわと頼りなく宙を舞う。
 「ちょっとタイホアには短いかしら」怪訝な顔をする大花を立たせ、衣裳を当ててみたがやはり少し短い。背の高い大花では、足元まで隠すはずの裳がくるぶしの辺りまでしか届かない。困った、というようにベルは小首を傾げて見せた。
 「あんたなら、丁度いいんじゃない?」ベルの手から衣裳を引っ手繰ると、大花はベルの胸に裳帯を当てる。丁度あつらえたような丈だった。
 「いいじゃない、結構似合ってるわよ」からかうように大花は笑う。不満げな表情でベルは彼女を睨んだが、当の大花は全く気にする気配がない。しばらくの間を置いて、諦めたようにベルが溜め息を吐いた。「しょうがないわ、それじゃあんたに女中衣装着てもらうわね。あれなら少々丈が合わなくても構わないから」
 小魚が、首を傾げながら口を挟んだ。「変装して官邸に忍び込むってこと? ベルとタイホアだけじゃ危ないよ」
 「何の為に三着も衣裳をかっぱらって来たと思ってるの」ベルはぬっと腕を小魚の方に突き出した。その先でひらひらと揺れる、紺色の女中衣装。小魚は、ぎょっと目を剥いた。「ちょっと待って。まさか……」
 「男なんだから、潔く指示に従って頂戴」残酷なほど明快にベルは言った。
 状況がさっぱり飲み込めなかったので、デイビーは勝手に解釈することにした。
 (つまり、レディーが黒じゃない服着るってことか?)


 「あの男が行ったら、すぐに行くわよ」柔らかい絹の裾を翻しながら、ベルは言った。銀色のメッシュが目立たないよう結い上げた髪の毛で、簪の歩揺が軽く揺れる。彼女の視線の先には、御殿の仰々しい門、そしてそこに立つ二人の警備員の姿があった。
 紺色の女中装束に身を包んだ大花は、薄い袖を捲って腕時計を見た。「後三十秒。準備はいいわね?」そう言いながら、すぐ後ろにいる自分と同じ姿を見る。彼女と同じ顔、同じ身長、そして同じ衣装の少年は、何やらしかめ面で額を押さえていた。
 「……どうしたのよ」「やっぱり、これは間違ってると思うよ」弱々しく彼は言う。不服そうに大花がその頭を叩いた。「何言ってるの、似合ってるって。全然問題なし、絶対に見破られないわ。あたしによく似て美人じゃない」
 結局、サイズの都合で舞姫はベル、女中は双子が扮することになった。小魚は散々抵抗したのだが、あの姉に敵うはずもなく、結局紺色の裳を履かされることになった。大花に似合うのだから無論彼にも似合っているのだが、本人はやはり不満そうである。
 「第一、デイビーを一人で放っておいていいのかよ」小魚はベルに毒づく。だが、全く意に介さない様子でベルは腕を組んだ。「平気よ、あいつだって一応大人なんだから。それに、あんたデイビーの女装を拝みたい訳?」
 「それは……」小魚が言葉に詰まった瞬間、ベルは鋭く声を上げた。「交代よ」
 見ると、官邸の奥から警備員の制服を着た二人の男が現れて、門の前に立っている警備員に声を掛けた。しばらく言葉を交わした後、任務の終わった警備員は奥の方へと下がって行った。交代した警備員は共に若い男で、直立姿勢のまま銃身の長い拳銃を縦に構えた。
 大花が、くすりと小悪魔のように笑った。「さて、行きますか」


 楊は、この春ようやく総統官邸の警備に任じられた。徴兵された若者達の中でも選りすぐりの精鋭が任じられる役職、それに就けたことは誇らしかったが、何より母親にようやく報いてやれたことが嬉しかった。家は一応戦争遺族の成分に位置していたが、父が早くに亡くなった後はすっかり没落したに等しかった。そんな中で女手一つで自分を育ててくれた母には、とても感謝していた。
 隣で、同期の全が欠伸を噛み殺す音がした。楊はむっとして彼の方を向く。「緊張感に欠けていますよ」
 ちっ、と全が舌を打つのが聞こえた。彼は苦労人の楊とは対照的に、現軍部司令官の遠縁に当たるとかで、さほど労せずにこの役職に就いていた。あまり勤務態度は真面目ではなく、何かにつけて楊とは気が合わない相手だった。
 と、全が何やら声を上げた。「あれ」
 つられて楊もその視線を追う。その先に、白い舞姫衣裳の女と、二人の女中がいた。彼女達は、慌てたように裳裾を蹴りながら走り寄って来ていた。そして息を切らせながら彼等の前に立つと、まだ舞姫は楊の顔を見ながら悲しそうな声を上げる。「あっ……遅かった」
 「どうかしたの?」構えた銃を下ろしながら、楊は尋ねた。現れた少女達は三人ともまだ若い。取り分け白い衣裳の舞姫は、どう見ても十七、八そこそこにしか見えなかった。
 崩れた舞姫の髪の毛に手をやりながら、女中の一人が哀れっぽく眉をひそめる。「すみません、この子『遊び組』の新入りなんですけど、実家にお守りの帯飾り忘れて来ちゃってたんです。すぐ戻るつもりだったんで、証明書持って来てないんですけど……」
 頷きながら話を聞いている楊の脇から、全が口を挟む。「身分証明書がないなら、入れてやる訳にはいかないよ」
 「出て来たときの警備員さんには、ちゃんと説明してたんです」もう一人の女中が更に食い下がる。先ほどの女中と面差しがよく似ているところから見るに、どうやら彼女達は双子であるらしい。二人は舞姫の両肩を庇うように抱えているが、幼顔の少女はもうほとんど崩れ落ちそうだった。
 だが、全はやはり渋っている。「そんなこと言われても、規則は規則だし……」
 泣き出しそうな舞姫をなだめていた楊は、むっとして全を睨んだ。「可哀想じゃないんですか」
 「そういう問題じゃないって」腕を組みながら全は言う。「だったら、この子達をさっきまでの警備員に引き合わせて確かめたらいいよ」
 その瞬間、舞姫がわっと泣き出した。「どうしよう……これから舞台なのに、間に合わないよ」
 二人の女中がおろおろとなだめるが、白い衣裳の少女は潤んだ声で潤んだ声を洩らしながらしゃくり上げた。「せっかく入団出来たのに、クビになっちゃうよぉ……せっかくハルモニ(おばあちゃん)にお返しできると思ったのに、また迷惑掛けちゃうよ……」
 少し躊躇ったが、楊は舞姫の肩に手をやりながら小さく呟いた。「……責任は、俺が取るから」
 え、と言うように少女は顔を上げる。「大丈夫だよ、俺が責任持つから、早く中にお入り」
 慌てて全が彼の肩を掴む。「お、おい楊。そんなこと勝手にやって……」
 そう言う全の声も聞こえないように、楊は舞姫と二人の女中の背を押しながら、優しい声で言った。「今度からは、忘れないようにしなよ」
 きょとん、と振り返る舞姫に、彼は笑顔を見せる。
 「お守り」そう付け加えると、舞姫は涙でぐしょぐしょの顔で微笑み頷いた。
 「おい、言っとくけど」全は、呆気に取られたように少女達を見送りながら弱々しく言った。「あの子達が何かやらかしたら、俺達の連帯責任なんだからな」
 舞姫の背中を見送ると、楊は相方の全を無視して正面に向き直った。
 ――彼等は当然、少女達が顔を見合わせ浮かべる不敵な微笑みを見ることが出来ない。


 「この、子悪魔」
 人目に付かない建物の裏手に回り込むと、大花はベルの頭を小突いた。ベルも、大花の頭を小突き返す。「あんただって、迫真の演技だったじゃない。何で演劇部に入らなかったのよ」
 「お取り込み中悪いけど」小魚は、左右を見渡しながら言った。懐から、折り畳んだ数枚の紙を取り出す。――あの、唯一の手掛かりである写真の写った書類だった。「あいつが今、どの部屋にいるのかわかるの? さっさと探して奪還しないと」
 「偉い偉い、やっぱあんた賢いわ」大花はぐしゃぐしゃと弟の頭を撫でた。
 双子の姉の為すがままにされている小魚の手から、不意にベルは書類を一枚抜き取った。そしてそれを自分の顔の前に一度ひらりと翳すと、双子の前に差し出して見せた。
 「これを見て頂戴」ベルは、飛竜の写った写真を指で撫でる。「まず、この窓。今あたし達がいるのは御殿の西側なんだけど、全体的にこの写真と比較したらちょっと窓が小さい感じじゃない? 普通に考えたら、窓って南側に大きく取る物なのよね」
 大花は頷きながら、何やら首を捻り指を左右にさまよわせている。南北の方位を確かめているらしい。それを横目で眺めながらベルは続けた。「それと、植え込み。背後にさり気なーく写ってるこの木と窓の位置関係も、ヒントとして使わなくっちゃ」
 おずおずと、小魚が口を挟んだ。「そんなこと言っても、この御殿の広さはわかってるだろう? それだけのヒントじゃ、該当箇所がどのくらい出て来ると思う?」
 それを聞き、ベルは軽く肩を竦めた。馬鹿にされたようで、少しだけ小魚は気を悪くする。「……?」
 「気付きなさいよ」ベルは顔を上げてとんとんと書類を叩いた。その爪が引っ掻いた像が飛竜ではなく総統なのは、偶然だろうか。「この写真があるってことは、この写真を撮った人間がいるってことよ。自分でカメラのシャッターを下ろしたのか遠隔操作で撮ったのかはわからないけど、どっちにしてもこの写真の撮影者はどこかから忍び込んで、カメラを使って写真を撮って、データを回収して去って行って情報を流したって訳」
 小魚は、袖で額に落ちる汗を拭った。どうでもいいけれど、日差しの中で紺色の長袖を着ているのは辛い。
 目に痛いほど白い衣裳のベルは、嫌になるほど涼しげな顔で続けた。「も一つおまけ。調べてもらったんだけど、この写真アナログよ。普通にシャッターを下ろして撮影した写真を、スキャナか何かで取り込んで流した情報みたい。つまり、総統陛下の優秀なガード達がシャッター音に気付かない環境下にカメラは置かれていたの。ここまで絞れば、何とかなるんじゃない?」
 「さっすが、惚れた男の為なら何とやらってね」皮肉めいた調子で大花は言った。少し睨むベルから顔を反らし、彼女は勝手に続ける。「オーケイ。要は、御殿の南側・こんな枝振りのひょろっとした植木・カメラの隠し場所に該当する場所を探して来ればいいんでしょ。楽勝じゃない」
 「取り敢えず、ばらばらに分かれて探すわよ。あいつの部屋がわかってもわからなくても、三十分後にここに戻って来るっていうんで、どう?」
 何だか一方的にベルに話を進められた気もしたが、取り敢えず双子はそれに同意することにした。「三十分後ね」
 「ベルもタイホアも、ちゃんと時間守るんだよ」小魚が釘を刺すと、二人は苦笑混じりに頷いて見せた。
 そして、活動は開始された。


 (ちぇっ、俺だけ仲間外れでやんの)デイビーは、一人で公園に取り残されて退屈そうに木陰に寝そべっていた。することもないので大きな欠伸をかいて、芝生の上で昼寝をしようと決め込む。(あーあ、せっかくのレディーの晴れ姿)
 と、突然ぽんぽんという軽い音が耳元に近付いて来た。目を明けた瞬間、何かが落ちて来るのが見える。ぎょっとしたが、一瞬のことに為す術もなく、デイビーは甘んじて顔面にそれを食らってしまった。眼鏡が顔に食い込んで、痛かった。
 (いっ……てぇ……)のろのろと手を顔にやって眼鏡を外し、顔を押さえる。これで鼻血でも出ていたら目も当てられないが、幸いそこまでは至っていないようだった。目と目の間を指で擦りながら、辛うじて身を起こす。
 その次の瞬間、子供の叫び声が聞こえた。あれ、と思って声のする方を向くと、小さな子供が数人こちらを見ながら慌てていた。反対側を見ると、黄色いボールが茂みの中に転がっている。ようやくデイビーは状況が飲み込めた。
 (ははん、この暑いのに元気なこった)彼がのそ、と動き出すと、子供達は一斉にびくりと身を縮める。
 だが、デイビーはぬっとボールに手を伸ばしてそれを拾うと、子供達の方にぽん、と投げた。それを受け取った男の子は、呆気に取られたような顔をする。デイビーは立ち上がって歩き出し、擦れ違い様に笑いながらその子の帽子を押さえた。(日射病に気を付けろよ)
 そしてそのまま彼等の脇を素通りすると、少し歪んだ眼鏡を掛け直しながらさっきまで双子を待っていたベンチへと歩いた。
 そこからだと、官邸内が綺麗に見渡せる。ぐるりと総統官邸を囲んだ塀の、警備の手薄そうな箇所もよく見える。
 (――ここで昼寝してても、顔にボールぶつけられるだけだし)デイビーは、まだ顔を擦りながら悪戯っぽく微笑んだ。


 再び炉の火が安定して来たので、機関士はほっと息を吐いた。
 そして、軍手を腰に捻じ込むと、おもむろに自分の荷物袋から茶色い油紙に包まれたサンドイッチを取り出した。「お前も、食え」石の山にもたれるように座っていた女に、彼はそれをぬっと突き出した。
 女は、目を丸く見開いて困惑したように首を振る。「……え、あ、いえ、だいじょうぶ」
 「いいから。お前一人の身体じゃないんだ」慌てて遠慮する女の大きな腹部に目をやり、機関士は更に言う。少し困ったような視線を廻らせたが、彼女はおずおずとサンドイッチを一つ手に取った。「はい……」
 女は、しばらくの間サンドイッチをまじまじと見詰めていたが、ようやく一口齧り付いた。そして、嬉しそうに笑う。
 「どうだ?」自分も一つ摘みながら、機関士は尋ねた。女は、何か言おうとしたが言葉が見付からないらしく、懸命に首を捻っている。
 様子を察して、機関士はもう一言尋ねた。「……うまいか?」
 「はい!」大きく頷きながら、彼女は答えた。
 笑顔でサンドイッチを頬張る女を眺めながら、機関士は呟くように言った。「ピクルスは、食べられるのか……」
 きょとん、と顔を見詰める女から目を反らしながら、機関士は続けた。「……俺の娘はピクルスが嫌いでな、サンドイッチに入ってたら嫌がって食べなかったんだ。お陰で、家のサンドイッチはピクルスが入らなかったんだよ」
 言葉の意味がわからないなりに、目の前の女は一生懸命彼の言葉を聞いていた。サンドイッチを食べる手が止まる。
 機関士は、少し目を細めて語り掛けた。「生きてたら、今頃お前くらいの歳になってたんだろうな――」
 女は、不思議そうに首を傾げ、そしてすっと手を伸ばすと機関士の頬に触れた。慌てて機関士が触られた箇所を擦る。指先を見ると、真っ黒な煤がついていた。慌てて腕でごしごしと擦り、作業服の裾でそれを拭う様子を、女は首を傾げたまま眺めていた。
 「お前は」機関士は尋ねた。「どうして、探している人が『ネーヴェン・バーブ』にいるなんて言い出したんだ?」
 この言葉は、あっさりと理解出来たらしい。彼女は嬉しそうに言った。「おしえてもらいました」
 機関士は、怪訝な顔をした。それに気付かない様子で、彼女は続ける。「わたし、ふねで、ここにきました。ふね、あらしで、みなとじゃないところにつきました。でもあのひと、きっとふねでむかえにきます」発音がおかしいので、なかなか意味が飲み込み辛かった。だが、彼女の言わんとするところは辛うじて理解出来た。
 「わたし、みなとにいきました。そしてもしもあのひとがもうきていたら、すれちがいだとおもいました。だから、みなとのひとにききました。あのひとはきましたか、どこにいきましたかって。――ひとりだけ、こたえてくれました。『ネーヴェン・バーブ』って」
 機関士は、サンドイッチを食べる手を止めた。何故だかひどく悲しかった。目の前で嬉々と語る女が哀れだった。「……そうか」
 「だから、ちかくまできたら、おろしてください」微笑みながら、女は言った。黒い髪の毛がさらりと顔に掛かる。黙って機関士は頷いた。ふと炉の方に目をやると、火が衰え始めている。慌ててサンドイッチを咥えたまま軍手をはめ、黒い石を大量に炉の中に投げ込んだ。一瞬間を置いて、勢いよく炎が噴き出す。
 彼はサンドイッチを飲み込むと、振り向かずに言った。「もしもよかったら、俺の家でそいつのことを待つか? 鉄道沿線に張り紙でも張り出しておけば、きっとそいつも気が付く。気が付いてそいつが迎えに来るまで、俺の家で待つか?」
 女は一瞬呆気に取られたような顔をしたが、慌てて首を横に振った。「い、いいえ」
 「遠慮だったら、することはない」畳み掛けるそう言ったが、彼女の返事はなかった。振り向くと、彼女は困惑したように俯いたまま、自分の大きな腹部を撫でていた。おずおずと向けられる視線で、ようやく機関士は彼女が言葉をあまり知らないことを思い出した。
 「――一刻も早く会いたいか」そう念を押すと、ようやく彼女は頷いた。


 ベルは、敷き詰められた赤い毛氈に足音を忍ばせながら邸内を移動していた。自他共に認める方向音痴の彼女は、ひたすら部屋の並びを頭の中に叩き込みながら迷わないように気を付ける。(こんなところで迷子になったら、笑い話にもならないわ)
 初めこそ緊張したが、邸内を行く人間は思いの外に少なかった。出会ったところで本物の女中や警備員だが、『遊び組』の組員よりも立場が弱いらしい彼等は、擦れ違ってもじろじろと眺めるような真似をしない。目を伏せて行過ぎていく彼等には、今のところはまだ見破られていないようだ。
 ふとベルは、窓に掛かった薄いカーテンを押し開いて外を見た。彼女の感覚が狂っていなければ、ここは御殿の南西部のはずだ。家相では裏鬼門、この屋敷の正門が東にあったことから考えても、恐らくここが御殿の最深部だと思われる。さほど遠くない箇所に裏門のようなものがあったが、ほとんど人気がなかった。
 庭木は、大した手掛かりにならなかった。どれもこれも綺麗に剪定されていて、枝振りがよく似ている。疑わしいのを上げればきりがない。窓と木々とを組み合わせて考えても、該当しそうな部屋は絞れなかった。かと言って、一部屋ずつ虱潰しに確かめていく訳にもいかない。もしも途中で怪しまれたら、全ての終わりである。忌々しげにベルは舌を打った。
 その瞬間、背後から声がした。「お前、こんなところで何をしている」
 ぎょっとして振り向くと、背の高い正装をした男が調度品の青磁壺にもたれるようにして立っていた。さほど歳ではないが、口振りや雰囲気から手強い相手だということはすぐさま察することが出来た。ベルのことを訝しんでいるのか、それとも単に『遊び組』の娘をからかっているだけなのかは判然としないが、突き刺さるような視線が痛かった。
 もしかしたら何かの要職の秘書辺りかもしれない。たじろぎながら、ベルは男を見上げた。
 男は薄く唇を歪めると、ベルを見下ろしながら腕を組んだ。「組員にこんなところは縁がないはずだ。何をしている」
 少し引っ掛かるものを覚えながら、ベルは表面から自分自身を抹消した。「も、申し訳ありません……新入りでございますので、迷いました」
 「随分と奥まで迷い込んだもんだな」皮肉めいた口調で男はベルを睨んだ。じろじろと検分するように眺める視線に、全身の肌が粟立った。
 「す……すみません」ふわりと袖を泳がせて、ベルは視線から逃れるように腰を深々と折った。細かい仕草にまで気を張り詰める。
 じっとベルを頭から爪先まで眺めていた男だったが、やがてふと窓の外に目をやった。
 「蝉が喧しいな」
 「は、はい」頭を下げたまま、ベルは答えた。男は窓の外に視線を固定したまま言う。「蝉は、好きなのか?」
 少し考えて、ベルは答えた。「……はい」
 ふうん、と言ったように男はベルに視線を戻し、指で彼女の顔を起こした。「今夜にでも、酒の相手に来い。わたしは総統とは違って、男には興味がない」
 彼が遠回しに飛竜のことを仄めかしたのは、すぐにわかった。心中で何かがふつ、と沸き立った気がしたが、今はそれを押し殺さねばならない。
 「……総統陛下の御心のままに」抑えた震える声でそう言うと、男は小さく笑った。
 「それでは、一人でこの迷路から抜け出しなさい。遅れて咎められても、俺は何も知らない」そう言い捨てて、彼は去って行った。足元はフォーマルな革靴で固めていたが、毛氈が足音を吸収してしまっていた。
 震えながらベルはずっと俯いていたが、完全に男の気配がなくなった時点で目だけ起こした。男の姿が角に隠れて見えなくなっていたので、顔も起こす。そして平然と背筋を伸ばすと、小さく舌を出した。
 隙のない男だった。だが、疑いは持たれたにしても――そしてそのしこりは彼の中で残ったにしても、一時の時間稼ぎは出来た。
 ベルは、再び窓の外に目をやる。彼は、意図しないにしても色々な手掛かりを残してくれた。そのことだけは感謝しなければならない。
 窓の外には、一本の大きな木が立っていた。そして、その木では本当にうるさいほど、蝉が鳴いていた。


 一つの扉の前で立ち止まり、ベルは左右を見渡した。何故か確信していた。ここだ。きっとここだ。
 さっきの男はこの辺りを「組員には縁がないところ」と表現した。――だが、この官邸内に生息する政府の半公認性奴隷に縁がないところなど、そうはあるはずがない。いつでも、官邸内のどこにあったとしても思い付いたときに女遊びが出来るように、彼女達は放し飼いにされているはずなのだ。逆に言えば、官邸内の至るところで『遊び組』の組員達の需要はあるはずである。組員の縁がないところ――即ち彼女達の需要がないところ、といえば知れてくる。
 そしてもう一つ、「蝉」だった。彼がベルに「蝉が好きか」と尋ねたのは、別に彼女の趣味を探りたかった訳ではない。あの瞬間、確かにベルは窓の外の木を見ていた。彼は、その理由を遠回しに尋ねたのだ。もしも彼女が――彼女の本心の通りに――「蝉は嫌い」と答えたら、恐らく彼は「では、何故あの木を見ていた」と追究しただろう。
 そして、ベルは彼に言われて初めて気が付いたのだった。外の一本の木に――他の木ではなくあの大きな木に蝉は密集し、他の木とは比にならないくらい騒いでいたことに。そして、例えシャッターの音が響いても、音質の似た蝉が騒いでいれば回りの人間は気付かないだろう、とも考えた。ご丁寧に、他の庭木同様にその木の下には低木の植え込みもある。
 あの写真の記憶を手繰りながら、彼女は窓の景色を見直した。窓と木の角度や光の当たり方まで細かく思い出しながら、一つずつ該当しそうな部屋を検証した。そして、彼女はこの部屋を「あの」部屋だと断定した。
 まだ、双子との集合予定まで時間がある。どくん、と胸が高鳴った。
 この扉の向こうに、彼がいる。この、彼女にとって目新しいドアノブを捻り、扉を押し開くと、その向こうにあの彼がいる。彼に会う為に、彼を連れて帰る為に、ここまで来た。どこか信じられないような気持ちだった。
 ベルの中で、冷静な彼女が言う。間違いない、私の分析は間違いない、彼はここにいる、と。だが、もう一人の彼女が言う。そんな、まさか。開けて見なければわからない。扉の向こうに踏み出さないと、自分の目で確かめないと、そんなのわからない、と。第一、あの写真は嘘かもしれない。もしかしたら彼はもうどこかに逃げているかもしれない。確かめなくていいのか、会わなくていいのか、いいのか、と。
 ベルは、息を呑んだ。そして、掌をを金の金具で出来たノブに掛けた。
 捻ると、かちゃり、と音がした。


 その広い部屋の中は薄暗く、冷房の効いた邸内よりも更に気温が低かった。花か香水かはわからないが、何かむせ返りそうな甘い匂いがした。
 思わずベルは室内に視線を泳がせる。部屋の中央には、薄い天蓋の掛かった大きなベッドがあった。薄い絹越しに、白いシーツとその中央に横たわる白い人影が見えた。どくん、と再び胸が高鳴る。
 ベルは、舞踏用の先の細い靴で絨緞を踏みながら、恐る恐るベッドに近付いた。確かめるように一歩ずつ近寄り、伸ばせば天蓋に手が届く、と思った瞬間。
 人影が動いた。びくりとベルは立ち止まる。
 「……誰?」
 冷たい部屋の中に、冷え冷えとした声が響いた。ベルは、このまま逃げ出したいような衝動に駆られる。だが、何とか一歩後退っただけで踏み止まった。背中を、冷たい汗が伝い落ちる。
 ベッドの中の人物は、寝返りを打ってからゆっくりと顔を起こした。そして、衣裳を纏ったベルの姿を見ながら言う。「……ああ、『遊び組』の子? 道に迷ったのか?」
 「あたしよ、Mr.リュー」
 ひどく掠れた声で彼女は言った。口の中がからからに乾いていた。彼に初めて声を掛けたときよりも、遥かに緊張していた。彼女の言葉を聞いて、人影の動きが止まる。何か呟いたようだが、よく聞こえなかった。ベルは、息と唾液を飲み込む。「……あたしよ、Mr.リュー」
 今度は、はっきりと聞き取れた。紛れもなく、彼の声だった。
 「セニャン」
 夢のようだった。まるで、夢を見ているようだとベル――寛美は思った。


 飛竜の声が聞こえた。寛美の意思と全く関係なく、彼女の脚が震える。だが、それすら感じないほどに彼女は動揺していた。少し咳き込んだ後発せられた飛竜の声は、心なしか困惑しているようだった。「……これは、夢か」
 「現実よ。――迎えに来たの」
 やっとの思いで声を絞り出すと、微かに飛竜の笑う声が聞こえた。「随分都合のいい夢だ」
 「現実よ」即座に寛美は言葉を返した。飛竜の笑う声が止む。
 寛美は、にじり寄るようにして近寄ると、天蓋に手を触れた。「……あんたのお陰で、あたしも双子も生き延びることが出来たの。だから、迎えに来たのよ」
 飛竜は何も言わなかった。ベッドの上で半身を起こしただけで、身動ぎ一つしない。ただ、白い肌と淡い亜麻色の髪の毛の輪郭がぼんやりと見えるだけだった。
 「お願い、一緒に来て。――一緒に暮らそう、こんな嫌な国捨てて皆で暮らそう。大丈夫、絶対にあんたのことを守るから。向こうに着くまで、この国の奴には指一本触れさせないから。だから一緒に来て」
 何度も舌を噛みながら、むせるような口調で懸命に寛美は言った。だが、やはり飛竜はじりとして動かない。
 「お願……」
 「断る」突然、短い返答が返って来た。びくりと寛美は天蓋に掛けた手を引く。
 その手を反射的に胸の前で組み合わせた彼女は、殺した声で言った。「どうして?」
 短い、乾いた笑い声が聞こえた。背筋に寒気が走り、寛美は身を縮ませる。愉快そうに天蓋越しの声は響いた。「こういうのに騙されて付いて行くと、二度と戻れなくなるんだよな。何だ、俺は今死に掛けているのか。セニャン、あの世は快適そうでよかったな」
 理解してもらえないもどかしさに、寛美は声を荒げた。「これは夢じゃない、現実なのよ! あたし達は生きてるわ。一緒に逃げよう!」
 「生憎ここは案外暮らし易い。慣れたら快適なくらいだ。まだ死にたいとは思わないんでな、せっかく来てもらって悪かったが、帰ってくれ」朗々と彼はそう言った。
 涙が込み上げて来るのを感じながら、寛美は言った。強い匂いに、息が止まりそうだった。「……Mr.リュー、あんたおかしいよ。狂っちゃったみたい」
 「狂ったのかもな」そう言うと、飛竜はまたもや愉快そうに笑い出した。
 寛美は、頬をぐいと袖で拭いながら天蓋を握った。そして、絞り出すように言う。「……お願い、ちょっとだけでいいから……顔見せて。お願い……」
 それだけ言うと、彼女は握り締めた天蓋に顔を押し付けてすすり泣き始めた。
 しばらくそれをじっと見ていた飛竜は、やがて緩慢な仕草でベッドから下りた。ベッドの上に広がっていたシーツが、彼に引き付けられて衣擦れの音を立てる。さらさらと音を立てそれを身体に巻き付けると、彼は天蓋の隙間を押し広げて出て来た。天蓋が揺れる感触を覚えて寛美が顔を上げると、彼女から少し離れたところに僅かな逆光でくっきりとした輪郭の飛竜が立っていた。
 淡い亜麻色の髪の毛は、光加減で余計に色が薄くなったように見える。元々白かった肌もすっかり色が抜けてしまったようで、唇だけが異様に紅かった。そして、白いシーツを一枚纏っただけの身体は、ぎょっとするほど痩せていた。シーツの間から見える剥き出しの肩も、思いの外に細くて骨ばっていて、そしてあちこちに幾らかの切り裂かれたような傷跡と銃創が見えた。
 ひどく、彼が変わり果てているように寛美の目には映った。だが、あの瞳――黒と見紛う程に深い紫色の瞳だけは、記憶の中と寸分違わなかった。
 寛美は白い袖で目を擦ると、食い入るように彼の姿に見入った。そして、夢遊病者のようにふらふらと彼に近寄り、触れようと手を伸ばした。
 ――と。
 「触るな」
 突然飛竜は低く言った。びくっと寛美は手を引くが、彼の顔を睨むように見詰めると再び手を伸ばす。
 だが、再び飛竜は言った。「汚い、触るな」
 止んでいた涙が、もう一度溢れ返って来た。今度はもう、彼女は飛竜に触れようとはしなかった。ただ、入って来たドアのノブに駆け寄り、手を掛ける。だが一瞬躊躇した後、寛美は部屋を横切り飛竜の隣を素通りして、窓の棧に手を掛けた。飛竜は、じっと彼女の後ろ姿を見ていた。
 振り向かずに、寛美は言った。「諦めないから」震える声だった。「……また、迎えに来るから」
 窓を開けようと金具に手を伸ばした瞬間、静かな声がした。
 「……カンメイ、ごめん」
 驚いて寛美が振り向くと、飛竜はさっきの姿勢のままで、振り向いてすらいなかった。「スーニャンからの伝言。――あ、もうセニャンも死んでるんだから、スーニャンから直に聞いてるか」
 彼はもう、寛美を見ようとはしなかった。
 しばらく寛美は呆気に取られたような表情で飛竜のことを見ていたが、窓に向き直り金具を外すと、窓を大きく押し広げた。急に、むっとするような熱気と蝉の鳴き声が流れ込んで来る。だが、夏草の匂いの空気だった。息が詰まるような匂いではない、息が出来る空気だった。
 「これは、現実よ」もう一度、確かめるようにベルは言った。
 そして窓枠に飛び乗ると、少しだけ飛竜を振り返った。後ろ姿のままの彼は、何の反応も見せなかった。彼の綺麗な長い髪の毛を目に焼き付けると、そのまま窓の外に飛び降りた。かちゃん、と固い音を立てて窓を閉め、そのまま一気に駆け出した。
 涙が溢れた。胸が痛かった。一人で声を上げて泣きたいような気分だった。


 デイビーは、高い塀の上から軽々と飛び降りた。塀の外側では警備員の制服を着た男と鉢合わせしてしまったが、デイビーは慌てず騒がずその男に喧嘩を売った。警備員らしい男に持っていた大型拳銃を向けられたものの、彼はあっさりと銃身を掴み、テコの原理の要領(あるいは馬鹿力)で奪い取ってしまった。
 デイビーと出くわした不運な警備員は今、塀の外側で気絶している。発砲された訳ではない。脳天を銃で思いっきり殴られたのである。
 着陸した拍子に眼鏡がずれたので、デイビーは鼻当てを押さえて左右を見渡す。そして、自分が今飛び越えて来た塀を見上げた。悠に彼の身長の倍の高さはあり、頂上には電気の流れる有刺鉄線が張られている。だが、伸された警備員を踏み台代わりにして、ナイフの付いた銃身をピッケル代わりに使用すると、あっさり塀の上まで登ることは出来た。おまけに節電のつもりだか何だかわからないが、頂上に張られた有刺鉄線に通る電流は、素手で触っても少しぴりっとする程度の代物だった。それでは鳥避けになるくらいで、対人効果としてはほとんど普通の有刺鉄線と変わらない。(うーん、クレイジー)
 彼は、建物に目をやった。(どうでもいいけど、暑い……)犬のように舌を出して、彼は目的のものを探した。ベルの知り合いなら、知り合いってことで少し涼ませてもらおう、という下心が行動の隅々から滲み出ていた。
 その瞬間、一つの窓の向こうに、何か動いたような気がした。
 おや、と彼は思った。よく見えなかったが、随分儚げな姿のように見えた。もしかしてあれかもしれない、と思う。迷わず爪先をそちらに向け、その窓に近寄りながら、人違いという可能性を少し考えてみた。
 (人違いだった場合……)デイビーは、自分の手に握られた拳銃に目を注ぐ。暴力は好きではないが、(いや、ホントホント)場合によってはやむを得ない。今は何より、あの写真の人物を捜索することを優先すべきだと考えていた。
 彼は、その窓のすぐ隣の壁際で立ち止まった。壁に背中を預けたまま、やはり躊躇する。
 (……やっぱり、止めとこうか)そう思いながら踵を返した瞬間、緩んでいた眼鏡がかしゃんと地に落ちた。慌ててそれを拾おうとして、彼は思わず窓の方に一歩踏み出してしまった。そして、窓越しに立っていた人物と思いきり目が合ってしまう。(!)
 その瞬間、デイビーは自分の軽率な行動を後悔した。
 分厚いガラスに隔てられていなければ、息が掛かりそうな距離で向かい合っていたのは、長い亜麻色の髪を持った人物だった。肌が病的なほどに白く、子供の頃泣くほど怖かった人形のように整い過ぎて感情のわからない顔立ちをしていた。
 そして、その大きな瞳。薄暗い部屋の中で、突き抜けたような闇の色をしていた。反射的に顔を反らそうと思った。その目から逃れようと思った。だが、どうしても目を背けることが出来ない。デイビーの頬を、さっきまでと違う種類の汗が流れる。
 窓の向こうの人物は、一瞬だけ驚いたような表情をしたが、すぐに人形のような無表情を取り戻した。冷静にデイビーを観察しているらしい。その瞳だけが僅かに動きながら、デイビーの特徴を捉えていく。そして、その目がデイビーの手の拳銃に注がれた。ようやくデイビーは動きを取り戻す。
 (……こいつに、レディーは縛られている。こいつのせいで、レディーはまだ自由になれない。こいつのせいで、こいつの為に――)
 彼は、銃を取り上げて自分の顔の前で構えて見せた。銃口は当然、ガラス越しの人物を向いていた。だが、相手は全く驚いた様子を見せない。僅かな沈黙の後、その人物は静かな仕草で窓ガラスに掌を当てた。
 その真紅の唇が、言葉の形に動いた。デイビーは、皮肉めいた笑みを口許に浮かべる。(俺、ハングルわかんないから)
 だが、その美しい人形が同じ言葉を繰り返す内に、デイビーは気付いた。(……あ)
 『Please』――滲むように紅い唇は、確かにそう言っていた。
 思わず、デイビーも窓ガラスに手を付ける。声を出さないように、彼は見て取った言葉を反芻した。(Please……どうして、英語を?)
 窓ガラスの向こうで、微かに相手は微笑んだように見えた。そして、新しいフレーズを唇で示す。『Help』と、読めた。
 (Help……命乞いか?)怪訝に思いながら、デイビーは反芻する。
 窓ガラスの向こうの人物は、今度ははっきりと微笑んだ。思わずデイビーは、暑さを忘れてその表情に見入る。
 唇は、そっと溜息を落とすように、新しい言葉を描いた。だが、なかなか今度は読み取りにくい。デイビーが眉間に皺を寄せると、相手は辛抱強く繰り返した。
 そして、ようやく読み取れた。デイビーは、声に出さないように言う。(……Her)
 頷いて、亜麻色の髪の毛の人物は声のない言葉で言った。
 ――『Please help her.』
 『Her』が一体誰を指しているのかは、考えなくてもわかった。
 (『どうか、かのじょを、たすけてくれ』……何でこいつ)ふとデイビーは、窓ガラス越しに当てられた細い手を見た。細い白い掌の付け根――手首に、真一文字の傷跡があった。
 (……こいつは――)彼は微かな眩暈を感じた。
 不意に、背後で遥かに足音が聞こえた。我に返ったデイビーはびくりとそちらを振り向く。窓の向こうの人物も、つられたように彼の視線を追う。そして、すぐに窓ガラスを向こう側からこんこんと叩いた。デイビーは掌に鈍い振動を感じ、視線を戻す。窓の向こうで、亜麻色の髪の美しい人はデイビーが見ていた反対の方向を指差していた。
 その唇が動く。『Run away.』――逃げろ、と。
 デイビーは、ようやくの思いでにやっと笑って見せた。そして、足元に落ちたままだった眼鏡を拾い掛け直す。それから右手を掲げて親指をぐっと立てて見せ、そのまま拳銃を抱えて白い指が指し示した方向に向かって走り出した。
 その先に、ベルが逃げて行ったことにはデイビーはまだ気付いていない。


 双子は、駆け寄って来る寛美――ベルにすぐに気が付いた。彼女が泣いていることに気付いた二人は、同時にぎょっとした表情になる。
 息を切らせながら立ち止まり、目の前で泣き崩れたベルを、大花が抱え起こした。「ちょっと、どうしたのよあんた!?」
 ベルは、声にもならない声を呻くように上げながら、泣きじゃくっていた。その背中を小魚が擦る。「いいから、落ち付いて。何があったのか、説明してくれないとわからないよ」
 何度か咳き込み、ベルは言葉を言おうとしたがやはり声にならなかった。双子は困ったように顔を見合わせる。
 「……一応、あいつの居場所らしい部屋の候補はわかったよ。だから、これから会いに行こう」小魚はたしなめるように言った。だが、ベルは弾かれたように顔を上げると物凄い勢いで首を左右に振った。
 「駄目っ、絶対に駄目っ!」枯れた声でそう叫ぶベルを、大花が押さえる。「声がでかい。……何があったの?」
 ベルは、大花の聞いているのかいないのか首を左右に振り続けた。「……これは現実よ、これは現実よ、これは現実なのよ……」ひたすら小さな涙声で呟く彼女に、益々双子は困惑する。
 と、次の瞬間小魚が顔を上げて背後を睨んだ。「誰か来る」
 だが、ベルは動こうともしない。大花にしがみ付いたまま泣いていた。唇を噛んで、小魚は女中衣装のまま腰を落とし構えの姿勢を取る。足音は、急速に近付いて来ていた。
 だが、足音の主の姿を目にした瞬間小魚は一気に拍子抜けした。ひどく見慣れた長身と、まだ違和感の拭いきれない人工的な黒髪を遠目に見遣りながら、彼は呆れたような声を洩らす。
 「……何でこんなところにいるんだ」
 一瞬だけデイビーも身構えたようだったが、すぐに彼等に気付き手を振りながら駆け寄って来た。そして、少し近寄って来たところでぎょっとしたような表情になり、真剣な面持ちで走って来た。
 彼は、大花に抱えられたベルを覗き込み、心配そうに大花を見る。
 眉間に皺を寄せながら、大花は言った。「さあ、よくわからないけど泣いてるのよこいつ」
 だが、当然デイビーにその言葉は理解出来ない。ただ大花からベルを受け取り、無抵抗な状態の彼女をひょいと抱え上げる。ベルが何か呟いているのは聞こえたが、これもやはり全く意味がわからなかった。
 デイビーは大型の拳銃を持った手を示して見せて、何か簡単なボディー・ランゲージを行う。首を傾げなから、双子は顔を見合わせる。――と、次の瞬間デイビーはベルを抱えたまま全力で門の方へと走り出した。
 「何だ、逃げるってこと!?」紺色の裳裾をたくし上げて、大花はその後を追い掛けた。慣れない女物の衣装に躓きながら、小魚も更にその後を走る。
 更にその背後で、ようやく人々のざわめきと足音が聞こえ始めていた。


 驚いた。初めは本当に夢だと思った。何だか今日の夢は変だ、と。彼女が現れない代わりに、あの寛美がやって来た。そして後ろ姿ではなかった。
 何度か咳き込んだ後、再び飛竜――竜血樹は窓の外を見た。
 既にさっきの男も、当然寛美の姿も見えなかった。さっきの、あの不自然な黒髪をした外国人らしい男は、寛美達の仲間だろう、と彼は直感的に思った。第一、今まで侵入者らしき影を見た試しのない官邸に、突然一日に何組もの侵入者が訪れるかといえば甚だ疑わしい。
 かつて竜血樹が逃げ延びる為に持っていた、そして双子に手渡したあの航空チケットの行き先は、アメリカだった。恐らく彼等はそこで、満足とは言い難いかもしれないが、そこそこに幸せな生活を手に入れたのだろう。そうでもなければ、迎えになんて来るはずがない。
 竜血樹はぼんやりと思う。――きっと、あの男は向こうの国で何らかの形で力になってくれた人物なのだろう。
 あの男は、竜血樹の言葉を受け取った。彼には叶えられない願いを受け取ってくれた。実際に叶えてくれるかどうかはわからないが、受け取ってくれた。そのことで、良心の呵責が少しだけ和らいだように思う。
 (早く俺のことを忘れてくれ)
 死んだ、と思っていて欲しかった。実際彼は鈴華を殺した後、自分も死ぬつもりだった。死ぬつもりで、持っていたナイフの欠片で肩の傷を抉り、自分の両手首を掻き切っていた。それなのに、死ねなかった。――死なせてもらえなかった。
 気付いたときには既に病院に入れられていた。常に見張りが付いていて、彼の全ての行動が規制されていた。身体が回復した後は、今度は連日拷問に掛けられた。寛美達の亡命先について、先生の活動内容について、旧素乾派の関係者について――そして、彼自身の子供と、その子を宿した女性の行方について。
 どうせ死ぬつもりだったので、初めは黙秘した。次に、突拍子もない嘘をでっち上げた。相手は益々怒ったが、全ての感覚が麻痺したように平気だった。ただ、あのとき手首ではなくて頚動脈を切り裂いておけばよかった、と傷だらけになりながらぼんやりと思った。
 ほとんど何もわからなくなった頃、突然拷問は終わった。そして気が付いたときには、病院のすぐ隣にあった軍部大臣の邸内で、今と同じような状況に置かれていた。そのとき、彼女にもう二度と会えないのだと実感した。
 そして、軍部大臣邸から程近い国立科学技術研究所を見ているときに、あることを思い付いた。あのゲームに巻き込まれる少し前、何かの拍子に読んだレポートを思い出したのだ。
 その後間もなく、竜血樹の身柄は青屋根御殿に移された。軍部大臣の人形から、国家要職十数名の人形に出世した。初めは鼻に付いて堪らなかった甘い花と香水の匂いが、いつの間にか平気になっていた。
 (触るな。――俺は汚い、だから触るな)くすりと小さく竜血樹は笑った。そして同時に、何度か咳き込んだ。肩で息をしながら、彼は再び窓の外を覗き込んだ。窓の外で、数人の警備員がうろうろとしていた。竜血樹は、静かに窓を押し開ける。
 「どうしたの?」
 彼が声を掛けると、びくりとして男達は一斉に振り向いた。そして、緊張しきった声で言う。「はっ、只今この辺りに侵入者があったものと思われまして」
 ふうん、と竜血樹は窓の棧に肘を突いた。「気付かなかったけど」
 警備員の一人が、敬礼をしながら言った。「もう二度と、このようなことはないように心掛けます」
 「気を付けてね。怖いから」抜け抜けと竜血樹はそう言って、前髪を掻き揚げ笑って見せた。警備員達は、全員びしっと敬礼をする。
 と、竜血樹は再び立て続けに咳き込んだ。口許を押さえて身体を折り掠れた咳をする様子に、警備員達は顔を見合わせる。一人が心配そうに竜血樹に手を伸ばす。
 「あの……大丈夫で……」
 「触るな」その手を、竜血樹は振り払った。その次の瞬間。
 口許を覆った白い掌から、大量の血液が溢れた。纏った白いシーツに鮮やかな赤い染みが広がる。警備員達が、一斉に窓に駆け寄る。
 彼等の目の前で、竜血樹は血を吐きながら昏倒した。




モドル | ススム | モクジ