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第二夜


 ――建王問いて曰く「我寡くして華に疎し(中略)天下に君たるに業有るか」と。喃応えて曰く「有りや」と。建王曰く、「尓、如何とせんや」と。喃、芫爾として笑ひて曰く「只だ謀術して屠るのみ」と――。

(『乾史』列雄伝より引用)



    第二夜



 「……どういうこと?」小さな声で、ベルは呟いた。鋭い眼差しは、手の中の書類に釘付けになっている。脇から、デイビーがその書類を覗き込んだ。
 興奮で頬を染めたまま、大花は半ば叫ぶように言った。「だから、見ての通りよ。こんなのがあの国で、あいつの他にいるはずないじゃない! あたし達の想像以上に、あいつはしぶとく生き残ってたってことよ! !」
 そして彼女は、客がいることも忘れてカウンターを拳で叩いた。慌てて小魚が、グラスから散ったワインを拭き取る。「俺だってまだ半信半疑だよ。でも事実、写真に写ってるんだから」
 「はー……、まあここまでの美人はそうそういるはずないわな」デイビーは感心したように言いながら、ベルが握り締めた書類を一枚剥ぎ取ってまじまじと眺めた。
 「いや、本当に凄いよ。遠目だけど、一目で凄い美人だってことくらいはわかるさ」言いながら彼は、ジャクソンの頭に掌を乗せる。「なあ、この美女がもっとでかく写ってる写真はなかったのか?」「あのさ、相手はあのコリアなんだぜ? これでもよく手に入ったって誉めてもらいたいんだけど」
 ジャクソンに手を払われたデイビーは、その手の指をそのまま書類に運ぶ。「客のニーズに応えるのが情報屋ってもんだろう。俺としては、一番欲しいのは絶世の美女のアップなんだよ」そう言うと、彼はにんまりと笑った。
 「盛り上がってるところ悪いんですけど」と口を挟んだのは、額に手を当てて何か考えているらしい小魚もといサーディンだった。「それ、『美女』じゃなくて男です。もしも本当にその人物が俺達の知っている人間だとしたら、ですけど」
 目を見開いて、デイビーは書類に顔をくっ付けた。反対に、ベルはようやく書類から顔を上げる。彼女が目を向けた先は、ジャクソンだった。「どうやってこんなの手に入れて来たの」
 ジャクソンは光栄そうに目を輝かせ、やや緊張ぎみに答えた。「あ、それね、俺達情報屋の伝手で入って来たんだ。大丈夫、ガセってことはないと思うよ。もしも偽の情報を仲間内で流したら、二度とやって行けなくなるから」
 固い口調で、ベルは言葉を付け加えた。「大した自信ね、頼もしいわ。でも問題はね、誰がこの写真を撮ったかってことの方よ」
 「そりゃ決まってるだろう、コリアンの誰かだよ」ジャクソンの代わりに答えたのは、椅子にも腰掛けないままのデイビーだった。
 じれったそうに彼を見上げるベルに代わって、バーグナーが言葉を補う。「デイビー、お前さんも知ってると思うが、大概の共産国家は絶対君主制が今も健在みたいなもんなんだよ。国家のトップは絶対で、それを凌辱するような真似は出来ないような司法制度になっている。――つまり、基本的に政治家のスキャンダルは有り得ない、万一あったときも見て見ぬふりをしなければならないようになっているんだ。Miss.グロリアスが指摘したいのはそこじゃないかな。こんな命知らずをするのは誰だって」
 デイビーは肩を軽くすくめて言った。「さっすがバーグナー、『月刊ソフィアグラフィー』編集長の称号は伊達じゃないね」
 バーグナーに向かってベルは小さく頭を下げた。優しげに微笑みながら、バーグナーは片手を振る。
 ジャクソンは、首を捻りながら弱気な声で言った。「……うん、それなんだけど、どうもその写真の撮影者がはっきりしないんだ。合成でないってことは、一応確認済みなんだけど」「頼りないわよ」大花――ローズはばん、とジャクソンの背中を平手で叩いた。
 再び書類に顔をくっ付けながら、早口にベルは言う。「この際合成かどうかはあんまり関係がないのよ。ただ――」
 聞き取れないほど小さな声だった。「――まさか、生きてたなんて……」


 突然ベルは立ち上がった。「帰るわ」そして書類をカウンターに無造作に置く。頭をくっ付けて寄せ集まっていた全員が、一斉に顔を起こした。
 「せっかくなんだから、もうちょっとゆっくりして行きなさいよ」と、鷹揚にローズが言うが、ベルは髪を結い上げた頭を振った。「そういう気分じゃないの。また来るわ」
 きょとん、と歳相応の幼い表情を一瞬見せたサーディンが、はっと我に帰り早口に言う。「あ、誕生日プレゼントってんじゃないけど、ワイン用意してるんだ。前に、気に入ったって言ってた奴。どうしようか?」慌てたので、少し舌がもつれたようだった。
 ベルはルージュの唇を歪めて笑う。「包んでもらえる? 部屋で飲むわ」
 「一人の酒は寂しいぞ」デイビーはベルの肩に手を載せた。「送って行くよ。実はちゃっかりホテルまで確保してあるんだけど」
 そして、いつものようにベルの小さな掌で払われる。「結構よ」
 サーディンは、カウンター越しのローズに細長い紙袋を手渡した。ローズがそれを手に、出口へ向かうベルの後を追う。ベルがドアに手を掛けようとすると、ローズが代わりにドアを押し開けた。そして、ワインの入った紙袋を渡す。「また来なさいよ、デイビーのツケにしておくから」
 ベルは、ちょっと笑ってワインを受け取った。そして、外のむっとする空気に顔をしかめながら出て行った。ローズが手を離すと、ドアは勝手にのんびりと閉まる。
 ローズが中に戻って来ると、バーグナーが心配そうな面持ちをしていた。「若い女の子が一人で夜道を歩くなんて、大丈夫なのかね? 随分平気そうに言っていたんで止めはしなかったが」
 「大丈夫ですよ」サーディンは、また写真の書類に目を注いだ。「ベルの家の周りは、昼も夜も関係ない治安ですから。今更夜道だからって心配はいりません」
 それを聞いたジャクソンが、丸い目を更に丸く見開いた。
 ローズがひらひらと掌を振る。「へーきへーき。あいつ、ああ見えて一応ピストル持ってんのよ」
 ジャクソンが目だけでなく口まで開いて驚きの表情になるが、デイビーは軽く肩をすくめただけだった。「知ってる。俺、あんまり付き纏うからって言って突き付けられたことあるもん。ロシア製のちょっと古いのだろ?」
 「さあ、その辺は聞いたことないけど」ローズは、ベルが座っていた椅子に腰を下ろして足を組んだ。「……大事にしてるのは確かよ。それこそ、クリスチャンの十字架みたいにね」
 「仕方ないと言えば仕方ないけど、物騒だね」バーグナーが、グラスの中のクリスタルアイスをからんと鳴らす。サーディンが少し寂しげに微笑して同意する。「……そうですね」
 「それにしても」と、ジャクソンが話題を切り替えた。「なるほど、三人のコリアとの縁って、この人だったんだ。見れば見るほど綺麗な人だね」
 ローズがくすっと笑った。「実物は、これの比じゃないわよ。女優に見慣れたパパラッチ・ジャクソンでもたまげるから」
 そして、そこまで言うと彼女はカウンターに俯いた。耳に掛けた短い髪が、さらりと頬に掛かる。
 「――見た目も凄いけど、中身はもっと凄い奴だったのよ」そこまで言い、彼女は一気に顔を起こした。弟とお揃いの短い前髪の下で、大人びた化粧の顔は笑っていた。「デイビー、やっぱあんたにベルのお目付けは荷が重いわ」
 デイビーは、一瞬きょとんとした顔をして、すぐに何度か瞬く。「どうして?」
 「ベル、こいつに惚れてたのよ」言いながらローズは、カウンターの書類の上を指でこつこつと叩いた。ブルーとピンクのマーブルに染められた爪は、発色の悪い金髪を指していた。「死んだと思って泣く泣く諦めたんだけど」
 「やめなさい」見兼ねたサーディンが口を挟んだ。既に狭い店内には、重苦しい空気が漂っている。
 はっとローズは左右を見渡した。「あ、ごめんごめん。楽しく行きましょ。主役が消えちゃったけど、ベルのバースデイパーティーよ!」
 しきりに謝るジャクソンの背中を、ローズとバーグナーの二人がばんばんと叩く。サーディンが奥で、簡単なディッシュを作って持って来た。しばらくデイビーもその中で笑っていたが、突然彼はがたんと立ち上がった。一同が一斉に彼に視線を注ぐ。
 デイビーは、ぱん、と自分の顔の前で手を組んで見せた。「ごめん、俺急用を思い出したわ。お先失礼していいかな?」
 くす、とバーグナーが笑った。「『急用が出来た』じゃないのか? いいさ、無粋者はとっとと退散するんだな」「全部あんたの勘定にしておいてあげるから」ローズもまた笑顔で言う。
 後ろ頭を掻きながら、デイビーは照れ臭そうに出て行った。
 ドアまで送ったローズが、扉も閉まり切らない内に声を挙げて笑い出す。「あいつってば焦ってんの。おっかしー!」
 ジャクソンがそれに頷いて見せる。「デイビーって割とハンサムだと思ってたけど、今の姿はお笑いだったね。……それにしても、Miss.グロリアスって面食いなんだな。まあ、相手がこれなら頷けるけどね。俺まで惚れそう」
 ふと、思い出したようにバーグナーが言った。「それにしても、君達はコリアンだったんだね。まあ、薄々見当は付いてたけど」
 サーディンとローズは目を見合わせた。そして、曖昧な笑顔を作る。
 「そう思って下さって、大きな支障はありません」そう言うと、サーディンは軽く肩をすくめた。「今は、ちゃんとしたアメリカンですけどね」
 書類を眺めながらずっと首を傾げていたジャクソンが、思い切ったように口を開いた。「……ところで、この知り合いは何て名前なの? あ、これはあくまでも単なる俺の好奇心なんだけど」そして、すぐに発言を後悔した。俄かに双子の表情が曇ったのだ。
 だが、一息を置いてローズが答えた。「フェイロンって言うの。飛竜――『フライング・ドラゴン』って訳せばいいかしら」
 「かっこいい名前だね」ジャクソンが言うと、サーディンが軽く首を振りながら付け加えた。「本名じゃないんですけどね」


 狭く汚い路地には、所構わずゴミとジャンキー達が転がっている。
 その路地の奥に、ベルが一人で暮らすアパートがあった。黒いハイヒールでゴミを踏み付け、時にジャンキーも踏み付け、絡む奴等を一蹴し、ベルはさほど古くはないが荒み切った風情の鉄筋アパートの前に立った。彼女は今までにこの建物に住む自分以外の人間と出くわしたことがない。もしかしたら、本当にここに住むのはベルだけなのかもしれない。その証拠に、路地に面したベランダに干された洗濯物全てが、ベルの知る限り一度も仕舞われたこともなく黒ずんで、風化し掛けていた。
 建物の中央は一段高くなって、短い廊下と階段で最上階の四階まで吹き抜けになっている。そこに浮浪者の姿を見掛けたが、ベルは無視して四階の自分の部屋まで上り掛けた。肌の黄色い浮浪者の男は、どうやらデイビーと同じ年輩のようだったが、さほど気にも留めなかった。
 白いペンキが剥げ掛けてぼろぼろになった梯子のような鉄の階段に、かん、と音を立ててハイヒールを乗せた瞬間、ベルは前のめりにつんのめった。何が起こったのか判断できなかったのはほんの一瞬。背後を振り返ったときには、既に彼女は小さな掌にピストルを構えていた。照準はぴたりと、浮浪者の男に合わせられている。彼の手には、引き千切られたベルの黒いドレスの端が握られていた。
 「何の悪戯?」寒気を催すような声で、ベルは言った。抑えた声ではあるが、場所が階段なのもあって冷え冷えと反響する。空に月はあるが、丁度逆光で彼女の表情は全く見て取ることが出来ない。思わず男は尻を突いたまま後ずさった。
 硬い声でベルは呟いた。「今あたし、物凄く機嫌が悪いのよ」
 パァン
 込められた弾丸は、男の耳のすぐ脇を掠めて背後のコンクリート壁に亀裂を入れた。顔中髭にまみれた男の顔色が一変する。「今度こんな真似をしたら」
 ベルが微かに顎をしゃくり、顔の向きを変えたので、男の角度からも彼女が目を細めているのは見て取れた。「殺すわよ」
 そしてそのまま彼女は踵を返し、かんかんと硬質の音を立てて階段を上がって行った。しばらく男は茫然としていたが、ふと我に帰るや否や叫び声を挙げてこの路地から逃げて行った。


 部屋の鍵だけはデイビーが頑として譲らず、丈夫な物に取り替えた。その鍵を取り出し、きいと軋む音を立ててベルは部屋のドアを開いた。ドアの隣にある部屋の明かりのスイッチをぱちりと付けると、何度か点滅して部屋の天井にぶら下がったライトに光が入る。手を離すと、ドアは軋んだ音を立てて勝手に閉まった。
 部屋の中は、案外と広かった。壁や床は確かにこのアパートの外見同様古惚けた感じではあるが、きちんと片付けられていた。片付ける物が何もない、と言うのが正しいところかもしれない。本当に、生活最小限の物すら置いてあるのかと危ぶまれるような部屋である。テレビに映し出される華やかな姿とは丁度対照的だが、この部屋で生活を営んでいるのもまたベル・グロリアスだった。
 ベルは、部屋に入るや否やハイヒールとレースの手袋をぽいぽいと脱ぎ捨てた。そして、作り付けの妙に大きな――それこそデイビーくらいの体格だったら丁度いいかもしれないようなセミダブルベッドにぼすんと腰を下ろす。サイドデスクに手を伸ばし、彼女は写真の入った額縁と眼鏡を取った。一般サイズの三倍ほどの大きさの写真には、白と紺の服装の少年少女がずらりと四列に並んで写っていた。心持ち緊張したような表情、無関心そうな表情、はにかんだ表情――誰もが皆、彼等を襲った悲劇など夢にも予想していない表情をしていた。最前列で不機嫌そうにこちらを睨む、黒髪に一房の銀髪が眩い小柄な少女も、後ろから二列目のほぼ中央で同じ顔をしている男女の双子も、自分達の今の姿を露ほども思っては見なかった。
 ベルは無意識の内に、一番後ろの列の右端に立つ人物に目を注いだ。すらりと背が高いがさほど大柄に見えないのは、華奢な体付きゆえであろう。一際目を引く鮮やかな亜麻色の長い髪に、磁器のように滑らかな白皙。残念なことにこの写真では黒にしか見えないが、ベルはその瞳が深い紫藍だということを知っている。彫像のように端正な面には、愛想笑いの欠片もない。彼――劉 飛竜(リュー・フェイロン)と呼ばれた弱冠十七歳の少年は、ただ無表情で佇んでいた。
 しばらくその写真を見詰めていたが、突然ベルは怒ったような表情になってベッドにその写真を叩き付けた。折り畳んだタオルケットにぶつかって、写真立てはぼすん、とこもった音を立てる。そしてベルは腕を伸ばし、やはりサイドデスクに置いてあったスケッチブックを手に取った。間から6Bの鉛筆が転がり落ちたので、それを拾いながら大判のスケッチブックを広げる。
 始めのページには、何も描いていなかった。その次のページに、ようやく一枚目の絵が現れる。精緻で丁寧なタッチのそれは、中年のアジア人夫婦と、夫婦の特徴をよく受け継いだ二人の子供の絵だった。皆、どことなくベルに似た面影を持っている。特に、二人の子供の父親と思しき中年の男の髪には、ベルと同じ一房の銀髪が入っていた。ラフなデッサンに線を重ねて描き込んだその絵は、描き込み過ぎた上に擦れてほとんど真っ黒になっていた。数ページの間、その家族の絵は続いた。
 そして、突然白紙の一ページが現れる。その次のページには、一人の少女が描かれていた。おっとりとした優しげな笑顔や少し垂れた目許、柔らかい猫毛が印象的なその少女は、そう言えばさっきの集合写真にも、はにかんだ笑顔で写っていた。さっきまでの絵と比べてやけに白っぽいその絵の隅には、「朋友」という小さな二文字が書き込まれていた。
 次のページは、鉛筆で荒く塗り潰されていた。その下に描かれているのは、他ならぬ飛竜の肖像である。その次のページにも、そのまた次のページにも、彼が描かれていた。そして全ての絵が、激しい鉛筆の筆跡で潰されて――だが、ようやく連続する肖像デッサンの最後に、潰されていない絵が現れた。顔に掛かる透明な髪の下、どこか遥か彼方を見詰める眼差しが印象的な画面だった。
 突然ベルは、掛けた眼鏡を乱暴に外して無造作に脇に置いた。おもむろに、手に握った鉛筆に力を込める。そして、一気にその絵も塗り潰してしまった。しゃかしゃかという涼しい音がいつまでも部屋の中に響き、その内もはや原型の影すら見えなくなった画面の中央で、太く柔らかい鉛筆の芯がぼきり、と折れた。ようやく鉛筆を手放したベルは、真っ黒になったスケッチブックの一ページを激しく引き千切る。製本していた針金に細く紙が残ったがそちらには目もくれず、彼女は手の中で黒く塗り潰された画用紙を細かく引き裂いて行った。手が擦れて真っ黒になるのを気にも留めず、ただひたすら彼女は表裏白黒の紙吹雪を作るのに没頭した。手の中に紙がなくなったら、ドレスの上に溜まった紙切れの中から大き目の物を選んで、更にそれを細かく千切る。
 そして、紙切れがほとんど均等に細かくなったら、それをドレスのスカートに乗せて部屋の奥へと運んだ。縦に細長い形をしたこの部屋は、開かれっぱなしのアコーディオンカーテンで仕切られた手奥半分に、クローゼットと雑多ながらくた――とても古い望遠鏡や天球儀、丸められた巨大な世界地図に造り掛けのままの有機模型等――が、埃を被りながら密集している。ベルが持ち込んだ訳ではない。彼女がこの部屋を借りたときには、既に入っていた物ばかりである。がらくたを踏み付けながら部屋の一番奥へと行き、ベランダのガラス戸のすぐ手前で立ち止まった。何故かそこには天窓と、そこに通じる梯子がある。片手でドレスを押さえて梯子を上り天窓を開けると、そこはこのアパートの屋上になっていた。
 柵のような物は何もない。ただがらんとした空間が広がる屋上に上がり、ベルはその縁まで素足で歩いた。埃っぽい感触が足の裏に触るが、あまり気にはならなかった。後一歩先は空中、というぎりぎりのところに立つと、ベルは一気にドレスの上の紙吹雪を放り投げた。夜闇に溶ける黒い紙吹雪は彼女の顔の高さまで上がり、ひらひらと地上へ向かって舞い降りて行った。
 「どうして――」紙吹雪を見詰めながら、小さな声でベルは独白した。「どうして、生きてるのよ」


 不意に生温い風が吹いた。紙吹雪が何枚か吹き上げられて、ベルの足元に落ちる。
 破れたドレスの裾をあおられて、ベルは何となく空を見上げた。真夏の夜空はいつまでも薄明るく、星が見えない。月は、と思って東の空を見ると、満月を幾らか過ぎた楕円の月が傾いた形でぽっかりと浮いていた。
 「こんなところにいたのか」本当に突然、ベル以外の人間の声がした。はっと我に帰ったベルは、屋上への唯一の入り口である天窓の方へ振り向く。そこには、夜目にも明るいハニーブロンドのくせ毛が覗いていた。「鍵も掛けずに無用心だよ、レディー」
 「本当に無用心だったわ」ベルは眉をひそめた。それが見えているのかいないのか、デイビーはいつものような笑顔で近寄って来る。「こんなところで何やってるんだい? まさか、『近寄ったら飛び降りるわよ』なんて言わないでくれよ」
 ベルはくすり、と笑った。「近寄ったら飛び降りるわよ」
 デイビーは万歳するように両手を肩の上に挙げた。「飛び降りるのはレディーかい、それとも俺? ……おいおい、相手にもしてくれないのかい、レディー」
 ベルは黙って空を見上げたままだった。地上よりも少し強い風が吹き、ベルの黒いドレスの裾がふわりと広がった。後ろの方が少し破れているのに気付いたが、取り敢えずデイビーは信条に従って気にしないことにする。
 しばしの沈黙が静かに流れた。
 「……あんた、友達に死なれたことある?」沈黙を先に破ったのは、意外にもベルの方だった。
 思わずデイビーは自分の耳を疑う。「え……お、俺?」ベルは黙って先を促す。
 どことなく寂しげで優しげな笑みを見せて、デイビーは言った。「あるさ。幅ひろーい友好関係を誇ってんだし、天国及び地獄在住の友達の一人や二人くらい」
 「そう」素っ気無くベルは言った。デイビーはもう少し言葉を重ねる。「俺は別に神様とか何だとかを信じちゃいないけど、死んだらどこか別の世界へ行くって世界観は何となく信じたいな。あいつ等にもう一度会えるのも、捨てたもんじゃないし」
 「会えないなら、行く意味がないのね」よく通る冷たい声でベルは言った。その幼さの残る横顔がどことなくおぼつかなげで、何となくデイビーは彼女を憐れに思う。「若い内は、会えない方がいいさ」
 再び、夜の空気の中を沈黙が漂った。
 屋上は案外見渡しが良かった。周りにさほど高い建物がないのが幸いしているのだろう。地上を見下ろすと、地面で寝起きする沢山の浮浪者。この場所は、今夜のレストランよりも遥かに『アメリカ』がよく見える、デイビーはそう思った。
 何か言う方がいいのか黙っている方がいいのか迷った挙句、デイビーは口を開いた。「あのさ、レディー。俺、色々と考えたんだけど」
 ベルはようやくデイビーの方を見る。「バースデイプレゼント。レディーの一番欲しい物にしようと思ったんだけど、それってすっごいレア物で入手困難なんだろ。それでだ、俺なりに真剣に考えた結果、これならほぼ確実に世界中の何でも手に入るって方法を考え付いたんだ」
 怪訝な顔をして、ベルは首を傾げた。デイビーは両手を軽く広げて胸を張る。
 「俺、大統領になる。レディー・ベルが俺のファースト・レディーになるんだ」一瞬黙り込んだベルは、少し遅れて気の抜けた声を出す。「はぁ?」
 得意げにデイビーは捲し立てた。「今、世界中で一番ビッグな国は間違いなくアメリカだ。そのアメリカで一番ビッグなのが大統領だってことくらい、よちよち歩きの子供でも知ってるさ。一番ビッグな国の一番ビッグな人間、これならどんな無茶でも通りそうな気がしないか、レディー・ベル!?」
 「無茶よ」素気無くベルは言い返した。「あんた、大統領が何だかわかって言ってるの? この国にはね、二億五千万人の人間が住んでるのよ。二億五千万人の命を背負って立たなくちゃいけないのよ、大統領ってのは。その覚悟があんたにあるの!?」
 「レディー・ベル」デイビーは笑った。「あんたは、大統領に命を守ってもらってるって実感したことあるかい? ……ないだろ。それでもこの国は世界的には住みやすいってことになってる。何でだかわかるか? ――国が殺戮を行ってないからなんだよ。レディーの祖国みたいに、『ソートー』とか呼ばれている男が率先して人を殺してないからなんだよ。人間って案外強いよ。国のトップが手を焼かなくても、勝手に生きていけるんだ」
 ベルは言葉に詰まった。内心デイビーはガッツポーズを取る。彼女の弁舌は確かに強いが、支配者層に関する話題ではどこか感情的になって、論理に穴が開くのだ。彼女の弱点に気付いたのはおそらく彼だけで、本人すら自覚していないのだろう。ベルを理解できていること、それが誇らしく、また嬉しかった。「俺の嫁さんになってくれ。レディーがいたら、絶対にこの国をもっとよく出来る。いや、世界を変えるのだって夢じゃない!」
 ベルは、目を見開いた。虚勢が緩んで、幼さが表情に浮き上がる。――だが、それも一瞬のことだった。ベルはすぐに不敵な笑顔を浮かべた。「……何も、あんたが大統領になる必要ないわ」
 彼女の言葉の意味が飲み込めず、デイビーは間の抜けた顔になる。ベルはよく通る声で言った。「――あたしが総統になればすむことなんだわ」
 虚を突かれたデイビーは、一瞬遅れて唖然と口を開けた。


 「さっきのデイビーの顔と来たら」ジャクソンはまだ笑っている。「あいつがあんなに慌ててるとこ、初めて見たよ。Ms.グロリアスに掛かったら、あのデイビーも形無しだね、全く」
 ローズが、残りの少なくなったグラスを片っ端から開けながら言う。「こいつにベルを取られるとでも思ったのかしら」
 書類を手に取りながら、彼女はほんのり紅くなった顔で笑う。そろそろローズを止めようか、とサーディンは考えた。知ってか知らずか彼女はやや饒舌になる。「馬っ鹿じゃない。あのねぇ、ベルって一度こいつにこっぴどく振られたのよ。ちょおっとそのときのは見物だったわ」
 バーグナーが軽く肩をすくめ、サーディンにウインクをする。ナイフで果物の皮を剥いていたサーディンも苦笑して見せた。酔いが回り始めたジャクソンがローズに身を乗り出し掛けたが、その瞬間にサーディンはローズの頭を軽く叩いて顔を自分に向けさせた。「はい、もう本当にそこまで。内輪の話はつまらないよ」
 「何よー」「何でー」とローズとジャクソンが口を揃えるが、それを見ながらバーグナーが席を立った。「さあ、帰るぞ」とジャクソンを促す。嫌がるジャクソンの襟首を掴み、バーグナーは笑顔で言った。「悪いね。酔っ払いはこの店の雰囲気を壊すから、失礼するよ」
 「すみません、またお越し下さいね」サーディンがカウンターから出て、抵抗するジャクソンを連れて行くバーグナーに加勢する。
 慌ててローズがドアの前に立った。「ごめんねぇ、あたしまで酔っ払っちゃって。気を悪くしないでもらえたら嬉しいわ」そして、ドアを開いた。
 バーグナーが笑う。「大丈夫、全然気にしていないよ。ただ、今日のところはそろそろ店仕舞いをした方がいい」
 ローズはきょとん、とした顔をするが、サーディンは何となく悟ったらしい。複雑そうな顔で頷いて、ローズの肩に手を置いた。「そうですね」
 夜の街へ出て行く二人を見送りながら、サーディンは小魚に戻り、ネオンサインのスイッチを切った。客がいなくなってホステス役を降りた大花が、弟に向かって尋ねた。「何で? もう閉めちゃうの?」
 「理由はタイホアの方がよくわかってるんじゃない?」小魚は至って冷静に、むしろそう振る舞っているとも取れる口調でそう言った。大花は少し首を傾げて見せたりしていたが、ふっと酔いの抜けた表情になってカウンターに戻った。そして、ジャクソンが置いて行った書類を再び手に取る。「ジャクソンとバーグナーには悪いことしちゃったわね。次来たときにはうんとサービスしなくっちゃ」
 電気代節約の為に客席の照明を落として、小魚はカウンターの奥に入った。そして、グラスや皿をかちゃかちゃと重ね、流しのシンクへ持って行く。「……驚いたね。まさか、あいつが生きてるなんて。――しかも、こんな形で知るなんて」
 「あたし、てっきりあのとき自殺したと思ってたのよ。あいつ」わざと明るい声で大花は言った。だが、すぐにその表情が曇る。「政府の連中にやられるくらいなら、自分で一息にいっちゃうような奴だと思ってた。……そりゃあ、別にあいつのことよく知ってる訳でもないし、付き合いだって物凄く短かったわよ。でも、よりによって何であいつなの!? 何であいつがこんなことしてる訳!?」
 小魚は、沈黙したまま水を洗い桶に入れた。スポンジを泡立ててグラスを一つずつ洗う。洗剤を付け過ぎて飛んだ泡が、短い前髪に付いた。
 溜め息混じりに大花が言う。「……駄目ね、とてもこんなので接客できるはずないわ。思った以上にあたし、動揺してるみたい」
 「俺もだよ」静かに小魚が言った。その手から泡だらけのワイングラスが落ち、甲高い音を立てて割れた。


 「総統って……」自分にはかなりの自信を持つデイビーも、思わず耳を疑った。聞き間違いだったのでは、と思いもう一度口の中で言い直す。「総統って、レディーそう言ったのか?」
 「何度でも言い直してあげるわ」ベルはくすくすと笑う。心底愉快そうな表情をしているのが憎らしい。「あたしが総統になればいいのよ。そうしたらあたしの一番欲しい物が手に入る、馬鹿みたいなあの国の状況もちょっとはマシになる。素晴らしいと思わない?」
 「レディー!」デイビーは思わず足を踏み出した。彼に向かってベルはすっと右腕を伸ばす。その先に、小型の拳銃。
 「それ以上近寄らないで」冷たくベルは言った。まさかこんなところでこんな目に合うとは思っても見なかったデイビーは、硬直する。「アイデアのヒントありがとうね、デイビー。でも、それとこれとは別なの」
 ベルの口振りには、少しの親しみも感じられなかった。意図せずデイビーは、悲しそうな顔をする。
 「レディー……」いたわりのこもった声でデイビーは言った。「ごめんね、気を悪くしたなら帰るよ。でも、これだけは答えて欲しい」
 彼の眼差しに、薄闇に浮かぶブロンドに、ベルが途惑っているのはよくわかる。デイビーは目を細めた。「総統ってのは、今あの男を託っているのと同じ地位だ。万一それが目的だとしたら――」
 「意味がわからない!」叫ぶようにベルは言った。一息を置いて、デイビーは言葉の続きを話す。「ベルが望むものが、あの男なら――」
 パァン
 その続きは、銃声で掻き消された。微動だにしないデイビーと、見てわかるほどに震えているベル。彼女の手の銃から、白い煙が細くなびいていた。
 「はずれ」ベルは薄く笑った。「あたしが欲しいのは――」
 顔のすぐ脇を弾丸が通って行って、少し耳が変になったデイビーには、よく聞き取れなかった。ただぼんやりと、もっとちゃんと笑ったらもっと可愛いのに、と残念に思う。
 「……えって」ベルの顔が悲しそうに歪んだ。
 「せっかく来てもらったのに悪いけど、今日はもう帰って」「……俺がそれに従ったら、レディーは嬉しいのかい?」何とか耳が働き出したので、デイビーは笑顔を見せた。泣きそうな顔でベルは頷く。
 参ったな、とデイビーは頭を掻いた。泣いている女の子を一人で残して帰るのは、ちょっと主義に反するんだよなあ、と考えたが、彼はもう一度笑顔を作り直した。「わかった。俺、帰るわ。だからって、地上に降りた俺目掛けて紐なしバンジーするんじゃないぞ」
 銃を向けたまま、ベルはくすっと笑った。やっぱりこういう顔がいいよな、と思いながらデイビーは梯子に足を掛ける。「今日は疲れただろ。明日は収録だし、早めにお休みレディー」
 ベルは無言で頷いた。


 「タイホア」小魚は手をざっと洗うと、カフェエプロンの前で無造作に拭った。それからカウンターの側に出て行くと、大花が放ったままの書類を順番に並べていく。
 頬杖を突いたまま、拗ねたように大花は黙り込んでいた。その横顔を見遣りながら、小魚は努めて静かな口調で言う。「借りは返さなくっちゃね。俺達が今生きているのは、間違いなくあいつのおかげなんだから」
 「……ベル、はどうするつもりなのかしら」彼女にしては珍しく躊躇いながら、大花は言った。今でも時々言い間違えて、ベルのことを彼女の古い名前で呼ぶことがある。そのときのベルの表情を見る度、次こそは絶対にやめよう、と後悔する羽目になるのだが。「今頃、多分あたし達の何倍も向こうへ行きたくて、矢も盾も堪らないと思う」
 「タイホア」彼女が顔を上げると、小魚は同じ目線でにこりと笑った。「気付いてる? タイホアは、デイビーと同じくらいベルの名前を口にしているよ」
 「やめてよ!」急に大花は不機嫌になった。「別に、あんな奴どうだっていいわよ! ただ、ちょっとしょぼくれてたらいい気味って思っただけ!」
 「うん、そういうことにしておくよ」小さく笑いながら、小魚は言った。それを見ながら大花はますます柳眉を吊り上げる。「何よ!」
 不意に小魚は、真面目な顔をした。「でも、冷静なベルだったらいいけれど、感情を剥き出しにしてたらあいつはかえって厄介だよ」
 「そうねえ……」振り上げた手の行き場をなくしたように不服そうに考え込んだ後、大花はぽつりと言った。「あいつが一緒なら、大丈夫なんじゃない? 多分取り乱したりとか、かっこ悪い真似は出来なくなるんじゃないかしら。まあ、色々と問題が起こりそうではあるけどね」
 「あいつ?」小魚は首を傾げた。大花が頷く。「あいつ――デイビーに決まってるじゃない」


 がらくたのジャングルに降り立ったデイビーは、天井からぶら下がった謎のコード類に引っ掛かりながら玄関へと向かった。頭上にばかり気を取られていたら、足元に転がっていた古い一眼レフに躓いて、危なく転びそうになる。たたらを踏んだら、埃が煙になって舞い上がった。
 「デイビー隊員、ジャングルで遭難寸前です。無事居住区まで戻れるのでしょうか」一人で呟きながら、彼は落ちている物を踏まないように気を付けて歩いた。隣にクローゼットがあるので、もう間もなく普通の部屋に出ることが出来る。
 徐々にガラクタの量が減って行き、ようやくデイビーはアコーディオンカーテンの手前側まで戻ることが出来た。やれやれと溜め息を吐く。「デイビー隊員、無事生還致しました。世紀の瞬間です」
 背後を振り返りながら、がらくたさえ取り除いたら、案外広い部屋なのに、と彼は少し勿体なく思う。
 それからふと、ベルのベッドの上に伏せられた写真立てを見付けた。何となく手に取って見ると、どうやらハイスクールのクラス写真らしかった。思わずデイビーはベッドに腰を下ろして眺める。見慣れた顔をその中に見付けた。後ろから二列目のほぼ中央に並んだ同じ顔の男女。
 「へえ、ローズって髪長かったんだ」意味もなく感心する。
 写真の最前列に、ベルがいた。今とほとんど変わらない、無愛想な怒ったような表情をしているのが、何となくおかしかった。
 しばらく写真を検分していたら、少し目を引く影を見付けた。何故もう少し早く気付かなかったのか意外に思う。最後列の右端に立つ、一際背の高い少年。見事なブロンドが白い肌によく映える。表情があまりに違うので気付かなかったが、それは間違いなくあの書類に写っていた美しい人間だった。
 「同級生なのか」一抹の感慨を持ってデイビーの独り言は響いた。「十八か。何だか俺よりも大人っぽいな」
 そしてふと唐突に、かつてベルとはじめて会ったときのことを思い出した。自分でも胡散臭いと思える彼の申し出に、彼女はあまりにもあっさりと乗った。口では何だかんだ言っても、彼女は彼を根本的に信じてくれていた。嬉しい反面、今までずっと不思議だったが、その鮮やかなカラー写真を見てようやくその理由がわかった気がした。気付くんじゃなかった、とデイビーは思った。
 思いながら、柔らかいハニーブロンドの髪の毛を掻き混ぜた。


 ベルは、手の中の銃をまじまじと見詰めた。関節の目立つ長い彼女の指に、丁度しっくりとくる大きさである。以前は少し重いと感じていたが、今ではそれも平気になった。その銃によって奪われた、そして救われた命の重さだと感じ、その手で受け止められるようになった。
 (どうして、生きているのよ)ベルは思った。彼の遺体を見た訳ではないが、死んだと言われた方がまだ現実味を帯びているように思われた。あんな証拠さえ見せられなければ、死んだと信じることさえ出来た。死んだと思っていた方が、まだ楽だった。
 (せっかく諦めようと思ったのに)何だか泣きそうな気持ちになった。
 デイビーのことは嫌いではない。むしろ、心底信用できる数少ない人間の一人である。だが、明晰な彼女は誰よりも先に気付いていた。自分は、彼を通して遥か半島に残して来た全ての人々を見ているのだ、ということに。
 (あんたなんか――あの子を殺したあんたなんか)今も耳の奥に残っている。あの子の、唯一の親友だった彼女のやわらかな口調、その声。彼の忠告を忘れたばかりに、彼女を喪うことになった。その現実が怖くて逃げ出して、彼女の最期を見届けられなかった。最期の言葉を聴けなかった。彼女が何と言ったのか、何を言い遺し死んで行ったのか。
 それを知るのは、彼女にとどめを刺した――彼女を楽に逝かせる為に、一人残り犠牲になった――彼のみである。知りたかった。彼女の最期を知りたかった。彼女の最期の言葉を知りたかった。彼女の人生の幕切れを知りたかった。その立会人に――。
 「……会いたい」唇がひどく重かった。じっとりと身体に絡み付く熱気が、目許に集中した感覚がした。やがて溜まったそれは、頬を伝って顎に集まり、雫の形を整えて落ちて行った。
 きっと汗だ、とベルは心の中で呟いた。暑いから――真夏の夜は暑いから、滴り落ちるほどの汗をかいたんだ。後でシャワーを浴びよう。頭から、冷水のシャワーを浴びよう。そうしたらきっと、水に流されてわからなくなる。
 汗も――涙も。


 昼なお暗い資料室に、彼はいた。累々と並ぶ本棚の隙間を身軽に歩き、一冊のファイルを探していた。全体的に白く華奢な印象の彼が歩くと、そこだけぼんやりと明るくなったように見える。それは、すらりとした長身が纏うのが、医師特有の白衣のせいかもしれない。病人を思わせる、生まれ持っての白皙のせいかもしれない。項から右胸の前に流して軽く束ねた長い髪が、若さとはひどく対照的な銀色をしているせいかもしれない。
 繊細で長い睫毛に縁どられた碧眼を彼は回らせた。穏やかな人柄という周囲の評判にはあまりにも不釣合いな、冷たい色合いの瞳だった。いつも浮かべている穏やかな笑みが、今は凍り付くような無表情の中に吸収されている。
 刃物のように鋭利なパーツで構成された顔が、ある一ヶ所に向けられた。その長身を持ってしても、なお見上げなくてはならない本棚の最上段の、右端。一際分厚いファイルの背表紙には滲んだ文字で『Virus J−815』と書かれていた。腕を伸ばして、彼はファイルを手に取る。
 中に書かれている内容は、全て暗記していた。だが、それでも何となくファイルの表紙を開いて、数ページ捲って見る。見覚えのある、英語とドイツ語とハングル文字に綴られた書類が続いていた。全て彼が――このウイルスを開発した彼自身が書き込んで行ったものである。
 ウイルスに感染したときの症状を思い出してみる。主な症状は確か、免疫力の低下、内臓からの出血、発ガン――そして死に至る。ワクチンはまだ作られていないし、特効薬もない。感染すると、確実に死に至るウイルスである。
 一旦彼はファイルを閉じて、表紙の反対側を開いた。そこに、数枚のレポートが簡単に挟まれていた。それだけを手に取り、重いファイルその物は適当な本棚の余白に置く。レポートは、右肩の部分をホッチキスで簡単に留められていた。
 「ウイルスの盗難報告」という見出しが、レポートの表紙を飾っていた。何度も見た内容ではあるが、彼はざっとそれに目を通す。おおまかな内容は確かこうだった。――三月二十三日の日中、研究員以外は立ち入りを厳禁されている国立科学技術研究所の生物研究棟に、部外者が侵入した。侵入者は複雑な研究棟の内部に詳しかったらしく、厳重な警備体制のほんの小さな隙間を潜り抜けて内部に潜入したものと見られている。――だが、侵入者が持ち出したのは、いささか意外なものであった。ラットの研究用に注射器の中に入れられていたごく微量のウイルス、ただそれだけだったのだ。研究員も調査員も、皆一様に首を捻った。これだけ内部に詳しい者の犯行なら、複数種のウイルスを盗んで行くか、あるいはウイルスに関する書類丸ごと持って行く方が、遥かに自然だと思われたのだ。
 ごく微量でも、人間一人になら十分な感染力を持つウイルス、J―815。元は生物兵器として開発されていたのだが、中途半端な潜伏期間の長さや、空気感染が極めて稀という感染力の弱さゆえに、改良を重ねられている最中のウイルスであった。またそれらの欠陥の為、恐ろしい症状や致死率を誇る割には盗難に対する研究員等の対応もなおざりなものであった。
 何故、このウイルスをわざわざ選んで盗み出したのか。彼が着目したのはこの点だった。当時の同僚は皆笑った。偶然だ、偶然目に付いたのを泥棒が持って行ったのだろう、と。だが、彼にはそう思えなかった。おそらく彼が盗難者だったなら、迷うことなくこれを選んだと思う。確かに生物兵器としては未完成だが、ある特定の手段を介したら、これは極めて有効なウイルスなのだ。
 彼は突然、後ろ頭に手をやった。細い指で、細い銀髪の頭を引っ掻く。手を戻すと、指に何本かの髪の毛が引っ掛かった。
 ここで待っていたら、会えるかもしれない。そう思い、彼は研究所からここに――国立大学付属病院に異動した。ここで待っていたら、僕のウイルスを理解してくれた人間と、会えるかもしれない。
 ウイルスの潜伏期間は三ヶ月から六ヶ月。そろそろだ。彼は微かに薄い唇で笑った。そろそろ、会えるはずだ。
 その人が、僕と同じことを想ったなら。


 いつものようにデイビーがベルをアパートまで迎えに行くと、彼女は既に出ていた。いつもなら、迎えに行くまでは昼過ぎだろうと平気で寝ているのだが、と怪訝に思いながらデイビーは放送局を目指す。
 アパートのあるスラムを出て、近代的な高層ビルの立ち並ぶ街の中枢に向けて車を走らせながら、デイビーは何となく嫌な予感に襲われた。何が起こるとも、誰が起こすともしれない。ただ、大きな運命のレールが本来とは異なる分岐点へと進んでしまったような、そんな不吉な予感だった。
 「慣れない早起きなんかするなよ、レディー。何となく不安になるじゃないか」デイビーは眉をひそめて呟いた。
 放送局のビルの裏に回り込み、地下駐車場に車を停めて、デイビーは地上二十四階までエレベーターで一気に上った。半ば走るようにスタジオに入ると、既にベルと対戦者が最終ミーティングを行っているところだった。黒いノースリーブとスリットスカート姿のベル・グロリアスが、一番にデイビーに気付いた。「あら、遅かったわね」
 ベルの普段と変わらない様子に拍子抜けしながら、デイビーは溜め息を吐いた。途端に、さっきの嫌な予感が嘘のように氷解する。「何で……」
 ベルは無邪気に笑って見せた。「偶々早起きしただけよ。何となく歩いてみたかったの」「あそこから? ここまで? 五キロはあるぞ!」
 珍しく笑顔のないデイビーにいささか面食らいながら、ベルは首を傾げた。「ちょっと考え事してたんだけど……どうしたの、あんたらしくないじゃない」
 何か言おうとしたが適当な言葉が見付からず、仕方なくデイビーはディレクターに今日の追加資料を貰って目を通した。誰も気付いていないようではあるが、何となく彼だけは感じてしまった。今日のベルには違和感がある。何かが、どこかがおかしい。気のせいかとも思ったが、そう言い切るにはあまりにもはっきりとした何か。それがさっきまでの不安と重なり、気分的に重くなってしまった。そして周囲にはむしろ、デイビーの方がおかしく映ったらしい。顔馴染のスタッフに「今日は何か変だぜ」等と言われてしまった。
 何だか、と思いながらジャッジ席に向かっていたら、肩をぽんと誰かに叩かれた。ベルかと思って振り向いたら、そこに立っていたのはこの番組の企画担当者である友人だった。
 「考え事かい、デイビー」曖昧に笑って見せるデイビーの肩を揉んでみたりしながら、彼はにやにやと笑った。「Miss.グロリアスと上手くいってないとか」
 肩に乗せられた手を払いながら、デイビーは素気無く言った。「別にそんなんじゃないよ。俺だって、レディー・ベルの尻を追っ掛けるだけが能じゃないさ」
 ふうん、と顔色を伺うように友人はデイビーを覗き込んだ。そう言えば、番組を企画した頃は視聴率がさっぱり振るわず、いつクビになるかとびくびくしている奴だったよな、とデイビーは思い出した。誰のお陰ででかい態度取れてるんだ、と少し悪態を突きたくなる。
 「ま」デイビーのハニーブロンドに手を乗せながら、彼は言った。「挑戦者を慰める為の言葉を、一つ二つ考えといてくれ」
 「男を慰めてもつまらんさ」ジャッジ席の椅子を引きながら、デイビーはシニカルに笑って見せた。向こうのモニター画面には、カメラの調整の為にベルの横顔がアップで映っている。彼女の笑顔が今日はやっぱりどこかおかしい、しつこいと自覚しながらデイビーは思った。


 異変が起こったのは、誰もの頭の中にあるシナリオ通りにベルが挑戦者を打ちのめした直後だった。デイビーが講評を入れようとした瞬間、彼の前に置かれていたマイクがスタンドごと取り上げられた。慌てて座ったまま見上げると、スタッフから一番目立つジャッジ席の前でマイクスタンドを握り締めた、ベルがいた。がりがりと銀色のメッシュの生え際を掻く彼女に、スタッフからざわめきが走る。悄然と項垂れていた挑戦者までが、顔を上げた。
 「ヘイ、皆さん。実はちょっと残念なお話があります」不自然な格好のせいでノイズの入るマイクを使い、ベルは話し出した。その表情には、悪戯を楽しむ子供のような微笑みが浮かんでいる。「実は、あたしベル・グロリアス、今回をもって『W.D.』を降板したいと思います。今まで、どうもありがとうございました。そして、とってもごめんなさいね!」
 投げ捨てるようにベルは言うと、そのまま背後で茫然としたまま座っているデイビーの腕を強く引いた。釣られて彼が立ち上がると、突然のヒロインの番組降板宣言に激しく動揺するスタッフの横を駆け足で素通りし、スタジオの扉に両手を掛けて力一杯引いた。よくわからないままデイビーが手伝い、扉が開くと、ベルは足をもつれさせながら物凄い勢いでエレベーターに向かって駆け出した。
 我に帰った数人のスタッフが追い掛けて来るので、ベルの足だと追い付かれると確信したデイビーは軽々とベルの身体を抱え上げ、彼女を横抱きにしたままエレベーターに滑り込む。スタッフ達の目前で無常に閉まるエレベーターの扉越しに、ベルは意地悪く微笑みながら掌を振っていた。
 息を切らすデイビーに、ベルは言った。「ありがと」
 「願わくば、打ち合わせが欲しかったなあ」デイビーは、げんなりとした調子で呟いた。「俺、本気で驚いたよ。降板なんて、いつ決めたんだ」
 事も無げにベルは言った。「ついさっき。スタジオに来る途中に決心したのよ。打ち合わせる時間がなかったのは謝るわ」
 今日のベルはやはりおかしい、と改めてデイビーは思った。機嫌が良いのだ、良過ぎるのだ。こんなに上機嫌のベルを、彼は今までに見たことがない。と、ベルがくしゅ、と表情を歪めて不機嫌そうな顔をした。「ところで、そろそろ降ろしてくれない? これってセクハラだと思うわよ」
 ようやくデイビーは、自分がベルを抱き上げたままだったことに気付く。道理でベルの顔が近かったはずである。慌てて丁寧に彼女を降ろした。やれやれ、と言った調子でベルはデイビーを改めて見上げた。
 「さて、それじゃご所望の打ち合わせよ。あんた、今日は車よね? それであたしを乗っけて、そのまま適当な航空ダフ屋のところまで一っ走りして頂戴」一息に彼女は言う。
 話が飲み込めず、デイビーは柄にもなく真面目な口調になってしまう。「ちょっと待て、レディー。一体これから何をするつもりなんだい?」
 エレベーターが地下一階で止まり、扉が緩やかに開いた。その向こうの薄暗い駐車場を眺めながら、ベルは愉快そうに笑って見せた。今までに見たことがないほど屈託がない笑顔なので、かえってデイビーの背中をぞくりとしたものが走り抜ける。
 「クーデター」コンクリートで囲まれた駐車場に、彼女の声が静かに響いた。


 「ああ、もう!」大花はテーブルに叩き付けるようにして電話を切った。ソファに座ったまま、子供のように足をばたつかせる。「何で駄目なのよお!」
 部屋の隅にある大きなドラセナの鉢に水をやりながら、小魚はたしなめるように言った。「仕方ないよ。サマー・バケーションの真っ最中に航空チケットを取ろうって方が無謀なんだ。正規の手段で手に入る訳ないだろ」
 「韓半島へバカンスに行く物好きなんている訳ないじゃない」ぶつぶつと大花は不平を洩らす。観葉植物の葉艶を確かめると、小魚は大花の方を向いた。「それの方がもっと無理なんだってこと、わかってる?」
 駄々をこねる子供を諭すように、小魚は姉の向かいのソファに腰を下ろした。白い水差しを低いガラステーブルの上に乗せて、空いた手を顔の前で組む。「よく考えてみなよ――考えるまでもないか。あの国は鎖国されてるんだ。誰もあの国に入れないし、出られないってことになってる。理屈としてはね。だから、普通に空港に当たっても、あの国への航空券が入手できるはずがない。そうだろ?」
 「でも、それじゃフェイロンがくれたチケットは? 一応飛行機は出てるんだって、ここに来るときにわかったじゃない」しおしおと大花は言う。
 小魚が彼女の目をじっと覗き込んだ。「そう。表立って運航されている訳じゃないけど、紛れもなくあの国への飛行機は出ている。だったら、焦る必要はないよ」
 「フェイロンをいつまでもあんな状態で放っておける訳ないじゃない!」腰を浮かす大花の前に掌をかざして、小魚は制止した。「違うってば、気が短いよタイホア。今は丁度『W.D.』の収録中なんだ。……デイビーなら、間違いなく伝手を知ってる。航空券なんて、戸籍より簡単に買えるだろうね」
 目をぱちりと見開く大花に向かって、小魚はにっこりと笑い掛けた。「多分、ベルが何とかしてると思うよ。俺達が今すべきなのは、向こうへ持って行く荷造りなんじゃないかな」
 「……あんたって、見掛けによらず策士よね」一瞬呆気にとられた後、大花は感嘆の溜め息を吐いた。小魚は言った。「同じ見掛けだよ、タイホア」


 「――喃、芫爾として笑ひて曰く『只だ謀術して屠るのみ』と」歌うようにベルは言う。古い中華語らしく、デイビーにはさっぱり意味が掴めなかった。何かの昔話でも言っているのだろうか、とも思ったが、それにしてはあまりに状況が似つかわしくない。デイビーの頭の中では、まださっきのベルの言葉がエコーの掛かったままぐるぐると回っていた。
 「無茶だ」ハンドルを切りながら、デイビーは言った。「無茶だ、絶対に」
 後部座席から上機嫌な声が響く。「とか言いながら、言う通りに動いてくれているのはどうしてなのかしら」
 「振られたくないから」きっぱりとデイビーは言った。
 くすくす、という笑い声が耳の傍から聞こえてくる。フロントミラーには、デイビーの肩の辺りで小悪魔のような笑顔を浮かべたベルが写っている。彼女の笑顔に思わず緩む頬を引き締めながら、彼は言った。「そんなに俺のこと信用してもいい訳? もしかしたら俺、今実はプロデューサー宅にレディーを送り届けようとしてるかも知れないんだぜ」
 不意に真面目な口調でベルは言った。「別にいいのよ、そうしても。それは、あんたを信じたあたし自身の責任なんだから」
 そして、何がおかしいのか愉快そうな笑い声を挙げる。「あたしは、あんたを信じるわ」
 不機嫌そうな顔をして、デイビーは路肩に車を寄せ、停めた。ベルが妙に子供じみた表情で首を傾げる。デイビーは自分の肩の辺りに顎を乗せている彼女の方を向いて言った。「――過去は、すっかり忘れてしまうんじゃなかったのか?」
 鮮やかな眼で彼女の目を見詰めようとすると、ベルは少し目を反らした。やましいんだろう、と言おうと思ったが、彼女の言葉に先を越された。
 「幻影達の乱って知ってる?」考えていることの掴めない、明るい調子だった。面食らって、仕方なくデイビーは頷いて見せる。「……ああ、中国史で習った。前素乾王朝を滅ぼすきっかけになったって言う、あれだろ」
 「あれの目的が何だったか、知ってる?」畳み掛けるように、ベルは言った。今度は、デイビーは首を横に振る。「さあ、確かあれって今も原因が不明なんじゃなかったっけ」
 「原因じゃなくて、目的よ」切るようにベルは言う。
 デイビーは肩をすくめた。「王朝の略奪か何かじゃないのかい? 事実、首謀者の幻影達は一応皇帝位に就いたんだし」投げ遣りにそう言うと、突然彼はベルに顎を捕まれて顔を向けられた。不自然な姿勢に首が軋む。
 じっと目を見ながら、ベルは抑えた声で言った。「自分の未来を拓く為よ。どこまで行けるかわからない、ただそれを試してみたくて乱を起こしたの。国家の簒奪は二の次以下だったのよ、少なくともあの乱のもう一人の首謀者にとっては」
 「もう一人のって……」蛇に睨まれた蛙のように、デイビーは動くことが出来なくなった。空回りする言葉を何とか捕えてみる。「……渾沌?」
 身を乗り出していたベルが、ぼすんと座席に腰を下ろした。後ろでひっつめただけの髪の毛の生え際をがりがりと引っ掻く。銀色のメッシュから、また数本の後れ毛がふわふわと出た。
 「ご先祖様なのよ」発言する事実に対して、興味も関心もない調子でベルは言った。「あたしの、ご先祖様なの。アボジ(父)が言ってた」
 デイビーは、ようやく車のアクセルを踏み込んだ。ゆっくりと車は車道に流れ出す。「中華三奇人の一人か。あんまり意外性がないよ」ようやく顔が笑い方を思い出したらしい。ハンドルを切りながらミラーに向かってにやっと笑ったら、ベルも不穏な笑みを返してくれた。
 「でもさ」デイビーはもう一言付け加えた。「ベルって、コリアンって言うよりは、やっぱり『華僑』の方がはまってる気がする」
 隣を赤いスポーツカーが追い越して行き掛けたのを見て、デイビーは俄然張り切り出したようだった。ベルも横目でそれを見ると、そこではペアのサングラスを掛けた若いアベックがこちらを牽制していた。しばらく並んで走っていたが、突然デイビーはアクセルを踏み込んで、一気にスポーツカーを追い越した。
 「誉め言葉?」ベルは後ろの窓を全開にした。風が勢いよく吹き込み、黒髪がばさばさと乱される。窓の外は、海に面したハイウェイだった。何とかと言う有名なデートスポットだった気がする。おそらく、デイビーが寄り道しているのだろうが、そこまで目くじらを立てても仕方がない。
 車をますます加速させながら、デイビーは笑った。「もっちろん!」


 ――後に言う「八月大革命」勃発の瞬間だった。




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