モドル | ススム | モクジ

第一夜


 「ベル・グロリアス? 勿論知ってるさ。『W.D.』も毎週欠かさず観てるよ。俺、あの子のファンだもん。だって、毎週毎週チャレンジャーにすっげえエリート達が乗り込んで来るのに、誰一人彼女を言い負かせられんだぜ? かっこいいよ。おまけになかなか可愛いし。俺としては、ああいう子が大統領になったら楽しいんじゃないかって思うよ、本当に。今まで俺、黄色人って皆馬鹿だと思ってたけど、あの子のせいで認識変わったもんな。俺の婆ちゃんもそう言ってたぜ、あの頑固な婆ちゃんが! そういう奴って多いんじゃないかな。本当にあの子は凄いぜ! 
 ――今全米であの子を知らなかったら、確実に密入国者(モグリ)だね」




    第一夜


 毎週金曜日に放送される『W.D.(ウィークリー・ディベート)』は、深夜放送の時間枠にしては現在、破格の視聴率を誇っていた。今年の春あたりからじわじわと人気が上がり始めて、盛夏の今や社会現象とまで詠われるようになっている。
 その番組のレギュラーで、現在のブームの火付け役は一人の少女だった。持ち前の鋭い弁舌に加えて、東洋人だという以外の出自も経歴も何もかもが謎だというあたりが、人気に拍車を掛けている。華奢で小柄な体躯、象牙色の肌、鋭い眼差しとそれを覆い隠すようなあどけなさの残る顔立ち、常に黒ずくめの服装、そして長い黒髪に一筋入った銀色のメッシュ――ブラウン管越しに視聴者は、ベル・グロリアスの論述と、その東洋人特有の愛らしい容貌に魅入っていた。彼女に挑むゲストチャレンジャーは多いが、その中の誰一人が彼女を言い負かせることは出来なかった。ただ一人を除いては。
 「レディー・ベル、ちょっといい?」
 聞き慣れた声に呼び止められて、眉を歪めながらベルは背後を振り仰いだ。このやたらと通る明るい大声。間違いない、彼女の一番苦手な男である。
 不機嫌そうにベルは言った。「何、これから打ち合わせじゃないの?」
 彼女の癇癪に気を止めるでもなく、男はライトブラウンの目を細めて人好きのする顔で笑っていた。ハニーブロンドのくせ毛、無駄に高い身長、陽気そうな顔に眼鏡を掛けて何とか知的に見せ掛けているが、瞳の中にやんちゃな子供に共通する光を宿している。デイビットソン・A・ステュワート――通称デイビー、しかし彼こそが、ベルを負かせたことのあるただ一人の人物であった。
 デイビーは軽く首を傾げて見せた。「今日の撮影が終わったら、ちょっと俺に付き合ってくれないかな? 何、悪いようにはしないよ」
 素気無くベルは、会議室の方へと歩き出した。小柄な彼女は思いの他に早足だが、大股なデイビーはすぐに追い付いた。「返事は?」
 「デイビー、あんたどうしてそんなにあたしに付き纏うの」右手の資料書類でぱたぱたと自分の顔を仰ぎながら、ベルは横目でねめつけた。だが、当のデイビーはまるで意に介する気配がない。ネクタイを緩めてカッターシャツのボタンを開け、資料を使って服の中に風を送り込む。「はー、今日は暑いよなぁ」
 「聞いてるの?」ベルは左手の甲でデイビーの二の腕を軽く叩く。にこっと歯を見せてデイビーは言った。「俺の方がレディーより先に質問したんだよ」
 不機嫌そうに窓に目をやって、ベルは言った。「食事があるなら、共してあげても構わないわ。今夜の食費が浮くもの」
 「もっちろん」やたらと大きな声で、デイビーは言った。その声にベルは苛々する。「俺は、レディーに惚れたんだ。だからデートの約束を取り付けたくって仕方ないの。これがさっきの質問の返事だよ」
 ベルは軽く溜め息を吐いた。くるぶし近くまである黒いロングスカートの裾をひらひらさせながら、デイビーの倍近い早さで足を運ぶ。「あんた、惚れることが出来るほどあたしのことを知ってるの? 『W.D.』に出るようになるまで、あたしがどこで何やってたか知ってるの? 確証もなく惚れた惚れたなんて言うのは、かえって無責任だわ」
 「やっぱりレディーは東洋人だなぁ」大袈裟にデイビーは肩をすくめて見せた。むっとするベルの顔を見下ろしながら、突然真面目な口調になる。「俺達アメリカンは、こだわるほど長い過去を持ってないの。東亜諸国みたいな何千年って歴史は持ってないんだ。いいところ百年かそこら。だから、過去にはこだわらない主義なんだよ。アメリカンのふりをするなら、そこら辺を徹底してたらいいよ」
 つん、とベルはそっぽを向いた。強い瞳の先には、強化ガラスの大きな窓。そしてその外には、玩具のように小さく整った大都会が広がっている。同じ高さを飛ぶ鳥すらいない摩天楼、それが今の仕事場だった。
 ふと足を止めたベルに従って、デイビーも立ち止まった。窓の外のどこか遠くを見詰める彼女は、討論を交わすときとは別人のような表情をしている。時折見せるその表情が、全く不明な彼女の経歴と繋がっていることくらいデイビーにはわかっていたが、敢えて詮索するつもりはなかった。――詮索しようと思えば伝手はないでもなかったが、昔からカンニングだけは自尊心が許さないのだ。いずれベル本人が語るまで、いつまででも待つつもりだった。
 (東の最果てか……)窓の遥か先に、銀色に光る小さな海が見えた。海を越えると、そこにはデイビーの曽祖父の祖国ブリテン、そしてヨーロッパがある。その更に先にあるのは、彼もまだ見ぬ世界――東洋。
 「参考にするわ」唐突にベルが口を開いたので、デイビーはきょとん、と面食らった。彼女は微笑む、いつもの不敵な表情で。「過去にはこだわらないようにする。丁度いいわ、これですっかり忘れてしまえばいいのね」
 デイビーは、にっと笑って右手の親指をぐっと立てた。


 「サーディン、どうかしたの?」情報雑誌を繰っていた少年は、突然後ろから自分の首に腕を掛けられて、危うく椅子ごと後ろに倒れるところだった。慌てて腕で宙を掻き、体勢を立て直す。「ローズ。危ないじゃないか!」
 サーディン・アラウンドが後ろを向くと、そこには彼と同じ顔が怪訝そうな表情をしていた。いや、全く同じという訳でもない。髪の長さも顔立ちもそっくりだが、背後に立っている方は、あまり濃い訳でもないが若い割には派手な化粧をしている。真紅のチャイナドレス姿の腰に手を当てて、ローズ・アラウンドはさばさばと言った。「いや、あんまり深刻な顔してたんだもん。何か気になる記事でもあったのかと思って」
 サーディンは少しだけ困ったような顔になる。「ああ、うん、まあ」
 「どうしたの、デイビーが汚職で捕まったとか?」と言いながら、ローズはサーディンの手から雑誌を奪い取った。「あぁ、あいつなら汚職じゃなくって隠し子発覚の方があり得るか」
 「昨日ここに来たあいつが、何で今日発行の雑誌の記事では逮捕されてるのさ」ぼそぼそと言いながら、サーディンはカウンターに並んだグラスとクロスに手を伸ばした。そしてきゅ、きゅと音を立ててグラスを磨く。「そのページの右隅。あの国の記事だよ」
 「あら」急にローズは不機嫌な顔をする。「本当。……何よ、またあの馬鹿オヤジが女に現を抜かしてるだけじゃないの。毎度のことじゃない」
 「今度のは重症らしいよ。何でも総統が官邸にこもりっぱなしで閣議に出てこないもんだから、色々やばいことになってるらしい」サーディンは無表情な声で言う。
 雑誌の前後のページを繰りながら、ローズは椅子に腰掛けて足を組んだ。スリットからすらりとした脚線が覗く。「別に、何も仕事してた訳じゃないから問題はないんじゃないの? むしろ邪魔者がいなくってよかったりして」
 サーディンはグラスを置きながら顔を起こして、世界で一番自分とよく似た顔を見詰めた。「象徴なんだよ、総統ってのは。別にあの色ボケオヤジが国を動かしてるんじゃなくても、韓半民国っていう名前の――ああ、南北統一されたから全韓共和国ってなったんだっけ――一つの国家には、必ず代表ってのがいるんだよ。ぴったりじゃないか。あんな滅茶苦茶な国の代表が、滅茶苦茶な親父だっていうの。皮肉が効いててかえって楽しいよ」
 そして再び丸いウイスキーグラスに手を伸ばす。窓から入る光がグラスの中で屈折して、きらきらとカウンターテーブルに明るい影を落とす。
 ローズは興味を失ったように、雑誌をテーブルの上に投げるように載せた。「今はあたし達にとって笑い事だけどね」そして、色鮮やかな見出し文字の踊る雑誌の表紙にちらりと目を注いだ。「さっきの記事の女が、傾国だといいのに」
 「傾国の美女が現れなくても、あの国はいずれ潰れるよ」さらりと言いながら、サーディンはローズの耳元に口を近付けた。「ところで、誰も聞かれてやばい人間がいないなら、構わないんじゃない? ……タイホア」
 彼女は軽く微笑んで、双子の弟に頷いて見せた。


 打ち合わせはいつものことだが、退屈極まりないものだった。明日収録の番組で討論される議題と、ゲストの簡単なプロフィール、そして日に日に増えていく番組の――ひいてはベルのスポンサーが紹介され、彼女の発言に対する幾らかの留意事項が伝えられた。この国には、何故か放送禁止用語が異様に多いのだ。
 ジャッジを務めるデイビーは、退屈そうに欠伸をしながらプロデューサーの言葉に適当な相槌を打っている。今回の番組では、彼はいよいよ出番がない。一応討論の勝敗を見極める為のジャッジを務めているのだが、いつもベルは最後には、相手をぐうの音も出ないほどに叩きのめしてしまう。あまりに勝敗がはっきりとし過ぎていて、判定を出す必要がないのだった。その為もあって、デイビーにもプロデューサーにも打ち合わせに力がこもっていない。
 今回のゲストは、ネグロイド系の男子大学生だった。ベルの小柄な姿をじろじろと見ては、彼女に対して闘争心剥き出しの睨むような視線を投げる。大抵の挑戦者がこれだ、と思いつつ小さな溜め息を吐いたベルは、じろりと彼を見た。慌てて学生は目を背ける。
 (そう言えば)ふとベルは思った。(デイビーだけね、この国であたしを睨まなかった奴は)
 数枚の追加資料を受け取って、ベルは会議室から出た。数人のスタッフが移動した机を元に戻しているが、残りはぞろぞろとドアから流れ出してくる。その中でも一際背の高いブロンドが、手を頭上に振り上げながら出て来た。
 「レディー・ベル、ひどいよ。俺のこと置いていくなんて」言いながらデイビーは笑う。いつ見ても笑っている男だ、と思いながらベルは窓際で足を止めた。小走りにデイビーは追い付く。
 いちいち相手にするのも面倒だと思いつつ、ベルは何故かこの男にいつも構ってしまう。「何であたしがあんたを待たなきゃいけないの」
 「レディーはこれから俺とデートだから。それ以外に何かある?」抜け抜けとデイビーは言う。そしてちらりと左腕の時計を見た。「ディナーにはまだ早いな。ちょっとだけ付き合って欲しい場所があるんだけど、いい?」
 取り立てて予定があるわけでもないし、食事を御馳走してもらうということに免じて、ベルは同意することにした。「別に構わないけど」
 デイビーは子供のような笑顔を見せた。そんな表情を見るたびに、ベルはどこか腹立たしいような哀しいような気持ちになる。


 デイビーに連れられてビルの玄関から外に出ると、むっとする熱気に包まれた。全身に絡み付くような暑さに顔をしかめて視線を上げると、そこには黒い大型の高級車が止めてあった。車の脇に立っていた制服姿の運転手は、デイビーの姿を確認するや否や後部座席の扉をがちゃり、と開く。
 目を大きく見開いて驚くベルに、屈託なくデイビーは言う。「レディー、どうぞこちらにお乗り下さいな」
 「これ……」ベルは瞬きしながら尋ねた。「あんたの車?」
 ポケットから小銭を取り出して、頭を下げている運転手の手に握らせながら彼は言った。「そうだよ。運転手は親父のだけど」
 溜め息混じりにベルは呟いた。「改めて思うわ。あんたんちって、金持ちなのね」
 そしてやや躊躇いながら、車内に身を滑り込ませる。三人がゆとり一杯に座れそうな座席の奥に詰めると、デイビーが洗練された身のこなしで隣に乗り込んで来た。ばたん、と扉が閉められて、運転手が目の前の運転席に乗り込んで来ると、すぐに車は動き出した。車内は、当然のように空調が効いていて快適だった。
 ほとんど振動のない車だ、と思いながらデイビーの横顔を見ると、彼は相変わらず緊張感のない微笑を浮かべて足を組んでいた。
 「ところで、どこに連れて行くつもり?」ベルが尋ねると、くせ毛を揺らしてデイビーは顔を見せた。「いいところ。いいからいいから黙ってついて来て」
 ベルはそれでも何か言おうとしたが、フロントミラーに映る運転手の目にぎょっとして押し黙った。これまでもこの国に来てから幾度となく経験した、蔑むような鋭い眼差し――差別されているのだ、この年配の男にも。
 薄々勘付いてはいた。この国の、特に北部ではアジア系の人間は国籍に関係なく差別されている。さすがに突然警察に撃ち殺されるといったような国を上げての野蛮な迫害は行なわれていないが、それでも人々の、肌の黄色い人間を見る目は冷たい。ベルも何度か「イエロー・ラット」「イエロー・モンキー」と罵られたものだった。だが、理由はよくわからない。戦時中に激しい対立をした大東亜共和国に対するしこりが未だに続いているのかとも思ったが、そもそも国内の大東亜国籍の人間――大和人は極めて少ない。大半はその他の東アジア出身者、もしくはネイティブアメリカン(インディアン)である。原因の究明を成し遂げない内に、ベルは有名になってしまった。必然的に同じ黄色人種でも、人々のベルを見る目は変わって来る。結局、この国で行なわれているアジア人の差別の由来は、わからずじまいであった。
 「あ、もうじき着くよ」デイビーは明るく言った。ふとベルはその瞳をまじまじと見詰める。屈託のない無邪気な明るい色をしている。彼の他にもう一人、明るい淡い髪の色を持つ男をベルは知っていたが、その彼は暗い色の瞳をしていた。灰色みのかった深い紫色――あの髪の色を持つ人間は他にも何度か見掛けたが、静かに燻る憎しみの色は、他の何をもってしても表現し切れなかった。ぼんやりとそう考えていたら、突然デイビーはベルの方をくるりと向いた。一瞬目が合ってしまい、ベルはぎょっとする。
 「どうしたの? 俺ってそんなにいい男?」おどけてデイビーはくせ毛の頭を掻き回す。思わずくすっと笑い、ベルは言った。「馬鹿言ってんじゃないわよ」
 次の言葉を繋げようと思った瞬間、静かに車は止まった。言葉を飲み込んで首を左右に見回していると、運転手の男は運転席から降りて、後部座席のドアをがちゃりと開いた。デイビーがさっと降車し、手助けしようとベルに手を伸ばす。その掌をぱちんと叩いて、ベルも耐熱レンガの地面に足を下ろした。
 ふと鬱陶しい熱気で顔を起こすと、そこはいかにも高級そうなブティックビルだった。ショー・ウインドゥには色とりどりのドレスが涼しげに飾られている。
 状況が飲み込めないできょとんとしているベルに、デイビーは言った。「さて、それではディナーの準備を始めましょうか、レディー・ベル・グロリアス」


 広い店内には至るところに、ドレスを纏ったマネキン人形と地味だが品の良いスーツ姿のマヌカンが立っていた。背の高いマヌカン達は、回転ドアを押し開けて入って来るデイビーとベルに気付くと、足音も立てずに近寄って来た。不慣れな場所にぎょっとするベルを尻目に、デイビーは一番年嵩と思しきマヌカンに話し掛ける。「この子をこれからディナーに連れて行きたいんだ」
 それだけでこのマヌカンは了解したらしく、上品な仕草で頷いた。そして二人を奥へと促す。ほとんど引きずられるようにして、ベルはデイビーと共にマヌカンの後を追った。
 椅子を出されたので取り敢えず腰掛けると、今度はマヌカンがドレスを片っ端から持って来る。それに一々デイビーはコメントを出し、次のを持って来させる。気に入った物があると、それはすぐ脇のバーに駆けさせておく。最終的に、十着前後の色とりどりのドレスが並んだ。
 「さあレディー、どれがいい」ようやくデイビーはベルに尋ねた。欠伸をし掛けていたベルは慌てて口を押さえる。「は?」
 子供が何かを期待するような笑顔で、デイビーは言った。「どのドレスがお好みかって訊いたんだ。どれでもいいから、一つ選んで」
 マヌカンに背を押されてドレスの前に立ったベルは、僅かに眉をひそめる。椅子に足を組んだまま、デイビーは言った。「俺としては、そのブルーのなんかが爽やかでいいかと思うんだけど」目をやると、やや緑みのかったような明るい青のドレスがある。生憎、ベルはその色が好きではなかった。
 「血が付くと、真っ黒になるわ」吐き捨てるようにベルは言った。それすらデイビーは笑って受け流す。「それじゃぁ、ホワイトは? 三着あるだろ」
 ベルは更に不機嫌な顔をした。そしてざっと一通りのドレスに目をくれると、隣に立っていた背の高いマヌカンに言う。「ブラックはない? 喪服みたいなのがいいわ」視野の端でデイビーが肩をすくめるのが見えた。
 「よろしいのですか?」マヌカンがそうデイビーに尋ねると、彼は屈託のないいつもの調子で言った。「いいよ、彼女の好みに任せたらいい」
 マヌカンが要望のドレスを探しに行ったのを見て、デイビーは言う。「ちぇ、せっかくレディーの色物ドレス姿が見られると思ったのに」
 「ご生憎様でした」ベルは軽く舌を出す。「そうそうあんたの思うつぼにはまって堪るものですか」
 そう言っている内に、マヌカン達が五着ほどの漆黒のドレスを持って来た。どれでもいいと言った風情のベルに、デイビーが口を挟む。「露出度の高いのにしてよ。色っぽいのが俺は嬉しい」
 「一番露出度の低いのはどれ?」ベルが無愛想にそう言うと、遂に堪えきれなくなった一番年嵩のマヌカンが一着の漆黒のドレスを突き出した。「お客様にはこれが一番似合います! つまらない意地の張り合いは止めて下さい!」
 その剣幕に押されて、ベルもデイビーも同意せざるを得なかった。


 「『ちょっとだけ付き合って欲しい』って、さっきあんた言わなかったっけ?」長い黒髪を美容師に纏め上げられながら、ベルは苛々と言った。ドレスの丈とウエストを直してもらう間に、メイクとヘアメイクを済ませる予定らしい。デイビーは素知らぬ顔でそれを受け流す。「うん。まだ二時間も経ってはいないだろ?」
 頭を動かせないので目だけでベルはデイビーを睨む。「さすがはアメリカンね。お国も大きかったら人間まで大雑把」
 腕を組んで、為すがままにされているベルを満足げに眺めながらデイビーは声を上げて笑った。「それじゃ、ベルは『華僑』でだけは有り得ないんだ。いちいち細かいことを気にしてたら、早く歳を取っちゃうよ。俺としては、年の差が縮まるのは嬉しい限りだけど」
 ふと、そう言った一瞬ベルの表情が曇った気がした。図星だったのかもしれないと、デイビーが慌てて取り繕う言葉を捜す。それを横目で見ながら今度はベルが笑い声を上げる。「別に歳を取っても、老けなかったら問題ないのよ」
 「喋らないでくれます?」不機嫌そうに美容師が言った。「あまり口が動いてると、髪を扱いにくいの」
 「失礼」それだけ言うと、ベルは口を閉ざした。
 彼女のまだどことなく幼い横顔を見ながら、デイビーはふとベルと初めて会ったときのことを思い出した。綺麗な象牙色の面に、あの日の荒んだ表情が重なる。
 今でこそとんでもない高視聴率番組の『W.D.』ではあるが、デイビーがしばしばレギュラーとして――今のベルの立場として――出演していた時期は、ごく普通の深夜番組程度の知名度しかなかった。当然ゲストもなかなか集まるはずがなく、番組制作に当たっていたデイビーの友人の一人は常に頭を抱えていた。彼自身、その友人に頼み込まれてやむを得ず出演しているような有様だった。
 それで、デイビーとその友人はよく休日になるとセントラルパーク辺りに繰り出していた。ここでは、いつもどこかしらの大学の学生達が自分達の演説を喚いているのだ。そこで討論が起こることもしばしばなので、ものになりそうな学生に声をかけて、ゲストとして募っていた。大概の学生は、それを名誉なことと受けとってすんなり承諾してくれる。
 その日も、彼らは向こう一月分くらいのゲストを探しにセントラルパークにやって来ていた。公園の中央の芝生に人だかりが出来ており、そこで数人の学生が各々の主張をぶつけ合っていた。
 「何か、俺達の学生時代を思い出すな」懐かしそうに友人が言った。
 「俺の方が、もっと論述は上手かった」得意げにデイビーは答えた。実際、その日の論述者にはさほど際立って上手いのがいなかった。取り囲んで見物している中年の女性に説明を求められて、しどろもどろになっている学生もいる。その中では、最後に資本主義批判の意見を発表した学生が比較的よかった。仲間へのフォローも上手いし、説明も主張も明確でわかり易い。
 「あのアイルランド訛の奴にしようか」そう友人が言ったとき、デイビーは全く別のものに気を引かれていた。
 向こうの手洗い場で、生水をごくごくと飲んでいる少女がいたのだ。長い黒髪は頭の上で大きなシニヨンに結い上げているが、ひどく乱れている。服装もひどい有様で、色の剥げた紺色の長いワンピースの腰に、おそらく地色は白だったと思われる薄汚れたセーターを巻いていた。傍を通り掛かる人々が露骨に嫌な顔をする。――被差別民である、アジア系の少女だった。
 彼女はしばらくの間水道に口を付けていたが、突然顔を上げてこちらに向けた。じっと眺めていたデイビーと視線がぶつかる。きつく強い目をしていた。そしてその瞳以上に目を引くのが、振り乱した黒髪に入った一筋の銀色のメッシュだった。
 どこかで逢ったことがあるような気がした。モンゴロイドのガールフレンドは今までにも何人かいたけれど、彼女達とは全く異質の、懐かしいような心騒ぐような奇妙な感覚を彼女は与えていた。思わず気を呑まれたデイビーが、ふと我に帰り微笑みかけると、彼女は怪訝な顔をした。そして驚いたことに、しっかりとした足取りで近付いてくるのだ。
 デイビーが面食らったまま眺めていると、少女は彼の前を素通りして、演説台のすぐ前で立ち止まった。演説台に立っていたのは、あのアイルランド訛の学生。
 「あんたは間違ってる」少女は、片言の英語でそう叫んだ。
 思わず、その場の全員がその少女に目を注いだ。
 友人が隣で嘲笑を含んだ声で囁く。「無謀なお嬢ちゃんだ。あの学生、相当に切れるぞ。ほら、早速反論に出た」
 例の学生は、なるほど矢継ぎ早に自分の意見の正当性を主張し始めた。それを見て、デイビーはくすくすと笑う。「お前の目も節穴だな。賭けるか? あのアジア娘の方が、遥かに役者は上だぜ」
 学生は、延々自分の主張を続けた。そしてそれがやっと途切れたかと思うと、その少女は自分の頭をがりがりと無造作に掻き、にやっと不敵な笑みを浮かべた。やつれた顔ではあったが、その分物凄い迫力を含む。彼女は、さっき学生が使った論法と単語を丸ごと使った反論意見を、学生の半分の時間に纏めて述べた。
 僅かに学生はたじろいだようだったが、それでもすぐに気を取り直して別の観点からの意見を練り直し、少女の意見の穴を突いた。また長い主張が続く。
 少女は頷きながらそれを聞く。そして、じっくりと意見が途切れるのを待つと、再び巧妙に学生の言葉を取り込んだ弁舌を始めた。始めのときよりも、格段に発音もボキャビルも良くなって来ている。
 驚いたような調子で、友人は言った。「あの子、凄い声してるな。舞台役者みたいな発声だ。あ、でもあの子もアイルランド訛なのか」
 「何の」デイビーは明るい瞳を瞬かせながら言った。「多分あの子、使ってる言葉の大半はあいつの主張で初めて聞いたんだろうよ。どころか、文法も今初めて知ったのばかりなんじゃないか?」ますます驚いた顔で友人はデイビーを見る。デイビーは、軽く右手の親指で少女を指した。「相手の使った言葉しか使ってないだろ。反対に相手が使った言葉なら、余すことなく使いこなしてる。おまけに、どうやら発音まであいつの真似をしてると見た。……ずっと学生に先攻を譲ってるのは何故だ? 後攻じゃないと英語がわからないんだろうよ」
 「まさか」友人は信じられないといった表情を見せる。「そんな天才がいるはずない」デイビーは得意げに口元を歪めて笑う。「そのまさかだよ。あの子は本物の天才だ。スポンジが水を吸うみたいに、一気に言葉を吸収している」
 回りの人々が、段々息を飲まれていくのが面白いようにわかる。学生が何か一言出す度に、少女はそっくり同じ言葉で反撃する。しかも、彼女の意見の方が圧倒的に優勢なのだ。言葉を覚えていくのが面白くて堪らないといった風情の少女と対照的に、学生の顔には次第に焦りが濃くなってゆく。彼の主張は徐々に短くなってゆくが、少女の主張の長さは変わらないので、ローテーションは短くなる一方である。
 「そろそろ王手を掛けて来るな」デイビーが呟くと同時に、少女は一息に双方の意見を簡潔に纏めた。そして最後に一言厳しく言い放つ。
 「だから、あんたは間違ってる」
 ギャラリーから、拍手が湧き起こった。


 ローズ・アラウンド――本名、周 大花(チャン・タイホア)は、カウンターに並んだ足の長い椅子に乗ってくるくると回りながら、気だるそうに言った。「デイビーは上手くやってるかしら」
 「さあ。幾らあいつが女性の扱いに自信があっても、相手があれだとさすがに苦戦を強いられるんじゃない?」何本か洋酒のボトルを棚から引き出して、ラベルをメモに書き写しながら双子の弟は答えた。まだまだ少年っぽさの色濃く残る、サーディン・アラウンドもとい周 小魚(チャン・シャオユウ)は、常にくるくると働いている印象を見る者に与える。事実、彼は雑誌と新聞を読むとき以外は本当にじっとしていないのだ。ちなみに、姉の大花にとって彼の仕事の半分くらいは意味がわからないことである。
 「せっかくあたし達が知識を提供してやったんだから、それなりにやってくれないと腹が立つわね」カウンターに並んだ渋い色合いのボトルを眺めながら、彼女はいつもの調子で言った。メモ帳の何枚か前をボトルと照らし合わせて確認し、小魚はようやく顔を上げた。「俺としては、是非ともあの二人にはいい雰囲気になって欲しいけど。特に、デイビーには恩もあることだしね」
 「貸しって言うんじゃない?」くすくすと口の中で笑いながら大花は言う。「まあ、感謝してはいるけどね。精神的に裕福なのよ、あいつは」
 この国に来たばかりの頃は、本当に辛かったと今でも思う。おそらく一生かかっても、いい思い出と呼ぶことは出来ないと二人とも信じている。
 ある日突然、何の前触れもなく国を追われた。いや、前触れそのものは既に彼らが生まれる遥か昔に示されていたのかもしれないが、少なくとも彼等は知らなかった。目の前で次々と人が死んで行き、共に逃げようと誓った仲間も二人犠牲になった。他の人間をこの国に導くはずだった航空チケットで何とかここへと辿り着いたときは、心身共にぼろぼろだった。
 鎖国を敷いていた祖国は、他国では常識であるはずの英語教育を行なっていなかった。かつて上海にいたことのある母の影響で、双子は辛うじてわずかな言葉を知っていたが、それでも思うように言葉の通じない口惜しさを味わった。実はもう一人、共にこの国にやって来た仲間がいたが、彼女はいよいよ言葉がわからなかった。突然保護者もいない、言葉も通じない異国で暮らすのは、それこそ血を吐くような思いだった。騙して、騙されて。この国は、東の果てからやって来た十七歳の孤児達には余りにも厳しかった。
 だから、三人で寝起きしていた道端に仲間の一人が彼――デイビットソン・A・ステュワートを連れて来たとき、双子は彼を全身で疑って掛かった。
 デイビーは、仲間の少女をいたく気に入って、自分が出演している番組に出演してもらいたいという旨を言った。加えて、個人的に三人の生活の保証をするという約束を結んだ。どうせ今更なくすものは何もないと諦めていた三人は、騙されていることを百も承知で口車に乗ることにした。まだ若い饒舌なこの男の言うことは、事実全てを信用するにはあまりに旨過ぎる内容ではあった。――この国での戸籍の獲得、住むところと当面の生活費の保証、安全な仕事先の確保。希望があれば学校にも入れてやるとも言ったが、三人ともそれは断った。
 それから既に半年近く経つ。今、三人はデイビーに金銭的な援助を受ける必要がなくなっている。彼は、中流と呼ぶには多少良すぎる感のあるマンションと、小さいが感じのいい店を一軒用意して来た。国元の母がバーを営業していて、幼い頃から手伝って来たと言う双子の為である。既に営業の許可は、ローズ・アラウンド――デイビーが『買って来た』という戸籍によると、大花はそういう名前になっていた――の名義で降りていた。店の正式な所有者はサーディン・アラウンド、つまりこの国の小魚である。彼等の利益に対して、何も口出しいないというデイビーの気持ちの具現であった。
 一度、小魚はデイビーに何故ここまで自分達の面倒を見てくれるのかと尋ねたことがあった。困っているなら助けるが、上手く行っているなら余計な口出しはしないなんて。俺達は助かるけど、そんなことを見ず知らずの少年達に施してお前には何か益があるのか、と。
 デイビーは、頭をくしゃくしゃと掻き混ぜながら苦笑混じりにこう言った。
 「だって、一度でも顔見たことのある奴が野垂れ死んだって聞いたら、誰だって気分悪いだろ。まぁ、俺が保証するよ。お前達に俺と同じくらいの金があって、目の前に飢え死にしそうなネイティブ・アメリカンがいたら、確実にお前達はそいつを助けるってな。――もしかしたら、ベルだけは見捨てるかもしれないけど」
 仲間の少女は、デイビーに名を尋ねられたとき迷わず「ベル・グロリアス」と名乗ったと言う。以来彼女は、この国ではずっとその名で通している。「華やかな鈴」という名の意味するところを知るのは、当のベル本人と、彼女と同郷の双子だけだった。
 ベルと大花は共に、激しい気性の持ち主だった。だが、どことなく冷徹な印象のベルと情熱的な大花では、やはり相容れないものがあったらしい。しばらくは三人でマンションに共同生活を営んでいたが、一月も経たない内にベルは近所に格安のアパートを見付けて一人で出て行った。双子も、特には引き止めなかった。
 だが、決してベルと双子は嫌い合っている訳ではない。その証拠に、しばしばベルは双子の店を訪れるのだ。――背後にデイビーをくっ付けて。
 小魚は壁に掛けた時計を見上げた。アナログの壁時計はじきに、午後六時の直線を描こうとするところである。「そろそろ、お店を開けようか」
 大花は頷いて、店内の客席の電気と外の小さなネオン看板のスイッチを入れた。外にぽう、と白い文字の灯かりが浮かび上がる。
 『TWIN』――デイビーが命名した、この店の名前だった。


 この上なく不機嫌な顔をしたベルを眺めながら、デイビーはこの上なく上機嫌だった。ベルは、銀色のメッシュが入った長い黒髪を夜会風に結い上げられ、薄く化粧を施された顔でむっつりと黙っている。黒の大人びたデザインのカクテルドレスは大きく肩が空いており、小柄なベルを更に華奢に見せている。柔らかいドレープを描くロングスカートの裾には、黒地に薔薇の模様のレースがあしらわれており、おそらく生地は全てシルクだろう。ふわりと透けるショールを肩から羽織り、肘上までの手袋をはめたその姿は、まるでどこいらの令嬢だった。その分、不機嫌な顔が際立って見える。
 方やデイビーは、完成したベルの艶姿をまじまじと眺めたかと思うと、突然「やっぱ俺も新しいのにするわ」と言い出し、何と自分まで彼女のドレスに合わせたタキシードに新調したのだ。子供が駄菓子を選ぶように自分の盛装を選び、にこにこしながら懐から取り出したカード一枚で支払いを済ませてしまったのを見ると、ベルは呆れるのを通り越して感心してしまった。
 「何を怒ってるんだい?」能天気にデイビーは尋ねた。だだっ広い車内も、ここまで着飾っていると丁度良く感じられてしまう。図体の大きなデイビーが動き回っても窮屈に感じられない。彼はベルの顔を覗き込んだ。「せっかくの美人にしたのに、そんな顔してると台無しだぞ。ほら、笑って笑って」
 デイビーの緊張感のない笑顔から目を反らしながら、ベルは溜め息混じりに呟いた。「この放蕩息子。一体何千ドル使ったのよ」
 「さあ。カードだからわかんないや」何がおかしいのか彼は声を上げて笑う。そして、更に不機嫌になったらしいベルを見て、慌てて言葉を探す。「そう言えば、レディー・ベルって物凄い倹約家なんだよな。いっつも着てる黒い服、スポンサーからの提供なんだって聞いたよ。アパートも格安だし、誘われたらどんなに嫌な奴でも食事に着いて行くって言うし。そんなに金を貯め込んで、何するつもりなんだい?」
 しばらくベルは黙っていたが、いつもの皮肉混じりの調子を取り戻して彼女は言った。「あたしがあんたほど裕福だったら、間違っても今日の誘いには乗らなかったわよ」そして額に手をやる。討論中によく見せる、彼女の癖だった。銀色のメッシュの根元をがりがりと掻くので、せっかく綺麗に纏められた髪に後れ毛が出てしまった。「――欲しいものがあるの。どうしても欲しいんだけど、すっごくお金が掛かるの。だから、稼ぎがいいときに貯めているだけの話よ」
 「何が欲しいんだい? プレゼントするよ」嬉しそうにデイビーは身を乗り出して来た。薄暗くなって来た街の明かりが、彼のブロンドに溶け込む。ようやく、ベルは笑って見せた。愛想笑いのような、嘲笑のような表情だが、デイビーにとってそれは、泣き顔や怒り顔よりもずっと嬉しかった。
 そんな彼を嘲るようにベルは言う。「無理よ。あんたは取引現場にさえ入れてもらえないわ。あたしは自分の力で手に入れるの。それには莫大な資金が必要なの」
 「収入が支出を上回ったら、必然的に金ってのは貯まるもんだよ」あっけらかんとデイビーは言った。「そんなにかりかりしなくっても。何なら、金だけ俺が出してやるって手もある訳だし。一体、本当に何が欲しいの? 言ってみなよ」
 困惑するデイビーを横目で見ながら、ベルは愉快そうにくすくすと笑った。「とっても無意味なものよ。汚くて、生臭くて、危険なの。だから、あたしが買い取ってあげるのよ」
 そのときのデイビーには、ベルの言葉が意味するところを何一つとしてわからなかった。だが、彼の主義として、一先ずは深く追究しないでおくことにした。
 (まあ、レディーがヤバくなったら、俺が守ればいいんだし)


 黒塗りの高級車は、有名な高級ホテルのエントランスに鳥が舞い降りるような動きで停車した。先に車から降りたデイビーは「エスコート致します、レディー」と手を差し伸べたが、ベルはその掌をぱしんと軽く叩いた。眉間を寄せて笑いながら、仕方なくデイビーはベルの先導をする。どうやらこのホテルは彼の行き付けらしく、彼はドアマンの中年男性に気安げに声を掛けながら中に入った。振り返ると、車はどこかへ走り出している。おそらく適当な時刻に迎えに来るよう言い付けられているのだろう。
 巨大なシャンデリアが煌々と輝くロビーを突っ切って、小さな一間ほどの広さがあるエレベーターに乗り込み、ようやくデイビーとベルは地上二十四階のレストランに到着した。
 「食事に有り付くまで、こんなに苦労したのは初めてよ」ウエイターに案内された窓際の席に座るや否や、ベルはげんなりとそう言った。頬杖を突きベルの顔を覗き込みながら、嬉しそうにデイビーは言う。「食事に有り付くまで、こんなにわくわくしたのは初めてだ」
 そして、いつものようにベルに溜め息を吐かれて喜んでいる。「T.P.Oって言葉があるだろ? 一応それなりの格好を付けてないと、ここって金があっても入れてくれないんだよ」
 「それじゃ、盛装してたら『イエロー・ラット』でも入れてくれるんだ」思い切り皮肉を込めてベルが言うと、デイビーはぐるりと周囲を見渡した。「多分レディーだったら『ホワイト・オンリー』のレストランでも入れると思うけど、もしも何かトラブルが起こって気分を害されたくはなかったからね。別にレディーに問題はなくっても、例えばネイティブとかが入店拒否されてる図なんて、絶対にレディーに見せたい代物じゃないし」
 ベルもつられて店内を見渡した。確かに白人の割合は大きいが、向こうのテーブルには鳥の羽根で出来た大きなピアスをしている、ネイティブアメリカンと思しき女性が肌の黒い男性と食事をしていたし、別のテーブルには大東亜の民族衣装姿の家族連れもいた。なるほど、その為か上品な店内の割に、息苦しい固さがなかった。洗練された身のこなしで被差別民族をもてなすウエイターの姿にも、ベルは好感を覚える。デイビーらしい、感じのいい店を選んだものだ。
 きょろきょろとベルが店内を見ていると、すぐにウエイターがワインを持ってやって来た。そして、テーブルの上に置かれた二つのグラスに薔薇色のワインを静かに注ぐ。どうやらワインまで、デイビーがかねて用意の物らしい。
 ウエイターが背を向けると、デイビーはグラスの脚を摘んで持ち上げた。そしてベルの顔の前にかざす。「乾杯しよ、乾杯」
 子供のような顔だ、と思いながらベルはデイビーにならった。腕を伸ばしてデイビーはベルのグラスに自分のグラスを当てる。キィン、と澄んだ音が響いた。
 デイビーは眼鏡の奥の目を細める。急に歳相応の表情になり、ベルは途惑った。
 「ハッピー・バースデイ、レディー・ベル」グラスに口を付ける前に、デイビーはそう言った。思わずベルは、グラスを取り落としそうになりかける。
 「あんた、知ってたの!?」
 デイビーは、笑ったままグラスを一気に傾けた。


 「今日は、『W.D.』ペアは来ないのかい?」カウンターで、常連客のバーグナーがそう言った。隣のジャクソンが相槌を打つ。「ちぇ、せっかくMs.グロリアスに会えると思ってたのに」
 「ちょっと、あたしじゃ駄目って言うの!?」腰に手を当てて、ホステスのローズが目を吊り上げる。「あんな気の利かない奴のどこがいいのよ。あたしの方がずっと愛想もいいし、可愛げもあるじゃない。まったく、あんた達ってば女を見る目がないんだから」
 客に向かってそこまで憎まれ口を叩くホステスに、二人は一斉に笑い出した。カウンターの向こうのサーディンが、困惑した表情を作る。「ローズ、お客様に向かってそんなこと……」
 「ああ、いいよいいよ。客と言っても我々なんだから」バーグナーが笑顔でフォローをする。「ローズのそういうところが可愛いんだよ」
 「ありがと、おじ様。嬉しい」ローズはバーグナーに娘のように飛び付いた。「あー、いいなー。ローズ、俺にもべたべたして頂戴」そう言うジャクソンに向かって、ローズは軽く舌を見せる。「やだもーん」
 幼い頃から母の店に出入りしていたので、特にローズは客のあしらいが上手い。やれやれ、とサーディンはまたグラスを磨き出した。
 今店内にいる客はこの二人である。年嵩のバーグナーは開店当初からの常連で、よく仲間を連れて飲みに来てくれる。一応一流に分類できる出版会社で管理職を務めるバーグナーに代表されるように『TWIN』の客は、大抵品が良くて金銭的にも恵まれている。客を片っ端から紹介して来るデイビーの恩恵ではあるが、洗練された雰囲気を維持し続けている若きマスター、サーディン――小魚の力も大きい。土地が決して一等地でないことは、この建物が中古物件だったことからも伺えるが、それを外内面共に磨き上げ、未成年の二人が経営しているとは到底思えない質の店にして経営している。客の出入りもさほど激しくなく、むしろ落ち付いた雰囲気すら醸し出していた。
 「ジャクソンは、ベルの方がいいんでしょう」拗ねたようにローズは言う。その横顔を見ながら、ジャクソンは苦笑した。「いや、そういう訳じゃないけど、やっぱり気になるじゃないか。『W.D.』の天才少女の実態ってさ。俺だってジャーナリストの端くれなんだから、そういったのに興味がある訳だよ」
 「ふーん、パパラッチのくせに」ジャクソンの空のウイスキー・グラスの縁を持ち、ローズはサーディンに向かってかざした。「サーディン、お代わり」「おいおい」サーディンは困ったように笑う。「すみません。今日はベルの誕生日なんで、あの二人はデートなんですよ」
 ほう、と二人の客は声を揃えた。バーグナーが肩に纏わり付くローズの頭をぽんぽんと撫でながら言った。「それはおめでたい。サーディン、何かいいワインがあるかい? 一本皆に振る舞おう」
 「ありがとうございます」グラスをことんと置いて、サーディンは奥の棚に向かった。普段ならワインは入れていないが、二次会でベルとデイビーが来たときの為に、今日はベルお気に入りの銘柄を数本用意していた。その内の一本を開けようとコルク抜きを探す。
 ジャクソンがふと、ブリーフケースをごそごそと言わせ始めた。「そう言えば、今日は面白い物を持って来たんだ。見る?」
 「何? 何かいい情報でも手に入ったとか?」ローズはようやくバーグナーから離れた。そして、ジャクソンが取り出した数枚の紙切れを覗き込む。「確か、二人は全韓共和国(コリア)に縁があったんだよね。極秘情報なんだけど、そこのトップに新しい愛人が出来てさ……」
 ローズはつん、と鼻先を上に向けた。「何だ、そんなのとっくに知ってるわよ」ほんの数時間前に知ったばかりなんだけど、と内心サーディンは笑いを堪える。――縁があるなんてものではない。彼の国は彼らの祖国ではあるが、国家そのものには全く懐かしさを感じない。残して来た家族――とは言っても母しかいないのだが――を思うと、確かに今も胸を締め付けられるような感覚に襲われるが、国家のトップが今更女遊びに精を出したところで、何の感慨も受けることはない。そう思いながらサーディンは、半ば義理でジャクソンの方を向いた。
 ジャクソンが、心なしか興奮したような調子で言う。「その続きがあるんだよ。知ってるはずはないさ。だって、物凄い特ダネなんだから!」
 何よ、と顔を向けるローズの前で、ジャクソンはばさばさとカラープリントの書類をめくる。「確かコリアって鎖国してたはずだろ? それなのに、ほら。新しい愛人ってのが白人なんだよ。綺麗なブロンドの絶世の美女で……あっ!」
 ウイスキー・グラスに口を付けていたバーグナーが叫び声につられて隣を見ると、丁度ジャクソンが手を滑らせて書類を取り落としたところだった。数枚の紙がひらひらと舞い落ちる。そしてそれを、形相を変えたローズが追いかけているところだった。――いや、ジャクソンが手を滑らせた訳ではない。ローズが書類を引っ手繰ったはずみに、落としてしまったのだ。
 サーディンがカウンターの下に屈み込んだ姉に声を掛ける。「ローズ、どうかしたの」
 「……よ」床に膝を着いたまま、ローズは震える声で何か呟いた。支え起こすバーグナーには目もくれず、彼女は拾い上げた書類に顔をくっ付けていた。紙に皺が寄るほど力のこもった手は、声と同じくかたかたと震えている。
 書類には、白っぽく画像の悪い、明らかに隠し撮りされたと思われる写真が大きく印刷されていた。五枚の紙には、少しずつ角度を変えて同じ光景が描かれている。中華風の邸宅の窓から身を乗り出す人物と、その人物の頭に手をやる太った男、そして数人の付き人達。太った男はすぐわかる。あの国で、テレビや新聞にしょっちゅう目にしたその姿は紛れもなく、無能な総統その人である。――それ以上によく知った人物が窓から身を乗り出して、顔面に貼り付いたような微笑を浮かべていた。光沢のある亜麻色の長い髪の毛、整い過ぎた冷質な顔立ち、すらりとした体付きに、ほとんど色のない肌。はじめは目の錯覚かと思った。この人物は死んだはずなのだから。だが、この美貌の持ち主が『彼』の他にあるはずがない。――あって許されるはずがない! 
 掠れた声で、ローズ――大花は繰り返した。「これ、フェイロンよ」
 そして、小魚に向かってその紙を差し出す。勢い込んで写真を覗き込んだ彼も、思わず客を忘れて凍り付いた。「……どうして……?」


 「いい友達を持ったよなぁ」ナイフで香草の載ったチキンを一口大に切り分けながら、デイビーは暢気に言った。その手の動きを必死に目で追いながら、ベルは不機嫌そうな声を出す。「ツイン・アラウンド(特にローズ)と友達だなんて言わないで頂戴。そう思っただけで虫酸が走るわ」
 デイビーはベルのぎこちないナイフ捌きを見て、微笑んだ。「違うよ。俺自身がいい友達に恵まれたなぁ、って天に感謝してたんだ」「紛らわしいこと言わないで」ベルはようやく顔を上げた。睫毛の長い目で、デイビーの顔を睨み付ける。
 デイビーはナイフとフォークを置いて両手を上げて見せた。「やっとお顔をお見せ下さいましたね、レディー。俺のナイフ捌きってそんなに魅力的かい? さっきからずっとナイフばっかり目で追っかけてたじゃないか」
 「ドレスアップの代わりに、テーブルマナー講座を開いてくれた方がありがたかったわ」ベルもまた、銀色のカトラリーを皿の上に置く。そして、周囲をきょろきょろと見て、自分の掌をまじまじと眺めた後、手持ち無沙汰な様子でそれを自分の膝に乗せた。デイビーは怪訝な顔をする。「どうしたの、レディー。どうして食事を中断するんだい?」「悪かったわね。あたし、こういう食事には慣れていないの。三日振りのまともな食事だから、がっつきたいのは山々なんだけど」むっとした調子でベルは言った。
 デイビーは明るい色の瞳を見開いて、もしかして、と前置いて尋ねた。「レディー、こういうディナーは初めてな訳? ……って言うか、三日振りって」
 「そのまんまに受けとって頂戴。ここのところ特に予定がなかったから、誰かに奢らせることが出来なかったのよ」平然とベルは言った。ますますデイビーは驚きの表情を濃くする。「ってことは、本当に何も食べてなかったってこと? そんなんで体が持つの?」思わずテーブルの上に身を乗り出す。ベルは肩をすくめた。「慣れたわよ、そんなもの」
 だからこんなにチビなのか、と呆れるのを通り越して感心しながらデイビーがチキンを口に運ぶと、ベルはその手元を見ながら同じように食事を再開した。ふと、デイビーは思い付いて水の入ったグラスを取ってみる。ベルはそれの真似をする。本来は残すべき香草を口に運ぶと、複雑そうな顔で彼女もそれを口にする。
 おもむろにデイビーは言った。「信用があるってのは嬉しいけど、責任重大なんだな」
 小首を傾げるベルに、彼は言葉を続ける。「俺が何かマナーに反しても、レディーは気付かず真似するんだろう」
 「だってあたし、ナイフを右手に持つべきなのか左手に持つべきなのかさえ知らないんだもん。取り敢えずは、向かいに座ってるのを見本にすることにしたの。それにあんたなら、こういう食事にも慣れてるみたいだし、そんなにまでの無茶はやらないと思ってね」抜け抜けとベルは言う。デイビーは、やや驚いたような表情をした。そして、いつもと比べると弱い語気で言った。「そんなに厳格にならなくてもいいんだよ、レディー。わからないことなら誰も無理強いしたりしないさ。楽しくディナーをすることが一番重要だろうに」
 ベルはくすっと口の中で笑った。そして、窓の外を眺める。「知らなかった、わからなかったじゃ済まされないことは、世界中のあらゆるところに転がってるわ。わからないから免除してもらおうって、そういう態度に慣れてたらね、取り返しの付かないことになったりするものなのよ」
 「レディーは今日で十八になったばかりだろ。その歳で、取り返しの付かないことなんてないさ」デイビーは、ベルの黒い瞳を覗き込んだ。彼女はいつも、どことなく手の届かないような雰囲気が漂っていて、柄にもなく不安な気持ちにさせられる。「まだまだやり直しは有効だよ」
 「死んじゃったら、やり直しは効かないわ」奇妙に艶やかな微笑みをベルは浮かべた。ぞくっと肩をすくませるデイビーに、彼女は明るい調子で言った。「さ、この手の暗い話題はもうお開きよ。何? あんたはあたしのお祝いをしてくれるんじゃないの?」
 たじっとなりながら、デイビーは頷いた。「あ、ああ、そうだな」
 ぼそっとベルが呟いたのを、彼は聞き逃さなかった。「後で双子にも祝わせなくっちゃ」
 その言葉に、心なしかほっとしていつもの彼の笑みを浮かべた。
 「ところで、ディナーはお口に合いましたか? レディー・ベル」
 「まあね」素っ気無くベルは言った。


 彼は、部屋の窓をそっと開けた。空調で気温こそ涼しく保っていてもなお暑苦しい夜の熱気が、窓の外に逃げ出して行くような感じがした。空を見上げると、もう日はかなり高い。どうやら、涼しい午前中をかなり寝過ごしてしまったようだ。少し損をした気分になった彼はふと、窓の外を見渡して見た。いつもと同じ、高い塀に囲まれた庭が広がっている。今の彼は塀の外はおろか、総統官邸の一階にあるこの部屋からすら自由に出ることがままならない。外部の世界の記憶は、彼にとって遥かな夢物語のようにさえ思われた。だが。
 ふと自分の掌を眺めて見る。この手で、人間を殺したことがあった。白いシーツを巻き付けただけの、傷だらけの裸体を眺めて見る。この身体は、幾度となく殺されかかった。全て消えることがない、確かな彼の過去である。
 小さく咳き込んで、彼は静かに窓を閉めた。昨夜この部屋に来たのは、時間には几帳面な財務大臣だったから、彼が目を覚ますかなり前に出て行ったらしい。総帥だったらそうは行かない。いつまでも――政務時間になっても、彼のことを手放そうとしない。そう考えていると、突然笑いが込み上げて来た。
 おそらく国内外では現在、総帥は新しく出来た『女』に現を抜かして政務を疎かにしている、と言われている。だが、それが『男』だと知れたら、しかも骨抜きにされているのが総帥のみならず、国家の要職十数名だということが公表されたら、どんな騒ぎになるだろう。奴等は、どんなに慌てるだろう。
 そもそも、と思う。今の自分は、丁度この国に買われた娼婦だ(字が違う、娼夫だ)。夜な夜な順番にやって来るこの国のトップに抱かれ、媚を売る。何かが間違っている、とも初めの内は思ったが、この国の有り方そのものが間違っているのだ。何を今更誤りを取り沙汰す必要があるだろう。
 彼は、窓に映った自分の容貌を見詰めた。女のような顔立ちだ、と昔から思っていた。自分では腹立たしさすら覚える、中性的な自分の姿だった。醜い、と彼は自分の容姿を評する。男でも女でもない、醜い自分。それもまた、おかしかった。おかしくて笑えた。
 気が付くと、彼は声を上げて笑っていた。遂に自分は狂ったな、と彼の中でもう一人の冷静な彼が呟く。そんなことはない、と笑う自分が反論する。世界基準に照らし合わせるならば、もっと前から――この国に来たときから、自分は狂っていたんだ。何故ならば、この国そのものが狂っていたのだから。そして自分は飽くまでも、この国の一構成員に過ぎないのだから。
 きい、と扉が開く音がして、彼はようやく笑うのを止めた。長い亜麻色の髪の毛を揺らして振り向くと、部屋の入り口には見慣れた人影が立っていた。
 (復讐してやる)そう叫ぶ心を押し殺して、彼は入って来た男に近寄った。そして可愛らしい仕草で小首を傾げて見せる。
 「こんなに早く来てくれたんですか。嬉しい、総統陛下」
 (必ず、復讐してやる)彼は、深い紫色の瞳を細めて極上の笑みを浮かべた。




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