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夜明け前







 風がやむのを、蝶はずっと待っていた。
 まだ一度も羽ばたいたことがない蝶は、強い風に大きな翅を煽られて、身体を傾がせながら風がやむ瞬間を待っていた。
 羽化をしたのは今日の夜明けだった。そのときはまだ、前日まで吹き荒れた嵐の余波で幾らか雨水が吹き込んでいた。本来ならば晴れて乾いた日に蛹の殻を破る蝶も、凄まじい風雨に揺られて感覚が狂っていたのかもしれない。けれど風が強いので、存外その翅はよく乾いた。
 飛び立つ瞬間を待ち、蝶はじっと枝で留まっていた。今飛び立ってはすぐに地面に叩き付けられる――それを知っているのかいないのか、いずれにしても蝶は忍耐強く、じっと待っていた。
 ――蛹になったのはおよそ十日前。その日はよく晴れていた。いつもと変わらない日だった。
 街路樹の葉に宿っていた蛹に気付く者は誰一人としていなかった。行き過ぎて行く人々は誰も、蛹がいつか蝶になるということを意識などしていなかった。
 彼等の誰もが、十日後の嵐のことなど知らなかった。恐らくは蝶とて、そんなことを知らなかった。
 幼虫として孵化したのは、それから更に一月ほど前。同じ日に何匹もの幼虫が孵ったが、アリや他の虫に食われたり枝から落ちたりして、あっと言う間にほとんどいなくなった。残った僅かな幼虫は辛うじて蛹になったが、数個は寄生虫に食い千切られ、何とか昨日まで持ち堪えたものも一つを残して全て嵐に吹き散らされ、水溜りの中に沈んだ。
 親の存在を、蝶は知らない。親は卵を生み付けて間もなく死に、からからに干乾びた翅を踏み躙られて塵灰へと姿を変え、風の中に消えた。だから蝶は自分の先に自分と同じ運命を持っていた存在がいたことを、恐らくは知らない。知らないままに、恐らくは同じ運命を辿るしかない。
 だが、一つだけこの蝶が親と違うことと言えば。
 この蝶は、嵐を知っていた。
 ――そして、その嵐がやむのをずっと街路樹の影で待っていたのだ。


 地面の少し濡れたアスファルトに、輝くような木漏れ日が落ちた。鈴を振る音を立てそうな動きで小さく揺れた明かりは、不意に縫いとめられたように止まった。
 その瞬間、木の葉の一枚が小さく揺れた。木漏れ日の端が、微かにきらめくように揺れた。そして小さな影が一粒飛び出して、ふわふわと頼りなく揺れながら地上で薄くぼやけていく。
 その地上を、不意に無数の足が踏み付けて行った。泥に塗れた靴が、シュプレヒコールに合わせてざくざくと足音を奏でていく。大人もいれば子供もいる、老人すらも巻き込んだその物々しいパレードは、旗やプレートの四角い影を土の上に落としながら切れ間なく続いていった。
 彼等の表情に曇りはない。何か悪い夢から覚めたような、或いは幸せな夢を見ているような顔で、彼等は遠く前方を目指す。その視線の先には、ビルの隙間から煙を上げる街の姿が広がっていた。しかし彼等が夢見るように見詰めるのは、そんな寂れた街の姿ではない。この街は――この国は、昨日で一度滅びたのだ。新しくやってきた今日はもう、昨日までとは違う時代なのだった。
 プラカードや手書きの旗を振り上げながら、人々は新しい時代を告げる為に突き進む。彼等の目は、未来以外のどこにも向けられることはない。だから、彼等の頭上に気付く者はやはり誰一人として現れなかった。
 人々の熱気が空気を押し上げ、土埃やスモッグを洗い流された青い空に、ひらひらと大きな翅が舞い上がった。
 縦横に揺れながら、まだ時折吹く風に押し流されながら、それでも蝶は空を目指した。


 空を飛べない人間は気付かないことが多いのだが、蝶が飛ぶことのできる高さは意外と低い。小さな身体を花の蜜で養う彼等は、余り高所まで昇り尽くすと燃え尽きて落ちてしまうので、自力で飛び上がることのできる高さは案外限られてきてしまうのである。
 しかし同時に彼等は、風に逆らって飛ぶ術も持たない。風を読み、風に乗って、空を飛ぶ帆船のように自分の航路を決めてゆかなければならない。だからこそ処女航海には慎重になり、出航の風向きにはひたすらに拘らざるを得ない。
 それでも、時に思いも寄らない大気の流れに飲まれた蝶は、そのまま流されあたかも漂流者のように、運がよければどこかの大地に降り立つことになる。無論そこに同種の仲間がいるとは限らないのだから、そこで多くの場合、その蝶の血は絶える。
 この蝶もまた、予想もしなかった気流に巻き込まれることになった。
 不意に吹く突風を上手く交わしていた蝶は、突然の上昇気流に巻き込まれたのだった。焦げ付くほど熱いその気流に煽られ、蝶はそのまま上空へと舞い上がる。火花と黒煙を含んだ風から少しでも逃れようと、蝶は気流の中心から辛うじて僅かに反れる。
 その瞬間、気流とは比較にならないほどの凄まじい空気の固まりに激突した。叩き落されるように気流の渦の中に巻き込まれ、きりもみをしながら渦の反対側へと追い遣られてゆく。その翅の端を、炎を上げる煤が掠めて上空へと舞い上がっていった。
 もう少し落ちる場所が悪ければ、蝶は上昇気流の原因である劫火の中に敢えなく身を散らすところだった。吹き上がる炎は上空から見れば、街の至るところから上がっているのがよくわかる。壮麗であっただろう巨大な建造物を飲み込む炎は、地上で歓声を上げる市民達の放ったものだった。昨日まで誰もが恐れ慄いていた政府の施設に、今は誰もが躊躇なく火炎瓶を投げ付けて、打ち壊していた。
 上空の大気を大きく掻き混ぜながら、巨大なプロペラが旋廻していた。地上の人々など伺うことも出来ないほどの上空から、炎上する街の様子を、今までで一番熱い夏を迎えたこの都市の姿を眺め渡すそれは、報道用のヘリコプターだった。そこに乗り込んだレポーターが、落ちそうなほどに身を乗り出しながら握り締めたマイクに力任せにがなりつける。
 『皆さんご覧下さい! 街が燃えています、政府の議事堂が、官庁街が、昨日までの政府の何もかもが、炎を上げて燃えています! 全てはここから始まるのです、皆さん我々は不死鳥のように炎の中から生まれ変わるのです! ――この国は、今日から大きく変わるのです!』
 感極まって涙ぐむ声は、ばりばりとけたたましく響くプロペラのエンジン音に半ば掻き消されながら、それでも地上へと電波を通じて発信されていた。地上の各家庭に、そして少し遅れて全世界へとその声は響き渡るはずだった。
 しかし、気流に揉まれる蝶のところへは、その音は届かなかった。大きな翅を力任せに押しやる風圧に流され、蝶は高所を留まったままどこか遠くへと押し流されて行った。他の蝶はどこにも見えない。どころか、鳥の姿すらも見えないような荒れ狂う上空の大気の中で、蝶は完全に制御を失っていた。


 ――八月十五日。
 後に、全世界から『八月大革命』と称される革命の風景だった。
 その夏、この都市は紛れもなく世界で一番熱い場所だった。




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